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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その3

 組踊の中で「手水の縁」が占めている位置

 「手水の縁」が琉球の特有の芸術である組踊の中でも、出色の位置を占めている。それは、約60種類に分類される組踊を見れば明らかになる。當間一郎氏の「組踊研究」によれば、最も多いのは、仇討や戦さなどを扱った仇討ち物で30数種に及ぶ。親子や夫婦などの人間関係の深さ、厳しさ、世話物風が20数種に及ぶ。仇討、世話物で大半を占めるわけである。例えば組踊の創始者、玉城朝薫作の「二童敵討」は、アマオヘに攻め滅ぼされた護佐丸の息子二人が仇をうつという忠孝物語である。「執心鐘入」という作品は、大和の「道成寺」の琉球版のような話で、女の情念と道義の葛藤を描いている。多くの組踊には、忠義や孝行、義理などといった封建社会の道徳・倫理・思想が支配的なイデオロギーとして流れている。首里王府が管理する組踊であるから、ある意味では当然の結果ではあるのだろう。そのなかで「『手水の縁』は恋愛を主題とした唯一の組踊」(比嘉春潮氏)といわれる。純粋な恋愛物の組踊は、ほとんど他にない。しかも、士族と遊女というような関係ではなく、対等な若い男女の恋愛である。封建的な道徳・倫理のしがらみ、桎梏を打ち破って男女の恋愛の自由を成し遂げるという行為がどんなに時代を突き破って画期的な物語世界であり作品であるのが明らかとなる。

 この「手水の縁」が初演されたのは、一八六六年に中国から来た冊封使を歓待するためだったらしい。実に創作されてから一三〇数年ぶりとなる。これがいまのところ確認できる最古の上演だという。もう琉球王朝としては最後の国王の冊封の時である。朝敏が国家に対する反逆の政治犯であり、儒教道徳に反するような内容から、上演がされなかったといわれる。

當間氏も、この作品が、非公式な形で多くのファンをもち、「熱烈な愛は封建社会の若き男女を燃え上がらせるとともに、作品のとりこになったものが多かった」と指摘している。「この組踊は他の諸作と趣を異にし、男女の情事を描いたのだから、儒教主義の当時の人には表向きは好まれなかったが、その代り若い人々の血を躍らすものがある」とのべている。「男女の情事を忌憚なく写したということと罪人の作だということが、公の晴れの場所で演じられぬ原因となり」という。

 

 手水の縁」は朝敏の作ではないのか?

 組踊「手水の縁」の作者について、琉球大学の池宮正治氏は、これは平敷屋朝敏の作ではない、後世の作品ではないかという疑問を投げかけている。その理由は、組踊は冊封使を歓待するための芸能として出発し、王府から任命された踊奉行が作演出を行ったが、朝敏は踊奉行には任命されていないからだということだ。組踊は冊封使を歓待するための芸能であることは事実だ。といっても、初めて玉城朝薫が組踊を上演した冊封使歓待は1719年で、次に冊封使が来たのは1756年なので、この間、実に37年もたっている。朝薫によって創作された組踊という芸能をしっかり継承し、発展させていくには、この間に訓練し、上演することも必要だろう。冊封使が来ない間でも、王府のなかで上演される機会があったと考える方が自然だ。また、37年の間には、朝薫以外にも組踊を創作をする人物が現れたことも十分考えられる。平敷屋朝敏が踊奉行に任命されていなくても、才能豊かで文学作品を作っている朝敏が創作した可能性はありうるのではないか。

なにより大切なのは、この作品の内容の分析そのものが、作者が平敷屋であるのか否かという問題について回答を与えている、ということだ。

        朝敏の歌碑文
         平敷屋にある歌碑の碑文

  つまり、一つは「手水の縁」の主題が当時の琉球の組踊ばかりか文学全体のなかで占める特異な位置である。他に比類のない作品が他の人に簡単に書けるのか。しかも、当時の封建道徳と社会秩序を否定するような内実を持つ作品が容易に他の人物にかけるとは到底思えない。もう一つは、平敷屋朝敏の作品の流れの中での位置づけである。一連の作品集を読むと、一貫した流れがある。単に恋愛をテーマにしているとか、恋愛至上主義というレベルの問題ではなく、若い時代の「若草物語」「苔のした」にみられるような、この世では結ばれない二人が死出の旅にでる結末から、「萬歳」に見られるように、神の啓示、助けではあっても、封建的な義理、桎梏を乗り越えて結ばれるという画期的な結末に向かう。ここには一大飛躍の世界がある。そして「手水の縁」である。この流れの延長線に登場するのがこの作品である。ここには朝敏の赤い糸のような熱い問題意識とその発展がある。「手水の縁」のような、他に類を見ない作品が、他の作品とかけ離れて突然変異のように生まれるわけがない。そういう意味でも、朝敏だからこそ書けたのだということが、理解できる。

        
              

 さらに言えば、この作品が封建社会の道徳の否定であり、そこにはさらに当時の社会 秩序、政治に対する抵抗や異議申し立ての思いが込められていると見られる。首里王府に退出する組踊をそういう主題をもった内容とするのには、とっても勇気がいることだ。その後、朝敏が処刑になるような政治行動をとった勇気ある人間であり、政治的人間であったことからも、この作品が書けたのだろうと容易に納得がいくところである。

 池宮氏の所説にはすでに強い反論が出されている。「組踊を聴く」の著者、矢野輝雄氏は、冊封使が来た時だけではなく、組踊が上演されたことはあるし、「踊奉行以外のものが、組踊を作ることはあり得ないことではな(い)」という。朝敏を作者とする最大の理由として、その作品そのものの内容を分析している。「文体にみられる緊張感や和文学による修辞法などの多用も、他に類似を見出し得ない⋯⋯恋愛至上主義を謳いあげるところに主題がある。⋯⋯(玉城朝薫の「中城若松」など)模倣作という域を超えて、平敷屋朝敏独自の文学世界を打ち立てているのを見ることができる」。「和文学の影響を受けた強烈な作風こそ、他の作者たちの組踊作品と明瞭な一線を画するものと見るべきであり、その特異性こそ平敷屋朝敏作の可能性に導くものであろう」とのべている。このように、作品の内容をきちんと分析すれば、朝敏の作以外にはありえないという結論に達するのである。


 當間一郎氏は、「玉城朝薫は当時の思想背景のなかで登場人物を設定し、つねに首里王府というバックボーンとつなげていくという手法がどの作品にも投入されているのに対して、朝敏は、それを可能なかぎり払拭しようと努力して、わずかながら脱け出している」「朝薫の世界では考えられぬ思想といえよう」と指摘している。さらに「当時の社会にあって若き男女の愛をあつかい、それを破たんさせるのではなくて成就させていく構成にしたのは、あっぱれという他はない。このような結末にするのは、当時としてはたいへん度胸のいることで、ずいぶん思い切った作品を完成させてくれたのである」とのべている(「沖縄芸能論考」)。これはとりもなおさず、この作品が誰にでも書けるような内容ではなく、朝敏のような思想をもち、それを作品世界に投影し、しかも誰に気兼ねもせずに貫く勇気をもっていなければ到底書けない組踊であることを示しているのである。

 

 


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琉球の悲劇の文学者、平敷屋朝敏覚書、その2

 組踊手水の縁」の誕生

 平村の支配者の息子・山戸という若者が瀬長山で花見した帰り波平玉川で髪を洗っている美しい娘・玉津と出会う。玉津にひかれた山戸は、昔から男女の縁結びの行為といわれた手水で水を汲んでほしいと玉津に頼む。いったん断った玉津も山戸の熱い思いを受け入れる。二人は心が結ばれ、やがて忍びあう恋人になる。山戸は玉津の家に忍び込むが、門番に見つかってしまう。玉津の父親は、親の認めない恋に落ちた、娘を許すことができず家来に殺すことを命じる。いま処刑にされようとするその時、山戸が駆けつけて、玉津を助けてほしい。もしできないなら一緒に殺してほしいと命がけで訴える。二人の純粋な愛情に心うたれた家来は、二人を逃し、二人は結ばれる。

山戸が語るセリフにこうある。「いかな天竺の 鬼立の御門も 恋の道やれば 開きどしゆゆる」。どんな天竺の鬼といえども、命をかけた若い男女の恋の道はとどめられない、という意味だ。この組踊の主題が集約されたようなセリフである。

最初テレビで観た時に、二人の馴れ初めに戸惑いがあったが、最後まで観ると、これはすごい物語だと驚いた。琉球でも封建社会は、「士階級に恋愛の自由はなかった」のだ。「士にとって逢い話す自由も得られる異性は遊女だけであった。親の承認しない恋愛には女は足枷(あしかせ)をかけて圧服され、男は一門親類の訴えによって、平等所(裁判所)で遠島を申し渡された」(比嘉春潮氏)という時代だった。親が認めない恋愛は不義そのものであった。それが儒教の道徳であり、社会的な秩序でもあった。

    朝敏の瀬長島の歌碑
      瀬長島にある朝敏の歌碑
 それは、恋に落ちた二人が陥った危機になにより表れている。つまり、親の許さない不義をした彼女は、たんに無理やり引き離されるのでない。親によって斬り殺される。命を奪われるのである。恋をしただけで、自分の愛する娘まで殺さなければ親の世間体がない。そこに、この時代と封建社会の道徳支配の非情な貫徹をみることができる。

 山戸が自分の危険をかえりみず、命を賭して彼女を処刑から救い、自分たちの恋愛を成就させるというこの作品の内容は、いつくかの点で、同時代の組踊、文学とは次元を異にする画期性を有している。

 朝敏は、「手水の縁」を書き上げると尚敬王に差し出したが、封建的義理の否定が主題となっているため、王は非常に驚き、重大な問題として下臣に謀ったところ、秩序を乱す者として処刑と決定したが、彼の和文学の指導を受けたことのある一五人役の一人の多嘉良親方の弁明でやっと助かった、というといういきさつがあったとも伝えられる(玉栄清良著「組踊 手水の縁の研究」)。


 この「儒教道徳思想が最も忌み嫌い、法度とする恋愛を声高らかに唱えて、組踊化した朝敏の姿勢は、敬服に値するものである」と當間一郎氏は強調している。

なによりも、理不尽な道徳、倫理への抵抗である。そして、その道徳を基本的な支柱としている封建社会の秩序に対する否定につながる。その道徳と秩序とは、人間が本来的に持っている愛情、その一つである男女の恋愛という、もっとも豊かな人間感情を押し殺すことにたいする根本的な異議申し立てである。そこには、本来、誰も奪うことのできない人間の本性に対する自覚があるのではないか。自我への芽を見ることができる。「人間は誰でも恋愛の自由をもっているんだぞ!」という朝敏の叫びが聞こえてくるようだ。


 重要なことは、封建的な縛りを超えた男女の愛情を、この世では成就できないからと、死出の旅に出るとか、来世で成就するとかという現実逃避に終わらせていないことである。つまり二人の強い意志によって、封建道徳と秩序をも突き動かし、打ち破って恋愛を現世で成就させていることである。恋愛の自由に対する大らかな讃歌が読み取れる。この点で、近松門左衛門の心中物の浄瑠璃などでの限界をはるかに超えた地点に立っているといって過言ではない。ただし、あくまでも、その芸術的な完成度は無視して、その主題についてだけで言えばということではある。

このような封建社会の秩序をなす道徳にたいする挑戦とこれを乗り越えることを公然と主題にした作品世界を作り上げるということは、時の支配者に対する朝敏の感覚にも深いかかわりがあるだろう。首里王府とその支配に対する批判精神なしには書きえない内容である。ただし、組踊は国王に差し出しており、その限界を当然、認識した上での表現であることは言うまでもない。

 

 この作品にたいする評価から

この組踊に対して,識者はどう見ているのか。いくつか読んでみたが、必ずしも的確な評価と言えない批評がある。評価をしていても、「恋愛至上主義」という次元にとどまっている批評もある。もっとも的確だと思われるのは玉栄清良氏の著作である。そのなかの「平敷屋朝敏の文学」では次のようにのべている。

封建社会の支柱である道徳が見事に踏倒され、不義が堂々と通ったのである。こうして確立された人間性は封建社会の礎を激しくゆさぶったと言えよう⋯貨幣経済の発展は農民、貧窮武士の階層分解を押進めていた、必然的に“内面的抵抗”も高まっていた。それを圧迫する手段としての義理道徳は民衆の行動を厳しく監視し、間接には儒教によって彼らの内面まで強く拘束していた。そのような情況下にあって人間性をかくも強烈に押出した「手水の縁」は、日本の近代文学が未だ十分には果たし得ぬと思われる課題をすでに封建社会の梗塞のなかで達成して見せたことのなり、その文学的成果は琉球文学においては勿論、日本文学史上“特筆”に値すること、と言えるだろう。人間性に目覚め封建的義理を否定した者が、封建社会の象徴である王への忠誠を思うという矛盾は上演を考慮したための余儀ない虚構であったと思われる。

      安謝、朝敏処刑地の神社
       朝敏の処刑地だった神社
 「手水の縁」の文学的価値はその高度は写実主義にある⋯⋯天竺という神秘の世界(朱子学思想に立つ義理)の否定であり、人間の生の力の根源からの強い肯定であり、人間の自然な愛情は何よりも尊重されるのだという生の確かな思想が強く主張されている。

 井原西鶴や近松も義理と人情にはさまれて苦悩する人間は描いたが、義理を乗り越えて人間の自然の生の姿を歪めずに描くことはできなかった。彼らは心中する男女を描くことによって消極的な抗議にとどまった。悲劇の背後の歴史の本質には目が届かなかった。同時代の琉球の代表的作家も封建的秩序への疑問も弱く唯一人、朝敏が人間を“封建社会の本質において“とらえ、その矛盾の打破に進み出る人物を描いたことは驚くべき人間認識であり、“社会認識”であり、またそれの“文学的達成”であった。

 

この玉栄氏の主張に対して、これを批判する評者もいる。嘉味田宗栄氏は「平敷屋という人物の政治上の事実を、文学作品としての手水の縁に直結して混乱させている」「自我の確立、秩序への対決といった近代用語で形容するにふさわしい戯曲とは思えない」「近代的自我と恋の熱情をいっしょにする前に、古代から近代にかけての恋人たちの情熱の激しさを思いみるべきである」などと批判している。

これはいささか的外れではないか。平敷屋の政治行動と文学作品には、地下茎でつながっているものがある。自我など用語は近代用語ではあっても、その芽生えというべき意識を見るのは無理なこじつけではない。「古代から近代にかけての恋の情熱の激しさ」が、当時の儒教道徳を真っ向から否定する内容の組踊作品に仕上げて王府に提出することは、凡庸な文学者ができることではない。その証拠に、「手水の縁」のような戯曲・文学が他に類例がないことを見ても明らかではないだろうか。

 


 



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琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書 その1

 赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともて

 ーー琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書ーー
 この文書は、2012年4月に、前の「ココログブログ」にアップしていた。7年余りたっているので、このブログにもう一度アップしておきたい。

 はじめに
 沖縄に移住してまだ1年足らずのうちに、NHK沖縄テレビで初めて組踊を観た。組踊は歌三線、演劇、踊りを総合した楽劇である。沖縄の誇りある伝統芸能として名高い。この時観た作品が「手水の縁」だった。その時に強い衝撃を受けた。作品内容はあとから紹介するが、最初に戸惑ったのは髪を洗っている女性を見染めて、水を汲んでほしいと頼み、断られるとその場で飛び込み死ぬとまで言うことのあまりの唐突さだった。しかし、そのストーリーは、親の許さない恋愛を死罪にするという封建的な義理、倫理を乗り越えて二人が結ばれるという内容だった。封建時代にこのような大胆な恋の物語は、大和の浄瑠璃にもない主題なのだ。すごい作者がいるものだと感心した。その名を平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)という。しかも朝敏は、政治犯としてはり付けの処刑をされているという解説にまた驚いた。ただものではないことだけは確かだ。ただし、その解説では、この作品が本当に朝敏が書いたのかどうか、後年に他の人物によって書かれたのではないか、という説があるということだった。

この3つの点が強いインパクトをもち、記憶に残った。その後、機会を見ては、朝敏の関連する文献、資料を県立、市立図書館で探して読んでみた。読めば読むほど、彼が琉球王朝の時代を代表する文学者の一人であり、また歴史上も異色の悲劇の人物であることがわかった。沖縄では高い評価を受けていて、少なくない研究がある。もっともっと沖縄以外の人たちにも知ってほしい文学者であり、作品群だということを強く感じだ。この覚書は、こういう問題意識から、いまの時点で自分流に知り得たことをまとめたものである。まあ、興味がなければ意味のない文章であるが、少しでも読めるところがあれば眺めてほしい。それだけである。

 

朝敏の歩んだ道

平敷屋朝敏は、琉球が薩摩に侵略されてからおよそ90年以上たった1700年、首里金城村で生まれた。尚真王の嫡子、尚維衡の7代目の子孫にあたるといわれる。祖父は大宜味間切の総地頭で、父・朝文は勝連間切の総地頭という出自である。間切(まぎり)とは今の町村ほどの単位になる。琉球は、中国の文化の影響が強かったが、薩摩の支配下におかれた近世の琉球では、日本の和文学が推奨されていた。大和の文学に親しみ、教養を身に付けることは、首里の士族にとって大切な資格だったそうだ。首里王府に仕官する条件として重視されていた。朝敏は、8歳の頃から和語と和文学を学んだという。1718年、18歳でときの徳川幕府の八大将軍吉宗の慶賀のために派遣された慶賀使の越来王子に随行して江戸上りをしている。すでに王府の何らかの役職についていたのだろう。江戸上りは、大和の芸能、文学など文化に接せるまたとない機会である。江戸滞在中に仏教や和文学(源氏物語、伊勢物語、短歌)を学んだという。朝敏の文学は、擬古文で書かれた和文学であり、和文学への深い教養が素地になっている。といっても、擬古文はひらかなに漢字の当て字を使っているので、原文はとてもとても読みにくい。


 朝敏の生涯にとって、重要な出来事がその後、起きてくる。その文学的な形成の上でも、影響を与えることになる。というのは、21歳で結婚したが、首里城内の高貴な女性(時の尚敬王の王妃・思亀樽金といわれる)が密かに訪ねてきて、絹の上下衣を朝敏に贈ったという噂が広がった。彼は美男子で女性からとてももてたらしい。それが国王や著名な政治家・蔡温らの知るところとなり、朝敏はその責任を問われ、家屋敷を没収、職も失った。一家はあちこち転々とし、自分が脇地頭をつとめる勝連間切の平敷屋村に移り住んだ。やがて、嫌疑が晴れて朝敏は再び、職を得て首里に帰ってきた。その後、仕事のかたわら、創作を行ったという。朝敏を悲劇の文学者といったのは、この経歴ではない。1734年、当時、琉球を支配する薩摩が那覇に置いていた出先機関である在番奉行の横目、西川平左衛門宅に再三にわたって投書があった。内容は王府を風刺したものだったらしい。朝敏は、友寄安乗ら和文学の仲間とともに
15人が捕らえられる。当時の琉球の蔡温によってついに6月26日、安謝港で15人の若者らが処刑された。さらに朝敏の長男は多良間島、二男は与那国島、三男は水納島に島流しになったのである。朝敏の妻のまなびは、身分を百姓に落とされ、高離島に流されたという。幼い長女も母とともに流されたが、栄養失調で間もなく死に、島流しになった息子たちとはその後も会うこともできなかったそうだ。事件の真相は記録が残されていないためにわからないが、投書をしただけでこんなに集団処刑にあるのは、稀有のことである。

       瀬長島の歌碑  

     瀬長島にある朝敏の歌碑  

朝敏のいくつかの作品

 初期の作品に「若草物語」がある。大阪の住吉を舞台とした貧しい武士と遊女・若草の悲恋の物語である。金持ちの大名に連れて行かれた若草を奪い返そうとするが、取り返される。若草は、愛する人と別れ、生きがいのない日々を送り、物思いが積り死ぬ。彼もその後を追う。和歌を織り交ぜた小説世界は、「源氏物語」を意識しているようであるし、近松門左衛門の心中物を思わせる主題である。時代から言えば、すでに近松の浄瑠璃が人気をよんでいたので、接する機会はあっただろう。近松の何らかの影響があったと見る人もいる。

 
 「苔の下」という作品は、琉球の社会の現実の中に題材を求めている。琉歌の二大女流歌人である、遊女・よしやつると仲里按司をモデルとした悲恋の物語である。貧しい彼は、恋人を身請けできない。つるの義母は、お金持ちの黒雲に売り渡す。彼女は食事も湯水さえ飲まず死ぬ。彼もその後を追う。前作と同じ悲恋物であるが、薄幸の遊女や貧しい主人公への作者の同情がある。以上の
2作品は朝敏2728歳頃の作品という。よしやは「お金のために人の愛を破らないで下さい」と叫ぶ。男女の愛情が金の力でねじ曲げられることへの反発が根底に感じられる。

主題から言えば近松の何らかの影響があったかもしれないが、覚書の結論にかかわるが、朝敏のすごいところは、この近松的な悲恋を乗り越える作品世界を作りあげたことにある。当時、影響を受けたにせよ、それにとどまらない地平に立つことを意味する。

 

 「貧家記」は、首里を追われ、平敷屋で失意の生活を送った体験を日記風につづった物である。「あはれその畑打ち返す せなかより 流るる汗や 瀧つ白波」。働く農民を見て詠んだ和歌である。自分は貧しいがまだ安楽に暮らせるだけ農民より恵まれていると感じる。首里を追われた士族の貧しさと民・百姓の悲哀が映し出されている。そこには、この境遇を強いられているものとして、現実社会への厳しい目と弱者に対して注がれる愛情が感じ取られる。こうした体験を通して、政治に対する鋭い現実感覚が養われたのだろう。それは、たんに傍観者として見るだけではなく、後々の行動となって現われる。

     平敷屋朝敏の歌碑
     平敷屋にある朝敏の歌碑   

 朝敏は、脇地頭として在任中、この平敷屋に滞在した折に、農民の水不足を解消するために、用水池を掘り、その土を盛りつけてタキノー(小高い丘)を造ったと伝えられている。この地には、朝敏を偲んで1986年、歌碑と碑が建てられた。碑文には、次のように記されている。「朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの自分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点であった、と言い得ることである」。


 「萬歳」という作品は、首里に帰ってきて数年後のものだ。安里の按司の息子・白太郎は勝連の浜川殿の真鍋樽金という姫君を一目見て恋に落ちるがすでに姫はある地頭の息子に嫁ぐことが決まった身。白太郎は海辺で自殺をはかり、倒れた彼を見つけた姫も身を投げようとする。その時、姫が御願(うがん)する御嶽(うたき)の神の化身が現れて二人を助け、二人はめでたく結ばれる。前の2作のように心中という絶望的な結末ではなく、それを乗り越える新たな境地が生まれている。「萬歳」というのは村々を回る乞食のことだ。、白太郎は「萬歳」から美しい姫のことを教えてもらったことからこの題名にしているが、「萬歳」はまた「ばんざーい」という愛が実った喜びの表現ともとれる。二重の意味を込めているのではないか。ここには自由な恋愛を縛り付けている自分の意思を無視した婚約という義理を神の啓示の形で真っ向から否定する姿勢がある。当時の人間をしばっていた義理、倫理を拒否し、個人の恋愛をなによりも優先し、それを成就させるというこの小説の主題は、封建社会の道徳に対する異議申し立ての姿勢がある。ここには、朝敏の思想的な大きな変化がある。又吉洋士氏は「現実と対決する姿勢がみられる」「彼は封建社会への批判を
<恋愛>という社会的な具体性をもっていないもので撃ち、後年それを現実的な社会批判として実行に移した」と述べている。(「平敷屋朝敏―琉球独立論の系譜」)。


 仲原裕氏は「平敷屋朝敏作品集」の解説でこう指摘している。「18世紀初頭の琉球の社会で最もみじめな存在は、貧士貧民殊にその婦女子であった。服従することを善とする考え方によれば、郭に売られた女は、義母の命にしたがって嫌いな男にでも買われてゆくことを善としなければならない。しかし、人間は、いくら封建社会であっても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのである。この封建的義理と人間的情愛の葛藤をテーマにし、人間を義理の犠牲から助けようとしたのが、平敷屋朝敏の作品であろう」「時の政治権力や金権に対するレジスタンスの心を作品にしたのではないかと思われる」。

 それをさらに大きく歩を進めたのが組踊「手水の縁」である。音楽、演劇、舞踊を総合した組踊は、今から290年ほど昔に誕生した。1719年9月、琉球国王を任命するため中国から国王の代理として来た冊封使を歓迎する重陽の宴で初めて上演された。組踊は冊封使を歓待するために創作されたという。その生みの親は、玉城朝薫といわれる。首里王府の踊り奉行に3度任命された。こういう役職が王府にあったことが、琉球ではいかに芸能を重視していたのかがうかがわれる。朝薫は、「二童敵討」「執心鐘入」など「五番」と呼ばれる五つの作品を創作し、いまでもよく上演される組踊の代表的な作品となっている。この朝薫より16年遅く生まれたのが平敷屋朝敏であった。


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松山公園を歩く、空手家の顕彰碑

空手家の顕彰碑
 沖縄は空手発祥の地、空手はいまや世界に広がり、来年の東京オリンピック
も正式種目となった。いまも世界中から空手家が修業のため沖縄にやって来る。

       空手家の石碑

 松山公園には、そんな空手の先人、二人の顕彰碑がある。
 説明文から概略を紹介する。

            空手家の説明 
 
 東恩納寛量先生(
18531917)、20歳にして中国福建省福州に渡り、南派少
林拳術白鳥奉を
15年間修業し、1889年那覇に唐手道場を開く。これは唐手道場
としては最も古きもの。那覇手は先生が中国より帰国後、自ら修業せし白鳥拳を
基礎とし、那覇を中心に普及した「手」というものなり。

 

宮城長順先生(18881953)は剛柔流空手道の始祖であり、「武士」の名を冠
されている。
 即ち武人として空手道史に特筆されると共に人間としても師表され
るべき尊称である。


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松山公園を歩く、ユウナヌカー跡

 ユウナヌカー跡

松山公園には、井泉があったことを今回初めて知った。立派なカー(共同井戸)
である。いまは水は出ていない。「ユウナヌカー跡」とされているので、もはや現役
ではなく「カー跡」とされている。説明文から紹介する。

      ユーナヌカー

の地にあった村カー(共同井戸)跡。近くにゆうなの木があったことから、「ゆう
なの井戸」と呼ばれていたという。

浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、多くの井戸は塩分が多く、
飲料には適さなかった。そのたえ、那覇港南岸の「落平(オティンダ)」の水が、那
覇市中や入貢する船舶に向けて販売されていた。このような中、松尾山(現松山
公園一帯)周辺の井戸の水は、飲み水として利用されたという。ユナヌカーもその
一つで、周辺住民の産湯などに使われる貴重な村ガーとなっていた。
           ユーナヌカー説明

1879年(明治12年)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加
した那覇では水問題が一層深刻になった。…
1933年(昭和8年)に念願の水道が
敷かれた。水普及によりユナヌカーも使われなくなったが、その後も水への感謝と
して、周辺住民から拝まれた。ユウナヌカーは、この地にあった沖縄県立第
2高等
女学校の運動場の一角にあったが、現在、
1986年(昭和61年)に整備された松山
公園の池として、憩いの場となっている>。

 那覇の井戸水は塩分があって飲み水には適さないといわれていたが、このユウ
ナヌカーは、飲み水として利用されたというから、塩分がなかったのだろう。公園の
地形が少しこんもりと盛り上がっているので、小高い部分に降った雨水が地下に
染み通り、この場所で湧き出たのだろう。


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シニアピアノ音楽会でピアノとコラボ

 8月16日夜、アルテ・ウォーバAホールで、「シニア世代のピアノ音楽会」が開かれた。もう始まってから3年を過ぎた。
  ツレが、お知らせ告知を新聞に掲載してもらっているため、毎回新しい参加者が来てくれる。演奏はしないで聴くだけの方もいるが、嬉しいことだ。
        
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 今回は、ツレのピアノとのコラボで「芭蕉布」「オジー自慢のオリオンビール」の2曲を1部と2部に分けて演奏した。
     
シニアピアノ音楽会2 (2019-08-16 23-28) (2)
 「オジー自慢」では、みなさん手拍子をしてくれて、三線は上手くないが盛り上がった。
 ツレは、1部ではバッハの「インベンション1番、9番」、2部では「渚のアデリーヌ」を演奏した。ここのピアノに、常連のKさんが「セバス」と名前を付けているそうだ。セバスチャン・バッハからつけた愛称である。不思議にピアノの響きがバッハ演奏には向いているようだ。心地よく響いていた。
    
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  みなさん、とても楽しんでピアノを演奏している。それぞれに特色がある。ピアノ演奏のレベルの違いに関係なく、ピアノが大好きという方々にとって、この音楽会はかけがいのない演奏と交流の場になっている。


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今年もやってきた旧盆エイサー

  今年の沖縄の旧盆は、県外の月遅れのお盆と同じ日となった。珍しい。例年なら旧盆はもっと後になるのに。
 わが家でも、13日のウンケー(お迎え)には、小さな仏壇の前に、果物、お菓子、料理などお供えして、ウトートーした。
  ウンケーは、「ウンケージューシー」といわれるので、ジューシー(炊き込みご飯)を買って、自家製オードブルとおもにお供えしながら食べた。
       
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  14日の中日は、毎年、古蔵青年会がエイサーで道ジュネーして来る。ことしも薄暮の中で演舞が始まった。
  地謡も2人いて、歌三線を響かせた。     
                 
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  例年より、少し暗いと思っていると、ライトが点灯された。
 ライトアップされた中で、大太鼓、パーランクを打ち鳴らし、舞い踊る姿は勇壮だ。女性によるイナグモーイも可愛い。
 チョンダラーは子どもに人気だ。
                 
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 付近の人たちも大勢集って、演舞に大きな拍手を送っていた。
 終った後、女性たちが募金箱をもって回り、カンパが寄せられていた。
              
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 今年は、公園でよくやっている事前の練習の太鼓の音が聞こえなくて、どうなるのかと少し心配したが、立派な演舞を披露してくれた。
           
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 3日間にわたり、古波蔵地域を回るようだが、ご苦労様である。1年にこの日だけ、地元のエイサーが見られるのは,とてもで恵まれている。わが家の仏壇の仏様はみんな大和の人間だから、エイサーによる供養は当初は馴れていなかったかもしれない。でも仏壇が来てから10年以上になるから、もう馴染んでいるだろう。


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松山公園を歩く、久米村発祥地

久米村発祥の地
 船の形をした立派な碑が目をひく。久米村600年を記念して建立された久米村
発祥地の記念碑だという。
         久米村記念碑
 15世紀に中国から渡来し、琉球の対外交易や政治・経済・文化の発展に重要
な役割を果たした久米村(くにんだ)の人々を顕彰する碑である。この碑は、中国
への朝貢や交易に使われた船をイメージしているのだろう。
                久米村の碑
 説明板は次のように記している。
<今から600年前、中国の福建から閩人三六姓と呼ばれる人々が渡来し、この
地に居を定め久米村(唐栄)を築きました。以来、久米村の人々は、外交文書の
作成など通して、王国の国際交流・交易を促進し、また、中国の文化・文物を導入
して、沖縄の政治・経済・文化の発展に大きく寄与しました。
ここに、久米村が、沖縄の歴史と国際交流に果たしてきた役割を顕彰し、今後の
友好・交流の発展を祈念して、記念碑を建立いたします>

                  久米村の図 
                   昔の久米村の情景を描いている
 この碑の道路を挟んだ向かいには、中国式庭園「福州園」がある。その隣には
「孔子廟」もある。中国の雰囲気が少し味わえる場所である。

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アルテで「物知り節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが10日夜開かれた。今月のテーマは「優」だった。
 私は、「物知り節」を歌った。「物知り」とは、博学という意味ではなく、人生の教訓のこと。教訓歌である。
 世の中は渡るのは容易ではない、誠の道をはずしていけないと歌う。
    
スナップショット 1 (2019-08-11 15-33) (2)
 3番の歌詞で、情より他に頼るものはない、と歌う。
 「情」は「優」に通じるという勝手な解釈でこの曲にした。
 歌ってみるとやっぱり難しい!
   
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   ツレは、ピアノ弾き語りで「オーシャンブルー」、ピアノソロで「渚のアデリーヌ」を演奏した。聞きごたえのある演奏だったのではないか。
  みなさん、テーマに沿った多彩な演奏で、楽しい音楽会だった。
   


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松山公園を歩く、白梅の群像

  「白梅の乙女たち」

松山公園には、白梅学徒隊の女高生たちの群像がある。「白梅の乙女た
ち」と名づけられている。この地には、沖縄戦で「白梅学徒隊」として女
学生が動員された沖縄県立第二高等女学校があったという。

白梅学徒隊は、46名の生徒のうち22名が犠牲になったという。糸満市真
栄里には「白梅之塔」があり、そばには「自決之壕」もある。白梅の女学
生たちが学んでいた第二高女の公舎跡には初めて来た。74年前の悲劇に
思いを馳せ、犠牲者の冥福を祈った。

        白梅の乙女像 

説明文は次のように記されている。

<白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

1945年(昭和20年)324日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛
の八重瀬岳に置かれていた第
24師団第一野戦病院に配置されることになり
ました。
           
白梅学校跡の説明
 生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み,飯上げ、排泄物の
処理、死体処理などでした。

その後、5名の生徒が具志頭村新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分
院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、
63日、分院は閉鎖され
ました。

64日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ
班をつくって南部へ向かいました。

69日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍に
よる猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、
21日と22日に壕が馬乗
り攻撃を受け、多数の死傷者が出ました。国吉に行かなかった生徒たちは、
砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が
6月下旬に米軍に収
容されました>

 


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