fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その6

在番奉行所から直接指示も

薩摩の在番奉行所の役人が直接、指示することもあった。

<さる13日、英人が倭(大和)仮屋に踏み込んで来たので、琉球側の取り締まり向きについてはかねてより通知してあるが、さらにこのたびも別紙の通り通知する。右の件について、万一異国人が大和仮屋へ踏み込んで来たならば、できるだけ用頼み役や運搬人たちで追い出すようにせよ。それでも無理に屋内に入って来たならば、決して騒がず、いかにも律儀に振る舞い、吐噶喇島(注・とからじま。現在鹿児島県十島)商人の身なりをして、言葉が通じない振りをし、状況に応じて対処し、すぐに追い出すようにせよ。もしも狼藉らしき行為が見られるならば、非常に無道の至りで乱心者かと大声で叱りつけ、威光を示して腕や首などを摑み門外へ引き出すようにせよ、との以前からの心得についての趣旨は、先年来、特に通達しておいた通りである。ついては、これまで倭仮屋の45ヶ所へ異国人が入り込んだことは、第一、琉役たちが取り締まっていないために右のようになっており、時に追い出すことができず、あるいは異国人が外出するという連絡があっても仮屋の門を閉めていないことがあり、結局、以前の通達がなおざりのように見えていて宜しくないことである。…本文を銘々が写し取り、壁書きにして、(役務)交代の際に間違いなく引継ぎすること。…

1118日和暦 異国人方差引御用人 嶋津登(注・薩摩の御小姓与番頭)

仮屋中

 里主 御物城 大和横目へ>

 ここでは、薩摩役人が直接、厳しい指示を出した背景には、ベッテルハイムが大和仮屋に踏み込んで来る事件が起きたからだ。面白いのは、屋内に入って来たなら、「吐噶喇島の商人の身なり」をして、言葉が通じない振りをしろと指示していること。ベッテルハイムが大和仮屋に入るのは、そこが薩摩の在番奉行所であることを知った上のこと、商人の振りをしても無駄だろう。結局は、狼藉をはたらけば腕や首をつかみ門外へ追い出すように指示している。それにしても「倭仮屋の45ヶ所へ異国人が入り込んだ」ということは、目的をもって意識的に入ったのだろう。

         在番奉行所跡  
                 在番奉行所

アメとムチで効果狙う

取り締まりを何度も出しても、なおざりにされているため、次のようにアメとムチで効果を上げようとする。

<万一仮屋へ踏み込む様子となり、屋内へ入れないよう追い出したなら、きっと功労(功績)として優遇することもある。もし、逃げ隠れしたら処罰される。誓約を果せない者はすぐに辞退せよ。その者は今後、御奉公に就かず、いかなる扶持方も支給しない。(亥1119日和暦)>。この項は要旨である。

 追い出したら優遇し、逃げ隠れしいたら処罰する。誓約を果せない者は、奉公に就けず、扶持方も支給しないと脅している。どれだけ効果があるのだろうか。

 

 さらに、英人逗留中のすべての取り締まりが最近緩んでいるとして、取り締まりについて吟味せよと指示された件で、若狭町、泉崎村、西村、東村の学校所主取が以下のように答申している。抜き書きである。

<一、各家では平日、門を閉めさせた上で見締まり人を設置し、毎日6度ずつ巡回させ、開門している者には科銭(罰金)を科      
      す。
一、 諸細工人やその他、差し障りとなる品物を販売する店については、目星役から英人が外出していることを知らせたならば
    早速戸を閉めさせ、もし守らない者がいれば罰金を科すこと。…(差し障りのない品物を販売する店は、戸を開けること
    を許可する。)

一、 (英人が外出する際、童子たちが付きまとい、女人やその他、下々の者が立ち止まって見ないよう指示)もし守らない者がいれば本人や父兄や抱え主へ罰金を科すこと。

一、 (京銭露わにしない指示に)違反する者がいれば名前と素性を聞きだした上で那覇筆者方へ報告し、即座に(京銭を)没収するようにして頂いたならば、行き届くのではないかと思われる>。


  これらの答申は、すでにこれまでも指示されていた内容と類似しているが、指示を守らない者には罰金を科すとより厳しく対処している。

 この4町の取り締まりを御仮屋方がご覧になり、全体としてよいが門の閉めきりや童子の凧揚げについて再検討させたという。

  御仮屋から再検討を求められてことについて、4学校所主取連名で次のような協議内容を記している(10月)。
 <一、英人の逗留中に各家の門を昼夜閉め続けていると(英人が)疑心を抱き、かえって入ってくることも予想される。ついては、富家において銭やそのほか品物を毎日取り扱っている者たちは閉門し、それ以外(の家で)は異国人が外出した際にだけ閉門してはどうか。さらに凧揚げは屋敷内や浜辺で行わせ、英人が通りかかったならば、すぐに立ち去らせるように取り締まってはどうか、と御仮屋御方から御沙汰があった。…協議した内容を申し上げる。

一、(有り難い提言だが、その通りにすると方々に目星役を多数配置しなくてはならない。士方(注・士族)は無役の者は少な  い。百姓は家業と所役に従事させており、目星役を増やすことは大きな負担になる。)

従来通りすべて昼夜とも閉門することを許可して頂きたいと存ずる。

一、童子たちの凧揚げは屋敷内や浜辺で行わせ、英人が来たら立ち去れば何の問題ないと(の御沙汰で)あるが、…対策が行き届かず、なにか支障が生じるようなことが起らないとも限らない。…

