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レキオ島唄アッチャー

尚徳王の家族の伝説、その2

 悲劇の尚徳王の三男の定住の地

 尚徳王の王子のなかで三男は逃れたのだろうか、うるま市具志川には次のような伝承がある。

<仲田家(当主徳田米忠氏)は尚徳王の第三子の末えいであるといわれ、かつて本市(旧具志川市、現うるまし具志川)の地頭代(明治21年~同22年)を務めた徳田吉太郎氏は尚徳王から20代目で、現当主徳田米忠氏は23代目にあたるとのことである。

 尚徳王(自西暦1461年至西暦1469年、在位9年、29才にて没す)は第一尚氏の最後の王であり、尚泰久王の第三子である。第二尚氏尚円に政権交代のクーデターによって久高島参詣の帰途海上で最期を遂げたと伝えられているが、王子3人のうち長男と次男は夭折し、三男は津堅島から与勝を経て美里の伊覇村に落ちのび、長じて伊覇村の若祝女を妻にむかえて、具志川間切上江洲村に定住し安謝名大主と名乗ったという。何故に伊覇村に隠れて若祝女を妻にむかえたか、伊覇村は尚徳王の父尚泰久王が越来王子時代に伊覇村の女との間にできたのが尚徳王という。それで尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地ということになる。しかし上江洲村に定住するようになった理由は知られていない。(『具志川市誌』)>

 具志川の伝承では、尚徳王の三男は、津堅島から伊覇村を経て上江洲村に定住したとされている。伊覇村は「尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地」となるからだという。

 

 尚徳王の王子たちの逃走

尚徳王の三男は、南城市佐敷に逃れたという伝承もある。伊敷賢氏著『琉球王国の真実――琉球三山戦国時代の謎を解く』から抜き書きして紹介する。

尚徳王の世子佐敷王子志義(しぎ、8歳)は、首里城内で異変が起こった時に首里城内真玉森(マダンムイ)に隠れていたが、改革派に見つかり母后や祖母とともに殺されてしまった。その時死体は崖から投げ捨てられ、夜になって王族の手で回収されたがくんだ(足のふくらはぎ)の一部が木にぶら下がって残された。それで、その崖はクンダグスク(膝城)といわれるようになったという。


 尚徳王の次男浦添王子(5歳)は、ヤカー(守役)に助けられて薩摩へ逃げたといわれる。別の説では、浦添王子は具志川間切栄野比(イヌビ)村に逃げ、成人して村の娘と男子2人が生まれ、長男は久米島仲里間切比屋定(ヒヤジョー)村に隠れ、次男は栄野比村に残った。


 尚徳王の三男屋比久大屋久(3歳)は、乳母とともに佐敷間切新里村に逃げたと伝えられていて、屋比久大屋子の孫は東風平親雲上(クチンラウヤクミー)興長で、雍(ヨウ)氏門中の祖である。屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明(ミン)氏(名乗頭「長」)など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い。しかし、第一尚氏の子孫は高級武官にはなれず、首里城の警護などの仕事に就いていた。

尚徳王の四男与那城(ユナグスク)王子(1歳)は真壁間切真栄平村に逃げ、成長して屋号謝名(喜納姓)の娘を妻にした。屋号謝名は察度王五男米須按司の子孫といわれ、謝名門中の元屋(ムートゥヤー)で真栄平村の国元になっている。



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尚徳王の家族の伝説、その1

尚徳王の家族の伝説

 

 琉球の第一尚氏の第7代目尚徳王は、クーデターによって王統は倒され、家臣だった金丸が即位し尚円王となり、第二尚氏の王統に取って代わられた。尚徳王の死とともに、王妃と乳母、王子も殺害された悲劇の王とその一族である。それだけに、尚徳王は生き延びて喜界島に遁れたという伝説を始め、王妃や王子たちをめぐっても、さまざまな伝説がある。

