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レキオ島唄アッチャー

15年ぶりの高知帰郷(下)

 反戦詩人の歌碑と墓を訪ねる

16日は、ホテルで自転車を借りて、早朝から市内を巡った。といっても長く住んでいた地元だから知っているところが多い。向かったのは、高知城の西側にある城西公園。かつて勤めていた役所の側の刑務所跡に造られた公園である。訪ねたのは反戦詩人、槇村浩「間島パルチザンの歌」の歌碑。道路脇の石碑がたくさん建立されている一角にあった。
 日本軍の朝鮮・中国侵略への間島(現在の中国延辺朝鮮族自治州)民衆の抵抗を歌った叙事詩である。高知に居ながら朝鮮・中国の民衆に思いを馳せた国際的な連帯の心が込められた槇村の代表作である。立派な歌碑だった。

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             「間島パルチザンの歌」の歌碑

  自転車をさらに走らせ、上町5丁目から北に入り永福寺の側を通って、槇村浩のお墓を訪ねた。案内板があるけれど分からない。教会の角を入ると記されているが「ここには教会なんかないぞね」と歩いていたおばちゃん。仕方なくさらにおじさんに尋ねると、もう一人の
おじさんも立ち止まって、「その墓なら前にも訪ねてきた人がいたき、こっちだと思うよ」と案内してくれた。「教会は前にあったがもうなくなったがよ」。道理で見当たらないはずだ。


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 山道を少し登ったところに槇村浩(本名・吉田豊道)とその母のお墓があった。槇村の詩集には青春時代にとても感銘を受けた。彼の全集を読むと、少年時代から広い国際的な視野をもっていたことがわかる。その詩作はいまなお多くの人々に愛されている。

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 お墓の近く、井口町には母方の祖父の家があり、夏休みなどよく遊びに来たことだった。ついでにお祖父さんの家に回ると、いまは誰も住んでいないが昔のままで残されていた。この家で過ごした
60年前の想い出が甦った。


 「自由は土佐の山間より」
 午後は、桟橋通
4丁目にある「高知市立自由民権記念館」に向かった。入口にある石碑には「自由は土佐の山間より」と刻まれている。65歳以上は観覧無料となる。
 憲法を作り国会を開こう、言論や集会が自由な世の中にしようと訴えた日本で最初の民主主義運動――自由民権運動は、土佐の人々が大きな役割を果たし、全国にその火が広がった。

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 常設展示室では、自由民権運動の歩みを文書資料、文献、写真、風刺画などを使って詳細に紹介している。この運動を担った人物では、これまであまり聞いたことがない人々も多数展示されており、いかに多彩な人々がその輪に加わり活動したのか、すそ野の広がりを感じる。中には郷里の佐川町出身者も
2人いた。

 一つだけ気になったのは、幕末維新とは区別して、自由民権運動に限定して展示しているため、たとえばジョン万次郎はまったく視野の外に置かれていることだ。でも、アメリカンデモクラシーを最初に日本と土佐に伝えたのは、アメリカなどで10年過ごして帰国した万次郎である。土佐の自由民権の思想的な源流には、デモクラシーを伝えた万次郎が位置する のではないかということ。万次郎が伝えたデモクラシーは、明治維新では実現しなかった。自由民権運動こそ、そのデモクラシーの思想と政治制度を日本で実現させる運動となったといえるだろう。

 万次郎といえば、高知では、幕末維新の偉人がたくさんいて人気度はあまり高くない。高知駅前には、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の3人が土佐の偉人として銅像が並んで建てられている。観光客目当てというだけの少しグロテスクな像だ。万次郎の人気は45番目くらいらしい。でも、高知でも近年、評価は高まってきているようだ。

 

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夜は、大学時代の友だちら4人が居酒屋に集まってくれた。意外だったのは、友だちの一人とイギリスドラマにはまるという共通の話題で盛り上がったこと。イギリスドラマでは、「刑事フォイル」「刑事モース~オックスフォード事件簿」「名探偵ポワロ」「シャーロック」などが放送された。なかでも「刑事フォイル」は最高の刑事ドラマである。第2次世界大戦の始まりから終戦までを時代背景として、軍需工場に動員された女性、ナチスに共感する貴族など様々な人々の戦争への関わり、アメリカ人や在英の「敵国」ドイツ人、イタリア人の関わりなどを通して、戦時下イギリス社会の諸相が見事に描かれている。主人公のフォイルをはじめ登場人物のキャラクターも魅力的である。フォイルの人間味あふれる人柄や不当な圧力には屈しない気骨ある人間像にも魅かれる。

