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レキオ島唄アッチャー

「漂巽紀畧」の注釈を試みる 竹内氏が講演

 沖縄ジョン万次郎会定期総会が27日、豊見城市社会福祉協議会ホールで開か
れ、総会後「『漂巽紀畧』の注釈を試みるーー幕末の琉球と万次郎」と題して、美
ら島沖縄大使の竹内おさむ(經)氏が講演した。

 竹内氏は、琉球に上陸した万次郎が土佐に帰還した際、10年に渡る異国体験
を土佐藩絵師の河田小龍に語り、それをまとめたのが『漂巽紀畧』(ひょうそんき
りゃく)。その現代語訳版の刊行への注釈を軸に話した。
   
ジョン万次郎講演会2019.4.27

 万次郎が14歳で「読み・書き・算盤」も習えぬまま漂流し、英語は達者だが日本
語はカタコトで、話す異文化情報を理解し書き止める上で小龍が苦労した跡がう
かがえる。聞き違いや誤解を含め多少のミスが生じたことは否めない。

万次郎ら3人が琉球に上陸したボート「アドベンチャラ号」を「万次郎と伝蔵が舵
を取り五右衛門は櫂を漕いで」と記述されているが、舵取り
2人は不要で櫂を漕ぐ
のに
2人必要なので、万次郎らは舵ではなく櫂を漕いだと推測される。上陸した万
次郎ら「異国人」見たさに住民が集まった様子が目に見えるように綴られている、
一旦は那覇に向かい出発したが、疲労が募り、日が暮れて真夜中の頃、那覇まで
4丁のところに着いた地点は、小禄(垣花)だろう。急ぎの使者が来て「オナガ村」
(現豊見城市字翁長)まで引き返えさせたのは、護国寺に宣教師ベッテルハイムが
居住しており那覇に入れるべきではない背景があった、那覇湊の近くに琉球を支
配する薩摩藩の屋敷「在番奉行所」があったことなど指摘した。
       
竹内おさむ

 在番の隣には「昆布座」があった。昆布が採れない沖縄の昆布消費量が全国上
位を占める背景に、薩摩支配下の琉球と清国との交易関係がからみ、蝦夷地(北
海道)で採れる昆布が薩摩・琉球へと運ばれる密売ルートがあった。漢方薬の原
料「唐粗材薬」を必要とする富山の売薬人側と大量の昆布が魅力の薩摩藩との利
害が一致した。北前船に積まれた昆布を日本海沿岸のどこかの湊で積み替え、
薩摩に直行。長崎以外で輸入は禁制の唐薬種を売薬人が密かに購入するという
取引方法が行われていたのではないか。琉球に運ばれた昆布は那覇湊にあった
「昆布座」に納め、中国へ輸出された。薩摩は進貢貿易を利用し莫大な蓄財をなし,
「『昆布』は、討幕へと富国強兵を勧める牽引力ともなっていった」(竹内著「幕末の
琉球を探るーー琉球へ運ばれた昆布の道」)。

 竹内氏の万次郎への愛情あふれる講演だった。

なお、『漂巽紀畧 全現代語訳』は201812月、講談社学術文庫として発行(定
800円)された。


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浜千鳥節の歌碑を訪ねる

 浜千鳥節の歌碑がうるま市の赤野の浜にあるというので訪ねた。田場のサンエ
ーの前を通り県道8号線の金武湾入口という交差点に、歌碑の案内標柱がある。
そこから入り具志川小学校の前を通り、海岸沿いを左に進むと歌碑が見えてきた。
 歌碑の表には「♪旅や浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親のおそば」、
裏には「たびやはまやどぅい くさぬふぁどぅまくら にてぃんわすぃららん わやぬ
うすば」と一番の歌詞が刻まれている。
 歌意は「旅は浜辺に宿って、草の葉を枕にして寝る 寝ても覚めても忘れられな
いのは親の側で暮らしたことだ」。

 この曲の説明板に歌の由来が書かれている。
<今から約220年前の1800年頃、第2尚氏17代尚灝王(しょうこうおう)の時代、
伊波筑登之親雲上は王府の出納係をしていたが、職務上で誤りを犯したと勘違
いをし、お咎めを恐れ親兄弟の元を逃げるようにして首里を後にした。後にたどり
着いたのが赤野の浜であったといわれている。伊波はそこに留まり草の葉を枕に
野宿をしていたが、情けない姿に郷愁感・寂莫感(?)にさいなまれ遠く離れた愛し
い人や親兄弟を思う気持ちは募るばかりであった。浜辺で泣く千鳥の声に一層郷
愁を誘われて詠んだ詩が浜千鳥だといわれている。>
        浜千鳥
 この歌詞と旋律が相まって、郷愁の気持ちがよく表現されている名曲である。舞
踊曲としてよく使われる。
 歌詞は4番まであるが、「2番以降は、踊りの振付けのため作られたもの」(説明板)
といわれている。
 
 この曲を歌う時いつも疑問に思うことがある。それは4番の歌詞である。
「♪柴木植て置かば しばしばといもり 真竹植て置かば またもいもれ忍ば」
(柴木を植えておくので しばしばおいでください 真竹を植えておくので またおいで
下さい)。この歌詞は「由絃會」の工工四から。
 最後の「またもいもれ忍ば」とあるが、工工四(楽譜)によっては「またもいもれ」や
「いもれ忍ば」としたものもある。問題は、この部分を歌う時、私が所属するサークル
でも、唄者の録音を聞いても、多くの場合、「またも」は省略して「いもれ忍ば」と歌う
ことである。
      浜千鳥節  
 しかし、4番の歌詞は「柴木植て置かば しばしば」と意識して掛け言葉を使って作ら
れている。その後の歌詞も「真竹」と「またも」と同じように掛け言葉で作られている。
だから、「またも」を飛ばして「いもれ忍ば」だけを歌うと、掛け言葉の面白さを無視す
ることになる。それに琉歌は八八八六の字数で詠われるのに、最後が「またもいもれ
忍ば」だと9字にもなり、字余りもはなはだしい。
 そんなわけで自分が歌う時は、最後は「またもいもれ」と歌うことにしている。
 
 余談。交差点の「金武湾入口」の名称であるが、金武湾とは勝連半島や海中道路
でつながる島々と金武岬に囲まれた大きな湾である。うるま市の東側に広がるこの
湾のことしか頭に浮かばなかった。だが、「金武湾」という地名があったことを最近
知った。沖縄戦の後に、すぐ地元に帰ることができない人たちが作った戦後居留地
として「金武湾」という地域があったそうだ。映画館もあったという。「金武湾」にはそ
んな歴史がある。
 「金武湾月夜」という曲もあるが、これは月に照らされた金武湾の美しさを歌った
情け歌である。


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安慶名城址を訪れる

 うるま市具志川にある安慶名(あげな)城址は、なかなかいいグスクだと聞いて
いたがまだ行ったことがなかった。ドライブに出たさい、立ち寄ってみた。
 現在は公園として整備され、安慶名闘牛場があり、沖縄戦の犠牲者全員の名
前を刻名した慰霊碑が建立されている。
 闘牛場の南側、岩山の上に石を積み上げた城壁がそそり立っている。石灰
岩の断崖と傾斜を巧みに利用して築かれたグスクである。沖縄の各地のグスク
を見たけれど、こんな光景は初めてである。城の北を流れる天願川が「大川」と
も呼ばれていたので安慶名城は「大川城」とも呼ばれていた。
  安慶名大川按司一世が1453年に改築城したが、もともとは1360年頃に旧城主
が築いたそうである。琉球で3つの小国が対立した三山時代から、安慶名大川
按司がこの城を拠点に三代にわたり中部地域を支配したそうだ。
 安慶名城と安慶名大川按司にどのような由来があるのだろう。
        安慶名城跡
 <西暦1322年(1374年ともされる)怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた仲昔今帰仁按
司の地方へ四散した子孫の一人は、遠く美里間切伊覇村(楚南村ともいう)に逃
げ、伊覇村の女を妻にして、8男一女をもうけ、中南部地区の各城主に成功した。
そのうち8男が初代伊覇按司である。安慶名大川城の築城は今より600年前であ
ろう。初代伊覇按司具志川地域更に勝連地域まで支配下に入れて按司を支配
する世之主への欲望があった。そのために血縁である天願按司を先ず支配下に
おいた。そして沖縄唯一の長い川天願川を背に田場平野を見下ろす安慶名お嶽
に城を築き、5男を配し、初代安慶名大川按司とした。(『具志川市誌』)>
              DSC_5480.jpg
 その安慶名按司の支配も、第二尚氏の尚真王の時代に終焉する。
 <安慶名城の3代目の頃になると、中山王(ちゅうざんおう)は尚真王(しょうしんお
う)の時代で、各地の按司を首里に集め、中央集権国家を造ろうとしていましたが、
安慶名按司の勢力は具志川、あるいは中部一帯に広がっており、首里に呼び寄せよ
うとしても聞き入れませんでした。中山軍は、仕方なく安慶名城を攻めることにしまし
たが、勢力のある安慶名城でしたので、なかなか落城させることが難しかったようです。
そこで、調べてみるとこの城には水がないことがわかったので、水攻めすることにしま
した。しかし安慶名按司も考えたもので、米で馬を浴びせ、遠くから見ると水浴びをさ
せているように見せかけたのです。中山軍はあきらめましたが結局水がないことがわ
かり、安慶名城は落城する結果となりました。(「うるま市の伝統文化」=うるま市役所
HPから)

 尚真王は、各地に割拠していた按司を武装解除して、首里に集めて中央集権国家
をつくったことは有名である。それに抵抗して滅ぼされた按司がいたことは、この安慶
名城址を訪ねたことで知ることができた。


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その3

 十字架あしらう文物
 出土文物の中に、十字架をあしらった元代の青花碗などが出土しているが、
ギリシャ正教との関わりを傍証する。アラン族はギリシャ正教に帰依していた。
(写真は「明青花皿」)
       明青花皿
 十字架といえば、尚巴志軍に攻められた攀安知(はんあんち)が千代金丸(ちよ
がねまる)をかざすや霊石に切りつけて十字を切刻し、その刃で頸動脈を掻き切
って自害して果てたと史書『中山世譜』に記されている。「今帰仁勢力と十字図柄
との不可思議な関係を想起させる」(上間篤著『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)。


 陣取り遊び用具
 面白いのは、発掘物の中には骨製の賽(サイコロ)と石駒が含まれていることだ。
 「沖縄の海に生息するジュゴンの骨を加工した製品で、賽子で表裏面の和は7で
現在の賽子と変わらない」(「今帰仁城跡出土品美術館」HPから)という。
                 サイコロ、骨製品 
 上間篤氏は、次のように指摘している。
 これらは、6世紀中葉のササーン朝ペルシャで考案されたナルド(中国に伝来して
双六と命名される)と称される陣取り遊びの用具である。奈良の宮廷人にも人気を
博し、平安時代の末期、鎌倉時代にも公家や武家社会に人気を博した。「ナルドの
陣取り遊びは中世の今帰仁勢力にすこぶる人気を博した娯楽であったと考えられ
る」とする。

 ヤジリなど武具
関連史料のなかに疾走馬をあしらった意匠がある。草食獣の背に二股形状の突起
物をあしらったその装飾意匠にはアラン有翼獣意匠に通底する要素が認められる。
 馬意匠との繋がりでは鉄製、骨製のヤジリ類や携行用の石製ヤスリ、常用の小刀
といった騎馬文化由来の武具、騎兵装備品も出土している(上間篤著『中世の今帰
仁とその勢力の風貌』)。
              鉄鏃 
                  鉄鏃
 出土した武具にヤジリがあるが、種類が異色である。三角形状鏃(やじり)は、中世
モンゴル騎馬軍団ゆかりの鏃との近似性が指摘される。骨製ヤジリもある。日本本土
の遺跡から骨製ヤジリが発見された例はない。ヤジリの材料を動物の骨に求める伝
統はユーラシアの遊牧文化圏で育まれたものだという(上間篤著『中世の今帰仁とそ
の勢力の風貌』)。
 <ジュゴンの骨でつくった弓矢の鏃。ジュゴンの骨は重厚でずっしりとした質感が特
徴。しかし、なぜ鉄が普及しているのにも関わらず骨で鏃をつくったのだろうか?
         骨鏃
         骨ヤジリ
 幾つかの説がある。一つ紹介すると、皮でつくった鎧は、鉄はなかなか刺さらない
が、骨でつくった鏃は比較的通しやすい為に、骨製の鏃もあったのではないかという
説がある「今帰仁城跡出土品美術館」HPから)>
 

 出土品の写真は今帰仁城跡出土品美術館」HPから使わせていただいた。

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アルテで「門たんかー」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが13日夜開かれた。平成最後の
ファクトリーとなった。
 今月のテーマは「弾」。17組エントリーがあり、それぞれテーマにそって演奏し
た。
 三線仲間のTさんは「勝連節」を演奏した。声がよく伸びていい演奏だった。
 私は「門(じょう)たんかー」にした。「三線を弾いているのは痩せのうさちゃん」
との歌詞があるからだ。「門」をなぜ「じょう」と読むのかいまだにわからない。
「たんかー」は「向い」という意味がある。
 「向いの家にイケメンの若者がいても好きになるわけではない。7,8軒離れて
いても縁を結ぶ」というような歌詞(意訳した)で始まる。難しい曲だけれど、テー
マに一番合っているから挑戦してみた。

       
アルテ「弾」
 出演者はそれぞれ充実した演奏を聴かせてくれた。その中で一つ、知らなかった
曲目があった。
 アルテで新しく結成された3人による「KTC」が演奏した「雨を見たかい」という曲
だ。アメリカのCCRが歌ってヒットしたという。
            IMG_5917.jpg
 「晴れた日にも雨は降るもんだって」などと歌い、一見すると天候のことを歌った曲
のように見える。
 KTCのカオルさんの解説によれば、アメリカのベトナム侵略の戦争が激しかった19
71年に発売されたこの曲の歌詞に出てくる雨は、「ナパーム・デス」と呼ばれた、空爆
を意味するそうで、反戦歌として知られているという。
 この際、この曲をYouTubeからアップしておく。

     


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その2

 出土した食料残滓と石臼
 今帰仁城跡から出土した文物を具体的に見てみる。例えば、食料の残滓として、粟や稗など雑穀類、米や小麦、大麦といった主要穀物の炭化粒、さらに回転式の石臼が今帰仁城跡の郭内から出土している。
 石臼は、「穀物の製粉等に用いたと推定される」(『今帰仁城跡発掘調査報告Ⅱ―主郭(俗称本丸)の調査―』)。
 上間篤氏は、石臼が「日本本土より200年も早く中世今帰仁に伝わり、粉食を取り入れた食習慣があった」と見ている。
 琉球王朝の時代の食糧といえば、コメ、粟、甘藷などが思い浮かぶ。小麦、大麦などによる粉食は意外な感じがする。
 
 食料残滓のコメにかかわって、テーマとは無関係であるが少し話は横道に入る。
今帰仁城の東端にある志慶真門(しげまじょう)郭(武士たちが住んだとされる)の発掘報告は次のように指摘している。 
 「食料残滓としては、炭化米・麦が各地区で検出された。総体的には麦よりは米が多い。獣魚骨はウシ、ウマ、イノシシ、ハリセンボン、ベラ類、ブダイ類が多く検出されている。ウマが大量に消費された点は注目される。食料残滓で見ると、かなり贅沢な食生活だったと考えられる」(『今帰仁城跡発掘調査報告Ⅰ―志慶真門郭の調査―』)
           志慶真門 
                         
 ウマについては別途触れる。麦よりは米が多いということは何を意味しているだろうか。
 今帰仁城跡だけでなくシイナグスク(今帰仁村呉我山にある)発掘でもイネが検出されている。研究者は、この事実が「興味深い仮設を提供する」とのべている。
 <中南部に所在するグスク遺跡では、イネはマイナーで雑穀が多かった。アワやコムギが農耕の中心であったようである。このことからグスク時代の農耕の中心は「雑穀中心」と考えていた。しかし、一昨年、今帰仁城出土の炭化種子を実見し、…イネが多かったことにショックを受けた。さらに、赤木名グスク(奄美大島笠利町)出土の炭化種子を分析した結果、ここからもイネが多く検出された(高宮 2003)。このような情報をもとに、沖縄県中南部の雑穀農耕と、奄美沖縄県北部の稲作農耕を想定し、植物遺体を分析している。
 …今回シイナグスクでは、イネが最も多く検出されたわけではないが、中南部と比較すると、イネが顕著であった。…中南部の雑穀中心の農耕と北部奄美地方のイネ(+アワ)の農耕という二つの農耕システムが存在していたとすると、今後のグスク時代研究に新たなアプローチを提示するものと考えられる。(「今帰仁村文化財調査報告書第17集 シイナグスク―範囲確認調査報告―」)>
 「中南部の雑穀中心の農耕と北部奄美地方のイネ(+アワ)の農耕という二つの農耕システムが存在していた」とすれば、沖縄の稲作は北部が先行していたことになるのではないか。沖縄への稲作の伝来を考える上でも興味深いことである。
         今帰仁城郭

 マンジ紋
 今帰仁城跡から発掘された文物について、上間篤氏の考察に戻る。
 発掘品の一つに白磁碗の内底にスタンプ形状のマンジ紋がある。邪気払いを意図した呪術との関わりが感じられるそうだ。モンゴル人はマンジ紋の呪術力に畏敬の念を払う人々であったという。
          
 豹紋
 豹皮の紋様を胴部にあしらった青花碗を取り上げる。豹紋を装飾意匠として陶器にあしらう染め付けの伝統は中世の日本には存在せず、その揺籃の地は古代のイラン文化圏にあり、イラン文化との関わりが考えられるそうだ。
城跡からはトラの骨も出ている。トラは琉球列島には棲息していない。「中国の江南地域からの輸入が地理的にも蓋然性が高い」(『今帰仁城跡発掘調査報告Ⅱ―主郭(俗称本丸)の調査―』)。なぜ輸入されたかは不明だ。
 上間氏は「中世に今帰仁の勢力を率いた首領格の人物らは大陸伝来の豹紋にまつわる由来はもとより、武芸の鍛錬にあたっては豹や虎の勇猛さに習えとした馬族ゆかりの武の伝統に心得のある人々であったと推測される」(『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)としている。

 宋代、元代には江南地方の沿岸部を拠点に、イラン系イスラム教徒の商人集団が交易に従事。その中から強力な血族集団、いわゆる蒲一族が出現する。しかし、元朝が瓦解し朱元璋が皇帝の座に就くと、外国人勢力の排外政策を推し進め、蒲一族などは格好の標的にされたという。
恐れをなしたイスラム教徒が逃亡を重ね、ついには東海の彼方へと行方をくらました、と記述した詩選集があるという。東海の彼方といえば、奄美や沖縄の島々が点在している。


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今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か、その1

 琉球の三山時代、今帰仁(なきじん)城跡の出土物や伝世史料に、古代、中世に東西世界に進出した騎馬遊牧民族のアラン人ゆかりの騎馬文化の影響が見られるという。これは、上間篤・名桜大学名誉教授の『中世の今帰仁とその勢力の風貌』と題する著作で探求していることである。これまで、あまり聞いたことのない視点なので読んでみて驚いた。上間氏は「撃安知(注・はんあんち)とその家臣団の氏素性を探る」「千代金丸の来歴を探る」と題する論文も発表されている(『名桜大学紀要 THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN』)。上間氏の論考から、その一部を抜き書きしてみる。
       
今帰仁城跡
 渡来人説を唱えた伊波普猷
 三山時代の今帰仁城といえば、1322年から1416年まで帕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3王(4王の説もある)の居城だったことで知られる。
 沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷(いはふゆう)は、かつて「今帰仁という地名を手掛かりにして、中世にこの地域を勢力基盤とした武装集団の出自に関して独自の渡来人説を公表した」。伊波の見解は従来、研究者の間でなおざりにされてきたが、近年の発掘調査による出土史料は、伊波の渡来人説を傍証する内容となっているという。
 発掘された中世今帰仁勢力ゆかりの関係史料は、あまねく元朝に仕えて江南地方で活躍した西域出自の色目系騎馬軍団との関係を傍証する内容を孕んだものとなっているそうだ。
      今帰仁発掘現場 
           今帰仁城跡で見かけた発掘作業(2010年1月)

 <中でも、青花椀に措かれたキルギス族の騎馬武者像、ギリシャ十字を髣髴とさせる縦横同寸法の十字紋、扇平鏃、短冊状やすり、サイコロと小円形の石駒などといったものは、その最たるものとして注目される。本稿においては、往時の食生活、宗教、呪術、葬送、軍装備、娯楽などと関係する出土史料及び千代金丸に施された紋様、さらには元朝に仕えて江南地方に駐屯したアラン近衛兵団などに関する考察をとおして、中世今帰仁勢力の氏素性に迫ってみる(「撃安知とその家臣団の氏素性を探る」)。>
 
 騎馬遊牧民・アラン人
 本題に入る前にアラン人とはどのような民族なのか。
アランとは、元来、イラン系の騎馬遊牧民の文化を継承した民族集団を呼ぶ名称である。往古のアラン族は、コーカサスの大平原地帯を勢力版図とし、天蓋を施した牛車に家財道具の一切を積み込み、寝泊りしながら、牛や羊の群れを追う遊牧の民であった。古代から中世にかけ西方はイベリア半島、東方は元朝支配下の中国まで雄飛した尚武の民とされる。
 元朝による江南地方の侵攻作戦には、種々の西域出自の騎馬民族が投入され、アランの騎馬部隊もその一翼を担った。元朝政府は、西域や中央アジア出自の騎馬部族を長江一帯のデルタ地帯に配置し、元朝の権益の保護、治安の維持にあたらせた。(上間篤著『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)


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ウチナーンチュ魂の宿る教訓歌。ヒヤミカチ節

 「ヒヤミカチ節」
 次は、とても人気のある「ヒヤミカチ節」。題名の意味は「えいと言う 気合を入
れる」ことである。

 作詞 平良新助 作曲 山内盛彬(せいひん)
1、名に立ちゅる沖縄宝島でむぬ 心うち合わち うたちみしょり
 (名に立つ沖縄 宝島だから 心をひとつに合わせて立ち上がろう)
2、稲粟の稔り 弥勒世(みるくゆ)ぬ印 心うち合わち気張りみそり
 (稲粟が実り 平和で豊かな世の予兆 心ひとつに合わせ頑張ろう)
3、がくやないしゅらさ花や咲き美らさ 我した此ぬ沖縄世界(しけ)に知らさ
 (音楽は鳴り美しい 花は咲き美しい 私たちの沖縄世界に知らせよう)
4、人の取ゆる年ぬ んぱんぱぬなゆみ うびらじに取たさ六十ばんじゃ
 (人の取る年は イヤイヤと拒否できるか? 気づかない間に取ったよ60歳真っ盛り)
5、我や虎でむぬ羽着けてたぼり 波路パシフィック渡てなびら
 (私は虎だから 羽をつけてください 波路太平洋を飛び渡ろう)
6、七転び転でひやみかち起きり 我したこの沖縄世界に知らさ
 (七転び転んで「エイ」と起き上がり 私たちのこの沖縄世界に知らせよう)
 
       
 この歌は、沖縄自由民権運動の活動家で、ハワイからアメリカに移民として渡った
平良新助さんが、戦後、沖縄に帰えり、荒廃した沖縄と人々の心を奮い立たせたい
と詠んだ琉歌に、山内氏が作曲した曲である。
 6番の歌詞は平良新助、3番、5番にある歌詞は山内盛彬の作詞である。歌意を
自己流の解釈である。

 この曲が誕生したエピソードが『山内盛彬著作集第3巻』「ふるさとの音楽」の中に
も「ひやみかち節」と題する短文に記されている。
 戦後、東京にいた山内氏の家に恩人の玉代勢法雲先生が見えて「大戦で打ちひし
がれた人心を復興するには、この歌を作曲して奮い立たしたらどうか」作曲を勧めら
れた。「その歌を一回見るや、その熱意に動かされ、ヨシー、ヒットして同胞の目をさ
まそうと決意した。作曲というものはその意欲のクライマックスの感じをとらえることだ」。
この歌が、多くの人の心をとらえ「燃えひろがったのは、平良氏の情熱の結晶した結
果」だと記している。
  

  最近、平良新助直筆の原稿が発見された。
 < 「ひやみかち節」の歌詞となった琉歌を詠んだ平良新助直筆の同琉歌を含
む詩がこのほど、作曲者・山内盛彬(せいひん)の遺品から発見された。盛彬はコ
ラムに、平良がロサンゼルスにいた頃、ハワイの僧侶・玉代勢法雲から平良の詩
を渡され作曲したと記しており、その時の詩と思われる。名曲誕生のきっかけとな
った貴重な資料といえる。大里康永著「平良新助伝」では、平良が1953年に沖縄
へ帰郷した際に古里の復興を願いこの琉歌を詠んだと記されているが、今回見つ
かった詩には「於北米」と記され、ロサンゼルスで詠まれたとする盛彬のコラムを
裏付けている。(「琉球新報」2018年12月30日付)>
 今回の発見によって、この琉歌が作られたのは、帰郷の折ではなく、北米にいた
時だったようだ。
 
 この曲は、高校野球の沖縄代表の応援歌として甲子園でも鳴り響いて、選手を
鼓舞している。
 沖縄県民は、現代でも「ひやみかち!」と気合を入れなければならないことが多々
ある。 日米両政府による辺野古新基地建設の押し付けなど、理不尽な仕打ちに
対して「ひやみかち!」と立ち向かっている。翁長知事の死去に伴う知事選挙で、
翁長氏の遺志を継ぐ候補者・玉城デニーさんの選挙母体となる団体名も「ひやみか
ち うまんちゅの会」である。すべての県民が一致結束して立ち上がろうという心意
気が込められている。
  終わり



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