不思議な三線の「尺」の位置(上)2018-07-30 Mon 16:09
沖縄民謡を学んでいて難しいことの一つに「尺」の位置がある。琉球古典音楽や民謡では、ドレミの音階を「合、乙、老、四、上、中、尺、工」で表す。「尺」は「シ」にあたる。ところが、西洋音楽では、個々の音階の位置は一つしかないが、沖縄の音楽では「尺」の位置は、一つではなく、3つ、4つもあるという。「シ」の半音低い音、つまり「♭シ」にあたる「低い尺、♭尺」と通常の「シ」にあたる「高い尺」、さらには、それよりも半音高い「♯シ、♯尺」がある。「♯尺」は、「下尺」として一応区別して表示される。 さらに「下尺」の位置も悩ましい。「低い尺」「高い尺」「さらに半音高い尺」の3種類の尺は、音程が半音ずつ上がっていく。「シ」と「ド」は半音しか違わないので、「下尺」と表示される「♯シ、♯尺」の位置は、実は「ド」「工」と同じ高さの音となる。ということは、音階で同じ音が、譜面上は二つの音として表記されることになる。西洋音楽では、「シ」より半音高い音は「ド」と表記とされて「♯シ」とはいわないだろう。 スポンサーサイト
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もっと評価されてよい島津久光、薩長同盟から討幕へ2018-07-23 Mon 10:03
薩長同盟から討幕へ 島津久光は、慶応3年4月、藩兵を率いて、京都に入った。 <慶喜と土佐藩も必死の巻き返しをはかっており、薩長両藩から討幕挙兵の大義名分を失わせるため、慶喜は大政奉還を決断。討幕の密勅が出された同じ日に大政奉還を朝廷に願いでて、15日にはその勅許を得た。ここに家康以来15代260年あまりの長きにわたって続いた徳川幕府の歴史は幕をおろした。しかし、徳川家の支配地や強大な軍事力はそのままであり、列藩会議で慶喜が主導権をにぎる可能性が大であった。… <王政復古の政変の最も重要な意義の一つは、朝廷の政治組織と幕府を廃絶したこと、すなわち旧政治体制を廃止したことである。ともすれば幕府の廃止=討幕の面に目が向けられがちであった。しかし天皇の私的空間や儀礼にかかわる組織を除く、朝廷の政治組織はすべて廃絶となった。 「薩摩藩の政治運動は、朝政改革と幕政改革を目標・目的としてなされ」、ついには薩長両藩によって討幕と新政府樹立が実現した。こうした政治変革の目的と戦略、実際の政治的・軍事的な行動のすべてにおいて、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀をはじめとする家臣の動きを統括し、節目節目における活動の方針決定と政治決断をしたのは薩摩藩の「国父」として島津久光と藩主・茂久であろう。 NHKテレビ「西郷隆盛をつくった二人の上司」の画面から |
オリオンビールがあたった2018-07-20 Fri 23:30
昨日、宅急便が届いた。心当たりがないのでなんだろうか、と思って開いてみると、なんとオリオンビールの6缶セットが送られてきた。
さる6月に那覇セルラースタジアムで開かれたプロ野球日ハム対ソフトバンク戦の招待キャンペーンに応募していた。 オリオンビールの6缶パックの底にあるシールを貼って応募するものである。でも残念ながら今回は音沙汰無し。当たらなかった。 ![]() ところがチケットが当たらなかった人にはWチャンスがあり、それが今回の「オリオン6ブランドアソートパック」だった。 ![]() まだ飲んだことのないブランドもある。わが家はこの中で、最近は「贅沢気分」にはまっている。フォークユニット「F&Y」の良明さんが、このビールのCМに流れるギターを演奏しているので、飲んでみた。結構いい味わいだから。 それにしても、プロ野球のチケットが当たらなかったからとビール6缶送ってくれるとは、なんという旺盛なサービス精神だろうか。ますますオリオンを愛飲しなきゃー。われらが県産品、オリオンビール最高! |
もっと評価されてよい島津久光、挙藩一致2018-07-19 Thu 23:05
「挙藩一致」で行動 西郷は久光の命令(論書)に背くとともに、薩摩藩の基本方針にも反していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。> |
祝第150回記念アルテミュージックファクトリー2018-07-15 Sun 23:29
毎月恒例のアルテミュージックファクトリーは第150回を迎え、14日夜,記念のファクトリーがあった。何年ぶりかの懐かしい人たちもかけつけ、大盛況だった。
![]() 越智さんのトランペットとツレのピアノのコラボによる「帰れソレントへ」から始まった。 ![]() 私の出番もいつもより早く回ってきた。「多良間ションカネー」を歌った。今回は、「思い出」がテーマだった。数年前まで宮古民謡の名手Tさんがこの曲を聴かせてくれたことを思い出す。哀調のある歌三線だった。 ![]() 多良間に派遣された王府の役人と現地妻との別れの情景を歌っている。詳しくはこのブログで「多良間ションカネーの謎」などで書いているので、そちらを見ていただきたい。この曲を歌うと、NHK大河ドラマ「西郷どん」で、奄美大島に流された西郷が、愛加那と結ばれるが、3年を経て子供2人が生れるけれど、西郷は呼び戻され、彼女と子どもを残して島を出る悲しい場面が思い出される。きっと、昔の多良間でもこんな状況だったのだろう。 アルテギターサークルの合奏では、スイスから空手を習いにきえいる女性もパーカッションで参加した。2曲目では、いま茨城県にいるUさんもかけつけて、「ケセラセラ」を歌った。 ![]() ミーシャさんはギターソロで「秋桜」「みだれ髪」を演奏した。 ![]() 同じ三線仲間のTさんは、「二見情話」を歌った。歌三線の演奏が増えると嬉しい。 ![]() 一部が終わると、パーティータイム。パーティーの幕開けで、私とTさん、Hさんの3人で「かぎやで風節」を演奏した。ほとんど練習なしにしては息の合った演奏ができたのではないか。 ![]() 平良さんが、3カ国語で乾杯の発声をしたあと、糸数さんとayaさんがベルディー作曲オペラ「椿姫」から「乾杯の歌」を歌った。二人が参加者一人一人と乾杯をして回り、最後は全員で「カンパーイ!」と合唱。大盛り上がりとなった。 ![]() オードブルを食べながら歓談。その間に、舞台ではベリーダンスも披露された。 ![]() 記念のファクトリーとあって、参加者が多くて、第2部は、28組がエントリーした。 Nさんのギター、ツレのピアノによる弾き語りで、「奇跡の地球(ほし)」を歌った。1年ぶりでNさんは緊張したというけれど、ノリのよい演奏だった。 ![]() ツレはピアノ独奏で、ブラームスの「ワルツ変イ長調」を弾いた。ピアノの音色もきれいだしノーミスで、良い演奏だったのではないか。 ![]() しばらく休んでいたTさんは、娘さんのピアノ伴奏で歌とハーモニカ演奏をした。毎年、慰霊の日のある6月には「月桃」を演奏してきた。今年は7月になったけれどこの曲を歌い、平和への思いが込められた歌声だった。 ![]() 私と同郷のYさんは「おぼろ月夜」を歌った。若々しい歌声だった。 ![]() ギター独奏のピカリンさん、カオルさんも久し振りの出演。もっともっと聞きたい演奏だった。 ![]() やはり久し振りに、ベースのKさん、ドラムのSさんとピアノのUさん、ボーカルのRさんによる「イパネマの娘」、ayaさんによる「ジュピター」、清美さんによる「superstar」と素晴らしい歌声が続いた。 ![]() 3代目龍潭ボーイズの楽しい演奏につづいて、そのメンバーEさんはギター、Tさんはウクレレでそれぞれ初めてソロの弾き語りを披露した。 ![]() 与那原からきた「東浜レディースギターサークル」は「日曜はダメよ」など演奏。サークルの指導者、Kさんもギター独奏で素晴らしいテクニックを披露した。 ![]() 最後に全員で「世界に一つだけの花」を合唱。歌声が会場に響き渡った。 ![]() 5時間以上の音楽会だったけれど、長さを感じさせない楽しさだった。 アルテは、ジャンルや演奏の上手下手は関係なく音楽大好き人間が集い、語り、演奏しあう場である。参加する人みんなが「世界で一つだけの花」である。こんな音楽会が「世界に一つだけの音楽会」でもある。 ![]() 4年に1回というより年1回くらいは、こんな楽しいファクトリーがあればいいな、と思った。 |
もっと評価されてよい島津久光、兵を率いてい上京2018-07-12 Thu 08:33
1000余の兵を率いて上京 島津久光は、小松帯刀と大久保利通そして藩兵一千余を率いて、文久2年(1862)3月16日に鹿児島を出発し、4月上洛した。上京は単に朝廷・京都を守護するだけではなく、他に明確な目的があった。 <外様雄藩・薩摩藩の藩主後見人であり藩主の父であるというだけで、当初は好奇の目でみられていた、無位無官の武家にすぎない久光の出府は、結果論的にではあるが久光の存在を、強くかつ広く世にアピールすることになったのである(同書)。>
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もっと評価されてよい島津久光、誠忠組2018-07-08 Sun 12:34
