レキオ島唄アッチャー

歴史が今に生きている沖縄、汀間当

歴史がいまも生きている沖縄
 沖縄では、琉球の歴史や沖縄民謡に登場する人物の子孫というか血筋をひく人たちが、いろんな分野で活動していることに驚くことがしばしばある。前にわがブログで何回か、アップしたことがあるけれど、改めてまとめておきたい。

 「汀間当」に登場する役人神谷
 名護市の東海岸にある汀間を舞台にした民謡「汀間当」(ティーマトウ)は、役人と村娘の恋唄として、よく演奏される。琉球王府の時代、神谷親雲上(ペーチン)厚詮が、王府の御用品を収納する役人・請人(ウキニン)として、久志間切(クシマギリ、いまの町村にあたる)汀間村に派遣された。
 村の美人、丸目加那(マルミカナ)と恋仲になり、夜ごと浜に降りて逢引していた。それを、村の青年たちが見ていて、はやし立てる様子が歌われている民謡である。

                     IMG_5879.jpg
                        神谷幸一氏
 
 ところが、請人・神谷の子孫にあたる人がいた。それも沖縄民謡界の重鎮である神谷幸一氏だという。これは「琉球新報」2012年12月21日付、小浜司氏が書いた「島唄を歩く、花咲く島のダンディー神谷幸一」で、紹介している。小浜氏に、請人・神谷との関わりを聞かれて、神谷氏は次のように答えている。
 「幼い時、祖父がそんなことをつぶやいていたのを覚えている。先祖御願(ウガン)に首里へ行く時もあったし、系図調べたら7代目にあたるかな。最近の話だけど、汀間(名護市)の神あしゃぎを改築して、落成式に我々メンバーが呼ばれて嘉例(カリー)つけることができた。せっかくだから戦前の部落の井戸跡を拝まねばと、ごちそうも準備した。不思議なことに、土砂に埋まって跡形も無いはずの井戸がすぐに発見できた。それを見たユタ(注・巫女)が驚いて、この人(神谷厚詮)が降りてきて、「ありがとう」と言っている、首里まで来てくれた、丸目加那に向けて「やっとここに来てくれたんだ」と伝えているよ、と言われた」
 系図まで調べたというので、神谷幸一氏が「汀間当」の請人・神谷の子孫にあたるのは間違いないようだ。
 
 「♪汀間当安部境ぬ 河ぬ下ぬ浜下りて 汀間ぬ 丸目加那と請人神谷と
  恋の話 ふんぬかな ひゃ誠かや」
  (汀間と安部の境、井戸の下、浜に下りて汀間の 丸目加那と請人神谷との
  恋の話 本当かな 真実かな)
 歌は4番まで続く。二人の逢引は村の青年に暴露される。はやし立てられていたたまれなくなった神谷は、首里に帰っていく。年が明け4,5,6月頃になれば呼びに来るから待っていてくれ、と言うが、迎えはない。
 「残された丸目加那は涙にくれて、ついに首里まで上ったが、神谷が家族と暮らす現実に落胆し帰郷。そんな彼女を村はあたたかく迎えた」と小浜氏は書いている。
 神谷幸一といえば、小浜氏が「花咲く島のダンディー」と評しているように、民謡界でもイケメンであり、歌の上手さも抜群である。請人・神谷も、女性にもてるタイプのダンディーだったのだろうか。
 それはともかく、古い民謡で歌われている人物と出来事は、根拠のない絵空事ではない。ほとんどが実在の人たちであり、現実の出来事が歌となって残されている。そのことを改めて痛感する。しかも、その人たちの血を受け継いだ子孫が、いまも現存している。
 それも神谷幸一氏のように、民謡界の名高い唄者であることに、驚いた。歴史は生きているのである。