 尚徳王については、いろんな謎が多くて、とても興味をひかれるので、これまでも何回かわがブログでも書いたことがある。

今回は、王妃や王子をめぐる伝説の中からいくつか紹介しておきたい。 

 

クンダグスクの由来

 『具志川市誌』を読んでいると、次のような伝承が紹介されていた。

 <第一尚氏王統は764年にして滅亡するに至ったのであるが、尚徳王の死と共に国内に反乱が起って、危機にひんした王妃と乳母は王子を抱いて王城を脱出して、真玉城に隠れていたが追って来た反乱軍に殺害されて王城の崖下に葬られていた。
  その後この場所は至霊至明にして何事も願事をかなえて下さるという評判がでて、世間の人々も祈願のためにここを訪れるものが多くなってきたといわれているが、後世になって、真壁間切真栄平村の出身で屋号謝名の男子金城氏は首里のある某家に奉公していたが、或る日ふとしたことから事務上の手違いを起こして事故が発生し、やがて重罪に処せられるようになっていたので当人は心配のあまり、霊験あらたかといわれるこの場所を訪ずれてお祈りし、「神様お願いでございます。この私を憐れみ下さいまして、私の罪を死罪にならぬようにお救い下さい、若し私のお願いをかなえられましたら、あなた様のお骨を私の出身地にお移し申し上げて、子々孫々に至るまで祭祀の礼拝を必ず実行して崇拝申し上げます」と祈願したところ、霊験があらわれ、後日の裁判の結果、軽微な処置で済まされて命びろいをした。
 
 助命されたその人は大いに喜び、鄭重なお祭りをして、其の恩を感謝し、やがて深夜人が寝静まった頃、その死骸を盗み取り、自分の郷里である真壁間切真栄平村の宮里嶽の地内に埋葬奉安して、子孫代々にこれを伝えて崇拝するようになったとのことであるが、死骸を取り出すときに狼狽のためか、腓骨(クンダブニ)一本を取残したまゝになっていたゝめ、後世の人々はその腓骨を崇拝して礼拝するようになり、この場所を腓城(クンダグスク)と称するようになったとのことである。(『具志川市誌』)>

 
 謝名門中では毎年旧79日にはこの墓に祀る霊を慰めるため祭事をおこなっているという。この「クンダグスク」のグスクの意味は「城」ではなく「墓」を意味するそうだ。

 糸満市真栄平の宮里嶽にはまた行ったことがない。機会があれば訪ねてみたい。


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「西武門節」の謎、その3。人力車

 

  沖縄民謡「西武門節」の中で歌われる「車乗っていもり」の車とは何か、についてアップした。人力車ではないかという説について、那覇と首里をつなぐ道路は、かなれきつい坂道であり、人力車での通行は無理ではないかと書いた。その後、沖縄の歴史と民謡に詳しいTさんとお会いする機会があった。Tさんは、大正時代の人力車の通行についての貴重な資料、写真を提供してくれた。

 結論から言うと、人力車は那覇と首里の間を走っていた。坂道であることには変わりないが、坂道であっても、それに相応しい知恵と労力で走らせていたという。


 本題に入る前に、人力車はいったいいつごろから沖縄に登場したのだろうか。

「まず知事の専用車として、明治191886)年に1台入ってきた。それが同261893)年には、300台近くの人力車が稼働している。人力車は、那覇市内の人員輸送の中心的役割を果した。街の広さが人間にとって無理のない走行距離であることにあいまって、比較的高低差の少ない地形が起因したものと思われる。…最盛期には2000台近くが那覇の街を走っていたという」「大正3年に電車が開通したあとも、運賃の安さなどから人力車の人気は衰えず」(『目で見る那覇・浦添の100年』)。

 人力車がとても活躍したことがわかる。この記述は、首里と合併する前の旧那覇市内のことが中心になっている。街が広くなくて走行距離が比較的短いこと、坂道が少ない地形であったこと、それが人力車の増加した要因だと見ている。

