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レキオ島唄アッチャー

歴史が今に生きている沖縄、祖先は役人の現地妻

祖先は役人の現地妻だった

 八重山や宮古島では、離島や遠隔地に派遣された役人が、賄い女、現地妻(旅妻)を囲っていた。民謡には、現地妻との別れを悲しむ曲など現地妻にかかわる唄がかなれ多い。その現地妻が生み育てた子どもの子孫といわれる人々がいまもいる。歴史上の人物というわけではないが、そこには王府時代の歴史が刻まれている。
 その一人が、連合沖縄会長をつとめた狩俣吉正氏である。彼が郷里の宮古島の狩俣の歴史や民俗など記した著書『狩俣民俗誌』を読んでいると、みずからの出自について記していた。
 「私は狩俣で生まれ育った。琉球王国時代の役人が赴任先で囲った現地妻(旅妻)に生ませた息子が祖父・狩俣吉蔵である。若い頃から歴史、民俗、歌謡に興味を持ち、厳しいタブーの中で神歌を盗み聞きして覚え込んだ人である」「父・金吉は一二年間大城元(うぷぐふむとぅ)でアーグ(神歌担当職)をしていた。母・ヨシ子も一〇年ほど志立元(したでぃむとぅ)のウヤバー(世ぬ主)をしていたので、ウヤーン(秘祭)のことを知る環境は揃いすぎていた」。
       
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        宮古島の狩俣にある「四島の主の墓」
 『狩俣民俗誌』では、狩俣に伝わる祖神歌、ニーリ、フサ、ピャーシ、タービについて、生まれ育った狩俣の方言で、読み解き、これまで「恐い歌」だと思い込んでいた神歌が、「どれも大変すばらしい内容の歌であることがわかった」という。私は、まるでド素人だが、従来の解釈とは相当異なることを指摘しており、狩俣出身者ならではの研究結果ではないだろうか。

 同じ現地妻を先祖にもつ人に、黒島出身の當山善堂氏がいる。當山氏が書いた「『賄女』に関する一考察」(『人頭税廃止百年記念誌 あさぱな』)で書かれた黒島の実例について、拙文「人頭税哀歌」でも紹介させてもらった。
 この「考察」では、黒島のトゥヌスク・カマトさんが十六歳の時、黒島に赴任してきた目差役人の賄女となった。役人は任期満了により妻子の待つ石垣島に帰り、カマトは二人の幼児を抱えて黒島に置き去りにされた。
 その後、カマトは連れ子を持つ身で島の百姓と結婚して五男二女をもうけた。人並みには幸せだったかもしれない。
 ところが生前、カマトは胸をえぐるような言葉を繰り返し話した。「決して綺麗な女の子を産むもんじゃないよー。女の子は綺麗になるもんじゃないよー」。これは美人に生まれると、すぐ役人に目をつけられることを恐れたからだ。「カマトの悲痛・無念の叫びが、心に響いてくるではないか」と當山氏は記している。
 このカマトさんは、実は當山氏の母方の曾祖母だという。しかもカマトを賄女にして、捨てて帰った役人と正妻との間の子どもの子、つまり孫にあたる人物が、なんと當山氏が人生の師匠と仰いでいる人だったという。歴史が生きている実例がここにもある。
 

  當山氏は、実は八重山古典民謡について、曲目ごとに詳しく解説した『精選八重山古典民謡集』を4冊に分けて出版している。八重山民謡について最良の手引きとなる本である。
 当初は、黒島の賄女についての「考察」を書いた人と八重山民謡解説本の著者が同一人物とは分からなかった。八重山民謡の本を読んでいるうちに、「おや? この名前はどこかで見た記憶があるぞ」と思って、調べてみると、同一人物であることが分かった。
 これらの人々は、それぞれの仕事や活動で頑張ってきた人たちだが、みずからの系譜に関心を持っている。同時に、それぞれ地域の歴史と伝統、民俗、文化に強い関心を持ち、先祖の残した伝統を受け継ぎ、伝えることなどに情熱を注いでいることで共通しているように思う。


