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レキオ島唄アッチャー

ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その3

 万次郎上陸は朝8時と明記

 次に万次郎たちが、上陸したのは、朝なのか午後なのかという問題である。中濱氏は「午後2時」と断定している。その根拠は、小渡浜に広がる珊瑚礁には、満潮時だと舟を漕ぎ着けられないので、上陸は干潮の時刻になるということである。
 「この浜に上陸するには大事な条件が一つある。摩文仁小渡浜は珊瑚礁が浜から250から300メートルほど沖に向かって続いており、その先は急に10メートル以上の深い海となる。ボートから浜に上陸するには、干潮と時に限られる。…満潮になると浜まで潮が来て歩いて行けないし、遠浅でボートも浜に近づけないからである。…
 ボートが着いたのは翌日、1月3日の午前2時頃であるから、午前2時8分は干潮で珊瑚礁が露出しており、万次郎がボートを停めたところは珊瑚礁から離れたところであった。夜が明けて、次の干潮まで上陸を待ち、休んだものと思われる。」
 「上陸するため、疲れて寝ている万次郎と伝蔵を起こした。その時がどの本でも朝となっているが、朝では物理的に上陸は不可能である。その時はすでに昼近くであった。それが朝でないことは午前8時38分が満潮であり上陸できないことがわかる。」
 中濱博氏は、干潮でないと上陸できないことを最大の根拠として、幾多の証言記録や中浜明氏の記述をあえて否定し、午後2時頃と判断している。この「午後2時」説に同調する方は他にもいる。
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      ジョン万次郎上陸記念碑の前に立つ和田達雄さん

  しかし、小渡浜の近くの米須に住んでいたことがあり、この浜で海にも潜り、海と岩礁についてよく知っている和田達雄氏(ジョン万次郎上陸記念碑建立期成会副会長、高知県出身)は「珊瑚礁の広がるところであっても、干潮でないと上陸できないというのは間違いです。干潮でも満潮でも上陸はできます」と指摘する。
 実際に、万次郎たちは、満潮の朝8時頃、舟を漕ぎ着け、浜に上がったことを明言している。
 万次郎から聞いて亀谷益三・中平重固等か書き集めたという「難船人歸朝記事」(高知市立市民図書館蔵)では「正月3日の朝陸を見れハ、夥數人數集り來る體なり。碇を揚け船を漕着、先傳蔵陸へ上り行に、人々逃去り、其内壹人立戻り、傳蔵に應對すれ共不通」と記録している。夜が明けて朝、陸を見ると人がいるのを見かけ、「碇を揚け船を漕着」とのべ3日朝に舟を漕ぎ着け浜に上がったことを証言している。、

  「漂洋瑣談」(中浜家蔵)も「3日朝、五右衛門磯頭ニ人ノ來ルヲ見2人に示スニ、傳蔵ハ大イニ疲レ殊ニ2夜睡ラサレバ目テ見ルコト能ハス。萬次郎ト俱ニ船ヲ近クコギヨセ(注・古い漢字で出ない)、傳蔵ヲ呼覚シテ船ヲ下リ」とのべている。やはり同じく朝、人を見かけて船を漕ぎ寄せたと証言している。
 「漂巽紀畧」は、日も暮れて磯辺から一里ほど離れたところにボートを停泊させたと翌朝のことを、次のように記している。
 「翌3日の朝、磯辺に人がやってくるのを五右衛門が見つけ、…釣り竿を持った男が3,4人いることがわかったので、伝蔵はボートを下りて彼らに近づいていった。…人が何人かいるということは人家、集落があるということだろう。それならば、さっそくそこを訪ねてみようではないか、と思い立ち、万次郎といっしょに磯辺に上がって人家、集落を探しに出かけることになった」
 ここでは、ボートで翌朝、村人を見つけ、磯辺に上がったことが疑問の余地なく証言されている。

 ホイットフィールド船長に出した1860年5月25日付の手紙でも「午後4時に船を離れた。その後10時間激しく漕いだ。風のあたらない所に到着した。朝まで碇をおろした」とのべている。逆にいえば「朝碇を揚げた」ということを意味する。
 満潮でも、岩礁に舟を着け、浜に上陸することができるなら、午後までボートにいる必要はない。これらどの証言記録をみても、満潮だった朝に小渡浜に上がったという事実で共通している。
 「長崎奉行牧志摩守取調記録(上)」は、朝の上陸の時間まで明記している。
 「其夜は山影ニ乗寄相凌、翌三日明ケ方風雨静ニ相成、同所濱邉ニ人家相見、朝五ツ時頃漕付上陸いたし候處、琉球人と相見一人出會候處、言語通し不申」。
 朝明け方には風雨が静かになり、浜辺に人家が見えたので、「朝五ツ時頃漕付上陸いたし候」と証言している。朝五つとは、午前8時であり、満潮の時刻である。
 「この時の満潮は「午前8時38分」(中濱博氏)だった。この上陸時間は、最初に小渡浜に足を踏み入れ、村人からここから1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があると教えられ、サシチン浜に上陸した時間である。最初に小渡浜に上がり、村人と会ったのは、それより前の午前7時頃だったと推測される。この時は、満潮より1時間半前となる。「満潮になる前なら、ボートを着けて岩礁を歩いて浜に上陸することもできる」と和田達雄氏は指摘する。
 「取調記録」で、満潮時とされる「朝8時頃漕ぎ着け上陸」と時刻まで明記されている事実は重い。朝上陸を否定する根拠はまったくない。

 もう一点付け加えると、万次郎らが見かけた村人たちは、浜に魚を捕りに来ていた。
 「昨日は急に天気が荒れ、あられまじりの雨が降って寒さが非常に厳しかったために、殆どの潮溜りにはヒルクイユ(海水温が急低下して凍え死んだ魚)が浮いている。旧暦正月三日の今日、早朝から海に降りて万次郎たちと出会った人たちは、このヒルクイユを捕るために来たという」。
 地元で万次郎を研究し、糸満市公報に「ジョン万次郎物語」を掲載した島袋良徳(糸満市観光振興委員長)はこのように記述している。「ヒルクイユを捕るためにきた」というのは、地元の人ならではの事実と描写である。ヒルクイユ捕りは、通常、早朝に出かけるものだろう。万次郎らと出会ったのが午後ではないという証左である。
 「(村人は)ここから1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があるからそちらに舟を回すとよい、と指さして親切に教えてくれた。二人は安心してボートにもどり、言われた通りの船着き場にボートを回した。そこは、崖に挟まれた20メートルくらいの小さな砂浜で、珊瑚礁が途切れていて、満潮干潮にかかわらずいつでも舟をつけることができる」(中濱博氏著作)。
 上陸した浜は、サシチン浜と呼ばれている。万次郎らは、そこで朝食をとり、その後、番所に出向いた。
 そのあとの万次郎らの行動はどの記録や著作でもほぼ一致している。


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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その2

 午前2時に着いたのか?

 次に、4代目にあたる中濱博著『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』からを見ておきたい。
 <嘉永4年1月2日(1851年2月2日)、ようやく風が静まって来たので、船を次第に陸に近づけ正午頃には琉球から3里(12キロ)ばかりの距離に達した。…しばらくして船を停めたので陸から10キロ位と推定する。…
 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、ホイットモア船長はじめ船員らにお礼を言って、別れを告げ、積んできたボートを降ろして乗り移り、午後4時に船を離れた。いよいよ鎖国突破の琉球上陸である。…
 万次郎たちは、はじめ、帆を張って帆走していたが、風波が激しくなってきた。…風が北東に変わり帆走できなくなったので、帆を降ろして万次郎一人でボートを漕いだ。…
 どうして、ボートを万次郎一人で漕いで後の二人は漕がなかったのか。それは、二人は日本では櫓を漕いでいたし、ハワイではカヌーを櫂で漕いだかもしれないが、オールを使ったことがなかったためと思われる。

        万次郎集成2  
        
            「漂巽紀略」で描かれた万次郎(『中浜万次郎集成』から)

 ボートは岸から離れた風当たりの少ないところに碇(いかり)を入れた。後に万次郎がホイットフィールド船長に出した1860年5月25日付の手紙には、parted with Ship at 4P.M., after ten hours hard pull we arrived lee of Island anchored until the mourning
と書いてあり、午後4時に本船を離れ10時間力漕したので、着いたのは翌日、1月3日の夜中午前2時頃となる。>
 この手紙を訳すと「午後4時に船を離れた。その後10時間激しく漕いだ。風のあたらない所に到着した。朝まで碇をおろした」となる。博氏の「着いたのは翌日、午前2時頃となる」という表現は原文にはない。10時間漕げば、午前2時になるという博氏の推測である。
 「朝まで碇をおろした」の部分は、「午後2時」に上陸という推測には、合致しないので、「万次郎の手紙のthe mourningは午前中のことである」と解釈している。この解釈には無理があると思う。

 記録や証言が食い違う場合、どちらが客観的な根拠があるのか、合理性があるのかで判断するしかない。
 10時間漕いだというのは、正確な測定された時間ではない。かなり主観的な記憶ではないだろうか。
 10時間の記述にこだわると、着いたのは午前2時となるが、船から島までの距離は10キロくらいである。通常ボートは時速5~9キロくらいで進む。人間が歩いても時速4キロくらいだから、2時間半、ゆっくり歩いても4~5時間で着くことになる。しかも碇を降ろしたのは、一里外(4キロほど沖、「漂巽紀略」)というから、距離と時間はもっと短くなる。風が強く帆もおろして漕いだというからボートを進めるのに苦労しただろう。それでも10時間はかかりすぎではないだろうか。
 下船の時間も午後4時で正確だろうか。「土佐国の者昨日は八つ時分阿蘭陀船より傳間相乗り至着致し候」(「尚家文書492号」)との記録もある。「阿蘭陀(オランダ)」とは外国を意味する。この記録では、土佐の者は八つ時分(午後2時)にボートに乗り移ったことになり、4時説より2時間早くなる。船を離れた時間は、もう少し早かったかもしれない。
 万次郎たちの証言記録では、日暮れに島の近くに着いたという表現が共通している。

 土佐藩の河田小龍が万次郎らから聞きまとめた「漂巽紀略」現代語訳は次のように記している。
 「万次郎と伝蔵が舵を取り五右衛門は櫂を漕いで、進路を船長に教わった方向に定めようとする。しかし、荒れ狂うような波がボートを高くもちあげたり、一気に落としたりするので、伝蔵と五右衛門は驚き、また慌てふためき、五右衛門は恐怖におののいた。…万次郎はこれを叱りつけ、帆を巻いて五右衛門の櫂を奪い取り、遮二無二漕いで、やっとのことで入江の入り口にたどり着いたのであった。…まもなくその日も暮れ、万次郎たちは湾内の磯辺から一里ほど離れたところにボートを停泊させることにした」
        中浜万次郎集成1  
   
                 「漂巽紀略」で描かれた伝蔵、五右衛門(『中浜万次郎集成』から)

 早崎 益壽がまとめた「漂洋瑣談」(中浜家蔵)という記録では次のように記している。
「帆ヲ巻、棹ヲ把操チ立シカハ暫時ニ湾頭ニ至リケル。已ニ(すでに)其日モ暮一里許湾外ニ碇ヲ卸シ泊リケリ」。
 これでも、帆を巻き、棹を操り漕いでしばらくすると湾頭に至った。その時、すでに日も暮れ、一里ほど湾外に碇降ろして泊まったとのべている。
 二つの証言とも、ボートが島の磯辺に接近したのは、「すでに日も暮れ」とのべており、決して夜中ではなく、日が暮れたころであることが明記されている。2月2,3日頃の沖縄の日の入りは18時14分ぐらいである。
 島影を見ながらボートを漕いで、ようやく到着した時、日が暮れたという印象は脳裏に強く記憶される情景である。合理性のある証言だと考えらえる。これらを考え合わせると、「10時間」かかったと記述にはこだわらずに、日暮れ、日没のころには島近くに着いたとみるのが妥当ではないだろうか。

 




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ジョン万次郎の琉球・小渡浜への上陸をめぐる真実、その1

ジョン万次郎(中浜万次郎)が漂流して、アメリカの鯨船に助けられて、外国で10年暮らした後、18512月(旧暦1月)、琉球に上陸した。万次郎琉球上陸から半年余りの滞在は、さまざまな著作で描かれている。小渡浜(現在の大度浜)はいまでは「ジョン万ビーチ」と呼ばれている。ただし、この海岸に何時ごろ到着し、何時ごろ上陸したのかついて、著者によって見解が分かれている。上陸は、13日の朝なのか午後なのか、上陸は満潮時なのか干潮時なのかなど。細かいことのようであるが、日本に帰って来た万次郎が、いつどのように、最初の一歩を踏み出したのか。正確にしておくことが必要だ。

万次郎と共に日本最初のアメリカ文化とデモクラシーは、ボートに乗って夜そっと摩文仁の浜にやって来た」(中濱博著『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』)。

 そんな万次郎の小渡浜上陸をめぐる経過を今一度明らかにしてみたい。

 

       大度海岸     
     「 ジョン万ビーチ」と呼ばれている現在の大度海岸


 まずは、万次郎の孫、中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から、上陸の経過を紹介する。明氏の著作は、万次郎が上陸・滞在した琉球、当時、琉球を支配していた薩摩藩、取り調べのために送られた長崎藩、さらに故郷に帰ってからの土佐藩による万次郎らの証言記録をもとに描かれている。

      

18511月末、琉球列島に近いところまで達しました。…(サラボイド号から)ボートへ乗り移って本船を離れたのはその日(22日)午後4時でした。陸地から10キロあまりの沖です。…ミゾレまじりの冷たい風が吹き起って、波も高くなり、ボートはちょっと危険になりました。海に慣れているというのに、伝蔵と五右衛門は、この時どうしたものかひどく脅えてしまいました。万次郎はふたりを励ましながら帆をおろして、自分で二挺のオールを漕いで、波風に逆らいながら陸地をめざして進むのです。暮れ方になってどうやら島に近づくことができました。…

もう海の面は暗くなっていたので、ボートは沖に留めて、夜の明けるのを待つことにしました。

       
 明くる
23日の朝、五右衛門は、海岸に土地の人が出ている姿を認めたので、まだ眠っている伝蔵と万次郎をゆり起こします。ボートを磯辺に漕ぎ寄せて、日本語のいちばんじょうずな伝蔵がひとり、まず上陸しました。陸の人々は伝蔵の見慣れない風態(ふうてい)を怪しんで、避けるようにして、みんな遠ざかって行きます。ひとり残っていた人に近づいて話しかけても、いっこうに通じません。しかたなくボートにもどって来ました。人がいるのだから近くに人家があるに違いない、と、こんどは万次郎がピストルを腰に付けて、伝蔵とふたりして内陸の方に進んで行ってみます。と、45人の人に出会いました。伝蔵はさきほどと同じく、まずこの土地の名をたずねますと、その中のひとりの若者が進んで出て、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切の小渡浜(おどはま)という所だと答えました。…漂流の顛末を手短に語りますと、その若者は、日本人であるからには粗末には取扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれます。そして、もう少し先の所に入江があるから、ボートはそこへ回してつないだらよい。と教えてくれました。伝蔵と万次郎とは、この島人の応接の態度に快い思いをして汀(みぎわ)にもどって、五右衛門に話してボートを入江の方に回します。


 万次郎は、朝のコーヒーのしたくをしようと思って、ガラス瓶を提げて水をもらいに、教えられた人家の方へ行きますと、島の人たちがぞろぞろと出て来て、そのガラス瓶をひどく珍しがってのぞきこむのでした。それからふかしたサツマ芋を届けて来てくれたり。ボートから取り出して来たパンや肉といっしょに、豊かな食卓となりました。…

 おそい朝御飯が終わったころ、一群の島民がどかどかやって来ました。自分たちは役所の命令を受けて来たが、ボートと荷物を引き渡すように、と言って、持ち物全部を押さえてしまうのです。そして、役人のいる所まで来るように、と3人の先に立って案内しました。>

 ここでは、サラボイド号から離れてボートを漕いで島に近づいたが、暮れ方になって海の面も暗くなったので、沖にボートを停めて夜を明かしたとしている。この点は、万次郎がサラボイド号から離れてボートを10時間漕いだので、暮れ方ではなく、午前2時ころボートを停めたとする中濱博氏の著作とは明らかに異なる。


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琉球から土佐への漂着が結ぶ縁、その4

 1795年の3回目の漂着

 次の第3回目の漂着は、寛政7(1795)年526日土佐幡多郡下田浦へのものである。

この漂着は複雑である。まず、宮古島から帰帆しようとした五反帆の馬艦船が途中遭難し中国漸江省へ漂着したものと、寛政六年六月八重山から帰帆しようとした七反帆の馬艦船が、途中遭難し中国江南省へ漂着したものとが、それぞれ福州に送られ、そこで合流(合計二十九人)して、新たに伊良皆親雲上を頭役とし新垣親雲上を船頭にして寛政七年四月福州から琉球を目差して出航したが、再び遭難して土佐の下田浦に漂着したというものである。八重山グループの遭難はひどかったようで、中国江南省へ漂着した際には四人が溺死し、漂着地で一人が病死、蘓州で一人が庖瘡に罹り死亡、さらに中国から琉球へ向けた航海の中でもう一人が熱病で死亡。加えて、土佐での滞在中に急病死した座波三十五才も八重山グループのメンバーであった。座波の遺骸は、南宗寺の後ろの山に葬られているという。


 漂着船の「頭役」は、伊良皆親雲上(いらみなぺーちん)である。この伊良皆が誰であったかは、「宇留麻話」(注・土佐漂着史料)の中に次の様な記事があり、これが鄭崇基であることが分かる。

漂着記録は、漂着者が31人が乗るにしては「小船」なので暑さを凌ぎ難く、どうか上陸させてほしいと訴えている。それに対して、「御陸目付森七郎兵衛」は上陸をさせるならば「南宗寺」に逗留ということになるが、「大勢」なので「仮小屋三四ヶ所」も作らねばならず、警護の人員も増やさねばならない。それで、そのまま船中での逗留ということにして、「市艇壱弐艘」を調達したならばそれに分散させることができ、警備もたやすいので検討してほしいということを、上司に願い出た史料である。…

琉球からの漂着者は一時的な上陸は別として、原則的に全員が上陸できずしかも警護が付いて漂着船中に留め置かれたと推測される。三度の土佐への漂着、滞在期間はいずれも夏を挟んだ時期である。繋留された船中での長期に亘る逗留は、心身ともにつらかった筈である。(土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」)


 伊良皆親雲上=鄭崇基は、土佐に漂着したのは37歳の頃であった。どうしたわけか家譜には土佐に漂流した記述は一行もない。
 伊良皆は波乱にとんだ人生を歩んだ人物だという。

土佐漂流の前に、崇基は中国の福州で「師」について「勤学」していた。家譜によれば、この間、乾隆五十八年(一七九三)に進貢副使正議大夫毛廷柱に随行して北京へも赴いている。

土佐から帰ったあと、家譜によれば崇基は、嘉慶六年(一八○一)に罪を蒙り久米島に流されている。尚灝(注・しょうこう)即位の「恩赦」によって一八○五年に帰郷するが、なにかの「罪」を犯したのである。その後、嘉慶十二年(一八○七)には「大通事」を命ぜられ、翌年(一八○八)那覇を出航するが途中船底の漏水があり那覇に戻り修理した後、再び出航すると、今度は「賊船」二隻に襲われる。これは退けることはできたが、風が「不順」だったので碇を降ろして海上にあると、再び十四隻の「賊船」に周囲を取り囲まれて、やっとのことで逃げのび屋久島に流れ着く。そこで「風浪」にあって船が波をかぶってしまい二名の「水梢」を失ってしまう。その後、漸く福州に着くのが翌年の一八○九年で、公務を果たして琉球に戻るのが嘉慶十五年(一八一○)の五月である。この間、崇基は想像を越える苦労をしているはずである。崇基がこの任務にある間、嘉慶十三年(一八○八)十月に「家統」を継ぐことを許され「東風平(注・こちんだ)間切世名城地頭職」になるが、知行は減ぜられ「十五石」であった。最終的には「知行六十五石」の「総理司」になり「真栄里親方」と称されるが、「鄭崇基はまことにドラマチックな人生を生きた人物の一人だったのである」(土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」)。

 
 土佐藩への恩義 

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      小渡浜に上陸した万次郎たち

これまでは、琉球から土佐への漂着の記録であるが、逆に土佐人が琉球に漂着した例は、あまり聞かない。ただし、船の遭難による漂着ではないが、中浜万次郎が1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸し、豊見城・翁長(オナガ)村に半年余り滞在した。そのとき、琉球側は、丁重に扱ったことが知られている。

琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏は「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題した講演(2015523日)で次のようにのべたことがある。
 18世紀に少なくとも3回、琉球船が土佐に漂着し、保護された。「滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる」という。

琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ長嶺筑登之(ちくどぅん)の琉歌を紹介している。
 「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。

ここには厚い感謝の思いが込められている。
琉球に上陸した万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか、資料がないそうだ。 
竹内氏は「琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない」

 

糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが書いた「ジョン万次郎物語」では、万次郎たちが滞在中、どのような扱いを受けたのか、それは何を意味するのかについて、次のようにのべている。

<万次郎たちの住まいにあてられた家は、徳門家(徳門は屋号、高安家)の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。
 このように、漂流者である3人を特別にもてなすことは、薩摩藩の政策的な配慮にもよるが琉球王府にとっては、漂流者が土佐藩の住民であれば、王府が大事にもてなすべき過去の事情があった。
 17057月、琉球の進貢船が福州からの帰りに遭難して土佐清水の港に4か月間滞留した。役人、乗組員82人が世話を受け、死亡した1人は地元蓮光寺境内の墓地に墓碑も建立して丁重にまつられた。進貢船が帰国(漂着した土佐から琉球への)の際、土佐藩主は狩野探幽画3幅の外に2幅の掛物や尾戸焼陶器などを船に託して琉球王に贈り、船員に対しては多量の食糧品が贈られた。45年前(ママ、145年前)の出来事であった。この度の漂流者は土佐藩に対する返礼の機会でもあった。>
 島袋さんは、第1回目の漂着の例だけをあげている。万次郎が上陸する以前に4回の土佐への漂着があるから、それらを含めた返礼の意味があったのではないだろうか。

 

翁長村に滞在した万次郎ら当人とみられる証言がある。
 
「翁長村に滞在中は毎日素晴らしおもてなしにあずかり、ことに翁長村を出る時、おもてなしとして3人の者に駕籠の手配をして下さった。これは、先年、琉球の者が漂流して土佐に漂着した時、いろいろ介護して下さったので、ご恩に報いるためで、おろそかにしないよう、国王より仰せつけられております。それで、少しも不自由のないようにしてまいりましたが…

 翁長村に滞在した当人とみられる証言がある。
「翁長村に滞在中は毎日素晴らしおもてなしにあずかり、ことに翁長村を出る時、おもてなしとして3人の者に駕籠の手配をして下さった。これは、先年、琉球の者が漂流して土佐に漂着した時、いろいろ介護して下さったので、ご恩に報いるためで、おろそかにしないよう、国王より仰せつけられております。それで、少しも不自由のないようにしてまいりましたが…」

 これは、『西疇叢書(せいちゅうそうしょ)』から中濱博氏が一部を引用して現代語訳にしたもの(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人――』)。中濱氏はこれが誰の証言であるかは記していないが、「琉球王府が万次郎たちに対する処遇がよかったのは、琉球人の温厚ささもあるが、『西疇叢書』によると別の一面をうかがうことができる」として、引用しているので、滞在した当人の証言とみなしてよいのではないか。

お詫び 

第4回目を飛ばして、最終回をアップしていました。改めて4回目をアップしておきます。






 

 



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「首里城再建支援は別枠で」ーー「琉球新報」に投稿

首里城再建は別枠で

 2019年11月14日付「琉球新報」に投稿が掲載されました。以下の内容です。F35の問題は長いので削られました。
             

       20191114付け投稿 
 全焼した首里城の再建に向けた取り組みで、気になることが二つある。

一つは、政府が支援するのはよいけれど、沖縄関係予算とは別枠か、その枠内なのかハッキリしていなこと。もし枠内なら、とんでもない。沖縄関係予算を削るだけで、支援とはいえない。政府は、支援は別枠で出すことを明言すべきである。

もう一つは、各地で災害が相次いでいるから、首里城再建と被災者支援とのバランスをとらなければ、とテレビで何人かが発言していた。しかし、あれかこれかと天秤にかける問題ではない。どちらも重要である。両方とも支援すべきであり、それは可能である。

 先日この欄で糸数剛さんが提案していたように、県民の反対する辺野古埋め立てをやめ、その予算を回せばよい。

財源は他にもある。トランプ米大統領のいいなりで爆買いするステルス戦闘機F35は、1116億円もする。それを100機以上も購入する。この戦闘機は、度重なる事故で性能が疑問視される欠陥機。攻撃性の高い戦闘機で、日本の防衛の基本方針だった「専守防衛」の域を超える。こんな血税の無駄遣いをやめるだけで莫大な財源が生れる。

 政府は、首里城再建も被災者支援もそろって進めてほしい。

 

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琉球から土佐への漂着が結ぶ縁、その5

番外編

5000人の農民の怠業を解決した潮平親雲上


 漂着者の頭役である潮平親雲上(ぺーちん)に関連して興味ある事件のことが『大島筆記』に書かれてある。それは、「十二間切ノ百姓五千人程訴訟」する大事件のことである。島村幸一氏は、潮平親雲上がどのような人物だったのかを詳述し、この大事件について潮平がどのような対応をしたのか、紹介している(
土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」)。

『大島筆記』と島村論文のなかから、そのあらましを紹介しておきたい。

潮平親雲上は、役人として中国や大和に何度も渡航し、キャリアを積んでいる。
乾隆27年(1762)薩摩への赴任途中で海難に遭い、土佐国に漂着した。

潮平はその年の2月まで、前年におきた「十二間切の百姓五千人程訴訟」に対処するために、現地に出張していた。

『大島筆記』の「雑話上」には、次のように記述されている。

「十二間切の百姓五千人程訴訟するに、何れも困究し年貢も上げられず、又給人(知行地を与えられた武士)えの作得(年貢を納めた残り)も得せぬ様に成たるゆえ、箇條々々を立て願出しに、夫を云伏る為、潮平を三司官より呼出し」た。

三司官は潮平に「其捌方書付十枚ほどに認め云付け(た)」。命じられた潮平は「返上申す」と断った。「不届」だとしかられて、再度命じられた。「左様ならば私の存慮の通に致せとならば可参と申す」とのべた。自分の考え通りにしてよいなら引き受けるということ。それで「村々え参り段々様子を見しに、皆髪うつさばき居れり」という状況だった。つまり、村々を見て回ると、みんなが髪を結わずにばらばらにしていたという。

<これは、「百姓」達が髪を敢えて結ばず、非合法的な状態(強訴)で自分たちの主張を訴えていた様子を示したものではなかったか(島村氏)。>


 潮平は「一ケ條許す事有りて許し」た(島村氏は「三ヶ条」としている)。百姓がー日も怠業してはならないと説得し、百姓も納得して髪を結い、鎌を研いで田に出ることになったという。納得したのは、潮平が百姓の要求に応えたからである。

許した一ケ條は「百姓年始節日又は祭日など、必ず豕(注・豚)を用ゆる事也。それが総高70石程の費也。それが無益と有て、上より豕かふ事を停てありし也」。これは王府が豚を飼育し祭祀の時などに用いることを「無益」と決めつけて禁止したもの。潮平は、百姓が日常的に豚を食べることは出来ず、年に5度か3度食べるのは楽しみであるとし、この政策は「無理な事の様に思ひ…爾来の通りにさせしなり」とこの禁止を撤回した。

潮平は「総て上よりは下に情知れにくき者なり。それで只上みから思付の事を云付、又は法ずくめにすると、姦曲(かんきょく、悪だくみ)の者出来る事也」と述べている。潮平は、役人は百姓の実情をよく知らないで、ただ思い付きで法によって縛ることを戒めている。役人でありながら、官僚トップの三司官からの命令であっても黙って従うのではなく、百姓の言い分をよく聞き、みずからの意見をしっかり出してことの解決に当たる気骨ある人物だったのではないか。

 

12間切(いまの町村)といえば、相当に広い地域である。年貢も上げられないほど困窮し、やむにやまれず5000人もの百姓たちが、共同で訴え出たという。この事件は、琉球側の正史等には見られない(比嘉春潮が『日本庶民生活史料集成探検・紀行・地誌(南島篇)』の「解題」)、「極めて貴重な記事である」(島村氏)とのこと。

実は、この大事件について、私が前にブログにアップした「沖縄庶民の抵抗の歩み」のなかで取り上げている。以下はこの拙文からの引用である。

<一八世紀に首里王府でらつ腕をふるった政治家として名高い、蔡温が死去した年(一七六一年)、浦添間切の農民が怠業(ストライキ)を起こした。一八世紀は台風や干ばつが相次ぎ、たびたび飢餓に見舞われ、農村は窮乏化していた。蔡温は、農作業の手引書「農務帳」を配布し、農民への監視や統制を強め、農業生産に励ませる政策をとったことで知られる。
 蔡温の死後、とうとう浦添間切の農民が怠業をおこし、与那城間切も参加して、都合一二間切で五〇〇〇人が怠業に入った。百姓は髪もゆわず、鎌も持たず、仕事も止めていた。とくに農民を怒らせたのは、豚の飼育を禁止する一カ条が王府の禁止令の中にはいっていたことだった。

王庁の計算では、百姓の年始や節日などに用いる豚の費用を計算すると総高七〇石相当費になるので、それが無益なことだとして飼育を停止したのである。百姓は、日常は豚を食べることができないので、一年に三度か四度か食べるのを楽しみにしていた。それまでいけないとあっては、いかに王府が難渋しているからといって、我慢ができなかったのである。
 このような騒動になると、王府にとってかえって大損になるので、三司官は農民に理解の深い潮平親雲上(ぺーちん)を調停役として派遣した。潮平親雲上は、村々を走り回って、豚の飼育禁止の一件は取り止めさせるからとの口約をかわして、百姓を納得させた。このことは、これまでの蔡温政治に対する反省となって、民を自由にし、学問道徳を向上させる一九世紀沖縄の風潮をつくりだす機縁となった。以上は『与那城村史』から紹介した。

琉球王府の時代に、これだけの広い範囲でこれだけの人数が、王府の施策に抵抗して怠業に打って出たことは、特筆される出来事である。>

これは『与那城村史』からの引用であるが、この『村史』記述内容は、『大島筆記』の内容とほぼ合致している。おそらく元史料は『大島筆記』だろう。

『大島筆記』では、12間切が琉球のどの地域であるかは明記していない。だが、『与那城村史』では、「浦添間切の農民が怠業をおこし、与那城間切も参加して、都合一二間切で五〇〇〇人が怠業に入った」と明記している。浦添から勝連半島にまで及ぶ広い地域の農民が立ちあがったことがわかる。

 

村氏は、潮平親雲上の人間像について、以下のように解説している。

<それにしても、琉球でこのような間切を越えた五千人規模の「訴訟」があったことは驚きであるし、潮平が上司である三司官の「其捌方書付十枚ほどに認め」たものを読み、自分の意見を述べ一端は断り、それでも命ぜられると今度は条件を付けて、これを引き受けたことに驚かざるを得ない。それほどに、三司官が書いた「其捌方書付」は「只上から思付の事を云付」というような非現実的なもので、状況に対処できないものだったと考えられる。それ故に、五千人規模の「訴訟」は「皆髪うつさばき居れり」というような切迫したものになったのだろう。潮平は王府の役人であったとはいえ、上司に対しても、また「百姓」達に対しても、決然とした気骨のある態度で立ち向かった人物ではなかったかと想像される。土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」>

島村氏は、この事件に対処した潮平親雲上を気骨ある人物だったと評価している。

以上、『大島筆記』にかかわる紹介は終わるが、拙文で取り上げたのは同書のごく一部に過ぎない。琉球から遠く離れたわが郷里の土佐で、これだけ詳細な琉球王国についての記録が残されていたのは、不思議なくらいである。黒潮が結ぶ琉球と土佐の縁(えにし)だろう。

『大島筆記』は、琉球王朝時代の同時代史料として、とても貴重なものである。琉球について詳細かつ的確に情報を提供した潮平親雲上等の知識と教養、経験の豊富さと、それを体系的に整理しまとめ上げた戸部良煕ら土佐側の人たちの優れた学識、力量が実った著作だと思う。

 文中で『大島筆記』の引用は、島村氏の論文を含めて、読みやすさを考慮して、ひらがな書きで句読点をつけた『日本庶民生活史料集成第1巻』からの引用とした。

終わり     文責・沢村昭洋

 



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アルテで「あがろうざ節」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが2カ月ぶりに9日夜、開かれた。
 首里城が全焼して最初のファクトリーだった。アルテは、首里城の城下にある。火災はちょうど首里城祭の期間中で、首里で古式行列に参加するため、練習や準備をしていた方もいた。みなさん、沖縄の心のよりどころと言われた首里城を失った悲しみと、再建に向け力を合わせることに触れた方が多かった。
 今回のテーマは「抱」だった。
 私は八重山民謡の「あがろうざ節」を歌った。子守歌だから、子どもを抱いてあやす情景が歌われている。
 「あがろうざ」は、「東里」という地名に由来する。石垣の中心部の登野城で、ミカンの木の下に子守りの姉さんたちが集い子守りをしている。腕が痛むけれど、頑張っている。しっかり学問をして、立派な大人になってくださいね、と願う気持ちが歌われている。
             
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  もう7年余り出ているのに、いまだに三線が満足に弾けないとは?
 同じ三線仲間のTさんは「宮古根(ナークニー)」を歌った。味わいのある三線と歌。さすが年季が違う。
 ツレは、ピアノ弾き語りで「花(中孝介)」を歌った。ピアノソロでは、シューマンの「トロイメライ」を演奏した。もしかしたら、これまで聞いたこの曲では一番の演奏だったかもしれない。
          
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 ファクトリ―はこれまで、エントリー料は一人5分以内500円、短い曲なら複数も可能だった。それが、一人1曲500円に変更されたため、以前は2曲、3曲演奏していた方も1曲に絞った。少し寂しさがある。
 来月のテーマは「追」。さてどんな曲目があるだろうか。

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琉球から土佐への漂着が結ぶ縁、その4

いずれにしても、7月の22日に漂流しているのを発見され、大島に曳航されてから10日余りが立って「三四輩」(注・34人の仲間)が上陸を許された所が、洞仙寺なのである。そこが、送別の宴が持たれた場所にもなったのである。

 

「大島筆記 雑話上」によれば、「九月廿五日首途(注・旅立ち)の御祝」の宴が開かれた。「御厚意の至りて難有さ(注・かたじけない)、何の世までも忘れ難く…名残を思へば感情無究」「頻に落涙に及べり」とある。土佐側の厚意にたいする感謝と名残惜しんだ様子が描かれている。

琉球側は「御恩恵、御礼も申盡されぬから、歌曲を作りフクラシの歌(注・かぎやで風節)に合せて、歌ひ舞べしとて、先フクラシを歌ひ舞ひ」、その後、「宜壽須1曲を作り、長嶺その答え歌を作り、いづれも歌ひ、潮平子舞り」とある。

喜びと感謝の気持ちを「かぎやで風節」で歌い舞い、さらに、二人が掛け合いの形で琉歌を詠み、それを「かぎやで風節」の旋律にのせて歌って、年少の潮平子が舞ったという

宜壽須は次の琉歌を詠んだ。
 「土佐の殿金(かね)し 御恩たふとさや 世々ある間や 御沙汰しゃへら」
 (土佐の皆様方の恩義のすばらしさは、この世にある限り語り継ぎます)

それに答えた長嶺は次の琉歌を詠んだ。

「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」
(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることはできません)

琉球側は、琉球に帰った後も、国の人々に歌い覚えさせ、土佐の御恩を忘れないようにしたいを述べたという(「大島筆記 雑話上」から)。


 潮平は良煕に請われて「手跡」(注・筆跡)を求められている。潮平は「忠孝ノ一字ヲ書」き、「人道万事、この2字に帰すとの思いこめたという。

潮平の役人として渡唐のキャリアが度々あり、しかも進貢使節の一割程の者が皇帝に表・方物を献上しに北京へ派遣されるメンバーに二度、入っている。さらには、土佐漂着から14年前の1748年の徳川家重将軍襲封の慶賀のための江戸上り、1756年の冊封の一報を緊急に薩摩に知らせる任務を果たした。同じく「雑話上」に「琉球運天の津へ奥州船漂着し、潮平其用方にて参る」とあり、潮平は「奥州」からの漂着船の対処もしたことが分かる。(土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」)

 

 戸部良煕の随筆集『韓川筆話』(1769年)は全10巻、427話の章段からなる書であるが、第7巻の「朝安気之」には、戸部煕と潮平親雲上とが土佐からの帰還した後に、「小翰」を添えた茶の贈答を相互に行ったことが記されていて、『大島筆記』後の両人の交流が分かって興味深い。また、随筆には『大島筆記』に「船頭雇」と記される永峯筑登之(ちくどん、平世祥)の名も出てきて、戸部と永峯の交流も知れる。永峯は『大島筆記』にも度々登場する人物で、三線を弾き琉歌を謡い、また「唐話」も話す人物である。

永峯は平家の落人伝説を持つ、新参士族である。

『大島筆記』附録に収められた「琉球人和歌」や和文「雨夜物かたり」は、いずれも潮平等の土佐国漂着から28年前に友寄安乗とともに薩摩役人への落書事件によって磔の刑になった平敷朝敏(ママ)に因む作品である。これがなぜ潮平等が携えていたか興味深い。

(この項、島村著「『大島筆記』を中心とする琉球船土佐漂着資料の基礎的研究」から。)


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琉球から土佐への漂着が結ぶ縁、その3

1762年の2回目の漂着


  第2回目の漂着は、宝暦121762)年7月幡多郡柏島沖を漂流していたところを発見され、宿毛大島に曳航されたものである。

土佐藩はどのような対応をしたのか。

注進をうけた土佐藩では、奉行職を命ぜられて高知にいた宿毛7代領主山内源蔵氏篤に其の取り扱方を命じた。氏篤は7月28日に高知を出発して宿毛に帰りその処置をした。この琉球船は10月7日に帰ったが、その間調査団は琉球の国体、人物、風俗、年中行事、官位、朝服、地名、産物、言語、歌等を調査し『大島筆記』にのせている。

氏篤はこの事件の処理をすべて終り10月14日に高知へ帰った。(宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-宿毛湾の海防】)>

藩の儒者戸部良煕(よしひろ)らが、主に「頭役」の潮平親雲上(ぺーちん)から聞き書きして、記されたのが有名は『大島筆記』である。

ここで、潮平親雲上の経歴について触れておきたい。

 潮平親雲上は、乾隆13年(1748)、徳川家重襲位の賀慶使の供として江戸に赴き、同17年、尚穆王即位の恩謝使の使賛官として江戸に赴き、同21年冊封使来琉を告げる飛脚となって上鹿兒(注・鹿が上、兒が下で一つになった字)

22年 接貢船の官舎として渡唐。

乾隆27年(17624月から翌々年の12月まで、琉蔵役を勤める。ただし、鹿児島への赴任途中で海難に遭い、乾隆277月に土佐国に漂着し、同年10月に鹿児島に廻船される。

(島村幸一著「大島筆記』を中心とする琉球船土佐漂着資料の基礎的研究」から)

 

 島村氏の土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」に戻る。以下、この論文からの抜き書きである。
 2回目の漂着は、潮平親雲上以下52人が乗り組んだ琉球楷船(かいせん)が宝暦121762)年4月26日鹿児島を目差し那覇港を出港し、沖縄本島北部の運天港に入港した後、天候が悪く何度も運天港での出港帰港を繰り返し、漸く713日に運天港を出港したものの、翌々日の晩から大風に遭遇し、船の安定を図るために帆柱を切り捨て、柁を折損した状態で土佐幡多郡柏島沖を漂流していたところを7月22日に発見され、宿毛の大島に曳航されたものである。この楷船は、潮平親雲上を「頭役」にして「(琉球の)産物を積み薩摩の琉球仮屋(カリヤ)と云へ荷を上げ、薩摩への払方等」のために、鹿児島を目差した船であった。

船が流されて、山が見えたので、どこの国かと疑っていると、潮平は山の姿から「唐のように見える」と言った。船員の一人は18年前(1744年)に奥州に流されたときの経験から「日本四国辺の地なるべきよし」と的確に判断した。「頭役」等の士族層や船頭以下の水主等の中にも漂流や難船の経験者が相当数いたに違いないという。


 この漂着で意外に思われるのは、この船に乗っていた「船頭主従」以外のメンバーは、潮平の弟、従弟、三男、潮平の「譜代ノ家頼」というように、ほとんどの者が潮平の身内の者か家の者であることである。

「船頭雇」と記される長嶺筑登之(ちくどぅん)という人物も注目される。教養ある人物で「平世祥」という唐名を持ち「但成」(ただもり)という名乗りを持つ士族である。長嶺と潮平の関係は旧知のもの土佐に漂着した琉球楷船の乗組員は、潮平一家ともいえる人々だったと推察される。

長嶺は「元祖」を「平陳慶金城筑登之但記」とする新参士族の「四世」の「支流」(六子)にある者。おそらく鹿児島から那覇に移り住んで、新参の士族になったのだろう。鹿児島と那覇との交易や航海に携わってきた家であると思われる。長嶺は目立ったのか「長嶺人物日本人の様子有て」と不審に思われ尋ねられると、「昔源平の合戦の時平氏の内、琉国へ落行たる者の子孫なる由」と答え、平家の血を引く者だとのべている。

「那覇士族のなかに、平家伝承を持つ家があるのはたいへん興味深く、沖縄本島における平家伝承の記事として貴重である」(島村氏)。

   IMG_5578.jpg 
      記事とは関係ない。幕末に活躍した土佐の3人の銅像


 潮平親雲上は、漂着者の筆頭に名が記された漂着船の「頭役」である。豊富な琉球情報が入った『大島筆記』が成立したのは、主要な情報提供者が豊かな経験と教養の持ち主である潮平親雲上であったことと、その情報を引き出し整理編集した土佐藩の優れた儒者、戸部良煕等であったことによる希有な邇遁ともいえるところが大きかろう。

『大島筆記』によると、潮平は漂着当時53歳。「潮平先祖は浦添の出にて、官は鎖(サス)を勤たり」とある。「鎖」は御鎖之側(おさすのそば)のことで、三司官に次いで表十五人衆といわれる王府の中枢を担う役職のメンバーで、「外国行きの船舶の点検・在番奉行との交渉・外国船渡来(鰯)時の接待などの外交に関すること」などを担当する役職である。唐名は翁士漣、名乗りは盛成(モリシキ)。

第1回目の土佐への漂着者のひとりで、「才府松田親雲上」の子は、潮平親雲上と従兄弟同士の関係にあるという。


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ジョン万次郎記念碑建立記念誌発行される

 ジョン万次郎記念碑が糸満市大度浜海岸に建立され2018年2月18日お披露目式が行われたが、このほど『ジョン万次郎記念碑記念誌』が発行された。
     ジョン万次郎記念碑建立記念誌


 万次郎ら3人は、1851年1月3日(旧暦)糸満市小渡浜(現在の大度浜)に上陸し、豊見城市翁長で半年余り滞在した。万次郎は外国事情やアメリカの技術や文化、民主主義を鎖国日本に伝え、開国と近代化に大きな役割を果たした。近代日本の夜明けは小度浜から始まったとされる。
 地元大度・米須住民を中心に市民の間で記念碑建立の機運が盛り上がり、2012年11月、「ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会」が結成され、活動を広げ、建立に至った。
 記念誌は、期成会会長を務めた上原昭糸満市長の挨拶をはじめ、万次郎直系5代目の中濱京さん、万次郎玄孫の今永一成さん、万次郎が滞在した翁長の高安家5代目、高安亀平さん、中浜万次郎会会長の北代淳二さん、沖縄ジョン万次郎会会長の赤峰光秀さんらが特別寄稿している。
 期成会で活動してきた上原昭、徳元孝進、徳元秀雄、和田達雄(高知県出身)の4氏が対談で、期成会の結成からの取り組みや想い出を語りあっている。
 さらに、ジョン万次郎の研究と期成会のあゆみ、期成会の活動年表、写真で見る建立と式典、行政への要請、講演会、シンポジウムなどさまざまな活動が紹介されている。
 記念誌を読むと、万次郎の功績を称え、その精神を受け継ぐ人材育成ため、記念碑建立に向けて熱意をもって、多彩な活動を繰り広げてきたことがよく分かる内容となっている。
 記念誌は、表紙を万次郎像・記念碑が飾り、A4版、188ページ。各方面からの寄付金で制作されたという。




 













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