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レキオ島唄アッチャー

不思議な三線の「尺」の位置(上)

 不思議な「尺」の位置

 沖縄民謡を学んでいて難しいことの一つに「尺」の位置がある。琉球古典音楽や民謡では、ドレミの音階を「合、乙、老、四、上、中、尺、工」で表す。「尺」は「シ」にあたる。ところが、西洋音楽では、個々の音階の位置は一つしかないが、沖縄の音楽では「尺」の位置は、一つではなく、3つ、4つもあるという。「シ」の半音低い音、つまり「♭シ」にあたる「低い尺、♭尺」と通常の「シ」にあたる「高い尺」、さらには、それよりも半音高い「♯シ、♯尺」がある。「♯尺」は、「下尺」として一応区別して表示される。
 私が三線を初めて買った
池武当新垣三線店の「オンラインサポート」によると、低い尺と高い尺の間もポジションとして使用することがあるという。なおややこしい。
 問題は、楽譜に当る「工工四(クンクンシー)」では、「低い尺」か「高い尺」かについてまったく表示されていないことである。それぞれの曲によって、どちらの尺を使うのかは決まる。この点は、八重山民謡でも同じだ。
 私が学んだ八重山民謡の先生は、曲ごとに「この曲は高い尺を使いますね」と教えてくれた。でも、沖縄民謡でも八重山民謡でも、サークルでは通常、そんなことは教えてくれない。音を聴いて判断するしかない。もう面倒だから「低い尺」だけですませている人もいる。
               「由絃會民謡工工四」
               『由絃會民謡工工四』から


 先日、民謡に詳しいTさんにこのことを尋ねてみた。Tさんは、三線の音の位置についてわかりやすく図示した資料を見せてくれたのでコピーした。この資料は、同じ音の位置でも、「かぎやで風型」「瓦屋型」によって、位置が異なることを示したものである。それによると、「瓦屋型」の「尺」は「低い尺」であり、「かぎやで風型」は「高い尺」の位置とされている。たくさんある古典や民謡の曲がどちらの型に入るのかはわからない。

 さらに「下尺」の位置も悩ましい。「低い尺」「高い尺」「さらに半音高い尺」の3種類の尺は、音程が半音ずつ上がっていく。「シ」と「ド」は半音しか違わないので、「下尺」と表示される「♯シ、♯尺」の位置は、実は「ド」「工」と同じ高さの音となる。ということは、音階で同じ音が、譜面上は二つの音として表記されることになる。西洋音楽では、「シ」より半音高い音は「ド」と表記とされて「♯シ」とはいわないだろう。

 「なぜ、下尺と工は同じ音になるのに、別の表記があるのだろう」と疑問だった。
 「地
菅撹(ぢすががち」という曲には「尺」から「下尺」に指を滑らして弾くカ所がある。つまり、これを「尺、工」と表記すると、中絃で「尺」を弾き、「女絃」で「工」を弾くことになる。でもここは、同じ中弦の線上で「尺」から指を滑らして弾くので「工」ではなく「下尺」と表記する必要があったのだろう。そのことが理解できてやっと、同じ音の高さであっても「下尺」、「工」という二つの音階で表現する意味が理解できた。その説明が妥当であるかどうかはわからない。自分流の解釈である。


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もっと評価されてよい島津久光、薩長同盟から討幕へ

薩長同盟から討幕へ
 慶応2年(1866122日、薩長連合の密約(薩長同盟」が結ばれた。密約は、818日の政変で朝敵となった長州藩の名誉回復に薩摩藩が尽力するというもので、そののち両藩は政治的・軍事的にも提携しあうようになった。 
 前年、幕府による長州藩征討が朝議で勅許となった。薩摩藩は「非義の勅命」は勅命とはいえないとし、出兵を拒否した。
 幕府は攻撃を開始したが、幕府軍が長州軍に敗北し、9月、幕府と長州藩との休戦協定が結ばれた。