これまたこの間の通り(凧揚げを)禁止させて頂きたいと存ずる。>

注・()内は要旨である。 


 人家の閉門についての薩摩側の意見に対して、
4学校所側は、それでは目星役を多数配置が必要で、大きな負担になると抵抗している。再検討を求める薩摩の意見は、琉球側の負担増を考えない官僚的な態度だが、琉球側の昼夜閉門にしたいという対応も、住民の不便を顧みない役人的な態度ではないだろうか。

 子どもの凧揚げは、禁止しなくても屋敷内や浜辺でやればよいのでは、との意見に対し、これまで通り凧揚げは禁止という対応も、子どもの楽しみより、役人の都合を優先する対応ではないだろうか。

 この4学校所側の回答について、御仮屋が折れて許可した。その上で次のような対策を示した。「異国日記」のなかで、最も詳細な対策である。

<御仮屋方へ相談し許可されたので4学校所の役々と惣横目、横目へ通知した。

 口達 (以下抜き書き)

一、護国寺付近に、関係する面々以外の者は立ち寄ってはならない。

一、  各家では昼夜閉門すること。

一、  門戸の見締まり(検査)人を設置し、毎日6回ずつ巡回させること。

一、  英人の礼拝日には、男たちはなるべく外出しないこと。

一、  英人が万一門を打ち破り踏み入って来た場合は、「早々に退去せよ」と怒った様子で伝えよ。

一、 英人は外出して人の集まる場所で無益な説法をしたり、唐銭や菓子などを投げ与えている。このことは深慮によるものなので、見も聞きもしない様子で、通行人は早々と通り過ぎるようにし、商人へ右の品物を投げ与えたならば、決して受け取らないようにせよ。

一、 店々や市場、路上において英人が品物の値段を尋ねてきた場合は、言葉が通じない振りをして対処し、絶対に直売りはしてはならない。

一、 英人から病気治療の申し出や、薬などの提供があっても受け入れてはならない。

一、  大和年号、大和人の名前、大和歌、また商人たちが振り売りの際に大和大根、大和素麺などと叫んで通行することはもちろん、すべて大和と唱える口上は、異国人に見聞きされないように留意すること。

一、  西洋道具や反物類を市場や店などに陳列してはならない。

一、 首里や那覇近辺で射撃をする際はもちろん、道路において鉄砲やその他武具の類を持ち歩く際も(武具類が)目立たないように心得る。

一、  三重城近辺へ女たちが祈願のために多く参詣することは差し障りとなるので、右のような際に男だけで参詣すること。

一、 道歌(注・歩きながら歌う)をしたり、または年中の遊び日(注・神遊びを行なう祭日)、および通常でも晴立った場所はもちろん、家屋においても歌三線や鼓などを打って遊興してはならない。

一、 英人から傾城(注・遊女)はいるかと尋ねられたらならば、いないとのことを返答すること。

一、 辻・仲嶋・渡地の門々、または道の辻々に傾城と二才(注・若者)たちがたむろしてはならない。

一、  異国人の逗留の有り様は、第一御当地(琉球)全体の風俗をあれこれと見聞しており、様々な謀計によって邪な道に落とし入れようとする悪巧みであり、自分の悪事は省みず、あらゆることで此方(琉球)に難題を吹っかけているため、どのような御国難を引き起こすか計り難い。至って重大なことであるにも関わらず、その理解が足りず、このような極めて不都合な状況になっている。

(あらためて右の通り取り締まりを指示しておいた。決して忘却することなく、堅く遵守し、各村の下々の者まで一人洩らさず申し渡しておく)

10月仲宗根親雲上、喜屋武親雲上 4学校所役々>

ここで注目されるのは、病気治療の薬を提供されても受け取るなということ。ベッテルハイムは医者としても、西欧の医療を地元の医師に指導したとも伝えられる。薬と治療は病人にとってありがたいことのはずだ。でも、治療と薬で恩を売ってキリスト教の布教に利用されるのでは、という警戒心がかたくなな態度をとらせたのだろう。ベッテルハイムの医療活動については、あとから詳しく見ることにする。また三重城近辺への祈願は止めさせ、歩きながら歌うこと、歌三線による遊興を禁じている。「琉球の風俗を見聞し謀計によって邪な道に落とし入る」とか「どのような御国難を引き起こすか計り難い」というが、なぜそこまで禁じるのか。考え過ぎの感がある。止めろと言っても、祈願や歌三線を完全に禁止することはできない。それは、民衆の願いや暮らしに深く根付いているからだ。


スポンサーサイト



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その5

  貨幣を見せないように隠せ

9月には、「京銭(注・日本の銅銭)」を異国人に見せないように指示している。

異国人が逗留しているため、諸所の道筋において京銭(注・日本銭)を持ち歩く際は、風呂敷や叺(かます)などで覆い隠し、異国人の目につかないよう心掛けよとの趣旨については、以前からたびたび通達されている。そのつど厳重に取り締まるように通告し、万一違反する者がいれば京銭を没収した上で、当人だけでなくその父兄や抱え主も必ず処罰を与えるとの与々証文などを提出しているにもかかわらず、この頃は(その誓約が)おざなりとなり、時折り道中において(京銭を)露わにして持ち歩く者もいると風聞がある。京銭が広く流通していることを異国人が見受けたならば御故障の筋となる。

