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レキオ島唄アッチャー

「安里屋ゆんた」の不思議、その2

 「対句」は八重山民謡の特徴
 當山氏の提起は、重要な視点を含んでおり、妥当だと思う。第一点の八重山の伝統歌謡は、沖縄本島の民謡とは異なり、「対語・対句の原則」が見事である。この「対句」は、同じことを別の表現で繰り返す作法である。例えば、子守歌の「あがろううざ節」では、次のように表現を変えて繰り返している。
♪九年母(クニブ)木ば植べとぅーし 香さん木ばさしとぅーし
 (ミカンの木が植えてあり 香り高い木が差してあって)
♪子守りや達ぬ揃る寄てぃ 抱ぎな達ぬゆらゆてぃ
 (♪子守達が寄り集まり 子を抱く娘たちが集まって)
♪墨書上手なりとーり 筆取るい上手なりとーり
(よく学問を学びなさい 勉強して立派な人になりなさい)

 竹富島の「安里屋ゆんた」も、24ある歌詞の最後までこの原則が貫かれている。だから、上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」とするのは、原則から外れることになる。下句の「当たる親」は上句の目差主を言い換えであり、歌には与人は登場しないという當山氏の提起は、なるほどと納得がいく。となれば、歌詞も当初は、「目差主は 私は否です 当たる親(目差主)は 私は嫌です」だったのが、いつしか「目差主は 私は否です 当たる親(与人)に 私は仕えます」と改変された可能性があるのではないか。
 2点、3点目については、後からふれることにしたい。竹富島以外で歌われる役人の求愛を拒否する気高いクヤマの姿は、「大多数の人々の共感を呼ぶ女性像」であることは間違いない。だからこそ、この歌詞が時代を超えて広く愛され、歌い継がれているのだろう。
           
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                                 クヤマの生家にある歌碑

 目差主が主人公の竹富島の歌
 「安里屋ゆんた」の改作の問題とクヤマの実像を考えるために、改めて竹富島とそれ以外で歌われる歌詞を対比して紹介しておきたい。
 

まず竹富島で歌われている歌詞は、次の通り。

○安里屋ぬクヤマにヨー 目差主ぬくゆたらヨー
(安里屋のクヤマ乙女は 助役に見そめられ)

○目差主や ばなんぱヨー あたる親やくりゃおいすヨー
(助役の賄女はいやです 村長には御奉公します)

んぱてぃからみささみ べーるてぃからゆくさみ
(いやと言うならよろしい いやならそれでよし)
んぱてぃすぬみるみん べーるてぃすぬ しくみん
(いやと言った人の面当てに いやと言った人に聞かせるために)

○仲筋に走りおり ふんかどぅに飛びゃおり
(仲筋村に走っていき 同村に飛んでいって)

○村くりしみりばどぅ 道廻りし聞きばどぅ
(村を繰り廻ってみたら 道を廻りつつ聞いてみれば)

○女童(みやらび)ぬいかゆてぃ 美(あふぁ)り子ぬとぅらゆてぃ
(乙女に行逢った 素敵な美人に出会った)

○たるが子で問ふたら じりが子で名聞たら
(誰の子で何という者か どなたの子でその名は何というのか)

○かまどぅ子ぬ乙女よ 兼間(かねま)子ぬイシケマよ

 (かまど母の娘であります 兼間が子のイシケマであります)

○兼間家に走りおりよ 蒲戸家に飛びやおりよ
(兼間家に走って行き かまど家に飛んでいき)

○蒲戸子やくりゃおいすよ 兼間子やばぬんぴょーりよ

(かまどの乙女はこの役人にくれないか 兼間の娘は私にくれよ)

喜舎場永珣著『八重山民謡誌』の「安里屋節」の歌詞は24番まである。
この後、親から承諾をもらい、嬉しさにイシケマを抱きしめて、玻座真村に連れ帰り、役人の宿舎で一緒に寝て、子どもを宿らせ、男の子は島の統治者に、女の子はよき家庭の主婦にと願う。こんな歌詞の流れになっている。
 歌詞は、崎山三郎編著『声楽譜付 竹富島民謡工工四』、小濱光次朗著『八重山の古典民謡集』、喜舎場本を参考にした。喜舎場本は、最初の歌詞に、クヤマは「あん美らさ生りばしよ(絶世の美女に生まれていた)」という部分が入っていている。崎山本、小濱本にはない。クヤマの生家にある歌碑にも「あん美らさ生りばしよ」という歌詞はない



