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レキオ島唄アッチャー

ニライカナイはどこにあるのか。二面性

 ニライ・カナイの二面性

 吉成直樹氏は、中本正智著「ニライカナイの語源と原義」の見解を次のように紹介する。

 <結局、「ニライ」「カナイ」の原義は、いずれも太陽神の居所であり、ヒトが休息する居所がその人の拠点であるように、太陽神の拠点は日ごと現れては夜に隠れる地の中であると考えられた。太陽は水平線の彼方から空と海を真赤に焦がして上がってくることから、「土の屋、日の屋」が永い歴史のうえに次第に推移していって、現在のような意味に落ち着いたとしても不思議ではない、と述べる。(『琉球民俗の底流』)>

 

 そういえば、昨年7月、このブログでも次のような見解をアップしたことがある。

ニライ・カナイには、太陽神(王)が生れる「でたがあな」(太陽の穴)がある。
穴から生まれた太陽神は、西に沈んだ後、地底の穴を通り「太陽の穴」から再生すると考えられた。

    琉球王権がイメージしたニライ・カナイは、太陽神がすむ光り輝く白い世界と考えた>

これは、安里進氏(沖縄県立芸術大学附属研究所客員研究員)の講演「お墓と琉球王権のグスク・王陵(王墓)の意外な関係」からの紹介である。

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           沈んだ太陽は地底の穴を通り再生すると考えられた

 吉成氏は、中本氏の見解を踏まえて、さらに次のように展開している。

<八重山などで見られる仮面仮装の来訪神は、あくまでも垂直的な地下を志向する「地下他界」に結びつくとしたことは、ニライ・カナイの原義が「土の中」であると指摘することと符合するし、女性神役の祭祀が水平的な海のかなたの海上他界に結びつくとしたことは、太陽は水平線の彼方から空と海を真赤に焦がして上がってくることから、現在のような意味に落ち着いたとする指摘と合致しているのである。

 この中本正智の議論に従えば、八重山のニライ系の他界(地下他界)と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心となるニライ系の他界(海上他界)に結びつく儀礼は相対的に新しいということになる。…

 
 こうしてみると、まず地下他界を意味するニライ・カナイが存在しており、その後に。それから変容した海上他界としてのニライ・カナイがその上に覆うように波及したということになる。(『琉球民俗の底流』)>

 吉成氏は、ニライ・カナイの原義は「土の中」であり、八重山の地下他界と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心となる海上他界に結びつく儀礼は相対的に新しい、としている。

 この点は、前にブログで紹介した外間守善氏の見解とは異なる。


 外間氏は、
スクの地名が、海辺の高地にあって祖神のいる遙かなる原郷と深くかかわる聖性をもっていた」として、次のようにのべている。

<古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生みだし、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。

そうだとすれば、『古事記』の時代にすでに薄れてしまっていた日本古語の原意が、遠い南の島々に残映していたことになる。特に、海と海神と稲作文化にかかわっているスク地名は、海辺の高地にあって、遙かなる海(祖神のまします原郷)と深いかかわりを持つという聖性をもっていたわけである。(外間守善著『南島文学論』)>

古くは神々の行動は「水平軸」で動いていたのが、いつの間にか天地を結ぶ「垂直軸」に変わったため、海の果てを表した「スク」の原意が高低を表す「底」という意味を生みだしたと見る。

 吉成氏と外間氏の見解の相違はどう見るのか、筆者にはまだ判断するほどの見識がないので、多様な議論を紹介するだけに留める。

 



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ニライカナイはどこにあるのか。地下他界?

 ニライ・カナイはどこにあるのか

 沖縄では、海のはるか彼方に神の住むニライ・カナイがあると考えられてきた。ただ、ニライ・カナイがどこにあるのか、についてはいくつかの見解がある。そう単純ではないらしい。たまたま吉成直樹著『琉球民俗の底流』を読んでいると、ニライ・カナイ信仰や来訪神信仰などについて興味深い考察がされていた。以前、このブログでアップした「『底』の字がつく民謡の不思議」「南島に現れる仮面、仮装の神々」ともかかわりのあるテーマである。吉成氏の著書からいくつかの関心のある問題にしぼって見てみたい。 

 ニライ・カナイは地下他界?
 海のはるか彼方、あるいは海底にある聖なる国と考えられてきたニライ・カナイ。しかし、沖縄の各地、離島で現実に行われている祭事を見ると、「確かに、海のはるか彼方、海底の世界の国としてのニライ・カナイを対象としているものがある一方で、あくまでも地下の世界にニライ・カナイを考えているものも存在している」(『琉球民俗の底流』)。
 吉成氏はこのように述べている。ニライ・カナイが、本来、あくまでも垂直的な地下を志向する地下他界であったこと、また先島諸島(宮古諸島、八重山諸島)では、現在でも地下他界を意味すると考えざるを得ない儀礼群が残されていることを明らかにしようとする。
 琉球列島では、祭りごとは女性が中心になって行なわれることが多い。この神女たちを中心とする神人たちが行うニライ・カナイに結びつく儀礼は、「あくまでも水平的な海上他界である」とする。
 
  しかし、八重山諸島には、いささか趣の異なるニライ・カナイに結びつく儀礼群が存在する。
 <男性たちの年齢階梯的な結社によって行われる来訪神儀礼、折口信夫の用語、すなわち「折口語彙」では「まれびと」と表現される人神の訪れる儀礼がそれである。八重山諸島では、アカマタ・クロマタ(ときにはシロマタも)、マユンガナシと呼ばれる。男性が全身に蔓草を身にまとったり、クバの葉、蓑笠などを身につけて人神になり、村を訪れ、祝福し、村を去っていくのである。
これらの儀礼では、来訪神は地下あるいは土中から出現すると考えられている(吉成直樹著『琉球民俗の底流』)。>
   
                
                
 これまでの研究では、地底は海底に、さらには海のはるか彼方に連なると考えられ、これもまた広い意味での海上他界であり、両者に本質的な違いはない、とみなされてきたことにたいして、吉成氏は異論を提起している。
 男子結社による仮面仮装の習俗とノロ・ツカサを中心とする神女たちによる儀礼は、その「出自=系譜が異なる」とする。
 水平的な海上他界は、「女性を中心とする神女たちに結びついていて神女組織が整えられるに及んで、その神女組織とともに展開した可能性を示唆する」とみる。
 「端的に言えば、男子結社が行うニライ・カナイ系の他界と結びつく来訪神儀礼と神女たちの儀礼では文化史的価値(広がっていった時期)が異なるのではないか」ということである。

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日本画で県展入選する腕前

 5月に郷里の高知に帰省した際、かつて同じ職場で働いた元同僚の2人と50年ぶりに再会したことを書いた。そのうちの一人、F君は日本画を趣味としている。どのような絵を描いているのか知らないままだった。彼が自分の描いた日本画の写真を送ってきてくれた。とても素晴らしい日本画だと思うので、いくつかを紹介したい。  

 F君は、奥さんに言われて何か趣味をと考えていた矢先、日本画の大家、東山魁夷の絵を見て「これだ!」と思いたち、日本画の通信教育を2年間受けたという。50数年前、宿毛市の山奥の職場で働き、同じ寮で生活をしていた当時は、娯楽のない山奥の生活なので、よく仲間と一緒に酒を飲んだことだった。私の持っていたクラシック音楽などレコードを聴いたり、時に先輩の指導で写真の現像と焼き付けをしたことを思い出す。だが、絵を描くのが好きだという話は一度も聞いたことがなかった。だから、青春時代のF君からは想像できなかった。互に仕事を退職してから、年賀状の交換で、日本画を描いていることを知ったのはほんの数年前である。
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     2016年高知県展入選の作品「追憶実りの秋」と作者のF君

 F君は、いまでは、高知県美術展覧展で再三入選する腕前である。私は知らなかったけれども、働いている当時から絵を描くのは上手かったようだ。
 送ってくれたカラー写真を見ても、日本画の繊細な表現、鮮やかな色彩、大胆な構図など入選するのも当然だと思われる。現物で見ればいっそう魅了される出来栄えだろうと思われる。
 「追憶実りの秋」は、かつて田舎ではお米を刈り取った後の稲を脱穀する情景を描いている。F君の追憶の中での情景なのだろう。これは本来は画題にはなりにくいテーマだと思うけれど、見事に描き出されている。画を見ていると、かつての田舎の光景が蘇るようで懐かしい。 

 次の作品は「春の兆し」。春を迎える山林の風景が繊細な筆致と色彩豊かに描かれている。山と森林の四季折々の移り変わりと木々や草が芽吹き始める頃の美しさを知り抜いた人でなければ描けない絵ではないだろうか。2017年県展入選作品である。
          林  
 次は、2014年県展入選の「備え」と題する作品である。川に造られた堰堤と水門だと思う。山里で暮らすと川は身近にあり日常の風景である。でも、堰堤などは素人的には絵画の対象とは考えにくい。それは色彩は単調で、構図も面白みに欠けると思ってしまうから。でも、さすがに彼の絵は、落ち着いた色調で、どっしりとした存在感があり、川面に映る水門も鮮やかに描かれ、空の色合いも変化がある。入選もうなづける作品だと思う。 
        
       堰堤
  次は2015年四万十市美術展で市長賞(特選)を受けた作品「清流仁淀と水門」である。F君は四万十市の出身であり、同市出身者は出品資格があるという。
 この絵も清流にかかる水門を描いている。大胆な構図によるどっしりとした水門の存在感と鮮やかな朱色のゲートが対照的。深緑の水面の色彩やススキの繊細は描出など、さすが市長賞をいただいただけの出来栄えだと思う。
 
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 次は、2016年四万十市美術展推薦作品「秋景 奥南川渓谷」。秋色に染まる林や渓谷の岩々、そこを流れる清流の色合いの微妙な表現など、渓谷の秋が見事に映し出されている。
    谷川
 次は「静寂」という作品。大栃の国有林「さおりケ原」の冬の情景を描いている。積雪がまだかなれある森に出かけて、このような情景を見ることは、情熱がなければできないことである。表題の通り、どこまでも広がる静寂を感じさせる。かつて私も大栃でも働いたことがあり、F君から場所を聞くと、一度は行ったことがあるはずである。でもこのような情景は見た記憶がない。 

    雪林 
   秋は美術展のシーズン。F君も県展に向けて準備中のようだ。これからも、F君ならではの視点の日本絵を見たいものである。



高知 | コメント:0 | トラックバック:0 |

郷土愛にあふれた「おくふじ新聞」

   5月に郷里の高知に帰った際、かつて宿毛市で働いていた当時の同僚と、50年ぶりに再会したことをこのブログでも書いた。
 その際、友人の一人、K君が手作り新聞を発行していること、K君からこれまでに発行した新聞をいただいたことを紹介した。
 沖縄に帰ってきてから、改めて宿毛時代のことを何か書いて投稿してほしいという要望を受けた。宿毛周辺には、1962年から69年まで7年間いたことになる。宿毛市といっても、市街地から20数キロも奥に入った楠山・笹山という地域で5年間も働いていた。その思い出を、いくつかのエピソードを交えて書いて投稿した。K君から、投稿は数回に分けて掲載したい。その前に帰郷の想い出を書いた文章(ブログアップ済み)から、3人で再会した部分を掲載したいとのことだった。勿論、了解した。
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                   「おくふじ新聞」を発行するK君
 先日、さっそく掲載紙を郵送してきてくれた。それで改めて、K君が発行する手作り新聞のことを紹介しておきたい。
 K君は、奥さんと二人で、宿毛市の山奥にある郷里の地名を付けた手作りの「おくふじ新聞」の発行を始めた。奥さんは不幸にも病気で10年ほど前に急逝したという。その後も毎月発行を持続して、2018年8月5日で128号を数える。発行人として、自分の名前と奥さんの名前を記し、夫婦の共同の作業として発行を継続しているところに、新聞にかける強い情熱と亡き奥さんへの深い愛情が込められている。
 
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   新聞は、郷里の出身者をはじめ郷里に住んでいた人やなんらかの関わりのあった人など90人ほどに送っているという。A4伴カラー刷りで、レイアウトもとても工夫されて読みやすい。多いのは郷里にまつわるニュースや想い出のエッセイ、郷里にゆかりの人たちの話題や動向、季節の花々や果物、野菜の話題、郷土の歴史、ユーモアあふれる小話、人生訓、俳句など文芸まで掲載されている。彼は自身も俳句を詠むそうだ。とにかく紙面の隅々に郷土愛が溢れている。
 きっとこの新聞を読んでいる人たちは、郷里にかかわることがよくわかる何よりの情報源であるし、紙面を通して郷里への思いを共有しているのだろう。紙面を読めば、新聞発行にかけるK君の努力とその紙面を待っている読者の期待を感じることができる。
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   私の帰省の想い出は、3人が再会し、お酒を酌み交わした写真付きで2面のトップに掲載していただいている。3人の写真を見ていると、50年ぶりに会った楽しいひと時が甦る。さらに、紙面全体を通して、50数年前の青春時代を過ごした場所に想い出を運んでくれる。その当時、一緒に働き、過ごした人たちもすっかりもうお年をめしている。みなさんの健康と長寿、幸多きことを願わずにはいられない。


高知 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アルテで「西武門節」「与那国ションカネ―」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが台風接近のなかで開かれた。
 11日は、「土砂投入を許さない!辺野古新基地建設断念を求める県民大会」が那覇市奥武山公園陸上競技場で開かれたが、あいにく都合で参加できなかったので、自宅で動画のライブ中継を見ながら、心は会場は飛んでいた。翁長知事の逝去を悼む涙雨のような雨天だったが、7万人もの人々が集り、翁長知事を悼み、新基地建設を許さない知事の遺志を受け継ぐことを誓い合った。
     
 台風は暴風域もなく、幸い那覇では雨風ともたいしたことがなかった。
 アルテのファクトリーは、やはり参加者が少なかった。主催者が珍しく、「5分を超えてもいいですよ」とのお許しがあり、みなさん2曲、3曲と演奏した。テーマは「再」。
 越智さんはトランペットで「襟裳岬」を演奏し、ツレがピアノでコラボした。前日のリハーサルとは見違える演奏だった。
       
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 私は、エントリーに際して「西武門(にしんじょう)節」「与那国ションカネ―」のどちらにするか迷い、「西武門節」をエントリーしていたが、時間にゆとりがあるというので、2曲を演奏した。
 「西武門節」は、那覇の遊郭・辻の入口の西武門で、遊んで帰る男性を遊女が見送る情景を歌っている。「また来て下さいね。次来る時は車に乗って来てね。西武門でお待ちしています」と歌うので、テーマに合っている。
 この「車」の歌詞が人によっては「電車」となっている。「車」とは人力車なのか、「電車」は走っていたのか、についてこのブログでアップしているので興味があれば読んでいただきたい。
                   
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 「与那国ションカネ―」は、与那国に赴任した王府役人がなんた浜から舟で帰るのを現地妻が見送る情景を歌っている。3番の歌詞で「与那国に渡るには池の水ように穏やかだから心やすやすと渡って来てください」と歌う。与那国は孤島であり、波は荒いはずだが、歌詞は再会を願う女性の気持ちが込められている。声がいまいち出なかったが、2曲歌えたので満足である。

 ツレは、ショパンのノクターンが原曲で平原綾香が歌った「カンパニューラの恋」をピアノ弾き語りした。歌唱が難しい曲をよく歌えていたと思う。 
     
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 ツレはピアノ独奏で、ショパンの「ノクターン嬰ハ短調遺作」を弾いた。まだ練習時間が短いのに、情感のこもった演奏ができたのではないか。
 前月のファクトリーで歌いたかったけれどエントリーが多くで歌えなかった竹内まりやの「いのちの歌」もピアノ弾き語りで歌った。
  古波津さんがギター独奏で「ベネズエラワルツ」など3曲を演奏し、聞きごたえがあった。
         
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   最後に三代目りゅうたんボーイズが「また逢う日まで」を演奏し歌った。もう一度、ピアノを入れて演奏しようとなって、ギター、マンドリンとピアノで演奏。トランペットやリコーダーも入り楽しい演奏になった。

          
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  今回も、自分に関わりの演奏を中心にアップしたのであしからず。


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県民ショック!翁長知事が死去

 翁長雄志沖縄県知事が8日夜、膵臓(すいぞう)がんのため入院中の浦添総合病院で死去した。まだ67歳だった。テレビ画面で痩せた知事のお顔を見るたびに、病状を心配していた県民は、突然の訃報に大きなショックを受けている。

 翁長氏は、2014年11月の知事選で名護市辺野古への新基地建設に反対を訴え、県民の圧倒的な支持を受けて当選した。
 知事になってから、日米両政府の理不尽な新基地建設強行に断固として立ち向かってきた。もともとは保守政治家として、那覇市長を4期14年務めたが、沖縄県民の総意を無視した新基地建設は許さないという立場を貫いて、当選後も微塵も揺らぐことはない気骨ある政治家だった。

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         「琉球新報」8月8日付け号外  
 さる7月27日には、防衛省が8月17日にも辺野古埋め立ての土砂投入を狙う中で、埋め立て承認の撤回に向けた手続きを開始した。その際の記者会見で「20年以上も前に決定された辺野古新基地建設を見直すことなく、強引に推し進めようとする政府の姿勢は到底容認できない。今後もあらゆる手法を駆使し、辺野古に新基地は造らせないという公約実現に向けて全力で取り組む」と強調していた。県民に向けた最後の言葉となった。
 9日にはそのための聴聞を行なうことになっていた矢先の死去である。ご冥福をお祈りしたい。

 日米両政府の県民を愚弄するような傲慢なやり方に、真っ向から対峙する翁長氏の姿には、党派を超えて多くの県民が期待を寄せ、県知事選でも翁長県政の継続に強い期待を持っていた。死去のあと号外が出されたが、県民はこぞって深い悲しみに包まれている。なによりも、志半ばで死去した翁長氏自身が最も悔しい思いを抱いているだろう。
 翁長氏は、沖縄の戦後政治の歴史の上でも、特筆される知事だったと思う。

 死亡届の50日以内に知事選挙があるという。すでに、自民党陣営は、普天間基地を抱える宜野湾市の佐喜真市長を擁立することを決めた。佐喜真氏は、普天間返還を言うだけで、辺野古新基地建設は黙認しており、安倍首相・官邸お気に入りの政治家である。自民党県政への逆流は絶対に許すわけにはいかない。
 新基地建設に反対する県民の総意を集めて、翁長知事の遺志を受け継ぐ県政が実現することを強く期待したい。

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不思議な三線の「尺」の位置(下)

 「三下げ」では 

 これまでは、調弦が「本調子」を前提とした話だったが、女弦が一音低い「三下げ」「一、二揚げ」の場合も、やはり同じ高さの音を別の表記とすることがある。「三下げ」では、女弦の開放絃の「工」は、中弦では「尺」、それも「低い尺」と同じ高さとなる。だから「三下げ」曲では、「尺」めったに使われない。多分、「工」を使えばよいからだろう。

ただ、本島民謡では「嘆きの梅」や「アンマー形見の一番着物」など「尺」が使われる曲がある。とくに印象強いのは「懐かしき故郷」である。この曲での「尺」は、「高い尺」を使うのがよいと思う。

 同じ音で異なる表記があるといえば、「下老」の位置もそうである。「本調子」で「下老」は「四」と同じ高さである。「ファ」にあたる。しかし、「本調子」で「下老」を使う例は寡聞にして聴いたことがない。
 よく「下老」を使うのは、調弦が「本調子」から中弦を一音揚げた「二揚げ」の曲が多い。「二揚げ」では、「老」は使わないで「下老」がよく使われる。沖縄民謡の「浜千鳥節」「白鳥小」はじめ、八重山民謡の「夜雨節」「古見ぬ浦節」など多数ある。「二揚げ」の場合、「下老」は中弦の開放絃の音よりも低く、同じ高さの音はない。だから、何も迷うことがない。

「沖縄島うたポップス工工四集」
       
                        『沖縄島うたポップス工工四集』から

 もう一つ、同じ高さの音の表記で実際の演奏では異なる位置を押さえることがあるのは「七」「ファ」の位置である。「本調子」の場合は、「六」「ミ」から半音高い「七」の位置でよいが、「三下げ」の場合は、通常、さらに半音高い「高い七」つまり「♯七」の位置となる。八重山民謡でも同じく「♯七」を使う。ところが、工工四(楽譜)では、「七」としか表記されていないからややこしい。

 以前、沖縄民謡サークルで「世宝節」を歌った際、「♯七」を使って歌っていると、後から先輩のおじいが「いま押さえていた七の位置は違うよ。もう一つ下の七を使わなきゃいけないよ」と注意を受けたことがある。でも、プロの唄者の演奏をCDで聴いても「♯七」を使っているので納得がいかなかった。


 八重山民謡のサークルでも、私の演奏する姿を見た先生から「七の位置が高いですね」と注意された。「えっ、まさか」とにわかに信じられない。でも先生が言うのだからその場は従った。でも、「与那国ションカネ節」など、「低い七」では音楽としておかしく聴こえる。やはりCDで聴くと「♯七」を使っている。別の八重山民謡の教師の知人に聞くと「♯七」を使うべきだと言う。これも、工工四に表記しないから起きる問題である。
 まあそんなこんなで、沖縄の古典や民謡では、悩ましいことがあるということ。でも、これらは長年にわたり先人たちが創り上げてきた音楽の表現である。それはそれで意味のあることだろう。西洋音楽の考え方を基準にしてあれこれと言うのは控えるべきだと思う。



島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |
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