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レキオ島唄アッチャー

一夜限りの神秘なサガリバナ

 夜咲く神秘な花、サガリバナが今年もこの時期、咲き誇っている。首里の崎山の瑞泉酒造所のある通りが名所なので首里に用があるついでに立ち寄ってみた。
             
   陽が落ちたので崎山に向かうと、落陽はつるべ落としといわれるようにすぐに暗くなってきた。崎山に着くとすでに車を止めて見ている人がいる。この通りはサガリバナの並木になっている。
 どの木も、数え切れないほど無数のつるが下がり、蕾や花がついている。
     まだ蕾が開き始めたところで、花びらが完全に開いていない木が多かった。
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 今年はとても下っているツルの数が多い気がする。

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 白や薄いピンクの花びらが開いてきて、とても美しい。花は一夜限りで朝には散ってしまう。
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    花にはミツバチがたくさん集まっていた。蜜があるのだろう。周りにはとても甘い香りが漂っている。
 この夜は、おりしも満月だった。写真は崎山ではなく、わが家の近くである。

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もっと評価されてよい島津久光、斉彬の遺志受け継ぐ

斉彬の遺志を受け継ぐ

 忠義が藩主となった当時は、まだ斉興(なりおき)が健在だった。後見役となった斉興は斉彬の政策には批判的で、斉彬がすすめた諸事業の中止・縮小を命じた。安政6年(1859)3月、藩主の後見役となった久光は、斉彬を嫌った父、斉興の意向とは異なり、斉彬の遺志を受け継ぐ。
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確かで、斉彬の考え方は十分に久光に伝わっていたと思われる」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)
 「久光は斉興派の重臣島津豊後久宝を失脚させて藩の実権を掌握。斉彬が推進していた公武合体路線の継承を訴え藩論の統一をはかった。また、集成館の復興に着手し、蒸気船も購入した」。ただ、斉彬の死後、西欧を見下す風潮が藩内に広がり、「集成館の復興は造砲部門など一部にとどまった」(『鹿児島県の歴史』)という。

      島津斉彬 
            島津斉彬

 

 薩摩藩はその後、西欧の軍事・科学技術の導入を積極的に進めた。
 文久2年(1862)、久光が1000人余の兵を率いて上洛し、さらに江戸に行った帰り、久光の行列を乱したイギリス人を殺傷した生麦事件が起きた。これがもとになり薩英戦争を招き、西欧の強力な軍事力を目の当たりにすることになる。
 薩摩藩は、焼失した集成館の復興、機械工場・鋳物工場・鍛治場・木工場・製薬所など工場群が建てられた。大砲や弾薬の製造、蒸気機関や艦船修理などを行なった。銃砲も西欧から大量に輸入し、兵制もイギリス式に改めた。外国船の購入により海運・海軍力も強化した。
 これらを支える人材育成に力を注いだ。元治元年(1864)、洋学校・開成所を設立し、英語・陸海軍砲術・兵法・天文・地理・航海術・数学・物理・医学など教えた。教授に招かれた中に、中浜万次郎もいた。翌年には、日本人の海外渡航が禁止されている中で、薩摩藩は3人の使節団と藩費留学生15人をイギリスに派遣した。
 「国禁をおかしての派遣であるから、このころ薩摩藩は公武合体路線から離脱しはじめたとみられる」(『鹿児島県の近現代』)
 
 久光はとかく、国学に通じ、伝統を重んじて「守旧的」「田舎者」などと称されがちだが、「国父」として斉彬の遺志を受け継ぎ、軍事や産業の近代化や人材の育成に力を注いだことは、その後の薩摩藩の公武合体から討幕と新政府樹立へと向かう上で、それを支える重要な力となった。
 大阪学院大学経済学部教授 森田健司は、次のような評価をしている。
 
実子の忠義(1840-1897)が藩主となってからは、「国父」として藩政の実権を握り、公武合体運動の推進で活躍し、斉彬以上に薩摩藩の力を高めることに成功している。>THE PAGE」の「連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)」から、https://thepage.jp/detail/20180129-00000003-wordleaf?utm_expid=90592221-90.x0Auz-QlTn2yldOAHtyYkA.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fsearch.yahoo.co.jp%2F