 島津久光は、慶応34月、藩兵を率いて、京都に入った。
<慶応35月、慶喜は、島津久光・伊達宗城・山内豊信・松平慶永を二条城に招聘して兵庫開港問題(注・開港予定の布告期限が迫っていた)と長州処分を議したが(四候会議)、ここでも長州処分問題を先に解決すべきと主張する久光(注・寛典処分を意図する)と、兵庫開港問題の優先しようとする慶喜とが対立。慶喜が久光らの意見を押し切って兵庫開港と長州寛典の同時勅許を得たため、久光らは憤慨して帰国した。
 四候会議ののち久光は討幕を決意した(『鹿児島県史』)。>
「慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力討幕路線を確定する」(ウィキペディア)。

 薩摩藩はいよいよ討幕に向かう。

 622日には、土佐藩と薩摩藩は「薩土盟約」を結んだ。しかし、山内容堂は、慶喜による朝廷への政権返上は評価するが、兵力を背景に脅迫的手段で慶喜に迫るのは反対。「土佐藩大政奉還建白」から将軍職の廃止が削除された。薩摩は盟約の解消を申し入れた。
 <9月になると薩摩藩はふたたび武力討幕の方針を打ちだして薩土盟約を破棄。まず長州藩と、つぎに安芸(あき、広島)藩と討幕出兵の協定を結んだ。在京の小松・西郷・大久保は討幕の大義名分を得るため岩倉具視・中山忠能に討幕の密勅降下を働きかけ、1014日には討幕の密勅が薩摩・長州両藩へくだされた。(『鹿児島県史』)>

 <慶喜と土佐藩も必死の巻き返しをはかっており、薩長両藩から討幕挙兵の大義名分を失わせるため、慶喜は大政奉還を決断。討幕の密勅が出された同じ日に大政奉還を朝廷に願いでて、15日にはその勅許を得た。ここに家康以来15260年あまりの長きにわたって続いた徳川幕府の歴史は幕をおろした。しかし、徳川家の支配地や強大な軍事力はそのままであり、列藩会議で慶喜が主導権をにぎる可能性が大であった。…
 慶喜に機先を制された薩長両藩は、岩倉・中山らとはかって129日王政復古のクーデターを決行。摂政・関白・将軍職の廃止とともに、総裁・議定・参与の三職が新設された。(『鹿児島県史』)>

 旧幕府方は、薩摩討伐を主張し、慶応4年、鳥羽・伏見の戦で、薩長軍は旧幕府軍を撃破した。明治新政府は慶喜征伐令を出し、新政府軍は江戸に進軍し、江戸城無血開城となる。

 <王政復古の政変の最も重要な意義の一つは、朝廷の政治組織と幕府を廃絶したこと、すなわち旧政治体制を廃止したことである。ともすれば幕府の廃止=討幕の面に目が向けられがちであった。しかし天皇の私的空間や儀礼にかかわる組織を除く、朝廷の政治組織はすべて廃絶となった。
 幕末の薩摩藩の政治運動は、朝政改革と幕政改革を目標・目的としてなされたものであった。その過程において薩摩藩は驚くほど率直に、そして時には厳しく、あるいは露骨にさえ朝廷・公家そして天皇をも批判していたのである。いわば根底的・徹底的な朝政改革と幕政改革を目指した成果として王政復古があり、新政府・新国家の誕生となったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
 

 「薩摩藩の政治運動は、朝政改革と幕政改革を目標・目的としてなされ」、ついには薩長両藩によって討幕と新政府樹立が実現した。こうした政治変革の目的と戦略、実際の政治的・軍事的な行動のすべてにおいて、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀をはじめとする家臣の動きを統括し、節目節目における活動の方針決定と政治決断をしたのは薩摩藩の「国父」として島津久光と藩主・茂久であろう。

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   NHKテレビ「西郷隆盛をつくった二人の上司」の画面から
  