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石垣島でクリスマスコンサートを楽しむ

 連休だった12月23,24日、石垣島に旅行した。ツレのお友達に誘われて私たち夫婦と友人の4人で出かけた。
  ライブによく出かけていた沖縄随一のGSバンド「SSカンパニー」のリーダー、瀬底正真さんが、毎週木曜日、FM石垣サンサンラジオに出演していて、今回初めて石垣島でコンサートに招かれた。このラジオは毎週聴いている。SSを応援している方々が沖縄本島からも10人余り駆けつけることになった。
 天候はあまりよくなかったが、23日はレンタカーで回った。離島ターミナルに向かい、昼食を食べた。離島ターミナルといえば、偉大なチャンピオン、具志堅用高の銅像が名物。さすが人気があり、訪れた観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影をしていた。
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  石垣の絶景といえば川平湾。雨模様になってきて、海の色彩はどうかと心配したが、雨雲が垂れこめても、その美しさは変わらない。
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 雨が落ちてきたので、ユーグレナモールでお土産など買い物をしてホテルに帰った。
 夜は、別のホテルで「SSカンパニークリスマスコンサート」が開かれた。スポンサーが知られたU牧場で、「石垣牛物語」の出版記念を兼ねていた。といっても内容はすべてコンサート一色。ライブが始まると広い会場は満席。200人余りが参加した。

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 料理は石垣牛を使ったメニューで、すべて1コイン、500円。日頃石垣牛はあまり食べられないけれど、お腹いっぱい食べられた。泡盛は当然、地元の銘酒「請福」をいただいた。
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  コンサートは3部構成で、後半はすべてリクエストに応えての演奏だった。
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  GSを知らない若い世代から年配者まで、写真のような大盛り上がりだった。初の石垣ライブは大成功だったようだ。
  
    翌日は朝から雨降りで観光日和ではない。だが、せっかくなので白保にあるスポンサーのU牧場を訪ねた。牛舎には黒毛和牛など120頭がエサを食べていた。なぜか、カラスの集団が牛舎付近を飛び回っている。
   遠くに野底マーペで有名な野底岳が見えていた。黒島から強制移住させられた女性が、野底岳にいつも登り、故郷にいる彼のことを見ようとするが前に於茂登岳がそびえて見えない。いつの間にか石と化したという悲しい伝説がある。三角形の山姿が小さく見えている。
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  近くのカラ岳に連れて行ってもらった。とても見晴らしのよい所だった。付近は牧草地となっている。
 そこから新川方面に戻り、ジェラードが美味しいというやはりМ牧場のお店に立ち寄った。
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  グァバ、ドラゴンフルーツを食べたが素材の味がとても生きていて、美味しかった。この牧場の牛肉も売っていて、サーロイン300gをお安く手に入れた。
 2回目の石垣島だったが、なぜか今回は牧場と縁のある旅立った。
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「安里屋ゆんた」の不思議、その1

「安里屋ゆんた」の不思議

 八重山民謡の名曲「安里屋ゆんた」は、歌の舞台である竹富島とそれ以外の島で歌われているものは、歌詞が異なることについてこのブログ「愛と哀しみの島唄」でも書いた。それは、竹富島の安里屋の美女、クヤマさんが島に赴任してくる役人の賄女に望まれるが、竹富島で歌われる歌詞では「目差主(村の助役格)は嫌です 当たる親(与人、村長格)には仕えます」という内容である。ところが、竹富島以外では、「目差主は嫌です、当たる親も嫌です」ときっぱりと断り、「夫には島の男をもつことが後のためになる」と歌う。とても誇り高い女性に描かれている。
 
 竹富島とそれ以外の島で歌詞が異なる
 當山善堂氏の近著『八重山の芸能探訪―伝統芸能の考察・点描・散策』を読んでいると、「安里屋ゆんた」について、新たな視点による解釈を提起していた。「反権力のクヤーマニ像に共感」と題する論考で、以下のようにのべている。
《「賄女」を歌った八重山の伝統歌謡といえば<安里屋ゆんた>があり、それを基に出来たとされる端麗な二揚調の<安里屋節>がある。この歌のヒロインは、言わずと知れた「クヤーマニ」である。
(注・當山氏は、一般には「クヤーマ」であるが、<安里屋ゆんた(節)>では「クヤーマニ」となっている、としている)。
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                 竹富島、安里屋のクヤマの生家
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』所収の<安里屋節>や竹富島に伝承されている<安里屋ゆんた><安里屋節>の内容は、クヤーマニが目差主(めざしぅしゅー、村の長の補助役)の求愛を拒み、当(あ)たる親(うや、与人=ゆんちゅ、村の長)の求愛を受け入れたことから、腹を立てて目差主がクヤーマニよりも美しい「イスケマ」を見初めてめでたく結ばれるという筋立になっている。…クヤーマニは下級役人を拒絶し、上級役人を受け入れているのである。
 ところが、竹富島以外の各地で歌い継がれている<安里屋ゆんた(節)>は、どの文献をみても、クヤーマニは「目差主や ばなー んぱ 当たる親や 此(く)れー ゆむ(目差主は 私は否(いや)です 当たる親は 私は嫌(いや)です)」と一貫して役人の求愛を拒絶しているのである。喜舎場はこれらの歌詞の相違に言及し、竹富島の伝承が正しく、その他のものは絶対権力を有していた役人に背くことの出来なかった封建制度下の時代背景を無視した、後世の人たちによる改作であると否定的に捉えている。果たしてそうだろうか、とまたしても疑問がわく。》
 當山氏は、竹富島の伝承が正しく、その他の島で歌われる歌詞は後世の人による改作だという喜舎場氏の説明に強い疑問を投げかけている。批判を次の三点にわたりのべている。

 「当りょ親」は目差主の対句
 《一つは、喜舎場は上句の「目差主」と下句の「当たる親」を別々の役人と見なし、「当たる親」を「与人」と訳しているが、それは八重山の伝統歌謡の対語・対句の原則に照らして不自然であり、また下級役人の「目差主」が先に描かれ上級役人の「当たる親」が後に描かれているのも据(す)わりがわるい。ここは「当たる親」は上句を受けた「当の役人」「当該役人」、すなわち目差主その人だと素直に解釈するべきであろう。そうすると下句の「当たる親や 此りや おいす」の「此りや おいす(私は仕えます)」の部分が、いかにも唐突・不自然であることが浮き彫りにされる。この部分は「当たる親や 此りや ゆむ(当たる親=目差主は 私は嫌です)」とすればその後の物語は一貫した展開を示しすっきりする。つまりここに登場する役人は「目差主」だけだということになるわけである。

 二つには、当たる親を上級役人の与人だとして、クヤーマニがその求愛を受諾していたとするなら、下級役人の目差主が上級役人・与人の選んだ女性に横恋慕するだろうか、という疑問がわく。…
 三つめは、一、二と矛盾するが、伝統歌謡の内容を歴史的事実や背景と結びつけ、論理的一貫性を求める解釈方法は必ずしも適切ではないのではなかろうか、という考えである。…
竹富島ゆかりの多くの人が、クヤーマニは上級役人の与人に身を捧げたとする伝承・文献があるにもかかわらず、役人の求愛をきっぱり拒んだ素晴らしい女性だと誇りにしている。その気持ちを共有したいと私も思うし、喜舎場永珣の否定した「改作」とされる多くの文献資料や各地で伝承されている歌に描かれているクヤーマニこそ、大多数の人々の共感を呼ぶ女性像だと言えよう。
 以上のことから、伝播の過程でわれわれの祖先がその時代の息吹を取り入れながら「手直し・改作」してきたとすればその趨勢を肯定的に捉えるべきではないだろうか。》


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永楽帝と尚泰久との類似点、その4

 永楽帝に学んだのか?
 さて、表題では「永楽帝尚泰久には共通点」としている。本題に戻りたい。
 ここからは、あくまでも尚泰久が金福王もしくはその子、志魯を打ち倒して王位に就いたことを前提にした議論となる。
 永楽帝は明の洪武帝の四男である。尚泰久は、尚巴志の五男で、尚金福王の弟にあたる。いずれも、皇帝や国王の直系の継承者・長男ではない。本来の後継順位で言えば下位の立場にありながら、皇帝、国王の直系の皇位、王位の継承者を武力で倒して、即位したということに重要な共通点がある。
 永楽帝尚泰久も四男、五男という立場でありながら、とても有能であり、兄たちをもしのぎ存在感を発揮していた点でも共通する。
 争いの過程で、南京城や首里城も焼け落ちたとされる点でも共通するが、首里城の方は焼けたという正史の記述は虚偽だとされるので、この点は共通点にはなりえない。ただし、王城が争いの舞台となったことでは共通するだろう。
       
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        尚泰久陵墓の碑                   
       
 この後は、まったくの思いつきであるが、尚泰久の国王即位は、明の永楽帝の皇位簒奪から50年ほど後の年代となる。ということは、中国に朝貢して皇帝から国王として認証される冊封(さっぽう)を受けてきた琉球には、中国からの様々な情報が伝わっていたはずである。永楽帝が二代目皇帝を倒して即位したという皇位継承の異常な事態も当然、伝わっていただろう。尚泰久も明の重大事を十分知るうる立場にあったのではないか。
 
 琉球が朝貢する明で、公然と武力で皇位簒奪が行われていることを知れば、琉球でも王位に相応しい力と能力を持つ者こそが、王位に就くべきだと考える人物が現れても不思議ではない。金福王の死に直面して、越来王子(尚泰久)が、王の弟で能力のあるみずからが、王に相応しいと考え、決起する動機になった、ということはないだろうか。
 明から政治、学問、文化から技術や航海術までさまざまなことを学んできた琉球と明との親密な関係、永楽帝と尚泰久の時代的な近接さを考えると、なにか無関係だと言い切れない気がしてならない。

 ただし、古今東西の歴史の中で、皇位や王位、将軍など権力の継承をめぐって、序列の下位にある者が上位の者を倒し、排除して、権力の座に就くことは決して珍しいことではない。だから、永楽帝と尚泰久をことさらに結びつけることには、何の根拠もない。まったくの想像の産物でしかない。もしも尚泰久を主人公にした小説を書くのなら、永楽帝の皇位簒奪が琉球にまで影響を及ぼしたという筋立もありかな。そんなまったくの思い付きであることをお断りしておきたい。
   終り


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永楽帝と尚泰久との類似点、その3

 支配安定につながった「護佐丸阿麻和利の乱」
 尚泰久といえばもう一つ、その在位中に起きた琉球史上でも名高い「護佐丸阿麻和利の乱」も、歴史家の間でさまざまな論議を呼んでいる。
 尚泰久王(在位1454―1460年)は、国王に即位した当時、まだ支配基盤は不安定だった。反乱が史実であれば、王府の土台骨を揺るがす大事件のはずだが、なぜか羽地朝秀が編纂した王府最初の正史『中山世鑑』には登場しない。名高い政治家、蔡温の父、蔡鐸が編纂した蔡鐸本『中山世譜』で初めて記述が現れる。
 「勝連按司の阿摩和利という者がいた。元来、君主を無視する気持があり、反乱をしようとしたが、護佐丸が中城にいて要路をおさえており、そのたくらみははたせなかった。そこで、護佐丸を王に讒言した。王は阿摩和利に命じて、護佐丸を討伐させた。阿摩和利はその後、得意になって反乱しようとした」。百度踏揚(ももとふみあがり)と従者、鬼大城が謀反を知り、王に知らせ、王は鬼大城に命じて討たせた(原田禹雄訳注、蔡鐸本『中山世譜』から)。
 この記述は、護佐丸忠臣、阿麻和利逆臣の立場で描かれている。
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            阿麻和利の居城だった勝連城跡
  
 阿麻和利逆臣論には強い批判があるが、いずれにしてもこの乱によって、尚泰久の支配に目障りな二人の有力按司が、一挙に滅んでしまい、国王の権力基盤は安定した。尚泰久にとって、あまりにも都合のよい「乱」ではないだろうか。「尚泰久の陰謀ではないか」「金丸が仕組んだのではないか」との噂が絶えない。
 国王になったのも「志魯・布里の乱」による共倒れという「棚からぼた餅」のように王座が転がり込んできた。「護佐丸・阿麻和利の乱」も上記のように、尚泰久にとって、とっても都合のよい「反逆」であり、「鎮圧」となった。これらは、本当に偶然の産物なのだろうか、という疑問がつきない。

 金丸によるクーデター
 「志魯・布里の乱」が実際には「尚泰久の乱」だとして、これはあくまで第一尚氏の王統、血統の中での王位簒奪だった。尚泰久の死後、第七代国王となった尚徳王の死に際して、尚泰久の側近だった金丸がクーデターを起こし、第一尚氏の王統を滅ぼして、第二尚氏の初代国王となり尚円王を名乗った。わずか20年くらいの間に、2度にわたり王位を巡るクーデターが起きたことになる。この王位簒奪は、果たして偶然だろうか。
 金丸は尚泰久が越来王子の時代に見い出されて、家臣となり、高官に抜擢される。尚泰久が即位すると、西原間切の内間領主に任命され、さらに御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば貿易長官)に抜擢された。
 尚泰久の側で仕えていた金丸は、尚泰久が尚金福の子、志魯を倒して王に即位する策謀の一部始終を見ていただろう。いや、忠実な家臣ならこのクーデターの実行の一翼を担っていたことも十分ありうることである。
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                               護佐丸の居城だった中城城跡


 これらの二つの「乱」の実相を見てきた金丸が、尚泰久の策略と行動から権力掌握の術策を学び取り、王亡き後に国王になる野望を密かに抱くようになった。このような見方をしても、まったくの見当違いとはいえないだろう。
 尚泰久王が死去し、世子尚徳が即位すると、尚徳王との関係はうまくいかず、いったんは内間村に隠遁した。1469年4月、尚徳王が死去すると、幼い世子に代わり、金丸が国王に推されて即位したとされる。
 
 「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」(高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」)という考証も出されている。とすれば、第8代中和王を倒して王位を簒奪したことになる。
 これらの一連の歴史の流れを見ると、「尚泰久の乱」はそれだけで終わったのではなく、第一尚氏を滅ぼす「金丸の乱」もその延長線上に起きたとも言えるのかもしれない。


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県民の憤り増幅させるだけ、辺野古への土砂投入

 安倍内閣は、辺野古への新基地建設のため、玉城デニー知事の中止要請を無視して、14日予定海域への土砂投入を強行した。知事は「工事を強行するほど県民の怒りはますます燃え上がることを認識すべきだ」と批判したが、その通りである。2月に予定される県民投票に向け、あきらめさせようという意図が透けて見える。だが、県民は決してあきらめはしない。
 沖縄県の試算では、工事は13年以上もかかり、総工費は2兆5000億円以上にのぼる。大浦湾側には、マヨネーズのような軟弱地盤があり、難工事になる上、工事の変更には知事の許可が必要だ。知事は、取り得る対抗手段をとることを明言しており、完成の見通しはない。
 それにしても、今回も政府の対応のひどさにはあきれるばかりだ。
 菅官房長官は、普天間飛行場の危険性の除去は「辺野古移設が唯一の解決策」と化石のように繰り替えす。加えて、「知事としても固定化は絶対に避けなければならないはずだ」と開き直って玉城知事に矛先を向けている。辺野古移設では危険のたらい回しに過ぎない。だからこそ、普天間の危険性除去のため仲井真知事時代に政府も約束した、2019年2月までの「普天間の運用停止」の履行や早期の閉鎖・返還を求めている。
 政府は、運用停止の約束を反故にするばかりか、岩屋防衛相は14日、日米が2013年4月、合意した普天間飛行場の「22年度またはその後」という返還期日も、「目標達成は難しい」と平然と約束を投げ捨てた。
 重大なことは、仮に新基地を建設しても普天間飛行場はいくつかの条件が満たされなければ返還されないと公言していることだ。新基地は造らせ、普天間も使い続ける。こんな県民を馬鹿にした話はない。
 県民が2度に渡る知事選挙で、翁長、玉城両氏の圧勝を勝ち取り、辺野古反対の民意を示してもまったく顧みず、玉城知事による違法な作業の中止指導なども無視するという民主主義国家にあるまじき暴挙を重ねている。辺野古移設で際限なく普天間の危険性を放置し、固定化させているのは政府である。
 土砂投入の無謀な工事を中止し現状回復を図るべきだ。新基地建設は断念し、普天間の早期閉鎖・返還をアメリカ政府に求めることこそ、日本政府の役割ではないだろうか。




 













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永楽帝と尚泰久との類似点、その2

 首里城は炎上したか
 「志魯・布里の乱」で首里城が炎上したというのも疑問だという(内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」)。
 高瀬論文は、要旨次のようにのべている。
『蔡温本世譜』の記述は、王弟布里と志魯の両軍入り乱れて殺しあい、満城に火が起こり府庫が焚焼。布里と志魯は二人共傷つき死に、朝廷が賜わった鍍金銀印も鎔壊するに至ったとされている。蔡温が参照した『中山沿革志』では、焼けたのは府庫としているのに蔡温は「満城火起」と変更した。
 尚泰久の奏文は、府庫が焚焼し、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいとのべている。尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、府庫が焚焼し鎔壊したと称するしかなかった。
蔡温は「満城火起」と記しながら、『蔡温本世譜』には、尚泰久が広厳・普門・天龍三寺を建て、多くの巨鐘を鋳造させたことは記しながら、王城を再建したとの記述は全くない。
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                                        首里城

 しかも尚泰久王即位3年(1456)年に久米島に漂着し、4年余を王城で暮らした朝鮮人の記録によれば、「王城はおおむね三重で、外城に倉庫や厩がある。中城には侍衛の軍二百余が居る。内城に二、三の層閣があり、おおよそ勤政殿のようである」と記している。城の再建は3年では到底不可能。大規模な火災があったとしたら、その痕跡を見逃すことはなく、何よりも新正殿であったとすれば、それに言及しないはずはないことから「正殿は炎上しなかったものと思われる」と結論づけている。
高瀬氏の論考は、これまでの琉球史の定説を覆す提起である。

 高瀬氏の論考について、来間泰男沖縄国際大学名誉教授は「よくわかる沖縄の歴史 社会変化を読み解く」の「第6話 阿麻和利の乱はあったか」(「琉球新報2018年11月1日~6日」)の中で要点を紹介した上で、「火災がなかったということについては説得力があり、この『志魯・布里の乱』そのものがなかったということについても同意したい」とのべて、肯定的な見解を表明している。
私もこの「志魯・布里の乱はなかった、尚泰久の乱と呼ぶべきもの」「首里城炎上もなかった」という考察はとても説得力があると思う。ということは、尚泰久が甥っ子の志魯を倒して王位を簒奪したことになる。


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アルテで「四季の喜び」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージックファクトリーが8日夜、開かれた。今年最後なので、Xmasパーティーを兼ねて、ツリーなど飾りつけがされ、Xmas気分が高まった。
 エントリーも多く、夜7時から始まり11時まで熱い演奏が続いた。今回も自分たちにかかわるものだけを書いておく。
  越智さんはトランペットで「花は咲く」を演奏し、ツレがピアノでコラボした。

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 三線仲間の玉那覇さんは「宮古根(ナークニ)」を演奏した。とても味わいのある歌と三線の音色だった。
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   私は、「四季の喜び」を演奏した。この曲は、四季の風景を描いている。冬は「寒さに負けない若者の姿は頼もしい」と歌っているのでこの曲を選曲した。3番の秋の歌詞には「野山の紅葉の」と出てくるが、沖縄には紅葉はないので、大和っぽい四季の表現である。わりと歌いやすい曲だった。
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  ツレは、ピアノ弾き語りで、「雪の華」を歌った。ピアノ独奏では、ショパン「ノクターン嬰ハ短調遺作」を演奏した。歌はとても声がよく出ていた。ショパンは、少しミスは出ても、止まらなくて弾ききったあたりが、成長している証だと思った。
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 今回は、Xmasパーティーとあって、久しぶりの方も何人が参加してくれ、初めての人、台湾・イタリアから県芸大に来ている留学生も演奏して、多彩な音楽会となった。

  最後に全員参加で「ウィ・アー・ザ・ワールド」を歌うと、最高潮の盛り上がりとなった。

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 この一年間、毎月欠かさず参加できて、楽しませてもらったことに感謝したい。


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永楽帝と尚泰久との類似点、その1

  先日、NHKBSプレミアムの「中国王朝 よみがえる伝説『永楽帝と鄭和の大航海』」を見た。永楽帝は有名な皇帝であるが、知らないことが多く、なかなか面白く見た。番組は次のような内容である。
<「血塗られた天子」と呼ばれる明・永楽帝。力で皇位を奪い、1万人を超える敵対者を粛清。残虐な皇帝とされるが、悪評の中でも強固な権力を確立、万里の長城、紫禁城、天壇を建設するなど明の最盛期を実現した。その権力の秘密を解く鍵は鄭和の大航海にあった。>
                        永楽帝
 
 南京の建文帝に対し反乱
 見ていて、ふと思ったのは、琉球でも少し似たような歴史があったのではないか、ということだった。本題に入る前に、永楽帝について改めて見ておきたい。
 永楽帝(1360―1424年)は中国、明の第3代皇帝 (在位 1402―1424年)である 。明を起こした朱元璋の4男として生まれた。燕王として北平(北京の旧称)に封じられた。戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。皇太子であった長男・朱標が死去すると、洪武帝は4男の朱棣(後の永楽帝)に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止めた。朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだという。1398年、洪武帝が死去し、長男・朱標の子が建文帝として即位した。燕王朱棣を逮捕する動きに反発した朱棣は兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は南京を攻撃。建文帝は宮殿に火を放った。1402年、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した。永楽帝は、北平に国都を定め、紫禁城を完成させ移った。
 永楽帝は積極的な外征を行い、対外進出を中心にした政策を実施した。宦官の鄭和を七度にわたり大艦隊を南海方面に派遣(1405―1433年)。東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させたことで知られる。(ウィキペディアを参考にした)

 琉球史でも似た事例があった
 番組を見て印象に残ったのは、四男でありながら洪武帝が後継者に思うほど、有能な人物であったこと。洪武帝の没後、皇位についた長男の息子といえば、永楽帝にとって甥っ子にあたる。その甥を武力で倒して皇位を簒奪したこと。当時の国都・南京の攻撃の際、宮殿は焼け落ちたことである。
 「あれっ、琉球でもなんか似たような事例があったな」と思った。それは第一尚氏の六代目、尚泰久王(1415―1460年)の即位である。琉球王府の正史では、五代目金福王が亡くなった後、王位を巡って金福王の子・志魯(しろ)と尚巴志の四男・布里(ふり)が争った「志魯・布里の乱」で二人とも共倒れとなり、金丸(後の尚円王)らに推されて尚泰久が王位に就いたとされる。だが、これは真実なのか?。
             
 「尚泰久の乱」とは
 「志魯・布里の乱はなかった」「実際には尚泰久の乱だった」という注目される論考が出されている。すでにこのブログでも紹介した。高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」(内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』)である。こ の論文から要点だけを再度紹介する。
                          尚泰久王の墓
                             尚泰久の墓

   琉球王府の正史のうち、『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、この「志魯・布里の乱」の記述はなく、『蔡温本世譜』と『球陽』だけに記述が出現する。この記事は、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』をもとにしており、『中山沿革志』は『明実録』を基にまとめたものである。『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである」。
 尚泰久は、尚金福の在位中から、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立ち、とても存在感を示していたという。
 <「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>
 高瀬氏はこのように結論づけている。


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