スポンサーサイト
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

楽しめたパシフィックまつり

 那覇市西町にあるパシフィックホテルが開く「パシフィック祭り」があるので出かけてみた。
  ホテルの地下にあるバー・ハックマンで、沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーが毎月ライブを行なっていて、一度行ったことがある。今回、初めてSSカンパニーが祭りのステージに立つことになった。
 
                    FB_IMG_1506246920551.jpg
 会場の広大な駐車場にステージが設けられ、屋台がたくさん出ていて、見渡す限りテーブルとイスが並んでいる。ホテルの祭りといっても、宿泊客が対象というわけではなく、近くの県営団地はじめ近所の住民、那覇市内、宜野湾や沖縄市など遠方から、さらには県外からもふくめてお客さんが詰めかけていた。

                DSC_1465.jpg 
   さっそく、生ビールと料理を買い求めていただいた。まるでビアガーデン。
 祭りは辻旗頭の演舞で始まった。司会は、人気役者の津波信一さん。ステージでは、地域の子どもたちのストリートダンス、3組のミュージシャンのライブに続いて、SSカンパニーがライブを行なった。

                    DSC_1472.jpg 
     ベンチャーズナンバーから始まり、久しぶりの「芭蕉布」「秘密の合言葉」「シーサイドバウンド」などGSサウンドを響かせた。なぜか、子どもたちに人気があり、ステージの前に詰めかけた。
 SS応援隊の「糸満カラーズ」メンバーととも踊る男の子がカッコイイ。

      DSC_1478.jpg   
   アンコールでは、オリジナル曲2曲を演奏し、最後の「佐敷幼稚園」では、恒例の汽車ポッポダンスも登場した。
 ライブのあとは抽選会だったが、時間の都合で15位からの当選者が発表されたが、膨大な数の賞品が用意されていた。全部は発表できないので、後日当選者には連絡がいくとのこと。楽しみに待っていよう。

 それにしても、大きなホテルといっても、これだけの規模と内容の祭りを開くのは、膨大な手間と人材、費用がかかる。ホテルの利益のことだけ考えればあまり儲けになるとは思えない。
 ホテルが地域貢献の一つと位置付けて開いているのではないだろうか。他の大きなホテルでこんな規模で地域に開かれた祭りをやっているという話は聞いたことがない。ご立派である。
 来年から楽しみが一つ増えた。






  



 
日記 | コメント:4 | トラックバック:0 |

「琉球併合」と明治期沖縄県政、その2

松田道之を琉球に派遣
もう一度、講演の要旨に戻る。

 1873年外務卿副島種臣と伊地知貞馨が日清両属体制と国内制度の現状維持を約束したが、1874年、琉球藩を内務省の管理下に置く。

 
 補注 「琉球問題はもはや対外問題でなく、内治問題と考えたからである。そして内務卿大久保利通の処分案にもとづき、琉球を処分することにした」

 「大久保は翌75年(明治8)正月、使いの上京を命じた。沖縄からは三司官池城親方・与那覇親方らが上京した。使節が内務省に出頭すると、内務大丞松田道之が応接して、()謝恩(注・台湾出兵)のための藩主の上京、()清国との進貢関係の清算、()鎮台分営の設置、()藩政改革、などを申し入れた。これに対し池城らは大いに驚いて、…事が重大で,帰藩の上、藩主の意向をきかねば返答できないものもあると固執したので、政府はこれを容れて一応帰藩せしめた」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』

 

 1875(明治7)年、松田道之を琉球に派遣。政府命令として①清国への朝貢及び慶賀使派遣の禁止②冊封使受け入れの禁止③明治元号の使用④日本の刑法定律の使用⑤藩政改革⑥学事修行などに10名程度状況⑦福州の琉球館廃止⑧謝恩使尚泰の上京⑨鎮台分営の設置、を伝達した。

 従来の琉中関係の廃絶と中央集権国家体制への琉球編入に向かう。

 首里王府は1875年、④⑥⑨を「遵奉」するが、その他の清国との関係、琉球の国体に関する項目は認めないという対応をとる。
 首里・那覇の士族層が反発し、騒乱状態になる。首里王府内部で三派が形成される。