…今後は以前から命じているように確実に覆い隠し、決して異国人の目につかないように心掛けよ。ついては、惣横目と横目たちへも十分に検分するよう指示し、万一違反する者がいたならば、決して用捨することなく証文通りに対処し、その場の経緯を糾明して、現銭の渡し手までも相応の処罰を下すことになっているので決して緩みのないよう、各村中へ洩らさず通知せよ。(95日、仲宗根親雲上、喜屋武親雲上)>

 ここでは、京銭の流通を見られたら「御故障の筋となる」とのべ、違反者は容赦せず処罰することを命じている。なぜ、見られると支障になるのか、そこまでして京銭流通を隠さなければいけないのか、いまいちよくわからない。

 

 昼夜閉門が守られない

 英人が逗留中、各家の門を昼夜閉めることを前から指示している。

<御印覚印

逗留する英人等が頻繁に外出し、人家門戸を破り(屋敷内へ)踏み入る行為が見られる。時に御仮屋方(注・在番奉行所)へ右のような行為があっては非常に宜しくないことなので、その防止策を入念に行わなければならない。亥10月>

「本文については、惣横目と4町学校所主取を里主所へ招集し通達した」

 口達控え

 (英人が逗留中、各家で昼夜閉門し、英人が外出したと聞けば到来する前に戸を閉めておくことを指示)…そのつど厳重に取り締まるようにせよと指示しているがそれを了承せず、最近は各家では日中開門し、英人が到来した時に門を閉め、各店も右のような有り様で、英人はことのほか怒りで門戸を打ち破り踏み込み、乱暴な行為があるように見え、宜しくないことである。…我々の取り締まりが不行き届きであるため特に困った状況となっており。今後は重ねて右のような行為があっては御仮屋方に対して非常にご無礼な事態となる…冒頭で指示した趣旨が厳重に実行させるための(対策を)今日、明日中に書面で提出せよ。

1017日>

 ここでは、昼夜閉門の指示はなかなか守られない。彼が来た時に門を閉めると、かえってベッテルハイムの怒りをかっているとし、厳重な取り締まりを命じている。しかし、各家が昼夜門を閉じるというのは、日常生活の上でとても不便で現実的ではないだろう。だから、英人が来た時だけ門を閉めるというのは、住民にとってやむを得ない対応ではないだろうか。役人が、住民の現実の生活への影響を無視して、厳重な取り締まりばかり命じても、なかなか徹底しなかったようだ。

 

         img219.jpg 
               
   波の上の全景、左上に波上宮、右半分にベッテルハイム一家が住んでいた護国寺
           (『英宣教医 ベッテルハイム』)

 馴れ馴れしい風潮がある

 さらに、細かい指示を出している。

 <一、英人が外出している時、童子たちが付きまとったり、または女人やその他、下々の者たちが立ち止まって見物しているとのことなので、決してそのような振る舞いがないように取り締まること。

一、京銭(注・日本銭)を露わにして持ち歩く者に対しては、その現銭を没収するようにと布達が出ているにも関わらず、時には守らない者もいるので、これまた取り締まりを徹底させること。

一、  諸細工人やその他、差し障りのない品物を販売する店については、事前に検査の上で、英人が外出の際も戸を開け通してよい。…

一、  英人が外出している時、御仮屋方の御役々衆を始め、小姓や家来、その他大和人たちが道中で鉢合わせになりそうな状況となった場合は急いで通行させ、英人に見つからないように対処すること。…

1018日、仲宗根親雲上 喜屋武親雲上から4町学校所、主取へ)>

 

<口達の覚

異国人は外出して辻街または人家などへ立ち寄り、無益な説法をして廻っているので、そのような折は見聞きもしない振りをし、通行人は立ち止まらずに素通りせよ。…先年来、毎回特に取り締まりの指示が下され、そのときは確かに遵守しているように見えたが、全体として悠長で情弱な土地柄であるため、ややもすると(右の布達が)なおざりになっている。異国人はすでに8年程も滞在しているため、何も珍しくはないはずだが、今でも辻街の小路などに男も女も駆けつけて覗き見をしたり、童子たちが囃したてて付きまとうこともある。また(英人が)人家へ押し入って無法な行いをした際、場合によっては「非常に理不尽な行いであり、乱心者の有り様で、耶蘇の道はこのように無道なものなのか」と(英人を)強く叱りつけ、理詰めで(説得し)追い出すべきであるが、(住民は)逃げ隠れてしまい、(英人は)かえって勝手気ままに徘徊している。せっかくの監視役の付き添い人(尾行人)は遠く離れて狼藉などの様子を眺めているだけで取り締まっていない。そのため付き添いの詮(甲斐)がなく、大変不都合なことである。しばしば人家へ押し入り、場合によっては何か需要な品物を奪い取られることも予想され、ずいぶん奸智に長けた異国人がどのような難題を引き起こすかも知れず、少事や大事の原因ともなるものであるのに、(琉球の)国難であることを最近は打ち忘れてしまっているのか、世上ではおおよそ他人事のように見ており、貧しい下々の者たちはかえって(英人に)馴れ馴れしい風潮があると聞いている。…一段と取り締まり向きを厳重に実施すること。

1118日>


 ここでも、対策の指示が「なおざりになっている」現実がある。人家に押し入った場合、理詰めで追い出すべきなのに、住民が逃げ隠れて、尾行役も狼藉があっても眺めているだけと嘆いている。その背景として「悠長で情弱な土地柄」をあげているが、それだけではないだろう。庶民レベルでは、異国人に役人がいうほど警戒心をもたずに、逆に興味を持って接する事例もあることを伺わせている。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その4

ベッテルハイムの訪問も巧妙化していく。

「始めのうちは裕福そうな家々を選んで入って行った。それが琉球滞在の半ばを過ぎたころから変わった。…琉球の特権階級の家にも、特権を持たない人々の家にも同等の熱意で力ずくの訪問をした。」

「訓練された筑佐事たちの前触れで、固く閉ざされた家にも入ることができたのか、と。(聞かれれば)答えは簡単。私は正面入口からは入らなかった。ほとんどの場合は、裏に回り、壊れかけた壁のところをこじ開けて入った(『英宣教医 ベッテルハイム』(ベッテルハイムの手紙から)

 

 キリスト教の教えを持ち出し説得

 49日付けでは以下のように命じている。

<一、英人の逗留中は、各家の門を閉めておくこと。

一、 (英人)の礼拝日には、男たちはできるだけ外出をしないこと。英人が門を打ち破り(家の中に)踏み入って来たならば      
いろいろと理詰めで
(説得し)退去させるように対処すること。

付けたり。門を打ち破られたならば、すぐに修理すること。

一、右の者(英人)が御仮屋へ時に塀(石垣)を乗り越え、または御門などを打ち破り踏み入った場合には、別紙に記載されて
      いる通り心得るよう、毎日親見世に集まる二才たちに通知すること。>

 ここでは、英人の逗留中は、各家の門を閉めろと命じている。もし踏み入ってきた場合、前の文書と同様の対策を求めている。

 

 次の指示は、さらに踏み込んだ対応を命じている。

 英人が外出し、人家の門を打ち破って中へ入って来たならば、家人に男がある場合は全く無言であっては宜しくない。「勝手に門を破り、人家へ踏み入ることは非常に無礼なことである。耶蘇の教え(注・キリスト教の教え)ではこのようなことをするのか。貴方が家に入って来ると、女性や子供たちは恐怖を覚えるので、早々に退去せよ」と怒りの様子で(英人に)対応すること。そして、(英人が)何か言い訳をしてきても聞こえないふりをし、何度も前文の趣旨で非難するようにとの趣旨を那覇全体へ申し渡しておくこと>。

 ベッテルハイムが人家に入って来たら「耶蘇の教えはこのようなことをするのか」と、キリスト教を持ち出して、説得するように指示しているのが、面白い。

                           img218.jpg 
                             ベッテルハイムが住んでいた護国寺(『英宣教医 ベッテルハイム』

 ベッテルハイムの宣教は、見張りの役人にも及ぶ。

「彼は戸別訪問、一軒一軒、民家の戸をたたいて歩くことを始めた。人々の家屋敷だけでなく、見張り小屋、番小屋にも足を向けたのである。…ベッテルハイムの番役人らへの接触(ちかづき)は、実に巧妙だった。例えば彼は、小屋に詰める役人等への病気を無料で診ようと持ちかける。それから徐ろにキリスト教の真理(おしえ)を聞いてくれないかと持ちかける訳だ」

二人の琉球人からイエス・キリストの存在を信じるという告白を聞いた。一人は士族、一人は百姓だった。市場集会からの帰途、番小屋にいる6名の役人らに説教を聞かせてくれないかと持ちかけられたと述べている(『英宣教医 ベッテルハイム』)。

 

英人帰国を祈願する

 ベッテルハイムを規制しようとしても、監視の目をかいくぐり、人家の門を閉じても踏み入るので、なかなか抑えきれない。とうとう、祈願をするようになる。

<英船が来航し、逗留の英人たちを支障なく連れ帰るように御祈願を命じられた件は、別紙で指示された通りである。ついては、右の(祈願を)勤めたる者たちは3日前から斎戒沐浴し、十分に心を尽くして御祈願するように通知して頂きたい。この件は(上役からの)御指図である。(620日 兼城親雲上から里主、御物城に)。>

<逗留英人から「今年の夏に(帰国した)帰唐船便(注・福州からの帰国船のこと)で、福州滞在の英国領事官を通じ英国皇帝の命で請け、中国駐在の総督が後日那覇へ来航する予定であるとの書状が到来した」とのことで、右の総督の宿の手配などを要請する(英人の)文書が届けられた。(このことは英国皇帝の)大いなる御配慮によるものである。英国総督が来航し、逗留英人たちを支障なく早々に連れ帰らせ、国土が安穏になるようにと、来たる24日に諸所で御祈願をすることになった。ついては、一同で御拝(祈願)すべきだが、多人数では支障となるので人数を減らすことになった。その趣旨を了解し、諸士は皆、各世帯で心を尽くして御祈願するよう那覇全体へ洩らさず通知せよ。この件は(上役からの)御指図である。

付けたり、御祈願当日は殺生禁断令が発せられているため、漁猟や酒宴、遊興、歌三味線、その他乱れがましき行為を一切停止し、随分と謹慎するようにせよ。(620日、兼城親雲上から里主、御物城へ)

イギリス船が来航して、ベッテルハイムを連れ帰り、国土が安穏になることを祈願するよう指示している。帰国祈願はこの後も続く。22日付けでは、御祈願の日程を延期し、後日(日柄変更の)伺いを上申し許可されたとする。

 <右は、英船が来航し逗留の英人たちを支障なく連れ帰るよう祈願することについて(国王へ)言上し、許可されたので、諸事、間違いなく実施せよ。(825日、川平親雲上から里主、御物城へ)

言上写として、「来月2日、御城の御火鉢御前、嶽々と三平等で御たかべを唱えさせ、親方部を頭にして17人(71組)で御拝を行なわせること」「首里・那覇・久米村・泊・諸間切・諸島において、御祈願当日は殺生を禁ずること」>

<英船が来航し、逗留する英人たちを支障なく連れ帰ることを祈願するよう指示されたことは別紙の通りである。ついては、右の(御祈願を)行う者たちは3日前から斎戒沐浴し、十分に心を尽くして右の御祈願を行なうよう通知せよ。この件は(上役からの)御指図である。(826日、川平親雲上から里主、御物城へ)

<閏(うるう)82日には、本日御祈願のため有位者7人ずつで色衣冠を着用し、五つ時(午前8時頃)以前に里主所へ集合し、6ケ所を参詣し祈願を済ませたので、里主の喜屋武親雲上が首里城に登城し、国王に言上したと記している。>

 あれこれとベッテルハイム対策を講じたが、結局は帰国を祈願することが重要な行事となっている。「殺生を禁ずる」とか「3日前から斎戒沐浴」するように求めている。これもたんなる行事ではなく、心を尽くして祈願するためだろう。英人を無理矢理帰国させることはできないので、最後は神頼みとなる。

 

時には、ベッテルハイムが士族の家に押し入り、担ぎ出されたこともあった。

<ある士族の屋敷へ、福音を説くために入った。家族の者は、ベッテルハイムに出て行ってくれと頼んだ。彼は出ていくのを拒み、そこで仰向けになってしまったという。…みんなで担ぎ上げて、家の外へ放り投げた。そのまま気を失った。事件の2日あと、首里王府への抗議の手紙を書いた。

「英国の慈悲が、いつの日にか、琉球にその罪悪のほどを後悔させようぞ。嗚呼! 何ということか!今に英国の軍艦がやって来て、お前たちのやったことを成敗してくれようぞ。こうなってはもはや英国軍の駐留なくして英国人家族の居住はできないようだ」(『英宣教医 ベッテルハイム』)>


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その3

咸豊元年「異国日記」から

 前置きが長くなったけれど、本題に入る。

咸豊(かんほう)元年は1851年である。琉球は、中国に朝貢し、皇帝から国王として認証される冊封関係にあったので、中国の年号が使われた。

ベッテルハイムの宣教活動には、必ず筑佐事(ちくさじ、巡邏卒=見回り警戒する者)と呼ぶ役人が付いて回った。ベッテルハイムが出かける説教場所へ先回りして人々を追い払った。

 妨害に直面したベッテルハイムが行った宣教の方法は、宗教冊子を各家に配ること、また道行く人に手渡すことであった。

<冊子配布は、18481月半ばまで精力的に行なわれた。130日、日曜日、街の中を散策しながら、12か所ほどに冊子53部を投げ入れた。仮名文字冊子の内容について王府評定所は、何を書いてあるのか読んでもよく分からないと論評している。3日あと、首里から役人がやって来て、これらの仮名文字冊子をベッテルハイムに返して行った。

警告はあったがベッテルハイムは民家の家々、学校所、仏寺などに配布することをやめようとしなかった。那覇、泊、首里の各王府役所にも投げ入れた。(『英宣教医 ベッテルハイム』)>

          img220.jpg 
           ベッテルハイム夫妻(『英宣教医 ベッテルハイム』から)
   
 1850年のレイナード号来琉のあと、「宣教師に対する監視は、形式的なものに変わって行く」との記述があったが、「異国日記」からは、監視が緩められた感じはしない。ただ、ベッテルハイムの布教活動が大胆になっている様子が見える。

街頭での説教や冊子の配布だけでなく、人家に踏み込むことに対する対応が再三出されている。

 

 人家に踏み入ると警戒

 <英人について、近頃、人家の門を破って踏み込むような行為が見られる。ついては、御仮屋方(注・在番奉行所)などにこのような行いがあっては、とりわけ不都合となるので、もし右のようなことが起った場合には、その(侵入)防ぎ方について、当然、手組(対策)を講じているはずだが、さらに入念に手配し決して手抜かりがないように対応すること。(異国日記)>

 45日付けで小禄親雲上(鎖之側、注・親雲上=ペーチン)から里主(さとぬし)・御物城(おものぐすく)宛てである。

 注・御鎖之側(うさすのそば)は、首里王府の役職の一つ。表15人(王府の上級評議機関)の構成員。里主、御物城は、那覇の親見世の上級役人である。

「人家の門を踏み破って踏み込む」ことに対する警戒と対策は、この後も対応の中心的な課題となり、繰り返し出てくる。

 

布教のため民家に押し入るようになったのは、3年前の1848年からだという。

<初めて民家に押し入ったのは、記録によれば184864日である。この日、那覇を散策しているとき、彼の近づくのを見て店を閉めた店の戸口へ石を投げた。…石を投げた家へ、23日たってから訪れ、修復費用に充ててくれと中国銭を差し出している。…家宅侵入を三度くり返した。…王府からの抗議に対し、「…私はキリスト教の教義を、みなさんに伝えることを義務としています。ですから、あからさまに私が来るから戸を閉めてしまう家には力ずくでも入って行って教えてやらないといけないのです」(薩州藩家老宛、摂政三司官届書、『英宣教医ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』から