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歴史が今に生きている沖縄、蔡温の末裔

大政治家・蔡温の末裔
 
 琉球王府時代の著名な政治家・蔡温の末裔だとして知られているのが、前県知事の仲井真弘多氏である。
 蔡温は、琉球が中国に朝貢し、冊封を受けるようになってから後に、明から渡来してきた人たちの子孫である。
 
 <1372年に中山王が明に朝貢を始めると、翌年には南山と北山も相次いで朝貢を開始した。15世紀、中山が琉球を統一し、独立した琉球王国を建設した。これ以来、中国と琉球は朝貢関係を結び続け、明朝が「尚」という名を与え皇族とする慣わしも踏襲され、「第一尚氏王統」と称された。1392年、朱元璋は福建省の造船・船舶関係の特殊技能を持った「福建人三十六姓」(三十六姓というのは数が多いことを形容すると言われ、多くの福建人を意味する。日本では「久米三十六姓」と呼ばれる)を琉球に下賜した。これらの人々は琉球に着いた後、一つの集落を作った。当初「唐営」と呼ばれたこの集落が、現在の久米村にあたる。
 


               
孔子廟2

                 那覇市久米にある孔子廟
 明から下賜され、中国から渡来してきたということで、久米村の人々は琉球王朝から重用され、王朝の重役を務めた。後に前後して琉球王朝の名宰相を務めた2人の有名な政治家、鄭炯(ジョン・ジオン)と蔡温(ツァイ・ウェン)も久米村出身である。現在の沖縄県知事の仲井真弘多も当時福建から来た蔡氏の第19代末裔だ。現在も久米村の孔子廟では毎年孔子祭が行われている。(中国情報サイト「record china」May 22 2013 )>

 仲井真氏は、知事時代にそれまで普天間基地の県外移設の立場を投げ捨て、政府に追随して辺野古新基地建設を容認した。このため、県民の猛反発を受け、新基地建設反対を掲げる「オール沖縄」勢力の翁長雄志氏が当選した。

 この当時、「琉球新報」の読者の投稿欄で、仲井真氏と同じ門中(ムンチュウ、男系血縁組織)の方から厳しい批判の声が掲載されたことを記憶している。


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歴史が今に生きている沖縄、第一尚氏の末裔

 第一尚氏の末裔
 金丸に倒された第一尚氏の末裔と自称する方に、前にお会いしたことがある。
 沖縄ジョン万次郎会の定期総会で会ったSさんという女性は、沖縄にきて39年になる人だった。栃木県の出身だという。だが、意外にも「私のもともとの姓は尚なんです。それも第二尚氏ではなく、第一尚氏の子孫にあたるそうです」と語る。
 金丸が尚円王になったあと 第一尚氏の子孫が迫害を恐れて逃げたことは予想される。でも、栃木に子孫がいたとは、にわかには信じがたい。ただ、ご本人は、自分が沖縄に移り住んだこと自体に、強い縁を感じていた。琉球を統一した尚巴志は、もともと祖父は伊平屋島から本島の佐敷に移ってきたという。Sさんの娘さんが、伊平屋島に行ったところ、どこからか「よく来てくれた」というような声が聞こえたともいう。第一尚氏の子孫を裏付ける史料はなさそうだ。
 
                           佐敷、尚巴志の碑  
         佐敷上城跡にたつ尚巴志の碑
 ただ、クーデターで倒された第一尚氏最後の尚徳王の子どもは、3人が殺されたが、3男は乳母に抱かれて先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に屋比久(ヤビク)の地頭になり、屋比久大屋子と称したとのこと。しかも、その子孫は、王府から首里移住を許され、首里士族としての道を歩んだといわれる。ということは、廃藩置県の後、その子孫のなかから、上京して大学に学んだり、就職して、首都圏やなかには栃木県に住んだ人がいても不思議ではないかもしれない。
 まあこんな具合に、歴史上も重要な人物の子孫を名乗る人に、意外なところで出会うところが、沖縄ならではである。歴史がいまも生きていることを感じるのだ。




 第一尚氏といえば、尚巴志(ショウハシ)が開いた王統の一族が、現在も先祖を供養する「隠れ御清明(カクリウシーミー)」を秋に行っているという。これは「週刊レキオ」が2011年10月11日付けで報じたものである。

 尚巴志ゆかりの南城市佐敷の佐敷上城跡で、尚巴志長男系統の子孫の門中によって密かに行われてきた。門中(ムンチュウ)とは男系の血縁組織である。もう500年以上続いているというからすごい。

 「王統が変わった際『第一尚氏狩り』のような、前王統の血縁を排除せよというおふれが出され、清明祭で集まっている一門が狙われました。そのため、時期をずらしてひっそりと清明祭をし、御先祖様の前で一族の結束を固め、供養してきたといわれています」と門中代表の宮城春子さん(このとき75歳)。

 王統が変わったあと「当時は名前を変えたり、読谷や国頭に逃げたり、血筋を隠さないと命がなかったので必死だったんです。この風潮は明治時代になるまで続いたようです」(宮城さん)。だから文献にも残されていないそうだ。以上「週刊レキオ」から。

 



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歴史が今に生きている沖縄、尚円の血筋

 尚円王の血筋にあたる普久原恒勇氏


「芭蕉布」をはじめ戦後の沖縄民謡のヒットメーカーである普久原恒勇(フクハラツネオ)さんは、先祖は伊是名島(イゼナジマ)の出だという。伊是名島といえば、琉球を統一した第一尚氏の王統を倒して、第二尚氏の王統を開いた金丸、のちの尚円王の出身地である。

 普久原恒勇さんは、この尚円王の血筋にあたるという。彼へのインタビューをまとめた『芭蕉布 普久原恒勇が語る沖縄・島の音と光』でそのことを語っている。
 正確には、尚円の直系ではなく、その弟にあたる尚宣威(ショウセンイ)の子孫だという。

「普久原門中(ムンチュウ、男系血縁組織)というのは毎年、伊是名島にお祈りしに渡ります。わたしも行ったことがあります。普久原というのは尚宣威の子孫だと聞かされてはいるんですが、ま、ほんとかどうかわかりませんけれども、みながそう言っているからそうだろうと、思っております」。

 普久原さんには、史曲「尚円」がある。まだ聴いたことがない。この曲は、同じ伊是名島出身の木版画家の名嘉睦稔(ナカボクネン)さんにたいして「伊是名のために何か書きたいね。君は銅像も作ったらしいからそれと一緒に曲を書きましょう」と話した。ちょうど村の方でも普久原さんに何か書いてもらえないか打ち合わせをしていたようで、書くことになったという。当初は、普通の歌を作ろうとしたけれど、「どうせなら器楽曲を書かせてほしいと、初めて自分から進んで書いたものが≪尚円≫です」と話している。
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              玉陵。尚宣威は入れられなかった


  普久原さんの先祖にあたる尚宣威は、不運な国王である。兄の尚円王が亡くなったとき、息子の尚真はまだ11歳と幼かったので、尚円の弟が推されて即位した。しかし、わずか半年で王座を追われた。尚真の母であるオギヤカの策略があったのではないと見られている。尚真は11歳で即位し、幼い息子に代わりオギヤカが権力をほしいままにしたと伝えられる。

 尚宣威は退位後わずか半年で48歳で急死した。尚真王が建てた陵墓、玉陵(タマウドゥン)には、歴代国王が葬られているが、尚宣威は葬られていない。
 それはともかく、よく知られた作曲家が、尚円王の血筋にあたるという話を本人が話しているのを読んで、驚いたのである。

 尚円王といえば、伊是名島出身のシンガーソングライター、伊禮俊一さんも、その子孫だという。子孫だというなにか史料があるのだろうか、そのあたりはよくわからない。

 もともとは百姓だった金丸(尚円王)は、水田の水を盗んだと疑われ、島を出て本島に逃れたと伝えられる。いまでは伊是名島の誇りであり、銅像も建立されている。

 


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アルテで「やぐじゃーま節」を歌う


 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが7日夜、開かれた。今月もエントリーが少なく少し寂しかった。
  今回のテーマは「大」。 トップは越智さんがトランペットで「君といつまでも」を演奏。ツレがピアノでサポートした。
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 taka&chikaは、「大きな玉ネギの下で」を歌った。息の合った歌だった。
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   比嘉さんは3カ月ぶりくらいの登場だった。得意の岡林信康の曲「おいらいち抜けた」を歌った。
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   カーペンターズは、chikaさんのボーカルを加えて「童神」など歌った。
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  私は、八重山民謡の「やぐじゃーま節」を歌った。やぐじゃーまとは蟹のこと。権力に痛めつけられる庶民の悲哀を蟹の気持ちに託して歌った曲と言われる。初夏になると、あちらこちらから漁火をともして蟹捕りにやってくる、大爪を折られる時の辛さよと歌う。大爪が出てくるのでテーマに合っていると思って選曲した。
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 越智さんは、久しぶりのギター独奏で「小さなロマンス」など演奏した。

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     ツレはピアノ独奏でショパンの「ロマンス」を演奏した。まだ満足のいく演奏にならないらしい。
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 清美さんは、宇都宮さんのピアノとのコラボで、ひばりの「哀愁波止場」を歌った。ひばり生誕80歳の記念としてひばりにこだわて歌っている。演歌とは一味違う歌だった。

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  宇都宮さんは、ピアノソロで演奏したが、何の曲かよくわからない。でも楽しい演奏だった。
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   宮城さんと和田さんは、フルートとギターの珍しい組み合わせの演奏だった。

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 来月はたくさんの人たちの参加で、盛り上がると嬉しい。
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歴史が今に生きている沖縄、平敷屋朝敏

 平敷屋朝敏ゆかりの方からメール
 組踊「手水の縁」の作者で、政治犯として蔡温に処刑された平敷屋朝敏のことをアップしたところ、朝敏の母方祖父、屋良宣易(ヤラセンエキ)の末裔にあたるという宜野座村のYさんからメールをいただいた。
屋良宣易については、よく知らなかったが、和文学者であり、朝敏はその薫陶を受けたという。和文学者というだけでなく、王府の評定所右筆、尚純公の教育係、首里城の瓦修復奉行など三司官の下で政治にも深くかかわりがあったという。
 朝敏らが王府批判と見られる落書を薩摩在番所横目宅に行い、罪を問われた事件では、朝敏、宣蕃らとともに安謝港で処刑されたことが、家譜に残されているそうである。
         平敷屋朝敏の歌碑 
         うるま市平敷屋に建てられている朝敏の歌碑
  
 「手水の縁」は、親が認めない恋愛を不義とする封建的な道徳、秩序のもとで、恋に落ちた二人が命を賭して彼女を処刑から救い、恋愛を成就させる物語である。王府時代の組踊は、敵討ち物をはじめ忠孝節義を主題とする作品がほとんどであるなかで、次元を異にする画期的な作品であった。

Yさんは、朝敏の母方祖父の末裔という立場で、その「功績を後世に伝えていくのが使命」だとのべている。
 こういう朝敏にゆかりの方から、メールをいただくとは予想もしていなかったので、うれしいかぎりである。これからも、時代を先取りした朝敏とその作品は、時代の発展とともに、より親しまれ、高い評価を受けるだろうと思う。

   朝敏について詳しくは、ブログで「赤虫が蝶なて飛ばば遺念ともてーー琉球の悲劇の文学者 平敷屋朝敏覚書」など何回も書いたので見ていただきたい。

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