 ・遵奉派=日本専属として琉球「王国」の存続を主張

 ・条件付遵奉派=政府に直接請願した上で遵奉することを主張

 ・遵奉反対派=日清両属に基づく「王国」存続を主張

     清国に密航して琉球救国を請願する「脱清人」の活動が起こる。

                           036.jpg 
                                  首里城正殿 
 
 琉球併合を強行

松田道之は1878(明治11)年11月、「琉球藩処分案」を立案して内務卿伊藤博文に提出する。18791月、松田は首里城にて清国関係の断絶と裁判権の内務省移管など求める。琉球は提出期限の延期を求めた。

 同年2月、伊藤博文上申の「琉球処分案」が明治政府内で承認され、3月松田が琉球出張を命じられる。

 327日、松田が首里城にて「廃藩置県」に関する文書を読み上げた。首里城明け渡し、尚泰は東京居住へ。県庁を当初、首里に置く考えだったが、士族が多いことを考慮して那覇に置くことにする。

 
 補注 廃琉の令達について、もう少し補足しておく。

「松田は警察官160人、歩兵役400人と同行して、325日那覇につき、27日首里城にのりこみ、今帰仁藩主代理に廃藩置県の達書を朗読して手交した。実に疾風迅雷のやり方で、一瞬のうちに幾百年かにわたって尚家に握られていた統治権が取り上げられて、明治政府の手にうつった。

 松田は土地と人民及び一切の書類の引渡しと、尚泰の東京居住を命じ、警官と軍隊を要地に配して、不測の事態にそなえた。」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)

 

 1879(明治12)年、駐日清国行使・何如璋が、琉球は清国の属邦であり、自主の国である、琉球は日清両属体制にあると抗議、廃琉処分の撤回を求める。
 外務卿寺島宗則は、琉球と薩摩との歴史的関係を指摘し反駁した。

 1880(明治13)年の日清交渉では、日本側は奄美・沖縄島を日本領、宮古・八重山諸島を清国領とする二分割案を主張。清国は奄美を日本領、沖縄島の独立と琉球王国の復活、宮古・八重山諸島を清国領とすることを主張した。
 琉球の二分割案で両国が合意したが、正式調印はされなかった。

 清国は、日本商人の活動による経済的混乱を回避するために正式調印を保留した。清国内における琉球複国運動も一定の影響を与えた。


補注 日清交渉は、「日清修好条約を改正して、日本を欧米諸国なみに最恵国待遇にしてもらうことを条件に、清国と分島問題を討議すること」としていた(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)。

講演は、初代県令鍋島直彬の県政、第2代県令上杉茂憲の県政、那覇における寄留商人の活動、奈良原県政と土地整理事業・杣山問題、謝花昇の運動について及んだ。興味深い論点もあるが、長くなるので割愛する。

 
 講演の最後に次のようなまとめがされた。

「琉球併合」は、琉球側の請願を無視した、明治政府による一方的な「領土併合」の過程である。「琉球併合」後においても琉球側は清国で救国運動を展開した。明治期沖縄県政では、旧慣温存政策が展開されつつも、政策遂行の円滑化や経済的利権の獲得などが意図された。

  終わり    (文責・沢村昭洋)


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球併合」と明治期沖縄県政、その1

「琉球併合」と明治期沖縄県政

 

 沖縄県民カレッジ美ら島沖縄学講座3回目として先頃、「『琉球併合』と明治期沖縄県政」があった。講師は、川島淳氏(公益財団法人沖縄県文化振興会 公文書専門員)。

 講師は「琉球処分」という用語ではなく「琉球併合」と題していた。1872(明治5)年の琉球藩の設置、1879(明治12)年の沖縄県設置、翌年の日清両国の分島問題まで、明治政府による一連の政治過程を、明治政府による琉球当局の意見を無視した一方的な「領土併合」とする。

 

以下、講座の概略を記す。筆者の勝手な要約である。

琉球王国は、明・清の冊封(さっぽう)を受ける一方で、薩摩藩の支配下に置かれた。

 1871年、廃藩置県による薩摩藩廃止で琉球王国を鹿児島県の管理下に置いた。琉球は、清国との冊封関係と従来通りの旧薩摩藩=鹿児島県との関係維持を要望した。

 1872(明治5)年、維新慶賀使の派遣を求められ派遣した。

天皇は尚泰を琉球藩王として華族にする。 

 同年、琉球藩は外務省の管理。在番奉行所を廃止し外務省出張所を設置する。

1873年、琉球藩が各国と締結した条約の原本の提出を求められ、回避しようとするが外務省に移管させられた。

 
 
1871年、宮古島船が那覇からの帰路、遭難し台湾に漂着、66人中54人が殺害される事件が発生した。
 
1874(明治7)年、台湾出兵を政府は中止決定したが、西郷従道は独断で出兵し、台湾南部を制圧した。清国が台湾は「化外の民」としたことで出兵を正当化、清に賠償金を支払わせる。琉球の日本帰属が決定されたわけではない。

                      IMG_4216.jpg 
                                    守礼の門
 
 補注 この問題はその後の展開に大きな影響があったと思われるので、他の資料から追加して紹介しておきたい。

仲里譲著『琉球処分の全貌』から

 「政府は琉球藩に対して国王を華族にするとともに藩主と叙した。これを国内法上の第一歩となし、続いて生蕃による台湾征討に対する清国との外交交渉を重ねて、遂に台湾遠征を行って目的を達した。即ち清国との講話(ママ、和)条約(互換條款)を結んで10万テールの賠償金を獲得してその一部は遺族に支給された。

 以上の経過をみると、政府は琉球藩の問題を処理する環境が整ったと判断したものと思われる」


 新城俊昭著『琉球・沖縄史』から

 イギリスの調停で、清国に50万両の賠償金を支払わせることで和議を成立させ、「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪を咎めてかれらを征伐した…」という事態収拾のための条文を交わすことに成功した。

 ここにいう「日本国属民」とは琉球人のことで、政府は清国から琉球人が日本人であるという言質を引き出したのである。また、これによって、その領土も必然的に日本の一部であるという解釈もなりたった。…琉球が日本の領土であることを清国政府に認めさせることに成功したのである。


 宮城栄昌著『沖縄の歴史』から

 日清両国の協定は「条文中には日本の出兵を『義挙』とみとめ、また『ここに台湾の生蕃、かつて日本国属民に対し、みだりに害を加えたるにより』との文章があった。これは沖縄人を日本国民と、公法上に明文化した最初のもので、日本の征台の目的は十分に達成することができた。これで琉球の廃藩置県はさらに一歩前進した」 

 
 以上のように、台湾遭難事件は、冊封関係にあった清国に、琉球人は「日本国属民」、つまり琉球は日本の支配下にあると認めさせ、琉球併合への重要な転機になったのではないだろうか。


続きを読む
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「アルテ旧盆の会」を楽しむ

   アルテ赤田カフェで「旧盆の会」が開かれのたので参加した。旧盆は終わったけれど、お疲れさまを兼ねて、食べて、飲んで、音楽をして楽しもうという趣旨である。
   料理は、すべてツレが用意して持ち込んだ。
 台風18号の影響で雨が降り、天気が悪いなかで、初めて参加の方もいて、よくぞお集まりいただいたという感じだった。                                    旧盆お疲れ会 
 この会はいつも玉那覇さんがお話をして下さる。今回のテーマは、旧盆。これまであまり知らなかった旧盆についてのディープな話を聞くことができた。エイサーの由来についても、袋中上人が伝えた念仏踊りのことなど紹介があった。

 それで、私も歌三線でエイサー曲の定番「仲順流れ」と「久高マンジュ主」の2曲を演奏した。「久高マンジュ主」は、玉那覇さんと一緒に演奏し歌った。久高マンジュ主のことをブログで書いたとき、マンジュ主の末裔の方からコメントがあったことを紹介すると、驚ろかれていた。
 

                    DSC_1429.jpg

   ツレは、ピアノの弾き語りで「精霊流し」を歌い、越智さんがトランペット、島袋さんがギターでコラボした。

                  DSC_1431.jpg 
  島袋さんは、ギター弾き語りで得意の「月の砂漠」など3曲を歌った。演歌はとても味わいがあった。

 歌三線では、玉那覇さんは「ナークニー」、私は「県道節」を初めて歌ってみた。
 少人数ではあったが、気のおけない方々と、ユンタクしながら演奏しあえて、とても楽しい時間だった。




日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「海ヤカラ」をめぐる伝承、その2

 「海ヤカラ」に歌われた女性の家系は、いまも継承され、思わぬ方がその末裔であることを知った。
 「週刊レキオ 島ネタchosa班」(201617日付)には次の記述がある。
ちなみに、「海やからー」に恋した娘とは、現在の仲間門中宗家で、ラジオパーソナリティー・玉城美香さんのお母さんの実家だということも判明!>
 美香さんは、毎日ラジオで声が流れる人気パーソナリティーで、糸満市在住でもある。歌に出てくる美女が実家の先祖にあたるとはビックリ。
 沖縄では、歴史上の人物や歌に登場する人たちも、その子孫が身近に存在することがしばしばである。その事はこのブログでも「歴史がいまも生きている沖縄」と題して書いたことがある。
                       117.jpg 
                                 糸満の白銀堂 

 「海ヤカラ」の歌の舞台となった糸満市真栄里の「ドンドンガマ」
がある場所は、いま「ロンドン杜公園」となっている。この「ロンドン」と名付けられていることをめぐって、いろんな噂話が飛び交っている。
 外国8が漂着してガマに住み着いた、イギリス人なので「ロンドンガマ」と呼ばれた。8人の男だからエイトマンと呼ばれ、それが訛って「糸満」という地名になった。糸満の人は、イギリス人の血が混じっているので美人が多い……。
 これらの話しは、とても信じがたい。
 イギリスなど外国人が琉球に漂着した場合、ただちに王府に連絡がいって対応することになっていた。外国人への対応は、王府にとって重要な外交問題であるからだ。糸満市大度海岸に上陸したジョン万次郎の場合でも明らかだ(このブログで何度かアップしている)。もし漂着が事実なら公的な記録が残っているはず。外国人が8人も集団で上陸して住み着いて、王府が何も知らなかったということはありえないだろう。しかし、寡聞にしてそんな記録の存在は聞いたことがない。


 エイトマンから「糸満」の名前になったというのも出来過ぎた話ではないか。発音が似ているから生まれた語呂合わせの感じがする。糸満の地名の由来はもっと別にあるはずだ。糸満といえば漁師、「海人(ウミンチュ)」の土地だった。
「魚を取る人」を意味する「イヲトリアマベ」が「イユ・トゥイ・アマミ」「イトウマン」そして「イトマン」に変化したとする説、「魚の集まる所」と意味の「イジュマル」が「イチュマン」「イトマン」に変化したとする説などがあります>


 琉球朝日放送「地デジカ地名辞典」は、糸満の地名はこのように魚と関係があるとする。漢字の「糸満」は18世紀の書物に初めて登場したそうである。こちらの方がより説得力がある。

 
糸満に美人が多いのは事実らしい。でもイギリス人の漂着が史実でなければ、イギリス人との混血というのはありえない話しとなる。
 ではなぜ「ロンドン杜公園」などという名称があるのだろうか。同「週刊レキオ」が調査結果について書いている。

           136.jpg     
                                                糸満港の旧正月風景
 糸満市の担当者に「
4号ロンドン杜公園はイギリスのロンドンと関わりがあるのか」と尋ねたところ「それは全く違うと思いますね」と教育委員会生涯学習課・主幹兼文化振興係長の加島由美子さんはあっさりと否定したという。加島さんは、「ロンドン杜公園」という名称の背景には、先に書いた「海ヤカラ」と村の美女とのロマンスの伝承があり、「海ヤカラ」の俗謡の1節に、「誰がし名付きたが、ドンロンぬガマや 真栄里美童ぬ 忍び所」とあると紹介している
 ここでは「ドンドン」ではなく「ドンロン」と記している。
「ロンドン」説について、「糸満市史」では次のように記述されているそうだ。
「ロンドンガマ」なのか、「ドンドンガマ」なのか、実際の歌では呼称に差異が生じている。糸満では地域によって、だ行とら行を混同する傾向にあるそうで、はやしやすいのは「ロンドン」よりも「ドンロン」だったのだろうと解釈しています。
「ドンドンガマ」がいつの間にかゴロが似ているので「ロンドンガマ」に変化したのではないかとのことだ

以上、「週刊レキオ 島ネタchosa班」(201617日付)から紹介した。

 つまり、ロンドンの名前の由来としてイギリス人の漂着ということは、史実としてはまったく確認されていないことである。「ドンドンガマ」「ドンロンガマ」がいつの間にか「ロンドンガマ」に変化し、「ロンドン」の語感からイギリスを連想し、いつのまにかイギリス人の漂着説が生れた一種の都市伝説ではないだろうか。私はそんな風に思えてならない。




島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アルテで「バチクヮイ節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージック・ファクトリーが9日夜、開かれた。今月のテーマは「命」だった。旧盆明けのお疲れがあるのか、エントリーが少なかった。もしかして過去最少かも。
 その代わり、時間のゆとりがあり、一人で2曲歌ったり、ゆったりした音楽会となった。
 taka&shikaは、「ビューティフルネーム」を歌った。takaさん小学校時代、校歌がなく、できるまでの間この曲を校歌代わりに歌った思い出があるそうだ。
                    IMG_5224.jpg 
   越智さんはトランペットで「君こそわが命」を演奏し、ツレがピアノ伴奏した。
                IMG_5216.jpg
 カーペンターズは、「五穀豊穣」など2曲を演奏した。

                       IMG_5217.jpg
  私は、「バチクヮイ節」を歌った。「バチクヮイ」とは、よくやった、でかした、というような意味だそうだ。この曲は、5番目の歌詞に「平和なる御代に 命のびのびと 栄ていく文化 眺む嬉さ」とあるので、選んだ。YouTubeにある動画をアップしておく。ちょっとミスしているのでごめんなさい。
 時間があり2曲演奏してOKということだったので、八重山民謡「あがろうざ節」も歌ってみた。

       
 ツレはピアノ弾き語りで「愛の讃歌」を演奏した。声がよく伸びていたのではないか。

                   IMG_5221.jpg 

 taka&shikaはもう1曲、「銀河鉄道999」を歌った。
  ツレはピアノ独奏で、ショパンの「ロマンス」を演奏した。

 宇都宮さんは、ボーカルとピアノのコラボの予定だったが、ボーカルの方が見えないので、アカペラで「ウィ・アー・ザ・ワールド」を歌った。アフリカの飢餓と貧困の解決を目的につくられたキャンペーンソング。初めての歌声だった。
            IMG_5226.jpg
  リエさんは、宇都宮さんのピアノとのコラボで、「デビーのワルツ」など2曲を歌った。
   
                      IMG_5227.jpg  
   清美さんは、宇都宮さんのピアノをバックに「川の流れのように」を歌った。
      IMG_5230_20170910144942b43.jpg                  


   主宰の越智さんは、「参加は少なかったけれど、内容は最高だった」と感想をのべた。




音楽 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「海ヤカラ」をめぐる伝承、その1

「海ヤカラ」をめぐる伝承

  

 糸満市を舞台にした民謡に「海ヤカラ」がある。なかなか面白い男女の恋模様が歌われている。

 「ヤカラ(輩)」とは、強い者、働き者という意味がある。海に生きる強い者、海の勇者を意味する。
    
1、誰(タ)がし名付(ナヂ)きたが ドンドンぬガマや
  遊(アシ)び 美童(ミヤラビ)ぬ 忍(シヌ)び所(ドクル)
  ※海ヤカラ ドンドン スーリ エイスーリ(以下囃子は省略)
 〔誰が名付けたか、ドンドン(洞窟)は、毛遊びの若者達が、忍んで来る処〕

2、ドンドンガマ通(カユ)てぃ 忍でぃ来(チ)ゃさ我(ワ)んね
  出(イン)ぢみそりヤカラ 語てぃ遊ば
 〔ドンドン洞窟に通い、忍んで来たよ、私の為に出てきておくれ勇者よ
 語り遊ぼう〕

3、海ヤカラに惚(フ)りてぃ 食(カ)むる物(ムヌ)食(カ)まん
  道端に泊(トゥ)まてぃ 親(ウヤ)ぬ哀(アワ)り
〔海の勇者に惚れて、食べる物も無く、道端に泊まり、親は哀れに思うだろう〕

4、成(ナ)てぃん成らりらん ぬちんぬかりらん
  如何(イチャ)さびが里前(サトメ) 後ぬ事や

 〔どうすることもできず、抜けることもできず、どうしてくれますか
愛しい貴方よ〕

5、海ヤカラに惚(フ)りて 夜(ユ)ぬ明(ア)きせ知らん
  如何(イチャ)し親(ウヤ)加那志(ガナシ)御返事(クヒジ)さびが
 〔海輩に惚れて、夜が明けるまで一緒に居た、どうやって親に報告しよう

6、我(ワ)んや海ヤカラ 無蔵(ンゾ)や恋(クイ)ヤカラ
  二人(フタイ)押(ウ)し連(チ)りて 親(ウヤ)に語ら
 〔我は海の勇者、愛しき君は恋の勇者、二人揃って、親に話そう〕


  歌詞は手元にある工工四(楽譜)から、歌意は沖縄県広報誌「美ら島沖縄」「民謡とわらべうたでめぐる ふるさと唄紀行」から紹介した。
      

   園田青年会のエイサー「海ヤカラ」
この曲には次のような伝承がある。以下県広報誌から。

<明るく華やかなこの曲は、歌詞を替えて大衆芝居の挿入歌として使われたり、久米島町兼城の獅子舞や各地のエイサーなどに幅広く使われています。

 「海やから」は、海のつわものや英雄を意味し、船頭や船乗り、魚捕りの名人を指しています。

この唄には、糸満市真栄里(まえさと)に今も残る洞窟「ドンドンガマ」の伝説が付随しています。昔、魚捕りのうまいよそ者の青年が、真栄里部落のドンドンガマをねぐらに漁をして暮らしていました。その青年(海やから)に部落の美しいと評判の娘が惚れこみ、洞窟で夜な夜なあい引きを重ねていました。おもしろくないのは同じ部落の青年たち。娘を奪われた嫉妬のあまり、海やからを亡き者にしようと暴力を振るったり、海で溺れさせようとします。しかし海やからは強く、たくらみはことごとく失敗。最後の手段として、恋仲を皮肉をこめて唄うことしかできませんでした。その唄が「海やから」だとされています。>

 村の美女がよそ者に惚れて、それを嫉んだ村の若者がはやし立てるという民謡は、「汀間当(ティーマトゥ)」をはじめいくつもある。その一つである。




島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |

今年もやってきた古蔵青年会エイサー

  9月3日から始まった旧盆。4日は「中ぬ日」で、お中元を配るのに親戚回りをする人が多いらしい。
 那覇市古波蔵のわが地域は、古蔵青年会のエイサーがやってくる日である。
  
                         DSC_1371.jpg
  例年は日暮れ前に回ってくるのに、今年は来ないのでどうなったのかなー、と少し心配していた。でも7時過ぎだったかやってきました。太陽は沈んで暗くなっているが、エイサー隊列の前と後からライトが照らし出していた。
                                  DSC_1374.jpg
 エイサーの音の響きを聴いて、近くの住民が続々と家族連れで出てきた。
 みんなエイサーが回ってくるのが楽しみだ。
  「かたみ節」「海ヤカラ」はじめお馴染みのエイサー曲にあわせて、勇壮な演舞を繰り広げた。

                        DSC_1372.jpg
  道化役のチョンダラー(京太郎)もいつものように踊り隊の間をぬって動き回る。
 最後の「唐船どーい」が終わると拍手喝さい。「アンコール」の声まで飛び交った。青年会は地域を全部回らなければいけないので、  アンコールに応えている暇はな い。
                            DSC_1379.jpg  
 イナグモーイ(女性踊り)の娘さんたちが、募金箱をもって回ると、おばちゃんたちも喜んでカンパを入れていた。 
 古蔵青年会のエイサーは結成19年目だという。今年は、歌三線担当の地謡(じかた)がいなくて、録音を流して踊ったのがちょっと寂しい。でも、旧盆といえば、住民の方々はエイサーが来るのが楽しみだ。続けるのには、いろんな苦労があると思うけれど、これからも青年会は頑張ってほしい。










日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「米軍が最も恐れた男、その名は、カメジロー」を観る

占領下の沖縄で圧政と闘った瀬長亀次郎を描いたドキュメンタリー映画「米軍が最も恐れた男、その名は、カメジロー」が桜坂劇場で上映中なので観に行った。
 
                 DSC_1351.jpg 
  ヒットしていることは聞いていたが、噂にたがわず、上映30分ほど前に劇場に着いたらもう、長蛇の列が続いていた。沖縄では行列は珍しい。「今日はまだ空いている方ですよ」と劇場側は言っていた。
 かつてTBS「筑紫哲也News23」でキャスターを務めていた佐古忠彦さんが、テレビで放送したドキュメンタリーを追加取材し再編集した映画である。
 瀬長亀次郎は、米軍占領下でどんな弾圧にも屈せず、抵抗の闘いの先頭に立ち、沖縄人民の団結と統一を訴えた不屈の政治家だった。沖縄人民党のリーダーであり、日本復帰後は日本共産党の副委員長、衆院議員として活躍したことはよく知られている。

                          DSC_1355.jpg 
 映画はその信念を貫いたカメジローの人生を貴重な映像と当時を知る人たちの証言で描いていて見ごたえがある。カメジローといえば「不屈」の言葉で象徴されるが、次女の内村千尋さんによると、カメジローは「自分が不屈なのではなく、沖縄の人たちが不屈なんだ」と述べていたそうである。
 カメジローの演説は、当時、抑圧された沖縄の人々の気持ちを端的に代弁し、苦難の解決の道筋を示してくれるので、聴衆を熱狂させたという。亀さんの演説には無数の「追っかけ」がいたという。「自分も追っかけて聴きに行ったものだ」という話をよく聞くことがある。
 映画を観に来ている人たちは年配層が多いので、当時足を運んで直接、演説を聞いた人たちもかなれいただろう。
 いまも、日米両政府による理不尽な辺野古新基地建設が強行され、再三、墜落事故を起こしながらも欠陥機オスプレイが沖縄の空を飛び回っている。翁長県知事を先頭とする沖縄県民の闘いは、この戦後のカメジローをはじめとする県民の闘いの延長線上にあることを強く感じさせた。亀次郎の生涯は、現代に生きる人たちに多くの示唆を与えてくれる。 
 映画が終わると、いっせいに拍手が起きた。共感と感動の広がりが示されていた。
日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |