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レキオ島唄アッチャー

「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その7

 尚泰王の命で駕籠を用意

「異国日記」に戻る。

<漂着土佐人の乗って来た伝馬船が那覇川(港)に廻送し到着したので、その船を改めるため、異国方の掘與左衛門殿、御鎖之側の小禄親雲上、御物城の仲宗根親雲上、大和横目の山城筑登之が沖寺へ出向いた。…

漂着土佐人たちの乗船は、以前には来たる13日の予定であったが、14日となった。…

土佐人たちが乗る駕籠と荷物持ち夫などの手配を、私(喜屋武)から(首里へ)要請するよう御奉行様から指示があったので、右のことを連絡する。>

611日付けで喜屋武親雲上から御鎖之側御方に連絡されている。

<漂着土佐人たちの乗船は、来たる14日となった。御役々衆も同日四つ時分(午前十時頃)に直接、翁長村へ赴くことになっているので、我々もそれを心得えて赴くこと、また駕籠と荷物持ち夫などの手配についても御在番所から指示があった。その連絡書を受け取り、(上役へ)披露し(許可され)たので、それぞれ手配するよう翁長村へ指示した。>

12日付けでは、川平親雲上から喜屋武親雲上に返答が出されている。

ここでは、万次郎ら3名を翁長村から那覇港まで移送するのに、駕籠が手配されたことが注目される。

駕籠と荷物持ち夫を手配するように、喜屋武親雲上から首里王府へ要請するように在番奉行から指示があったとのべている。

この駕籠は、時の尚泰王の命令で用意されたという。「時に王より命也とて駕籠来り」(難船人歸朝記事=高知市立市民図書館蔵)。漂着土佐人に国王名で駕籠を用意するとは、かなれ異例の扱いではないだろうか。

なにしろ、最初上陸して摩文仁間切から那覇に向かったときは、雨でぬかるんだ道をたいまつの明かりを頼りに歩き通し、那覇に入る手前の垣花(現在那覇市)まで来たところで、翁長村に引き返せと指示された。疲労しきった3人のためやっと駕籠が用意されたという。上陸した時と帰国にあたっての扱いは、明らかに異なる待遇である。

ついでに、翁長村での土佐国人に対する丁重な対応には、琉球から遭難船が土佐に漂着した際に、お世話になった恩義に報いるためだったという側面もある。

翁長村に滞在した当人とみられる証言がある。

「翁長村に滞在中は毎日素晴らしおもてなしにあずかり、ことに翁長村を出る時、おもてなしとして3人の者に駕籠の手配をして下さった。これは、先年、琉球の者が漂流して土佐に漂着した時、いろいろ介護して下さったので、ご恩に報いるためで、おろそかにしないよう、国王より仰せつけられております。それで、少しも不自由のないようにしてまいりました…」

これは、『西疇叢書(せいちゅうそうしょ)』(注・『島津斉彬文書』所収)から中濱博氏が一部を引用して現代語訳にしたもの(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』)。中濱氏はこれが誰の証言であるかは記していないが、万次郎ら滞在者の証言とみなしてよいのではないか。

 

涙を流して別れを惜しむ
翁長村を出発する時の情景を島袋良徳著「ジョン万次郎物語」は次のように描いている。

<多くの村人たちが集まり、涙を流して別れを惜しむと、万次郎は沖縄言葉で『皆も元気で。もし私の手紙が届かなかったら私は殺されたと思って下さい。』と村人たちに別れを告げ(た)。>

万次郎は死刑を覚悟していた。この別れの言葉は、{後年、翁長小学校校長大城徳安氏が筆者の祖父、東一郎に宛てた信書に書いてあったものである」。(中濱博著『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』)

       200px-NakahamaJohnManjiro_20191229233523462.jpg 
          中浜万次郎 

 「漂着土佐人の一件に伴い、御物城の仲宗根親雲上が豊見城間切翁長村へ赴くことになっている。ついては、すぐに親見世へ(御船手から人夫を)差し出させ、問役の指示のもとに勤めさせるよう手配えよ。大至急のことなので、決して遅延することのないようにせよ。」(「異国日記」712日付け) 

「順風により、大聖丸は明日未明に出港するということが、船頭からただ今届いた。つ いては、漂着人は今晩乗船させる予定なので、先日申し上げた通りの役人たちを今日早々に翁長村へ赴かせ、漂着人を監督して大聖丸へ乗船させよ。なお、此方から見分役と附け役も一緒に勤めるはずである。この件を鎖之側へ早々に連絡して頂きたい。」

やはり12日付けで堀與左衛門から仲宗根親雲上に指示が出されている。


 翁長村を後にした万次郎ら
3人は、ようやく那覇港まで到着した。

「港には薩摩の官船大聖丸が用意され、万次郎のボートや3人の荷物も積まれて万次郎たちの乗船を待って居た。3人は船中で一夜を過ごしたが、翌13日になって天候が急にくずれてその日も出航を見合わせた。万次郎たちは船中で数日を過ごし、18日になってようやく天気の納まったのを確かめ、大聖丸は那覇港を後に薩摩へ向けて出港した」(「ジョン万次郎物語」)

「異国日記」の土佐国人3人についての記述は、712日が最後となっている。

万次郎ら3人は、那覇から12日間の航海で薩摩の山川港についた。このあと、薩摩から幕府の奉行が駐在していた長崎に送られ、9カ月近い取り調べの後、迎えに来た土佐藩の役人とともに、土佐に帰った。11年ぶりの帰郷だった。

「異国日記」は、中浜万次郎らの琉球上陸と滞在の経緯や琉球王府と薩摩の在番奉行所の対応を見る上で、リアルで貴重な史料である。台湾大学に保存されていて、現代語訳付きで出版されたことは、とても意義深いものがある。

 終わり  201912月31日     沢村昭洋


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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その6

ボートを那覇に廻送

「漂着土佐人の乗って来た伝馬船が明後十日に摩文仁間切から那覇川(港)へ廻送するので、那覇川に到着したならば右の者たちが出向いて検査するため、そのように心得ておくこと。なお、大和横目へは各々(里主・御物城)から通知せよ」。

68日付けでこのような指示が出されている。万次郎らが上陸の際使ったボートをいよいよ、保管していた摩文仁間切から那覇港に回すことになった。

廻送されるボートについては、少し触れておきたい。

すでに正月3日付けで、次の摩文仁間切「覚」が出されている(尚家文書492号)。

<「今日漂着した土佐国人の乗って来た小舟を当間切小渡浜に格護(保護)しているけれど、久高島並びに糸満人を雇い、舟を乗り回し(移動)させてもらいたい。(意訳)>

 西掟(にしうっち、間切の役人)と地頭代(間切の地頭=領主の代官)の名前で出されている。

久高島と糸満人を雇って舟を廻送させたいというのは興味深い。久高と糸満は王府時代に漁業が盛んだったところであり、舟を操るのにたけた漁民がいたからだろう。実際に舟を那覇に移動させるのは、数カ月後になる。
 

ボートを覆い隠せ

那覇港に到着したさい、そのボートの扱いについて意外な指示が出されていた。

<土佐人の(乗ってきた)伝馬船が那覇川(港)に到着したならば、すぐに莚で覆い隠すようにせよとの指示が掘與左衛門殿からあったので検討して頂き、しかるべき返答を早々に頂きたく、この件を連絡する。>

610日付けで仲宗根親雲上、喜屋武親雲上から御鎖之側御方に出されている。

なぜ舟を莚(むしろ)で覆い隠すのか。ボートを伝馬船と呼んでいるが、外見から明らかに日本の舟とは異なる。「異様な舟」で珍しく目立つ。だから、人々の目に触れさせたくない。特にベッテルハイムらに見られるのを避けたかったのだろう。

       那覇港 
                 現在の那覇港

 いよいよ万次郎らを鹿児島に送る船が「大聖丸」であることが決まった。

<このたび漂着土佐人たちを御国船(大和船)の大聖丸で御国元(鹿児島)へ送り届けることになっており、その出帆前夜に土佐人と荷物は右の役人たちの監視の下、翁長村から那覇へ移送して乗船させる。ついては、そのように心得よ。なお、大和横目については、翁長村に派遣されている者から勤めさせるので、改めて派遣する必要はない。この件を連絡する。>

610日付けの文書は、万次郎ら3人と持ち物は出帆前夜に那覇に移送することにしている。

 

万次郎らが乗って上陸したボート「アドベンチャラー号」も、いよいよ那覇港に回されることになった。「異国日記」にはないが、

「土佐漂流民の薩摩送致について届書調整の書簡」(『中浜万次郎集成』)に次のような記述がある。

<右土佐人共、傳馬之儀、大聖丸水主2人、當地船方12人乗付、摩文仁間切より那覇川口江不目立様乗廻候付、警固衆、横目衆・附役衆・足軽・鎖之側・里主・御物城・大和横目出會相改、異様之品故致莚包、大聖丸江積入、警固之衆江引渡申候」。

712日、池城親方 座喜味親方 國吉親方 浦添王子

倉山佐大夫殿> 

池城親方は、首里王府の三司官の一人。王子は、琉球王府摂政。倉山作太夫は、薩摩藩小姓与番頭兼鑓奉行。

意訳すると次のようになる。

<土佐人のボートについて、大聖丸の水主(船頭)2人、当地の船乗り12人が乗り付け、摩文仁間切から那覇港へ目立たないように乗り回した。警固衆ほか役人が立ち会ってあらためた。異様な舟であるため莚(むしろ)で覆い隠し、大聖丸に積み込み、警固役人に引き渡した。>

当地の船乗り12人に、久高島や糸満の人たちが含まれていたのだろうか。

 



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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その5

 役人の接待で相談も

 <漂着土佐国人の取り締まり(事情聴取)のため、豊見城間切の翁長村へ毎日交代で赴いている産物方御用聞きたちの着替え持ち夫については、すでに用務は終了しているので、今後の手配は不要である>

 14日付けではこのように、取り締まりなど用務は終了したと兼城親雲上から里主らに連絡がされた。

 薩摩の在番奉行らが翁長村へ事情聴取のために赴き、泊まることになれば、接待も必要となる。

「明日、御仮屋御方(在番奉行)と私たちも翁長村へ赴くことについては、以前に調整済みであった。ところが、今日、野元一郎殿から状況によっては1日での処理は難しいため、二、三泊の宿(の手配)を考慮して赴くようにとの連絡があったので、貴方もそれを心得て出向いてもらいたい。…三泊延泊することになったならば、御馳走(食事)の用意はどのようにしたらよいのか。貴方でも検討し返答して頂きたい。」と正月16日付けで小禄親雲上から親見世の喜屋武親雲上に連絡を出した。

これに対し、同日付けで喜屋武親雲上は「二、三日逗留することになったならば、初日の晩から滞在中は所々(現地)の有り合わせで食事を提供するのが良いのではないかと考えるものである」と返答している。

 在番奉行にたいする「ご馳走」の準備にも気を遣う。役人の接待の気遣いは今も昔も変わりない。面白いのは「現地の有り合わせで食事を提供する」として、他所からあわてて食材を取り寄るのではなく、「現地の有り合わせ」で対応するとして、いわば常識的な対応をしているのが面白い。

 

 「明日、御奉行様(在番奉行)を始め、異国方の御役々衆(注・おやくやくしゅう、薩摩の役人)は、土佐国人を尋問するため翁長村へ赴くことになっている。そこで、御奉行様は御見分が済み次第お帰りになり、他の御役々衆は伝馬船の御検分のために摩文仁間切へ赴く場合もある。このことを野元一郎殿と御用達の薗田仁右衛門から伝えられた。」

正月16日付けで仲宗根親雲上、喜屋武親雲上は、御鎖之側御方に報告している。万次郎たちが上陸に使った「小舟は小渡浜に保管してある」と先に記していた。薩摩の役人も現物を検分のために出向くことがあるとしている。