 宣教のためには、力づくでも人家に入って教えるという使命感から行っていることがうかがえる。


 <先月
27日、英人が垣花辺りを歩行している際、奥武山(注・おうのやま)で歌三線に興じていることを英人尾行役の者が聞きつけたという報告があった。那覇詰めの筑佐事(注・刑事)を派遣したところ、その時にはすでに立ち去り、もぬけの殻とのことであった。彼の者(英人)は頻繁に方々へ外出するため、那覇・久米村・泊はもちろん、遠方の諸間切(注・間切はいまの町村)へも(歌三線の)遊興禁令が出ているにも関わらず遵守されていない。時には垣花辺りで遊興が行われているという風聞もある。もしも、英人が歩行中にこれ(歌三線)を聞きつけたならば支障となり、非常に不届きな行為である。なおまた、惣横目(治安・風俗を監視する役目)に巡見を命じ、このように違反する者については必ず処罰を下すので…那覇全体へ洩れなく通達せよ。この件は(上から)御指図である。以上。(異国日記)>

 45日付け、兼城親雲上、川平親雲上、小禄親雲上の連名で里主、御物城あてである。


 ベッテルハイムが頻繁に外出するので、歌三線による遊興を禁じている。那覇近辺だけでなく、遠方の間切に及んでいる。なぜ、禁止するのか。英人に聞かれたら「支障」となり「不行き届きな行為」と言うけれど、なぜ歌三線が支障になるのか、よくわからない。

琉球の人々にとって、歌三線はかけがえのない楽しみである。それが禁じることは、とても耐えがたいことではないか。だから、禁令が出されても「遵守されない」ことになる。違反者は処罰すると脅しているが、この後も歌三線の禁止はたびたび登場する。

 

 <英人らが外出する際の取り締まりについては、この間いろいろ指示しておいたが、近頃(英人が)人家の門戸を破り踏み入る行為が見られる。…この防ぎ方について…さらに大和横目1人、4町(那覇の東、西、若狭町、泉崎)の二才(注・ニーセー、若者)たちを3人ずつ毎日親見世へ呼び集めておき、惣横目は下之天后宮と泉崎矼口の西之門宿で待機させること。英人が外出する際には関番人が御仮屋(注・在番奉行所)へ報告し、右の箇所に詰めている面々と那覇筆者(親見世の上級役人)・問役(注・といやく、親見世の下級役職の一つ。)へ連絡があったならば皆で追いかけること。もしも英人が御仮屋の塀(石垣)を乗り越えたり、あるいは御門などを打ち破る様子が見えたならば、いろいろと相談(説得)し、なおそれを聞き入れず踏み入った際には…相応の挨拶をして(英人を)退去させること。さらに御仮屋方の住居所へ万一踏み入る様子が見られるならば、丁重に手を引いて門外へ連れ出すこと。(異国日記)>

この文章は「里主から御仮屋御方の銘々へ内々に相談し了承されたので、惣横目4町学校所の役々を招集し通知した」と記している。

 ベッテルハイムが人家に入ることの「防ぎ方」を記している。大和横目(※)1人、4町の若者3人を待機させ、外出の際、追いかけること。もし塀を乗り越えようとしたら、説得し挨拶をして退去させる。それを聞き入れなければ、手を引いて、門外へ連れ出すことを命じている。最初から力づくでなく、説得を重視しているのは、異国人に下手な対応をすると首里王府の外交問題ともなってくるからだろう。

 注・大和横目は、始めは薩摩人だったが、琉球人に代わり、職務も横目(監察)的な職務から、次第に在番奉行との交渉、接待に重点がおかれるようになった。
 


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その2

 浮島と呼ばれた那覇

本題に入る前、那覇とはどのような町だったのかも見ておきたい。

那覇は、古くは浮島とよばれた一港村でしたが、交易品を取り扱う御物城、親見世の設置、中国から渡来した久米村、天使館、在番奉行所(御仮屋)など公館の設置で次第に発展し、西村、東村、若狭町村、泉崎村の那覇四町と称される都市に成長しました。(一般社団法人 那覇大綱挽保存会HPから)

那覇の波之上の護国寺にはベッテルハイム、泊の聖現寺には仏国人が逗留していた。「異国人を監視するために、寺の近くには、関番所が置かれ、四六時中役人である番人が詰めて監視にあたっていた」(『沖縄県史料前近代4 ベッテルハイム関係記録』解題から)。

 

ベッテルハイムの8年間

ベッテルハイム琉球に滞在した8年間には、いろいろな事件、問題が起きていた。異国船が相次ぎ来琉する激動の時代の中で、琉球王府のベッテルハイムに対する対応にも、多少の変化がある。「異国日記」の記述は、どのような時期の記録であるのかを見ておきたい。

「日記」の最初の咸豊(かんほう)元年は、1851年であるから、1846年にベッテルハイムが来琉してからすでに5年ほど経過していたことになる。

以下、『英宣教医 ベッテルハイム』から、<>のカッコで紹介した部分は、必ずしも全文ではなく、要約したヶ所もあるので、ご留意願いたい。

<来琉1年目、ベッテルハイムは比較的自由に琉球の人々に接近することができ、彼はこの時期を「宣教の黄金期」と呼んでいるほどだった。

しかし、徐々に宣教師の布教活動への、王府の監視態勢が強まる。国葬事件(184710月※)で「黄金期」は終焉した。その後3年、ベッテルハイムの宣教は苛酷極まる迫害にさらされる。その迫害は、184911月~18501月に頂点に達した。ベッテルハイムの布教活動を厳しく監視させ、尾行させたのは薩摩藩在番奉行だった。>

