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レキオ島唄アッチャー

「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その4

琉球旋法の起源とその特異性

 新崎氏は、さらに沖縄独自な特殊な旋法「琉球旋法(または琉旋法)」の起源に就いて考察をしている。
 かつて、文部省派遣のある音楽指導員が夏期音楽講習の際、述べたことが記憶に残っているそうだ。
 <「沖縄の琉旋法の音階は本土の雅楽の中にある律旋法の音階や、陽旋法(田舎節)、陰旋法(都節)等の音階、それに、支那(中国)大陸における呂旋法の音階の構成とは全く異なり、沖縄独特な旋法のような感じがする。その理由は、琉旋法の音階の中には、西洋音楽では昔から人間の充たされぬ心を表わす音として最も忌み嫌われている「ヘ音、ロ音」(ファ、シ)の増4度の音程、即ち、「悪魔の音程」を沖縄の民謡の中では好んで使われているから珍しい。」と話しておられたことが、印象に強く残っている。…

 「ファ、シ」の増4度の音程が、人間の充たされぬ気持ちを表現する音程とするならば沖縄の過去の歴史の中にそれを求める土壌がなければ生まれなかったであろうと考えられるからである。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>

             

 そう言われれば、「ファ・シ」は半音のためか、なにか不安定な感じがする音である。

なぜ琉球音階が、忌み嫌われている「ファ、シ」の哀音で作られているのか。沖縄の人々がなぜ心の表現として、「ファ、シ」の哀音を求めたのか。そこには、それを生みだした歴史的な土壌がある、と新崎氏は見ている。

<思い当たる節がある。即ち、1609年慶長14年(尚寧時代)に島津藩の侵攻を受けた歴史がある。

 史実によると、その当時の沖縄の社会は戦乱のあけくれで、人々はその渦中に巻き込まれ不安と失望で動揺し、日々苦悩の日を送っていたと言う。…おそらく、慶長の琉球入の後の廃退した社会環境の中で心の叫びとしてこの哀調を帯びた琉旋法のメロディーが、謡われるようになったのではないかと推考される。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>

<おそらく、当時の沖縄の社会は混乱にあけくれて、かかる不安動揺の世相の中では、…人々は、ただ日々の苦悩と忍従を強いられ、自らのみじめさを哀み、「ファ、シ」の音で心を癒していたにちがいないと思われてならない。(同書)>

<かかる不安な社会情勢の中では、音楽にしても到底、希望に満ちた明るい音は求められるものでなく自ら哀調をおびた「ファ、シ」の音階の歌を口づさみたくなるのも当然のことと言えよう。(同書)>

沖縄独特の音階には、王府時代からの沖縄が歩んできた歴史と社会的な背景があるという指摘は、とても興味深い。

(終わり)
 



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「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その3

 八重山民謡の音階と特色

  八重山民謡は「多彩な謡法と幅広い音階を兼ね備えたものが多く、しかも、変化に富んだメロディーが多い」と新崎善仁氏はその魅力の秘密を語っている。沖縄本島の民謡は、「レ・ラ」抜きの沖縄音階の曲が多いけれど、八重山の場合は3つの音階が使われているという。
 新崎氏は「八重山民謡の旋法を分類してみると、概ね、次の旋法、即ち、律旋法、呂旋法、それに琉球旋法からできていることがわかる。この3つの旋法が、八重山民謡の基調をなしている」(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)という。
 旋法とは、「音階が単に音を音高により昇順あるいは降順にならべたものであるのに対し、旋法は主音あるいは中心音、終止音、音域などの規定を含む。 旋法は特殊化した音階」(ウィキペディア)とされる。
 律音階は、ド・レ・ファ・ソ・ラ・ドの五つの音(ミ、シ抜き)からなり、「八重山音階」と呼ぶ人もいる。呂音階は、ド・レ・ミ・ソ・ラ・ドの5音からなり、半音(ファ・シ)がない。琉球音階は、ド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で、「レ・ラ抜き」で「ファ・シ」の半音が入る。
 律、呂の旋法は、「遠く仏教伝来の際、朝鮮半島の百済から我が国に伝わってきた文化」だが、呂旋法は、本土の風土になじまなかったのか、いつしかその姿を消し、今では「律音階による旋律しか遺っていない」(同書)。
しかし、八重山地方には、「今なお、律、呂の旋法が民謡の基調をなしているのは大変面白い」「年代的に見ると古い民謡ほど、律、呂の旋法の痕跡を遺している」とのことである。

 例えば、「鷲ユンタ」を初め、「首里子ユンタ」「まへーらつユンタ」やその「トース」、等は律旋法の音階で構成されており、そのほか、「くいちゃ踊る」や「千鳥節」「世果報」「夜雨節」「高那節」「六調節」等々の節歌も律音階でできている、という。

 八重山の古謡(ユンタ・ジラバ)の中に律音階が多く残っているそうだ。

八重山には沖縄音階の「琉旋法」の民謡も多くあるが、三味線文化が沖縄本島から役人によって八重山に持ち込まれて発展した文化といわれる。

<琉球旋法は、おそらく、三味線が八重山に伝わり、琉歌体(8886)による三味線音楽の文化が、八重山の庶民の生活の中に定着して後に、琉球旋法による民謡も生まれたのだろうと推考される。その最も代表的なものが、与那国ションカネー、川平節、小浜節、黒島口説等がそれである(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>。

                  
 <このように八重山の民謡は、これ等文化の輻輳(注・ふくそう)したもので、音階的に分析してみれば律はもちろんのこと呂、琉と、3つの旋法による民謡が多いことがわかる。なかでも「ユンタ、ジラバ」謡法はまた格別で、それは庶民が生きるために、生みだしたと思われる特殊謡法で、即ち「囃し謡法(ユンタ)」「ウティナン、スサナン謡法」(ジラバ)等がある。その謡法が八重山民謡をより豊かに幅広い色彩のものに創りあげているのがわかる。それがひいては八重山をして「詩の国、歌の国」と評価された所以もその辺にあるのではないかと思う。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>


 本題から少し外れるが、ユンタ、ジラバの謡法について、まだよくわからないので新崎氏の解説を見ておきたい。

 <単的に言うと、ユンタは「囃し謡法」であり、ジラバは「ウティナン、スサナン」謡法ということができる。
 いずれの謡法とも交互謡いには違いないが、その内容が異なる。即ち、ユンタは曲の随所に囃しを入れての一パターンの交互謡いであるのに対し、ジラバは第一節、二節とも、おのおの異なったメロディーで構成され、しかも、謡法に変化を与えるため、一節、二節を交互に歌うところがユンタとは異なる。この謡法を地元では「ウティナン、スサナン」謡法と言っている>


   私が通う八重山民謡サークルでもいま、ユンタを歌っているところだ。三線を弾かず、
拍手だけで男女交互に歌うユンタの謡法は、沖縄本島にはない八重山ならではの魅力である。

 ジラバは、一節、二節とメロディーが少し異なり変化するので、難しさがある。
「これ等双方の謡法を適当に組み合わせて歌うことによって、長い労働の中でも飽きることなく、何時までも歌い続けることができるからであろう。その意味で、ユンタ、ジラバが労働歌と言われる所以もそこにあるのではないかと思う」(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)とされる。



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2年ぶりに沖縄の産業まつり

 「うちなー発 世界にとどけ県産品」をテーマに沖縄の産業まつりが19日から3日間、奥武山公園で開かれた。昨年は台風で中止となったので二年ぶりの開催である。21日に出かけてみた。
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   秋晴れの絶好のまつり日和だ。たくさんの人たちがつめかけていて、どこの出店もごった返していた。
 各地の味が楽しめる「ありんくりん市」を回る。すぐ目に入ってきたのが、厚切りハムとソーセージの店。さっそくハムを買ってみた。焼いているサングラスの人、なんか外人っぽい。ハムは食べごたえがあった。
  
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  ツレのお気に入り、アガラサー。アツアツで黒糖が入っていて、とっても美味しい。他のアガラサーとは違う美味さ。
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    産業まつりの大きな魅力は、県内の名のある泡盛酒造所が勢揃いして、試飲をさせてくれること。
 うるま市の神村酒造は、なんと66度という与那国島の「どなん」を上回る度数の酒を出していた。度数が高いと泡盛と名乗れないらしい。舌に載せるだけで蒸発する感じ。これまで飲んだ種類で最高の強さだった。
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   久米仙では、樽で貯蔵した古酒(クース)を出していた。2001年貯蔵で43度ある。ほのかに樽の香りがしてなんかウィスキーに近いかも。
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 瑞穂酒造は毎週のように工場の側を通る。泡盛の香りが付近一帯に漂っている。
 この店では、1990年蒸留44度の古酒を試飲させてくれた。
 当たり前のことだが、古酒といっても、貯蔵年数や酒造所によって、味わいがかなれ異なる。
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    糸満市のまさひろ酒造は、テレビコマーシャルで一升瓶の頭のせダンスで知られる。お店前では、一升瓶を載せてPRするおじさん。「私はテレビ出ていないよ」とのこと。まさひろ酒造の社員はみんな一升瓶ダンスができるのだろうか。

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 このほか、崎山酒造や久米島の久米仙、40余りの酒造所の泡盛をブレンドした商品などたくさんの泡盛を試飲させてもらった。試飲だけで酔いそう。
 嘉手納の6種類の唐揚げ、八重山のかまぼこ、沖ハムのハムなどお買い上げ。買った食べ物を肴にして、オリオンビールのブースで名護工場直送の生ビールをいただいた。これも産業まつりのお楽しみだ。
   




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「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その2

 「しゅうら節」の音階の特徴

八重山民謡の「しゅうら節」のメロディーが、なぜ沖縄民謡「かいされー」へと発展したのか。新崎氏は「それには確かに音階の進行に魅力があったのではないか」と指摘する。
 <「しゅうら節」のメロディーを分析してみたところ、その音階は沖縄独特の文化といわれている琉旋法(ド、ミ、ファ、ソ、シ)の5音階のメロディーで構成されていることがわかる。とりわけ、「ファ」「シ」の音を主体としたメロディーの進行は一段と哀調を帯びたメロディーをかもしだし、しかも各小節の区切りをまとめあげ、さお終止符の音を「ファ」で余韻を残しているところにこの曲の魅力があるのではないかと思う。


          

 もともと、琉旋法の特徴は「ファ」「シ」音を主体とした音の進行ではあるが、特に「ファ」音の終止は人間のあきたりない偲いの余韻を秘めているように思えてならない。しかもメロディーの進行の中での短四度、短五度の音階の飛躍は若者の心をいやがうえにも捉え、詩情をかきたてるのであろう。それが、若者の間では、しらずしらずのうちに遊び唄(しゅうら節)になり、後には沖縄の情歌「かいされー」等のような古典的な叙情豊かな音楽に創り替えられたのではないかと考えられる。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>

新崎氏は「しゅうら節」「遊びしゅうら節」を五線譜に直して掲載してくれている。その音譜をピアノで弾いてみると、なるほど典型的な沖縄音階のメロディーとして響く。その秘密は、「レ・ラ」抜き、「ファ・シ」の音を主体としたメロディーの進行にあるようだ。

 

 なぜ八重山民謡が採り入れられたのか

 八重山民謡がどのように沖縄本島の古典音楽や民謡に採り入れられているのかについて、このブログでも「変容する琉球民謡」としてアップしてきた。

 新崎氏は、八重山民謡が沖縄本島に持ち込まれ沖縄化した事例を次のように挙げている。西表島の「真山節」が歌劇「伊江島ハンドゥー小」の主題曲「ハンドゥー小節」に、竹富島の「まざかい節」が沖縄の雑踊り貫花「武富節」(たきどぅん節)へ、「バナレーマぬ前ぬ渡」が琉球古典の「遊びションカネー」へ、石垣島白保の「しんだすり節」が喜歌劇「馬山川」と等々と数え挙げればきりがないとのべている。

 それにしても、沖縄芝居・歌劇の役者たちがこぞって、八重山民謡を採り入れアレンジしたのはなぜだろうか。新崎氏はその理由を次のようにのべている。

  <その一つは八重山民謡の中には、当時世にも悪税といわれていた人頭税の厳しい環境の中で耐え忍びながら生きてきた庶民の生きざまを謡ったものが多く、しかも物語りの風の歌が作者等の心を捉えたのだろう。また、今一つは八重山民謡には多彩な謡法と幅広い音階を兼ね備えたものが多く、しかも、変化に富んだメロディーが多い、恐らく、作者はそれに魅かれたのであろうと考えられる。言えることは、これら採り挙げられた題材はすべて当時の庶民生活に相応しい身近なものばかりで新鮮味に富んだ題材が多かったからであろうと考えられる。それにしても、当時の芝居役者等の感覚と発想の素晴らしさには只々頭が下がる思いがする。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>
 八重山民謡は、古典民謡と言われるように、王府時代の厳しい生活と労働の中から生み出された歌であり、多彩で変化にも富んでいる。沖縄本島の役者らにとっても、とても新鮮な刺激と感銘を受け、沖縄芝居・歌劇に相応しい題材として、採り入れられたことがわかる。

 八重山民謡の音楽的な特徴については、次回にもう少し詳しく見てみたい。

 

 



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「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」、その1

「かいされー」の元歌は八重山の「しゅうら節」
ー「変容する琉球民謡」続編ー

 沖縄民謡の名曲に「かいされー」がある。早いテンポとゆっくりしたテンポの二通りある。この曲は、もともと八重山民謡の「しゅうら節」だという話を最近聞いた。
 
 新崎善仁著「沖縄の民謡『かいされー』とその素性を探る」という論文を読む機会があった(『八重山民謡の考察』)。新崎氏は「かいされー」のメロディーが、どこか八重山民謡の「赤馬節」のチラシに登場してくる「しゅうら節」によく似ているという。
 「赤馬節」は、八重山では祝儀歌、舞踊曲として、最初に演奏する習慣がある。曲名の由来として、その昔、赤毛の名馬がいてその噂が首里王府にまで聞こえ、国王に献上することになり、別れの時に作られたというエピソードがある。でもいまは別の歌詞で歌われる。
 私が通っている八重山民謡サークルでも、毎回、最初に「赤馬節・しゅうら節」とセットで演奏するので、馴染んでいる曲である。「しゅうら節」は八重山では嫁をめとる際の教訓的な歌として祝宴の座開きのおめでたい歌「赤馬節」とセットして弾かれることが多いという。
 いつもお祝いの歌として演奏するので、情歌の「かいされー」と似ているとは、まったく想像しなかった。「しゅうら節」は本調子、「かいされー」は三下げの調弦で歌うので余計、印象が異なっているのかもしれない。でも、実際は深い関連があるという。
 「しゅうら節」と「かいされー」との関係については、すでに普久原恒勇編の『沖縄の民謡』の中で指摘し、解説されているという。新崎氏の引用から紹介する。


           

 <『その歌(注・「かいされー」)は一名「じんとよー節小」といって、沖縄本島では昔から「遊び唄」として広くみんなから親しまれてきた歌である。歌詞は一定のものではなく、その時、その場に応じて即興で歌うことを建て前とし、正しくは「かいしゃ」という八重山の方言の「美しい」という意味であるが、いつのまにか沖縄方言になまって「かいされー」と呼ぶようになったということである。元歌は人間は美しいだけでいいというものではない。また、美しいからといって美しさだけにほれてはいけないよ。もっと大事なものは心だよ、と美人であることを鼻にかけた女を皮肉っている歌である。この歌のよさは即興で歌われるだけに風刺に富んだところにあるといわれている。

  その曲そのものは八重山民謡「赤馬節」の「チラシ」に出てくる「しゅうら節」であるが、そのメロディーが、いつのまにか沖縄本  島に持ち込まれアレンジされて「遊び唄」の代表的な歌として定着し、今では、強いて八重山民謡だ!とはきめつけられない程、沖縄化し、本島での遊び唄になっている。』
(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>

           
 新崎氏の指摘を読んで、初めはどうも似ている気がしなかった。だが改めて、「しゅうら節」と「かいされー」を比較し、三線で演奏してみると、なるほど、メロディーラインはよく似ている。「かいされー」は、ゆっくりした演奏では、とても味わいある情歌である。一方、早いテンポでは、「ナークニー(宮古根)」「本部ナークニー」とセットで演奏される「遊び唄」である。かつて、若者らが野原に集い遊んだという「毛遊び(もーあしび)」では、歌三線に欠かせない曲だったという。

 「かいされー大会」も開かれている。南城市の大里城址公園で922日にあったばかりだ。南城市を詠んだ琉歌を「かいされー」の曲調にのせて歌三線を奏で競う大会である。南城市とどんなかかわりがあるのかは知らない。
 「かいされー」を歌う人も、元歌は八重山民謡だと知る人は少ないのではないだろうか。

 

 竹富島の「遊びしゅうら節」

 八重山の「しゅうら節」にも、「遊びしゅうら節」(竹富島)という曲があるという。新崎氏は次のようにのべている。

 <竹富島の喜宝院の住職上勢頭同子氏の話によれば、竹富島ではその昔、教訓歌「しゅうら節」のメロディーがあまりにも叙情的であったためか当時の若者等はその哀調帯びた旋律に魅せられ、いつしかそのメロディーが若者の偲いを秘めた替え唄(遊び唄)として定着し、大正の頃までさかんに謡われていたという。島ではその歌を「遊びしゅうら節」と呼んでいたという。

  あくまで私見ではあるが、普久原恒勇氏編の『沖縄の民謡』の中に記されている「かいされー」の解説と竹富の「遊びしゅうら節」の内容等を比較検討してみると、その「遊びしゅうら節」がひょっとしたら沖縄本島に「遊び歌」として、持ち込まれた情歌「かいされー」歌へと発展したのではないかとも考えられる。なぜならばその理由(わけ)は「かいされー」という言葉のもち意味が「遊びしゅうら節」の句の中にある「美さんでぃ、美さにふりるな」という歌詞の「美さんでぃ」の言葉が沖縄方言になまって「かいされー」と発音されたのではないかと推測されるからである。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>


 新崎氏は結論として次のようにのべている。

 <「しゅうら節」は、元々、嫁をとる際の教訓的な歌として八重山では祝宴の席で「赤馬節」のチラシの音曲として広く親しまれてきた歌であるが、その哀調帯びたメロディーが若者の心を捉えたのかいつのまにか遊び唄として若者の間に流行り、それが沖縄本島に持ち込まれた今では八重山民謡とはいえない程、古典的な沖縄の情歌「かいされー」に大きく様変わりしているのに目を見張るものがある。(同書)>

 沖縄民謡に「シューラー節」という曲がある。「ヤッチャー小(グヮ)」のチラシとして速弾きで続けて演奏される。八重山民謡の「しゅうら節」とは、まったく旋律も歌詞も異なり、同名異曲であるらしい。


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アルテで「やいま~まるまぶんさん節」を歌う

 毎月恒例の「アルテミュージックファクトリー」が13日夜開かれた。今月のテーマは「酒」。久しぶりの参加の方が何人もいて、終わりはこれも久し振りに11時だった。今回も自分にかかわるものと、久しぶりの方のみ紹介する。
 越智さんはトランペットで「酒とバラの日々」を演奏し、ツレがピアノでコラボした。
  比嘉さんは、カレッジフォークの「フォー・セインツ」が歌った「この街で」を歌った。何カ月ぶりの登場だろうか。
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 徳門さんはピアノ独奏で「森へ行きましょう」を演奏した。元気な姿を見れて嬉しい。
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 私は、ミヤギマモルさんの代表曲「やいま」と八重山民謡「まるまぶんさん節」を歌った。「やいま」は故郷をしのぶ曲なので、てっきり石垣島から沖縄本島か本土に出て、八重山をしのぶ曲だと思っていた。でも八重山出身の友人が言うには、「あの曲は、彼の父親が教員で離島に赴任していて作った歌ですよ」というのでちょっと意外だった。曲中に「月の浜辺で泡盛飲みながら…」と出てくるのでテーマにあっている。
                    
  ついでに「夜の明けるまで歌った島唄よ」と出てくるので、「まるまぶんさん節」を続けて歌った。この曲は、西表島の祖納湾に浮かぶ小島の情景を歌っている。盆山のような小島を夕暮に眺めると、風向きを知り白サギが来る。祖納の入り江の標木の上には海鵜が魚を捕ろうと構えている。離れの水路を渡り帰ってくる舟を見ると、舟人の掛け声と櫓をこぐ音が勇壮である。

 ツレはピアノ弾き語りで、テレビのCМで流れた「ウィスキーがお好きでしょ」を歌った。雰囲気がよく出ていたのではないか。
             
    カオル&タカは二人そろっての演奏は1年ぶりくらいだろう。みなみらんぼうの「ウィスキーの小瓶」を演奏した。カッコイイ演奏で楽しませた。
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   ツレはピアノ独奏でメンデルスゾーンの「舟歌」を演奏した。
 由美子さんも1年ぶりくらいか。オカリナで「白いブランコ」を演奏。越智さんがギターでサポートした。
  伊波さんは、ボーカルの女性をお誘いして初めて出演し「芭蕉布」を歌い、自分も「銀色の道」を歌った。
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   イタリアから沖縄芸大に来ている留学生の男性は、ギターで「アルハンブラの宮殿」「ベサメムーチュ」を演奏した。見事な演奏で「ブラボー!」の声が飛んだ。
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    みなさん、テーマにそってギター独奏、ギター弾き語りからピアノ独奏、ピアノ伴奏による独唱、ボイスパーカッションまでとっても充実した演奏会だった。       

 
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盛り上がった「あの時君は若かった」1000回記念コンサート

 RBCの人気番組「あの時君は若かった」1000回放送記念コンサートが、沖縄市ミュージックタウン音市場で8日夜あり、満席のリスナーさんたちで大盛り上がりだった。
       SS音市場フライヤー
 この放送は、沖縄随一のGSバンド「SSカンパニー」のリーダー、瀬底正真さんとパーソナリティーの箕田和男さんが、リスナーのリクエストに応えてGS曲を流し楽しむ番組。週1回だから約20年も続く長寿番組である。
 音市場には、熱心なリスナー、SSカンパニーのファンが詰めかけて、立ち見の人もいるほど。
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   幕開けは沖縄の祝いの定番、「かぎやで風節」を人気民謡歌手の前川守賢さんと瀬底さんの歌三線で、ヘビーリスナーのみなさんが見事な舞いを披露した。
 第1部は、SSカンパニーがお馴染みのGSナンバーを演奏。初めから舞台前はダンシングで盛り上がる。
         
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   元祖ヘビーリスナーグループの「ナビーズ」のみなさんが、SSの演奏をバックに「恋の季節」を歌ってビックリ。瀬底さんの次男が東京でボイストレーナーをして指導する女性グループ「結」のみなさんも歌って花をそえた。
 
 コンサート第2部は、ミノカズさんの沖縄在住40年を記念してゲストが登場。前川守賢こと「元ちゃん」が「遊び庭」など歌った。踊りを交えた歌声に会場も踊りと囃子でボルテージは上がりっぱなし。
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 兵庫県出身でRBCラジオ番組を始めた村井敏郎さんも「琉球の月」など歌った。
 ミノカズさんと元ちゃんは、オリジナル曲「ミノケンサンバ」など歌った。「マツケンサンバ」よりも前に作られたそうだ。

  放送 1000回を祝って、リスナー、ファン48人の共同で、ケーキ、花束、寄せ書き、プレゼントの品などが贈られた。
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 ツレもお祝いのお手伝いをしていたので、2人にプレゼントを渡した。熱烈なリスナーの方々の心のこもったプレゼントにお二人はとても嬉しそうだった。

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 2部の後半は、再びSSカンパニーの演奏。DJのタカハシカツヤさん、ミノカズさんもGSナンバーを歌い、タカハシさんはドラムも叩いた。
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   最後はSSオリジナル曲を演奏。「佐敷幼稚園」では恒例のダンスの列がつながり、「また逢おうね」では、みなさん手をつないで、またの再会を誓っていた。

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 SSライブはよく聞いているが、音市場は音響もライトも最高。みなさん大満足で楽しめたようだった。
 次は、放送2000回を目指すところだが、何しろ20年先。まずは1100回を目指し、すでに放送は1002回となった。長寿番組は熱心なリスナーあってのことだと改めて思った。




 











 


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「朝ぱな節」考、その5

 「あさぱな」は忘れられ「六調」は発展
 新崎氏によると、「八重山六調」の三味線技法を見ると二通りあるという。一つはスキップリズムを主体とする奏法と、今一つは三連音符を駆使した三味線奏法である。前者は石垣市中心の四ケ字で弾かれ、後者は宮良以東で弾かれる技法だという。
「六調節もその発展の過程において、鳩間加真戸さんの手によって大正14年頃新たに三連音符を駆使した三味線技法に作り替えられたことになる」。六調節は明治年代にすでに伝わっていたが、鳩間氏は三連音符の奏法に作り替えたと見ている。
 奄美にルーツを持つ二つの島唄の中で、「あさぱな」はなぜかあまり広がらず、登野城と白保の一部で命脈を保つぐらいで忘れかけられている歌だという。
 一方「六調節」はその後もますます広がりをみせ、今では八重山におけるめでたい宴席や祭行事の道踊りとして欠かせない民謡となり、「八重山の唯一のカチャーシ音楽として大きく発展している」(『八重山民謡の考察』)という。
               
              竹富町小浜島の「結願祭」の舞台芸能。「六調」も踊られている
           
 奄美歌が伝わった背景に八重山社会の変貌が
 それにしても、奄美の島唄がなぜ、沖縄本島や宮古島を飛び越して八重山に伝わり、親しまれるようになったのだろうか。そこには、社会的な背景がある。新崎氏は次のように述べている。
 <明治12年の琉球廃藩を境に八重山の社会は大きく変貌し、これまで通っておった「マーラン船」にとって変わり、大型の蒸気船が就航するようになった。これまで長いこと閉ざされていた階級社会も一気に開放され、自分の意志で沖縄本島や本土(大和)へ自由に往き来できるようになったと言う。それに伴い大和商人(鹿児島、奄美出身者)を初め元首里王府役人等も職を求め、新天地八重山へ洪水のように入ってきた。(『八重山民謡の考察』)>
 仲宗根幸市氏が解説している「沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され(た)」という話しも、大和からの流入の一環なのだろう。
 
 <おそらく、当時の八重山の社会は廃藩後、日も浅く人々の心も落ちつかず、ほそぼそと暮らしていたに違いない。しかも、当時の八重山の政治、経済界はすべて大和の人々(鹿児島出身者)によって牛耳られておつたことは明治大正初期の方ならまだ記憶に残っておられることと思う。当時の八重山の社会は大和化の風潮が強く、人々は社会から一人前の人間と認められるためにも躍起になって大和文化を生活の中に採り入れようとした。…
 特に、当時の若者等は時代の激動を乗りこえるために競って大和化を求めていた。それが民謡の中にも表われ「あさぱな」や「六調節」を導入し、またアレンジしたのではないかと考えられる。しかも、彼等はそれを謡い踊ることによって我を忘れ日頃のストレスを発散させていたのではないかと考えられる。その意味から言っても、確かに「あさぱな」「六調節」は当時の社会を象徴する歌であり、世相を反映した民謡と言えるのではないかと思う。(『八重山民謡の考察』)>
 廃藩置県後に八重山は、鹿児島や奄美諸島から大勢の人たちが新天地を求めて流入し、政治、経済界で大和の人々が力を持ち、大和化の社会風潮も強かったという。その過程で、奄美を代表する島唄である「あさぱな」や「六調」が導入され、アレンジされ、歌い踊られるようになったという。
 それにしても、このように民謡の広がり、伝わり方を探っていくと、そこには時代状況と社会的背景が刻まれており、とても興味深いものがある。
  終わり


島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「朝ぱな節」考、その4

 なぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのか
 奄美諸島と八重山諸島は遠く離れている。沖縄本島や宮古諸島を飛び越してなぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのだろうか。仲宗根幸市氏は、次のように指摘している。
 <奄美の「あさぱな節」が八重山に伝ぱしたのは、八重山の人が奄美で習い覚えて持ち帰ったケースや、奄美の人が八重山へ持ち込んだケースなど複数の線が考えられる。そして、八重山風に潤色して歌遊びの場に根づかせたのである(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)>

 八重山の歌詞を見る限り、仲宗根氏が指摘している通り、「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある点でも、八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージし、奄美の「浅い女」など女性の形容詞としての用例を継承している点でも、奄美から伝わったことは確かと思われる。
 ただまだ、どのように伝わったのか、その具体的な経緯はわからない。仲宗根氏は別途、「あさぱな」と「六調」が奄美から伝わった背景を解説している。
 <仲宗根幸市氏(しまうた文化研究会長)の説によれば
『明治12年の沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され、そこで彼等は農業を手広く営んでおられたと言う。その伊野田地区に最も近い白保の人々は日頃から奄美の方々と交流をしている裡に「あさぱな」を習いそれがいつしか八重山風にアレンジされて流行ったのが八重山の「あさぱな」の起源であると述べている。その証拠に「あさぱな」が白保部落に、今なお、色濃く遺っておるのもそのためであろう』
と記しておられる。
 なお、「八重山六調」も彼の説によれば、奄美の方を父にもつ宮良部落の鳩間加真戸さん(調査当時89才)が、若い頃(大正14年頃「37才」)父の出身地奄美の名瀬から六調を持ち帰えり、アレンジして宮良で流行らされたと述べておられる。>
 この仲宗根氏の見解は、新崎善仁氏が『八重山民謡の考察』の中の「『あさぱな・六調節』のルーツとその歴史的変遷」という論文で紹介している。
                  
                   八重山の六調
 新崎氏も<八重山の「あさぱな・六調節」はもともと、奄美大島の歌と言われているが、古老たちの話によれば、明治12年の沖縄廃藩後まもなく、奄美から持ち込まれ、そこでアレンジされて流行った歌とされている(『八重山民謡の考察』)>と記している。
 新崎氏は、「あさぱな」と「六調節」を一括してそのルーツを考察している。仲宗根氏とは異なる見解である。以下そのなかから紹介する。
 新崎氏は、「あさぱな・六調節」は、石垣島の登野城永用氏が奄美から持ち込んだと述べている。その根拠としているのが、伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問)がまとめた「あさぱな六調節考」という資料である。そこには証言が紹介されている。二つの証言を引用する。
<○字大川の長田紀光氏(八重山ユンタ・ジラバ・アヨーの師匠「調査当時88才」の話)
「あさぱな」は大島の歌で、登野城村の誰かが大島に行かれ、そこで習ってこられ、八重山風に直して流行らされたと聞いている。私たちは昔から「あさぱな」は登野城の歌といっている。それから「六調節」は昔から各地区にあったと思う。その理由は明治38年、八重山島庁新築落成祝い(現在の地方庁)の時、大川村は六調節を道踊りとして出ていた。その時の踊り手や、師匠等、私はみな覚えている。」>

<○字登野城の伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問「調査当時83才」の話(現在91才))
「私が子供の頃、父(嘉永5年生)から聞いた話で、八重山の「あさぱな」「六調節」はカニホー屋ぬ主(登野城永用翁)が大島で習ってきて、みなに教え流行らせた歌である。また、もう一つ私が子供の頃、ある行列があって、隣の家で大浜信烈翁(大浜信泉先生の父)が沢山の婦人たちに道踊りとして「あさぱな」を教えておられたことを覚えている。(今から70年前のこと)大浜信烈翁は安政4年(1857)3月24日生で(122年前の人)当時、登野城永用翁とは同趣味をもっておられた先輩後輩として親交も厚く、民謡もよく研究し謡っておられた。また、当時、白保の琉舞師範星潤氏(元立法院議員星克の父)は信烈翁の長女婿でもあったせいか白保部落にも盛んに「あさぱな」は踊られていた。」>
                   
                    奄美の六調
 この証言によれば、「あさぱな・六調節」は「カニホー屋ぬ主(登野城永用翁)」という特定の人物が、奄美大島で習ってきて、教え流行らせたという。証言は具体的で信憑性は極めて高いと思われる。

 では、「あさぱな」は奄美からの入植者がいて、白保住民との交流の中で伝わったという仲宗根氏紹介の伝承との関係はどう考えればよいのか。奄美の出身者がいれば、三線を持って来ていて、折々に奄美島唄を歌っていたはずである。白保住民との交流があれば、それが伝わることは自然な流れである。だから、白保に伝わったという伝承も否定はできない。白保と登野城の伝承は、互に否定する関係ではないし、矛盾はしない。白保にも登野城にも二つのルートで伝わったと考えることは、十分あり得ることである。

 「六調節」については、仲宗根氏の解説する大正年代よりもっと前に伝わっていたという。新崎氏は次のようにのべている。
<「あさぱな・六調節」は沖縄廃藩後、まもなく、登野城永用氏によって奄美から持ち込まれ、アレンジされてすでに巷で流行っており、その証拠に、明治38年の島庁(現在の地方庁)の新築落成祝賀行事の際に道踊りとして登場し、踊られていた形跡がある。それから推してみてもすでに90有余年(注・著作の出版は1992年)も経過していることになる。>
 これは、先に紹介した字大川の長田紀光氏の証言で明らかにされている。



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「ウチナーンチュすごい!」、デニー圧勝

 9月30日開票の沖縄県知事選は、「オール沖縄」勢力が推す玉城デニーさんが、知事選過去最高の39万6632票を獲得。自公らの推す佐喜真淳氏に8万票余りの大差をつけ、圧勝した。
 県民の間から「ウチナーンチュすごい!」の声が上がっている。安倍政権が直接乗り出して、公明、維新も取り込み、企業・団体を締め付けて総力をあげてきたのを跳ね返しての勝利。翁長知事の遺志を受け継ぎ、辺野古新基地は造らせないと訴えぬいた玉城さんへの県民の強い期待と支持は、大方の予想を超えるものだった。そこには、県民の熱い思いが込められている。
     
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                   「琉球新報」10月1日付紙面から
 それにしても、菅官房長官の選挙結果に対する化石のような対応にはあきれるばかりだ。「辺野古埋め立ては県知事の承認を得ている」「辺野古移設と普天間返還実現の考えに変わりない」とこれまでと同じ態度である。
 埋め立て承認をした仲井真元知事は公約を破りの裏切り行為で県民から引きずりおろされた。4年前の翁長知事の大勝、今回の玉城氏の圧勝と2度にわたり県民は、政府の理不尽な埋め立て強行に「辺野古ノー」の審判を突き付けている。民主主義社会にあって、選挙によって、一度ならず二度まで「辺野古ノー」のキッパリとした審判を下した結果をないがしろにすることは絶対にあってはならないことだ。民主主義と地方自治の土台を揺るがすことになるからだ。
 菅官房長官は、玉城氏と会うことは否定していない。だが会っても、「政府の態度に理解を求める」などという硬直した対応は、この選挙結果を無視することになる。 
 日米両政府は、玉城デニー新知事を誕生させた沖縄県民の意思をしっかりと受け止めて、辺野古新基地断念、普天間飛行場の閉鎖と撤去にかじを切り替えるべきだと思う。

 
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