那覇と首里の間を往来する交通を考えると、事情は異なって来る。那覇―首里間は、いまのモノレールでみると県庁前駅から首里駅までは7㌖近くある。人力車としては走行距離がかなれ長い。しかも大道からは坂道が続く。

 それでも、人力車は走っていた。

 首里観音堂下から那覇の大道に下りてくる道路は、S字形に曲がっていた。S字形にカーブしていれば坂道は少し緩やかになるだろう。

 この坂道に沿って大正31914)年、電車の高架軌道が敷設された。

 この那覇―首里間の人力車通行を証明する意外なエピソードと写真があった。

 大正101921)年33日、昭和天皇がまだ皇太子だった頃、訪欧旅行(英、仏、白、蘭)に出かけた。お召艦は「香取」で、艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐だった。この途次の36日、艦隊は沖縄の中城湾に仮泊し、皇太子は軽便鉄道で与那原から那覇駅へ、那覇駅からは人力車で県庁に寄り、さらに首里まで行った。


 県当局は当初、那覇から首里へは電車に乗って行く予定で、準備していたが、それでは沿道に集まる県民がその姿を拝めないと、数日前になってにわかに人力車に変更することになった。急いで鹿児島から空気入りのゴムタイヤの人力車を輸入した。以上は、琉球新報社編『写真集 むかし沖縄』をもとにして紹介した。

              img142.jpg

 この写真集には、3枚の人力車の写真が掲載されている。最初は、皇太子が人力車に乗っている姿が鮮明に写っている。
 真ん中の写真は、人力車を連ねて坂道を上っている。「松川あたりを後押し車夫に助けられながら上っていく」との説明がある。

 きつい坂道なので曳き手車夫一人だけでは人力車が上ることは無理ではないかと思ったが、なんと後ろから押す「後押し車夫」がいたという。ここに坂道を上がる秘密があった。

           人力車(2)
   その下の写真は「ハンタン山付近を行く皇太子と閑院宮」と説明されている。こちらの写真は、人力車の曳き手車夫と後押し車夫の姿が鮮明に写されている。

                 人力車 (3)

 もう一つの資料『激動の記録 那覇百年のあゆみー琉球処分から交通方法変更までー』には、首里・観音堂付近から松川・大道そして遥に那覇方面を望む「真和志風景 大正初期」と題した写真がある。大道・松川方面から緩くカーブした道路を人力車が車列を連ねて登っていく様子が写されている。やはり、曳き手車夫と後押し車夫らしき姿が見える。
  時代は「大正初期」とされているが、どういう人たちの車列なのか説明はない。だが、これだけの車列が続くのは、相当な賓客であるだろう。もしかしたら皇太子が那覇から首里に向かった時の写真かもしれないと推測した。といっても皇太子が沖縄に来たのは大正
10年というので、大正初期ではない。では、いったい誰なのか、疑問は残る。ただ、大正時代に人力車が那覇から首里に向かい坂道を登っていた明確な証拠写真であることには違いない。

                             
             
                 
 
          「那覇百年のあゆみ」 
 

                  写真に白い線が入ったので、少し修整した
 

 では、「西武門節」で歌われる「車乗ていもり」とは、「人力車に乗って来てね」という意味だったのかといえば、それはまた別の問題だろう。 というのは、大正3年から電車が走っていた。皇太子も最初は電車で首里に行く予定だったことを見ても、すでに那覇―首里間の公共交通として電車が重要な交通手段だった。旧那覇市内ならいざしらず、人力車としては遠い首里から那覇の辻まで、電車があるのに、あえて人力車で行ったとはどうも思えない。そう考えれば、やはり「西武門節」の歌詞は、「車乗ていもり」ではなく、「電車乗ていもり」が元々の歌詞だったと考えた方が自然ではないだろうか。これが私なりの結論である。


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「西武門節」の謎、その2.電車は走っていた

  次の問題は、この曲が生れた当時、電車が走っていたのかどうかである。
 戦前の那覇市の路面電車について「ウィキペディア」に記事が掲載されていた。

 路面電車が走っていた 
 路面電車は、1914年(大正3年)5月にまず大門前(戦前那覇の中心地)― 首里間(5.7km)が開業した。その後、1917年(大正6年)9月に大門前 - 通堂間(1.2km)が開業した。大門前 - 首里間の開業2年目からは当初見込み並みの輸送人員を確保し、沖縄電気の直営化後は比較的安定した経営を続けていたが、1929年(昭和4年)1月に並行するバス路線が開設されると輸送人員は急速に減少。1931年(昭和6年)には車両を増備して増発を行うなど積極的な対抗策がとられたものの減少に歯止めがかからず、1932年(昭和7年)に軌道事業からの撤退を決定。翌1933年(昭和8年)3月に全線の休止が許可され、同年3月16日に西武門 ―通堂間が休止、続いて同年3月20日には残る西武門―首里間も休止となり、同年8月12日に全線が正式に廃止された。
                        おきなわの路面電車
      沖縄の路面電車について書かれた本の表紙
 では「西武門節」が作られたのはいつか。「1934(昭和9)年レコーディングした」(「琉球新報」2003年3月1日 00:00 )とされる。
 つまり、路面電車は「西武門節」が生まれるはるか前から運行されていたことになる。だから、歌詞は当初「車」ではなく「電車」だった可能性が強い。
                              img143.jpg 
                            泊高矼の鉄橋を通過する電車(『激動の記録 那覇百年のあゆみ』)

 ただ、この曲がレコーディングされた1934年の前年には、電車は廃止されたという。でも、レコード化される前に、すでにこの歌はかなれ流行っていたと見られる。だから「西武門節」が歌われ始めた当時、電車はまだ走っていた。
 この曲がヒットし歌い継がれていく中で、もう電車は廃止されたので「電車乗ていもり」と歌うのは現実的ではなくなり、「車」に変わっていったのかもしれない。私のもっている工工四(楽譜)はすべて「車」になっているし、ネットで掲載されている歌詞もすべて「車」である。
 
 それでも、歌詞は「車」に変わったとはいえ、戦前、大正から昭和の初めにどれほど車、タクシーが走っていたのだろうか。
 ブログ「沖縄大辞典」によると、沖縄で初めて旅客輸送のタクシー業務を始めたのは名護出身でアメリカにいた山入端(やまのは)隣次郎。大正6年、三台のT型フォードを輸入し、乗り合い自動車事業を開始した。しかし、運賃が人力車は那覇市内なら、どこでも10銭の時代に隣次郎の自動車は奥武山の風月楼から、若狭あたりまでで50銭もとった。コストが高く事業はふるわなかったそうである。
 もしかして、那覇ー首里間、電車と並行してバス路線が開設され、電車が廃止に追い込まれたとなると、「車」とは「路線バス」だった可能性もあるのではないか。そんなことも考えてみた。


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「西武門節」の謎、その1。「車乗ていもり」とは?

 「車乗ていもり」とは?
 沖縄民謡の名曲に「西武門節」(ニシンジョウブシ)がある。沖縄に移住してすぐに聴きおぼえた曲の一つである。川田松夫さん(1903~1981年)が作詞した。旋律は民謡「ヨーテー節」がもとになっている。
 西武門は遊郭として知られる那覇市辻の入り口である。歌は、辻で遊んで帰ろうとする首里の男性客と見送る遊女の掛け合いの内容になっている。
               辻の遊郭 
                      大正時代の 辻の遊郭(『激動の記録 那覇百年のあゆみ』)


(女)今日や首里登て 何時やめーが里前
 (今日は首里に登って 次はいつお出でになるの、貴方)
(男)面影と連れて 忍で来さ無蔵よ
 (面影とともに忍んで来るよ 愛しい貴女よ
(女)またいめね里前 車乗ていもりヨ 我身や西武門に 御待ちさびら
 (また来られる時は 車に乗って来てください 私は西武門でお待ちしています)
                    008_20171213105449727.jpg  
       坂道を登っていくと首里観音堂がある