他のドラマも含めて、ハリウッド的な作り方とはまったく真逆の落ち着いて深みのあるドラマ作りは、イギリスならではである。友だちは、ノーベル文学賞をもらったカズオ・イシグロ氏の小説『日の名残り』とその映画の魅力のとりこになったそうで、勧められた。読みたいと思いながらまだ未読であり、さっそく帰りの高松空港で文庫本を買い求めて読み終えた。帰ってから、レンタルビデオ店で映画も借りて見た。本も映画も、執事が主人公という地味な設定なのに、作家の日本人ならではの繊細な感性による表現とイギリスならではの歴史や社会背景が相まって、見ごたえある人間ドラマとなっていて、ぐいぐいと引き込まれた。



 こうして、
3日間にわたり、ご無沙汰していた人たち、懐かしい同級生、友人たちと過ごせた時間はかけがえのないものである。忘れられない記憶となる。年齢を重なると、もう再び会えないかもしれない。人生にとって貴重な再会と別れになった。この時期に、思い切って帰省したことがとても有意義だったと痛感する。

帰省中は、ホテルでなぜか毎朝、5時半ぐらいに目が覚めた。気分が高まっていたのだろうか。帰りは午前810分の高速バスを予約していたが、早く起きたので8時まで待つ必要がない。バスターミナルで710分発の朝1便に変更してもらい、予定より早く高松空港に着いた。

高松といえば讃岐うどんが名物。1140分発の飛行機では昼飯も食べられないだろうと思い、少し早いが握り寿司付のうどんをいただいた。やはり讃岐ならではの美味さだ。
 この時期、那覇行きの飛行機は修学旅行生で毎日満席だという。旅行前に、ANAマイレージ会員になり、シルバー割引を利用して帰ろうと考えた。でも、これは空席がある場合だけ利用できる制度だ。たいがい空席はあるだろうが、もしも満席だったら、11便だから、旅行計画が破たんすることになる。その一抹の不安があったので、通常の早割、株主優待割引で少し安く航空券を購入していた。高松空港では、3つの中学校の修学旅行生が長蛇の列を作っていた。もしシルバー割に頼っていたなら、乗れない、帰れないということになっていただろう。胸をなでおろした。

飛行機に搭乗すると、わが早割航空券はプレミア席となっていた。ゆったりとくつろげる。おまけに、なんと昼食のお弁当まで出てくるではないか。五目寿司と煮物などの二段重ねで美味しそう。つい1時間余り前にうどんを食べたばかりなのに、このお弁当もまるで別腹のように見事たいらげた。

こうして45日の高知帰省の旅は終わった。懐かしい想い出満載の旅だった。宴席をもうけてくれた友人、車に乗せて案内してくれた元同僚、そのほかお会いできたすべての方々に「ニフェーデービル」(ありがとう)と伝えたい。沖縄にも来る機会があれば是非、お出でいただきたい。お返しのおもてなしをしたいと思った。

終わり 

                 


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15年ぶりの高知帰郷(中)

 ジョン万次郎資料館に向かう

 高知への帰省中は、行った日だけ雨がポツポツ降る悪天候だったが、翌日から空は晴れ好天候に恵まれた。気温も25度を超え暑い。でも朝は1617度くらいで、冷やっとするところが沖縄と違う。

15日も早く目覚めて、820分発のJRで宿毛に向かう。途中窪川からは土佐くろしお鉄道の路線となる。宿毛は、かつて高校卒業後、公務員として6年間働いた想い出深い土地である。56年前に赴任した時は、鉄道は窪川止まり。そこからまだ舗装もしていない道路をバスで4時間以上揺られて着く。高知県の西南部の遠隔の地だった。かつて佐川町から6時間ほどかかったのがいまは2時間17分で着く。隔世の感がある。

宿毛在住のAさんが、中村駅まで迎えに来てくれた。というのも、土佐清水市にあるジョン万次郎資料館を見たいという希望に応えてくれ、中村から清水に回るためだ。
 車は、四万十川と仲筋川の二つの川の間の堤防を走る。沖縄では絶対に見られない光景。風情がある。40分ほどでジョン万資料館に到着した。清水市はさすがに、行く先々に万次郎の文字が躍っている。清水の生んだ偉人として万次郎をとても誇りとしていることがよくわかる。

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       ジョン万次郎資料館

万次郎は、この清水市中浜で漁師の次男として生まれた。市内養老に資料館があり、足摺岬には万次郎像が建立されている。資料館はこの4月にリニューアルオープンしたばかり。とてもしゃれた外観である。
 展示室は、少年期ゾーン(中浜時代)、青年期ゾーン(アメリカ時代)、壮年期ゾーン(幕末維新時代)に分けて展示されている。とても詳細に万次郎の生い立ちと歩み、その功績が展示され、万次郎の人物と事績がよくわかる。この2月に沖縄の糸満市大渡海岸に上陸記念碑が建立されたことも紹介されている。