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もっと評価されてよい島津久光、「暗愚の公子」か

 NHK大河ドラマ「西郷どん」は、名君島津斉彬(なりあきら)が亡くなり、異母兄弟の久光が藩主ではないが「国父」として薩摩藩の指導者として登場している。西郷隆盛とは仲が悪かったといわれ、西郷が主役のドラマでは、久光が悪者に描かれるのではないかという心配の声が出ている。すでにあまり賢い人物とは描かれていない印象である。これまでとかく、久光は斉彬と対比され、「暗愚」「田舎者」「保守派」「野心家」などという噂がつきまとう。
 「西郷どん」は毎回楽しみにして見るので、少し薩摩藩についての歴史本を読んでいる。それで感じるのは、これまで久光に持っていた印象とはかなれ異なること。彼が藩の指導者として、よく考えた判断をしていたのではないだろうか、と思うところがある。島津久光が歴史上に果たした役割はもっと評価されていいのではないか。そんな感想をもった。
 

NHKの注目される企画

 NHKは大河ドラマ「西郷どん」を放送していることと関連して、薩摩藩の歴史にかかわる企画を何回か放送しているが、とくに島津久光に注目した企画が目に付く。
 BSプレミアム201814日「英雄たちの選択 ここに始まる~島津久光率兵上京の決断~」は、「西郷、大久保らを中心に語られてきた幕末史が大きく書きかえられようとしている」として久光の率兵上京の決断に焦点をあてていた。NHK総合201852日「歴史秘話『西郷隆盛をつくったふたりの上司』」として、久光と藩重臣・桂久武を取り上げていた。久光が西郷とただ敵対したという視点ではなく、西郷に厳しく対処することによって西郷を育てていったという観点からの企画だった。

 NHKEテレ2018年6月5日「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」は、次のように指摘していた。

<斉彬から薩摩と「日本」を託され、難しい時代のかじ取りを担った久光。斉彬のようなカリスマ性はなかったものの、対立する意見の落とし所を的確に見つけ出す「調整型リーダー」として手腕を発揮した。>

これらは、幕末史における久光の役割と功績を再評価しようとするものとして注目した。

では、久光がどのような人物であり、どのような役割を果たしたのか、実際の歴史の流れの中で、総論的にではなく、いくつかのポイントに絞って見てみたい。


      島津久光像、原田直次郎筆 
         島津久光像
 

「暗愚の公子」なのか
 島津久光は藩主斉興(なりおき)の5男で、母は側室お由羅の方である。長兄斉彬のほか兄3人・弟3人がいたが、斉彬を除く男兄弟がすべて早く亡くなった。安政5(1858)年、斉彬が急死し、「その遺言により異母弟の久光の長男忠義(茂久)が薩摩藩主となった」(『鹿児島県の歴史』)。

蘭学を好み開明的だった斉彬に対し、久光も学問好きで、和漢の学に通じて、博覧強記の人だったとされる。斉彬は久光の能力をどのように見ていたのだろうか。

「斉彬は久光を有能なブレーンとして信頼していた」(市村哲二・黎明館学芸専門員、нHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確か」だった(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 斉彬は、久光を高く評価していたようだ。

 

 斉彬の後継者について、遺言は必ずしも忠義一本ではなかったともいわれる。佐々木克氏は次のようにのべている。
 <斉彬は遺言で山田壮右衛門に、長男の哲丸が幼いから、後継者は異母弟の久光か、久光の長男忠徳(又次郎、当時19歳、注・のちの茂久)かどちらかを、前藩主で隠居して当時江戸に居た斉興に相談して決めるように伝えた。
 なお遺言に関しては、託された証人の一人である新納久仰も記録を残しており、この記録では、後継者は又次郎(忠徳)を第一とするという遺言であったとしており、先の山田壮右衛門の記録とは少しニュアンスが異なるが、しかし斉彬が後継者候補として又次郎に比重をおいて考えていたことを示していると判断してよいであろう(『幕末政治と薩摩藩』)。>