注・国葬事件とは、18471027日、尚育王が死去し、3日後の31日国葬があった。警告を無視して首里にのぼった仏国人神父とベッテルハイムは騒動を起こし、二人とも殴られた。

      img217.jpg 
              『英宣教医 ベッテルハイム』表紙

 その後、監視は厳しくなり迫害が強まった。

<その迫害の厳しさも、185010月のレイナード号来琉(※)で緩和の方向へ進む。首里王府はキリスト教宣教に相変わらず反対していたが、ベッテルハイムは、そのあと琉球を離れるまで、好きなだけ人々に接触できている。特に18535月、ペリー提督来琉のあと、思う存分、街頭説教や戸別訪問をくり返している。>

※注・1850103日、来琉した英国海軍レイナード号のクラクロフト艦長は、琉球王府との会談で、宣教師にたいする虐待を続けるなら、武力行使する用意があると述べた。あくまでベッテルハイムの退去を要請する王府に対し、宣教師と家族を中国のように丁重に扱うように迫り、王府はベッテルハイムと家族への好意ある待遇を約束させられた。

<英国は琉球に艦船を頻繁に来航させ、公式書簡を届けては圧力をかけた。英国ばかりか西洋の艦船、独国、米国、露国の軍艦が次々と琉球にやって来た。琉球の人々にとって、西洋からの来訪者のすべては、ベッテルハイムの味方に見えたことだった。

しかしいつの間にか、この宣教師に対する監視は、形式的なものに変わって行く。そんな状況の中ベッテルハイムは、滞在の末期、キリスト教信者を次第に増やして行く。5名の信徒に洗礼を授け、50名もの礼拝会衆を得たと記録している。

…ベッテルハイムの宣教、医療、翻訳の、捗々(はかばか)しい成果の大半は、彼の琉球滞在の後半に為されたことだった(『英宣教医 ベッテルハイム』)。>

 



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

新年から初体験

 今年は、新年からこれまでにない体験をした。その前にー。
 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーがあり、2カ月ぶりに演奏した。
 今月のテーマは「躍」。エントリーは少なかった。
               アルテ躍
 私は、歌三線で「デイゴ音頭」を歌ってみた。歌詞を覚えているはずなのに、詰まる時があるので、工工四(楽譜)を見ながら弾いた。テンポがよい曲だが、三線はいまいちだった。
       

 別の場所での音楽会があった。ピアノが中心だが、他の楽器もOKというので、出てみた。
 正月2日の弾き始めでは、八重山の「あがろうざ節」を弾いた。Kさんから、「かぎやで風節を弾けますか。いっしょにやりませんか」とのお誘いがあり、初めてピアノと合奏した。
                
1578877437810.jpg  
  終わるとKさんが「では、かぎやで風節をピアノで演奏してみます」とピアノソロで演奏した。「かぎやで風節」のうたもち(前奏)をモチーフにしながら、ジャズのようにオリジナル編曲で演奏した。面白い演奏だ。 
 日曜日には、妻のピアノとの合奏で「芭蕉布」を歌い、妻とのデュエットで「二見情話」も歌ってみた。
 ピアノの上手な方が、「魔法の伴奏という曲があり、私が左側で伴奏するので、右手で黒鍵だけを自由に弾いてもらえませんか」とのこと。ピアノを演奏するなんて初めて。
 左側のリズムに合わせて、自由勝手に鳴らしてみると、不思議なことに、何か曲になっている。まるで「魔法」だ。
 妻はピアノソロでショパンの「ロマンス」「ノクターン」ほか、何曲か演奏した。 
  楽しい音楽会だった。
        
FB_IMG_1578877088342.jpg
 


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その1(改定版)

「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム

 

琉球王府の時代、那覇にあった行政機関・親見世(おやみせ)が記録した琉球の対外関係の史料「異国日記」を読んでいると、琉球に滞在したイギリスの宣教師、ベッテルルハイムについて琉球側の対応が相当な分量を占めている。しかも琉球と薩摩の役人が慌てふためいている様子がリアルに出ている。いま読むと滑稽でもあるが、当時は「国難」にもなりかねないとして、あれこれとその対策に躍起となっていた。そこで、ベッテルハイムに対する対応を中心に「異国日記」から見てみたい。

台湾大学で出版された琉球關係史料集成 第3巻」には、咸豊元年(1851)、同2年、同4年、同5年(1855)の『異国日記』が収録されている。なぜか咸豊3年は欠けている。  

この「異国日記」とはどういう性格の史料なのか。

<主として薩摩藩から琉球国へ派遣された「異国方」役々衆との関係において発生した諸事項を親見世那覇の行政機関)が記録した史料」(豊見山和行「異国日記全体解題」)>である。そこには、欧米の異国船渡来の記事やフランス人・イギリス人が那覇に滞在した事項も含まれており、「琉球国の対外関係に関する史料である」(同)。

<里主(さとぬし)・御物城(おものぐすく)・那覇筆者(なはひっしゃ)という親見世の上級役人らが親見世本来の業務である那覇4町(注・東、西、若狭町、泉崎の総称)の民政や在番奉行との交渉役を果たす一方、新たに薩摩藩から派遣されてきた「唐物方」(後に産物方)および異国方の役人らと関わる業務を兼務していた(同)>。