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  ここから生地の中浜に向かう。いまも漁師町である。万次郎の生家が復元されている。集落の中央部に車を止めると、案内板があった。車の通れない細い路地を150㍍ほど歩く。
 生家は当時のままに復元されていた。家々の軒を連ねるこの集落を見ると、こういう環境の中で少年期を過ごし、その後数奇な運命をたどる人間・万次郎がより身近になった気がする。

 宿毛市内を回って、中村駅まで車で送ってもらった。宿毛市内は鉄道の駅ができたのでその周辺に新しく店舗が集中し、旧市街地は寂れていっている。もう昔の面影はほとんど残っていない。かすかに、よくオートバイを修理したバイク店だけは記憶通りだった。

 旅行前に、宿毛・土佐清水回りはレンタカーで行く計画を立てていた。でもいくら高速道路が伸びていても、慣れない道を往復で6時間ほど運転すると、あまりにも負担が大きい。それに宿毛勤務当時は、窪川以西の鉄道は夢の夢だった。開通した鉄道にも乗ってみたい。Aさんに相談すると、鉄道で来れば車で案内すると快く承諾してくれた。Aさんには苦労をかけたが、お陰で快適に西南部を回り、かつての職場の動向やAさんはじめ知り合いの方々の近況など詳しく聞くことができた。Aさんに感謝、感謝である。

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  高知市に帰ってくると、その夜は宿毛時代の職場の同僚だった2人と会った。 50年ぶりくらいだ。「よく高知に帰ってきてくれましたねえ」と何度も再会を喜んでくれた。話し出すと青春の宿毛時代の想い出に話しは尽きない。

 2人は、お土産だと言ってわが郷里、佐川町の銘酒、司牡丹が出しているそば焼酎をプレゼントしてくれた。高知で思いがけない贈り物だった。帰ってから早速味見をしてみると、そばの独特の香りがあり、これまで接したことのない焼酎の味だった。高知では、昔はお酒といえば清酒ばかりだったが、いまは焼酎が人気らしい。カツオのたたきもたっぷり食べた。

 これからもお互いに元気で長生きしようと誓いあい別れた。

 


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15年ぶりの高知帰郷(上)

沖縄に移住してまだ一度も郷里の高知県に帰っていなかった。その間に叔父2人、叔母2人が亡くなっていた。事情があり帰れなかった。今回、ようやく墓参りを兼ねて15年ぶりに帰郷した。2018513日から17日までである。

 沖縄に移住した当時は、那覇―高知直行の航空路線があったけれど、廃止になりいまは、高松か松山空港に飛んで、高知に回るしかない。「高松空港がいいよ」という人の声もあり、高松空港にした。

 当初、「13日に帰るなら、すぐ友だちを集めるよ」と声をかけていただいたが、高知到着の時間が遅いので断念した。高松からレンタカーで帰るのが時間的には早いが、高速道路を夕方から夜にかけて2時間以上も運転するのは疲れる。若ければよいがもう無理は禁物。JRがいいかな、と思った。だが、所要時間は50年前とたいして変わらない。高速バスの方が早くて安いことがわかり、バスにした。

 今回は是非、三線を聴いてもらいたいと思い、荷物になるけれど持参した。会いたい友だち、親戚が多いので、お土産も半端なく多くなり、運ぶのが一苦労だった。心配した三線を入れるケースは、ハードケースでなくソフトケースでも、空港で専用ケースに入れてくれるから安心だった。 

那覇からの空の旅は、本州に近づくと少し揺れたがたいしたことなく到着した。リムジンバスがすぐ出発して、乗り換えの「ゆめタウン高松」に到着すると、予約した高知行きの黒潮エキスプレス号は一便早いバスに乗れることになった。急きょ予約を変更していただき、一時間早く乗車できた。

 私が高知を離れた1973年には、高速道路は整備されていなかった。四国の高速道路を走るのは初めてだ。高松から川之江を経て高知市に向かって進むと、深い山々が連なり、「四国は山国」という思いを新たにする。高い山のない沖縄から来るので余計そのように感じるのだろう。

 駅前に予約したホテルは小さな宿だが、大浴場がありさっそく汗を流した。沖縄では湯船に入ることがないので、疲れが取れる。この後も毎日、大浴場のお世話になった。シャワー生活の沖縄から来ると、余計にその有難味を感じる。