  勝田孫弥著『大久保利通伝』の記述によれば、「久光は学問もあり見識は優れ、気節のある有能な人材であったけれど、自ら世を避けて、退隠したような生活を送っていたため、久光の人となりを知って、正当に評価する者がなく、暗愚の公子と評価されていた、ということである」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
  (注)藩主となった島津忠義はその時期によって名前が異なる。以下のように名乗っていた。「幼名
壮之助。通称又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱(いみな)である」(ウィキペディア)

  久光はなぜ藩主にならなかったのか。
 <斉彬の時代には、藩内における久光の評価は、かんばしいものではなかったであろうから、それらの点をわきまえて、久光は自ら後継者となることを、斉彬の重臣の前で辞退する意志を表明したのではなかろうか。新納の記録は、以上のような事情が反映されていると見てよいであろう。後継者をめぐる争いを避ける意味でも、久光のとった態度は、賢明であったと評価できるであろう。御家騒動の記憶は、まだ鮮明だったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>



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南島に現れる仮面、仮装の神々、世界に広がる仮面文化

 世界に広がる仮面文化

 これまで南島の異形の神々について、紹介してきた。「なぜ顔を隠すのか」について、外間守善氏の見解を見てきた。「なぜ顔を隠すのか」とは「なぜ仮面をつけるのか」という問題につながる。「人はなぜ仮面をつけるのか」について、自分なりにもう少し検討してみたい。
 民族の祭りに仮面(マスク)が登場する風習は、古くから世界各地に分布しているそうだ。
 
 <人類はなぜ「仮の面」(仮面)を必要としたか。仮面は、人類文化の原始時代から存在し現在に至っているし、地球上の各地域に多様に存在している。
 人類は強大な他の動物に比較すると、肉体的にきわめて非力である。そのうえ、他の動物と違って、死、病気、災禍などを事前に意識して不安になる。
 仮面は、かぶることだけで存在自体の表情を変えることを可能にする。神や祖霊や妖怪(ようかい)などの仮面をかぶれば、人類はそれら超自然的存在になった気になれる。
 仮面をかぶることにより、人は自己であると同時に自分以外の別の存在ともなるので、人間がたとえば神や精霊や妖怪悪魔や祖霊や死霊などの仮面をつけ、それらの存在となり、一般の人々が仮面をつけた人間をそれらの超越的な存在とみなすという図式ができるので、仮面は超越的存在と人間とが霊的に交流する媒体となるもの、といえよう。
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                         八重山のアンガマ面
 災禍は、悪霊の仕業と考える。悪霊を追い払うには、それ以上の力で対抗しなければならない。したがって、シャーマンが恐ろしい形相の仮面をつけ、太鼓など打ち鳴らして祈祷(きとう)する風習が珍しくない。
 病気ばかりでなく種々の厄払いの盛んな所の一つが日本で、節分をはじめとして悪鬼・災禍を払う祭り用の鬼などの面が多彩にある。こうした仮面は、家に掛けておくだけで招福除災になるとされ、飾り仮面として世界のあちこちに存在する。>

 以上は「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」から抜き書きである。
非力な人間が仮面を着けることにより、超自然的存在になれる。悪魔を追い払うためにはそれ以上の力で対抗しなければならない――とのべていることが注目される。
 世界各国の300を超える仮面を精力的に蒐集した芹沢銈介氏も同様の見解を示している。

<「仮面」は、自身以外になるための「変身」の道具であり、また目に見えない、人間を超越した力の持ち主を表現したものといえるでしょう。それは神であり、精霊や鬼神でもありました。…
 アフリカの諸部族において仮面は、政治や特殊な結社、裁判、農耕や収穫の儀礼、成人儀礼、葬送、魔除けなど日常生活のすべてにかかわる、 なくてはならない存在です。強調された目鼻や装飾は、自然界と人間界の秩序を、仮面が支配していると言ってよいほどの強いインパクトを感じさせます(「芹沢銈介があつめた仮面」から )。>

