レキオ島唄アッチャー

記録的猛暑、ぜんざいが美味い

 この夏は異常な猛暑だ。沖縄の夏は、日差しは暑いが気温は32度が通常。それが今年は35度がもう14回に達する。記録的だ。36度の過去最高を記録した所もある。台風は来ないというか、高気圧が強く張りだしていて、近寄らない。雨はほとんど降らないので、サトウキビなど悲鳴を上げている。


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   そんな暑い時にピッタリなのが氷ぜんざいだ。南城市佐敷の手登根に美味しい店があるというので出かけた。ツレが聞いた情報だ。331号線沿いの手登根のバス停そばにその店はありわかりやすい。
 「いいやんべぇ」という。「いいあんべえ」というのがフツーだと思うけれど、面白い名前だ。 


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 店内に入ると、中央に大きな丸テーブルがあり、知らない人でもグルリと囲んで座って食べられる。
 張り出されたメニューを見ると、文字通り氷ぜんざいとかき氷だけ。冬でもこのメニューなんだろう。ぜんざい一筋の店。


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 ツレは「こくとうみつぜんざい」、私はスタンダードな「ぜんざい」にした。容器の底に金時豆のぜんざいと白玉が入り、氷が山盛りされ、その上にさらにぜんざいが載るという豪華な感じ。


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   食べてみると、氷はフワフワ、ぜんざいも甘さがちょうどよい味。一瞬暑さを忘れさせてくれた。

 19日も那覇は35度あった。8月の後半に入ると、暑さも峠を超すのが通常だ。でも今年はまったく気温が下がらない。もういいかげんに、涼しくしてほしい。雨乞いもしなくてはいけないくらいだ。

 そんなこの時期は、夏祭りのシーズン。土、日はあちらこちらで祭りや夕涼み会がある。
 夏祭りには出かけていないが、夜9時前に、ベランダに出ると、豊見城方面で打ち上げ花火が上がった。もうフィナーレらしく、夜空に華やかな大輪の花を咲かせていた。


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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その4。争乱の世へ

 「争乱の世」へ

14世紀には遺跡が増加した。この時代、土地を巡る争いが激しくなっていく。

13世紀の遺跡(集落)は少なく、保良元島、大牧、カームイ嶺、野城、高腰城、パナタガー嶺、住屋の7件の遺跡が知られているにすぎない。14世紀に入ると遺跡は増加する。「昔は西の百郡(むむふん)、東の百郡といわれるぐらい村々は多かった」(「宮古島記事仕次」)という。…

 この時代は「争乱の世」といわれる。争乱の目的は「田畑を奪い取る」ことにあったようだ。いわゆる土地領有権の争いであり、宮古も農耕社会に依拠していたであろうことがうかがい知れる。一方では各集落(遺跡)に陶磁器が出土することから、中国との交易活動も展開していたらしく、それは集落が連合しての行動と考えられる。14世紀は集落が増加したと考えられる時代で、宮古全体で50件余の遺跡が確認されている。人口規模にすれば2000人から3000人余と考えられる。(『みやこの歴史』)>

   14世紀の遺跡分布                    宮古島の14世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から

 宮古島の村々には主長が生れ、さまざまな興亡があった。

<「宮古島記事仕次」によれば、西銘村に炭焼太良(すんやきだる)という人がいた。後に西銘の主長となる嘉播(かば)の親で、西銘城を拠点とする(注・長女の子が宮古島を統一した目黒盛豊見親とされる)。

保里(ふさてぃ)村には保里天太(てぃだ)と称される主長が保里城を拠点にしていた。石原(いさら)村の主長は思千代(うむちよ)按司といって石原城を拠点にしていた。根間(にーま)村の主長は根間の大按司という人。浦島(うらすま)の主長は浦天太という。

 村々では、家督相続争いがあったり、領地の拡大をめぐり、主長の間で、殺し合いや謀殺など、血なまぐさい争乱が起きた。(同書)>

 

 与那覇原軍を破った目黒盛豊見親

 「争乱の世」に突如として現れたのが、佐多大人(さーたうぷひと)を首長とする与那覇原(よなはばら)の軍団である。与那覇原は「平良より東」にある連合集落で、兵十行(つら、一行とは百人をいう)を擁していたという。多かった村々の過半は与那覇原に滅ぼされた。

 与那覇原軍は鍛冶場をもって武器を作っていたという。

<与那覇原軍は、仲曽根東方の盛加井泉(ムイカガー)がある与那覇原村を本拠地にしていたので、その名が付いたという。盛加井泉の近くにある寺フグ御嶽は、彼らの住居跡だともいわれ、御嶽には「大和神」を祀っていたという。また鍛冶場を持っており、「鍛冶神」も祀っていた。鉄塊から刀などの武器を作り、各村を襲い住民を皆殺しにして進撃を続け、北進して大浦多志(ウプラタシ)城を滅ぼした。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>
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                与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡

 与那覇原軍を打ち破ったのが、目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみゃ)である。これにより島内の兵乱を鎮め統一の業を成し、島内統治の実績をあげ島民から慕われたという。

目黒盛は武道の達人だった。伝承によれば、さまざまな争いの場面でも「目黒盛はただ一人宝剣を懐に帯びて赴き、按司の接待に応じた」とか「雑兵の射かける矢を目黒盛は剣を以て打ち払った」とされる。武器として剣が盛んに使われたことがうかがえる。

目黒盛が与那覇原軍を打ち破った年代について慶世村恒任は、1365年頃とし、稲村賢敷は「洪武年間の初頃(1370年代)にあたり、与那覇勢頭豊見親の中山朝貢(1390年)より20年程前のことである」とする(『みやこの歴史』から)。

 

この年代は、鉄と鍛冶の伝来の時期を考える上で重要な意味をもつ。

下池和宏氏は、大和や久米島から鉄がもたらされたと伝えられる説話にふれて、14世紀頃に鉄が宮古島に流入していたと見る。

<14世紀頃の住屋遺跡から刀子、高腰城遺跡から鉄鏃、箕島遺跡や砂川元島から鉄鍋などが出土している。これらの事例は、少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していたことを証している。13世紀の遺跡から鉄製品は出土していない。説話にいう農具を作ったとあるのは解せないが、渡来した人々の時代は、14世紀頃であろうと考えられる。すなわち、説話には14世紀頃の世界が色濃く反映されていると見ることができる。…島々に渡来した人々は、先住の人々と融合して定着し、農耕など宮古の基盤づくりに励んだであろう。(『宮古の自然と文化 第3集―躍動する宮古の島々』の「『宮古人』を考える」)>

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             与那覇勢頭豊見親の中山朝貢の際の逗留跡
    
 宮古人は早くから海外交易に乗り出していたと見る下池馨氏は、次のようにのべている。

14世紀初頭、あるいはそれ以前から宮古にも高度の文化は勿論、青磁、鉄器、南蛮がめ等は移入あるいは輸入されていたとみるべきである。(『宮古の民俗文化』)>

 

ここからは、宮古への鉄と鍛冶伝来の年代について、若干の私見をのべたい。

まず、鉄滓や鉄製品の破片などが出土している遺跡の年代が「1516世紀頃」だけだとすれば、鍛冶の伝来は13世紀中頃という稲村説は早すぎるだけでなく、「14世紀中葉」という谷川説も早すぎることにならないだろうか。

 また、宮古島の実際の歴史の上では、14世紀にすでに鉄製の武器や農具が広範に使われたと見られる。下池和宏氏は、14世紀頃の遺跡から鉄片などが出土しており、「少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していた」とする。


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アルテで「命口説」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーがあった。今月のテーマは「渚」。エントリーは多くなかったが、テーマに沿って、それぞれ歌と演奏がされ、コンパクトで充実した音楽会だった。
 chica&takaは「★のラブレター」を歌った。誰の歌だろうか?
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 カーペンターズは「恋の島鳩間島」他を演奏した。
 島尻さんは知念さんのピアノ伴奏で「千の風になって」を歌った。
 絹枝さんは、ウクレレ弾き語りで「さとうきび畑」を歌った。8月はこの曲を歌うことに決めているそうだ。
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 私は、沖縄戦をテーマにした「命口説(ぬちくどぅち)」を歌った。なんと来月のテーマが「命」になっている。ひと月早く先取りしてしまった。ただ、前に情け歌を歌った時、「あなたの声は口説があっていますよ」とアドバイスをいただいたのでそれに応えるためにあえて歌ってみた。
 YouTubeに動画がアップされているので紹介する。

              

 この曲の歌意は次のとおり。
 
1、 過ぐる戦争を思い出すと 身の毛もよだつ恐ろしさだ

  この世の地獄であったのだ

 2、 日の丸を掲げ、竹槍に命を預けた国の為に

エイヤエイヤと勤めはげんだ

 3、天皇に忠孝尽くし信じていた、島人みんなの命と体をかけて

守り守ったことだった

 4、艦砲射撃が雨あられと降り注ぎ、惜しくもわが生まれ島はさんざんに

火の海、火の山となってしまった

 5、命をただ一つ引っさげて、沖縄の島尻(南部)から中頭(中部)、国頭(北部)と

  逃げて逃げ回ったことは忘られない

 6、海山川の形まで、変わり果ててしまったわが沖縄

  どうしてくれたのだろうか、神さま、仏さまは

 7、あのガマこのガマと隠れて、命がようやく助かりもうけたことだ

  でも親兄弟、子や孫まで、散りじりになってしまった

 8、いかに物を言わない草木だって、命あるため焼かれれば

  ああ、あわれ、あわれと泣かないことがあろうか

 9、戦争を起こしたのは何のためなのか、戦争を始めたのは誰だったのか

  神の仕業か人のなせることか(注・神には現人神といわれた天皇を含むのかも)

 10、戦世をしのぎ、みるく世(平和で豊かな世)を迎えると思えば

  あれこれと国がゆさゆさ揺れる、危ういことが果てしない

 11、幾年月日がたとうとも、沖縄の人はこぞって、あの戦争のことを

  子や孫に語りつぎ、いつまでも忘れるなよ 命口説

注・おおざっぱな意訳です。

 
 ツレはピアノソロで「渚のアデリーヌ」」を演奏した。好評だった。
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 アルテギターサークルは、越智さんが不在だったが、応援もあり、3人で「月影の渚」など演奏した。
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   ツレがもう一度ピアノソロで、ショパンの「ポロネーズト短調遺作」を演奏した。
 和田さんは、ギターを独奏した。曲目の紹介はなし。
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 伊波さんはギター弾き語りで、松山千春の「季節の中で」を歌った。
 仲村さんは、ギター弾き語りで斉藤和義の「歩いて帰ろう」を歌った。
 由美子さんは、オカリナで「想い出の渚」を演奏。糸数さんがギター伴奏をした。
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  東明さんは、ギターで「サンタルチア」など演奏した。
 糸数さんは、ギター弾き語りで「帰れソレントへ」を歌った。
 taka&yogがエレキで即興のコラボ演奏をした。
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 清美さんは、「ひばりの佐渡情話」を宇都宮さんのピアノとのコラボで歌った。
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 なぞかけ名人を名乗る方がはじめて出て、みなさんからお題をもらってなぞかけをして笑わせた。
  演奏曲目の紹介だけで終わってしまった。 
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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その3。グスク時代

 

 12世紀、グスク時代に入った宮古島

遺跡からの鉄滓、鉄片の出土などの調査結果では、稲村氏のいう13世紀中頃は早すぎるようである。鉄と鍛冶の伝来を考えるためには、考古学的な見地と同時に、鉄製の農具や武器の使用がもたらす社会の変化、発展についての歴史的な分析も欠かせない。

 ここからは、宮古島の歴史について『みやこの歴史』からスケッチ的に見ておきたい。

 宮古島は、八重山と同じように紀元前、有土器文化のあと無土器文化の時代が続いた。

<「南琉球先史時代の宮古」

(宮古島の東海岸の)浦底およびアラフなどの海浜で人々が生活を始めるようになる。土器を知らない人々の登場である。…アラフや浦底にやってきた人々は700800年ばかり居住したのち、1800年前頃(起元後200年)には浦底を離れてしまう。…宮古島を離れたアラフや浦底の人々に何が起きたのか。およそ800年間に及ぶ彼らの活動は途絶えた。宮古島に再び活気がもどったのはグスク時代である。>

 800年くらいの間、歴史の空白の時期を経て、宮古に人々が住み着き、遺跡が形成される。「先史時代の人々とは全く違う集団とも考えられる」(『宮古の自然と文化第3集』、下池和宏著「『宮古人』を考える」)。

                   12~13世紀の遺跡分布 
                
 
                        12~13世紀の遺跡分布(『宮古の自然と文化第3集』から)

宮古・八重山から出土する滑石製石鍋(長崎の西彼杵半島などで製作された)は、すくなくとも12世紀代には大和商人によって運ばれてきたと考えられている。(『みやこの歴史』)>

 

琉球史においてグスク時代とは、どのような時代なのか。

 <漁労を主体とした採取経済から、農耕を主体とした生産経済へ移行した時代を、グスク時代(12世紀~15世紀)という。…農耕社会は定住を前提とし、食料の備蓄を可能とするため、しだいに人々の生活は安定し、豊かな文化をもたらすようになった。…13世紀になると富と権力を手にした有力な按司が、砦としてのグスクを築き、武力を背景にそれぞれの地域を支配するようになった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>


 宮古など先島のグスク時代について次のようにのべている。

<先島でも14世紀はじめには農耕社会がいとなまれるようになり、各地に村落が形成された。宮古では、この村落を治めていた首長を天太(テンタ)とよび、村内でもっとも人徳のあるものが選ばれた。

 しかし、14世紀後半になると、武力によって村々を支配しようとする按司が各地にあらわれ、島全体が争乱状態におちいった。いわゆる群雄割拠の時代である。これをおさめ、宮古の統一をなしとげたのが目黒盛豊見親であった。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。

 

 集落と人口が急増

 
宮古島では、グスク時代には、集落と人口が急増したという。

   『みやこの歴史」から  
    (『みやこの歴史』から)

12世紀から13世紀のグスク時代初期の遺跡は、現在78か所が確認されている。…14世紀になると遺跡の数が急増する。…遺跡は13世紀に比べて、その数が4倍以上も増加している。このことは、人口の増加があったことを示す。増加要因は自然増だけでは考えにくく、この時期には人々が島外から宮古に入り居住していたことが考えられる。宮古がいかに躍動的な時代であったかがうかがえる『みやこの歴史』。>

下池和宏氏も「この時期は13世紀に比べれば、遺跡の数が極端に増えている(図2)。13世紀の遺跡が発展・拡大したというだけでは説明がつかない程である。島外から宮古に渡来し、集落を形成した人々も少なくなかったと見るべきであろう」とのべている(「『宮古人』を考える」)。

宮古で、島外からの渡来を含めて、人口と集落の急増があったことは、農耕の発展をともなったのだろう。それは、14世紀には土地を巡る争いが激しくなることにもあらわれている。

 

遺跡と居住域

グスク時代は、石灰岩の丘陵台地に立地する遺跡と海岸沿いの低地に立地する遺跡が共存している、という。

                    14世紀の遺跡分布 
                           宮古島の14世紀の遺跡分布 『宮古の自然と文化第3集』から

<丘陵台地の遺跡には箕島、友利、上比屋山、ビンフ嶺、オイオキ原などがある。グスク時代初期の遺跡も丘陵台地に立地しており、一般的な居住域だと考えられる。このような環境にある遺跡のほとんどは16世紀をまたずに消滅している。あるいは放棄したことも考えられる。

一方、海岸沿いに立地する遺跡は、近世まで継続する集落跡で元島と呼ばれる。丘陵台地の人々と住み分けをしたことも考えられるが、まだよくわかっていない。『みやこの歴史』>

  


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