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レキオ島唄アッチャー

「朝ぱな節」考、その3

 八重山に伝わった「あさぱな」 
 奄美の島唄「あさばな節」と同じ系統の歌が八重山諸島にもあった。
 実は、八重山民謡を学ぶ仲間とカラオケに行って、私が石川さゆりの「朝花」を歌った際、隣にいたAさんが「あさばな、という歌は確か白保にもあるよね」と話しかけてきた。私はまだ八重山に「あさぱな」があることは知らなくて、うかつにも「白保にあるのは、夏花ではないですか」と答えた。Aさんも記憶が確かでなかったのか「そうか、夏花だったか」とあえて反論しなかった。でも石垣出身のAさんの記憶は正しく、八重山民謡には詳しかった。いまは恥じ入るばかりである。
 仲宗根幸市氏の『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』を読むと、3種類の歌が紹介されている。
 石垣島に伝承している遊び歌「白保あさぱな」、「登野城あさぱな」と大城志津子さん伝承の「八重山あさぱな」である。ここでは、白保と登野城の歌詞を紹介する。

 「白保あさぱな」
〽ハーレーあさぱなや 大和人(やまとんちゅ)に吾(わ)んだまさりて 
 夜昼待ちども 来りばどえいさ
〽ハーレー山がらさーや 松ぬ上にど宿やとったんでー
 昔吾ん思やーや 吾んが上にど宿やとったんでー
〽ハーレー手紙ぬちゃんてぃん 御状(ぐじょう)ぬちゃんてぃん 吾が落(う)て
 ちちゅくみ 枕並びてぃ言ち聞(ち)かさんむん 吾が落てぃちちゅみ
〽ハーレー吹ちょりよ 真南(まへ)ぬ風 すりから先までぃん
 吹ちょりよ真南ぬ風 
〽ハーレーニングル思いや あさぱな思い 家ぬ妻(とじ)ぬ思いや心から情から 
  心情思い
〽ハ―レー三味線ぐゎにゃ 吾んうち惚(ふ)りらんせ
 うりとぅてぃ弾(ひ)ちゅる二才達心から情けからなま惚りらんせ
 訳
1、あさぱな(浅い女・遊女)よ! 本土の人に私はだまされてしまった。
 夜昼待っても来ないのよ
2、山の烏は松の木の上に巣をつくり住んでいる。昔、私を思っていた方は
 私のところに一緒に住んでいたのよ
3、手紙が来ても、おおせが届いても、私が落ち着くということはありません。
 お互いに枕を並べて話しあわない限り、私が落ち着くということはありません
4、南の風よ、うんと吹きなさい。すり(不詳)から先まで、
 うんと吹きなさい南の風よ
5、ネンゴロ(愛人)の思いはあさぱな(遊び女)の思いと共通している。
 しかし、家の妻の思いは心の底から発露する情けの思いである
6、このような三線に私は惚れるのではありません。三線をとって弾く若者に、
 心から情けを感じ惚れるのです
 
 「登野城あさぱな」
〽ハーレー朝花うってぃに我んだまさりて
 夜あけ待ちやりばどぅくれがどぅ朝花らんせ
〽ハーレー手紙ぬちゃんてぃん御状ぬちゃんてぃん我がうてちちゅぅみ
 枕並びてぃいっち聞かさんむん我がうてぃちぃちゅぅみ
〽ハーレー三味線小にゃ我んふりらんせうり取てひちゅる二才にどぅ 
 しんぶり三味線我んふりたんせ
〽ハーレー山烏(やまがらし)や松が上にどぅ宿やとぅたんど
 昔我ん思やや我身が上にどぅ宿やとぅたんど
〽ハーレーにんぐる思いや朝花思い
 家ぬ妻ぬ思いや真から情からうくりぬ心情思い
〽ハーレーふっちょりくぅよぅ南の風
 ま沖縄から八重までぃふっちょりくぅよぅ南の風
 訳
1、あさぱな(遊び女)如きに私はだまされてしまった。なんと、明け方まで待っても
 来ないのだ。 これがあさぱなの姿なのであろうか
2、手紙が来ても、おおせがあっても私の気がおさまるということはありません。
 枕を並べて話してくれなければ 落ち着くということはありません
3、三線に私が惚れているのではありません。その三線をとって弾く若者にこそ、
 心から惚れるのです。そして、三線も…
4、山の烏は松の木の上に巣をつくっている。昔、私とつきあったあの人は
 私のところに住んでいたのに。
5、ネンゴロの思いはあさぱな(遊び女)の思いのようである。家の妻の思いは、
 真心から情け深い愛である
6、吹きなさい、南の風よ。沖縄へも八重山へも吹いてきなさい、南の風よ。

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                        石垣島白保の海岸
 仲宗根氏は、次のように解説している。
 <白保、登野城方面に伝承している遊び歌。この「あさぱな」は、奄美の「あさぱな節」の影響を強くうけていることが考えられる。まず、歌の冒頭に「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある。沖縄や八重山の歌(ユンタ・ジラバを除く)で冒頭から囃子の入るケースは少ない。ところが日本民謡の多くは囃子詞から入るのだ。歌で変わりやすいのは曲名や曲、歌詞であり、変わりにくいのは囃子詞や反復である。その変わりにくい要素の囃子詞を探求すれば、ある程度歌の系譜が見えてくる。
 また白保、登野城の古老伝承からも奄美伝来の確証が裏付けられている。奄美の「あさぱな節」のルーツは「あさぱなに惚りてぃわらべ妻かめてぃ花ぬさおれれば吾くとぅ思んしょり」と考えられている。つまり、当初「あさぱな」は「浅い女」「遊び女」の意味をもっていたが、「あさぼらけ」や「ものごとのはじめ」に変化。奄美では現在、挨拶歌として定着している。そして、恋歌や人生百般がうたわれている。八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージしていることから、奄美の本来の「あさぱな」の性格を継承している。「鷲ぬ鳥節」の「あさぱな」は別の意味。(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)>

 3種類の「あさぱな節」の歌詞を比較して、もっとも目に付くのは、「白保あさぱな」の歌い出し部分である。「あさぱな(浅い女・遊女)よ! 本土の人に私はだまされてしまった」と歌い始める。白保以外の他の2曲は、大和人は出てこない。「あさぱな=遊び女=如きに私はだまされてしまった」(登野城)、「あさぱな=遊び女=と思って…。彼女は私をだまして…」(八重山)と歌う。遊び女に騙された男の側から歌っている。騙したのは誰か、騙されたのは誰かで大きく食い違っている。
 ただ、1番の歌詞は、「大和人」が入るか否かで違いがあるけれど、2番以降の歌詞は、3種類の歌ともほぼ似通っている。奄美から伝わった歌が八重山で広がる過程で、多少の変化をしたのだろうか。

 「あさぱな節」は奄美から八重山に伝わり、「あさぱな」が女性の形容詞として使われているにもかかわらず、八重山と奄美の歌詞を比べると、微妙な違いがある。奄美の歌は、男性の側から「あさばなのような女に惚れて」と歌っているのが多い。八重山では「あさぱな如きに私はだまされた」と歌う。八重山で歌をアレンジしたり、歌詞をつくるなかで、奄美の「あさぱな」の性格を継承しながらも、変容したのかもしれない。


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玻名城の獅子舞を見る

 旧暦8月15日の9月24日は、沖縄では豊年祭や綱引きなど各地で行事があった。「今日は15夜豊年祭で獅子舞があるので見に来ないか」と知り合いのHさんからお誘いを受けて、八重瀬町旧具志頭の玻名城(はなぐすく)に出かけた。
 豊年祭の会場、玻名城公民館の前に子どもやお年寄りをはじめたくさんの方々が集まってきた。
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  八重瀬町のゆるキャラ「シーちゃん」が登場すると子どもたちに大人気。「シーちゃん」は、シ―サー顔で可愛いい。
 ミルク様に続いて、舞台袖から獅子舞が出てきた。獅子が舞いだすと迫力がスゴイ。中には2人が入っているが、前に飛んだり後ろにも飛んだり。不思議なほど息が合っている。
 「玻名城の獅子舞はその昔、魔除けや無病息災を祈願し人形芝居の京太郎(チョンダラー)が演じていた獅子舞を玻名城の長田家が譲り受けたことに由来します。ある年、疫病が流行し、その獅子を先頭に部落を練り歩き悪疫を追い払いました。以来、部落の守り神として大切にされています。」(「やえせ観光サイト」HP)

 獅子は棒使いやミルク様ともからんで踊った後、地域を回る道ジュネーに出た。旗頭も出て、交差点など要所で獅子舞を披露する。
 守り神の獅子に頭を噛んでもらうと、厄払いになるらしい。ただ、この玻名城の獅子舞は、子どもたちや住民を追いかけて頭を噛むことで、知られている。
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 小さな子どもを連れた親たちは、迫ってくる獅子に子どもの頭を出して噛んでもらう。怖がる子どももいるが、泣く子はいない。わがツレも後頭部からガブっと噛んでもらった。きっと何かいいことがあるだろう。
 通常の獅子舞は特有の三線の音色にのせて舞う。でもこちらは三線なしで太鼓と鉦だけの音にのり舞う。これがまたとてもリズミカルで躍動感がある。
 
     
 獅子舞の道ジュネーは、最後に「玻名城のお宮」に着いた。
 「玻名城のお宮」は、その昔、玻名城村から中国に渡って帰路、遭難した父を娘が犠牲になって救った、その娘の霊を航海安全の守り神として崇信し、お宮を建てて祀ったという。


DSC_4476.jpg 
 お宮では、御願をしてから、前の広場で子どもたちの踊りや青年の棒術、さらに獅子舞で盛り上がった。車イスに座ったおばあちゃんたちも揃って演舞を楽しんでいた。
 こんな由緒ある獅子舞をみることができてよかった。誘ってくれたHさんに感謝である。


 



  



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足がつらなくなった、「壁ドン」ストレッチ

 寝てるときに、夜中に週1回は足のふくらはぎが吊って、モーレツな痛さに見舞われていた。何が原因かもよくわからない。吊るようになったのは、この1、2年くらい前からだろうか。ネットで原因と対策を見て、多少試みても、何も変わらないままだった。
 そんな時、テレビで「壁ドン」ストレッチのことが紹介された。腰痛の改善にも効果があるとのことだった。
 「かわむらクリニックの川村明院長自身が実践するヨガをもとに考案。ひざ裏を伸ばして柔らかくすることで姿勢が整い、多くの女性の冷えや便秘、うつ気分など、体や心の不調が改善されたという」(「日経電子版」)
 私が見た時は、一つは壁にピッタリをを背をつけて立つこと。もう一つは、壁に両手をつけて片足前に出し、壁を押す姿勢を取ることだった。これを交互に繰り返す。
 「壁ドン」ストレッチを見た時、腰痛は姿勢の悪さから来ることが多いので、壁にピッタリ背をつけて立つのは、姿勢を正す効果があるのではと思った。壁を両手で押す姿勢は、ひざ裏を伸ばすので、ストレッチ効果が期待できると感じた。
 
 腰痛は今年初めに整骨院に通い、背中のゆがみを正してもらって、改善された。でもいつまた悪くなるかもしれないので、両方ともやってみようと思い、寝る前に「壁ドン」ストレッチを7月頃からやり始めた。
 やり出してからしばらくすると、寝ていても足がつらなくなっていることに気づいた。やり始めて、もう3カ月近くになるが、寝ていて足がつったのは、1回だけ。もう2カ月以上、吊っていない。ただし、夕方にソファーに座っている時、足の薬指あたりが吊ることはたまにある。でも、前に激痛に見舞われた夜中のふくらはぎが吊ることはまったく起きなくなった。あの痛さはどうしようもなかったので、とても助かっている。
 きっとひざ裏を伸ばすことが、足吊りを防いでいるに違いない。やってみての実感である。
 腰痛の予防にどれほど効果があるのかはわからないが、こちらにもなんらかの腰痛予防の効果があるのではないかと期待しながら続けていきたいと思う。

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「朝ばな節」考、その2

 諸説ある「朝ばな」の意味
 「朝ばな」の曲名と意味については、諸説がある。
 <節名の「あさばな」(朝端)は、明け方の意。「はな」は初っ端、出花などの言葉にも通じ、朝明けのすがすがしさをめでたいとする心かがこめられている。そのため、一番最初に歌う挨拶歌になっている。叉、その歌心のめでたさから祝典歌にもなっている。(同武下和平 CD「立神」解説書より転載))>
 
 <曲名は、昔は"はやり節"と言われていたようですが、明治時代になってから、"あさばな"に変わったと言われております。その"朝ばな節"は、若く美しい比喩としての朝花と、尻軽女を意味する「浅花」の意が含まれていると言いわれております。しかし、「朝花」は、「朝ばな」であり、朝の初っ端(しょっぱな)が転じたものではないでしょうか。(「奄美の館」HP)>
 この解説は、「若く美しい比喩」「尻軽女」の意味という説を紹介しながら、「朝の初っ端が転じたもの」と結論づけている。逆にいえば、「朝の初っ端」から転じて「若く美しい比喩」「尻軽女」という意味でも使われているということになるのではないか。
 
 小川学夫氏は、この「朝の初っ端」説は再考を余儀なくされているとして、次の見解をのべている。
 <曲名の由来につていは、今日歌う人、聞く人の間ではほとんど分からなくなっている。研究家 の間で最も有名なのは故文(注・かざり)英吉氏の説で、次のようなものである。
 曲名の朝ばなは、朝の入り口、朝の初まりで夜あけ、れい明という意味を持ち、やがて事の初まりといった意味にも発展した>
 <ところが、近年の調査により、各島から
○あさばなに惚れて 吾きゃや振り捨てて 花ぬ萎れれば 吾事(わくと)
 思うぶしゃれ
 (朝花のように若く、浅い女に惚れて、私を振りすてたが、
 花が萎れて魅力がなくなったらまた私の事を思って下さい) 
 ○あさばなにふれて 吾妻(とじ)暇くりて にゃまに思(うむ)いば
 吾肝(わちむ)やみゅい
 (朝花のような女に惚れて私の妻に暇をくれたが、今に思えば私の心が痛む。)
 といった歌詞が発見され「あさばな」という節名も、この系統の歌詞からついたとする見方が有力となってきた。とすれば「あさばな=朝の端」説は、ここで再考を余儀なくされるわけである。(「小川学夫 奄美民謡誌」HPからhttp://www.amakyoken.com/simauta/index.php)
              
 ここでは、「あさばな」は、女性の形容詞として使われている。小川氏によると「朝花のように若く、浅い女に惚れて」「朝花のような女に惚れて」というような歌詞は「奄美 大島、喜界島、徳之島の全域で歌われていた」という。
 曲名の由来について、諸説あるにしても、「あさばな」が「朝っ端」や「浅い女」など多義的に使われているようだ。
 いずれにしても、「あさばな」の曲名に「花」の意味はないので、漢字で「朝花」と書くのは誤りだとなる。「朝ばな節」「あさばな節」と表記するのはそのためらしい。


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「朝ばな節」考、その1

「朝ばな節」考

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーで、石川さゆりの歌う「朝花」を歌三線で歌ってみた。この曲は、熊本県出身の樋口了一さんの作詞作曲である。奄美大島の島唄「朝花節」(あさばな節)がモチーフになっていると聞いた。奄美ではとてもよく演奏される名曲である。ところが、同じ題名の曲が八重山民謡の中にもあると聞いて驚いた。歌詞を見ると、どうも奄美の影響を受けた曲らしい。「あさばな節」についてもう少し知りたい。

 奄美大島では「朝花は、歌遊びや祝宴の席でも最初に歌われるように、座の清めや、歌う前のウォーミングアップの役割を持つ」(奄美大島瀬戸内町HP)という。
 <島唄は、"朝ばなに始まり朝ばなに終わる"とも言われております。歌詞は、集いの場の挨拶が交わされるかと思えば、教訓的なものがあり、叙情詩があり、叙事詩あり、劇詩あり、詩の三代部門すべてが含まれており、最後には、"送り朝花"として歌われる別れの歌詞があり、一晩中「朝ばな節」だけ唄っていても尽きないほど多くの、楽しく面白い歌詞が残されております。(「奄美の館」HPからhttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/2639/uta/uta_102.html)>
 
 歌詞がこれほどたくさんあるというのは、びっくりである。「朝ばな節」には種類があるらしい。
<「朝ばな節」には二通りある。その一つは通常「朝ばな」とよばれている短い節の朝ばなで、もう一つは文字どおり長い節の「長朝ばな」である。「長朝ばな」は、あまりにもテンポがのろくて繰り返しが多く、特定の歌い手でないと歌えない難解な曲である。それを誰にでも歌えるようにくずしたものが、通常の「朝ばな」である。これは、詩型も異なる。「長朝ばな」が八八八六調、三十音4句の琉歌の形態をとっているのに対し、「朝ばな」は3句の全く自由な詩型になっている。歌う仕来りももあって、祝典の際は初めに「朝ばな」を2,3首歌ってすぐ「長朝ばな」を歌うことになっている。曲調も挨拶歌に相応しく喜びにあふれ、歯切れのよい壮快な感じを与える曲である。(「島唄の解説」HPから。武下和平 CD「立神」解説書より転載http://kudadon.sakura.ne.jp/minyou/utakaisetu1.htm)>
 
 「朝ばな節」の歌詞を見ておきたい。瀬戸内町HPにアップされている歌詞は、次のように始まる(http://www.town.setouchi.lg.jp/tosyokan/kan/bunka/minzoku-kogei/shimauta/asahanabushi.html)。
「ハレーイ 朝花はやり節 (ヨイサ ヨイサ ヨハレ ヨイヨイ)
ハレーイ 唄ぬはじまりや 朝花はやり節
(朝花はやり節。歌の始まりは、朝花はやり節だ。)
             
 武下和平氏のCD「立神」は次の歌詞を載せている。
 かん誇らしゃんむんや 汝(な)きゃとくま寄(ゆ)りゃとぅてぃ かん誇らしゃんむんやむんや
(貴方たちとここに寄り合って、語り合うことが出来るとは、こんなに嬉しいことはありません)
いもちゃん人(ちゅ)どぅ真実やあらむぃ 石原くみきち  いもちゃん人どぅ真実やあらむぃ
(石原道を踏み越えて、わざわざお訪ね下さった人こそ 真心のある人ではないでしょうか)


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ニライカナイはどこにある。オナリ神信仰

 オナリ神信仰をめぐって
 吉成直樹氏の『琉球民俗の底流』では、「オナリ神信仰をめぐる問題群」についてのべている。とくにここでは、主に国頭で古くから行われているシヌグとウンジャミ(海神祭)との関係を考察している。吉成氏の見解に入る前に、まずこの祭りついて見ておきたい。
 シヌグは次にような祭りである。
 「国頭村安田(あだ)で旧暦7月の初め、亥の日に行われる。厄払いに重きをおいた豊年予祝儀礼。400年近い歴史のあり、ウンジャミ(海神)祭とならぶ重要な祭祀。国の『重要無形民俗文化財(1978年)』。シヌグは兄弟ないし男の祭という意味があり、男達が中心。山の神に農作物の豊作、集落、家族の繁栄をまず祈り、次の海に向かって同様の祈りをささげる。男達は草木を身にまとい、神に扮して村を浄めるために山を下りてくる」(『沖縄大百科』)
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 ウンジャミ(海神祭)は次のような祭りである。
 「旧暦7月の行事で、盆行事後の亥(い)の日とする所が多い。穀物の収穫を終えた、農耕暦の1年の境目の時期で、そのときにあたり、祝女(のろ)を司祭者として、海神を迎え、豊作と豊漁を祈願する。シヌグと対(つい)をなしている村も多い。国頭郡北部には、シヌグと隔年に行う村もあり、海神祭を女の節供、シヌグを男の節供と説明したり、シヌグを大(ウフ)シヌグ、海神祭をシヌグ小(グワー)と規模により呼び分けたりしている。シヌグが、成人儀礼的な男子を中心とする村落組織による祓(はらえ)の行事であるのに対して、海神祭は、与論島で祝女海神(のろうみがみ)(ヌルウンジャミ)というように、成巫(せいふ)儀礼を伴う、祝女が率いる女子中心の祭祀(さいし)組織による祈願の神事の色彩が濃い。」(「日本大百科全書」)
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         安田のアシャギ
 吉成氏は、小野重明氏の議論を引用して以下のようにのべている。
 <国頭では古くから照葉樹山地を舞台にシヌグの祭りが行われてきた。シヌグは国頭から奄美にかけての土着のお祭りであり、北山王の下でのお祭りであった。中山王による三山統一の後、第二尚王朝三代の尚真王の時代を迎えて、聞得大君(注・キコエオオキミ)を頂点とするノロ神女制度が確立されるとともに、王朝文化を支える海洋性平地文化は大きく進展する。国頭の地にもそれぞれの集落にノロ制度の祭祀が整えられたが、ウンジャミはその神女制度が国頭へ持ち伝えた祭りではなかった。国頭に土着した照葉樹山地文化と、首里からノロ神女制度がもたらした海洋性平地文化との対立抗争がおこった結果としてウンジャミが国頭の地でつくられた(小野)。
 シヌグとウンジャミの出自=系譜は異なり、かつ男性年齢階梯組織の祭りが先行して形成された祭りであるとするのである。この点を補足すれば、安田では、ウンジャミとシヌググァ(小シヌグ)と呼んでおり、ウンジャミはシヌグより後発の祭りであることを示唆している。>

 吉成氏は、男性中心のシヌグは、女性中心のウンジャミより先行して形成された祭りであり、ウンジャミが後発の祭りだとする。
 その根拠として次のようにのべている。
 <女性の霊的優位あるいはオナリ神信仰が基礎にあるならば、琉球列島に広くみられるような、女性(姉妹)が男性(兄弟)を守護するという形式の祭りになるはずであり、シヌグのような男性のみの祭りは成立しなかったと考えるのが自然である。男性主体の祭りと女性主体の祭りという対になり、対抗関係にある祭りが存在すること自体、オナリ神信仰がそれらの祭りが成立する以前には存在せず、関与していないということを示している。
 素人は、オナリ神信仰はとても古い歴史をもっていると思い込みがちである。しかし、そうではないらしい。
「国頭に土着した照葉樹山地文化と、首里からノロ神女制度がもたらした海洋性平地文化との対立抗争がおこった結果としてウンジャミが国頭の地でつくられた」(小野)
 「女性(姉妹)が男性(兄弟)を守護する」というオナリ神信仰が古くからあれば、「シヌグのような男性のみの祭りは成立しなかった」(吉成)という論者の考察はとても興味深い。
   終り


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アルテで「朝花」を歌う

  毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが8日夜開かれた。今月のテーマは「楽」だった。先月は台風接近でエントリーが少なかったが、今月は若い人、グループの参加があり、楽しい音楽会になった。
   今回も、自分達にかかわるものだけをアップする。
 越智さんは、ツレのピアノ伴奏で、「霧の摩周湖」をトランペットで演奏した。
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  私は、石川さゆりが歌った「朝花」を三線を弾きながら歌った。この曲は、熊本県出身の樋口了一さんが作詞作曲した歌謡曲である。奄美諸島の名曲「あさばな節」をヒントにして作られたという。奄美では、島唄を歌う時は始まりに歌われる曲で、歌詞もたくさんあるという。
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 「朝花」は一人の女性が彼に先立たれ、子どもを育てながら、楽しい時、苦しい時にこの歌を歌って、生きていくという内容である。歌っていると気持ちの入るいい曲である。ふーみんさんにリコーダーでサポートしてもらった。

 ツレは、ピアノ弾き語りで「別れの曲」を歌った。ショパン作曲、平原綾香作詞の曲。ツレはこのところ、平原綾香がクラシックに歌詞をつけて歌った曲にすっかりはまっているようだ。
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  ピアノ独奏では、ショパンの「ノクターン嬰ハ短調遺作」を演奏した。クラシックに詳しい方から「ショパンの演奏ではこれまで一番良かったですよ」と評価された。練習は裏切らないということだろう。
 
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ニライカナイはどこにある。八重山の御嶽

 

八重山の御嶽にある「底」の名称

吉成直樹氏は、八重山の御嶽には「底」という名称が存在することに注目する。
<御嶽の名称に「底」という言葉をもつものが存在することは何を意味するのであろうか。…牧野清『八重山のお嶽―嶽々名・由来・祭祀・歴史―』(1990年)には、記載されている232例のうち12例までが「底(スク)」という言葉をもつ。…

 この「底」は文字どおり「地の底」を意味すると考えたい。仲松弥秀は、神と人間を結ぶ役割を果す「穴」を象徴するアーチ型の門がどのような場所にあるのかを列挙するなかで、八重山の多くの御嶽、と述べていたことを思い出していただきたい。これは、八重山の御嶽名の「底」が「地下」を意味するとともに、アーチ型の門が、やはり象徴的に地下へと入る門であることを示している。
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              石垣市大浜にあるアーチ型の門

 ひるがえって、「グスク」という名称も、その語源に定説はないが、この「スク」もまた「底」なのではないか、という疑いが生じるのは当然である。(『琉球民俗の底流』の「地下世界と御嶽」>



 私のブログ「『底』の字がつく民謡の不思議」でも、波照間島の事例を次のように紹介していた。

 <波照間には「スク/シュク」が語尾につく場所がいくつかある。「美底(ミスク)御嶽」(北集落)、「阿底(アスク)御嶽」(冨嘉集落)、「大底(ブスク)御嶽」(前集落)といった御嶽や、「ミシュク」(ニシハマ上)「マシュク」(北東岸)、「ペーミシュク」(冨嘉集落南)といった古い村落の跡である。
 波照間において、「スク」の名のつく場所はいにしえの島民の居住地が聖域となった場所であり、原初形態の「グスク」に相当しているといえる。…こうして見てみると、波照間において「スク(シュク)」は、聖域となった琉球王朝支配以前の村跡を指す名称であり、「グスク」の一形態であるといえる。(「波照間島あれこれ」HPから)>
 ここには、吉成氏の問題意識との共通点があるように思われる。



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玉城デニーさんの素顔

 亡くなった翁長雄志知事が生前、玉城デニー衆院議員について「玉城デニーさんは戦後沖縄の歴史を背負った政治家」として期待をしていたそうだ。翁長さんのこの言葉にはどんな意味合いが込められているのか、よく分からなかった。だが、玉城デニーさんの生い立ち、経歴を知るとその意味がよく分かった。

 今回、玉城デニーさんは翁長知事の遺志を受け継ぐと明言されている。各家に配られた「平和・誇りある豊かさを! ひやみかちうまんちゅの会」ニュースに玉城デニーさんの生い立ち、人柄について書かれていたので、そこから紹介したい。

 <二人の母に育てられたアメリカ系ウチナーンチュー

 玉城デニーさんは、アメリカと琉球、2つのルーツを持つアメリカ系ウチナーンチューです。戦後の沖縄の歴史をダブルで受け継ぐ、わんぱくな子ども時代を過ごしました。昼夜を問わず仕事に励んでいた実の母親と、その間に面倒を見てくれた育てのお母さんに見守られて育ち、「僕には2人の母がいる」と語ります。育てのお母さんを「おっかあ」、実のお母さんを「アンマー」と呼んで育ったデニーさんは、「2人のお母さん」にいまでも感謝をしています。>


 <ひたむきな沖縄への原点

若い頃は経済的にも苦しい時期もありましたが、ロック・ミュージックに没頭し、いつでも前向きな気持ちでいたそうである。福祉職、内装業、音楽マネージャーなど、様々な職を経験しましたが、「自分も誰かを幸せにしたい」という気持ちが根本にありました。ラジオ・パーソナリティーやタレント活動を行なううちに、地方自治に関心を持ち始め、政治の道に進むことを決意。市議会議員1期務め、国会議員に転身後も、「ひたむきに沖縄」の政治信念を貫いています>

 


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ニライカナイはどこにある。実在する穴

 実在する「穴」

 吉成直樹著『琉球民俗の底流』の紹介に戻る。

吉成氏は、地底から穴を通して「にらい大主」が出現し、また太陽神「あがるいの大主」が「てだが穴」から出現するというように、地底の神々は「穴」から出現するという観念が認められる事例が実際に存在するとして、以下のように紹介している。。

<仲松弥秀の『神と村』(新版)の装丁のおもて表紙には、「玉城城の穴型岩くりぬき門」の写真があり、うら表紙には次のような説明がある。
                         玉城城跡

 

 「南島沖縄においては、神の世界と人間の世界は、穴でつながっていると想像されている。この穴は『てだが穴』という。神はこの穴を通られて人間の世界に出現されるのである。沖縄の神祀るグスク・御嶽には、この写真のように岩をくりぬき、あるいは積石造りの、穴をかたどったアーチ型の門が設けられているのが見られる」…

 いずれにしろ、なぜ神々の世界と人間の世界が穴で結ばれているのかということを考えれば、神々は地下に通じる穴から出現するからということのほかには考えられない。(『琉球民俗の底流』)>

 
  私も、南城市の玉城城には、沖縄に移住してすぐにでかけたことがある。このアーチ型の石門は、夏至の日には太陽の光が穴から差し込むそうだ。ニライカナイに通じていると考えられたのだろうか。主郭跡には、天つぎあまつぎの御嶽(雨粒天次御嶽)などがあり、聖地でもある。
 沖縄の城(グスク)には、アーチ型の石門がある。とくに、中城城跡や座喜味城跡などは見事なアーチ門で印象深い。玉城城のアーチ型石門がその原型だったことになる。
 アーチ門は、御嶽にもあるとのべているが、そう言えば各地の御嶽を見た時にも、石積みのアーチ門をよく見かけた。那覇市首里当蔵の安谷川嶽(アダニガータキ)も立派なアーチ門がある。説明板には「宝珠をのせたアーチ門は拝殿の役目をし、左右に連なる石垣によって境内を内と外に分けています」と記されている。

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  石垣島の美崎御嶽も、御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には宝珠をのせたアーチ型石門がある。首里城の
園比屋武御嶽門(ソノヒャンウタキ)に類似するといわれる。やはり「拝殿にあたる」と説明されている。このアーチ門は、拝殿であると同時に、神が通られて人間の世界に出現する穴をかたちどった門を意味しているのだろうか。

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                          写真は石垣市美崎御嶽のアーチ門
 
 鳥越憲三郎氏は御嶽だけでなく、村落を開き創建した家・根所にも神の出入する門があるする。

<根神なる巫女は、最初から根神という名称のもとに発生したものであった。…巫女達は現在においてもなお祭祀の際には完全に神としての自覚を持つとともに、一般民衆もまた同じ信仰を抱いているのである。…

 根所とか旧家などでは、一般日常生活の際に用いる通常門のほかに、垣根の他の側に小さな門が造られている。この門(じょう)は神の出入する門であると信じられていて、祭時の時の巫女はこの門から出入りするが、この時の彼女は神として意識して行動している。(『琉球古代社会の研究』)> 
 これらのグスク、御嶽、根所のアーチ門も「神の世界と人間の世界は、穴でつながっている」「神はこの穴を通られて人間の世界に出現される」という共通の意味合いをもつ存在だったのだろう。



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