 廃藩置県に激怒
  久光は、維新後も鹿児島藩(薩摩藩)における権力を握り続けたが、明治政府が進める改革には批判的だった。とりわけ大久保利通と西郷隆盛らが勝手に行った明治
4年(1871714日の廃藩置県には激怒した。
 <「久光公は当務の急務を知らるるも、事皆西郷・大久保一輩の専断に出て、予議せる処なきを以て、往年以来の積憤重なりて、不満に堪へられず、発令の報鹿児島に達せし夜陰は、公子侍臣に命じ、邸中に花火を揚げしめ、憤気を漏されたり」
(鹿児島県史料「忠義公史料七巻」所収『市来四郎自叙伝十』より)
(現代語訳by tsubu
「久光公は、廃藩置県が当時の急務だということは分かっておられたが、今回の突然の廃藩命令については、全て西郷と大久保の独断から行われたものであって、自分はまったく相談にあずかっていなかった。そのため、久光公は昔から積もりに重なった憤りで不満に堪えられなくなり、廃藩置県の発令の知らせが鹿児島に届いた夜、自らの子供や家臣に命じて、邸中に花火を打ち上げさせて、不満や憤りを露にされたのである」(「敬天愛人」HP)>

 維新後の久光は不遇な立場にあったようだ。西南戦争では、西郷の側に組しなかった。だが、明治政府は「征伐などせずに西郷の言い分も聞くべきである」と主張していたという(「久光公手記」、NHKテレビ「歴史秘話 ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」から)。
 幕末・維新の薩摩藩といえば、西郷や大久保らばかりが脚光をあびて、西郷と確執があった久光はとかく影に隠れがちだ。久光のすべてを評価するつもりはないが、討幕と新政府樹立にいたる薩摩藩の動向のなかで、久光の果たした役割はもう少し正当に評価されてよいのではないか。
 <斉彬から薩摩と「日本」と託され、難しい時代のかじ取りを担った久光。斉彬のようなカリスマ性はなかったものの、対立する意見の落とし所を的確に見つけ出す「調整型リーダー」として手腕を発揮した(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)
 これは久光についての正当な評価ではないだろうか。そんな思いを強くした。
   終わり  2018年7月19日 文責・沢村昭洋


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オリオンビールがあたった

  昨日、宅急便が届いた。心当たりがないのでなんだろうか、と思って開いてみると、なんとオリオンビールの6缶セットが送られてきた。
 さる6月に那覇セルラースタジアムで開かれたプロ野球日ハム対ソフトバンク戦の招待キャンペーンに応募していた。
 オリオンビールの6缶パックの底にあるシールを貼って応募するものである。でも残念ながら今回は音沙汰無し。当たらなかった。         
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 ところがチケットが当たらなかった人にはWチャンスがあり、それが今回の「オリオン6ブランドアソートパック」だった。
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   まだ飲んだことのないブランドもある。わが家はこの中で、最近は「贅沢気分」にはまっている。フォークユニット「F&Y」の良明さんが、このビールのCМに流れるギターを演奏しているので、飲んでみた。結構いい味わいだから。
 それにしても、プロ野球のチケットが当たらなかったからとビール6缶送ってくれるとは、なんという旺盛なサービス精神だろうか。ますますオリオンを愛飲しなきゃー。われらが県産品、オリオンビール最高!
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もっと評価されてよい島津久光、挙藩一致

 「挙藩一致」で行動
  久光が兵を率いて出発する前の3月中に、藩内に次のような久光の論書が示されていた。
 <この論書で最も強調されているのは「慷慨激烈」の節を主張する志士や「浪人軽率」の所業などに共感して接触を持つようなことをしてはならないとする点で、…俗にいう尊攘慷慨の志士と、私的に交際することを禁じたものであるが、言い方をかえると、藩士個人で国事運動にかかわることを禁じたもので、国事周旋運動は挙藩一致で行うものであることを、主張していたのである。…

西郷は久光の命令(論書)に背くとともに、薩摩藩の基本方針にも反していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
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                         沖永良部島にある「西郷隆盛 敬天愛人 発祥の地」の石碑

 

 このころ京、大坂には、過激な尊王攘夷派の志士たちが集まり、久光の上京を期として決起しようとしていた。薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎らは、志士田中河内介(元中山忠能家の家士)とともに、京都所司代の襲撃を計画していた。
 久光がこのような無謀な挙に反対の立場であった。藩士を寺田屋に派遣して説得したが、受け入れなかった有馬等は、上意討ちとなった。
 有馬らの行動は、「久光の論書と藩の基本方針に背いたうえに、勅命にも反したものであった」(同書)。
 
 西郷の処分や寺田屋事件は、冷徹、非情な対処であるが、結果としては薩摩藩の挙藩一致の体制を作ることにつながったのかもしれない。
 藩のまとまりという点においては、薩摩藩と長州藩とは大きく異なる。
 <たとえば長州藩は文久276日に、京都の藩邸でいわゆる攘夷の藩論を定めたが、藩地の「俗論派(保守的門閥派)」の反対意見が強く、薩摩藩のような藩全体に支持された藩論とはいい難かった。それゆえ藩内の対立が続き、ついに元治の内戦(注)となったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)>。 
 (注)朝廷と幕府が長州征伐軍の派遣を決め、藩が存亡の危機を前に、攘夷を志向する長州正義派とこれに反発する俗論派が武力衝突となり、最終的に正義派が勝利した。 
 
 久光らが幕末の激動期に「挙藩一致」の基本方針を厳格に守り、目的に向かって一致して行動したことは、薩摩藩が討幕と新政府樹立のため重要な役割を果たすうえで、キーポイントの一つになったのではないだろうか。

 



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祝第150回記念アルテミュージックファクトリー

  毎月恒例のアルテミュージックファクトリーは第150回を迎え、14日夜,記念のファクトリーがあった。何年ぶりかの懐かしい人たちもかけつけ、大盛況だった。
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 越智さんのトランペットとツレのピアノのコラボによる「帰れソレントへ」から始まった。
                                      ファクトリー越智 (2)
 私の出番もいつもより早く回ってきた。「多良間ションカネー」を歌った。今回は、「思い出」がテーマだった。数年前まで宮古民謡の名手Tさんがこの曲を聴かせてくれたことを思い出す。哀調のある歌三線だった。
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 多良間に派遣された王府の役人と現地妻との別れの情景を歌っている。詳しくはこのブログで「多良間ションカネーの謎」などで書いているので、そちらを見ていただきたい。この曲を歌うと、NHK大河ドラマ「西郷どん」で、奄美大島に流された西郷が、愛加那と結ばれるが、3年を経て子供2人が生れるけれど、西郷は呼び戻され、彼女と子どもを残して島を出る悲しい場面が思い出される。きっと、昔の多良間でもこんな状況だったのだろう。

 アルテギターサークルの合奏では、スイスから空手を習いにきえいる女性もパーカッションで参加した。2曲目では、いま茨城県にいるUさんもかけつけて、「ケセラセラ」を歌った。
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 ミーシャさんはギターソロで「秋桜」「みだれ髪」を演奏した。
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 同じ三線仲間のTさんは、「二見情話」を歌った。歌三線の演奏が増えると嬉しい。
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 一部が終わると、パーティータイム。パーティーの幕開けで、私とTさん、Hさんの3人で「かぎやで風節」を演奏した。ほとんど練習なしにしては息の合った演奏ができたのではないか。
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 平良さんが、3カ国語で乾杯の発声をしたあと、糸数さんとayaさんがベルディー作曲オペラ「椿姫」から「乾杯の歌」を歌った。二人が参加者一人一人と乾杯をして回り、最後は全員で「カンパーイ!」と合唱。大盛り上がりとなった。
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 オードブルを食べながら歓談。その間に、舞台ではベリーダンスも披露された。
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 記念のファクトリーとあって、参加者が多くて、第2部は、28組がエントリーした。
 Nさんのギター、ツレのピアノによる弾き語りで、「奇跡の地球(ほし)」を歌った。1年ぶりでNさんは緊張したというけれど、ノリのよい演奏だった。
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 ツレはピアノ独奏で、ブラームスの「ワルツ変イ長調」を弾いた。ピアノの音色もきれいだしノーミスで、良い演奏だったのではないか。
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 しばらく休んでいたTさんは、娘さんのピアノ伴奏で歌とハーモニカ演奏をした。毎年、慰霊の日のある6月には「月桃」を演奏してきた。今年は7月になったけれどこの曲を歌い、平和への思いが込められた歌声だった。
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 私と同郷のYさんは「おぼろ月夜」を歌った。若々しい歌声だった。
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 ギター独奏のピカリンさん、カオルさんも久し振りの出演。もっともっと聞きたい演奏だった。
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 やはり久し振りに、ベースのKさん、ドラムのSさんとピアノのUさん、ボーカルのRさんによる「イパネマの娘」、ayaさんによる「ジュピター」、清美さんによる「superstar」と素晴らしい歌声が続いた。
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 3代目龍潭ボーイズの楽しい演奏につづいて、そのメンバーEさんはギター、Tさんはウクレレでそれぞれ初めてソロの弾き語りを披露した。
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 与那原からきた「東浜レディースギターサークル」は「日曜はダメよ」など演奏。サークルの指導者、Kさんもギター独奏で素晴らしいテクニックを披露した。
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  最後に全員で「世界に一つだけの花」を合唱。歌声が会場に響き渡った。
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 5時間以上の音楽会だったけれど、長さを感じさせない楽しさだった。
 アルテは、ジャンルや演奏の上手下手は関係なく音楽大好き人間が集い、語り、演奏しあう場である。参加する人みんなが「世界で一つだけの花」である。こんな音楽会が「世界に一つだけの音楽会」でもある。
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   4年に1回というより年1回くらいは、こんな楽しいファクトリーがあればいいな、と思った。
 
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もっと評価されてよい島津久光、兵を率いてい上京

1000余の兵を率いて上京

島津久光は、小松帯刀と大久保利通そして藩兵一千余を率いて、文久2年(1862316日に鹿児島を出発し、4月上洛した。上京は単に朝廷・京都を守護するだけではなく、他に明確な目的があった。
 <薩摩藩・久光の政治運動の基本路線は、朝廷と幕府の改革を要求・実現することであり、今回はその出発点として位置付けられるものだったのである。そしてこの改革は「徳川家御扶助、公武合体」を実現するためのものであり、そのことは「先君(斉彬)の遺志」であり、それを実現することでもあった。すなわち薩摩藩は挙藩体制で、斉彬の遺志に基づいて行動するものであることを主張していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

<外様雄藩・薩摩藩の藩主後見人であり藩主の父であるというだけで、当初は好奇の目でみられていた、無位無官の武家にすぎない久光の出府は、結果論的にではあるが久光の存在を、強くかつ広く世にアピールすることになったのである(同書)。>

                    
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            沖永良部島にある西郷隆盛の像

 この久光の上京計画には、当初、奄美大島から鹿児島に帰った西郷隆盛は、強く反対したとされる。朝廷に対する十分な根回しがなくては、公武周旋を依頼する勅諚が出されることは難しいこと、諸侯との接触も浅く、無位無官の久光では、諸侯の協力も期待できないという理由からだ。「しかし西郷の頭が時代に遅れていた」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 久光は西郷に、先発して九州各地の情勢を視察して、下関で一行を待つように命じた。西郷は「上方の状況を知り、命令を無視して大坂へと走り尊王攘夷派をなだめてまわった。しかし、命令を無視された久光は激怒。さらに姫路で西郷が尊王攘夷派をあおっていると聞かされたため怒りは頂点に達し、西郷をとらえさせ、はじめ徳之島、のちに沖永良部島に流した」(『鹿児島県の歴史』)。
 


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もっと評価されてよい島津久光、誠忠組

 誠忠組と深いきずな
 幕末の薩摩藩といえば、とかく西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らが脚光を浴びることが多い。当たり前のことではあるが、かれらは勝手に活動していたのではない。藩の戦略と方針にもとづいて活動していたのであり、それを統率し、指導していたのは、「国父」久光であり、藩主・忠義であろう。

