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吉村昭・沖縄の戦争

 吉村昭著『昭和の戦争5 沖縄そして北海道で』(新潮社)を読んだ。吉村氏の小説は、徹底した取材によって事実を細部にこだわって積み上げ、真実に迫るその手法と硬質の文体が割合好きで、『戦艦武蔵』『破獄』などいくつか読んでいた。
 沖縄戦についても『殉国 陸軍二等兵比嘉真一』があることは知っていたが、何となしにまだ気が向かないで手にしていなかった。
 先日、図書館で『昭和の戦争』シリーズで沖縄と北海道についての著作をまとめた本があったので借りて読んでみた。
 吉村氏は、まだ復帰前の昭和42年(1967)、沖縄戦に参加した中学生を主人公にした小説を書くために、沖縄に来た。1カ月半滞在して、90名近い人達に会い、証言を得た。テープを回し、メモをとりながら「何度嗚咽をこらえたか知れない」と記している。

 「殉国」は、14歳で陸軍二等兵となった国吉真一さんをモデルにしている。第5砲兵司令部に配属されてから、級友や将兵が戦死する中で、奇蹟的に生き続け、米軍捕虜となるまで、地獄のような戦場が克明に描かれる。小説というよりも、迫真のルポルタージュを読むようだ。
 「他人の城」は、対馬丸事件をテーマにしている。この悲劇を題材にした小説としてはもっとも早い時期の著作ではないだろうか。

 「剃刀」は、軍司令部にいた一人の理髪師の眼を通して戦争を描いている。「殉国」の中で、首里の司令部壕の外に4人の女性が荒縄で縛られ泥の中を転がっている場面がある。17,8歳の娘が斬り込み隊に志願してきたが、女性を斬り込ませるわけにいかないので説得したが暴れるので縛ったという。これまで沖縄戦について書かれた著作でも聞いたことがなかったので、この部分は真実だろうか、それとも作家の創作か、と詮索した。でも、これは、理髪師が目撃した事実であることが、この作品でわかった。
 「太陽を見たい」は、伊江島に米軍が上陸した際、女子斬込隊として5名が夜間突撃に参加して死亡したが、ほかにも斬込隊に参加して生き残った方がいて、その大城シゲさんを通して描いた短編である。
 「敵前逃亡」は、砲弾落下で意識を失い捕虜となった中学生の鉄血勤王隊員、秀一が主人公。渡嘉敷島に立てこもる日本軍の投降勧告の役を引き受けることを装って、脱走して日本軍に加わり、米軍と戦うつもりで日本軍陣地に入るが、敵前逃亡の罪で処刑される。他の作品は生存者の証言がもとになっているが、これだけは主人公は死ぬ。
 吉村氏は、記録文学ともいえる作品の中で、声高に自分の主張を叫ぶことは避けている。しかし、どの作品をとっても、そこには、戦争の残酷さ、日本軍の残忍さ、中学生や女性まで戦闘に巻き込んで行った悲劇が描かれ、圧倒される。
 吉村氏は、2006年、79歳で亡くなられた。
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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その1。鍛冶神をたたえる神歌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来

 

宮古島や八重山への鉄と鍛冶の伝来はいつ頃だろうか。そんな興味を持っていたところで『みやこの歴史―宮古島市史第1巻通史編』が目に留まった。宮古島への鉄と鍛冶の伝来について、まとまった記述がされていた。そこからポイントを紹介する。

鍛冶神をたたえる神歌

 宮古には、鉄の伝来と農耕をめぐり「鍛冶神をたたえる神歌」がある。

                      
 <宮古の古集落の一つである狩俣に、鍛冶の伝来を歌った神歌(かみうた)「頂(つづ)の磯金(いしがに)のタービ」が伝承されている。これは、およそ次のような内容である。

 頂の磯金は、根の島、元の島の子孫が皆、大箆(うぷぴら)、鉄箆(かにぴら)がなくて、素手になっているので、大大和(うぷやまとぅ)に上がり、大大和の人から、青鉄・黒鉄を分けてもらい、船腹に満ちるまで積み上げて持ち帰り、自分の土地の真中で、大鍛冶屋、真鍛冶屋を根立て、根の島、元の島の男たちをはじめ、宮古中の男たちすべてに伝え広げた。頂の磯金よ、なんと誇らしい、今日の直る日よ。>