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                高知駅前
 
14日は、予約していたレンタカーで、生まれ育った佐川町に向かい、墓参りをした。従兄弟が掃除から墓参り用のお花その他すべて準備してくれていた。墓参りが終わった後、従兄弟の家で三線を弾き3曲歌ってみた。

 私が三線を弾くたびに思い出すのは父のこと。父は、旧満州(中国東北部)の鞍山製鉄所で働いていて、戦後引き揚げてきた。弟や同じ部落の若者たちと「たまる楽団」というバンドを結成して、演奏していた。父は私が3歳の時、30歳で病死した。だから父の記憶は、外の遊んでいると「直ぐ帰っておいで」と呼ばれて帰ると、父が亡くなったと家族が枕元に集まって嘆き悲しんでいるところだった。それが最も古い記憶である。生前の姿は覚えがない。

 「お父さんは弟や隣のWさん(元町長を務めた)ら部落の青年と楽団を作っていたきね。何の楽器を演奏したか覚えちゃあせんが、Wさんはハーモニカが上手かったねえ。」(年上の男性従兄弟)、「たまる楽団の演奏で、あたしは踊っていたがよ」(年上の女性従兄弟)という。戦後の楽しみがない田舎で楽団は評判になり、他の部落にも出かけて演奏したという。

「音楽もやけんど、お父さんは絵がこじゃんと上手かったきね。なんにも見ないで、軍艦の絵なんかをサラサラと描いていた。そんでも、癇癪持ちでね。僕がなんぞ気に入らんことをした時に、もう癇癪を起してねえ、せっかく描いた絵をビリビリと破ったこともあったがよ。絵が残っていればええけんど、もうどこちゃーないね」とも話していた。
 出征兵士の無事を願って作られた千人針に、父が虎の絵を描いたものだけが父の絵の遺品として残されている。癇癪持ちだった性格は初めて聞いた。私の音楽好きは父のDNAを継いでいるかもしれないが、幸い癇癪持ちは私も妹も受け継いでいない。
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       高知駅前に建つ右から中岡慎太郎、坂本龍馬、武市半平太の銅像
       (ちょっとグロテスク)

レンタカーで高知市に向かい叔母の家に寄った。わが家は、父が早く死んだので、母の兄弟である2人の叔父が父親代わりのように面倒を見てくれた。お世話になりながら、ほとんどお返しはできないまま、亡くなった。葬儀に帰れなかったことを詫び、冥福を祈って仏壇に手を合わせた。


 小中学校の同級生と50数年ぶりの再会

 夜は、小中学校の同級生が集まってくれるので、JRで高知市からもう一度佐川町に向かった。西佐川駅で降りる。JRに乗るのも、西佐川駅で降りるのも、40数年ぶりではないか。この駅は、子どもの時、昭和天皇が四国巡幸で高知県にも来るとのことで、母親に連れられて行った記憶がある。ネットで見ると昭和251950)年3月だという。たぶん、列車で通過するだけで、動員されたのだろう。小学校に入る直前だった。なぜか記憶に刻まれている。

 同級生が車で迎えてくれた。居酒屋には男3人女2人が集まってくれた。ほとんどは中学、高校卒業以来50数年ぶりの再会だ。隣に座ったY君は「君が貸してくれた『地底旅行』(ジュール・ヴェルヌ作)を読んで衝撃をうけたことを覚えている」と。もうすっかり忘れていたことだ。おまけに「あの時こんな歌を歌ってくれたよね」と言って、歌を口ずさむではないか。そんな歌は聴いたことも歌った記憶もない。完全に記憶喪失である。それにしてもよくぞそこまで記憶しているものだと驚愕した。

 居酒屋のスタッフに「沖縄から来ているので三線を弾いていいか」と同級生が聞くと、「いいですよ」とのOKが出た。「十九の春」「安里屋ユンタ」「南国土佐を後にして」を演奏した。かなれ知っている人もいて、いっしょに歌ったり、囃子を入れてくれて、楽しく歌えた。


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南島に現れる仮面、仮装の神々、ムックジャー

 竹富島のサングルロウ
 アカマタやマユンガナシのような神事がない竹富島には「サングルロウ」という神が登場するという。
 <竹富島では、旧暦10月の種子取に行なわれる芸能の中に、シュロの皮でつくられたヒゲで顔全体をおおいかくしたサングルロウが登場する。種子取は稲作の豊穣予祝祭であり、顔をかくして出現するサングルロウは、古くは豊穣をもたらす来訪神だったのであろう(外間守善著『南島文学論』)。>

  本部町伊野波の秘儀ムックジャー
 これまで沖縄の先島ばかり見てきたが、沖縄本島にも草装神の登場する祭祀があるらしい。本部町伊野波のムックジャーだという。
 <沖縄本島北部やその周辺の離島にシヌグと呼ばれる神祭り(豊漁・豊穣予祝祭)があることは広く知られているが、本部町の伊野波では、そのシヌグ祭(旧暦7月末に7日間行なわれる)の中で、ムックジャーと呼ばれる秘儀が行なわれている。秘儀をムックジャーまたはムックジャー踊りといっているが、登場する来訪神もムックジャーといっている。ムックジャーとは、土地の方言で、もつれあう、もつれあっている者、という意味である。
 昔のムックジャーは、顔全体、体全体に草をまとっている草装神だったと古老たちは伝えている(外間守善著『南島文学論』)。>
 

<祭当日、集落内の18歳になる男女が、それぞれ顔を覆面し、肩に青みかんの籠を掛け、右手にクバ、左手に竹杖を持って祭の庭に出てくる。これは、夫婦の神を表現しているらしく、村人はこれを手を拍って出迎え、集落の代表者である大役(うふやく)がうやうやしく二人の前にまかり出て挨拶をする。と、神がこれに対して集落の豊作を祝福することばを述べ、やがて二人は、集落の婦人たちの踊る臼太鼓の踊りの輪の中に入って所作をし、そのうち、二人はぴったりと抱き合って、尻を振り振り交接のさまを模擬する。そして、村人たちの注視の中に、アシャゲの方へ消えていくのである。(三隅治雄著『原日本・沖縄の民俗と芸能史』>

この儀式は、「男女が性交のさまを露骨に演じることでものの生殖を暗示し、それが田畑に感染せしめて、穀物の生殖生産をうながそうとする呪術なのであろう」と三隅氏は解説している。

 

ただし、ムックジャーは、二つのいい伝えがあって定まらないそうだ。一つは「たいへんみすぼらしい姿をした人間である」といういい伝えと、もう一つは「村に幸福をもたらしてくれる神である」といういい伝えである。外間氏は「二つのいい伝えはともに正しいと思う」とのべている。


 <異界からの来訪神は、荒海を渡り歩いて漂泊の旅をしてきたいわゆる「まれびと」である。やせ衰えるほどにやつれ、みすぼらしい風体であったと思う。それがたどりついた島や村に居ついて、漁撈や稲作に関する文化や技術を伝え、村の繁栄の力になったことで、いつのまにか、村人にあがめられる文化英雄(カルチュアヒーロー)となり、神格化されていったものと思われる。…
 シヌグという神祭りの体形的構造の中でムックジャーをとらえ直してみると、ムックジャーこそ、稲作を中心にした農耕文化をもたらした遠来の人であるわけで、だからこそ、つぎ当てのしたみすぼらしい風体であるわけだし、豊穣を象徴する「かまけわざ」(注・生産を象徴する性交模倣儀礼)を行なって、村人に繁栄をもたらすことのできる神にもなるわけである(外間守善著『南島文学論』)。>
 これらのついては、他にあまり資料が見当らないので、外間氏の著書から紹介した。


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「ジョン万次郎と西郷隆盛」テーマに講演

 沖縄ジョン万次郎会総会が5月20日、豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。総会の後、守部喜雅氏(歴史作家)による「ジョン万次郎と西郷隆盛」と題した講演が行われた。

 守部氏は、クリスチャン新聞の編集部長を務めたジャーナリスト・作家である。講演は「日本の最初の国際人」であるジョン万次郎の精神性が世界に誇れるものであるとの視点から話された。講演の要旨は以下の通りである。

 西郷と万次郎は文政10年(1827)生まれで同じ年に生まれた。万次郎の子孫、中浜京さんは「万次郎が残してくれたものは隣人愛です」とのべているが、西郷も同じである。内村鑑三は、西郷の政治は二流だが、内面性は世界の誇れる、それは隣人愛であるとのべている。

 
  第
30代米大統領のクーリッジは、万次郎の帰国はアメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい、彼がアメリカの姿を知らせたのでペリーは友好的な扱いを受けたとのべている。

 西郷は、万次郎が琉球から薩摩に連れて来られて島津斉彬と会った時はまだ会うのは難しかった。10数年後、久光により薩摩に招かれて航海術や海外情報など教えた際は、万次郎と会っていただろう。

 西郷は、1868年、鳥羽伏見の戦いを境に考え方が変わった。会津藩、庄内藩との戦いで、降伏した庄内藩主を2年間謹慎だけの「愛と許し」を実践した。日本の精神史になかったことである。

 勝海舟と万次郎が行ったという200年の歴史ある東京のうなぎ屋を訪れた。万次郎は一人で来る時は、いつもうな重を半分残して土産にしてくれと言う。「ケチな人」と見られたが、実は橋の下に住む貧しい人々に与えていた。弱者につねに寄り添う人だった

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 西郷は聖書に出会い人生観が変わった。遭難した万次郎を助けたホイットフィールド船長は敬虔なクリスチャンだった。万次郎を学校に入れ、教会に連れて行き、聖書をプレゼントした。日本に帰る時、聖書を持っていなかったのは、キリスト教が禁止され迫害されていたから。万次郎が長崎で牢獄に入れられたのもキリシタンの疑いを持たれたから。

 下田市の了仙寺(りょうせんじ)に万次郎が親しい人に贈った扇子に英語で文字が書かれている。訳すると「私は聖書を読めたおかげで今日の光栄を受けた。神を歌い続けよ、永遠に」。彼の内面性が出ている。「隣人愛」を大切にし、それに生きた人だった。

 万次郎の晩年は寂しかったが、最後まで弱い人に寄り添う生き方をした。多くの偉人が出ているけれど、このような精神性を持った人を他に知らない、私たちも学びたい。

 西郷と万次郎を, 精神性という新たな視点からとらえた講演だった。

 

 


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南島に現れる仮面、仮装の神々、小浜島のダートゥーダー

 小浜島のダートゥーダー
 小浜島で旧暦8月の結願祭の時に行われる「ダートゥーダー」と呼ばれる芸能は、ひときわ変わったお面の芸である。
 「高い鼻の黒いお面、金太郎のような前掛けを着けた4人のダートゥーダーが『フッ』という声で飛んだり、組み体操のようなコミカルな動きをしたり、見る人を引きつけます。歌や動きの意味は謎の部分が多いそうです」(「琉球新報」2016年2月28日付)
 ダートゥーダーはしばらく途絶えていたけれど、2001年の結願祭で75年ぶりに復活した。その由来は意外である。
 「山岳信仰の修験道(山にこもった厳しい修行で悟りを開くことを目指す)を実践する修験者の遊行芸として、全国で邪を払い、福を招いてきたものが元です。それが島に伝わった」(同紙)。
       

 このダートゥーダーは、悪魔払い、厄払いの神で、草装、仮面神として出現したが、最近は草装をしていないという。
 <八重山各地に出現する草装、仮面神は、アカマタ・クロマタ神をはじめ、一般に稲作、粟作の豊穣に感謝し、予祝する来訪神であるが、小浜島、新城島のダートゥーダーだけは、豊穣予祝にかかわりのない厄払いの神として意識されているのは異色である(外間守善著『南島文学論』)>。

 まだ小浜島に行ったことがないので、この芸能の実演も見たことがない。でも、YouTubeでアップされている動画を見ると、これは八重山の祭祀、芸能とは異質な芸である。「豊穣予祝にかかわりのない」神というのも、大和の「修験者の遊行芸」にルーツがあるからなのだろう。それにしても、なぜこうした芸能が小浜島だけ伝わったのだろうか。かつて、島民に災いがあり、それを契機に厄払いの神として受け入れたのだろうか。

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アルテで「梅の香り」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが12日夜開かれた。今月のテーマは「香」。新しい出演者や久しぶりの方も出て、充実した音楽会だった。
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 時間がないので自分達の写真だけアップする。
 私は、「梅の香り」を歌った。2度目だが、題名が合致するからあえて歌った。
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   ツレのピアノとのコラボで「ファムレウタ」も歌った。

 ツレは、越智さんのトランペットとピアノのコラボで「バラ色の人生」を演奏。ピアノ弾き語りで石川さゆりが歌った「朝花」を歌った。ピアノソロでは「ショパンワルツイ短調遺作」を演奏した。

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これは行き過ぎでは、図書館のコピーチェック

 先日、那覇市立図書館に行って、歌碑についての本のコピーをした。2ページ分、計3枚という少ないコピー量だ。書いていた申込書を職員に提出すると、コピーした内容をチェックするという。コピー不可の本なら本を見ればわかる。コピーした内容まで職員が見るというのは、市民のプライバシーの侵害に当たるのでは、と意見を述べた。すると、コピーは一人1部しかできないので、内容を見ないとチェックできないから見る必要があるという。
 著作権法を読むと31条では図書館の複写サービスは本の一部に限り一人1部複写できると確かに書いている。だが、30条では、私的使用のためのコピーはそういう制約はない。
 条文の解釈には、諸説あるようだが、31条は図書館側が複写して提供するサービスのことであり、利用者が自分で複写するコイン式のコピー機の場合は、30条の「私的使用」にあたるのではないか、ともされる。となれば、一人1部の制限はないことになる。
 ネットで図書館のコピーについての事例を検索すると、図書館職員がコピーした内容を厳しくチェックする自治体もある。だが、たとえそういう制限があるにしても、コピー内容までチェックするのは多忙な職員にとっても負担になるので、チェックまでしないところも多い。私がこれまで利用してきた各地の図書館は、コピーの内容までチェックする自治体はなかった。同じ那覇市の図書館でも、以前はそこまでチェックすることはしていなかった。県外の自治体では、もうコピーの申込書そのものを廃止しているところもあるらしい。
 「本を借りてコンビニなどでコピー―すればいいのではないか」ともいう。だが、貸し出しできない図書のコピーも必要な場合がある。
 著作権法で著作者の権利を保護するために制限を課すのはやむをえないとは思う。ただ、市民がおこなったコピーの内容までチェックするとなると、なかには何をコピーしたのか内容まで知られたくないと思う人もいる。コピー内容をすべて見るとなれば、まるで監視されているようで、市民のプライバシーの侵害につながる恐れがある。著作権法を無視しろというのではないが、市民のプライバシーを守るための配慮も必要ではないだろうか。
 今回のケースでは、図書館側には著作権法の杓子定規な解釈しか頭になく、市民の人権はまったく念頭にないというところに問題があるように思う。
 図書館職員も人出不足で忙しい上に、コピー内容のチェックまでやらされるのでは負担が大きいだろう。コピー利用者に、「一人1部」という制約があることを目立つように掲示して周知すれば、行き過ぎたチェックまでする必要はないのではないか。その方が、職員にとっても利用者にとってもプラスになると思うがいかがだろうか。
 
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南島に現れる仮面、仮装の神々、アンガマ

 八重山各地のアンガマ
 八重山では、旧盆に、祖先を表わすとウシュマイとンミーの仮面を付けた二人
を先頭に踊り手らが家々を訪ねて歌、踊りを披露するアンガマが有名である。こ
れはアカマタのような秘祭ではない。
 盆アンガマは、盆と祖先神にかかわりをもつもので、「豊穣予祝のための節ア
ンガマとは機能が異なる」という(外間守善著『南島文学論』)。
<アンガマには2系統あり、ひとつは八重山の治者階級であった石垣島四ヶ字
の士族で行われていたもので、もうひとつはその他の離島や農村部落で行われ
ていたものである。

                       
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                      石垣島のアンガマ(2010年、青年ふるさとエイサー祭から)
 石垣島四ヶ字のアンガマは、後生(あの世)から来た精霊の集団が仮面など
で仮装している。その中で特にユーモラスな好人物的面をかぶった翁(ウシュ
マイ)と媼(ンミ)が中心で、そのほかは花子(ファーマー)と呼ばれ翁と媼の子
や孫にあたる。ソーロンの三晩、ご一行は所望される家々を巡り演技を披露。
道を練り歩きながら三線、笛、太鼓を奏でる。…
 離島のアンガマはウシュマイやンミは登場しないが、後生からきたとされる
集団が、家々をまわり、踊りや歌などの芸能を披露して祖先を供養するのは
同様。竹富島では、絣の着物姿で頭巾・クバ笠で顔を隠した女性たちや、三
線・笛・太鼓を奏でる島の地謡が家々を巡り、先祖供養の芸能を披露する。
各家で最後に巻踊り(円陣舞踊の一種)を踊り、やがて曲調が「六調節」に変
わり乱舞でしめることが多い(「やいまねっと」HPから)>。

 
 西表島の節アンガマ
 西表島の祖納では、旧暦9月の節祭(三日間)に、節アンガマと呼ばれる芸能
が行なわれる。
 <節祭(しち)とは年の節目を意味し、海の彼方より幸を迎え入れる行事です。
毎年旧暦10月前後の己亥(つちのとい)の日から3日間、八重山諸島の西表島
の祖納(そない)・干立(ほしだて)地区で行われ、豊作への感謝と五穀豊穣、
健康と繁栄を祈願します。
 約500年前からの伝承と言われ、国の重要無形文化財にも指定されました。
両地区とも福々しいお面の「ミリク様」という神様が登場することで有名です。
 祭りのメインは2日目の「世乞い(ゆーくい、神を迎える神事)」の日です。演舞、
ミリク行列、狂言、棒術、獅子舞などの芸能が奉納され、沖から岸に向けてハー
リー競漕が行われます。これは海の彼方から五穀豊穣がもたらされることの象
徴とされています。
 干立地区では、「オホホ」がオホホーと奇声を発し、札束を見せびらかしながら
滑稽な動きを見せます。「オホホ」は鼻の高い仮面に異国人風のブーツをはいた
奇妙な格好をしていて、一説には、昔、島に流れ着いた外国人をモデルにしてい
るのでは、とも言われています。両地区とも集落共同体を一体化させる祭りとして
継承に努めています(旅行予約サイト「たびらい」HPから)>
          
 西表島の節祭では、布で顔を隠し、変装して舞う女性を「アンガマ」というそうだ。
 <此の祭事は農家では1年中での最も重き行事として、各島各村落でシチィ踊、
爬龍船、マヤヌ神其他の催し物があって賑かである。西表島のシチィ祭のときは
若い青年は爬龍船競争に全力を注ぎ、婦女子等は布で顔を隠くし頭上には編笠
を被って変装した2婦人を中心に、村中の婦女子が取り囲んで舞い狂っている。
この変装せる婦人を「アンガマ」と称している。これは或いは盆踊のアンガマが覆
面変装せる所から、それに似ている点から、竹富や西表のアンガマが生れたので
はなかろうかと思われる。(喜舎場永珣著『八重山民俗誌上』)>

 変装した女性を「フダティミ」と呼ぶらしい。
 「黒装束のフダチィミは2人。クバ笠を被り、手には扇子を持つ。フダチィミは、数
ある沖縄の説祭りの中でも祖納の祭りだけに見られる。(「あみたろう徒然小箱」
ブログから)
これはやはり来訪神ではないかとされる。
 <円陣踊りは海辺で行なっており、顔をかくして登場するフダチィミは、おそらく
海の彼方からやってくる来訪神で、海神の変化だったであろう。その素性は知ら
れていない。今では、来訪神としての神から芸能の神に変わっている(外間守善
著『南島文学論』)。>

 祖納の節アンガマには由来伝承がある。
  <節アンガマ踊りは伝説によると、慶来慶田城(ケライケラグスク、西表島の
酋長)の娘と日本々土から来た舟乗りで、祖納駐在員(鉄器を持って来て大平井
戸=ウーヒラカー=を掘った人)とが恋仲となり、慶来慶田城の弟嫁のはからい
で、男についてこっそり夜中船出して日本々土に渡ったが、5,6年後にまた夫婦
で西表祖納に帰って来た。唱と踊りは、その時にもってきたものであると伝えてい
る。唱はすべて七五調の国語でうたってある(宮良賢貞著『八重山芸能と民俗』)>。


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那覇ハーリーでライブが楽しむ

 那覇ハーリーが今年も5月3日から5日大勢の人々でにぎわった。 3日は、あいにくの雨で、中学校対抗ハーリーは、予選のタイムだけで順位を決めた。一般のハーリーは中止された。
 4日のライブがお目当てなので、この日に出かけた。4日は、前日とはうってかわり晴。日差しは暑いけれどなぜか爽やかな好天だった。
 午後5時からは、ジャズボーカルの安冨祖貴子さんのステージがあった。安冨祖さんの迫力あるジャズやブルースの歌声、ウッドベースの真境名陽一さん、ギターの知念嘉哉さんとの息の合った即興演奏は聴きごたえがあった。とくに、ウッドベースの音色に聞き惚れた。

   
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 舞台が西向きなので、日差しが眩しいのが気の毒なくらい。でも、そんなことは気にしないで、楽しく歌う安冨祖さん。ジャズの醍醐味を味わえた。
 このあと、オリオンビールのCМ曲をよく歌うmanamiさんが登場した。
 
   
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 最後はディアマンテス。いつの間にかの客席のイスだけでは足りなくて、回りにみなさん座り込む。お客さんも倍増していた。
 いきなりノリのよい「勝利のうた」から始まったので、たちまちステージ前からみなさん立ち上がった。立たないと全然見えない。

    
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   「三線片手に」「ヘイ!二才達」などヒット曲を次々に歌い、もう会場は盛り上がりっぱなし。アンコールの「シェリトリンド」で最高潮となった。すべての曲がラテンのリズムで高揚する。沖縄にはラテンがあっているとつくづくと思った。
 安冨祖さんやディアマンテスのような素晴らしいアーティストのライブが無料で楽しめるなんて、オリオンのお蔭だ。 
 帰ってきて朝起きると、サングラスがなくなっていることに気づいた。夜ははずしてポケットに入れていたので、会場か帰りのタクシーで落としたのかもしれない。もうサングラスなしでは過ごせないので買い求めた。

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