その後、実際に「御奉行様ならびに松本十兵衛殿、野元一郎殿、堀與左衛門殿、薗田仁右衛門殿、里主の喜屋武親雲上は、土佐国人を尋問するため翁長村へ赴いた」と記されている。

 

 すこし、時間を置いて次の記述がある。

「豊見城間切の翁長村に、大和横目の糸嶺筑登之親雲上と吉浜筑登之親雲上のうち一人ずつ当直の勤務をするようにとの指示については承知した。早速、右の二人を招集し指示したところ、本日四つ時分(午前十時頃)に糸嶺筑登之親雲上が(翁長村へ)赴き勤務している。この件を返答する。」

 3月29日付けで、喜屋武親雲上が小禄親雲上に返答している。

 

 万次郎からアメリカ情報を得た牧志朝忠

ここで、翁長村に滞在している万次郎ら3人から事情聴取のために訪れた琉球側の役人の中に、著名な牧志朝忠がいたことに触れておきたい。「異国日記」には、何人か役人が言ったことは出ているが、彼の名は出て来ない。だが、彼が万次郎から話を聞いたことは確かである。

 牧志朝忠21歳の時に北京に留学した。帰国後は英語話者、安仁屋政補(あにやせいほ)に師事し英語を学び、通訳官となった。名前が3回変わっている。板良敷朝展(里之子親雲上)から大湾朝忠(親雲上)、さらに牧志朝忠となった。

 「尚家文書(琉球国王尚家関係資料)492」には、次のように記されている。

「漂着人共儀昨日より今日は口上格別 聞易有之板良敷親雲上候て相兼アメリカ 取乗を以相尋こせ候処昨日問合置候通違目 無之尤来之褒美成大和口上以事以上 土佐国之産物又者日本之事共兼ねて 承及候通相答申且致所持居候品々…」
     

意訳すると次のようになる。

「漂着人共は昨日よりも今日はグンと喋り聞きやすいので有る 板良敷親雲上は頭領を兼ねている アメリカ言葉で尋ねるように来させたところ 昨日問い合わせた通りであった もっともここへ来て大和言葉で申し上げた 土佐の産物や日本のことを以前に話していたとおり受け答えし且つ所持する品物…」

 この文書は、正月3日付けであり、板良敷親雲上がすぐに翁長村に駆けつけたことがわかる。その後も何回か会ったのだろう。

彼は、万次郎らに会って、直接さまざまなアメリカと海外の情報と知識を得ただろう。万次郎らが持ち帰った70点余りの品々の中に17冊の書籍があった(「琉球在番奉行取調記録」)。長崎奉行所取り調べの書籍銘書の中に「デ、ライフ、オフ、ヂョルヂ、ワスシングトン 壱冊 但 北アメリカ州共和政治開祖ヂョルヂ、ワスシングトン一代記」(読点は中濱博氏、『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』)があった。

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                  万次郎から話を聞く牧志朝忠と思われる(ジョン万次郎上陸記念碑から)
 
 とても興味深いエピソードがある。
 <牧志朝忠は、聴取にあたった当時、首里王府で異国通事と外務次官のような役職にあった。万次郎からアメリカの政治制度、一般の国民から大統領が選挙で選ばれ、任期は4年、大統領をおりれば一般の国民に戻ることなど詳しく聞いた。万次郎が上陸したさい、アドベンチャラー号に積んでいた本の中で、初代大統領のジョージ・ワシントンについて書かれたものを、とても読みたかったので、夜通し本を筆写して、まだ終わらないので借りて読んだ。
 その後、ペリーが琉球に来た際、通訳にあたった朝忠は、ペリーの部下が琉球に不当なことを要求したが、朝忠は、ジョージ・ワシントンを生んだ国でこんな不当なことを押しつけていいのか、とただした。米側は、琉球のような小さな島で、ジョージ・ワシントンのことを詳しく知っていることに驚いて、ペリーに報告し、要求を取り下げたという(この項、ジョン万次郎研究家の神谷良昌氏の講演から)>。
 朝忠は薩摩藩主の島津斉彬から高く評価され、出世するが斉彬が急死し、薩摩に向かう途中、船から身を投げる不幸な最期を遂げた。万次郎が伝えたアメリカの知識、情報は、牧志朝忠によって琉球の外交に役立っていたのだ。

 

 琉球から鹿児島へ

 「異国日記」は、土佐国人に対する記述は少なくなった。次に出てくるのは鹿児島に送り届けることについてである。

「今年の正月に摩文仁間切小渡村浜に漂着した土佐国高岡郡佐浦の伝蔵のほか2名を今回大寿丸で大和(鹿児島)へ送り届けるため、右の者たちを山川(港)までの警固役と才領役に命じるので、この件を(琉球側へ)申し伝えるものである。」

「本文は御奉行様から里主に手交されたので、里主からただちに御鎖之側へ差し上げた」という。警固役として、川上五後衛門、才領役御兵具方足軽として、白石仲左衛門ら3人の薩摩役人の名前を上げている。

これは430日付けで記されている。

 いよいよ万次郎らを鹿児島に送り届けることが具体的に動き出す。といっても、実際の出航はまだ2カ月以上先のことである。

 

 「御国元(鹿児島)へ送り届ける漂着土佐人たちの品物渡し帳については、先例に従い親見世役人の名前で奥書きするよう指示された。その帳簿は、こちら(首里)で作成するので、親見世の役人2名の名前を書き記すよう指示せよ。また、土佐人の海上での食糧についは、先例通り親見世が用意するよう指示を受けたので、先例に従い30日分を用意せよ。なお、野菜・肴は数日保存がきく品を検討して支給することも先例通りに指示せよ。」

 


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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その4

薩摩の琉球支配を知られたくなかった?

万次郎を那覇に入れなかった理由について、他にも説がある。

一つは、「那覇港の近くに在番奉行所があり、琉球が薩摩の支配下にあることを知られたくなかったのではないか」(竹内經氏、2019427日「沖縄ジョン万次郎」講演会)とのこと。ただこの説には疑問がある。というのも、万次郎らが滞在した翁長村の徳門家(屋号、高安家)には、「薩摩の役人が5名、琉球の役人が2人、それぞれ5日、7日ごとの交代制で詰め、3人の監督警護をした」(『漂巽紀畧 全現代語訳』)のである。

当初から万次郎らは5人もの薩摩役人を見ており、この後、「異国日記」に出て来るように、何人かの薩摩役人が事情聴取に翁長村を訪れている。とても薩摩支配を隠せられない。それに琉球は中国と冊封関係にあり、薩摩支配を中国には知られたくないから、冊封使が来たときは、薩摩の役人は現在の浦添市城間に逃げ隠れていたという。だが、薩摩の琉球侵攻と支配は日本には隠す必要はない。それらを踏まえると、この説は成り立たないのではないだろうか。

もう一つ、「那覇には薩摩の役人がほとんどおらず、そのことを知られたくなかったというのが本音であったともいわれている」(中濱博氏著書)という説である。

しかし、在番奉行所には、在番奉行や附役など約20人が常勤したとのこと。「異国日記」を見ると、在番奉行とのやり取りが重要な内容となっている。在番に勤める薩摩役人は任期が終われば交代する。琉球で病気になったり、なかには琉球で亡くなった方もいる。そのような薩摩役人の動静が記されている。「異国日記」には多数の薩摩の役人の実名が登場する。万次郎らの滞在する翁長村に、薩摩役人が行っていたことをみても、とても「那覇には薩摩の役人がほとんどおらず」というのは、事実とは違うのではないか。この説も成り立たないと考える。

泊まり込みで事情聴取

翁長村に滞在することになった土佐国人への対応について、再び「異国日記」から見ておきたい。4日付の記録は、前半部分を先に紹介したので、ダブルけれどももう一度引用する。

  <土佐国の者たち3人が、夜前に阿蘭陀船から当(摩文仁)間切の小渡浜へ小舟で上陸したと、本日八つ時分(午後2時頃)に連絡があった。ついては、右の3人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる。以上。

付けたり、本船(阿蘭陀船)は夜前に沖合から離れたとのことを右の大和人から聞いた。なお、小舟は小渡浜に保管してある。

右について、豊見城間切の翁長村に留め置いている漂着の土佐国人の事情聴取のため、御横目(注・薩摩役人1人、御附け役1人、足軽1人、大和横目1人、問役1人が彼の地(翁長村)へ赴くので、すぐに親見世へ(御船手から人夫を)差し出させ、問役の指示のもとに勤めさせるように手配せよ。急ぎの案件のため、少しも遅延しないようにせよ。里主と御物城の指示により、この件を通知する。

正月4日 那覇筆者  仲村渠筑登之(注・なかんだかりちくどぅん) 金城筑登之>

 ここで「御横目」とは、薩摩役人を指す。「大和横目」は、琉球人で在番奉行との交渉にあたる。「問役」は、親見世の下級役職の一つ。出入港した船舶の業務や薩摩側との連絡役も担った。正月4日付けで翁長村に留め置いた土佐国人の事情聴取のため、薩摩と琉球の役人を派遣したことが記されている。

 さらに同日、「御仮屋方と大和横目、問役の(宿泊する)宿を5軒、翁長村へ手配して頂きたい」と仲宗根親雲上、喜屋武親雲上が、 御鎖之側御方(おさすのそば、首里王府の役職の一つ)に要請している。これは、那覇の親見世の役人は、他の豊見城間切で宿の手配まで指図できないので、王府を通して現地に手配させたのだろう。

「御仮屋方」(おかりやほう)は、薩摩の在番奉行所のことである。宿を5軒手配させるのは、泊まり込みで事情聴取したことがうかがわれる。
 

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 さらに次の指示が出されている。

 <夫7人、但し、大男より。

 右について、豊見城間切の翁長村に留め置いている漂着土佐国人の事情聴取のために赴くことになっている御仮屋方から本行(冒頭の記載)の通り、重み夫の申し出があった。すぐに親見世へ(御船手から人夫を)差し出せ。問役の指示のもとに勤めさせるよう手配せよ>

 正月4日、那覇筆者(注・那覇里主の下役)2人から御船手(注・船手は船乗り)あてに通知が出されている。「重夫」(かさぶみ)は、通常の夫役以外に臨時で徴発した夫役のこと。大男7人を差し出すように命じている。

 <漂着土佐国人の事情聴取のため、横目と附役衆、足軽たちが、ただ今彼の方面(翁長村)へ赴くので、人夫の手配をするようにと御在番所から指示があった。ついては、小禄間切から手配するように指示してほしい旨…関係部署に通知された>

 同4日付けで兼城親雲上から里主 御物城あてに指示がだされている。「付けたり」で、「人馬を用意するように」「宿5軒を手配するように」指示したとものべている。

 

 その4日後の8日付けでは、次の連絡が御鎖之側御方に出された。

<漂着土佐国人の事情聴取のため、翁長村へ出向いていた御横目と御附け役、大和横目、問役は一昨晩(那覇に)もどってきた。この件を連絡する>

3、4日泊まり込んで聴取したことがわかる。

<このたび、土佐国の者3人が異国船で送り届けられ、豊見城間切内の翁長村に滞在しているので、その取り締まりのため、産物方御用聞きたちの中から1人ずつ1日交代で(翁長村へ)差し越すことになった。ついては、本行のように従来の差替え持ち夫(3人ずつ)を派遣するように指示して頂きたい。>

正月9日付けで、薩摩側の肥後平九郎名で親見世に指示を出している。「産物方」とは、那覇に設置された薩摩藩の清国貿易を担った出先機関である。

 さらに那覇に滞在していた宣教師ベッテルハイムとの関わりで次のような指示が出された。

<このたび日本人が漂着したことについては、定式方が取り扱う先例であるが、右の者たち(土佐国人)は長らく異国に滞在し、まさに現在、英人が逗留中であるため、何かと支障となる恐れがある。ついては、今回、御内用方が取り扱うことになったので、そのように取り計らうようにせよ。(正月9日)>

これは、「御在番所から連絡があったので、そのことを心得よ」と12日付けで、小禄親雲上(御鎖之側)が里主、御物城に指示している。

ここで、「定式方」(じょうしきほう)とは、在番奉行一行あるいは在番奉行付きの下役の者を指す。やはり、土佐国人は長らく外国に滞在していたので、逗留中のベッテルハイムと逢わせるのは「何かと支障となる恐れがある」として、「御内用方」が取り扱うとし、通例とは異なる対応をしている。「御内用」とは「内密の用件」を意味する。


 

追記
 竹内氏は2015年5月の沖縄での講演で、次のような見解も述べているので紹介する。

竹内經氏は、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。

 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。

 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。(2015年5月23日「琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く」 )

 その可能性はあるかもしれないが、根拠は明らかではない。

 注・ここで、大和横目とは何かについて触れておく。
琉球王府の史書『球陽』には「琉球人及在番役人の行動の善悪を監視した。薩摩人で琉球に居住する者に、多くこの職を授けたが、近世に至っては琉球人がこの職に任ぜられた」という内容が記述されている(『那覇市史通史編第1巻』)。
 始めは薩摩人だったのが、琉球人に代わってくるとともに、その職務も変化した。「一般に大和横目は、横目(監察)的な職務から、次第に在番奉行との交渉、接待に重点がおかれるようになったと考えられている」(同書)。










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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その3

午後2時は役所への連絡の時間

万次郎らの上陸をめぐっては識者の間で見解の相違があることを、このブログにアップした「中浜万次郎の琉球上陸の真実」で書いた。万次郎の4代目、中濱博氏は、小渡浜は岩礁が広がっており、正月3日の朝は満潮だったので上陸は出来ない、干潮の午後2時に上陸したとの見解を示していた(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』)。

しかし、この付近の海に潜り、潮の干満のことを良く知るジョン万次郎上陸之記念碑建立期成会の和田達雄副会長は、「満潮では上陸できないことはない。満潮でも干潮でも上陸は可能である」と明言する。

万次郎たちが、琉球と薩摩、長崎や土佐で事情聴取を受けた際の記録では、3日朝、上陸したと明確にのべている。とくに、「長崎奉行牧志摩守取調記録(上)」によれば「朝五ツ時頃漕付上陸いたし候」と明言している。朝五つとは、午前8時である。この時の満潮は「午前838分」(中濱博氏)だった。朝の満潮時に舟を漕ぎ着け上陸したその時刻まで明記されており、疑問の余地はない。

すでに、「ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実」でも書いたけれども、8時上陸というのは、小渡浜で最初に出会った村人から、1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があると教えられ、舟を着けてサシチン浜に上陸した時間である。その前に、最初に浜に上がったときは満潮より1時間半ほど前の午前7時頃だったと推測される。「満潮になる前なら、ボートを着けて岩礁を歩いて浜に上陸することができる」と和田達雄氏は指摘する。

 

もう一つ、中濱氏は午後2時に上陸したとする根拠として、古文書の記述を上げている。
「正月2日七ツ時分、伝馬相卸候得共、折節風雨強、其夜は地方近干瀬合ニ漸掛留、翌3日八ツ時分、摩文仁間切おと濱江上陸、成行申出候由」(「琉球在番奉行届書」、中濱博著作から)。この記述の後半を訳すると「翌、3日午後2時に摩文仁小渡浜に上陸したと申し出がありました」となる。

ここで「午後2時」とは、小渡浜上陸の時間ではない。誤解を与えやすい記述であるが、文脈から見ても「午後2時」は「申し出がありました」につながる記述である。先に紹介した「異国日記」4日付けの記述では「本日八ツ時分(午後2時頃)に連絡があった」とのべている。午後2時は役所に連絡があった時間である。「異国日記」の記述から考えても、午後2時上陸説は、史料の誤読であることがわかる。

 

   ジョン万次郎記念碑 
        万次郎が滞在した豊見城市翁長に建つ「ジョン万次郎記念碑」

   万次郎をなぜ那覇に入れなかったのか
 3
日付日記は、薩摩の在番にただちに相談した結果、土佐国の3人を摩文仁間切から那覇に送り、久米村に陸宿するように指示している。そこで事情を聴取し報告するとしている。

 万次郎ら3人は、摩文仁間切を午後4時に出発し那覇に向かう。雨上がりのぬかるんだ道を歩き、真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所までたどり着くと、町の方から役人が来て、3人を那覇に入れないで引き返し、豊見城間切の翁長村に行くように命じた。

 「異国日記」には、那覇に入れるはずが急きょ、翁長村に変更した経過は記されていない。

なぜ、那覇に向かっていた万次郎らを急きょ、翁長村に行かせたのだろうか。

その理由は、正月12日付けで琉球王府の外交長官格の小禄親雲上から那覇の里主(市長格)と御物城(うむぬぐすく、助役格)にあてた公文書を見ればわかる。

<今度日本人漂着に付では、定式取扱之先例候得共、右者事長々異国に罷在、殊に当方英吉利人逗留中之儀にて、彼是差支之廉有之候に付、此節は御内用方より致取扱候間、作様可被相心得候、此段申達候事。

正月9日 右之通御在番所{薩州在番奉行}より御掛合有之候間、其心得可被致候、以上。

正月12日 小禄親雲上

 里主御物城>

(中濱博著『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』から)


 これは、通常は漂着した日本人は那覇の久米村にある宿舎に留めるのが前例であるが、万次郎はアメリカに長くいたし、那覇には英国人宣教師ベッテルハイムがいて、万次郎に逢わせると支障を来す事情がある。薩摩奉行の内々の取り計らいで、那覇に入るのを禁じ、翁長に行かせたので心得よという内容である(訳文は同書を参考にした)。

外国にいた万次郎らが那覇の久米村に半年余りも滞在すれば、その噂を聞きつけ、ベッテルハイムが逢い来ることは十分予想されることである。ベッテルハイムは、那覇の護国寺に滞在していて、ときには民家や薩摩の在番にまで入り込んだこともあった。

ただ、土佐国人の上陸が琉球王府に伝えられ、在番に相談した時、なぜ当初は那覇に入れて、水戸人の先例どおり、久米村に留める方針だったのだろう。これは、「異国日記」を読めばある程度推測がつく。

つまり、外国船から降りて小渡浜に土佐国人が上陸したとの報告があった際、当初は、万次郎らが長い外国暮らしで英語もペラペラであることまでは、承知していなかった。だから、水戸人と同様、土佐国人も通常の日本人漂着者の扱いでよいと判断したのではないだろうか。その後、詳しい情報が届き、外国に10年も滞在し、英語も達者となれば、もしベッテルハイムと逢ったらどうなるのか。二人が英語で会話すれば、琉球と薩摩の役人たちは、何を話しているのかさっぱりわからない。なにかよからぬ相談をしないともかぎらないと心配になり、急きょ那覇に入れないと方針転換したのではないだろうか。

 

話しは少し横道にそれる。

万次郎は土佐に帰ったあと、幕府に招かれて江戸に行き、幕府直参となった。幕府は、黒船の来航で万次郎のアメリカ情報が必要とした。ペリー来航の際、外交手腕のある代官、江川太郎左衛門は万次郎を交渉の通訳として起用しようとした。しかし、時の老中首席、阿部伊勢守と水戸藩主の徳川斉昭は、万次郎はアメリカに恩義があるので「アメリカに不利になることは決して好まないでしょう」(斉昭)と反対して、交渉の場には出させなかった。これも、ペリーと万次郎が英語でやりとりし、アメリカに有利なように動いても幕府側は分からないので、心配したのだろう。そんなことはありえないのに、英語がわからないための疑心暗鬼だったのではないか。なにか、那覇での万次郎への対応を共通するものを感じる。


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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その2

当初は那覇・久米村へ送れ

 本題に入る。この「琉球關係史料集成 第3巻」には、咸豊元年(1851)、同2年、同4年、同5年(1855)の「異国日記」が収録されている。「異国日記」には、親切に現代語訳がついており、「異国日記」から紹介は、訳文とする。

  土佐国の万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、1851年旧暦12日午後、サラボイド号(ホイットモーア船長)から、ボート・アドベンチャラー号を降ろして、琉球の小渡浜沖に着いて、停泊したあと翌朝、上陸した。

 咸豊元年の日記の冒頭に、中浜万次郎ら土佐国人漂着の案件が出てくる。

 
       薩摩在番奉行所跡 
              薩摩在番奉行所

 「異国日記」は、正月
3日の日付で以下のように記している。

<検者 新嘉喜里之主親雲上(注・ペーチン) 下知役 喜久里里之主親雲上

「なお、本文の者たちが垣花(村)に到着した際、私ども(仲宗根・喜屋武)が赴いて検分し、確かに大和人と判明したならば、久米村筆者によって尋ねさせるように処理するものとする。」

土佐国の者3人が、阿蘭陀船(注・オランダは西洋諸国の通称)の伝馬舟で摩文仁間切小渡浜へ上陸したので、那覇へ送り届けることにしたと、摩文仁間切の下知役と検者から(親見世へ)連絡があった。この件を(親見世から)」御在番所へ報告したところ、去る子年(1840年)に漂着した水戸人と同様に久米村へ陸宿させるようにとの指示があった。ついては、宮里通事の屋敷を(宿に)割て当てよと、惣役と長史へ通知しておいた。那覇に到着したならば、状況をあれこれと詳細に聞き取った上で報告すべきであるが、ひとまず急ぎの事前報告として右の件を連絡する。以上。

正月3日 仲宗根親雲上 喜屋武親雲上

御鎖之側御方>

 「検者」(けんじゃ)「下知役」(げちやく)とは首里王府から間切(今の町村)へ派遣された役人のこと。「御在番所」は、那覇西町にあった薩摩藩の在番奉行所のことである。「惣役」(そうやく)は、中国から渡来した人の村、久米村の最高職のこと。「長史」はチャグシと呼ばれ、久米村の役職の一つで行政を担当した。御鎖之側御方(おさすのそば)は、首里王府の役職名の一つである。漂着の水戸人とは、1840年に勝連間切浜村に漂着した水戸人のことを指す。

    
 4
日付けでは次の記述がある。

<覚 摩文仁間切

「本文については、里主から御附け役の取次で在番奉行へ届けた。」

 土佐国の者たち3人が、夜前に阿蘭陀船から当(摩文仁)間切の小渡浜へ小舟で上陸したと、本日八ツ時分(午後2時頃)に連絡があった。ついては、右の3人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる。以上

付けたり、本船(阿蘭陀船)は夜前に沖合から離れたとのことを右の大和人たちから聞いた。なお、小舟は小渡浜に保管してある。(以下省略)

正月4日 那覇筆者 仲村渠筑登之 金城筑登之  

御船手>

この土佐国人3人は、夜前に阿蘭陀船(サラボイド号・ホイットモーア船長)の小舟で小渡浜に上陸したとしている。実際は、正月2日の夕暮れ時、小渡浜1里ほど沖に到着したが、上陸したのは翌朝である。異国のボートで見たこともない洋装で3人が上陸したことは、摩文仁間切にとって一大事である。すぐさま那覇の親見世まで午後2時には連絡があり、薩摩の在番奉行所にも報告し、対応を仰ぎ指示を受けている。


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「異国日記」に見る中浜万次郎の琉球上陸、その1

「異国日記」にみる中浜万次郎の琉球上陸

 

 中浜万次郎が10年の外国滞在から日本に帰国するにあたって、琉球に上陸した経過について、先にこのブログで記事をアップした。それを書くにあたって、ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長の和田達雄氏から情報と史料の提供を受けた。琉球王府時代の那覇の行政機関である「親見世」(おやみせ)が記録した「異国日記」(台湾大学所蔵)があるとのことだった。「親見世日記」「冠船日記」は、出版されているのを読み、このブログでも紹介していた。しかし、「異国日記」があり、そこの万次郎らの琉球上陸と滞在のことが記録されていることは、寡聞にして知らなかった。

 なぜ台湾に琉球の資料があるのか。それは、戦前、現在の台湾大学に勤務していた小葉田淳氏が、沖縄所蔵の史料を借り受け、筆写した史料である。沖縄では、戦禍に見舞われ貴重な史料が失われたが、台湾大学には保管されていたという。2016年には、『異国日記』が日本語の現代語訳を付けて台湾で出版された(国立臺灣大學圖書館典藏 琉球關係史料集成 第3巻、出版者「国立臺灣大學圖書館」)。沖縄県立図書館から借りて読んでみた。

 「異国日記」には、万次郎が上陸してから薩摩に送られるまでの対応、琉球を訪れる外国船と当時那覇に滞在して外国人への対応など、とてもリアルに記載されていて興味深い。それで、万次郎上陸については、すでにブログで書いたが、この「異国日記」をもとに、もう一度、万次郎の上陸と半年余の滞在について、紹介をしてみたい。

 

       

 外交関係の史料「異国日記」 

 「異国日記」とはどういう記録であるのだろうか。

<主として薩摩藩から琉球国へ派遣された「異国方」役々衆との関係において発生した諸事項を親見世(那覇の行政機関)が記録した史料」(豊見山和行「異国日記全体解題」)>である。

そこには、欧米の異国船渡来の記事やフランス人・イギリス人が那覇に滞在した事項も含まれており、「琉球国の対外関係に関する史料である」(同)。

<里主(さとぬし)・御物城(おものぐすく)・那覇筆者(なはひっしゃ)という親見世の上級役人らが親見世本来の業務である那覇4町(注・東、西、若狭町、泉崎の総称)の民政や在番奉行との交渉役を果たす一方、新たに薩摩藩から派遣されてきた「唐物方」(後に産物方)および異国方の役人らと関わる業務を兼務していた(同)>

 

    親見世跡 
                那覇にあった親見世跡

 ここで、薩摩在番奉行所について少し触れておきたい。

在番奉行所とは、1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来250年にわたり琉球支配の拠点となった。在番奉行や附役など約20人が常勤し、薩摩と琉球の間の公務や貿易の処理にあった。

薩摩藩が在番奉行に与えた「御条書条々」の第一に、「琉球の政治向についての善悪を見分け、藩主の御心得になるべきことは油断なく委細報告せよ、ということで、琉球の政治の善悪を監視し、その報告を重要な任務としていたことを示している」(『那覇市史通史編第1巻』。
 外国船の出入りには監視の目を光らせた。琉球の政治の監視と報告、出入船舶の検問と報告は在番の主要な任務だった。


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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その5

豊見城・翁長村でもてなしされる

 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は那覇に護送されることになる。「じきに日も暮れたので、炬火(たいまつ)をつけて夜道を進みました。真夜中ごろ、やっと那覇の町にはいろうとする所までたどり着くと、町の方から役人が急いでやって来て、那覇の城下にははいってはいけない、翁長村へ行けという命令を持って来ました」(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)
 なぜ那覇にはいれないのか。「當分暎人(口篇に英だが漢字が出ない)逗留中差障候付」(「琉球在番奉行取調記録」)、豊見城間切翁長村へ行かせたという。これは、万次郎らが長年、異国で暮らしていたので、当時那覇に滞在していた宣教師ベッテルハイムと逢わせたくないために、急きょ翁長村に変更したことを意味する。

 <那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引返させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。
 漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。
 翁長村薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした 


      IMG_5425_20191119165830103.jpg   
            万次郎も参加した翁長村の綱引き(上陸記念碑から)

 万次郎たちの住まいにあてられた家は、高安家の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。(島袋良徳著「ジョン万次郎物語」から要約)
 3人は翁長村で半年余り滞在することになる。その後の万次郎の歩みを土佐清水市にある「ジョン万次郎資料館」の「中浜万次郎の生涯」から紹介する。
  <万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。
そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのです。土佐藩では公式な記録として「漂客談奇」が記され、土佐15代目藩主山内豊信(容堂)の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍が聞き取りを行います。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある本です。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われます。
 その後、高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。
 万次郎は幕府に招聘され江戸へ。幕府直参となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになりました。
 
 この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。
 万次郎は江川英龍の元で翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいました。しかしながら、万次郎の知識を必要とする志士は多く、万次郎に英語や航海術を学びに来る人は多かったそうです。
 万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団を乗せた、ポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
 その後、捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校教授就任などめまぐるしく動き続けます。
 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。
 しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
 そして明治31年(1898年)71歳で万次郎はその生涯を終えました。>

 今回の拙文は、中濱博氏の著作の一部に異論を唱える結果となった。しかし、中濱氏が「この伝記では船の入港記録、日記、手紙、公式記録などを基に、日時を明確にすることによってできるだけ写本に頼らず、歴史を掘り起こすことに努めたつもりである」とのべているように、万次郎直系の子孫による第一級の万次郎伝記であることに変わりはない。

 最後にひとこと。万次郎が10年ぶりの帰国するにあたり、江戸幕府の鎖国日本に帰れば打ち首にさえなりかねない。薩摩の支配下にあっても、独自の外交政策をとっていた琉球を、帰国の上陸地として選んだのは、とても見識ある選択だった。そう言う意味で、琉球上陸はただのと偶然でも思い付きでもない。万次郎が琉球の小渡浜に上陸したからこそ、その後、無事に郷里に帰ることができ、海外事情や進んだアメリカの技術や文化、民主主義を伝え、日本の開国と明治維新から自由民権運動にまで、重要な役割を果たすことができたのではないか。
 「琉球(沖縄)は、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをはじめて日本に持ってきた玄関口である。琉球上陸は万次郎の話の中のハイライトであり、何よりも万次郎たちにとって一番重要なことである」。
 中濱博氏はこのように位置付けている(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』―)。
 小渡浜に上陸した万次郎の小さな一歩は、日本の歴史のうえで大きな一歩となった。
   終わり    文責・沢村昭洋