 久光と西郷や大久保をはじめ藩士との関係は、以下のような事例を見ればよくわかる。

 西郷隆盛、大久保利通、岩下佐次右衛門らの薩摩藩有志(誠忠組)は、水戸藩有志と計って大老井伊直弼の襲撃を計画し、安政6年(1859)から万延元年にかけて、幾度から脱藩し決行しようとするが、それを思いとどまるようにと久光が説得するなかで、久光と誠忠組の信頼関係が結ばれたとされる。
 安政6年9月、忠義(茂久)は実父久光と相談。久光は忠義に脱藩突出の中止を求める直筆の論書(さとしがき)を書かせ、これを大久保に送った。以下の内容である。
 <いま世の中が動揺し容易ならぬ時節となっている。そうしたなかで万一「事変」が起こった際には、自分(茂久)は藩を挙げて天皇と朝廷を守り忠誠を尽くすつもりであり、それは順聖院様(斉彬)の遺志を引継ぎ実現することである。このことをお前たち有志の面々はよく心得て、藩の柱石となる気持ちで、自分(茂久)を支え助けてもらいたい(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
                       大久保利通_4 

                           大久保利通
 「この異例の藩主論書に大久保らは感激して脱藩を中止、血判入の請書を提出し、みずからを精忠組(誠忠組とも)と称するようになった。こうして薩摩藩の尊王攘夷派の中核となる精忠組が誕生したのである」(『鹿児島県の歴史』)

 <本来なら厳罰に処されて当然の大久保たちを「誠忠」、忠義の者であるとまで呼び持ち上げました。薩摩からは一人も脱藩者も出さない、保守派にも急進派にも薩摩は一つになって行動するという基本方針を宣言したのです。それは計り知れない効果をもたらしました(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)。>
 
 志學館大学教授原口泉さんは次のように評価している。
 「これは感激でしょう。(大久保ら)もらう身になって思えば誠忠の士へといまは時期早々だけどいざという時には薩摩藩をあげて立つという挙藩体制の大事さをこの諭書のなかでさりげなく盛り込んでいる。一つにならなきゃ駄目なんだよということ。斉彬も築けなかった挙藩体制を久光が実現したということはまぎれもない事実なんですよ。そして斉彬という超エリートに久光はコンプレックスを持っていたことは否めないと思いますよ。ただ斉彬ができなかった挙藩体制を私が実現したと、その排除じゃなくて取り込むという政治方針を久光は骨の髄までもっていたと思います。」(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)

 久光と誠忠組との間が深いきずなでつながれたことが、その後、薩摩藩が一つにまとまって行動する土台となった。

 <幕末に内紛や分裂をする藩が多い中で薩摩は一丸となって突き進みそれが明治維新への大きな原動力となります。意見が対立し組織が分裂しそうな時、双方の意見に耳を傾け折り合いをつけてゆく。久光はこうした姿勢で藩をまとめ上げたのです(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」>

 
 
安政7年3月3日には、井伊直弼襲撃が起きた。3月23日には、知らせが藩庁に届いた。
 <翌24日、大久保は久光邸に行き、関東表が大変であるから、前の約束に基づき、関東守衛の名目で出兵し、実際は京都に滞在して、禁裏の守衛に就くべきであると強硬に主張した。しかし久光は承知しなかった。たしかに事変が起こったら出兵すると約束した。しかし此度の事件は、水戸藩浪人による事件で「兵乱」とはみなせない。しかも薩摩藩士が関係しているから、幕府がどうでてくるか予測もできないときに、軽率に出兵などできない、兵事は国家(薩摩藩)の大事であるから、よくよく前後のことを考えることが大事であると述べ、大久保を諭した(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 誠忠組の、安政5年12月の最初の「突出」計画以来、安政6年9月、安政7年2月初め(山口三斎帰藩の際)、同21日、そして同じく3月の参勤発駕の際と、計5度におよぶ「突出」計画は、一度も実行されることなく終息したのであった。

 <最初の西郷隆盛が主張した「突出」計画はもとより、誠忠組の計画は「突出」したあとの具体的な方針や見通しを欠いた、いかにも杜撰なもので、正義の行動であるという自己中心的発想と熱情から、勢いにまかせて出て行くようなものであった。これにたいし島津久光は、冷静な大局観と状況判断に基づいて、誠忠組の要求にたいして、説得力をもった論理で対応していたといえよう。また繰り返しなされた「突出」計画と、建白・嘆願そして大久保利利通との面談などにたいして、そのつど忍耐強く対応し説得にあたった。おそらくこのような久光の責任者としての姿勢と政治的資質は、薩摩藩全体に大きく評価されたに違いない(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 とかく先鋭的に走りがちな藩士の杜撰な「突出」計画や井伊直弼襲撃事件への久光の対応を見ると、「冷静な大局観と状況判断」にもとづいており、「暗愚の公子」などという一部のうわさが根も葉もないものであったことがわかる。

 久光は「先を見通す力を持った戦略家であり政治家であった」。市村哲二・黎明館学芸専門員はこのように指摘する(NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)。

 


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「潜伏キリシタン」とは?

「潜伏キリシタン」とは?
 今回の世界遺産登録で「潜伏キリシタン」という表現を初めて知った。これまで「隠れキリシタン」という表現しか知らなかった。
 「潜伏キリシタン」について、長崎県世界遺産推進課のホームページ(http://kirishitan.jp/values/val002)は次のように解説している。
 <
「潜伏キリシタン」とはキリスト教禁教期の1719世紀の日本において、社会的には普通に生活しながらひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼んでいる。そして、彼らの「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」と、「共同体を維持するために移住先を選ぶという試み」を併せて「潜伏キリシタンの伝統」と呼ぶ。なお、禁教期よりも前にキリスト教に改宗した人々のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼んだ。また、キリスト教が解禁となった19世紀後半以降も引き続き潜伏キリシタン以来の信仰を続けた人々のことを「かくれキリシタン」と呼ぶが、その信仰のあり方は解禁以降に次第に変容したとされ、変容が進んだ段階の人々を「カクレキリシタン」と表記する場合(研究)もある。>

 
       大浦天主堂、長崎県世界遺産登録推進課
           浦上天主堂(長崎県世界遺産登録推進課HPから)


 「潜伏」と「隠れ」の違い
 「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の違いについてもう少し見ておきたい。ライター事務所「ツムギヤ」ブログでは次のように紹介している。http://writer-akira.com/blog40/


  <「潜伏」「隠れ」が誕生した背景には、国内における禁教の歴史があります。
 1549年、フランシスコ・ザビエルが種子島に上陸し、日本にキリスト教を伝えたのは有名な話。
 その後、次第に信仰が広まって「キリシタン大名」なども誕生しましたが、1614年に江戸幕府が全国に「キリスト教禁教令」を発布します。
キリシタンは信仰を隠したり、やめたりすることを迫られました。

「潜伏キリシタン」の場合
「潜伏キリシタン」は、禁教令が出た後も表面的には仏教徒を装いながら、キリシタンであることを隠し続けた人たちのことです。
 キリスト教徒であることは捨てませんでした。

 ちなみに、禁教令が出た30年後の1644年、日本における最後の宣教師・小西マンショが殉教してしまいます。
 潜伏キリシタンは、指導者が一人もいないなか、禁教が説(ママ)かれるまでの約230年間、信仰を守り続けました。
江戸時代は、生きるために仏教徒であることを表向きは受け入れざるを得ませんでした。

「隠れキリシタン」の場合

  一方の「隠れキリシタン」ですが、仏教徒を装っていた点では「潜伏キリシタン」と一緒なんですが、1873年に禁教の高札が撤廃されキリスト教が黙認されるようになったあとも、カトリック教会に戻ることなく、独自の信仰形態を続けました。
 
「独自の信仰形態」というのがポイント。「隠れ」の人々は、もともとキリシタンだったのに、こっそりと信仰を続けているうちに日本の昔ながらの民俗信仰などの影響を受け、独自の変化を遂げてしまった、ということが背景にあります。
 
カトリック教会に戻らなかったのも、カトリックとは異なる独自の宗教になってしまっていたからかもしれません。>
 
 
本来は、禁制下で信仰を貫いた潜伏キリシタンの人たちの歩み、苦難の歴史に思いを馳せるべきだが、個人的な関心で横道にそれてしまった。でも、今回の登録によって「潜伏キリシタン」のことにたいする関心が強まることはいいことだろう。





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島原の乱で荒廃した地に国策で移住

 島原の乱で荒廃した地に国策で移住
 中東・バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産委員会は30日、江戸時代」キリスト教禁制と独自の信仰の歴史を伝える「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)を世界文化遺産に登録すると決定した。
 「2世紀以上にわたる禁制下で進行を継続した独特の宗教的伝統を物語る、他に類を見ない証拠」と高く評価し、12の構成資産全てが世界遺産にふさわしいと判断した(「琉球新報」7月1日付)。
 
 島原にはもう30年以上前に仕事で行ったことがある。その際は、島原・天草一揆と天草四郎について少し関連する本を読んだ記憶がある。今回の世界遺産登録に関連して、この一揆の鎮圧で荒廃した島原半島に、九州だけでなく四国からも住民が移住させられたと聞いた。移住のことは、前に読んだかもしれないがすっかり忘れていた。世界遺産登録とは関係ないが、「そんな歴史があったのか」と島原の歴史に思いを馳せた。
      原城跡、長崎県世界遺産登録推進課HP  
              原城跡(長崎県世界遺産登録推進課HPから)


 12の登録資産の一つ、「原城跡」は1637~38年の島原の乱の舞台となった。キリシタン農民が立てこもった。徳川幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制をとるなかで、宣教師不足となり信徒が潜伏するきっかけになった。
 島原の乱では島原、天草の領民計3万7千人が犠牲となり、島原半島南部はほぼ無人化したという。幕府は1642年、九州諸藩や幕領などに移住者を出すよう命令を出した。
 今年2月から3月にかけて、島原半島への大規模移住を題材にした初の特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で開かれたそうだ。
 <当時、半島は年貢が軽減される“移住特区”となり、優遇策目当てに無断で移り住む人が増えるなど混乱も起きた。…特別展では熊本、豊後高松、萩の各藩に宛てた移住令の書簡を展示。移住者の総数は不明だが、別史料では熊本藩から島原、天草へ男女計356人や牛馬11頭が移った記録もある。
 一方で、熊本藩の史料は、労働力を奪う移住策が熊本の農民にとって「迷惑」だったと記し、萩藩は「牛疫(ぎゅうえき)」の発生で農民が疲弊して多くの移住者を出せない事情があったことを伝える。各藩が異例の移住令に困惑した様子もうかがえる。(「西日本新聞」2018年02月28日)>

 島原そうめんの由来 
 島原といえば手延べそうめんが有名。これも四国の小豆島からの移住者が伝えたという説がある。
 長崎県食品販売株式会社HP「島原そうめん史」は次のように記述している(http://www.mentatu.com/somen-history.html)。
  <(島原のそうめんは)西有家町の須川地区が発祥の地とされています。(1637年(寛永14年)頃)
 島原の乱の後、住民が居なくなった島原半島には、九州をはじめ各地から強制的に移民が集められました。また、幕府直轄領だった小豆島から多くの強制移民が当地に集められました。島原の乱の40年以上前より、小豆島そうめんは作られており、この小豆島そうめんが島原の乱後の強制移民によって伝えられたのが、島原そうめんの起源とされています。
 
 ただし、島原のそうめんの由来については、中国の福建省から伝わった説もあり、確定していない。
 移住といえば、かつて琉球では、石垣島で明和の大津波で壊滅的な被害を受けた白保をはじめ地域に、波照間島など八重山の離島から移住させたのをはじめ、人口の少ない島や地域に首里王府が強制移住させ、住民が苦難を強いられた歴史があることを思い起こした。
 島原半島への移住はさらに大規模なものだが、移住に特典があったとしても、さまざまな辛い歴史があったことだろう。


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