「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その42018-10-29 Mon 12:17
琉球旋法の起源とその特異性 新崎氏は、さらに沖縄独自な特殊な旋法「琉球旋法(または琉旋法)」の起源に就いて考察をしている。 「ファ、シ」の増4度の音程が、人間の充たされぬ気持ちを表現する音程とするならば沖縄の過去の歴史の中にそれを求める土壌がなければ生まれなかったであろうと考えられるからである。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)> なぜ琉球音階が、忌み嫌われている「ファ、シ」の哀音で作られているのか。沖縄の人々がなぜ心の表現として、「ファ、シ」の哀音を求めたのか。そこには、それを生みだした歴史的な土壌がある、と新崎氏は見ている。 <思い当たる節がある。即ち、1609年慶長14年(尚寧時代)に島津藩の侵攻を受けた歴史がある。 史実によると、その当時の沖縄の社会は戦乱のあけくれで、人々はその渦中に巻き込まれ不安と失望で動揺し、日々苦悩の日を送っていたと言う。…おそらく、慶長の琉球入の後の廃退した社会環境の中で心の叫びとしてこの哀調を帯びた琉旋法のメロディーが、謡われるようになったのではないかと推考される。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)> <おそらく、当時の沖縄の社会は混乱にあけくれて、かかる不安動揺の世相の中では、…人々は、ただ日々の苦悩と忍従を強いられ、自らのみじめさを哀み、「ファ、シ」の音で心を癒していたにちがいないと思われてならない。(同書)> <かかる不安な社会情勢の中では、音楽にしても到底、希望に満ちた明るい音は求められるものでなく自ら哀調をおびた「ファ、シ」の音階の歌を口づさみたくなるのも当然のことと言えよう。(同書)> 沖縄独特の音階には、王府時代からの沖縄が歩んできた歴史と社会的な背景があるという指摘は、とても興味深い。 スポンサーサイト
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「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その32018-10-25 Thu 22:33
八重山民謡の音階と特色 八重山の古謡(ユンタ・ジラバ)の中に律音階が多く残っているそうだ。 八重山には沖縄音階の「琉旋法」の民謡も多くあるが、三味線文化が沖縄本島から役人によって八重山に持ち込まれて発展した文化といわれる。 <琉球旋法は、おそらく、三味線が八重山に伝わり、琉歌体(8,8,8,6)による三味線音楽の文化が、八重山の庶民の生活の中に定着して後に、琉球旋法による民謡も生まれたのだろうと推考される。その最も代表的なものが、与那国ションカネー、川平節、小浜節、黒島口説等がそれである(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>。
<単的に言うと、ユンタは「囃し謡法」であり、ジラバは「ウティナン、スサナン」謡法ということができる。
ジラバは、一節、二節とメロディーが少し異なり変化するので、難しさがある。 |
2年ぶりに沖縄の産業まつり2018-10-21 Sun 23:15
「うちなー発 世界にとどけ県産品」をテーマに沖縄の産業まつりが19日から3日間、奥武山公園で開かれた。昨年は台風で中止となったので二年ぶりの開催である。21日に出かけてみた。
![]() 秋晴れの絶好のまつり日和だ。たくさんの人たちがつめかけていて、どこの出店もごった返していた。 各地の味が楽しめる「ありんくりん市」を回る。すぐ目に入ってきたのが、厚切りハムとソーセージの店。さっそくハムを買ってみた。焼いているサングラスの人、なんか外人っぽい。ハムは食べごたえがあった。 ![]() ツレのお気に入り、アガラサー。アツアツで黒糖が入っていて、とっても美味しい。他のアガラサーとは違う美味さ。 ![]() 産業まつりの大きな魅力は、県内の名のある泡盛酒造所が勢揃いして、試飲をさせてくれること。 うるま市の神村酒造は、なんと66度という与那国島の「どなん」を上回る度数の酒を出していた。度数が高いと泡盛と名乗れないらしい。舌に載せるだけで蒸発する感じ。これまで飲んだ種類で最高の強さだった。 ![]() 久米仙では、樽で貯蔵した古酒(クース)を出していた。2001年貯蔵で43度ある。ほのかに樽の香りがしてなんかウィスキーに近いかも。 ![]() 瑞穂酒造は毎週のように工場の側を通る。泡盛の香りが付近一帯に漂っている。 この店では、1990年蒸留44度の古酒を試飲させてくれた。 当たり前のことだが、古酒といっても、貯蔵年数や酒造所によって、味わいがかなれ異なる。 ![]() 糸満市のまさひろ酒造は、テレビコマーシャルで一升瓶の頭のせダンスで知られる。お店前では、一升瓶を載せてPRするおじさん。「私はテレビ出ていないよ」とのこと。まさひろ酒造の社員はみんな一升瓶ダンスができるのだろうか。 ![]() このほか、崎山酒造や久米島の久米仙、40余りの酒造所の泡盛をブレンドした商品などたくさんの泡盛を試飲させてもらった。試飲だけで酔いそう。 嘉手納の6種類の唐揚げ、八重山のかまぼこ、沖ハムのハムなどお買い上げ。買った食べ物を肴にして、オリオンビールのブースで名護工場直送の生ビールをいただいた。これも産業まつりのお楽しみだ。 |
「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その22018-10-19 Fri 22:25
「しゅうら節」の音階の特徴 八重山民謡の「しゅうら節」のメロディーが、なぜ沖縄民謡「かいされー」へと発展したのか。新崎氏は「それには確かに音階の進行に魅力があったのではないか」と指摘する。 新崎氏は「しゅうら節」「遊びしゅうら節」を五線譜に直して掲載してくれている。その音譜をピアノで弾いてみると、なるほど典型的な沖縄音階のメロディーとして響く。その秘密は、「レ・ラ」抜き、「ファ・シ」の音を主体としたメロディーの進行にあるようだ。 新崎氏は、八重山民謡が沖縄本島に持ち込まれ沖縄化した事例を次のように挙げている。西表島の「真山節」が歌劇「伊江島ハンドゥー小」の主題曲「ハンドゥー小節」に、竹富島の「まざかい節」が沖縄の雑踊り貫花「武富節」(たきどぅん節)へ、「バナレーマぬ前ぬ渡」が琉球古典の「遊びションカネー」へ、石垣島白保の「しんだすり節」が喜歌劇「馬山川」と等々と数え挙げればきりがないとのべている。
八重山民謡の音楽的な特徴については、次回にもう少し詳しく見てみたい。 |
「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その12018-10-16 Tue 22:51
「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」 その曲そのものは八重山民謡「赤馬節」の「チラシ」に出てくる「しゅうら節」であるが、そのメロディーが、いつのまにか沖縄本 島に持ち込まれアレンジされて「遊び唄」の代表的な歌として定着し、今では、強いて八重山民謡だ!とはきめつけられない程、沖縄化し、本島での遊び唄になっている。』 「かいされー大会」も開かれている。南城市の大里城址公園で9月22日にあったばかりだ。南城市を詠んだ琉歌を「かいされー」の曲調にのせて歌三線を奏で競う大会である。南城市とどんなかかわりがあるのかは知らない。 八重山の「しゅうら節」にも、「遊びしゅうら節」(竹富島)という曲があるという。新崎氏は次のようにのべている。 あくまで私見ではあるが、普久原恒勇氏編の『沖縄の民謡』の中に記されている「かいされー」の解説と竹富の「遊びしゅうら節」の内容等を比較検討してみると、その「遊びしゅうら節」がひょっとしたら沖縄本島に「遊び歌」として、持ち込まれた情歌「かいされー」歌へと発展したのではないかとも考えられる。なぜならばその理由(わけ)は「かいされー」という言葉のもち意味が「遊びしゅうら節」の句の中にある「美さんでぃ、美さにふりるな」という歌詞の「美さんでぃ」の言葉が沖縄方言になまって「かいされー」と発音されたのではないかと推測されるからである。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>
<「しゅうら節」は、元々、嫁をとる際の教訓的な歌として八重山では祝宴の席で「赤馬節」のチラシの音曲として広く親しまれてきた歌であるが、その哀調帯びたメロディーが若者の心を捉えたのかいつのまにか遊び唄として若者の間に流行り、それが沖縄本島に持ち込まれた今では八重山民謡とはいえない程、古典的な沖縄の情歌「かいされー」に大きく様変わりしているのに目を見張るものがある。(同書)> |
アルテで「やいま~まるまぶんさん節」を歌う2018-10-14 Sun 23:01
毎月恒例の「アルテミュージックファクトリー」が13日夜開かれた。今月のテーマは「酒」。久しぶりの参加の方が何人もいて、終わりはこれも久し振りに11時だった。今回も自分にかかわるものと、久しぶりの方のみ紹介する。
越智さんはトランペットで「酒とバラの日々」を演奏し、ツレがピアノでコラボした。 比嘉さんは、カレッジフォークの「フォー・セインツ」が歌った「この街で」を歌った。何カ月ぶりの登場だろうか。 ![]() 徳門さんはピアノ独奏で「森へ行きましょう」を演奏した。元気な姿を見れて嬉しい。 ![]() 私は、ミヤギマモルさんの代表曲「やいま」と八重山民謡「まるまぶんさん節」を歌った。「やいま」は故郷をしのぶ曲なので、てっきり石垣島から沖縄本島か本土に出て、八重山をしのぶ曲だと思っていた。でも八重山出身の友人が言うには、「あの曲は、彼の父親が教員で離島に赴任していて作った歌ですよ」というのでちょっと意外だった。曲中に「月の浜辺で泡盛飲みながら…」と出てくるのでテーマにあっている。 ついでに「夜の明けるまで歌った島唄よ」と出てくるので、「まるまぶんさん節」を続けて歌った。この曲は、西表島の祖納湾に浮かぶ小島の情景を歌っている。盆山のような小島を夕暮に眺めると、風向きを知り白サギが来る。祖納の入り江の標木の上には海鵜が魚を捕ろうと構えている。離れの水路を渡り帰ってくる舟を見ると、舟人の掛け声と櫓をこぐ音が勇壮である。 ツレはピアノ弾き語りで、テレビのCМで流れた「ウィスキーがお好きでしょ」を歌った。雰囲気がよく出ていたのではないか。 カオル&タカは二人そろっての演奏は1年ぶりくらいだろう。みなみらんぼうの「ウィスキーの小瓶」を演奏した。カッコイイ演奏で楽しませた。 ![]() ツレはピアノ独奏でメンデルスゾーンの「舟歌」を演奏した。 由美子さんも1年ぶりくらいか。オカリナで「白いブランコ」を演奏。越智さんがギターでサポートした。 伊波さんは、ボーカルの女性をお誘いして初めて出演し「芭蕉布」を歌い、自分も「銀色の道」を歌った。 ![]() イタリアから沖縄芸大に来ている留学生の男性は、ギターで「アルハンブラの宮殿」「ベサメムーチュ」を演奏した。見事な演奏で「ブラボー!」の声が飛んだ。 ![]() みなさん、テーマにそってギター独奏、ギター弾き語りからピアノ独奏、ピアノ伴奏による独唱、ボイスパーカッションまでとっても充実した演奏会だった。 |
盛り上がった「あの時君は若かった」1000回記念コンサート2018-10-10 Wed 23:35
RBCの人気番組「あの時君は若かった」1000回放送記念コンサートが、沖縄市ミュージックタウン音市場で8日夜あり、満席のリスナーさんたちで大盛り上がりだった。 SSライブはよく聞いているが、音市場は音響もライトも最高。みなさん大満足で楽しめたようだった。 |
「朝ぱな節」考、その52018-10-07 Sun 14:23
「あさぱな」は忘れられ「六調」は発展
新崎氏によると、「八重山六調」の三味線技法を見ると二通りあるという。一つはスキップリズムを主体とする奏法と、今一つは三連音符を駆使した三味線奏法である。前者は石垣市中心の四ケ字で弾かれ、後者は宮良以東で弾かれる技法だという。 「六調節もその発展の過程において、鳩間加真戸さんの手によって大正14年頃新たに三連音符を駆使した三味線技法に作り替えられたことになる」。六調節は明治年代にすでに伝わっていたが、鳩間氏は三連音符の奏法に作り替えたと見ている。 奄美にルーツを持つ二つの島唄の中で、「あさぱな」はなぜかあまり広がらず、登野城と白保の一部で命脈を保つぐらいで忘れかけられている歌だという。 一方「六調節」はその後もますます広がりをみせ、今では八重山におけるめでたい宴席や祭行事の道踊りとして欠かせない民謡となり、「八重山の唯一のカチャーシ音楽として大きく発展している」(『八重山民謡の考察』)という。 竹富町小浜島の「結願祭」の舞台芸能。「六調」も踊られている 奄美歌が伝わった背景に八重山社会の変貌が それにしても、奄美の島唄がなぜ、沖縄本島や宮古島を飛び越して八重山に伝わり、親しまれるようになったのだろうか。そこには、社会的な背景がある。新崎氏は次のように述べている。 <明治12年の琉球廃藩を境に八重山の社会は大きく変貌し、これまで通っておった「マーラン船」にとって変わり、大型の蒸気船が就航するようになった。これまで長いこと閉ざされていた階級社会も一気に開放され、自分の意志で沖縄本島や本土(大和)へ自由に往き来できるようになったと言う。それに伴い大和商人(鹿児島、奄美出身者)を初め元首里王府役人等も職を求め、新天地八重山へ洪水のように入ってきた。(『八重山民謡の考察』)> 仲宗根幸市氏が解説している「沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され(た)」という話しも、大和からの流入の一環なのだろう。 <おそらく、当時の八重山の社会は廃藩後、日も浅く人々の心も落ちつかず、ほそぼそと暮らしていたに違いない。しかも、当時の八重山の政治、経済界はすべて大和の人々(鹿児島出身者)によって牛耳られておつたことは明治大正初期の方ならまだ記憶に残っておられることと思う。当時の八重山の社会は大和化の風潮が強く、人々は社会から一人前の人間と認められるためにも躍起になって大和文化を生活の中に採り入れようとした。… 特に、当時の若者等は時代の激動を乗りこえるために競って大和化を求めていた。それが民謡の中にも表われ「あさぱな」や「六調節」を導入し、またアレンジしたのではないかと考えられる。しかも、彼等はそれを謡い踊ることによって我を忘れ日頃のストレスを発散させていたのではないかと考えられる。その意味から言っても、確かに「あさぱな」「六調節」は当時の社会を象徴する歌であり、世相を反映した民謡と言えるのではないかと思う。(『八重山民謡の考察』)> 廃藩置県後に八重山は、鹿児島や奄美諸島から大勢の人たちが新天地を求めて流入し、政治、経済界で大和の人々が力を持ち、大和化の社会風潮も強かったという。その過程で、奄美を代表する島唄である「あさぱな」や「六調」が導入され、アレンジされ、歌い踊られるようになったという。 それにしても、このように民謡の広がり、伝わり方を探っていくと、そこには時代状況と社会的背景が刻まれており、とても興味深いものがある。 終わり |
「朝ぱな節」考、その42018-10-04 Thu 22:17
なぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのか
奄美諸島と八重山諸島は遠く離れている。沖縄本島や宮古諸島を飛び越してなぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのだろうか。仲宗根幸市氏は、次のように指摘している。 <奄美の「あさぱな節」が八重山に伝ぱしたのは、八重山の人が奄美で習い覚えて持ち帰ったケースや、奄美の人が八重山へ持ち込んだケースなど複数の線が考えられる。そして、八重山風に潤色して歌遊びの場に根づかせたのである(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)> 八重山の歌詞を見る限り、仲宗根氏が指摘している通り、「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある点でも、八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージし、奄美の「浅い女」など女性の形容詞としての用例を継承している点でも、奄美から伝わったことは確かと思われる。 ただまだ、どのように伝わったのか、その具体的な経緯はわからない。仲宗根氏は別途、「あさぱな」と「六調」が奄美から伝わった背景を解説している。 <仲宗根幸市氏(しまうた文化研究会長)の説によれば 『明治12年の沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され、そこで彼等は農業を手広く営んでおられたと言う。その伊野田地区に最も近い白保の人々は日頃から奄美の方々と交流をしている裡に「あさぱな」を習いそれがいつしか八重山風にアレンジされて流行ったのが八重山の「あさぱな」の起源であると述べている。その証拠に「あさぱな」が白保部落に、今なお、色濃く遺っておるのもそのためであろう』 と記しておられる。 なお、「八重山六調」も彼の説によれば、奄美の方を父にもつ宮良部落の鳩間加真戸さん(調査当時89才)が、若い頃(大正14年頃「37才」)父の出身地奄美の名瀬から六調を持ち帰えり、アレンジして宮良で流行らされたと述べておられる。> この仲宗根氏の見解は、新崎善仁氏が『八重山民謡の考察』の中の「『あさぱな・六調節』のルーツとその歴史的変遷」という論文で紹介している。 八重山の六調 新崎氏も<八重山の「あさぱな・六調節」はもともと、奄美大島の歌と言われているが、古老たちの話によれば、明治12年の沖縄廃藩後まもなく、奄美から持ち込まれ、そこでアレンジされて流行った歌とされている(『八重山民謡の考察』)>と記している。 新崎氏は、「あさぱな」と「六調節」を一括してそのルーツを考察している。仲宗根氏とは異なる見解である。以下そのなかから紹介する。 新崎氏は、「あさぱな・六調節」は、石垣島の登野城永用氏が奄美から持ち込んだと述べている。その根拠としているのが、伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問)がまとめた「あさぱな六調節考」という資料である。そこには証言が紹介されている。二つの証言を引用する。 <○字大川の長田紀光氏(八重山ユンタ・ジラバ・アヨーの師匠「調査当時88才」の話) 「あさぱな」は大島の歌で、登野城村の誰かが大島に行かれ、そこで習ってこられ、八重山風に直して流行らされたと聞いている。私たちは昔から「あさぱな」は登野城の歌といっている。それから「六調節」は昔から各地区にあったと思う。その理由は明治38年、八重山島庁新築落成祝い(現在の地方庁)の時、大川村は六調節を道踊りとして出ていた。その時の踊り手や、師匠等、私はみな覚えている。」> <○字登野城の伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問「調査当時83才」の話(現在91才)) 「私が子供の頃、父(嘉永5年生)から聞いた話で、八重山の「あさぱな」「六調節」はカニホー屋ぬ主(登野城永用翁)が大島で習ってきて、みなに教え流行らせた歌である。また、もう一つ私が子供の頃、ある行列があって、隣の家で大浜信烈翁(大浜信泉先生の父)が沢山の婦人たちに道踊りとして「あさぱな」を教えておられたことを覚えている。(今から70年前のこと)大浜信烈翁は安政4年(1857)3月24日生で(122年前の人)当時、登野城永用翁とは同趣味をもっておられた先輩後輩として親交も厚く、民謡もよく研究し謡っておられた。また、当時、白保の琉舞師範星潤氏(元立法院議員星克の父)は信烈翁の長女婿でもあったせいか白保部落にも盛んに「あさぱな」は踊られていた。」> 奄美の六調 この証言によれば、「あさぱな・六調節」は「カニホー屋ぬ主(登野城永用翁)」という特定の人物が、奄美大島で習ってきて、教え流行らせたという。証言は具体的で信憑性は極めて高いと思われる。 では、「あさぱな」は奄美からの入植者がいて、白保住民との交流の中で伝わったという仲宗根氏紹介の伝承との関係はどう考えればよいのか。奄美の出身者がいれば、三線を持って来ていて、折々に奄美島唄を歌っていたはずである。白保住民との交流があれば、それが伝わることは自然な流れである。だから、白保に伝わったという伝承も否定はできない。白保と登野城の伝承は、互に否定する関係ではないし、矛盾はしない。白保にも登野城にも二つのルートで伝わったと考えることは、十分あり得ることである。 「六調節」については、仲宗根氏の解説する大正年代よりもっと前に伝わっていたという。新崎氏は次のようにのべている。 <「あさぱな・六調節」は沖縄廃藩後、まもなく、登野城永用氏によって奄美から持ち込まれ、アレンジされてすでに巷で流行っており、その証拠に、明治38年の島庁(現在の地方庁)の新築落成祝賀行事の際に道踊りとして登場し、踊られていた形跡がある。それから推してみてもすでに90有余年(注・著作の出版は1992年)も経過していることになる。> これは、先に紹介した字大川の長田紀光氏の証言で明らかにされている。 |
「ウチナーンチュすごい!」、デニー圧勝2018-10-01 Mon 23:17
9月30日開票の沖縄県知事選は、「オール沖縄」勢力が推す玉城デニーさんが、知事選過去最高の39万6632票を獲得。自公らの推す佐喜真淳氏に8万票余りの大差をつけ、圧勝した。
県民の間から「ウチナーンチュすごい!」の声が上がっている。安倍政権が直接乗り出して、公明、維新も取り込み、企業・団体を締め付けて総力をあげてきたのを跳ね返しての勝利。翁長知事の遺志を受け継ぎ、辺野古新基地は造らせないと訴えぬいた玉城さんへの県民の強い期待と支持は、大方の予想を超えるものだった。そこには、県民の熱い思いが込められている。 ![]() 「琉球新報」10月1日付紙面から それにしても、菅官房長官の選挙結果に対する化石のような対応にはあきれるばかりだ。「辺野古埋め立ては県知事の承認を得ている」「辺野古移設と普天間返還実現の考えに変わりない」とこれまでと同じ態度である。 埋め立て承認をした仲井真元知事は公約を破りの裏切り行為で県民から引きずりおろされた。4年前の翁長知事の大勝、今回の玉城氏の圧勝と2度にわたり県民は、政府の理不尽な埋め立て強行に「辺野古ノー」の審判を突き付けている。民主主義社会にあって、選挙によって、一度ならず二度まで「辺野古ノー」のキッパリとした審判を下した結果をないがしろにすることは絶対にあってはならないことだ。民主主義と地方自治の土台を揺るがすことになるからだ。 菅官房長官は、玉城氏と会うことは否定していない。だが会っても、「政府の態度に理解を求める」などという硬直した対応は、この選挙結果を無視することになる。 日米両政府は、玉城デニー新知事を誕生させた沖縄県民の意思をしっかりと受け止めて、辺野古新基地断念、普天間飛行場の閉鎖と撤去にかじを切り替えるべきだと思う。 |
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