   問題は、「車乗ていもり」のくだりである。この曲を知った時は、時代はかなれ昔だから、「車」といっても自動車はまだ普及していないはずだ。人力車のことだろうと思っていた。実際、この歌詞の車は「人力車」と解説している人もいる。
 首里と那覇間は徒歩や馬車、人力車などで行き来されていた(「まな兵衛雑記帳」HPから)>ともされている。
 
 
といっても昔の那覇と首里を結ぶメイン道路、安里交差点から首里城方面に向かう県道29号線は急勾配の坂道である。人力車でこの急坂を登るのは、とても無理ではないだろうか。旧那覇地区や首里地区では人力車が走っていたと聞くが、首里と那覇を往復する交通手段にはなりえないのではないだろう。人力車が無理となればこの「車乗ていもり」とは何を意味しているのだろうか。疑問を抱いたままだった。

 そんなとき偶然、カラオケで「西武門節」を歌ってみた。カラオケの歌詞はこの部分が「車」ではなく「電車」になっているではないか。驚いた。戦前、那覇と首里を結ぶ路面電車があったことは聞いていたが、この曲ができた時、電車があったのだろうか。それも疑問だった。
 沖縄の歴史や芸能に詳しいTさんに会ったさい、この疑問を率直に尋ねてみた。
 Tさん曰く。「電車でいいかもしれませんね。西武門には電車の駅があったんです。だから遊女が『西武門までお供します』と歌うのは、電車の西武門の駅までお供するという意味だと思いますよ」とのことだった。ちなみにTさんは、数十年前に川田さん本人にお会いしたことがあるという。


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アルテで「城の前節」を歌う

毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が9日夜、開かれた。今回のテーマは「来」。今年最後にふさわしい楽しい音楽会となった。
 トップは越智さんのトランペット。ツレのピアノ伴奏で「また逢う日まで」を演奏した。
               IMG_5289.jpg  
 chica&た~かは、「春よ、来い」。chicaさんは、カホーンをたたきながら歌った。
            IMG_5291_201712101512104a3.jpg
  知念さんはピアノソロで「素直になれなくて」を演奏した。カーペンターズは「トゥバラーマ」を歌った。
 私は、「城の前節」とツレのピアノとのコラボで「童神」を演奏した。
 「城の前節」は、伊江島の民謡。島のシンボル・城山(タッチュー)の前の松の美しさを歌いながら、役人に島をよく治めてほしいと願う。曲の最後に、島の松の木が「いつも春来りば色どまさる」と歌うのでテーマに合っていると思った。
 
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   「童神」も、「夏の節来りば涼風送りてぃ」と歌うので、やはり「来」が入っているので、もう1曲演奏させてもらった。ピアノとのコラボは幸い好評だった。
 YouTubeに「童神」 がアップされているのでご覧ください 
 城間さんは、ピアノ独奏で「聖者の行進」を演奏した。シニア世代のピアノ音楽会に出演しているが、このファクトリーは初めて。リズムにのった楽しい演奏だった。
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    第2部では、越智さんがギター独奏で「月光」を演奏した。
 ツレは、ピアノ弾き語りで「サンタが街にやってくる」を歌った。Xmas気分で楽しく演奏した。
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    ピアノソロでブラームスの「ワルツ変イ長調」を演奏した。落ち着いてよい演奏ができたのではないか。
  北川さんは久しぶりの登場。「瑠璃色の地球」を越智さんのギター伴奏で歌った。ハートのこもった歌だった。
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 仲村さんは、いつものギター弾き語りではなく、CDにのせて「to heart」を歌った。
 清美さんは、今年こだわってきた美空ひばりの曲目の中で「お祭りマンボ」を歌った。いつもピアノ伴奏の宇都宮さんが、ドラムをたたき、そのリズムにのって歌った。さる2日のNAHAマラソンで4時間16分で完走したばかり。歌声もパワフルだ。
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  ふ~みん&宇都宮は、なんとバッハのインベンションをアカペラで歌った。これも新たな挑戦だった。
  久しぶりの登場の吉本先生は、ファドが大好き。「天に続く回廊」をアカペラで歌った。もう3度目くらいだ。よほどこの曲が好きらしい。
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 りえ&宇都宮は、「prayer」(祈る人)を合唱した。
 最後に宇都宮さんの提唱で、「we are the warld」をみんなで合唱した。今年のトリにふさわしい歌声だった。
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 2017年も残りわずかとなった。最後のファクトリーは、みなさん新たな試み、挑戦があり、  充実した音楽会となった。
 
 



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平良新助氏の銅像

  沖縄自由民権運動の闘士でハワイ移民の基礎をきずいた平良新助さんを顕彰する記念碑が建立されたことは聞いていた。でもまだ見に行く機会がなかった。先日、沖縄テレビで平良さんを主人公にした芝居と銅像が紹介された。
  沖縄自由民権運動の闘士といえば、謝花昇、当山久三、平良新助の3氏がよく知られている。謝花、当山両氏は、すでに地域に人々によって銅像が作られていた。平良さんだけがまだなかったので、この銅像と歌碑の建立は後世にその業績を伝えるためにと て も意義深いと思う。
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       写真はいずれも沖縄テレビの画面から。
        正面左手に銅像、右手に「ヒヤミカチ節」の歌碑がある
 
 銅像の建立のために、期成会が結成され、募金運動が取り組まれていた。銅像と歌碑は2015年11月に建立されたという。
 平良新助さんは、波乱万丈の生涯を送っている。以下、期成会のブログから紹介する。
 <明治9(1876)年、今帰仁村越地に生まれました。明治27年、首里にある沖縄尋常中学在学中に謝花昇や当山久三らの考えに感銘し、中学校を中退、自由民権運動を担う一番若い同志として活動を始めました。
 明治30年、郷里の今帰仁村に戻り総代を務めていました。そこで、奈良原県政が推し進める杣山の開墾強行に対し、27名の総代とともに交渉団体を組織して今帰仁村における反対運動を激しく戦い、この運動を勝利に導き、杣山を守り抜きました。
 このころから、民権運動と共に海外移民の重要性を唱える当山久三の考えに共鳴し、海外雄飛の夢を抱くようになりました。
 
 明治33年、海外雄飛に備え上京し、英語を学んでいた新助に対し、当山久三から第1回ハワイ移民団の実情調査と安否確認を依頼され、翌明治34年ハワイに渡航しました。移民団と耕地労働を共にしながら、移民団の動静を把握し、ハワイ移民の優位性を当山久三らに報告しました。
 さらに明治36年、当山久三率いる第2回ハワイ移民団を現地で引き取り、様々な困難を持ち前の英知と行動力でハワイに定着させ、ハワイ移民の基礎を確立させました。
                               IMG_5284.jpg  
 移民団の定着を見届けた新助は、明治37年、兼ねてからの念願であった米本国へと移住します。サンフランシスコを振り出しに様々な苦労を重ね、遂にはロサンゼルスでホテルを経営し成功を収めています。経営者として活躍する傍ら日本人会・沖縄県人会などの要職を務めるなど移民団の生活と地位の向上に献身的に活動しています。
大正13年、移民保護を目的とする海外協会設立のため帰省し、昼夜を問わず奔走して、官民一致の設立総会を県議会で開かせることに成功しました。
 
 昭和28年、52年に渡る渡米生活に別れを沖縄に戻ってきました。そこで荒廃した郷土の復興に立ち上がる人々の姿と、半世紀前に当山久三氏が移民を声高に叫び胸に描いた沖縄人の姿を重ね合わせて詠んだ一首が『七転び転び ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ』のひやみかち節の一節です。
 昭和29年、海外協会創立30周年記念式典で琉球海外協会の稲嶺一郎会長から海外協会設立の功績に対し感謝状が授与され、昭和43年に開催された海外移住百年祭では、沖縄の国際的声価を高めた功績により琉球政府松岡政保主席から移住功労賞が授与されています。
                               IMG_5285.jpg 
   老後も、開拓魂や海外雄飛の気概は衰えることなく燃え盛っていました。その一端を紹介しますと
 80歳を過ぎで、今帰仁村の名峰「乙羽山」にロープウエイを通し、農業と観光の拠点にしたいと30年契約で村有地の借用を申請しています。
 さらに90歳になった新助は、東南アジアを旅してまわり、村の若者たちにこれからは東南アジアの時代だと東南アジアへの雄飛を説くなど、進取の気鋭・開拓魂は衰えることを知りませんでした。
 そのような新助も昭和45年94歳の長寿を全うし、あの世へと旅立っていきました。>
 
 創作芝居の「『ヒヤミカチウチナー!』~平良新助物語~」は、今帰仁村を拠点に活動する「劇団ビーチロック」が中心となり、すでに10、11月に3回公演をしたという。この芝居を観て、改めて平良新助という偉大な人物がいたことを知った人が多いようだ。
 新助さんも、グソー(あの世)から自分の銅像や芝居を眺めて喜んでいるだろう。



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造船所をなぜ「スラ」と呼ぶのか、その2

  谷川健一氏は、造船所を「スラ」と呼ぶ見解をのべるとともに、この立場から髙良倉吉氏の見解を批判している。

<髙良倉吉はこの言葉の由来について「『すら』は沖縄の古語で、鳥の巣を意味する。巣の中の卵を母鳥が温めてヒナにかえることを『すでる』と表現する。古琉球の人びとは、造船所を鳥の巣になぞらえ、母鳥たる人間の営みで船が仕上がることを、ヒナがかえり成長するイメージでとらえた。進水式は成長した若鳥が巣を飛び立つことであり、船は海走る鳥であった。このようなイメージが、造船所を鳥の巣になぞらえる独特の世界観を成立せしめたのである」とまことしやかに述べているが、髙良の解説は『おもろさうし辞典』(仲原善忠、外間守善著)及び伊波普猷解説に準拠したもので、この解説は誤っている。…鳥の巣とは関係ない。また修羅を仏教語に由来するという説があるが、それもまちがいである。シュラはソリと関係する言葉である、とするのが適当である。>

 

 

「林業の修羅」について、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」は次のようにのべている。
<山腹の斜面を利用した一時的な木材搬出用の滑走路を修羅といい、集運材法の一つ。修羅には、勾配(こうばい)を利用して木材の自重により降下させる重力式がおもに使われるが、まれには畜類などで丸太修羅上を引く牽引(けんいん)式もある。現在では、集材機の発達によりみられなくなった。構造によって、土(ど)修羅、木(き)修羅、水(みず)修羅などに分けられる。土修羅は山腹の凹部をそのまま利用したもので、材木の損傷が大きく、用材搬出には適さない。木修羅はもっとも一般的なもので、丸太だけを使ったものと厚板を併用したいわゆる桟手(さで)がある。桟手はおもに木曽(きそ)地方で行われていた運搬装置である。普通は野良(のら)桟手と称し急勾配の斜面に架設され、木材の滑走面に厚板(野良板)を用いるのが基本であるが、野良板のかわりに小丸太を数本並べたり、切り取った木の板(粗朶(そだ))を編んだ桟手など地方によっていろいろみられる。また水修羅は、谷水をせき止めて材木の滑走に利用する運材法である。[松田昭二]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説>
 
 やはり、谷川氏が造船所を「スラ」と呼ぶ由来についてのべていることは、妥当な見解だと思う。



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