 これは、鉄製の農具がないため、日本に渡って鉄を分けてもらい、鍛冶を伝えたという伝承が歌われている。八重山にも、鉄がないため鹿児島に渡って求めたという石垣島大浜の崎原御嶽の伝承がある。でも、宮古島や石垣島から沖縄本島や奄美を通り越して、九州・日本まで出かけて持ち帰ったという伝説は、私はとても信じがたい。ただ、大事なことは、鉄と鍛冶が日本から伝わったことがうたわれていることだろう。
            
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              狩俣にある「四島の主の墓」
 

 これとは逆に、日本や沖縄本島などから鍛冶が伝わったという伝承がいくつかある。こちらの方に合理性がありそうだ。

 <多良間島で伝承されている「鍛冶神(かずがん)のニーリ」は、旧暦11月の「鍛冶崇び」(フイゴ祭り)に歌われた神歌で、大和で生まれた「鍛冶神がなす」が、大和から沖縄本島へ渡り、宮古島、多良間島と南下しながら鍛冶の技術を伝え広げていったことを、…歌っている(『みやこの歴史』、神歌は省略)。>

 

宮古には、鉄と鍛冶を伝えた人を鍛冶神として祀る御嶽がある。

平良字西仲宗根にある船立御嶽(ふなだてぃうたき)の祭神は、「かねとの・しらこにやすつかさ」の兄弟神(鍛冶神)で、次のような由来を伝えている。以下、要約する。

昔、久米島按司の娘と兄が舟で流され宮古に漂着し、船立に住居した。その後結婚した娘の子が成人して久米島の祖父を訪ね、黒鉄と巻物をもらい宮古に帰り、鍛冶をおこし、農具を作って人々に与えた。それまで牛馬の骨で田畠を耕し、年々飢餓にあっていたが、鉄製農具を使用し五穀豊穣となり、人々は兄妹の骨を納め神として崇めた。

 <城辺・友利の嶺間(みねま)御嶽の祭神は、「あまれふら・泊主」の男女神で、男神は平安名崎(へんなざき)の宮渡(みゃーど)浜に漂着した大和人と伝えている。「民間口碑によると『大和神かんか主』と唱え祭っている。かんか主とは鍛冶の神のことで、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌等の農具を作って農民に分け与えたから一般からその徳を慕われて鍛冶神として祭られた」といわれている。>

 
          
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                 東平安名崎
<これらの神歌や御嶽伝承は、いずれも鍛冶と鉄の伝来が、日本本土、あるいは沖縄本島(久米島)からもたらされたことを伝えている。>

<渡来した人々は宮古の地に定着して子孫を残し、当時の社会に一定の貢献をしている。特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している。(『みやこの歴史』)>

 

なぜ久米島から伝わったのだろうか。下池馨氏は次のような見解をのべている。

<久米島、慶良間、伊江島等が正式に、琉球に入貢したのは察度以前(英祖王代の西紀1264年)であるから早くから、なべかま、陶器、青磁類も得られていただろうし、鉄材も入手して農器具の製造法も久米島には早くより伝えられていたと考えられるから、「久米島から2人の兄妹が漂流して来て、農器具の製造法を宮古に伝えたという伝説」(船立御嶽由来)も単なる伝説だけではなく事実を裏書きしているとみてよい(『宮古の民俗文化』)。>

 

伊良部島にある長山御嶽には、次のような伝承がある。城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

<男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。

 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>

これによると、昔、島に鉄がなく牛馬の骨を細工して農具としていた。大和人が鉄を持ち渡ってきて居住し、鉄製農具を村人に分け与えたので五穀豊穣となった、とやはり日本から鉄が伝わったことを示している。


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一夜限りのサガリバナ

   夏の夜に咲くサガリバナが今年も咲いた。首里の鳥堀に大きな花の木があり、6月末に行った時はまだ咲いていなかった。
 7月中旬になり、もう一度行ってみた。
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 少し盛りを過ぎたかもしれないが、大きな花木から無数のつるが下がり、鮮やかな花を咲かせている。蕾もたくさんついている。

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 あたりは、花の甘い香りが漂っている。暗くなると咲き、朝陽が昇ると散ってしまう。

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 一夜限りの不思議な花である。夏の夜はサガリバナを見ないと寂しい。毎年見ても、やっぱり特別な美しさのある花である。
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団地の夏祭り

 近くの団地で夏恒例の祭りがあった。今年は、会場が変わり、コンパクトになった。「地域で笑顔いっぱい」が祭りのテーマである。

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  舞台で芸能が始まった。民謡三線クラブは子どもたちを中心に、民謡5曲を演奏した。オカリナ、太鼓も加わって楽しい演奏だった。
 子どもたちのエイサーや空手、フラダンス、女性たちによるビールの早飲み競争など続いた。
 
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 祭りといえば、生ビール。家からツレが料理を準備して持っていった。
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    ビール、泡盛も格安で飲めるのが嬉しい。祭には、団地住民だけでなく、近くの人たちも来る。隣のテーブルには、知り合いの方も家族連れで来ていた。

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 舞台では、最後の民謡ショーが始まった。
 まだ少し時間があるので、飛び入りで歌う方を募集するというので、二人で舞台に出てみた。
 男女デュエットで歌う「二見情話」を選曲した。
 
    
 この曲は、沖縄戦のあと名護市の収容所に入れられていた方が、戦争の哀れと忘れられない二見の美しい景色と人情を歌った名曲である。
 三線、ギターの生伴奏で気持ちよく歌うことができた。


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アルテで「月ぬ美しゃ節」を歌う


 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが8日夜、開かれた。今月のテーマは「虹」。エントリーは多くはなかったが、楽しいファクトリーだった。
          越智、虹 
   トップバッターは、トランペットの越智さん。ツレのピアノ伴奏で「ラブユー東京」など演奏した。
 知念さんは、ピアノ独奏で「川の流れのように」を演奏した。
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  カーペンターズは「島々美しゃ」を演奏。徳門さんは、ウクレレ弾き語りで「この広い野原いっぱい」を歌った。
  宇都宮さんはピアノ独奏したが、曲名は不明。得意の即興演奏かもしれない。演奏スタイルが独特だ。

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 カオルさんは、ギター弾き語りで「虹とスニーカーの頃」。chicaバンドは「綾香・にじいろ」を歌い、タカさんもギター弾き語りで「スコール」を歌った。

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  私は「命口説」をエントリーしていたが、聴いていただきたい方がお休みしていたので急きょ、八重山の「月ぬ美しゃ節」に変更して歌った。虹は太陽のもとだけでなく、満月のもとでも出ることがある。「月虹」(げっこう)と呼ばれる。南米のイグアスの滝では、満月のときは滝のしぶきで虹がかかるそうだ。

           アルテ虹、(2017-07-08) (2) 
   新良幸人に「月虹」というアルバムがあり、この「月ぬ美しゃ」も入っているので歌ってみた。聴かせる歌にならない。

 第2部は、アルテギターサークルが「虹の彼方に」など演奏した。
 ツレはカオルさんのギター伴奏で、森山良子の「あれ、あれ、あれ」を歌った。とても面白い歌詞だが歌うのは難しい曲。ギターとは事前の打ち合わせだけで、実際にギターとのコラボはこの日がぶっつけ本番。パフォーマンスも入った楽しい歌は、大受けだった。
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  由美子さんはオカリナで「虹と雪のバラード」を越智さんのギター伴奏で演奏した。宮国さんはギター弾き語りで「夏祭り」など歌った。
   ブルースの得意なotisさんは、初めて歌三線で「朝はどこから~十九の春」を演奏した。ギターの上手い人は三線もさすがである。
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     伊波さんはギター弾き語りで「しらゆり姫」 を歌った。仲村さんがギターを叩いてパーカッションとしてサポートした。仲村さんはギター弾き語りで「エロチカセブン」を歌った。

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   リエさんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「part of your world」など歌った。清美さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「恋人よ我に帰れ」を歌った。

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   8月のテーマは「渚」。これは民謡でもいろいろな曲がありそうだ。

 

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お墓と琉球王権について講演を聞く

 県民カレッジ美ら島沖縄学講座」の第2回目として7月6日、安里進氏(沖縄県立芸術大学附属研究所客員研究員)の「お墓と琉球王権のグスク・王陵(王墓)の意外な関係」と題する講座があり、聞きに行った。場所は那覇市旭町の南部合同庁舎。

 安里氏の講座のポイントを記しておきたい。

沖縄にはさまざまな墓がある。建物形の墓や崖に穴を掘った墓、中国伝来の亀甲墓など。沖縄の墓の特徴は①自然の洞窟を利用した墓、人工的に洞窟を掘った墓②建物形の墓③漆喰で白化粧すること。なぜ、洞窟か、なぜ建物形か、なぜ白化粧か、その謎を解くカギは「琉球の王陵」にある。


 沖縄の墓のモデルは王の墓である。

    各王統が新型式の王陵を造営した。

    英祖王統は人工洞穴内に建物・木槨墓、初期浦添ようどれ第一尚氏王統は洞穴の墓口をふさぐ掘込墓、ようどれ改修➡第二尚氏王統は外観建物形の破風墓。墓表を白化粧、首里玉御殿(玉陵、たまうどぅん)、➡第二尚氏、平地式破風墓、白化粧、伊是名玉御殿。

(察度王統の墓は不明。浦添ようどれを使ったのかもしれない)

    王陵は、洞穴墓から建物形へ、漆喰白化粧へと発達した。

    士族や庶民も、王陵をモデルに墓をつくった。

亀甲墓は、1680年代に、中国が明から清へ代わる混乱の際、琉球に逃げて来た人たちが亀甲墓を伝えた。                    浦添ようどれ                                           
          浦添ようどれ

琉球王陵のモデルは首里城正殿である。

    浦添ようどれの墓室には首里城正殿がある。

    首里玉陵は首里城正殿をモデルにした。

    王の棺(厨子)のモデルはグスクや首里城の正殿。

    首里城正殿の形が変わると、厨子や墓の形も変わる。

    正殿に唐破風が登場すると亀甲墓・厨子にも唐破風が登場する。
(唐破風は、唐の名がついていても中国にはない)

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           首里玉御殿(玉陵)
王の墓はなぜ漆喰で白化粧したのだろうか。

    琉球の王陵は漆喰白化粧されていた。 

 浦添ようどれは、墓も石垣の囲いも白、墓庭は白い石粉を敷く。墓室表も漆喰で白化粧されていた。
 首里玉陵も白化粧されていた。伊是名玉御殿も白。石垣囲いも墓室も墓庭も墓室内も白くしていた。

    王宮(首里城正殿など)は赤く塗られ、王陵は白化粧した。

    ニライ・カナイには、太陽神(王)が生れる「でたがあな」(太陽の穴)がある。
穴から生まれた太陽神は、西に沈んだ後、地底の穴を通り「太陽の穴」から再生すると考えられた。

    琉球王権がイメージしたニライ・カナイは、太陽神がすむ光り輝く白い世界と考えた。

            いぜな島観光協会玉御殿  
               伊是名玉御殿(いぜな島観光協会HPから)

安里氏の講演は、勝手に要約するとこんな内容だった。東京からの移住者にとって、沖縄のお墓はいろいろな形があり、大和とはとても異なる特徴があり、興味深く見ていたが、王権のグスク・王陵との関係が深いことは初めて知った。白化粧の背景にある古琉球の王権思想についても、とても興味深く聞いた。

浦添ようどれ、首里玉陵、伊是名玉御殿など王陵を調査されてきた安里氏ならではの研究成果だと思う。

安里氏の講演のもとになった論文の一つ、「琉球王国の陵墓制」は、ネットでも「関西大学学術リポジトリ」で読むことができる。参考までに。 

 


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