 仮面をつけることは、外間氏がのべるように、「異界の神と現世の人との区別」というだけでなく、仮面は「人間を超越した力の持ち主を表現したもの」となる。
 パプアニューギニアの仮面文化は、南島の仮面神と似ているらしい。
        パプアニューギニア マスクフェスティバル 観光局ニュース 
                パプアニューギニア「ナショナル・マスク・フェスティバル」
           (同政府観光局ニュースレターから)
 <毎年7月にニューブリテン島で開催される「ナショナル・マスク・フェスティバル」はPNG(パプアニューギニア)の仮面と部族が一堂に会するお祭りですが、中でも飛抜けて個性的なのが、胴体を葉っぱで覆われた個性的な仮面神「トゥブアン」、そしてトンボの目のようなマスクを被った「バイニンマン」。一方、鹿児島県南西諸島のお盆祭りに登場する仮面神を見てみると、悪石島の「ボゼ」、硫黄島の「メン」は日本らしからぬ、南洋文化の影響を感じさせる風貌のマスク。これらをよく見比べてみると、どことなく似ているような…。
 (ラピタ人の一部は「黒潮」の流れに乗って、日本の南西諸島に到達したと考えられており)日本とパプアニューギニアは同じ起源を持ち、太平洋という海と仮面文化を共有する仲間である、と考えると何だかワクワクしてきます。(パプアニューギニア政府観光局ニュースレターvol24)。>

 すでにアカマタ神のところで紹介したように、喜舎場永珣氏も、神事に唄われている歌の節々には「唐」「真南蛮」「安南」などの地名が出てくることから、「南方地方との関係がすこぶる濃いように思われる」とのべていた。異形の神々の仮面、草装の姿など見ていると、なんらかの南方との関係があるのかもしれないと考えたくなる。

 最後に私の個人的な感想をのべておきたい。
 南島の異形の神々の役割の本質は「稲作豊穣の感謝、予祝」(外間氏)とされるが、その多くは、悪魔祓いをして幸いをもたらしてくれる神々である。仮面、仮装につけた泥を住民が付けられると,悪魔祓いの利益がある(悪石島ボゼ、宮古島パーントゥ)、手に持つ枝葉で叩かれると災厄を祓われる(薩摩硫黄島のメンドン)、悪魔払い、厄払いの神(小浜島、ダートゥーダー)など。
 
 悪魔や災厄を追い払うためには、悪魔に対抗できる力をもつ必要がある。仮面をつけることによって、超越的な存在となり、霊力をもち、災厄を追い払い、豊作や幸せをもたらしてくれると信じられたのではないか。
 恐ろし気な形相の仮面、仮装を写真や動画で見ていると、そんなふうに思えてならない。世界と日本の各地で、その姿や名称は異なっても、仮面、仮装という点では共通性をもつ異形の神々の祭祀が生まれて、伝統ある民俗文化として受け継がれてきた。
 非力でたえず自然災害や凶作、疫病などの災禍、病気や死の不安にさらされ、災厄を払い豊年や幸福をもたらす神の出現を待望する人々の願望が、仮面、仮装したり、泥をつけることによって、人間を超越した存在となり霊力をやどす異形の来訪神を生みだしたのかもしれない。改めてそんな思いを強くした。
    終わり        2018年6月20日                文責・沢村昭洋


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恵みの台風

 台風6号は沖縄にとって「恵みの台風」となった。
 なにしろ今年は空梅雨で、ほとんどまともな雨が降らないまま、もう梅雨明けになるのではないかと県民みんなが心配していた。ダム貯水率は44%にまで落ち込んでいた。
 今回の台風6号は、15日に台湾から八重山に進み、16日は沖縄本島へと直撃コースで進んできた。といっても、暴風域はなく、速度も速い。
 16日午前に少し雨風が強くなったが、お昼ごろには台風の目に入ったかな、と思うほど、無風になり青空も広がった。台風の目ならもう一度、風雨が強くなるけれど、今回は吹き返しもまったくなし。その後も空は晴れたまま。まさに台風一過だった。
 肝心の雨は、離島や北部で過去最高や6月として過去最高など、大雨が降り注いだ。それも、ダムがたくさんある水源地の山原地方で多く降った。大雨による被害はごく一部にとどまり、農家にとっても待望の雨となった。ダムの貯水率も急激に回復している。17日現在で67%ほど。18日の月曜日から24日の日曜日まで週間天気予想は雨マークが入っていて、これからも降雨が期待できそうだ。ただし、6月23日の慰霊の日は例年梅雨明けとなっていたが、今年の梅雨明けは少し遅れそうだ。
 今回の台風には、みなさん「恵みの雨」と異口同音にのべている。
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 実は、15日夜は今年初のビアガーデンに行く予定していたが、雨予想だったのでキャンセルした。だが、16日は午後から晴れあがったので、急きょ出かけた。心地よいビアガーデンだった。


















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南島に現れる仮面、仮装の神々、なぜ顔を隠すのか

 なぜ異形の神々は顔を隠すのか
 「来訪神:仮面・仮装の神々」をユネスコ無形文化遺産登録に提案しているということは、これらの祭祀がとても重要な民俗行事であることを示している。私が興味を持ったのも、本来、豊作や厄払いなど人々の願いをかなえてくれる神々なら、沖縄のミルク神や仏像の弥勒菩薩のようなふくふくしい顔を思い浮かべる。だが、これまで見てきた南島はじめ各地に現れる仮面・仮装の神々は、その多くは恐ろし気な形相である。その特異な形相にはどんな意味が込められているのだろうか。

 また、これらの神々は仮面や仮装という共通項はあるけれど、それらの異形の神は、たまたまそれぞれ独自に生まれたのか、それとも一部であってもなんらか影響を及ぼした関係があるのか、ないのかなど、もっと深く知りたいという思いがわいてくる。
なぜ神々は仮面をつけ、仮装するのかについて、外間守善氏は論文「異形の神の顔かくしの論理」で次のような考察をしている。
 
 <なぜ神々は顔をかくすのだろうか、ということについて考えてみたい。
 日本本土の来訪神は正月に現われ、南島の来訪神は節祭(旧暦7月で南島の正月)に現われるが、そのことについて下野敏見は、稲作中心の生活サイクルの組み立て方、神祭りのし方、来訪神の迎え方に拠るのであろう、というような推論をしているが、卓見であると思う。
 異形の来訪神は、恐ろしい仮面の様相から悪神にされている地方もあるが、その役割の本質は稲作豊穣の感謝、予祝であり、村や人々に平和、幸福をもたらす有難い来訪神なのである。>

 異形の来訪神の役割の本質は「稲作豊穣の感謝、予祝」であり、「村や人々に平和、幸福をもたらす有難い来訪神」だとする。
民俗学的には「来訪神と祖霊神を二分立する考え方」もあるが、「本来的には祖霊神も来訪神だったわけであり、深層でのつな がり、根は同一だった」、沖縄の祖先神アマミクも「そのもとは来訪神だからである」とする。
      悪石島ボゼ、鹿児島県観光サイト 
           悪石島のボゼ(「鹿児島県観光サイト」HP)
 「では、来訪神であれ、祖霊神であれ、異形なさまで出現する神々は、なぜ顔をかくし、風体をやつしているのであろうか」と本題に入る。
 <私は、その理由を二つに分けて考えている。その一つは、聖なる神と俗なる人との分別であると思う。異界からやってきた神の尊厳を維持するために、顔かくしの仮面をし、草装をすることで、形にみえる区別をしたのがまず一つに理由だと思う。異界の神と現世の人とは、そういう形で厳然と区別されたわけである。>
 
 仮面や仮装によって「異界の神と現世の人」を「厳然と区別」する意味があるとする。現世の人とあまり変わらない姿では、現世を超越した神らしい神聖さを感じないからだろうか。
  外間氏は、もう一つに理由として、民俗学者の折口信夫が、「『やつす』ということは、もとは、神祭り、寺の法会に参列する人は、禁欲生活にはいりげっそりと衰える。その後に人格が転換して神聖なるものになる」との解説を引用しながら、次のようにのべている。

 <古くは、身を「やつす」ことで人格が神格に成り変わっており、…「やつす」という語は、みすぼらしい、みにくい姿をやつして(仮装して)おのが姿をよりよくみせようとすることから、「やつす」そのものが、おめかしをするという意味に変わってきていることがわかる。>
 沖縄本島本部町伊野波のシヌグに伝わる来訪神ムックジャーがみすぼらしい姿に「やつし」て出現してきたことをはじめ、各地の来訪神が顔に黒い泥を塗ったり、赤や黒の面、面に赤と黒の配色による条紋をほどこしてることなどは「やはり一種のいろどりであり、『やつし』だとみられないだろうか」と指摘する。

 「『やつす』は、まさに、おめかしの原初的な姿であったことになる。少なくとも、おめかしをするという美学の原理は、『やつす』という語にかかわっていたわけであり、異形の神々の顔かくしの意味の一つがほどけてきたようである」との見解をのべている。
 外間氏は、「みにくい姿をやつして(仮装して)おのが姿をよりよくみせ」、「やつす」ことで「人格が転換して神聖なるものになる」とみる。
 来訪神、仮面・仮装の神々が、顔を隠すのは、そこに深い意味が込められている。お互いの影響関係は分からないが、こうした神々を生みだされた背景には、それぞれの地域で、そこに生きてきた人々の長い暮らしの営み、歴史がある。
  こういう神々の祭祀が、ユネスコ無形文化遺産として登録されれば、改めて大きな注目を集めるだろう。貴重な民俗文化として後世に伝えていきたいものである。


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南島に現れる仮面、仮装の神々、秋田のナマハゲ

 秋田・男鹿のナマハゲ
 
 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
<男鹿(おが)のナマハゲは,秋田県男鹿市に伝承される,正月に行われる行事である。当地では,大晦日(12 月31 日)の晩になると,ナマハゲと称する神が人里を訪れるとされ,家々を巡り歩き,新年を祝福する。昭和20 年代までは小正月(1 月15 日)に行われていた。
         
男鹿ナマハゲ、文化庁
                                 男鹿のナマハゲ(文化庁の提案文書から)
 囲炉裏などで長く暖をとっていると,手足に火斑(ひだこ)ができるが,これを当地ではナモミといい,何もしない怠惰の表れと解している。ナマハゲはそのナモミを剝ぎとってしまう,ナモミ剝ぎの転訛とされ,すなわち怠惰を戒めるの意からそう呼ぶようになったとされている。
 ナマハゲは,各地区の青年たちが扮するが,大きな鬼の面を被り,ケデ(藁蓑)を身にまとい,手には包丁や桶を持つなどして「泣く子はいねがー,親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら家々を巡り,その都度,当家より料理や酒で丁重にもてなされ,去っていく。
 
 この行事は,年初に当たって神々が訪れ,人びとに祝福を与え,地域に幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は全国に分布するが,特に男鹿のナマハゲは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,秋田県男鹿半島における来訪神行事の典型例として重要である。>


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アルテで「PW無情」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが9日夜開かれた。今月のテーマは「君」。テーマにそってそれぞれ演奏された。今回は、沖縄県芸大の学生さんが3人も参加して、平均年齢をぐっと引き下げた。とても楽しい音楽会だった。
 今回は、三線が3組に増えたのが嬉しい。三線演奏と私たちにかかわるものだけをアップする。
 越智さんは、ツレにピアノ伴奏で「サントワマミー」をトランペットで演奏した。いい音色だった。
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  私は、「PW無情」を歌った。「PW」とは戦争捕虜のこと。沖縄戦のあと、捕虜となた軍人は捕虜収容所に入れられたが、金武町屋嘉にあった収容所で歌われた曲だという。曲中に彼女が出てくる。「君」と呼んだかもしれないのでテーマにこじつけた。それに今月23日は「慰霊の日」でもあり、戦争と平和にかかわる曲を歌ってみたかったからこの曲にした。

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   歌詞は、「屋嘉節」とほとんど同じ。「屋嘉節」は山内盛彬さん作曲であるが、この曲は普久原朝喜作「無情の唄」にのせて歌う。いま上間綾乃さんが歌っているので参考にしてみたが、かなれ自己流になってしまった。
 玉那覇さんが久しぶりに出演した。本人曰く「3年ぶり」だとか。「遊びションガネー」を歌った。歌、三線の音色とも味わいがある。これからも是非、出ていただきたい。

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 ツレは、ピアノ弾き語りで「糸」を歌った。ピアノソロでは、ショパンの「ワルツイ短調遺作」を演奏した。こだわっていたトリルも美しく演奏できたのではないか。
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 川西さんも歌三線は1年ぶりくらいか。「遊びションガネー」を演奏した。歌、三線とも前回より格段の進歩のように感じた。上から目線のようで申し訳ない。三線の演奏が増えて心強かった。
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 来月は、150回記念となる。テーマは「思い出の曲」。たくさんの方々の演奏が聴けると嬉しい。

                三代目龍潭boys 
  



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南島に現れる仮面、仮装の神々、薩摩硫黄島のメンドン

 薩摩硫黄島のメンドン

 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
 <薩摩硫黄島(さつまいおうじま)のメンドンは,鹿児島県三島村の硫黄島に伝承される,季節の節目に行われる行事である。毎年,八朔の行事日となる旧暦の8月1日・2 日に,メンドンと称する神が現れ,地域と人びとの邪気を追い祓う。
  メンドンには,若者や子供たちが扮する。蓑を身にまとい,頭にはテゴと呼ぶ籠に紙を貼って作った奇怪な面を被る。手にはスッベと呼ぶ枝葉を持つ。夕方,神社の前で若者たちが輪になって太鼓踊りをしていると,突如,拝殿奥から1 体のメンドンが走り込んできて,踊り手の周囲を3 周し,去っていく。
           薩摩硫黄島メンドン、文化庁 
               薩摩硫黄島のメンドン(文化庁の提案文書から)

 これが終わると,次々とメンドンたちが走ってきては,踊りの邪魔をしたり,飲食に興じる観客たちの中に分け入るなど,悪戯をはじめる。手に持つ枝葉でしきりに叩くが,これに叩かれると魔が祓われてよいなどという。こうして,メンドンらは神社を出たり入ったりしながら,せわしく駆け回るが,踊りの終わったあとも夜中まで所かまわず出没,徘徊している。

 この行事は,夏・秋の節目に当たって神が訪れ,地域とその人びとの災厄を祓うとともに,幸いをもたらすといった行事である。類似の行事は南西諸島に分布するが,なかでも薩摩硫黄島のメンドンは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,種子島・屋久島地方における来訪神行事の典型例として重要である。>


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南島に現れる仮面、仮装の神々、甑島のトシドン

 鹿児島県甑島のトシドン 
 
 ユネスコ無形文化遺産登録めざす文化庁の提案の紹介の続きである。
<甑島(こしきじま)のトシドンは,鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝承される,正月に行われる行事である。当地では,大晦日(12 月31 日)の晩になると,トシドンと称する神が山の上に降り立ち,首のない馬に乗って人里を訪れるとされ,家々を巡り歩き,新年を祝福する。
         甑島トシドン、文化庁 
                     甑島のトシドン(文化庁の提案文書から)
 
 トシドンには,男たちが扮する。長い鼻に大きな口の奇怪な面を被り,藁蓑のほか,シュロ(棕梠)やソテツ(蘇鉄)の葉などを身に付ける。各家の戸口で馬の足音をさせてから屋内に入ると,特に子供達に,大声で脅したり,本人から日頃の暮らしぶりを問いただし,よい子になるよう諭し,ときとして褒めるなどする。こうして最後には,子供に褒美としてトシモチ(歳餅)と呼ぶ大きな餅を与え,背中に戴かせ,去っていく。歳餅もちは,これを貰わないと1つ歳を取ることができないとされており,いわゆるお年玉の初原と考えられている。
 
 この行事は,年初に当たって神々が訪れ,人びとに祝福を与え,あるいは訪れることで歳改まるといった行事である。類似の行事は全国に分布するが,なかでも甑島のトシドンは,我が国の民間信仰や神観念の形態をよく示しており,南九州の来訪神行事の典型例として重要である。>




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