「異国日記」では、首里王府の役職の一つである御鎖之側(うさすのそば)の兼城親雲上、川平親雲上、小禄親雲上から里主、御物城、那覇筆者(なはひっしゃ)という親見世の上級役人への指示、親見世仲宗根親雲上、喜屋武親雲上から那覇4町の学校所(士族子弟の教育機関)役人らへの指示、琉球側から在番奉行所への報告や薩摩側からの指示が主な内容となっている。

注・親雲上(ぺーちん)とは、琉球王府の中級士族に相当する者の称号である。 

「異国日記」はあくまで琉球側の記録であり、当然なこととして、琉球側からの視点でみたベッテルハイム像が描かれている。これだけでは、厄介な異国人としか見えない。

                    Bernard_Jean_Bettelheim.jpg 
                      ベッテルハイム

 ベッテルハイムはどのような思いで活動をしていたのか、その実像を少しでも知りたいと思った。そこで出会ったのが、照屋義彦著『英宣教医 ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』だった。アメリカに住むベッテルハイムの子孫の一人から日記や手紙の提供を受けたのを始め、イギリスや中国の史料も詳細に研究し「ベッテルハイムの、琉球におけるキリスト教宣教の、包括的な研究」とされる。「異国日記」と関連する問題のところでは、同書からベッテルハイムの立場についても紹介しておきたい。

 

「ナンミンヌガンチョー」とはやされる

本題に入る前に、ベッテルハイムとはどういう人物なのか見ておきたい。
バーナード・ジャン・ベッテルハイムは、ハンガリーで生まれたユダヤ人だったが、英国の宣教師から洗礼を受け、ユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。語学力は抜群で生涯に13か国語を修得した。医者でもある。海外での伝道に携わることを希望し、キリスト教布教のため、イギリス海軍軍人琉球伝道会から派遣された。わざわざ琉球を対象とした伝道会まであったことに驚く。

なぜ琉球伝道I会がつくられたのか。英国海軍の調査探検船が、1816年那覇に寄港した。英国軍艦アルセスト号とライアラ号(艦長バジル・ホール)の艦船乗務の一人に若い海軍大尉、ハーバート・ジョン・クリフォードがいた。琉球の人々から受けた親切と友情の数々が心をとらえた。琉球の地こそキリスト教福音により報恩すべき土地であると思った。彼は、宣教師会などに琉球に宣教師の派遣を要請した。却下された。自らの手で派遣団体を設立しようと資金造成を海軍関係者に訴え、資金は積み立てられたた。
 目的に適う人物を選抜し、選ばれたのがバーナード・ジャン・ベッテルハイム(18111870)だった。

4か月の航海で1846122日香港に到着。4月末琉球の海域に入った。

51日、那覇里主から入国拒否の文書を受け取った。ベッテルハイム親子、通訳の中国人は強行上陸した。その日、仏国軍艦サビーヌ号が入って来た。カトリック司祭、М・ル・テュルデュがいた。

フォルカードは2年前、1844年、仏国軍艦が来航し、フォルカードカトリック神父と中国人通訳高を残していった。フォルカードはテュルデュ、マシュー・アドネらと交替した。

ベッテルハイムは、首里王府に対し、医療奉仕、医学、英語、地理、天文学の教授と指導を申し出ていた。王府は断った。

『英宣教医 ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』から)


ベッテルハイムは18464月、香港から那覇に到着した。異国人の琉球滞在を拒否する王府に抗して上陸し、8か年滞在した。照屋氏は、足掛け9年滞在したとしている。
 彼は、布教活動のかたわら、琉球語を研究し、琉訳聖書を完成させた。伝道のため、キリスト教に関する冊子を学校所、関番所、民家に投げ入れたという。伝道は拒絶され、冊子は役所に格護され、住民との接触は遮断された。(『沖縄県史料前近代4 ベッテルハイム関係記録』解題から)。
 1854年、ペリー艦隊が来琉した際、琉球の言語や文化について知識があることからペリー艦隊に協力し、その船舶でアメリカに渡った。
 眼鏡をかけていたので住民から「ナンミンヌガンチョー」(波之上の眼鏡)とはやされた。沖縄民謡の「西武門節(にしんじょうぶし)」の囃子でも、「ガンチョ(眼鏡) フルガンチョ チャンナギレー」と歌われている。

 一度ブログにアップしたが、その後、書き換える必要が出て来たので、補強したものを改定版としてアップした。


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

首里城焼け跡で再建を願う

  2020年元旦は、首里の観音堂に初詣し、そのあと首里城に行った。
 首里城は、昨年10月30日全焼してから、見るのも辛いので行っていなかった。
 初詣は例年は正月2日に行っていたが、今年は来客があり、元日に行ってみた。
        
IMG_20200101_153808.jpg
 今年の干支「子年」は、首里の観音堂が守り本尊にあたるので、観音堂に行って、初詣した。
    
 
           
DSC_0408.jpg
 その後、首里城に向かった。再建の機運が高まって、やはり辛くても実際に再建を願って現場を見ておくことが大事だと思った。 
             
DSC_0419.jpg
   実際に正殿焼け跡を見ると、ショック。言葉を失う。
    
IMG_20200101_154042.jpg 

  見ていると涙がにじむ。


 
DSC_0426.jpg
 しかし、この現実は直視しなければいけない。県外、国外からくる観光客にも、是非、この正殿を焼失した首里城を見てほしい。
 なにより正殿は焼け落ちても、首里城は正殿だけで成り立ってはいない。正殿跡が見える所まで行ける。
 しっかり見て、再建への思いを新たにしてほしいと思った。

        
 
日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |