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琉球から土佐への漂着が結ぶ縁、室津への漂着

琉球から土佐への漂着が結ぶ縁

 沖縄の西側、東シナ海を流れる黒潮は、太平洋に出ると高知県の沖を流れている。沖縄と高知は古くから黒潮で結ばれた縁があった。かつて海洋国家であった琉球から、中国や鹿児島に行く船が遭難し、流されて土佐漂着したことが、3回はあった。ところが、漂着は4回あったという記録が見つかったという。
 「沖縄タイムス」9月24日配信で「琉球から南に行くはずが…台風で土佐へ 1000キロ流され漂着 19世紀の記録 絵図を発見」と報道した。
 高知市種崎の旧家中城家が江戸期から所有していた資料群「中城文庫」の新資料で明らかになったという。
 <1854年の土佐(現・高知県)室津への琉球船漂着。これまで確認されていた足摺岬近くでの1705年、62年、95年の漂着記録に対し、1854年は江戸期の土佐への漂着では最も新しい。識者は「記録が現存しない土佐漂着は相当数あっただろう。土佐の広範囲に琉球船が漂着していたことが裏付けられる資料だ」と話す。(社会部・下地由実子)>
 中城直正の祖父・直守が記した「随筆六」によれば、「寅年七月」の出来事として、琉球の船が「八重山と申す所へ米漕ぎまわりのため(八重山へ米を積みにいくため)」、出航したが台風に遭い流されたと書く。
 <船は「馬艦(マラン)」。当時のマーラン船は、那覇の士族や有力な農民が船主となり、八重山や宮古から王府へ年貢を運んだ。随筆には「琉球泊村船主具志堅筑親雲上名代」の「四十一 島袋筑登之(シマブクチクトン)」などとルビを振った船主や船員の名、年齢がある。>
 <18世紀の3回が足摺岬なのに対し、約120キロ東の室戸岬近くへの漂着。立正大学の島村幸一教授は「土佐は琉球から漂着しやすい場所の一つ。記録が現存していない漂着も相当数あるはずだ」と指摘する。>
 <絵図では船本体に船室があり、船首と船尾を別に描く。大きさ「四丈五尺二寸」(約13メートル)、幅「七尺」(約2メートル)。琉球国内向けの小規模船で、約千キロ離れた室津まで流されたことが分かる。琉球大学の豊見山和行教授は「船の絵図は貴重。へさきとともを分けた描き方も珍しい」と指摘する。
           黒潮、気象庁
       沖縄と高知を結ぶ黒潮の流れ(気象庁HPから)            
 この漂着は琉球の行政文書「琉球王国評定所文書」にも残り、船員の帰国に関し琉球国王が土佐へ礼をしたという。豊見山教授は「土佐と琉球両方の記録を突き合わせることができ非常に面白い」と評した。>
 中城文庫とは「高知市種崎の旧家中城家が江戸期から所有していた資料群。同家は土佐藩の御船頭方(船や水上交通に関わる人々の管理)で、坂本龍馬など幕末の志士とも交流があった。高知市立市民図書館には、一族が1736年から戦後にかけて記録・収集した古文書や日記、美術・工芸品など約8300点が所蔵されている。」
 以上は「沖縄タイムス」からの紹介である。

 ここで、1854年7月の土佐・室津への琉球船漂着を「随筆六」に記述した中城直守(1812~78年)の孫に当たる中城直正という人物の名前が登場する。この人は、なんと沖縄に滞在したことがあるという。
 「沖縄学の父」として知られる伊波普猷(1876~1947年)の寄稿がある明治期の「沖縄新聞」の原紙など、未発見を含む100点超の琉球・沖縄関係資料が高知県内で見つかった。
 資料を収蔵していたのは、高知市立市民図書館所蔵の資料群「中城(なかじょう)文庫」。  「沖縄新聞」原紙は1906年11月3日付。創刊1周年記念の178号で、両面刷りの3・4面。伊波の寄稿は「伊波普猷全集」著作目録で「未見」とされている論考「おもろの見本」で、代表作「古琉球」などでも取り上げるオモロ3首を、雅号「物外」の名で紹介している。
 沖縄県立芸術大学付属研究所の仲村顕共同研究員が確認した。仲村氏は、沖縄県立中学校(現首里高校)で1902~07年に教頭や校長心得(代理)を務めた中城直正(1868~1925年)に着目。足跡をたどる中で、直正が持ち帰った新聞や教務日誌、絵はがきのほか、琉球に関する江戸期の記録を見つけた(「沖縄タイムス」9月24日配信から)。
 琉球船の室津漂着を記した中城直守の孫が、沖縄県立中学校(現首里高校)で1902~07年に教頭や校長心得(代理)を務めたとは、なんという偶然だろう。なにか、沖縄と高知を結ぶ不思議な縁がここでも伺える。
 話が少し横道にそれた。本題に戻る。

 琉球から土佐への漂着といえば、2回目の漂着の際、戸部良煕(とべよしひろ)が書いた『大島筆記』が有名である。原文はまで読んだことがなかった。今回、改めて沖縄県立図書館から借りてこの書(『日本庶民生活史料集成第1巻』収録)を読んでみた。漂流者からの聞き書きでまとめたものであるが、琉球王国と社会の概要が体系的に記述されており、18世紀琉球の見聞録のような趣がある。

 この記録を読むまでは、なぜ書名に「大島」がつくのか、疑問だった。琉球船は高知県西部の柏島沖に入り、宿毛の大島に漂着した。そこで土佐藩の儒学者、戸部良煕が漂流者かr滞在中に尋問した結果を記録したもの。この大島が書名の由来である。宿毛と言えば、1960年代に5年ほど住んでいたことがある。257年前に、宿毛に琉球船が漂着して滞在したとは思いもよらなかった。少し懐かしさがある。 
 琉球から土佐への漂着がこのように、記録として残されていることに改めて興味を抱いた。すでに、琉球船の3回の土佐漂着について、島村幸一・立正大学文学部文学科教授が研究されて、論考を発表している。この『大島筆記』と島村論文から、3回の漂着の記録について、抜粋して紹介したい。

 島村幸一教授の論考では、「土佐漂着の『琉球人』―志田伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心にー」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄文化研究』34巻))「『大島筆記』を中心とする琉球船土佐漂着資料の基礎的研究」(「科学研究費助成事業{科学研究費補助金}研究成果報告書」)を中心にした。

 琉球船の土佐への漂着記録は、宝永2(1705)年、宝暦12(1762)年、寛政7(1795)年の都合3回とされている。(島村氏の後者の論文では「「琉球船の土佐国漂着は、少なくとも公式記録(藩主公紀)が4回ほどある」としている。ただし、上記の3回以外の漂着は、1854年の室津漂着ではなく、寛永十七年(1640)10月、薩摩から帰路、「難風」に遭い、土佐の佐賀浦に漂着した記録をあげている。島村氏は「記録が現存していない漂着も相当数あるはずだ」(「沖縄タイムス」9月24日配信)とも述べている。漂着記録は、1640年、1705年、1762年、1795年の4回に加え、今回記録が見つかった1854年を加えると5回になる。


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、「柔よく剛を制す」が王国の理念

「柔よく剛を制す」が王国の理念

琉球はもともと東アジアの東南海に浮かぶ小さな島国である。隣国である中国や日本と比べれば、取るに足りない国力しかない。たいして物産、資源にも恵まれない。ましてや軍事力ではとても太刀打ちできるような国ではない。でも、島国だけに大海原を、船を操り航海するのには、長じていた。超大国の中国との進貢貿易をはじめ、日本や朝鮮、東南アジアの国々の間を船で回り、互いの物産を持ち運び、仲介し交易することによって富を得ていた。海洋国家、交易国家の道を歩んだ。

このような交易で栄えるための大前提は、平和な国際環境であり、友好的な国家関係を築くことである。小さな島国にとっては、これらはなおさら必須の条件である。だからこそ、周辺の国々とのつきあいにあたって、何より礼儀をつくし、友好な関係を築くことを重視していた。東アジアの国々と交易を通して「架け橋」となることが、琉球の生きる道であった。


 武力に頼らず、礼を尽くして友好と繁栄をはかるというのは、琉球王国の理念となっていた。そのことを示すいくつかの事例がある。先に紹介したロシアのゴンチャーロフの『日本渡航記』によれば、琉球に刀剣がないという那覇里主にこうたずねた。「『琉球の武器はどんなものですか?』『これです』と彼は扇子を示しながら答えた」という。この本の(注)では、「琉球には『国と国との交渉は扇子で行なう』という意味の言葉があり、扇子は平和の象徴である」と紹介している。

大城将保氏は「琉球のサムレー(士族)は刀のかわりに広帯に扇子一本をさして歩く。相手と会談するときは、扇子を膝にたてては発言するのを作法としていたのだ」(『沖縄戦の真実と歪曲』)と述べている。ここには、小さな島国が、武力に頼らず、他国に礼儀を以って接し、生きるという知恵がある。扇子はそのシンボルといえるだろう。

琉球は五〇〇年にわたり、中国との冊封関係を結び、交流を続けてきたが、中国にも琉球はよく忠誠を尽くす国として知られ「守礼之邦」といわれた。
            
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             首里城の守礼門

一八〇〇年に琉球にきた冊封使の李鼎元は、琉球王府の役人から聞いて、次のように記している。「琉球を盛んにさせるものは徳であって剣ではないとのことである。ああ君子なくして国が運営できようか、私はこれを思うと身のひきしまる思いで、尊敬の念をおぼえたのである」(『使琉球記』)。武器ではなく、徳をもって国を盛んにするという琉球の国のあり方に敬意を表しているのである。

一八五七年、冊封使として琉球にきた周煌の著した『琉球国志略』にもやはり次のように記されている。「小さい国の成り行きをみると、弱いと長らく存在できるが、強ければ速やかに滅びる。琉球の一般は、兵を語ることをあまり好まず」。これは、琉球の人々は戦争や軍事のことを語るのを嫌う、琉球のような弱くても礼節と友好を重視する小国の方が長らく栄えている、ということを物語っている。李鼎元と同様の見方をのべている。


 こうした国のあり方は、琉球王府の理念となっていたことが、王府の文書にも見ることができる。たとえば、明治政府が琉球処分の前に、沖縄に日本の軍事的な拠点として、那覇市に熊本鎮台の第六師団の先遣隊を常駐させようとしたとき、琉球王府はこれに反対する意見を出した。その理由を次のようにのべている(要約)。

(1) 琉球は南海の一孤島にして、いかなる兵備をなしても敵国外患に当たることはできない

(2) 小国が兵あり力ある形を示せばかえって敵国外患を招くもとになり危うい

(3) むしろ兵なく力なく、ただ礼儀柔順をもって外に対し、いわゆる柔能制剛をもって国を保ってきた

 ここには、沖縄のような小さな島国が、軍備をもって対応しようとすれば、かえって危険を招くことになる、礼儀をつくして対応してこそ「柔よく剛を制す」ことになるという立場が明確に述べられている。明治政府も、さきに見たように、琉球処分に際して準備した文書で「琉球は元来文を以て国を治め(る)」国であったことを認めていたのである。


 『沖縄一千年史』の著者である真境名安興氏は、先の紹介したバジル・ホールとナポレオンとの会見で、琉球に「兵備と貨幣なきことを切言せしは実に琉球外交の要諦にして後年に至る迄此主義を一貫せり」とのべ、ここに琉球外交のカナメがあることを指摘している。そして、「琉球は尚氏の初期より殆ど武器を撤去し平和的外交術を以て総ての問題を解決せんとしたるなり。是れ自存自衛の最善なる方法にして亦四百余年間の泰平」をかち得た所以であると強調している。ここで、「貨幣がない」というのは、王府が、琉球を訪れた外国人に物品を給与して代価を受け取らないことに驚いてものであり、これも当時の琉球の「平和的外交術より出でしもの」と指摘している。同書は大正一二年(一九二三)に出版されているが、琉球が武器を撤去し「平和的外交術」で対処したことが「最善の方法」であり「泰平」の道であったと高く評価している。

このように、琉球では、武器に頼らず、扇子に象徴されるような礼儀と善隣友好によって国の安定と平和、繁栄をはかるという立場が、王国の根本的な道筋として根付いていた。これは、琉球王国が、たんに三山統一の後、国内の兵乱を抑え中央集権制を強めるために「刀狩り」をしたとか、平和が長く続いたので武備が必要としなくなったとか、薩摩に支配されて武備も管理されたという問題にとどまらず、武力に頼らず「礼儀柔順」をもって対処することが王国の「理念」にまでなっていたことが示されている。それだけ歴史的に深い背景があるのである。

 

戦闘部隊がいない唯一の県だった

 沖縄は、太平洋戦争で唯一の激しい地上戦が戦われ、戦後は巨大な米軍基地の島となったので、戦前から沖縄はずっと軍事基地の島にされていたかのように、錯覚する人がけっこういる。私自身も、沖縄に来る前は、軍事基地がかなりあったかのように、根拠もなく思いこんでいた。

しかし、事実はまったく違う。太平洋戦争の始まる直前、一九四一年夏まで、「沖縄は常駐部隊も軍事施設も存在しない全国唯一の県であった」(『沖縄県の百年』)。「琉球処分」で、琉球国が廃止されてのち、陸軍省が一八七六年(明治九年)、わが住まいのある古波蔵に分遣隊の兵舎を建設し、駐屯させたことがあった(その後首里に移動した)。しかし、これも日清戦争後一八九六年(明治二九年)に、第六師団分遣隊が九州に撤退した。それ以来、沖縄県は「戦闘部隊=軍隊のいない全国でも稀有の県であった」(前掲書)という。そのため「沖縄県には軍馬一頭」といわれたそうだ。

日清戦争で台湾を植民地として獲得し、台湾が日本の最南端の国境の地となった。軍事的にも重視して台湾に強大な常備軍を配置したけれど、沖縄など南西諸島の防衛には関心がなかったようだ。だから半世紀近くも、沖縄は「軍隊や戦争に無縁の平和で貧しい僻地の地だった」(前掲書)のである。


 それが、中国への侵略戦争が拡大し、太平洋戦争に突入する直前の一九四一年夏になり、沖縄本島の中城湾と西表島船浮
(ふなうき)湾に陸軍臨時要塞が建設された。一九四四年三月には、大本営が戦局の急迫に対応するため、新たな作戦方針をたて、南西諸島に十数個の航空基地を建設し、これを防備するために第三二軍を沖縄に配備することを決めた。県内に一五の飛行場が建設されたが、滑走路や陣地、兵舎など基地に必要な用地はすべて強制収容された。建設の工事にも県民は労務動員されたのである。

サイパンが陥落し、沖縄守備隊は「本土防衛の防波堤」という新たな任務が与えられた。地上戦を想定した実戦部隊の配置と陣地構築が進められ、全島が要塞化されていった。そのあげくが、沖縄は「本土防衛の捨て石」にされ、凄惨な戦場とされ、日本軍による県民の虐殺、「集団自決」の強要を含め、二十万人以上が犠牲となったのである。
       
嘉手納    
         米軍嘉手納基地

さらに、終戦後は米軍による占領と支配、東アジアの出撃拠点として巨大な米軍基地を建設され、耐えがたい被害を受け続けることになったのである。これが、「平和の島」だった沖縄の歴史と伝統に逆行して、「軍事の島」とされたことの最悪の結果である。

太平洋戦争で、郷土が未曽有の戦場となった沖縄は、命と平和を対する思いは、おそらく日本のどの地方よりも強いものがある。それは、戦後、米軍の支配下に置かれ広大な郷土が軍事基地にされ、戦争と隣り合わせの日常をおくってきたことにより、いっそう切実さが増している。この平和への思いは、これまでに見てきたように、琉球王国時代からの武力に頼らず「文をもって治める国」として、東アジアの諸国と交易を通じて架け橋となってきた長い歴史と伝統に深く裏付けられているのである。

 

島国の生きる知恵

琉球が、みずから「刀狩り」を行い、国内では「武器を持たない社会」を作り上げていたことは、薩摩による支配を受けたとはいえ、そこには東アジア世界の中で、武器に頼らず、交易を通じて近隣諸国と平和と友好の関係を保って安定と繁栄をはかろうとする小さな島国の生きる知恵がある。

外敵に備えて多少の武器をもっていたことだけを誇大に評価して、琉球をあたかも江戸時代の日本とあまり違いのない武装国家、武装社会であるかのように見るのは、琉球王朝の実相を逆に歪めることになり、歴史の事実にも伝統にも背くことになる。

沖縄では首里城だけでなく、琉球王朝時代の古式行列、冊封使の行列を見ても、ほとんど武器はない。色彩豊かで華やかである。わずかに槍か長刀のようなものがあるだけである。大和の江戸時代の大名行列とはまるで異なる。琉球が「武器をもたない社会」であったことは、こういう歴史的な史跡や資料、伝統行事、芸能にも色濃く反映されている。

   
 最後に、琉球が、武備に依存しない国、武器を持たない社会をつくりあげた深層にある沖縄精神について、ふれておきたい。それは、琉球弧のなかで生きる沖縄人たちは、争いを好まず、互いに助け合うことをとても大切にする気風があることである。歴史の中では、かつて血で血を洗うような戦さ、争いの時代を経験してきた。しかし、小さな島国の中で、武器を手にした抗争を続けていれば、人々は際限なく傷つき、荒廃し、憎しみの連鎖を深め、衰退の道を歩むことになる。「孤島苦」ともいわれる厳しい自然環境のなかで、生き抜くためには、同じ「生まれ島」で暮らしと人生を共にする人間として、互いに支えあい、困った時には助け合い、共存と共栄の道を探るしかない。

沖縄では、農作業を共同で行う「ユイマール」がとても盛んだった。王府の支配下にあった間切や村(いまの町村と字にあたる)そのものが一つの自治共同体になっていた。「ユイマール」そのものは、農業における狭い地域の共同作業であり相互扶助の取り組みである。だから、本来は社会全体の問題とは直接の関係はない。本土でもかつて「結」があった。しかしながら、沖縄での「ユイマール」は、こうした狭い意味を超えて「ユイマールの心」ともよばれるように、沖縄人の精神構造のなかに、太く長く貫かれている。「ウチナーンチュの肝心(ちむぐくる)」として、気高い気質のようになっている。「いちゃりばちょーでー」=「一度であえば兄弟だ」という言葉にも、やはり相通じるものがある。


 だから「ユイの精神」は、小さな島で生きる民が互いに憎しみあい、争いあうこととは両立しない。平和を愛する心と深く結びついている。琉球弧の中で生きる人々は、長い歴史の中で営々とした生活を通して、体得してきたものかもしれない。

琉球王国のこうした「理念」の根底には、島国に生きる人々のきずな、共生の精神、生きる知恵があるのではないだろうか。多少、独断的ではあるが、そんな気がしてならない。

「琉球孤における幾世紀にも及ぶ対外関係史が我々に教えてくれることがただ一つあるとすれば、それは琉球の人たちが、有史以来、常に『戦わずして勝利を得ていた』ということである。そして、その勝利は常に琉球の人たちの『和』と『礼』によってもたらされる栄光の勝利であった」。琉球を訪れた外国人の見聞記を集めた『外国人来琉記』を編訳した山口栄鉄氏は、その解説のなかでこう述べている。

これらは、沖縄の誇るべき歴史であり、伝統であり、理念である。これらは今日に時代に、沖縄の未来に、そして日本の未来に、さらには東アジアの未来を考えていく上でも、とても重要なことではないだろうか。ここに、琉球の武器をめぐる問題が、たんに過去の歴史の解釈にとどまらない、今日的な意義をもっていることを痛感させられるのである。

琉球の歴史には、素人に過ぎない者が、専門家の論考をまな板にのせて、好き勝手なことを述べた。素人の見当違いの見解やミスもあるだろう。失礼なことがあればお許し願いたい。参考文献は、ほとんど文中に記したので、省略する。             

(おわり、二〇一一年一月八日)



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「武器を持たない国」琉球王国の実像、空手発達の背景

空手が発達した背景にも

ここで、琉球王朝時代に発達した空手のことについてふれておきたい。それは、沖縄の空手の発達と武器を持たない社会は、関係があるとみられるからである。沖縄には古来から「手」(てぃー)という武術があったが、中国の拳法を取り入れ、沖縄独自の武術として、空手が完成されたといわれる。とくに、薩摩による侵攻と支配のあと、大きく発達したといわれる。

伊波普猷氏は「『からて』は武備の衰退と逆比例して発達したに違いない」と推測している。「刀の代りに扇子をもたされた琉球人は、役人や商人の別なく競うて之を学び、いつしか大流行を来たして、遂に喧嘩のやり方まで一変させるに至った」とのべている。

論者によっては、「島津の藩兵の横暴」に対応するため素手で闘うしかなく、士族を中心に空手、古武道が広がったという意見もある。しかし、これには強い異論がある。空手が士族の間で盛んだったというのは事実だが、「琉球人が薩摩の横暴に対して空手を使ってたたかいを挑んだ」という史実は寡聞にして知らない。薩摩に「軍事的に圧倒されたのに加え、琉球の人々は完全に虚脱状態に陥っていた」(玉野十四雄『沖縄空手剛柔流』)というのが、実際のところではないだろうか。なにしろ、国王が交代するたびに、薩摩の支配に感謝し、忠誠を誓う屈辱的な証文をとられていた。琉球の士族たちも薩摩に忍従するしかなかったのが実際のところである。

面白いのは、中国伝来の南派少林拳法は、中国での「反清復明」、つまり清によって滅ぼされた明王朝の復興という、革命を目的とした戦闘的な武術であるという。それが、琉球に伝わると、もっと穏やかな護身術的なものに変化し、舞踊的な要素をもった型に変わったといわれることだ(前掲書)。また、逆に舞踊にも空手の要素が少なからず取り入れられている。沖縄流の空手の発展の要因として、琉球が武器を持たない、戦争がない時代が長く続いたことがあるだろう。

尚真王の時代から、国内で武器が見当たらなくなり、薩摩の支配下で武器を使う必要がなくなって、完全な平和国家となり、「三〇〇年近くこのような状態が続けば、支配階級から一般庶民に到るまで、戦争とか武器に対する考え方が大きく変化」した(前掲書)と指摘されている。

 

組踊に見る時代の様相

もう一つ、武備との関連でふれておきたいのは、琉球王朝の時代に発達した伝統芸能のことである。とくに有名なのは、中国からの冊封使を歓待するために創作された組踊(くみ(うどぅい))である。これは、台詞(せりふ)と歌三線と舞踊を総合した楽劇である。琉球王府では、冊封使が訪れた時や国王や王妃などの年忌には、舞踊や音楽など芸能が上演された。芸能の上演、設営にあたるため臨時の役職として「踊奉行(うどぅい(ぶじょー)」が任命されていた。特に、中国皇帝の勅使として訪れる冊封使を歓待することは、王府にとって国家的な一大イベントであった。

一七一九年の尚敬王の冊封の際に、踊奉行に任命された玉城朝薫(たまぐすくちょう(くん))が初めて組踊を創作したといわれる。以後、冊封のたびに新たな組踊が上演され、数十の作品が作られたのである。これが、なぜ琉球の武器の問題とかかわるのだろうか。

それは、一つには、先にも少しふれたように、王府にとっては、組踊など芸能は、わざわざ臨時の奉行まで任命して演じる国家的な重要な仕事であったこと。また演者は民間の芸人を招き演じさせるのではなく、王府の役人が日頃、芸能の腕を磨き、大事な冊封使の歓待の宴席で堂々と演じる。見事な芸能を披露したのである。ここにも、琉球が、武術より芸能を重視する国であったことがわかる。ここにも、琉球が「武の国」ではなく「文の国」といわれる所以がある。この伝統は、現在まで脈々と受け継がれ、いまでも沖縄が芸能王国だといわれることにつながっているのである。 

  執心鐘入_photo01    

     組踊「執心鐘入」(文化デジタルライブラリーから)
  
    
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc19/sakuhin/index.html

            
 もう一つは、組踊の内容にかかわることだ。それは、琉球王府が平和な世の中になっているにもかかわらず、組踊のテーマは、なぜか武器をもって争う話が多いことである。最も多いテーマは、主君や親が悪者に攻められ、殺される、残された家臣や子どもが、その仇を討つ、という敵討の話である。そこには琉球にも浸透していた忠義や孝行を大事にする儒教道徳の思想が流れている。

「二童敵討」は、有力な按司だった護佐丸(ごさ(まる)が王府に謀反を企んでいるとアマオヘ(勝連の阿麻和利がモデル)に讒言(ざんげん)され、討たれる。二人の子どもが踊り子を装い父の仇を討つ、というストーリーだ。「大川敵討」は、谷茶(たんちゃ)の按司の讒言により大川城が攻められ落城する、大川の按司の忠臣・村原が谷茶城を攻め、主君の仇を討つ話である。敵討物は、だいたいこのようなストーリーである。


 問題は、登場人物が刀を腰に差し、武器をもって城を攻めるなど、まだ武力により争いがあり、そこから仇討が起きていること。仇を討つ側も武器を手に斬りかかり、相手を討ち取るなど、武器を使った殺し合いがまかり通っている。これをどう見ればよいのだろうか。

これは、簡単なことである。つまり、これらの敵討物の組踊の時代設定が、まだ尚真王により国内の武装解除がされる前の時代になっているからである。組踊の内容は、護佐丸の例に見ると、実在の人物をモデルにしていても、ストーリーは史実ではなく創作である。ただ、護佐丸が活躍したのは前にもふれたように、第一尚氏の時代である。

敵討物の組踊は、たいてい時代をとくに明記していないが、設定をみると、まだ按司たちが、各地に居城をもち、武器も所有していた時代であることがわかる。琉球が統一される前の三山時代であったり、統一された後でも第一尚氏の時代である。敵討物は、まだ按司たちが武装し、争いがあった時代でなければ、物語がそもそも成り立たないから当然のことだろう。ただそれだけではない。

玉城朝薫を三度目の踊奉行に任命した尚敬王は、朝薫にはじめて本国の故事をもって戯を作るように命じたという。だから、琉球の古い時代の故事を材料にして組踊が創作されるようになったのだろう。封建社会の秩序をなしている忠義や孝行の儒教道徳を盛り込んだ組踊は、冊封使の歓待のために格好の物語であり、王府にとっても好まれたのだろう。

要するに言いたいことは、組踊などで武器を持ち争う場面がよく登場するからといって、それは琉球が武装国家であったことの証拠にはならないということ。そこには、武装解除される前の王国の姿が反映しているのであり、そこにも時代の変化を見ることができるということである。

 


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、文をもって治める国

「文をもって治める国」

琉球王国のこのような特質を、ひと言で表すのに「文をもって治める国」と表現される。

明治維新に道を開いた薩摩藩の開明派の藩主として名高い島津斉彬は、琉球について注目すべき発言をしている。斉彬の密命を受けて琉球に渡った市来正右衛門が編述した『斉彬公御言行録』は次のようにのべている。

「琉球は武器もなく、まったくの文国(ぶんこく)で商法をもって立っている国なれば、外国人の暴威を凌ぐも易い」(与並岳生著『南獄記』による)。ここには、琉球が武器に依拠した「武国」ではなく、武器に依拠しない「文国」であり、貿易を中心とする「商法」で成り立つ国だという基本的な認識が示されているのである。

これとほとんど同じ認識は、明治維新後の日本政府にも現われている。明治政府が琉球王国を廃止する「琉球処分」に際して、準備した文書には琉球についてこんな記述がある。「琉球は元来文を以て国を治め慶長以後(薩摩の侵攻)は兵を用うることなく、国民兵器を蓄うるを禁じ薩摩より鉄砲を借り以て船艦に備え支那に航するの用に供す」。


 このように、明治政府の認識も、琉球がもともと武力より「文をもって国を治めていた」こと、とくに薩摩に侵攻されて以降は、兵を用いることはない、武器を蓄えることも禁じる国だったというものである。ここには、琉球王国の実像が見事に反映されている。これは、ほぼ同時代の実情を把握したうえでの認識であり、証言力としての意味は重い。

廃藩置県により沖縄県知事として赴任した人たちの証言も同じことを述べている。第一〇代目の高橋琢也知事が、沖縄と本土の士族を対比した見方は興味深い。


         
首里城中秋の宴 
                     首里城での中秋の宴

「内地の旧藩士族は封建割拠の時代に在りて各藩自衛の為と国家有事の日に備ふる為とを兼ねて之を養ひ、平時も武を講じ兵を練り、家居出入必ず兵器を帯び、一士一卒無用の人物を養わざる道理なり、
(しこう)して其士卒の数は全国の比例平民の百分の五に充たず。(しか)るに独り沖縄は士族の数平民の百分の三〇を占む、過当も(はなは)だしからずや。武を廃し兵を置かず、(もっぱ)ら文治を事とするの政策を()りながら、何の必要ありて此の如く(おびただ)しき士族を養ひ置きたるか」。これは大田昌秀氏著『沖縄の民衆意識』から引用した(原著『起テ沖縄男子』。カタカナをひらがなに直し、ふりがなをつけた)。

高橋知事は、大正二年(一九一三)に就任している。同氏は、沖縄で士族がやたら多かったことを問題視しているが、この当時でも、琉球が「武を廃し兵を置かず、専ら文治を事とする政策」をとっていたという認識が常識であったことがわかる。

 
 明治二六年(一八九三年)に、琉球を探訪した笹森儀助の名著『南島探験』にも、興味深い記述がある。笹森は、青森弘前士族だったが、千島列島や琉球列島の西表島、与那国島まで探検し、各島の住民の生活の実態、特に人頭税に苦しむ宮古島、八重山諸島の実態を調べて告発したことで知られる。笹森が琉球を訪れたのは、「琉球処分」で琉球王国が廃止されてから一四年くらいしか経ていない時期だった。まだ王国時代の様相が色濃く残っている時である。笹森は王国時代の武備について、沖縄で聴取して次のように記している(原文カタカナで旧字)。

「或人曰く、沖縄の武具と称するものは概ね玩具に等しく殆んと実用に適するものなし」「武器を廃する年代、旧記を取調たるも明文なし。然とも慶長年代薩州の命に依て廃するならんとの口碑に伝へりと。或人曰く、尚真王大永年中按司の地方に割拠するを廃し、皆聚て首里に居らしめ、兵柄を解散すとあり。又刀剣弓矢之属を蔵して以て護国の具と為すと中山世譜(王府の歴史書)に明文あり」。

笹森が、沖縄にきて調べたのは、まだ王国時代を知る人たちがたくさん生きていた明治中期である。この当時も、尚真王の時代に按司の武装を解散させたこと、さらに薩摩の侵攻と支配によって琉球の武器は廃されたということが常識であったことを物語っている。

琉球の武器をめぐって、「琉球が武器を持たない国だった、というのは、戦後、左翼的な知識人が主張したもので誤りだ」という識者もいる。そんなことはない。いま見たように、琉球が武器に頼らない「文の国だった」というのは、琉球を支配した島津氏の認識であり、明治時代になって日本政府の認識にもなっていた。


 真境名安興氏が、「琉球は尚氏の初期より殆ど武器を撤去し」た、とのべたのは、大正一二年(一九二三)出版の『沖縄一千年史』である。伊波氏が、琉球は尚真王時代に武備を撤廃したとのべたのも、戦前からのことである。いずれも、琉球・沖縄史、沖縄学の大家である。その先達が、国防のための武備が多少あり、倭寇に備えて築城工事をしたことや、奄美大島に遠征したことなど、十二分に承知したうえで、琉球が基本的に武備をもたない国であったという評価をしていることが極めて重要である。

問題は、琉球王国に武器がまったくなかったのか、少しでも保有していたのかということが問題の焦点ではない。日本の江戸時代のように、平和の世が続いても幕府だけでなく各藩まで武装し、武士は日常的に武器を持ち歩き、訓練をする、軍事を軸に据えた政権であり、社会であったのか。それとも、どこかに多少の武器はあっても、たいして役にもたたない程度のものであり、武器を持ち歩くこともない、訓練もしない、軍事専門の機構もない、基本的に武備に依存しない国であったのかどうか、ということである。それによって、国家と社会の特質が規定される。


 琉球の武器をめぐる議論をみていると、社会の特質をどうみるのかではなく、琉球に武器があったかどうか、薩摩侵攻と戦ったのかどうか、などの史実だけに問題を矮小化する議論が横行している感じがしてならない。

「琉球にもこんな兵器もあった」「いざというときには兵士として動員可能な組織があった」などということばかりを強調するのでは、他の東アジアや欧米などの武装国家との差異は見えなくなる。世界の中での琉球の特色ある王国の姿は分らなくなる。武備に依存しない「文の国」「平和の国」という歴史と伝統は幻のように霧散してしまう。「文の国」と「武の国」との違いも見えなくなる。

それは、たとえ話にするなら、アメリカは国民が銃を所持する権利を認めた「銃社会」である。日本は狩猟用などを除き民間の銃所持を禁止した厳しい「銃規制社会」である。といっても、日本でも猟銃など厳格な要件を満たせば銃の所持が認められている。銃の密輸入が横行し、発砲事件も起きている。そのことだけをとらえて、「日本も銃社会である」というのと同様ではないか。アメリカの「銃社会」と日本の「銃規制社会」との違いがわからなくなる。社会の特質がまるで見えなくなる。

 


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、冊封使の見た琉球

中国の冊封使の見た琉球

琉球にもっともたびたび訪れた外国人と言えば、中国人である。五〇〇年間にわたり中国の冊封使(さっぽうし)が訪れていたからである。冊封使の記録にも、さまざまな見聞が残されている。当然のことながら、武器をめぐる見聞は、時代によって大きな相違がある。

一五六一年に来琉した郭汝霖(かくじょりん)は、「人が怒って争い、気持ちが納まらないときは、すぐに刃で相手を殺し⋯⋯使用する兵器は、刀剣と弓矢の類のようで、いずれも強くて鋭い」とのべている(『重編使琉球記』)。まだ武器を使った争いはなくなっていなかったようだ。

一六〇六年に来た夏子陽(かしよう)の記録は、薩摩に侵略されるわずか三年前であり、琉球にとって一大事となる直前の琉球見聞録であり、貴重な史料である(『使琉球録』)。



 夏子陽は、琉球の武器について次のようにのべている。「民間で使用する兵器は、ただ甲冑と刀はかなり堅固で鋭いといわれている。その他の
矛戟(ほこ)はすべて脆弱で体裁だけのものである」。

この時代の武器の状況については、夏子陽より少し前、一五七九年に尚永王の冊封のため、副使として来琉した謝杰(しゃけつ)の見聞も合わせてみておく必要がある。謝杰は「武具もまた、なまくらで古く、数がそろっているだけである」(『琉球録撮要補遺』、夏子陽の『使琉球録』に掲載)と記している。両者の見聞から、当時の琉球の武器は、数の上ではそこそこあっても、古くて、脆弱で体裁だけのものだったことがうかがえる。

夏子陽の記録で興味深いのは、薩摩に侵攻される直前であったにもかかわらず、国の防衛の構えがほとんどなく、冊封使が心配するほどだったことである。

夏子陽は琉球に滞在中、倭(日本)が来冠しようとしており、地方は危うくなっているという知らせを受けて、首里王府側に「どうして国を守る気か」と尋ねたところ、王府高官の法司等は「天険と神とをたのみにいたしております」と答えたそうである。

那覇港口のマガヤーという所は、暗礁が多く、これを自然の要害と見ていた。「天険と神」が守ってくれると平然としていたようである。ここには、古くて脆弱といわれる多少の武器を保有していても、武力による防御体制がまるでなかった。琉球王国の実相が垣間見える。薩摩に侵略されるような切迫した情勢の認識もないに等しかった。

    冊封儀式の再現 
           冊封儀式の再現(首里城)

 冊封使の側は、琉球の防衛をとても不安視していた。王府に対して、倭は残忍貪欲な心をもっているので「備えが必要である」と警告し、対策を手助けしたのである。夏子陽は『使琉球録』で次のようにのべている。

「『幸い、私共がこの国にいるのだから、あなたがたと計画をして、一緒に守りましょう』と、言った。そこで兵を選び、武器を手入れして、要害を拠点にして守らせた。更にわれわれ一行に命令して、兵器を増して防禦の備えをさせた。琉球の君臣は、そこで王舅の毛継祖に琉球兵千人を従えさせて、国北の地の米牙磯仁(今帰仁)を守らしめた。倭船が通過する所だからである」。

「すこし計画をたてて、法司に兵を選び、武器の手入れをさせて待機させた。そこで随行の鉄匠に命じて、堅固で鋭利な器機を準備して、防禦のたしにさせた。のちに倭が近づいても、こちらに防備のあることを知ればあらわれることはあるまい」

夏子陽は帰国してから、琉球の情勢について、強い警戒心を表明していたという。琉球では「日本は、千人近くが、刀を抜き身にして交易をしておりました。琉球はやがて日本に屈服することでしょう」という見通しをのべていた(原資料・一六一二年刊行の『福州府志』。『使琉球録』の訳者・原田禹雄氏の「はじめに」から引用)。不幸にして、この予測は間もなく的中した。



 なぜ、冊封使が薩摩の侵攻を予知できたのだろうか? これは、日本の豊臣秀吉が、一五九二、一五九七年の二度にわたり、明国の征服を企図して朝鮮に侵攻したことから、中国は日本に強い警戒心を抱いていたからである。

しかし、これまで一〇〇年余りにわたって平穏な時代が続いた琉球では、さきに見たように「天険と神」を守りとし、たいした武器の備えもなかった。しかも、武器は長く使わないまま保管するだけでは使い物にもならなくなる。兵士も日頃から、厳しい訓練をしていなければ、実戦で役立たないのは常識である。

実際、冊封使の夏子陽さえ、琉球に渡る際に使う船の防禦の武器は、倉庫から借用すれば費用が節約できると考えていたが、武器、火薬はみな長らく倉庫に収められていて使い物にならないと聞き、みんな作り直したと記しているところである。

薩摩侵攻を前にした琉球王国の武器と防衛体制は、こんな貧弱な実態だった。しかし、これはある意味では当然のことではないだろうか。琉球のような南海に浮かぶ小さな孤島の島国では、国内の兵乱がおさまり、大陸や日本からも遠く隔てられていれば、外国からの侵略の危険もいたって低い。警戒心も薄くなるのは、ある意味自然の流れだろう。

薩摩の侵攻に対して、琉球が多少なりとも抵抗できたのは、冊封使の忠告と武器の整備に対する支援があったからなのかもしれない。


 ただ一つ付言しておきたいことは、琉球の防備が貧弱で、警戒心が薄かったから薩摩に侵略されたのか、という論点についてである。こういう論理に立てば、では軍備を強化し、侵略に徹底してたたかえばよかったということになる。それは、現実を無視した空論になるだろう。つまり、琉球は小国であるがゆえに、いくら防備を強化するといっても限界がある。戦国時代を通じて武器の性能も戦闘能力も極度に高めていた当時の日本の国家、なかでも薩摩藩からみれば、まともに対抗できるような力関係にはなりえない。小さな島国が大国を相手に下手に武力だけに頼って、対外問題を解決しようとすれば、かえって墓穴を掘ることになりかねない。

実際に、琉球が薩摩に武力で徹底抗戦していたとすれば、兵士だけでなく、一般庶民を含めてはかりしれない血の犠牲を生み出して、壊滅的な打撃を受けただろう。当時の琉球にとっては、武器だけに頼るのではなく、東アジアの諸国と交易、交流を通じて平和と友好の関係を築いていくことこそ、小国の生きる知恵だったのだろう。このことは、あとからもっとくわしくふれることになるだろう。



 琉球が一六〇九年に、薩摩に侵攻され、その支配下に入った後から、琉球に来た冊封使の目には、当時の琉球はどう映っていたのだろうか。

一六八三年に来た汪楫(おうしゅう)は「国内に、兵士がいるのをみたことがない」、冊封の日に崇元寺から首里に至るまで、十数歩づつ置きに、2人が向きあい立ち、長柄の槍のようなものを持っていたが、先端の短い鞘の中には「寸鉄もなかった」「弓箭や火器もない。近頃、王城には槍と刀が十数対ある。これは、王の儀衛とのことである」(『使琉球雑録』)とのべている。琉球に来て、兵士を見かけないというのは、中国人にとって考えられないことなのだろう。長槍を持っていても、中身は鉄製ではない、儀礼用のものにすぎない。

薩摩の役人らは、刀を腰に差していただろうが、彼らは琉球が薩摩に支配されている事実を中国に知られないように、冊封使が来ると那覇から去っていまの浦添市の城間(ぐすくま)あたりに隠れていた。だから、冊封使は薩摩の武士を見ることはなかったのである。

一七五六年に来た周煌(しゅうこう)は「国内の兵器はほぼ揃っている」としながら「すべて船艦の海戦のために備えられている」(『琉球国志略』)とのべている。つまり、中国に渡る船が海賊に襲われないために武器を備えていることを示している。それは、自前の武器ではなく、薩摩から借りた武器だったのかもしれない。



 一八〇〇年に来た
()(ていげん)は、琉球の兵刑について尋ねてみたが、王府側は「わが国の者は兵については何も存じません」(『使琉球記』)と答えたという。

一八〇八年に来た斉鯤(さいこん)()(せき)(しょう)は「わが(清)朝に臣事するようになてこのかた、喜びを重ね、潤いを重ね、倶に太平を楽しみ、数百年間に戦争はなく、武備は久しく廃され、講じてはいない」(『続琉球國志畧』)と述べている。「武備は久しく廃され」ているという認識である。「数百年間に戦争はなく」というのは誤りだ。それは、薩摩による琉球侵攻は、中国にひた隠しにしたために、知らないのである。

このように、外国人による目撃の記録は、三、四〇〇年のへだたりがあり、琉球王朝と社会は発展し、琉球をとりまく環境も大きく変わった。琉球がまだ武装していた時代から、国内での武装を解体して以降の時代、さらに薩摩に侵攻された後の時代と、琉球王国の国家と社会の変化と実態が映し出されている。



 これらの目撃談から言えることは、尚真王の「刀狩り」以降の琉球、とくに薩摩に支配されて以降、どこかに多少の武器類が保管されていたとしても、琉球王国が、「武器を持ち歩かない社会」、「武器を見かけることのない社会」、つまり「ほとんど武器を持たない社会」であったということである。そこに琉球王国の際立った特質がある。

こうした「武器を持たない社会」の様子を、与並岳生氏の『新琉球王統史―尚円王、尚真王』で、改めて振り返ってみたい。かなり的確に表現されているからである。

 「按司たちを首里に集居させ⋯⋯地方から引き離すことにより、その按司の直接指揮下の地方軍事力も解体することになったのです。⋯⋯そしてついでに按司たちの武装解除おこなうのです。確かに、首里に集まった按司とその臣下たちが、刀剣を携帯して、首里を闊歩すれば危険この上ない。そこで、すべての武器の携帯も禁ずる措置も取ったのです。それまで、琉球の士たちが近世の日本の武士のように、大小二本を差していたことは、『李朝実録』に収められた漂着朝鮮人たちの見聞記にも見えます。たとえば、尚徳王二年にきた肖徳誠は〈その俗、常に大小二刀を佩び、飲食起居にも身より離さず、刀は本国(朝鮮)の環刀に同じ〉と述べています。この帯刀を禁止したわけです。地方グスクの武装解除とこの刀剣の携帯禁止(ただし衛士たちは除く)は、琉球版刀狩りともいえるものです」。



 琉球は、大名(貴族にあたる)・士族・百姓の身分制度が確立していた。士族は「サムレー」とよばれていた。しかし、大和の江戸時代の武士たちが、常に腰に刀を差し、持ち歩いたのに比べても、まったく異なる様相にある。また、武器を見ることのない当時の琉球社会の様相は、国際社会の常識からみれば稀有の例であった。だからこそ、外国人からも注目を集めたのである。

 琉球の士族は、「サムレー」と呼ばれていても「士族は武士ではなく士大夫(したいふ)の士であり、文官であり丸腰であった」(『那覇市史資料篇第二巻中の七』)。士大夫とは、中国で読書人とも呼ばれ、科挙出身の官僚で文人・地主を兼ねる者を言う。だから「家臣の奉公内容は軍役に服することでなく、文事に秀でた官人たることにあった」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)「サムレー」といっても、琉球士族の姿は、日本の封建社会の武士とは似て非なるものがある

 琉球の士族が腰に差しているのは刀ではなく、扇子だったといわれる。王府の役人、士族が訓練するのは、剣術などではなく、三線など芸能である。大和の武士は床の間に刀を飾るが、琉球は床の間にかざるのは三線だった。

なぜ王府の役人、士族が芸能をするのか。それは、中国の皇帝に臣従する琉球にとっては、冊封使を歓待することは王府の役人にとってとても重要な仕事だったからだ。高良倉吉氏も「冊封使を接待する芸能、踊りなど王府高官が演じた(女性でなく男性)。出世する役人は剣術でなく、芸能を身につけ、磨いた」(二〇〇六年五月二一日、NHK教育テレビ)と指摘している。このことは、琉球王国の実像を知る上でとても大切なことだ。

 
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「武器を持たない国」琉球王国の実像、外国人も驚く武器なき社会

外国人が驚いた「武器持たない社会」

 琉球の「武器を持たない社会」の実像を知る上で、史料の解釈だけでなく、実際に琉球王朝を訪れた外国人の記録、見聞録はとても重要な史料となる。現在から過去にタイムスリップするわけにはいかないが、幸い見聞録をみると、「武器を持たない琉球王国」が驚きの目で記録されている。

 その前に、外国人による見聞録には、琉球がまだ武器を持ち、国内で争いがあった時代の琉球を訪れた目撃証言がある。この当時の社会の様相を見た人の見聞録を見ておくことは、琉球国家が時代の進展によって、どのように変化したのかを見る上でとても重要だ。

一四五六年に朝鮮からきた船が漂流して琉球に着き、四年半過ごして一四六一年に帰国した際の朝鮮人の記録がある。それによると、琉球では「軍士。百余を以って額(一単位)と為し、更日、逓直す(日をかえ交代で当直す)。⋯⋯軍装、甲冑は本朝と異なる無し。鉄を以って片を作る。その薄きこと紙の如し。⋯⋯鉄を以って人面を作り、面上に着す。形は仮面の如し。環刀(日本刀と同じ形)、楯、槍は本朝と異なる無し」など述べている。この時代は、琉球が三山時代を経て、尚巴志によって統一された後、第一尚氏の尚泰久王の頃である。当時は、国内統一がされていたといても、護佐丸・阿麻和利の乱が起こるなど、まだ争乱があった時代である。


 これから二〇年以上たった第二尚氏の時代、三代目の尚真王のころ、一四七八年に琉球に漂着した朝鮮人の記録もある。まだ尚真王は即位した当初で、按司たちの武装解除をする前だった。それによると、やはり「弓矢、斧、
()(鉅刀
)(たち)
、想子((ほこ))、甲冑がある」「軍士は鉄で脛をつつむ」と前と同じような武器のあったことや軍人と武装の様子が記されている。

面白いのは、尚真王の母后がお出かけする「御成」を見たとき、道々「火砲を放っていた」と記録されていることだ。「火砲」というのは、中国で開発された石火矢と同じものだったのではないかとみられる。すでに、このような中国の火器も伝えられていた。琉球がまだ武装した社会であったことがわかる。

伊波普猷氏は、尚真王が即位した当初は、まだ「倭冠が共謀を逞しうした時代だから、武備を全廃するわけにはいかなかった」(「をなり神の島」)とのべている。

尚真王は五〇年も在位し、琉球王朝の黄金時代を築いた。では、いつごろ武器を集めて管理するようになったのだろうか。それは「尚真王治世の中期頃におこなったことであろう」(伊波氏、同)とみられる。


 ナポレオンも驚いた

 それから三〇〇年以上たった時代に、琉球を訪れた西洋人の記録は、武器をめぐる様相がまったく異なっていることがわかる。一八一六年、琉球に来航したイギリスのライラ号の船長・バジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』は特に名高い記録である。

ホールがナポレオンと会見した際、琉球のことを「武器なき国」として紹介し、ナポレオンが驚いたことは有名な逸話である。

「琉球人が武器をもっていないということは一番ナポレオンをおどろかせ『武器というのは』と彼は叫んだ『それは大砲という意味か?小銃はもっていないのか?』小銃もありません、と私は答えた。『では槍も、せめて弓矢も持っていないのか?』私はどれも持っていないと答えた」「ナポレオンは肱をたたき、うわずった声で『しかし、武器がなくて、どうして戦うのか』といった。私は、われわれが見た範囲では、彼らは戦争をしたことがなく、国内的にも対外的にも平和に生活していると答えただけであった」(『仲原善忠全集第一巻』収録の訳文による)。

    publicdomainq-0000244 ナポレオン
      ナポレオン(絵・ダビット)      
 ホールが著書を出版するさい、このナポレオンとの会見の部分は初版にはなかったという。第三版から追加になったので、この話は信用できないという見解もある。でも、ナポレオンとの会見がどこまで信用できるかはわからないが、「武器のない琉球」の様子については、なにも創作する必要はない。なにより、彼は、ナポレオンとの会見の部分だけで述べているのではない。琉球訪問の見聞を記した本文のなかで、これと同じことを書いている。だから、ナポレオン会見の模様の信憑性
とは関係ない。そこにはホール自身の驚きが記されている。

「われわれは、いかなる種類にもせよ武器というものを見ていない。島の人々も、武器は一切ないと断言していた。マスカット銃を発射した時の様子をみれば、火器を知らないことは確かだと思われる」「彼らはわれわれの長剣と短剣(カトラス)にも、またマレーの短刀(クリス)や槍に対しても、まったく同じ驚嘆を示した」「彼らは戦争を経験したこともなく、戦争についての言い伝えも知らないと言っていた」(同岩波文庫版)


 薩摩の侵攻からも、もう二〇〇年余りたっている時点だ。薩摩の支配下ではあるが、戦争のない太平の世が続いていた。だから、どこかに武器が保管されていたとしても、当時の島の人々が、武器を目にすることはなくなっていたのだろう。ホールが武器を見なかったことは確かだろう。薩摩の侵攻から二〇〇年もたてば、人々の中でも、戦争の記憶はもう薄れ、戦争の経験についても語られることはなかったのだろう。

 ホールの記録は、ライラ号とともに航海した船の『アルセスト号朝鮮・琉球航海記』でも、共通している。同書は「犯罪は、島民のあいだではきわめて稀だといわれ、彼らは武器をまったく持っていないらしく、われわれは、戦争道具めいたものはなにひとつ見掛けなかった。われわれの大砲、砲弾、小銃は、彼らにとっては、たいへん驚異の対象らしかった。彼らから武器を取り上げたのは、中国人の策略だったにちがいない」とのべている。中国人が武器を取り上げたというのは、まったくの的外れであるが、武器を見かけなかった事実には変わりがない。


 この一五年ほど後に琉球に来た記録である『ブロッサム号来琉記』(一八三一年)は、琉球が武器を持っていないのか、確かめることが調査の目的の一つだったという。「この島において使用されるような武器というものを一つも見なかったからである」とのべる一方、「里主
)()雲上((ぺーちん))とその他の二,三の人々は大砲も小銃もこの島にあると断言した」と述べている。ただし、その実物をみて確認はしていない。

 琉球を江戸時代の日本と対比した証言もある。『フランス人宣教師の見た一九世紀中葉の琉球』によると、「日本では大小の刀を身に帯びている男たちを多く見かけたのに、沖縄では一人も武器を身に帯びていない。役人たちは、扇子をさしているだけである」。

琉球の士族(サムレー)たちが、腰に刀を差していないで、差しているのは扇子だったいうところに、当時の様相が端的に示されている。


 ロシアの文豪・ゴンチャローフが一八五三年、ロシア艦隊のパルラダ号でプチャーチン提督の秘書官として日本・琉球に航海してきた。琉球では、提督が那覇港に停泊したフレガート艦で那覇里主と会見した様子を伝えている。提督は、日本の幕府からもらった刀剣を見せながら、「『琉球には刀剣があるんですか』と里主にたずねた。『ありません』」と里主は答えたという(『「日本渡航記』)。

 アメリカのペリーは、日本に来る前に琉球に立ち寄っていた。ぺリ―が海軍長官あてに送った上申書で、薩摩の支配について次のようにのべている。「政策上の目的から、島人たちは長い間、武装を解除されていたので、たとえその意図があったとしても、彼らにはその支配者の暴虐な圧制に反抗する手段はなんら持ち合わせていない」(S・W・ウィリアムズ著『ペリー日本遠征随行記』)。琉球が薩摩に反抗しようとしても、武器も持ち合わせていなかったことを的確に見ている。

 


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、薩摩から大砲を借りた

薩摩から大砲も借りた琉球

麻生伸一氏は、琉球についても「島津氏は支配当初から徹底した武器統制を行ってはいなかった」という見解である。しかし、同氏も「ただし鉄砲などの火器類は別である」とのべ、火器類は徹底統制されたことを認めている(「琉球新報」二〇一〇年五月一日付)。そして、史料で確認される最初の武器統制令が出された一六一三年以降、薩摩による一連の武器統制令を、次のように列挙している。

一六一三年、武器改めを行う。とくに鉄砲の改めは厳しく行い禁止せよ。 

一六三八年、渡唐船に日本製の武器搭載が禁止される。

一六三九年、渡唐船の武装化を全面的に禁止される。

一六四三年、「日本」と琉球との武器売買を禁止される。

一六四八年、琉球からの要請のもと渡唐船の武装化が限定的に許可される。

一六五七年、島津氏の役人を除き琉球へ武器類の持ち込みを禁止される。

同年、王府および士族層の火器類をすべて王府所有物として那覇の在番奉行所管理となる。

一六九九年、刀・脇差の修理は在番奉行所を通して島津で行うことが指示される。

最初の令達の際、鉄砲は「王子衆・三司官・侍衆の個人所有は許可する」とされ、「遅くとも一六五七年まで鉄砲を所有していた」と述べている。しかし、もともと薩摩による侵攻まで西洋式の鉄砲は琉球王国で所有していなかったのだから、王府の王子・三司官といっても、それは西洋式の鉄砲だったのだろうか? あったとしても、いくらも個人所有をしていなかったのではないか。しかも、それさえその四四年後には薩摩の「在番奉行所管理」とされている。薩摩侵攻の後。五〇年ほどの間に一連の武器統制令が次々に出されたことを見ても、いかに薩摩が武器を統制していたのかを示す事実である。

重要なことは、このような武器統制以降、「琉球に存在する火器類は減少し、渡唐船に搭載する武器さえも不足するようになる」(麻生氏、同紙)という結果を招いたことである。

琉球は、中国皇帝と冊封関係を結び、進貢貿易を営むことによって、大きな利益を得てきた。薩摩も、貿易による利益を狙って、この進貢貿易に介入し、管理した。しかし、その中国に渡る進貢船、接貢船(進貢使を迎える船)はつねに危険をともなった。というのは、福建省など中国沿岸は海賊が襲う危険な海域だった。実際に、一八〇〇年には、冊封使を送っていく途中で、海賊船が数隻襲ってきて応戦し撃退したこともあったらしい。

だから、琉球の渡唐船は武器を積み込み防備にあたる必要があった。その渡唐船さえ、武器が不足したのでは、薩摩と琉球にとって死活的に重要な進貢貿易に重大な支障が出る。渡唐船の「武器の不足」は、いかに薩摩の武器統制が厳格であったのかを裏付けている。貿易を続けるためには、渡唐船の武装はどうしても必要不可欠なことであった。だから、どうしたのか。結局は「遅くとも一八世紀の後半になると島津氏は搭載用の大砲や鉄砲を貸与して」いた(麻生氏、同紙)のである。

中国から琉球に来る冊封使が乗る御冠(うかん)(しん)には、武官、兵士が一〇〇、二〇〇人といった規模で必ず乗り組んで防衛にあたった。しかし、琉球側の船は、乗り込んだ役人の職名を見ても、武官はまったくいない。海賊に襲われたときは、乗り組む役人や船員たちが兵器を持って戦わなければならない。そのための戦闘の訓練もおこなっていた。これは、薩摩が侵攻した後も同じである。ただし、貿易が薩摩の管理下に置かれてからは、薩摩から大砲を借りて渡唐船に積みこんだ。「軍事演習は薩摩の在番奉行の監視下で(薩摩から)武器を借り出しておこなわれた」(赤嶺守『琉球王国』)のである。

船に乗り込む琉球の役人、水主は、王府の摂政、三司官、薩摩奉行の立ち会いのもとに、次のような内容を含む「起請文」に血判を押して誓約させられた。

「琉球が薩摩の支配に入ったことを話してはいけない」

「武具のたぐいを唐(中国)に売ってはならない」

「唐への往復の際、もし海賊にあった時は、船中の者でよく相談してそれぞれが部署で働くこと。逃げてはいけない」

「右の条項を固く守ること。もし不届きがあれば罰を科す」。 

もし海賊に襲われた時は、誰もが逃げずにそれぞれの持ち場で全力を尽くしてたたかうことを、厳しく義務付けられていたのである。

いずれにしても、琉球が中国に渡るという、危険な航海をするのにも、薩摩から大砲など武器を借りなければいけないという現実は、薩摩支配下の琉球に海賊とたたかう自前の武器もなかったことを、如実に示している。

薩摩支配下の琉球の武器統制の実態については、真栄平房昭氏の論考が的を射ている。「武器統制令が徹底した琉球では、一般に刀を帯びる習慣が無く、剣術などの武芸訓練もほとんど無かった」「幕府法としての武器輸出禁止令が広く琉球にも及び、拘束力をもった」「この法度を背景に薩摩藩は武具の管理統制を強力に推し進め、琉球の支配秩序をコントロールしたことである。支配の苛烈さが増すほど、抵抗手段としての武器の保有を禁じ、安定した支配基盤をつくりだす必要がある。こうした軍備統制のあり方こそ、薩摩支配が存続しえた理由であろう」(『沖縄県史各論編4近世』)。

先に、那覇港に保塁が整備されていたことを紹介したが、それも薩摩の支配下では変化をとげたそうだ。嶋津与志氏(歴史家、大城将保氏の筆名)は次のように指摘している。

「(那覇)湊は往古よりヤラザ森城と三重(みえ)(ぐすく)の南北の砲台で防備されている形になっているが、薩摩のお手内(支配下)にはいってからは石火矢の備えも取りはずされ、いまではあくまで飾りだけになっている」(『琉球王国衰亡史』)

まとめて言えば、古琉球の時代は、尚真王の武装解除の政策で武器は王国に集め、対外防衛の武備として管理した。国内は武器のない社会となった。薩摩の侵攻の後、近世琉球では薩摩による武器統制で、王国の保持していた対外防衛の武器も管理下におかれ、衰退し、進貢船に積む大砲さえ国内にはなかった。


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