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「武器を持たない国」琉球王国の実像、薩摩支配で武器統制

薩摩の支配で武器管理を徹底した

琉球が外敵への防衛以外に「武器を持たない社会」になぜなったのか。尚真王の武装解除に加えて、その要因として上げられるのが薩摩に支配されたことである。薩摩の属国となって「武器を持たない社会」がさらに徹底されて、続くことになったという。

『那覇市史、通史第一巻』では、「尚真代に刀剣弓矢を集積したということは、平常の武器携帯を禁じたことと考えられる。また、薩摩の武力の前に屈服した琉球人は、ますます武器の携帯は許されないことになる」(島尻勝太郎氏執筆)と述べている。

伊波普猷氏も、やはり「島津氏の支配の下に置かれて以来、琉球人はいよいよ武器を使用することが、出来なくなった」(「古琉球の武備⋯⋯」)とのべている。

 大田昌秀元沖縄県知事は、尚真王が武器の携帯を禁じたうえに、「薩摩の『琉球侵略』以後、琉球人の反乱を封じるため薩摩が武器の携帯を厳重に禁止した」(一九九六年、最高裁での意見陳述で)とものべている。

奄美大島の郷土史家、義富弘氏は、琉球の武備について、「尚真王代以降、奄美大島に軍勢を送ったことが史書に記されているように、進貢船などの一部を除き琉球から武備が撤廃されたのは薩摩占領後のことである」と述べている。(『しまぬゆ1、一六〇九年奄美・琉球侵略』)。琉球から軍勢を送り込まれた奄美から見れば、琉球王国の武装が全廃されたといえないのは当然である。だから琉球の武備が撤廃されたのは、薩摩による侵攻の後という見解を示している。

薩摩による琉球の武器統制については、論者によってやはり意見が異なる。著名な歴史家、仲原善忠氏は、琉球を征服した「島津氏も沖縄の武器を取りあげた事実がなかった」という。島津のやったことは「鉄砲所持の禁止」「武器輸出の禁止」の二つだったというのである(『仲原善忠全集第一巻』の「琉球王国の性格と武器」)。


  しかし、仲原氏の主張には納得しかねる点がある。征服者の薩摩が、琉球を長期にわたって占領・支配し、収奪していくために、抵抗が起きないように、軍事力はできるだけ抑え込みたいと考えるのは当然である。もともと、薩摩が侵攻する前に、国内の武器を取り上げ、自国の防衛の備えも貧弱だった琉球に対し、薩摩がその支配下で武器の増強を望むはずがない。

他国を侵略し、征服した占領者が、安定した支配のために征服した国の軍備の強化を望まないことは当然のことである。日本を占領したアメリカも、いったんは軍国日本の武装を解除した。その後、反共の拠点とするために再軍備を進めたが、薩摩と琉球の関係は、戦後日本のように、琉球の軍備拡張を進めなければならない事情はない。

『鹿児島県史2』をみると、薩摩は琉球に侵攻した四年後の慶長一八年(一六一三年)に琉球三司官あての「覚」には、「兵具改を行ひ、鉄炮(砲)所持を厳禁する」の一條があり、鉄砲所持は固く禁じられていたという。だから、近世日本の諸藩が鉄砲衆を編成していた中で、琉球では「鉄砲軍団を首里王府は事実上持たなかった」のである(『沖縄県史各論編4近世』真栄平)房昭論文)。

    那覇港 
        現在の那覇港
 また、「琉球への武具を渡す事」、つまり武器の輸出も禁じていた。寛永一六年(一六三九年)の「覚」は、「兵具の類は船中用心のためにも差渡すを禁ずる」とし、同二〇年(一六四三年)にも「武具類を琉球に賣渡すを禁じている」のである(『鹿児島県史2』)。

明暦三年(一六五七)の家老衆から琉球在番奉行宛ての「掟」では、「刀・脇差・弓・鉄炮ならびに玉薬・具足・とびなしの類を持ち下る儀は停止(厳禁)である、但し在番衆の兵具は、その制限外である」と命じている(『鹿児島県史料 旧記雑録追録一』。『沖縄県史各論編4近世』から)。鉄砲だけでなく、刀、弓に至るまで在番衆を除いて兵具の持ち込みは固く禁じられていた。

これらの事実は、仲原氏がいうように、「薩摩は琉球の武器を取り上げなかった」ということの証明ではなく、逆のことを意味しているのではないか。つまり、薩摩は侵攻した直後から、琉球の武器類の「兵具改」を行い、厳しく点検し、薩摩の脅威となるような鉄砲などを所有することを禁止していた。さらに琉球に新たに武器が渡ることも禁止していた。ということは、鉄砲が戦闘の中心的な武器となった時代に、鉄砲を禁じれば、あとは旧時代の刀剣や弓矢しかない。しかも、琉球は鉄を産出しないので、自国で刀剣などはつくれない。琉球への武器の輸出を二五〇年もの長きにわたって禁じれば、刀剣類さえもほとんど用をなさない状態になるのではないか。


 やはり、薩摩は琉球王国の武器類をその管轄下に置いたというのが実態ではないだろうか。赤嶺守氏は「軍器類は薩摩の琉球在番奉行の管理下にあった」(『琉球王国』)と指摘している。真栄平房昭氏は、琉球における武器の取り引きも、中国へ武器を持ち渡ることも禁止されていたうえ、「琉球の武器は薩摩の在番奉行の厳しい管理下におかれていた。那覇港を出入りする船は、積荷の武具改めを受け、『刀脇差武具之類』の売買は堅く禁じられていた」と指摘している。さらに、「在番奉行所が管理している武器類は冊封使らの眼にふれぬように、浦添の龍福寺へ移管・封印されていたのである」とのべている(バジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』の訳注から)。

実際に、一六五七年、島津家老・島津久通他六人から琉球三司官あての「掟」(五三カ条)は、このことを明確に述べている。「琉球王府の鉄砲、それに付属する弾薬等の道具、そして琉球の人々が持っていた鉄砲は、琉球王府の物としてとり上げておいた。鉄砲等の取扱いについては、今後は在番奉行所の方で(使用許可願い書を)受け取り、修理等も(許可を)受けなさい」と命じている。これらの事実は、薩摩が琉球の武器について、厳格に関与し管理していたことを表している。


  ここで、琉球王国の支配下にあった奄美諸島のことにふれておきたい。薩摩はまず奄美に侵攻し征服したあと、琉球に侵攻した。そして、奄美諸島は琉球から切り離して、自国の直接の植民地にした。この奄美諸島では徹底した「刀狩り」を行ったという。薩摩の厳しい支配と収奪に対する、島民の抵抗を事前に排除するためである。

「とくに鉄砲の管理については⋯⋯厳重に調査するよう命じている。享保二年(一七四二年)の場合、喜界島では鑓一本、鑓穂一本、刀一本、山刀四二本を代官所へ没収した」という具合である(松下志郎著『近世奄美の支配と社会』)。

薩摩による奄美の「刀狩り」は、琉球と同じではないが、琉球に対する武器管理を考える上でも参考になるだろう。

奄美についても、「武器改め」をした際に刀剣類が発見されたから、「武器統制が厳格には守られていない状況がうかがわれる」(麻生伸一氏=琉球大学大学院生、「琉球新報」二〇〇九年五月一日付「薩摩侵攻と武具統制」)という見方がある。だが、それは逆ではないだろうか。「刀狩り」はいかに徹底しても、武器を完全に撤収してゼロにすることは不可能だ。隠そうと思えばいくらでも隠せるからである。「武器改め」を行っていることこそ、武器統制をいかに徹底させようとしたのか、ということを示している。


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、軍事組織がない

なぜ武器を取り上げたのか

尚真王刀狩りは誤り」という人たちが、その最大の論拠としているのは、先に述べた尚真王の事績の記す碑文の解釈である。豊見山(とみやま)和行氏(琉球大学)は、この碑文は「武器をストックして国防に備えたというのであって、それ以外の解釈は成り立たない」(『那覇市史、通史第一巻』)とのべている。といいながらも、「王府は国防用の武器の蓄積とともに、琉球内における武器管理策をも実施していた、というのが真相であろう」とべている。いったい国内での武器管理策とは何だろうか。国家以外にはだれも勝手に武器を持たない、持ち歩かない、ということではないだろうか。それならこのような「武器管理策」こそ、言い換えれば刀狩り」というのではないか。

どうも、外敵に対する武器を集積した事実だけを取り上げて、「武器の没収ではなく国防を強化した」ということを強調する論者は、王府が武器を集めて管理したことの意義を軽視する傾向があるのではないか。尚真王が、各地に割拠していた按司をなぜ首里に集めたのか、なぜあえて武器を集めて管理することに踏み込んだのか、この琉球史上はもちろん、日本史上でもかつてない政策にたいする考察にも疑問がある。


 たとえば、豊見山氏は、各地の按司を首里に集めたのは()按司から在地性を奪い、彼らを国王の膝元に置いて管理を強化すること()国王を頂点とするシステムの中に編成し、絶対的な臣従関係を明確に形成する、ことだったと分析している。

それはその通りであるが、各地に武力をもって割拠していた按司を武装したまま王府周辺に住まわせるのは、王府にとってはのど元に刃を突きつけられるようなものであり、危険極まりない。また、争いが絶えなかった琉球で平和と安定を保ち、中央集権を強化するためには、有力な按司の武装を解除することが不可欠の課題であったはずである。

伊波普猷氏の研究によれば、征服国家である第一尚氏の王朝は、国王七代、六四年の間に、大小の戦争は三九回もあったという。あらゆる反逆的行為に絶えず兵力を動かすような統治方法を用いたので、それが王府にとって財政上も一大負担になったという。

「軍国主義の幣に苦しみ、尚徳の世に至って革命の気分は全沖縄に漲るやうになった」(「琉球史上に於ける武力と魔術との考察」)と考察している。

この軍事優先で対応した第一尚氏をクーデターで倒して出現したのが第二尚氏である。この内乱、争いが絶えず、「軍国主義の弊」が王朝を崩壊させる要因にもなったことを、第二尚氏はそれなりに反面教師としたのではないだろうか。

 琉球王府の歴史書『蔡温本 中山世譜』は、尚真王の事績として次のように記している。「旧制は、地を分かち按司を封す。是由に各城池に據り、互に相争い伐し、兵乱兵乱()まず。王始めて制を改め度を定め、諸按司皆首里に聚居せしめ、兵柄を解散、遥かに其の地を領せしめ、歳に督官一員を遣はし、之を治めしむ」(原文は漢文。引用の読み下し文は、『しまぬゆ1』義富弘氏の論文から)。「兵柄を解散」とは、武装を解除することである。

 同じく王府の歴史書『球陽』も、次のようにのべている。「旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を()()す」以前はまだ按司が各地に城を構え割拠していたと記している。しかし()りに兵戦を重ぬれば群雄を争い干戈(かんか)未だ()まざらん。尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ」と述べている。そして「刀剣弓矢、以護国となすと記しているのである


 群雄が武装し各地に根を張ったままでは、兵乱が止まないので、按司を領地と城から切り離して首里に集め、領地には王府から役人を派遣して監督させたこと、そして、王府が按司たちの武装を解除し、武器は収蔵して一括管理したことを明記している。これらの史書の記述を見れば、「刀剣弓矢の属を蔵め」たというのは、武装を解除したことであり、それは「国防を強化する」ためというより、なによりも、国内でやまない兵乱を治め、平和と安定を築くためであったことが裏付けられている。だから、本来は論争にはなりえないほど、事柄は明確ではないだろうか。

尚真王が武備を撤廃したと主張する伊波氏の考察の中で、一点だけ疑問を抱かせる記述がある。それは、「尚真王は中央集権を断行して、各地の諸侯に首里在住を命じたので、国内は平穏になった。かうして兵備の必要がなくなったので、彼は国中の兵器を悉く(ことごとく)取り上げて了つた」(「古琉球の武備を考察して『からて』の発達に及ぶ」)とのべていることだ。つまり、国内が平穏になったから武器を取り上げたと解釈をしている。


 この解釈には納得しかねる。むしろ逆ではないのだろうか。武装した按司を首里に集め住まわせただけで、平穏になる保証はない。ふたたび兵乱で国内が荒れることのないように、首里に住まわせることと武装の解除は、時間的に少しズレがあったとしても、一体としての政策だったのではないだろうか。その結果として、争いが絶え、平和になったと解釈した方が現実的だし、歴史の真相に近いのではないのだろうか。

尚真王による政策を「刀狩りと解釈するのは誤り」「国防の強化だ」という論者も、その一方では、按司たちの軍事力の解体を認めている。たとえば、上里隆史氏は、尚真王が進めた中央集権の「これら一連の施策は在地首長である按司の軍事力剥奪を意味している。按司の下に編成されていた『按司軍』は解体し、按司とその部下をはじめとした地方支配層が首里王府の中央組織に編入される形となったわけである」(上里隆史著「古琉球の軍隊とその歴史的展開」)と主張している。


 この「軍事力剥奪」や「按司軍の解体」こそ、これまでの歴史家が「刀狩り」という表現で表してきたことの内実を、言い換えただけではないのか。むしろ厳密にいえば「刀狩り」という表現より「軍事力剥奪」「按司軍の解体」という方がより適切だろう。

有力な按司から、武器を取り上げることには、当然、さまざまな抵抗が当然あったことだろう。按司がこれまでの武装したまま戦さを重ねれば、民の血を流し、荒廃をさせるだけである。王府も財政負担に苦しみ、国の安定と繁栄には程遠い。第二尚氏は、クーデターで政権につき、武力による征服王朝ではない。にもかかわらず、国内の武器の撤廃に成功したのは、有力な按司たちの間でも「兵乱はもう止めなければ」という共通認識ができつつあったのかもしれない。争いはもう止め、武器は王府の兵器庫に収めて外敵から国を守る「護国の利器」とすることにしよう。多分、このような説得をし、納得させたのではないだろうか、そんな気がする。

 武装した勢力が各地に割拠して内乱が絶えない国で、統一国家として平和と安定を図ろうとすれば、国内で武装は解除して、軍事力は国家に集中するというのは今日でも世界の常識である。アフガニスタンをみても、武装勢力が割拠しているのでは、戦乱は収まらないし、国家的な統一も実現できないことは明らかだ。

 
 尚真王の国内の武装解除の政策を記した琉球王府の記録の解釈をめぐり、「刀狩りは誤り。国防を強化したのだ」という論点について、若干付記しておきたい。すでにふれたように、琉球国内が統一され、支配が安定したので、対外防衛に軸を移したことは当然であるにしても、当時の東アジアの情勢は、差し迫って外敵による侵略の恐れがあるわけではない。東アジアの国際環境の変化や倭寇による襲来の恐れはあったが、他国から攻められる危険が現実になるのは、一〇〇年ほども後の時代である。

先島から奄美まで支配体制が整い、国内の政治が安定し、対外的にも他国の脅威を招くことがない平和な時代が長く続けばどうなるのか。もはや武器を増強する差し迫った必要性はなくなる。保管している武器も古くなり、劣化するだろう。数だけあっても実戦にはあまり役立たなくなることは容易に想像がつくことである。実際に、那呉(名護)氏の書簡で、武具を「油断して使い物にならなくなった」と述べていたことでも明らかである。

しかも、外敵に対する警戒心はとても希薄だった。つまり、武備を整備し強化する理由、動機づけがあまりなかったのではないか。あとからふれるけれども、薩摩の侵攻についても、冊封使が驚くほど琉球王府は無警戒だった。防衛体制はきわめて貧弱だったのが実際である。とても「国防を強化した」というような状況ではない。

 

 軍事の組織がなかった

 琉球が武器を持った社会であったのか、どうかを判断する上で、大事な視点の一つに、琉球王府の機構や職制を見ることがある。武装国家であれば、それに相応しい軍事的な機構が備わっているはずである。武器があっても、それを使う機構がなければ役立たない。

実際に、まだ尚真王による国内の武備の解除がされてなかった段階では、軍事組織が備わっていたことが記録されている。朝鮮の歴史書『李朝実録』の中には、船が遭難して沖縄に漂着し、見聞したことを記した記述がある。「朝鮮世祖実録」八年(一四六二年)の項には、琉球の城を守る軍士は、城外にいて交代して配備についているとのべ「五軍・統制府・議政司・六曹を設く」と記している。これは、明らかに軍事の機構が整備されていたことを示している。しかし、その後は明らかな変化がある。

 琉球は中国皇帝に朝貢し、皇帝の勅使が来て国王として認証する冊封(さっぽう)関係にあったが一七一九年に中国から冊封使として琉球にきた徐葆光(じょほこう)の有名な『中山伝信録』は、興味深い記述がある。琉球にきて、王府の役人から書き出してもらった王府の管制表を見てこう述べている。「国を運営し、官庁を運営する場合、文武の両系統が共に尊重されねばならない。ところがよくみると、儀衛使と武備司の外に、武官系の役職はほとんど省略されている。軍制と兵仗(へいじょう)がくわしく書いていない」。

これは、王府役人の書き出し方が不十分で、武官系の役職を省略したからではない。王府の機構の上で、武官系の役職、軍制はないから書き出していないのである。

これについて、一七五六年に琉球に来た周煌は「その国(琉球)の兵制、ほぼ農民に任せるという形をとっているようである。五軒の家で一組とし、五組をそれぞれに統率している。(ぺえ))雲上(ちん)()とか(ちく)登上(どうん)(と称する者は、すべて弓矢を習い、家には刀や(よろい)があって、有事の際は、みな平素割り当ててある農民をば、百夫長や千夫長といったふうに統率する」と述べている(『琉球國志略』)。そして、徐葆光が「武官系の役職は、ほとんど省略されている」というのは「すべて文官が兼任していることを、知らなかったのである」と指摘している。これによれば、有事の際は、文官が武官を兼任して、農民を動員する体制はあったことがわかる。といっても、二〇〇年も平安が続けば、あくまで形だけのものだったのではないだろうか。武官専任の役職もないことは確かである。

 
 この当時、日本の江戸幕府の職制をみると、軍事関係の組織が整備されている。甲冑や火薬、鉄砲や槍・弓矢などの製造や修理、保管整備にあたるそれぞれの奉行がいる。常備軍や警備にあたる番方と呼ばれる軍事組織が整備されていた。この封建社会で軍事を担う職制がないというのは、極めて異例のことである。

 沖縄国際大学教授だった宮城栄昌氏は、「沖縄では尚真以後、軍備を廃したので、日本各藩のように行政則軍事の組織はなく、したがって家臣の奉公内容は軍役に服することでなく、文事に秀でた官人(おえかびと)たることにあった。以上のことは日本封建社会に対する沖縄封建社会の著しく異なった点といえよう」(沖縄の歴史)と指摘している。

琉球に軍事組織がなかったことについて、それは「勘違い」という議論がある。この議論によれば、琉球王府には「ヒキ」とよばれる組織があった。「ヒキ」は、船の組織をモデルにして一二チームで編成され、通常は首里城などで行政の業務をこなし、順番が回ってくると貿易船に乗り込み、戦争のときは軍隊の一部隊となった、という。

      
唐船 
             かつての唐船を再現した船(読谷村)
 この「ヒキ」については、すでに伊波普猷氏が解明しているところである。伊波氏は、ヒキとは「政治宗教経済軍事等のあらゆる社会制度を連結した一大統制であった」と指摘している。そして、この「ヒキ」の長官は「勢頭」(船頭)と呼ばれ、いざという時には、国防のために国王の命令によって、首里城や那覇などに各軍勢が守りにつくことになっていた。しかし、伊波氏は、琉球が「その後間もなく武備を撤廃したので、武人に関する名称なども大方意義が変じた」とのべている(「古琉球の『ひき制度』について」)。

 高良倉吉氏も、「ヒキ」が「地上の航海体制」という側面をもち、一定の職制を備えた編成組織であり「琉球王国における国軍編成として軍事的性格をも帯びていたと推測される」(『琉球王国史の課題』)とのべている。同時に「ヒキは((こう))(しょう)()(けん))摂政期(一六六六一六七三年)の王府機構再編、役序列化の過程で形骸化したが⋯⋯」と指摘している。

 琉球が外敵に襲われる危険があるといえば、なにより中国などに渡る進貢船が海賊に襲われる危険である。だから、船に乗り組む船頭を筆頭とする組織が、軍事的にも対処する必要があったことは、いわば当然のことだろう。

とはいっても、「ヒキ」は軍事専門の機構ではない。しかも、琉球王国が廃止されるまで、「ヒキ」の制度が軍事組織的になんの変化もなく存在し、機能していたとみるのも、いかがなものか。また、「ヒキ」がいざという時には軍事も兼務したといっても、常備軍や軍事専門の機構や職制がないこと自体、極めて特異な国家である。やっぱり琉球王国がそれを必要としない政治、社会になっていたためではないだろうか。


 琉球は「琉球王国軍」が整備されていたという視点に立ち、「ヒキ」の軍事的性格を強調する上里隆史氏も、古琉球から近世琉球への変容のなかで「ヒキ」の役割が変化したことを認めている。「古琉球から近世琉球体制へ転換するのは一七世紀後半の羽地朝秀(注・向象賢のこと)の改革以降であり、『ヒキ』もその過程で地位が低下し、縮小・削減が実施されている(高良一九八七年)」と指摘。高良氏らの考察は「古琉球王国の軍隊としての『ヒキ』が、その軍事的性格をいかに喪失していったからを知る手がかりになる」(「古琉球の軍隊とその歴史的展開」)とのべている。

日本では、鎌倉幕府以来、武士が戦時の司令部にあたる幕府を開いて、政権をにぎり、幕府はこの武家政権の政庁となっていた。いわば軍事政権が政治を行ったのであり、行政と軍事はまるごと一体化していた。琉球王府は、このような武家政権とは、政権の性格も機構もまったく異なる独自性をもっているのである。


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「武器を持たない国」琉球王国の実像、薩摩の軍事力と比べると

薩摩の軍事力に比べると貧弱

琉球の武力がどの程度であったのかを示す別の事例もある。豊臣秀吉が全国を統一したあと、朝鮮出兵をすすめた。その際、秀吉は薩摩と琉球合わせて一五〇〇〇人軍役を出すよう命じた。島津義久は、琉球に対して、琉球は戦闘の経験がないので軍役は免除した。その代わりに七〇〇〇人分の兵糧米一〇カ月分を出すことなどを要求した。これは、まだ薩摩が琉球に侵攻する前のことである。この当時から、琉球王国が戦闘の経験がなく、軍役を求めるのは無理である、と薩摩も判断するような実情にあったことがわかる。

だから、琉球王国の武備があったといっても、戦国時代を戦い抜いた大和の幕府や、その中でも有力な大名だった薩摩藩の軍事力に比べると、はなはだ貧弱だったことはいなめない。

 これに対して、琉球が武器を廃止していないどころか、種子島への鉄砲伝来より前に、「火筒」と呼ばれる小型の鉄砲があった、最新の兵器である大砲も導入されていたと強調する見解もある。上里隆史氏(法政大学沖縄文化研究所国内研究員)の主張である。同氏は、薩摩の侵攻の際にも、那覇港の三重城(ミエグスク)の砲台から砲撃していったんは薩摩軍勢を撃退したことがあるとも述べている。
       
三重城 

         三重城(先島への遥拝所となっている)
 
                
 しかし、この「鉄砲」や「大砲」というのは、西洋流の近代兵器としての火器ではなく、中国で使われた「火筒」である。あの映画「もののけ姫」にも登場したのと同種のものだろう。これは石火矢とも呼ばれている。伊波普猷も、砲台から打ち出したのは「石火矢」としている。

確かに、琉球では統一国家が生まれる前に火矢が使われたようだ。「火砲の存在が統一国家の形成を早めた」(上原兼善氏著『島津氏の琉球侵略』)と見られている。といっても、薩摩の琉球侵略の直前に、中国から来た冊封使の夏子陽が琉球の武器についてふれているが、当時の琉球に火器があるとは記していない。詳しくは後から紹介する。上原氏は、「火器は存在していたとしてもわずかで、目に付くほどのものではなかったからではないか」「多くの火器が琉球に常備され、それを基軸とした軍団編成にまでいたっていたとは考えにくい」(前掲書)とのべている。


 それに、なにより火矢が西洋式の鉄砲に先んじて火薬を使った兵器ではあるけれども、西洋式の鉄砲、大砲とは区別してみるべきではないか。種子島に火縄銃が伝わり、戦国時代に日本の戦争の戦略、戦術が一変したように、近代兵器としての銃砲は、その威力や射撃の正確さ、使いやすさなどから、石火矢とは格段な違いがあるからである。

中国で作られていた手銃(ハンドキャノン)と呼ばれる火器は、左手で柄を握り、火門から点火し、複数の矢や弾丸を発射する兵器である。上里氏自身が、この手銃は「命中精度は低く、発射に時間を要した。後に三眼銃などの複管の手銃も発明されたが、火縄銃が登場してからは手銃形式の火器は淘汰されていった」とのべている(上里隆史著「琉球の火器について」、『沖縄文化』第三六巻一号)。


「火筒」があったから、琉球は最新兵器で装備した武装国家であったかのように強調すると、琉球王国の実像からは遠ざかるのではないか。むしろ、「火筒」をはじめ多少の火器も保有はしていても、それは当時の戦国時代を経てきた日本の鉄砲を主力とする軍事力の水準からみれば、極めて見劣りするものであっただろう。

琉球での武具の実情をうかがう貴重な史料として、袋中上人が一六〇五年に著した『琉球往来』がある。このなかで、中国から琉球国王の認証のために来る冊封使を警護するための武具の保有状況について、問い合わせに答えた那呉(ナゴ)氏の書簡が紹介されている。書簡は「武具の用意はありますが、私の油断から使い物にならなくなったものもあり、無念の至りでございます。現在、わずかに残っておりますものは」として、武具を列挙している(訳文は御代英資氏著『沖縄エイサー誕生ばなしー袋中というお坊さまの生涯―』から)。

武具として、重藤(藤で重ね巻きした弓)・漆籠(重藤の上を漆でぬった弓)など弓五百張。矢は櫃(ヒツ)五十合、銃(テヒヤ)大小二百挺、なお銃子(タマ、弾)と硝薬(クスリ)は相当量。このほか、矛、戟、大刀、甲冑三百領などが列記されている。

これをみても、武具はあったといっても多くはない。もう使い物にならなくなり、残っているのも「わずか」であることがわかる。


 上里氏も「古琉球の軍隊とその歴史的展開」(『琉球アジア社会文化研究』第五号)で、『琉球往来』を紹介している。上里氏は、ここでいう「銃」について「『手火矢』だと考えられます」と指摘している。しかも「弓五百張に対し銃二百挺と、その比率が5:2と弓矢の方が多いのです。これは琉球の軍隊が少なからず火器で武装しながらも、その主力兵器がいまだに弓矢だったことを表しています。ちなみに一六〇九年の島津侵攻軍の武装は弓一一七張に対し鉄砲七三四挺と圧倒的に火器が多いことがわかります」と自身のブログで指摘している。このように、琉球にまだ武器が残っていたといっても主力は弓矢で、薩摩は鉄砲が主力である。しかも、琉球にあった「火筒」は、中国の旧式の火器で、島津軍は最新の火縄銃だとすれば、その軍事力の差は格段に大きくなる。実際に、薩摩の軍勢の鉄砲の威力の前に琉球の部隊は撃破された。

武器が劣るだけでなく、戦さのない平和の世が続いた琉球では、戦闘の訓練もほとんどされていなかった。兵力や武器の威力、戦術でも、実戦経験においても格段の開きがあった。だから多少の抵抗はしても、薩摩の侵攻に対して、琉球がもろくも敗れ、攻略されたことが、そのことを雄弁に物語っている。


 ここで一つ疑問がある。それは、那呉氏がなぜ武具を保有していたのかである。本来、冊封使が来る時の「辻堅め」(市中警護)のための武具の用意なら、王府が保管しているのではないのか? 

興味深い記述が『与那城村史』(新屋敷幸繁氏編著)にあった。那呉氏というのは、島津氏の琉球侵攻の前に、勝連半島沖の宮城島の名安呉を領有していて、首里の那呉屋敷には、多くの人が務め、首里役目に任じて、宮城島出身の人もいたという。富有であったのは、領地で造船事業をなし、奄美大島の材木を船材に使い、中国に渡る唐船の建造を引き受けていた。「このような宮城島名安呉村の事業や上納によって、首里で豪族になっていた那呉館(なごのかん))には、国防のための、たいへんな武具を用意していた」という。そして、さきに引用した『琉球往来』の記述を紹介している。


 そのうえで「これらの武具人馬は、もちろん冊封使来琉、すなわち御冠船のときに使うものであるが、半面は、ヤラザ森城の築城のように、万一の場合は外国の侵略に国を守る戦にも役立てようとするものであった」(『与那城村史』)と指摘している。

勝連半島沖の島々は、沖縄東海岸の大和との貿易の一つの表玄関という重要な位置にあった。「武具や、兵法の書『天賦書』などを倉庫に納めて海賊や倭寇の侵入に備えていた。慶長の役には之等の武具は使用しなかった」「この那呉館は島津支配以後次第に衰え没落し、宮城島の名安呉のむらも衰亡してしまった」(親川光繁著『与勝の歴史散歩』)。船の建造や交易も行っていたとすれば「海賊や倭寇」対策のために武器を保有していたのは当然なのかもしれない。

 島尻勝太郎氏は、那呉氏書簡の記述について次のような見解をのべている。「これには大きな誇張があろうが、特定の家には多くの武器があったこと、一般には辻固め(市中警衛か)の為の武器もなかったことを示すものと思われる。要するに鉄を産しない琉球では、武器は多くは輸入に頼り、これを積んで護国の宝としても、其の数は多くはなかったと考えられる」。

いずれにしても、結論としては、護国の利器として琉球王府が保有した武器も、那呉氏のような武具を含めても、数量的にも火器類など質的な面でも、薩摩藩などと比べて、格別に貧弱であったことは確かである。

 

戦闘訓練もなくなる

武器が質量的に劣弱だっただけでなく、国内での抗争がなくなり、平穏な時代が長く続けば、実戦の経験もなく、戦闘訓練もなく、防備もおろそかにならざるをえない。沖縄国際大学教授だった宮城栄昌氏は自著『沖縄の歴史』のなかでこう述べている。

按司たちは「薩摩の侵略戦争の場合にみるように、非常時には軍役の義務を負わされた」「しかし、按司たちは、常時武的訓練を行うことはなかったので、沖縄の防備ははだかにひとしく、それがそれから約一世紀後の一六〇九年(慶長一四)、薩摩の侵略に惨敗を招く結果となった」。

前述の上里氏も、次のようにのべている。「火縄銃で武装し戦国時代を通じて豊富な戦闘経験を積んだ薩摩軍に対し、実戦経験もほとんどなく、弓や手銃など旧式の武器を装備する琉球軍では戦力の差は歴然としていた。防衛軍の配置されていない浦添方面から侵入した陸路の薩摩軍は首里入口の防衛ラインを突破、首里城を包囲した。ほどなく尚寧(しょうねい)は降伏し、わずか数週間で戦闘は終結した」(前掲論文、二〇〇二年)

 
 薩摩による琉球への侵攻を主題として、薩摩で書かれた『薩琉軍談』という著書がある。琉球との戦闘状況など大げさに書かれており史実というより創作といわれる。すべて事実と見ることはできないが、当時の琉球の武備については次のように書かれている。「琉球国では長い間太平の世が続いて武備の装置もなく、油断をしているところに薩摩勢が不意をついて攻め来り」。ここには琉球の実情がある程度反映しているのではないだろうか。

 また、奄美大島代官所勤務の島役人によって代々書き継がれたという『大島代官記』の序文(薩摩侵攻から六〇∼一〇〇年たった一六六九年から一七〇九年の間に書かれた)には、次のような記述がある。「述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか」(『しまぬゆ1、1609年、奄美・琉球侵略』、郷土史家の義富弘氏の訳文から引用)。ここでも、琉球にはまともな武器の備えがなかったことが、奄美の代官所役人らの認識になっていたことがわかる。


 芥川賞作家で琉球史にも詳しい大城立裕氏は、次のように述べている。

「天下平定のために武器をとりあげるのは必要なことであったろう。そして、これを将来『護国の利器』とするためには集中管理したことも、ひとつの遠謀であったかと思われる。しかし、これは結局、死蔵され『護国の利益』(利器だろう)となりえなかった。百年後に島津氏が軍勢をもって寄せてきたとき、この利器は全然生かされず、十日もたたずに敗北してしまったのである」(『沖縄歴史散歩』)。

大城氏が、「尚真王が天下平定のために武器をとりあげたことは必要なことであった」とも述べていることは、重要な指摘である。琉球が武装していたことを強調する人は、「武器取り上げ」自体を全否定することが多いからである。

同時に、琉球が軍備を撤廃して王国として武器をいっさい持たず、まったくの「非武装」だったと強調するのも一面的である。それでは、薩摩の侵攻にたいして「非武装」でまったく武力による抵抗もなかったことになる。それは歴史の事実とは異なる。先に見たように王国として外敵に対処するために、多少の武器を保有していたことは確かだ。しかし、くどいようだが、琉球が国内社会では、士族たちが武器を持ち歩かない、「武器を見ることがない社会」をつくりだしていた。そのことが、当時の大和国家と比べても際立った特質である。


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ジョン万次郎講演会で2氏が講演

 沖縄ジョン万次郎会講演会が14日、豊見城市社会福祉センターで開かれた。新聞に紹介記事が出たこともあってか、たくさんの方が聞きにみえた。
 講演は、中浜万次郎国際協会理事の幅泰治氏が「ジョン万次郎はどのようにして知られていったのか」、同監事の塚本宏氏が「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」と題してそれぞれ講演した。
 残念ながら私は所用があり、途中で退席した。ただ、お二人とも講演の詳細なレジメがあるので、それをもとにして、講演の要旨を紹介しておきたい。
       
ジョン万次郎講演会、2019914

  以下は、幅泰治氏の講演要旨である。
 万次郎の記録は、琉球、薩摩、長崎など各地での取調べ調書、土佐で河田小龍が万次郎から聞きだした「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく)があり、流布本も出されていて、幕府や世間に知られていく。一方、東一郎氏の著書『中濱万次郎傳』や井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』を始め、多くの作家による小説などで波乱万丈の人生が知られていった。歌舞伎、講談、演劇の領域でも、いろいろ上演された。歌舞伎「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね、万次郎の若き日を描く)は万次郎も観ている。教科書やテレビ番組でも取り上げられた。
 万次郎は、異文化を体験し、アメリカの大統領選挙など民主主義の精神を日本に伝えた。人間の平等・友愛を説き、日米親善の扉を開いた。

 以下は、塚本宏氏の講演要旨である。
 万次郎の長男・東一郎は、東大医学部で学んだ(森鴎外と同級生)後、ドイツに留学し衛生学を専攻。内務省衛生局の医務官僚として活躍した。晩年、駐米大使を務めた石井菊次郎の勧奨により、父万次郎の米国の恩人ホイットフィールド船長の郷里に感謝の記念に日本刀を贈呈した。その式典で、後の第30代大統領クーリッジから「万次郎は米国が送った最初の大使だった」との讃辞を受けた。東一郎は1924年、フェアヘブン(船長の郷里)を訪問し、中浜・ホイットフィールド両家の友好のきずなを深めた。1933年には、第32代大統領ルーズベルトから東一郎宛てに親書が届いた。「自分の曾祖父から万次郎の話を聞いた」と日米友好を尊重したい気持ちを伝えた。
  3代にわたり中浜家が民間の草の根交流を続けてきたことは感動的だ。草の根の国際親善は今日まで継続している。
 以上はあくまでレジメに要約であるのでご承知下さい。


 
 
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アルテで「月ぬかいしゃ節」を歌う

 毎月恒例の「アルテミュージックファクトリー」が14日夜あった。
 今回は、知人女性二人が初めて来てくれた。最後まで楽しんでいただいたようだ。
 テーマ「酔」にそってみなさん演奏した。
 越智さんは、トランペットで「舟唄」を演奏し、ツレがピアノでした。
                
9月ファクトリー1
      
 私は、テーマにそって「酒」のつく民謡を考えたが、うまく歌えない。
 14日夜は、前日が旧暦8月15日で「中秋の名月」、実際の月齢は14日夜が満月だ。月の美しさを歌ったツレのピアノとのコラボ で「月ぬかいしゃ節」を歌った。
 三線はミス続きだったが、ツレのピアノに救われた。

             アルテ「酔」「月ぬかいしゃ節」 
  ツレは、ピアノ弾き語りで「スイートメモリーズ」、ピアノソロで「ワルツレント」を演奏した。落ちついた演奏で聴かせたのではないか。
 


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「AMラジオ存続を」の投稿が掲載された

 「琉球新報」9月13日付に、私の投稿が掲載された。「声」欄のトップに扱われた。以下の内容である。
 

 本紙831日付の記事によると、ラジオAM放送を廃止し、FMに転換することを総務省有識者会議が容認することで一致したという。

 私はラジオをよく聴く。とくにワイドFMができてから、沖縄のAM2局ともFMで聴いている。

ところが、ワイドFMラジオ沖縄(ROK)は、よくプチプチと音が途切れる。それにリビングでは入るが、寝室では入らない。問い合わせると、「電波塔との間に高地があるからではないか」と言われた。FM沖縄も時々、雑音が入って聴きづらくなる。NHKFMは車で走っていると電波があまり入らない地域がある。

FM電波の到達範囲が狭い。那覇市内でもこんな状況であるため、県内でAMを廃止し、FMだけにすれば、ラジオ聴きづらくなる人々が多く出るはずである。

沖縄では、ラジオはローカルな情報の発信から聴取者の交流まで、広く親しまれている。

民間放送とはいっても「国民の知る権利」(「放送倫理基本綱領」)に応える役割がある。AM放送は廃止せずに存続してほしい。(那覇市)

  
     AM放送存続を投稿 

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「武器を持たない国」琉球王国の実像、武装解除で平和と安定へ

武装解除で平和と安定へ

戦国時代を経て天下統一した秀吉、豊臣勢を倒して徳川幕府を開いた家康と、琉球の三山統一をした尚巴志、第一尚氏を倒して安定した王朝を作った尚円王とは、ある意味で似た関係にあるかもしれない。しかし、琉球が王府の外敵に対する武備以外は、武装を解除して国内では「武器を持たない社会」をつくったのは、大和で参勤交代など中央集権を強めた徳川幕府でもやらなかった画期的な政策である。歴史上も稀有の出来事である。


 なぜ、琉球では徹底した「武装解除」がおこなわれたのだろうか。琉球で国内を統一した第一尚氏の王朝は、まだ内乱が続いて不安定な支配にあった。その王朝を倒したといっても金丸、後の尚円王は武人ではなく文人であり、武装蜂起ではなく、政治的なクーデターであった。こうして政権を握った第二尚氏の王朝が、有力な按司の武装解除をすることは、その支配と政治の安定のためには、不可欠な政策だったといえよう。新たな王朝に抵抗しようとする勢力を統治するうえで、首里王府だけに武器を集中する必要があったのかもしれない。

沖縄国際大学教授だった宮城栄昌氏はこう指摘している。「按司の刀狩りを行ない、すべて首里城下に居住せしめたのは、元来在地の土豪の性格を有していた按司の王室に対する反抗を止めさせることがねらいであった。これによって国王の専制支配を強化することができた」。


 沖縄史の百科事典と評される『沖縄一〇〇〇年史』を書いた著名な歴史家、真境名安興(マジキナアンコウ)氏は、やはりこう指摘している。各地の城に按司がいて「互に攻伐し兵乱息(ヤ)まざりしを以て、始めて制を定めて諸按司を首里に聚居せしめ、兵柄を解き⋯更に刀剣弓矢の属を集めて之を蔵し、以て護国の具と為さしめ、武備は専ら内訌を絶ちて唯外難に当らしむるを主とせり。是より四〇〇余年の間太平の基礎を築きしも亦理ありと謂うべし」。

「兵柄を解き」とは、武装を解除したことを意味する。兵乱を抑えるため、按司を首里に移住させ、国内の武備を解除したことが、その後の平和と安定の基礎を築いたと高く評価しているのである。


 先に、日本の戦国時代と比較するような記述をしたが、これは実は正確ではない。というのは、日本史上の大和と琉球では、社会の発展段階がまるで違うからである。というのは、日本で大和政権が国内を統一して国家形成を進めたのは、四∼六世紀といわれる。琉球で三山を統一した政権が誕生したのは一五世紀初めであり一〇〇〇年近く遅い。第一尚氏に代わって第二尚氏が成立したのも、一五世紀後半である。その首里王府は、政治組織に、神女組織を組み込むなど政治と宗教が一体化していた。祭政一致の国家であり、古代的な色彩を強くもっていた。琉球史の時代区分では「古琉球」と呼ばれる。社会発展のこのような段階で、すでに国内の武装を解除したということが、特筆されるのである。

ちなみに、日本で国内の武装を撤廃し、武器は国家が所有するようになったのは、周知の通り廃藩置県以降である。

      三重城から 
                 三重城からヤラザもり方面を望む

  外敵に対する防備は?    


 琉球が外敵に対する武器まで、すべて撤廃したのではないことは、その後、一六〇九年に薩摩が琉球に侵攻した時に、敗れたとはいえ、薩摩に抵抗して戦ったという史実からも明らかである。

一七六二年に沖縄から薩摩へ向かう船が土佐に漂着し、土佐藩の儒学者・戸部良熈が琉球人から聴取した記録「大島筆記」でも、琉球王国の武備について次のように証言している。「外国ノ備ヘ、不慮ノ備ヘ武器等、皆(々)国府ニ夫々備ヘアル事ノ由也」。防衛のために武器を国が保管していたことがうかがえる。

琉球王国が、本島だけでなく、奄美諸島から八重山までの琉球弧の島々を支配する上でも、武力をなくせなかったのであろう。国内の武装を解除した尚真王の時代、一六世紀の初めには、石垣島のオヤケアカハチの乱、与那国島の鬼虎の乱の制圧のために派兵し、久米島にも兵を派遣した。次の尚清王の時、一五三七年には、入貢していた奄美大島の與湾大親に謀反の意があるとして、遠征し討ったという。その三四年後の一五七一年、尚元王の時にも、再び反乱が起きて王自身が兵を率いて船五〇余で遠征した。こうして八重山や奄美諸島への首里王府の支配を強めている。国内の武器を集め王府が管理した当時だから、まだそれなりの軍事力を保持していたのだろう。

また、権力を握った階級や政治勢力が反乱を抑え、安定した支配と秩序を維持するために、武力を全廃するわけにはいかなかったであろうことは、古今東西の国家の歴史からみてもわかることである。


  とはいえ、重要なことは、国内で武器を取り上げ、統治が安定すれば、首里王府が保持する武備そのものも、増強する必然性がなくなってくることである。もともと琉球は、大陸や日本本土からも遠い南海の海中にあり、容易に外国からの侵略を受けにくい恵まれた地理的な環境にある。しかも、三山時代から中国の冊封体制に組み込まれ、中国皇帝の臣下となっていた。琉球王国は、これを背景にして中国と東南アジア、朝鮮、日本との中継貿易を国家的な事業としてすすめる交易を繰り広げていた。国際的な交易は、平和であってこそ成り立つ。東アジアの諸国との友好と平和の関係がなにより大事な要件である。当時の琉球は、他国と武力で対立するような国際環境でもなかった。対外的にもあえて武装を強化しなければならない必然性はない。

国内で争乱があった時代は、競い合うように、城塞を固め、武器を増強していた。実戦経験をもつ武人もたくさんいただろう。だが、もはや国内は「武器を持たない社会」となり、長く太平の世が続けば、どうなるのか。武器を「護国の利器」として保管していても、武備は古くなり、形だけのものになり、脆弱化していっただろうことは容易に想像がつくことである。

ただし、琉球が国内では武器の取り上げの一方で、外敵に対する防御体制を整備したという事実もいくつかある。これはどうみればよいのだろうか。


 尚真王の息子の一人である尚清王の時代、一五四九年に首里城の増強の工事をおこない、一五五一年には那覇港口に砲台を備えた「ヤラザもり」と呼ばれる保塁をつくったという。これは、主に当時、中国沿岸を荒らしまわっていた倭寇の襲撃に備えるためだったようだ。実際に倭冠が那覇港の砲台の下に現われて、退散させたことがあったという。

伊波普猷氏は、これに関して「尚真王は国内が平穏になった為に、武備を撤廃したとはいへ、その次の時代には、城廊を拡張したり⋯⋯ヤラザもりに築城したりしたのを見ると、外冠などに対する相当の武備があったことが知れ、清、元(尚清、尚元)二代に各一回大島(奄美大島)の反乱に対して、兵船を繰出したのを見ても、属島に対する多少の警備があったことが知れる」(「古琉球の『ひき制度』について」)とのべている。

 伊波氏がいうように、外敵にたいする多少の武器を保有し、那覇港の砲台など整備したりしたことは事実である。といっても、やはり外寇などに対する「相当の武備」「多少の警備があった」程度ではないだろうか。

 


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「武器をもたない国」琉球王国の実像、刀狩りはあったのか

 琉球王国は「武器をもたない国」といわれていた。ただ、「それは間違いだ」という学者もいる。ではその実像はどうなっているのだろう、と関心を持ち、2011年1月に前の「ココログブログ」でアップした。ところが、ブログを開いてすぐ読めるのは要約だけで、本文はダウンロードしないと読めない形になっていた。「わざわざダウンロードしなければならないならまあいいや」という方もいらっしゃっただろう。それで今回、ダウンロードしなくても全文がすぐ読める形式で「FC2ブログ」に再度アップすることにした。
 関心のある方はお読みいただきたい。

 「武器を持たない国」琉球王国の実像

目次

はじめに                                  2

尚真王による「刀狩り」                          2

刀狩り」は誤りか?                           4

武装解除で平和と安定へ                        5

外敵に対する防備は                           6

薩摩の軍事力に比べると                        8

戦闘訓練もなかった                           10    

なぜ武器を取り上げたのか                      11

軍事の組織がなかった                         13

薩摩の支配で武器管理を徹底した                  15

薩摩から大砲も借りて訓練した                    17

外国人が驚いた「武器を持たない社会」               19

中国の冊封使の見た琉球                        22

「文をもって治める国」                           25     

空手が発達した背景にも                         27

組踊に見る時代の様相                          28

「柔よく剛を制す」が王国の理念                     29

戦闘部隊のいない唯一の県だった                    31

島国の生きる知恵                             32

 

はじめに

沖縄を訪れる大半の人が、世界遺産の首里城を見る。見たほとんどの人々が、「これは戦さのための城というより宮殿だ」と思うだろう。大和というか本土で、天守閣をもつ城を見た人は、その違いに驚くに違いない。首里城も石垣は高く築かれていても、曲線を描いて美しい。守礼の門をはじめ、正殿などそれぞれの建物はカラフルで華やかさがある。なにより、本土の城には必ず、刀や槍、鉄砲、鎧(ヨロイ)など武器、武具が陳列されているが、首里城でそれを見つけるのはむつかしい。そこには、戦さの血なまぐさい臭いはまったくない。

この宮殿のような、優美な首里城の姿には、日本の封建時代とはまったく異なる琉球王国の特質が象徴的に示されている。武器を見かけない首里城は、宮殿を華麗に見せるために物騒な物を隠しているわけではない。「中国式の正殿だから本土の天守閣とは違う」というのは、そのとおりだが、それだけではない本質的な問題がある。それは、琉球王国はおよそ五〇〇年ほど昔、国内で「刀狩り」というか、武装解除が行われてから、世界でも稀な「武器を持ち歩かない」「武器を見かけない社会」だったからである。首里城で戦さの臭いがしないのは、琉球王国の歴史に深いかかわりがある。


 「武器を持たない国」と言った場合に、二通りの意味が含まれるだろう。一つは「武器を持ち歩かない国」ということだ。つまり、大和では、武士が腰に刀を差しているのが当たり前だったが、そのような刀、武器を誰もが持ち歩かない、丸腰でいる社会だったということである。もう一つは、「国家として武器を保持しない国」という意味である。琉球の場合は、どうなのか。どちらか一方の意味ではない。両方の意味が含まれるだろう。といっても、琉球王朝の時代、「琉球はまったく武器がない国」「非武装の国家」だったのかというと、そう単純でもない。「刀狩りをしたというのはウソだ。国防を強化していた」という議論もある。実際はどうなのか? その実像について、自分なりにさぐってみたい。

「琉球が武器を持たない平和の王国」だったのかどうかという問題は、今日の日本の平和と進路をめぐる議論とも重なり合っている。それは、沖縄が米軍によって東アジアの要石とされ、一大軍事拠点の島になっているからである。だから、琉球が「武器を持たない平和の島」の歴史と伝統をもっているのか、そうではないのか、という議論は、決して過去の歴史の解釈の次元にとどまらない問題を秘めている。現在の日本の平和や防衛問題ともかかわるだけに、政治的な立場によって、かなりイデオロギー的な色彩をおびているところに、ややこしさがある。この問題をどう考えればよいのか、真実はどこにあるのだろうか。この問題について考えてみたい。

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                            首里城

尚真王による「刀狩り

 琉球王国の武器をめぐる問題で、初めに強調しておきたいことは、琉球の歴史の流れの中で、捉えるということである。というのは、琉球の社会と国家の発展、変容とともに、武器をめぐる問題も大きな変化をとげているからである。そんなことは、当たり前だ、わざわざことわるほどのことではない、といわれそうだ。でも、いろいろな論考を読んでいると、どうも琉球王国の歴史的な変化が軽視されているのではないか、と思わざるをえないことがしばしばある。だからあえて自明のことだと思われることであっても、注記しておきたい。

 琉球は国家が形成されて当初から、武器を持たない社会であったのではない。それは、琉球は、日本の歴史からみると、社会の発展に数百年の遅れがある。沖縄本島では、一一世紀頃になり、按司(アジ)と呼ばれる豪族のような地域の支配者が各地に出現した。按司たちはグスク(城)を築き、武装し、抗争を繰り返していた。そして、一四世紀には中山、北山、南山という三つの国に収斂されていった。この時代を三国が対峙していたので「三山時代」という。

いわば、琉球の「戦国時代」とも言える。琉球が、大和の歴史と大きく異なるのは、三山とも、競い合うように中国の明皇帝に朝貢していたことである。中国皇帝に臣従し、三山のそれぞれが国王として任命される冊封(サッポウ)を受け、中国と貿易をしていたのである。


 当時、琉球のような南海の小さな島国が三山に分かれて争っていることに、明皇帝も気をつかったという。琉球に派遣していた使者から「琉球の三王が争いて農を廃し民を傷つく」と聞き、皇帝はこれをあわれみ、「戦を罷め民を息ましめよ」とさとしたことが記録されている。皇帝の冊封関係にある三国が、争いを続けて国土と国民を荒廃させることを心配するほどだったのだ。三山時代は一〇〇年くらい続いたが、終わりを告げるのは一五世紀になってからである。

中山国の国王となった尚巴志(ショウハシ)が、一四一六年に北山を滅ぼし、一四二九年に南山を併合して琉球を統一した。琉球が一つの王朝のもとに統合されて、国内が分かれて相争う時代は幕を閉じた。この「第一尚氏」と呼ばれるこの時代は、まだ各地に按司が割拠し武装していた。そして、国内の兵乱が絶えなかった。

一四五三年には、王位継承をめぐり王子らが争う「志魯・布里(シロ・フリ)の乱」という内紛が起き、首里城は焼けるという事件さえあった。
(注)高瀬恭子氏から「志魯・布里の乱はなかった」という論考が出されており、わがブログでも紹介しているので、関心のある方はそちらを見ていただきたい。
 


 一四五八年には、有力な按司同士が争う「護佐丸(ゴサマル)・阿麻和利(アマワリ)の乱」が起きた。勝連城の阿麻和利が、対立する中城城の護佐丸が反逆を企んでいると王府に告げ、王府の命を受けて護佐丸を討った。さらに阿麻和利は、首里城を攻めようとしていると王府から疑われ、王府軍の攻撃を受けて敗北した。国を揺るがすような兵乱だった。

現在、世界遺産に登録されたグスク群がある。このうち、護佐丸が座喜味城を築き、中城城も彼が拡張した城である。勝連城跡は阿麻和利の居城だった。これらの城跡を見るだけで、当時、有力な按司たちは、まだ堅固な城塞を構え、武装して強い勢力を保っていたことがうかがわれる。

中でも、護佐丸は徳之島、奄美大島を支配下に引き寄せ、大和から武具を輸入していたという。琉球が統一国家になっていたとはいえ、有力な按司は、奄美諸島にまで支配圏を伸ばし、大和などと貿易も行い利益も得ていた。琉球王国内はまだとても不安定な状況下にあったのである。

この後、一四七〇年に、第一尚氏の七代目の尚徳王の時、農民上がりで、王府に仕えていた金丸のクーデターによって、尚徳は王位を追われた。これにより、第一尚氏の王統は幕を閉じ、金丸が王位につき、尚円王を名乗り「第二尚氏」の時代に入る。


 第一尚氏の王統が崩壊した要因について、沖縄学の父とよばれる伊波普猷(イハフユウ)氏は次のように指摘している。「(中山の)征服国家は被征服者の処分法その宜しきを得ず、巴志の没後内乱と外征とに疲れて、勃興してから僅々六六年にして崩壊した」のである(伊波普猷著「古琉球の武備を考察して『からて』の発達に及ぶ」)。

つまり、中山王が北山、南山を征服して統一王国をつくったが、征服された者たちの統治方法が適切ではなく、尚巴志の死後、相次ぐ内乱と外征に疲弊したことが根源となって、短い期間で王朝が崩壊したというのである。これは、鋭い分析だと思われる。

 琉球が、「武器を持たない国」になったといわれるのは、このあと、第二尚氏の王朝になって以後のことである。尚円王の息子である尚真王が、三代目の国王として即位してから、数々の画期的な改革を行った。それは、琉球王国の黄金時代といわれる繁栄をつくりだし、その後、三〇〇年余にわたる安定、存続の基礎となったのである。

改革の柱の一つが、中央集権制度を確立し、按司たちの武装を解除したことである。これは、琉球の歴史の中で、劇的ともいえる重要な変化である。尚真王の事績を記した「百浦添欄干(モモウラソエランカン)乃銘」や一五二二年に建てた「国王頌徳碑(ショウトクヒ)」がその事実を伝えている。

尚真王は「専ら刀剣、弓矢を積み、以て護国の利器と為す」と記されている。琉球王府の歴史書である『球陽』も、尚真王は「刀剣弓矢の属を蔵め、以て護国の具となす」と書いてある。

この碑文や歴史書の文言は、国内の武装を解除した、つまり「刀狩り」を行ったというのが、かつての通説だった。伊波普猷氏も、琉球は「長い間の内乱にこりごりして武備を撤廃した」、だから「沖縄はもろくも(薩摩に)負けた」(『沖縄歴史物語』)という解釈をしている。そして、まだ各地に割拠していた地方の支配者である按司を、支配する地域から切り離し、すべて王都である首里の城下に住まわせ、中央集権を強化した。

 

「刀狩り」は誤りか?

ところが、この解釈は誤りだという説が、琉球大学の高良倉吉氏をはじめ何人かの歴史学者から出されている。その論者たちの見解はこうだ。「史料を忠実に解釈すると、武器を蓄積し、いざというときに備えて国を守る体制を強化した」ということだ。さらに、碑文などは、尚真王が武器を「護国の利器」としたという記述に続いて「この邦の財用、武器は他州の及ばざる所なり」と記されており、「この防備体制は他国に自慢できるほどのものである、ということにしかならない」(高良倉吉著『アジアのなかの琉球王国』)と言う。

 すぐれた高校向け歴史教科書『琉球・沖縄史』を書いた新城俊昭氏も「『尚真時代に琉球は武器を撤廃して平和国家を宣言した』と説明した書籍もあるがこれは正しい解釈とはいえない」と記述している。


 尚真の事績を示す碑文などの記述は、確かに武器を撤廃したとは読めない。武器を「積み」「蔵め」とあるから、武器を集めて王府が武器庫に貯蔵し管理した、それを、外敵に対する備えのための「利器」としたというのは、ある意味で合理的な解釈であると思う。

とはいっても、国内の武器を集め保管するということは、兵乱がおきないように按司たちの武装を解除したということである。それはまた、集めた武器を外敵に対処するための「利器」としたということとは何ら矛盾するものではない。いや、むしろそのように解釈することが合理的である。伊波氏もやはり「内乱の恐れは全く無かったが、外冠に備へる必要はないでもなかった」(「古琉球の武備⋯⋯」)と指摘している。

 著名な歴史家の仲原善忠氏は、早くから「尚真王は積極的に武器を取りあげも放棄もしない」、行ったのは「国防の強化である」と主張していた。しかし、仲原氏はその一方では、琉球の国内では実態として「一五世紀ごろから武器がなくなった」ことを認めていることは注目される。「尚真の時代から、この国の官吏はすべて丸腰となっている」「日本が武人支配の時代で、常時二本の刀を帯し、これが風俗的に固定したのと対比した時、異様に感じられるのは不思議でない」とのべている。


 また、各地の按司を首里に居住させた際に、「武人の職能を取りあげ、単なる位階と変質させた」こと、日本のような「武人政治でない琉球には武士道はなく⋯⋯文人政治であった」とのべている「(「琉球王国の性格と武器」)。この外敵に対処する多少の防備はあっても、国内では武器をもたない「丸腰社会」であり、「文人政治」であった、というこの事実が極めて重要である。

「刀狩り」といえば、日本では戦国時代に天下を統一した豊臣秀吉が、安土桃山時代の一五八八年に出した「刀狩令」が有名である。これは、琉球で行われた政策とは大きな違いがある。秀吉の「刀狩り」は、百姓たちが刀や弓、槍、鉄砲など武器を持つことを禁じたもので、武士から兵器をとり上げたものではない。けっして国内の武装解除ではない。その後、三〇〇年にわたる徳川幕府の安定支配の基礎を築いた徳川家康も、その後の将軍たちも、大名や武士が持つ刀などの武器を取り上げるようなことはまったくやらなかった。武士の武装を解除する条件も必要性もなかったのだろうか。


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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その5

 和歌に込められた思い

 朝敏にはたくさんの和歌があるが、そこには彼の思い、思想がにじみ出ているのでいくつか紹介したい。

「誰のほれ者の筆とやい書ちやが 酒や昔から恋の手引き」。

どこのバカ者が筆をとって書いたのか、酒は昔から恋の手引きであるのに、という意味だ。当時、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して、朝敏が風刺したものという。

「四海波立てて 硯水なちも 思事やあまた 書きもならぬ」。

四方の海を波立つ海水をずべて硯の水にしても、なお思うことは多すぎてとても書きつくせないという意味である。それほど世のあり方に言いたいことが山積していたのだろうか。

 「乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら あかもぬがぬ」。

乱れ髪のような世の中の乱れをきちんとさばかなければ、さばき損ねたらはかどらない、というような意味だろう。この時代、尚敬王の信任をうけていた蔡温の強引な政治に対する朝敏の批判が込められているようだ。

 「たとひなま死じも 誰がつれて行きゆが この世やみなちゅて 一人さらめ」。

たとえ今死んでも誰が死をともにしてくれるだろうか 政治が悪く世の中を闇にしているが 救済する者はいなく、自分一人で死んでいくだろう、という意味である。

 
 「赤木赤虫が蝶(はべる)なて飛ばば 平敷屋友寄の 遺念ともれ」。

 赤木の赤虫が蝶になって飛べば、朝敏、友寄の無念の魂の化身と思ってほしい、という意味だろう。処刑が決まった時に詠んだ和歌だという。その昔、蝶は死者の魂、化身と思われていた。彼の処刑の日には、ハンタン山の赤木に蝶が天をおおうくらいに、飛びまわったと伝えられる。平敷屋、友寄ら15人の無念の気持ちを思い浮かばせる歌である。

 朝敏の妻まなびの詠んだ和歌がある。妻は、朝敏が処刑されたあと、身分を士族から百姓に落とされ、娘とともに、高離島(いまの宮城島)に流されたという。

        朝敏妻の歌碑  
              朝敏の妻の歌碑(宮城島)

 「高離島や 物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたぼうれ」。

この島はさまざまなことを教え悟らせてくれたところ。離島の苦しみ、人の情けはもう十分に知ることができました。私の生まれ育った彼の地へ命あるうちに帰り付けることを願っていますというような意味であり、その思いを込めた歌だ。母とともに流された幼い長女は、栄養失調で間もなく亡くなった。まなびは、先島に流された男の子どもたちとは、ついに会う機会をえないままこの島で亡くなったという。

 こうした和歌を読んでも、感じるのは、朝敏の和歌にも、小説にも、組踊にも、彼が何を考え、何を思い、何を主張し、どのように生きたかったのか、その背景を貫いている赤い糸があることである。だから、組踊の作品だけを切り離して、他の者が創ったと考えるのは無理があるというか、朝敏だらこそ創作できたのだということがいっそうよくわかる。彼のその思うところを実践に移したことで、悲劇的な結末を迎え、自分の人生に幕を引く結果となった。


 この朝敏の悲劇は「当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった」(朝敏の追悼碑文から)といえるだろう。組踊は、琉球王朝の時代は、首里王府の独占物であったが、明治維新とその後の廃藩置県によって、琉球王朝は解体され、地方へ、離島へと流れて行った士族たちによって、組踊などの芸能も広がっていった。村踊りなどで組踊が上演されるようになり、「手水の縁」もよく上演されたという。大正時代に一時、上演禁止になったことはあるが、再び上演を許され、沖縄民衆の熱い共感と支持を得たのである。今日でも人気の組踊の一つであり、高い評価をうけていること自体、その先駆性を示している。朝敏は、34歳の若さで短い生涯を終えたが、その作品は永遠の生命を得て生き続けているのである。

     終わり    沢村昭洋
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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その4

 政治犯として処刑された平敷屋朝敏

 朝敏(34)は友寄安乗(57)らは、時の政治家・蔡温の政治に不満を抱いていた。薩摩の在番役人の川西平左衛門の館に再三にわたり、蔡温を批判する文書が投げ込まれた。蔡温が調査に乗り出し。やがてこの落書が友寄、朝敏らグループの行動として摘発され、15人全員が安謝港で処刑された。友寄、朝敏は「八付」(はりつけ)の刑に処せられた。はりつけの中でも、とくに重刑の罪人に適用される串刺しにより行われた。串刺しのなかでも、いろいろあり、朝敏はとがった木で体を貫いて殺す方法が60人によって行われたという。それでもなかなか落命しないので、最後は母とともに立ち会うことが許されていた長男・朝良がとどめを刺したと伝えられている。これは「平敷屋自治会のホームページ」で紹介されている。

 
 薩摩への告発の内容がどういうものであったのか、詳しい記録がまったく残されていないからわからない。だが平敷屋朝敏の系譜によれば、平敷屋は友寄と組み、「無筋の事申し立て」、つまりありもしない事をでっち上げ、薩摩役人に落書し「国家の難題なる儀」を相たくらんだ「悪逆無道の族者(やから)」だとして裁かれたという。落書の内容が時の政治に対する批判の内容であったことがうかがえる。朝敏らがなにを主張したのか、なぜかくも極刑にしょせられたのか、さまざまな見方がある。朝敏らは和文学を通したつながりであり、時の権力者、蔡温は、中国からの移住者の集う久米村の出身であることから、そこに対立の原因を見ようとする見解がある。

 「蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢学者勃興を即し⋯⋯随って漢学者は時を得て続々重要なる地位に推薦せられたが、国学を修めし平敷屋の一派は頭が上がらなかった」「支那思想の権化たる蔡温を排斥することは平敷屋等多年の間要望するとろこである」「藩庁を動かすは藩庁以上の大勢力に頼らざる可からずと」「彼等の眼は⋯⋯琉球政務の監督者に向かって注がれたのである」(真境名安興氏)
      朝敏処刑地の恵比寿神社の裏 
      朝敏の処刑地、恵比寿神社の裏    

 ただし、蔡温は「薩摩のおかげで今の琉球がある」というのが基本スタンスであり、この見方は少し違うようだ。別の角度の見解もある。
 「自国琉球の政治について薩摩側に密告、あるいはその権力を借りようとしたのが処刑の理由である」(山里永吉氏) 
「問題は平敷屋らが薩摩側の権力を引き出そうとしたことにある。批難した事実が単に和漢の思想の相異や王府の国内施策にかかることではなく対外の問題、つまり薩摩に対する姿勢のあり方が中傷されたのではあるまいか」(新里、田港、金城氏)。

 「新琉球王統史」を書いた与並岳生氏は、投書の内容は「蔡温が人の意見を聞き入れず、独断的に国政を進め、このためにさまざまな弊害を生み、王府重役たちの不信感も増大し、疑心暗鬼は渦巻、人心を撹乱し、このことは国政の停滞を招くものである」というものではなかったか。しかも蔡温には尚敬王がついているので打つ手がなく、薩摩の力を借りて蔡温を罷免してもらうことを狙っての投書だったと思われるという見解をのべている(「尚敬王の下」)。


 ちょっと独断過ぎるのでは、思う見解も中にはある。例えば「薩摩の非人間的な抑圧、不断の収奪から琉球を救うには社会状況を変革する必要があり⋯⋯政治行動を起こそうとしたのではなかろうか」という見方である(又吉洋士氏「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。これは自己の「琉球独立論」の主張に無理やり引き付けようとする説で、説得力はない。薩摩の役人に抗議文を投げ入れて何かことが解決できるほど、薩摩の支配は甘くはない。それよりも、蔡温の悪行を薩摩に告発して、その力を借りようとしたと見る方が自然だろう。

 いずれにしても、薩摩に政治的な投書をしたことは、朝敏などのグループが当時の首里王府の政治、国王の信任の厚い蔡温の行う政治に対して批判をもち、それを告発することによって正すことを薩摩に期待したことは、確かなことだろう。ただし、期待に反して薩摩はこれを取り上げなかった。蔡温が極刑に処したことは、薩摩との相談があったのか、独自の判断なのかわからないが、蔡温の政治に対する根本的な批判や許しがたい反逆と映ったのだろう。それにしても、投書をしただけで、死刑とは極めて異例の処置である。

 朝敏が生きた社会はどのような時代だったのか。独立の王国だった琉球に薩摩が侵略してきたのが、1609年なので、それから100年余りたっている。薩摩は琉球の中国貿易に介入し、琉球全土の検地を行って、その支配と収奪を強めた。そのもとで、貧しい農民はさらに貧しくなり、子女を遊女に売ったり、富農の下男下女になる人も出た。士族も増え、よいポストは王族やその縁故者が優先されるので、職につけない貧しい士族が生まれた。また金持ちと貧乏人の格差は大きくなり、社会の矛盾は激しくなっていた時代だったという。朝敏の作品には、このような社会状況を反映しているし、彼の行動の背景ともなっているといえよう。

 
 ここで、朝敏を処刑した蔡温の名誉のためにひと言ふれておくと、蔡温は琉球王朝の時代に傑出した政治家として、有名な人物であることだ。14歳で王位をついだ尚敬王のもとで、中国からの留学帰りの蔡温は師となり、国師といわれる職につき、さらに、官僚トップの三司官までのぼりつめた。彼は窮乏化する農村では、百姓が都市に移ることを禁止し、完全に王府の統制のもとにおき、農業生産をあげるために全力をあげるようにさせた。荒れた山の植林と山林保護を重視し、治水や港湾整備など進めた。増加する士族の対策として、士族が商工業への転職を奨励し、那覇の商業の活性化をはかった。またウコンや黒砂糖の専売制度を強化して、王府の財政の立て直しをはかったという。また、中国からの帰化人の子孫といっても、彼は「薩摩のおかげで今の琉球がある」という立場で、薩摩の指導に従うことが発展の道であることを説いたのである。

 この蔡温の政治は、庶民からみれば厳しい締め付けと収奪の強化につながっただろう。平敷屋朝敏ら対立する人々からは、尚敬王に重用された蔡温の強引な政治は独善で横暴、傍若無人の振る舞いとして、映ったのだろう。


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