誠忠組と深いきずな |
「潜伏キリシタン」とは?2018-07-03 Tue 23:00
「潜伏キリシタン」とは? 一方の「隠れキリシタン」ですが、仏教徒を装っていた点では「潜伏キリシタン」と一緒なんですが、1873年に禁教の高札が撤廃されキリスト教が黙認されるようになったあとも、カトリック教会に戻ることなく、独自の信仰形態を続けました。 |
島原の乱で荒廃した地に国策で移住2018-07-02 Mon 11:04
島原の乱で荒廃した地に国策で移住
中東・バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産委員会は30日、江戸時代」キリスト教禁制と独自の信仰の歴史を伝える「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)を世界文化遺産に登録すると決定した。 「2世紀以上にわたる禁制下で進行を継続した独特の宗教的伝統を物語る、他に類を見ない証拠」と高く評価し、12の構成資産全てが世界遺産にふさわしいと判断した(「琉球新報」7月1日付)。 島原にはもう30年以上前に仕事で行ったことがある。その際は、島原・天草一揆と天草四郎について少し関連する本を読んだ記憶がある。今回の世界遺産登録に関連して、この一揆の鎮圧で荒廃した島原半島に、九州だけでなく四国からも住民が移住させられたと聞いた。移住のことは、前に読んだかもしれないがすっかり忘れていた。世界遺産登録とは関係ないが、「そんな歴史があったのか」と島原の歴史に思いを馳せた。 ![]() 原城跡(長崎県世界遺産登録推進課HPから) 12の登録資産の一つ、「原城跡」は1637~38年の島原の乱の舞台となった。キリシタン農民が立てこもった。徳川幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制をとるなかで、宣教師不足となり信徒が潜伏するきっかけになった。 島原の乱では島原、天草の領民計3万7千人が犠牲となり、島原半島南部はほぼ無人化したという。幕府は1642年、九州諸藩や幕領などに移住者を出すよう命令を出した。 今年2月から3月にかけて、島原半島への大規模移住を題材にした初の特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で開かれたそうだ。 <当時、半島は年貢が軽減される“移住特区”となり、優遇策目当てに無断で移り住む人が増えるなど混乱も起きた。…特別展では熊本、豊後高松、萩の各藩に宛てた移住令の書簡を展示。移住者の総数は不明だが、別史料では熊本藩から島原、天草へ男女計356人や牛馬11頭が移った記録もある。 一方で、熊本藩の史料は、労働力を奪う移住策が熊本の農民にとって「迷惑」だったと記し、萩藩は「牛疫(ぎゅうえき)」の発生で農民が疲弊して多くの移住者を出せない事情があったことを伝える。各藩が異例の移住令に困惑した様子もうかがえる。(「西日本新聞」2018年02月28日)> 島原そうめんの由来 島原といえば手延べそうめんが有名。これも四国の小豆島からの移住者が伝えたという説がある。 長崎県食品販売株式会社HP「島原そうめん史」は次のように記述している(http://www.mentatu.com/somen-history.html)。 <(島原のそうめんは)西有家町の須川地区が発祥の地とされています。(1637年(寛永14年)頃) 島原の乱の後、住民が居なくなった島原半島には、九州をはじめ各地から強制的に移民が集められました。また、幕府直轄領だった小豆島から多くの強制移民が当地に集められました。島原の乱の40年以上前より、小豆島そうめんは作られており、この小豆島そうめんが島原の乱後の強制移民によって伝えられたのが、島原そうめんの起源とされています。 ただし、島原のそうめんの由来については、中国の福建省から伝わった説もあり、確定していない。 移住といえば、かつて琉球では、石垣島で明和の大津波で壊滅的な被害を受けた白保をはじめ地域に、波照間島など八重山の離島から移住させたのをはじめ、人口の少ない島や地域に首里王府が強制移住させ、住民が苦難を強いられた歴史があることを思い起こした。 島原半島への移住はさらに大規模なものだが、移住に特典があったとしても、さまざまな辛い歴史があったことだろう。 |
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