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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その4

琉球の記録でも午後2時上陸はありえない

午後2時頃上陸という説のもう一つの根拠は、琉球側の記録である。

万次郎たちの上陸について、摩文仁間切番所からどのように通報されたのが。万次郎の上陸について、和田達雄氏(ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)が収集した台湾大学に所蔵されていた「咸豊元年「異国日記」」と尚家文書には、以下のように記述されている。

土佐國之衆三人夜前阿蘭陀船より當間切小渡濱江小舟を以卸候段、今日八ツ時分被申出候付、右三人並荷物不残那覇江送届申候、此段首尾申上候。以上」(咸豊元年「異国日記」)。


 訳文は次の通り。「土佐の国の者たち
3人が、夜前に阿蘭陀船(注・外国船)から当(摩文仁間切の小度浜に上陸したと、本日八つ時分(午後二時頃)に連絡があった。ついては、右の三人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる。以上」(同書)。

「今日八つ時分夷国傳間一艘人数三人乗組当間切小渡浜へ漂着致し候につき船頭相論じ候処大和口上をもって我々は土佐国の者昨日は八つ時分阿蘭陀船により傳間相乗り至着致し候段大抵相(進)め申し候見参之この段首尾申し上げ候(尚家文書492号)」

 訳すると次のようになる。 

<今日、正月三日の八ツ時分(14時)に申し上げます。伝馬舟一隻にて3人が小渡浜に漂着致し候につき船頭と話したら大和口にて我々は土佐の国の者で昨日2日の八ツ時分に阿蘭陀船(ウランダー)本船より卸して傳間(小舟)に相乗り「至着」着きました。宜しくお願いします。

  摩文仁間切 検者 新嘉喜親雲上 下知役 喜久里親雲上>


 ここでも「阿蘭陀船より小渡浜へ」着いた時刻が、「夜前」とされ、日暮れに着いたことになり、万次郎の証言記録と合致する。

この「今日8ツ時分(14時)被申出候ニ付」の記述は、番所から申し出があった時間である。

ところが中濱博氏は「八ツ時分は午後2時で万次郎が上陸したのが昼頃の干潮の時であったことの裏付けとなる」として、この文書を干潮時に上陸したことの裏付けとしている。

また、琉球在番奉行届書では、「正月二日七ツ時分、伝間相卸候得共、折節風雨強、其夜は地方近干瀬ニ漸掛留、翌三日八ツ時分、摩文仁間切おと濱江上陸、成行申出候由」(中濱博氏著作)と記されている。

中濱氏は「一月二日午後四時ボートを(船から)降ろしたけれども、折から風雨が強くその夜、ようやく陸地近くの珊瑚礁の間に留りました。翌、三日午後二時に摩文仁小渡浜に上陸したと申し出がありました。ここでも上陸したのが、三日、午後二時となっている」と訳して解釈している。

しかし、この「午後二時」とは、上陸した時間ではなく、役所に申し出があった時間である。「琉球在番奉行届書」は、「午後二時」と「申し出」の間に「小渡浜に上陸」の文字が入っているから誤解されやすい文章となっている。でも、前に引用した「咸豊元年異国日記」で「今日八ツ時分被申出候付」=「八つ時分(午後二時頃)に連絡があった」と明確にされているとおりである。 

          万次郎集成3 
                       「漂巽紀畧」で描かれた琉球
 この番所を午後
4時には出発して那覇に向かうことになる。上陸してからの経過を見ておきたい。

「おそい朝御飯が終わったころ、一群の島民がどかどかやって来ました。自分たちは役所の命令を受けて来たが、ボートと荷物を引き渡すように、と言って、持ち物全部を押さえてしまうのです。そして、役人のいる所まで来るように、と3人の先に立って案内しました。…ここでも蒸かしたサツマ芋を出して接待し、そして3人から身の上の聞き取りを始めます(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。

3人が番所に着いたときにはすでに昼どきになっていた。ほどなく3人には昼の食事が与えられた。…しばらくして、3人は役人が待つ部屋に移され、ひときわ威厳のある2人の役人から取り調べを受けた。3人の漂流から小渡浜に上陸するまでの事情を聞き調べていた。取調べの役人と万次郎たちとの間には言葉が通じにくい。そのため取調べはなかなかはかどらなかった。…一通りの聞き調べがようやく終え、3人がハワイから持ち込んできた品物も取調べた。(注・70点の荷物を記録)…役人は3人が小渡浜へ上陸したことを那覇の里主(さとぅぬし=現在の市長に相当する役人に急便を立てて報告した」((島袋良徳著「ジョン万次郎物語」)


 摩文仁間切番所から連絡を受けた那覇の「親見世」(役所)は、薩摩の在番にも報告し、指示を仰いでいる。

「下知役と検者(首里王府から間切へ派遣された役人)から(親見世へ=那覇の役所)連絡があった。この件を(親見世から)御在番所(薩摩の在番奉行所)へ報告したところ…久米村(那覇)へ陸宿させるようにとの指示があった」(「咸豊元年異国日記」から)。

このように、万次郎らは上陸してから番所で、ふかし芋の接待を受けたり、持ち物の記録、事情の聞き取りなどで、出発するまでかなれの時間を要した。

「その間、飛脚にて王府に14時報告。16時に迎えの役人と摩文仁間切番所から那覇に向かった」((和田達雄氏=ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)とされている。上陸を報告し、迎えの役人が来るだけでも相当な時間が必要である。

上陸が午後2時なら出発までわずか2時間しかない。滞在時間があまりにも短すぎる。上陸以来の経過を見ても、午後2時上陸はなりたたないと考える。

「午後2時は役所への届け出時間であって上陸時間ではない。古文書の解釈について、混同があるのではないか」(和田達雄氏=ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長)。

 


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