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変容する琉球民謡、番外編。「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 「古見ぬ浦ぬブナレーマ」と「無情の月」

 

 八重山民謡の「古見ぬ浦ぬブナレーマ」を先日、ラジオで初めて聞いた。その出だしの前奏と歌い始めを聞いたとき、「これは、本島民謡の『無情の月』とそっくりだ!」と直感した。勿論、細部は異なるし、囃子なども八重山民謡らしいので、趣はかなれ異なるかもしれない。しかし、「無情の月」の出だしは、他の民謡とは違う特色があるので、これだけ似ているとなれば、歌詞を変えた替え歌ではないとしても、「古見ぬ浦ぬブナレーマ」が本島民謡に影響を与えたのかもしれない。
  そんなことで、二つの曲を紹介して比べてみたい。

 この「無情の月」は、知名定男が歌った「おぼろ月」、普久原朝喜作曲の「あこがれの唄」とそっくりである。

 

「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 まずは「古見ぬ浦ぬブナレーマ」を當山善堂著『精選八重山古典民謡集』から紹介する。
 古見は西表島にある。18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである

1、古見ぬ浦ぬ シタリヤゥイサ ぶなれーま ヒヤシタリ イラヤゥイユバナヲル
2、美与底ぬ(以下囃子略) 女童

3、うりぅじぅんぬ なるだる 若夏(バガナチゥ)どぅ 行くだる
4、自分(ナラ)―上納布(カナイ) 取り持ち 十尋布(トゥイルヌヌ)抱き持ち

5、前ぬ浜 走(パ)り下(ウ)れー 寄合浜(ユライパマ)跳(トウ)ばしゃ来(キー)

6、自分(ナラ)舟ば 押しゅ下(ラ)し 艫高(トゥムダカ)ば 引(ヒ)ちゅ下(ラ)し

7 自分―上納布 取り載せー 十尋布抱き乗せー

8、大石垣(ウフイシャギゥ)走り行き 親島(ウヤジゥマ)ん 飛ばしゃ来

9、如何どぅ何処 舟着き 美崎前どぅ 舟着き

10、何処どぅ何処 宿取りぅ 蔵ぬ前どぅ 宿取りぅ

11、調び座ん 行り入り 長蔵ん 入り入り

12、調ぎ主ん しぅされーて 纏み主ん 奉いしー

13、大蔵ぬ 戻りぅんや 沖縄町屋ん 入り入り

14、びぅー折り土瓶 祖母土産 まーらんぷぞー 祖父土産

         
         大底朝要さんの歌う「古見ぬ浦ぬぶなれーま~とーすい」

 この曲は、西表島の古見から、人頭税で織った布を上納するために、石垣島に渡る様子を描いている。

「♪古見村のブナレーマは美与底(ミヨシク、古見の異称)の乙女だった 初夏になったので 貢ぎ布を取り持って 前の浜に走り下りて 自分の舟を押し出して 貢ぎ布を取り載せて 蔵元のある石垣島に走り下り 役人様のいる親島に飛ばしてき」(要約)

織った布を石垣島に舟で運び、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣著『八重山の古謡』)。

 織りあげた布を検査する際に、役人が職権をカサにきて、目を付けた女性を自分のものにするという、横暴が絶えなかった。

 

 「無情の月」

 まずは「無情の月」から見てみたい。この曲は、旋律は普久原朝喜さんの「あこがれの唄」とほぼ同じである。歌詞の内容は、同じ普久原作「無情の唄」ととても主題と構図がに似ている。

 「無情の月」の歌詞と歌意を紹介する。
♪千里陸道や 思れ自由なゆい 一里船道や 自由ぬならん
 千里の道も陸路であれば行こうと思えば行ける。でも海を隔てた船路は、一里であっても自由に行けない
♪我肝ひしひしと 干瀬打ちゅる波や 情思無蔵が 思みど増しゅる
  私の心をひしひしと干瀬を打つ波は 愛した貴女への思いが強くなる
♪貫ちたみて置ちょて 知らさなや里に 玉切りて居てど 袖ぬ涙 
 彼のために「貫花」を作ったことを知らせたい。でも貫花は悲しいことに切れてしまった、袖に涙するばかりだ。

♪我身に幸しぬ 光ねんあしが 無情に照る月や 光りまさて
  私自身に幸せの光はないのであるが 無情に照る月は光強くなって

    
      玉城一美さんが歌う「無情の月」。この番組の1曲目に流れている


 思いあった二人が引き裂かれ、彼ははるか遠くにいて結ばれない。悲恋の曲である。なぜ引き裂かれたのかは描かれていない。

 そういえば、普久原朝喜さんの名曲「無情の唄」と発想がとても似ている。愛し合う男女が引き裂かれ、女性は故郷に、男性は海を隔てた遠くにいる。思いあってもままならない恋路である、朝夕袖を濡らし暮らす辛さよ、一人月に向かって泣いている。「浮世 無情なむん」と繰り返す。
 こんな内容だ。表立って、戦争のことは出ていないが、実は出征して引き裂かれた男女を歌っているそうだ。「秘められた非戦の歌」といわれる。
 「無情の月」も、愛し合う二人が、海を隔てた引き裂かれた悲運と離れても慕う心を歌っている。「袖を濡らす」「月に向かって泣く」というのも同じである。


 「あこがれの唄」
 「無情の月」と旋律がそっくりな「あこがれの唄」は、悲恋の歌ではなく、戦争のあと、日本と引き裂かれた沖縄の現実が歌われている。

 普久原朝喜作詞・作曲の「あこがれの唄」の歌詞と歌意を紹介する。

     
        知名定男さんが歌う「あこがれの唄」
行ちぶさや大和 住みぶさや都 あさましや沖縄 変わいはてぃてぃ
 変わいはてぃてぃ
 行ってみたいな大和 住んでみたいな都 哀れな沖縄 変わり果ててしまって

大和世に変てぃ アメリカ世なてぃん ぬがし我が生活(くらし)
 楽んならん 楽んならん
 日本統治の世に変わって アメリカの世になっても どうして私たちの暮らしは楽にならないのだろうか

戦場ぬ後や かにんちりなさや 見るん聞く物や 涙びけい 涙びけい
 戦場の後は こんなにも情けないものか 見るもの聞くもの 涙がでるばかり
自由に我ん渡す 舟はらちたぼり 若さある内に 急じ行かな 急じ行かな
 自由に私を乗せてくれる 舟を走らせて下さい 急いで行かなければ

 
 戦争で廃虚と化した沖縄で、米軍支配のもとで生きる人々の苦難と哀れな姿、そんな現実からの救いを求める心情が込められた歌である。

他にもそっくりな曲がある。

      
        知名定男さんが歌う「おぼろ月」。この番組の3曲目に流されている
 知名定男作詞編曲による「おぼろ月」。この曲は、別れた彼女への愛しい思いを歌う。契りまで交わしていたのに去って行った女性を恨む歌詞である。

 盛和子さんの歌う「母の志情(シナサキ)」も同じ旋律である。それだけこの曲のメロディーが愛されているということなのだろう。
 終わり              文責・沢村昭洋


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変容する琉球民謡、番外編。大田名節

 伊平屋島の大田名節
 八重山の「大田節」について調べていると、伊平屋島にある「大田名節」という曲が、少し似ていることに気付いた。曲名も一字違いである。ただし、どちらかが原歌でどちらかが替歌というほどではない。曲の入り方は似ている。後半は、「大田節」よりも高音を使っているが、曲調はなんとなく似ている。八重山と伊平屋島では、遠く離れているから、似ているとすれば偶然の一致だろうか。
 
 歌詞を見ると、八重山の「大田節」とはまるっきり違う。伊平屋島の「大田名節」は、「シマ褒め」「村褒め」の歌詞である。
 インターネットの「美ら島物語」サイトの「恋し しまうたの風」で、現地で住民の方に実際にこの曲について伺ったことが書かれていたので、紹介する。
 <「大田名節」は、“伊平屋島で最初に人が住んだ”と言われる田名集落に伝わる古い歌で、作詞作曲者、できた年代はわかりません。
 島の方は、「600~1,000年くらい前の歌ではないかなぁ」とおっしゃいます。「田名の人たちにとって、『大田名節』が古い歌であるということが誇りなのですよ」と仰るのは今回コーディネーターとしてお世話になった嘉手納知子さん。>



    

 「大田名節」歌詞と大意
1、だんじゅとよまりる 大田名の島や
  後岳やくさて め森前なち
2、田名屋のんどぬち 黄金燈籠さぎて
  あまぬ明がりば みるくゆがふ
3、念頭平松ぬ 枝持ちぬ美さ
  田名ぬ乙女の 身持ち美さ
 (大意)
1、広く知られている大田名の島は
  後岳を後ろにして め森を前にしている
2、田名の祝女殿内にある黄金燈籠をさげて
  それに火が灯され明るくなれば 弥勒果報だ
3、念頭平松は枝ぶりが美しい
  田名の乙女は身持ちが美しい
 (「レファレンス協同データーベース」から)

 『琉歌大觀 増補』(島袋盛敏、沖縄タイムス社、1978年)では、「大田名節」について次の記載がある。
 <大田名節(おほだなぶし)八首を掲載。語意・歌意・解説を収録。大田名節について「大田名節八首の中、六首までは田名村のめやらべたちの面影を伝えると共に、田名の地勢や風物をもあわせて歌い、ひいては伊平屋島全体の古代を思わせる歌曲である。」と説明している。>

 伊平屋島では、とても名高い曲で、「大田名節大会」が開かれている。YouTubeでアップされた大会の模様を見ると、子どもたちも演奏しており、伊平屋島ではこの曲がとても大切にされ、長く歌い継がれてきたことがわかる。

     
    RBCラジオ「民謡で今日拝なびら」2017年4月13日放送分
    4曲目に「大田節」が入っているので再録する   
 
 八重山の「大田節」と伊平屋島の「大田名節」の動画を比べて見てほしい。私的には、両者が似ているのは偶然の一致とは思えない。どちらが原歌かわからないし、どのようなルートで伝わったかもわからないが、両曲は共通の土台から生まれた民謡ではないかと思えて仕方ない。

 琉球弧の島々は、古い時代から「海の道」を通じて人と物、文化の交流が行われてきた。だから、離島から離島に芸能が伝わることもありえないことではない。民謡でも、奄美諸島の早弾き曲の「六調」が沖縄本島は飛び越して八重山に伝わっているのもその一例である。
 「大田名節」が「大田節」と似ているということは、それが「ダイサナジャー」とも似ていることになる。私の感想として、この3曲の土台には、互いに相通じるものが感じられる。

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72年目の沖縄「慰霊の日」。平和の島唄を歌う

 72年目の沖縄「慰霊の日」はやっぱり暑い日差しが照り付けた。22日に梅雨明けしたから。
 沖縄は一日中、鎮魂と平和への祈りに包まれた。ラジオ・テレビでも、沖縄戦にかんするメッセージや慰霊の日の特集が流された。平和祈念公園の式典にあわせて、12時に黙祷した。

 毎日の三線の練習で今日は、戦世と平和の島唄を何曲か歌った。
 「屋嘉節」「命口説(ぬちくどぅち)」「命どぅ宝」「二見情話」「艦砲ぬ喰えぬくさ―」etc。
 自分の演奏動画はないので、YouTubeから動画をアップしておきたい。

 最初は知名定男さんの歌う「屋嘉節」。復帰コンサートの映像である。最初幕が開かないまま始まる。

     

 次に山内昌徳さんの歌う「命口説」。この曲は、沖縄戦の全体像が歌われている。


    


 最後に私はまだ歌っていないが「PW無情」。戦争と戦争捕虜(PW)の哀れを歌っている。上間綾乃さんの歌。今日23日、沖縄テレビの特集番組でナマ歌を聞いた。


    
 
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変容する琉球民謡、番外編。ダイサナジャー

 ダイサナジャー
 「大田節」とそっくりな歌が「ダイサナジャー」である。「さなじ」は褌のことなので「だらしなくふんどしが垂れている人」というような意味である。そんなおじさんをからかう滑稽歌である。女性と男性が掛け合いで歌う。

1、(女)東方(アガリカタ)ウスメ 藁サナジかきて 目くす垂(タ)いかんて 
  芋練(ウムニイ)また前(メエ)なち
 イラヨ ダイサナジャー小(グヮ) ヘイヨ シューラーヨ
2、(女)くゎ缶々(クヮンクヮン)持っち 何処(マカ)んかい行(イ)めが
 (男)またん鯨(クジラ)ぐぬ 寄(ユ)てがまた居(ウ)ゆら (以下囃子は省略)
3、(女)あんまさみウスメ アチビうさがゆみ
 (男)あねるアチビ臭さぬ 誰(タル)がまた食(クワ)ゆが
4、(男)汝達(イッタア)がや我んね アマン小(グヮー)どやるい 
 ちんけーらし げーらし 尻(チビ)たっちゅう しみて
5、(女)尻肉(チビジシ)やぬぎて 何処かい参(メ)がウスメ
 (男)家賃小や取(ト)たい あぬひゃーまた前(メエ)かい
6、(男)ありが前に一夜(チュユル) くりが前に一夜 
 島戻る間(イェダ)や 白毛(シラギ)我ねかみて
7、(男)汝達(イッタ)トートー前小と 我達トートー前小と
 門中(イチムン)がやゆら あんすかまで似ちょる
8、(男)汝達がや我んね 餓鬼(ガチ)んでる云(イ)ゅしが 
 カラス小とかてて 芋ど我んね食らど
9、(女)うんじゅん頭(チブル)ん禿(ハ)ぎて あん光(ヒカ)い美(チュ)らさ 闇ぬ夜になてん
 心配(シワ)やまたねさみ
            
     ROKラジオ番組「ホーメルで今日は」から「ダイサナジャー」
 歌意
1、東の方のおじいさん 藁の褌をして 目脂(メヤニ)も垂れて 芋練り前にして
2、缶々を持ってどこへ行くのかい
 またも鯨の子 打ち揚げられているかも
3、具合が悪いのですか おじいさん 柔らかい飯を 上がりますか
 あんな柔らかい飯は臭くて 誰が食うか 
4、お前達が 私はヤドカリなのか 着物をひっくり返し返しして 
 尻を尖らさせて
5、尻の肉は脱臼して どちらへ行かれますか おじいさん
 家賃も貰ったし 彼女のまた前に
6、あれのところで一晩 これのところで一晩 故郷へ帰る頃には 
 白髪をいただいて
7、お前達の仏壇と 我々の仏壇とは 親戚なのか区別がつかないほど似ている 
8、お前達が 私は飢えた餓鬼だと言うが キビナゴ漬けと一緒に
 芋を私は食べたんだ
9、貴方の頭が禿て 立派に光って見事だ 闇夜になっても心配はいらないよ
  歌意は、滝原康盛著『琉球民謡解説集』をもとに、少し手を加えた。

 この歌詞の中で、「またクジラが打ち揚げられているかも」という不思議なカ所がある。かつて名護湾には、毎年「ピトゥ」(主にゴンドウクジラ属)の大群が押し寄せて、「ピトゥ漁」が盛んで、ピトゥを食べる習慣があった。
 歌詞の中で、缶を持って拾うのはクジラそのものではなく、クジラの糞だという説もある。
 マッコウクジラの腸の分泌物は、「龍涎香(りゅうんこう)」と呼ばれ、古来から貴重な香水の原料として利用されたという。この歌詞には、そんな沖縄ならではの背景があるようだ。
 女性とおじさんの掛け合いが面白い。
 
 5番の歌詞が分かりにくい。「尻肉やぬぎて」を滝原氏は「尻の肉は脱臼して」を訳している。肉が「脱臼して」とはどういうことか。島唄の解説をアップしているサイト「たる―の島唄まじめな研究」では「尻の肉は脱げて」と訳している。
 この後の部分で「何処へ行かれます」とおじいさんに問いかけると、「家賃も貰ったし 彼女のまた前に」と応えている。おじいさんの風体を表しているとすれば、ふんどし姿のおじいさんなので、ふんどしからお尻の肉を出して歩いている様子を歌っているではないだろうか。そんな理解をしてみた。
 この曲は、エイサーでもよく使われる。YouTubeを見ると、これで踊っている動画がいくつも出てくる。道化役の「チョンダラー」の踊りがこの曲にマッチしている。

     
 
 原歌の「大田節」とは、歌詞はまったく別物である。ただ、「大田節」が片禿げ頭の男を面白おかしく歌っているのに対して、「ダイサナジャー」はだらしないふんどし姿のオヤジをからかった曲なので、両者とも滑稽歌と見れば、少し共通項があるかのではないか。もしかしたら、「大田節」の曲調が滑稽歌に適していると思って、「ダイサナジャー」の歌詞が生れたのかもしれない。これは私の勝手な想像である。

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変容する琉球民謡、番外編。大田節

 変容する琉球民謡―八重山から本島へ、番外編

大田節とダイサナジャー  
 先日、ラジオを聴いていたら、八重山古典民謡の「大田(ウフダ)節」が流れてきた。「これはよく聞く曲だ」とすぐ思い当たる曲が頭に浮かんだ。「ダイサナジャー」である。解説の上原直彦氏は「この曲は、エイサーでもよく使われる」と話していた。八重山民謡をサークルで学んでいるが、この曲はまだやっていない。たぶん将来もやらないままですみそうだ。

 工工四(楽譜)を見て弾いてみた。なるほど「ダイサナジャー」によく似ている。なにより、囃子がそっくりだ。「ダイサナジャー」よりもこちらの方が素朴である。「ダイサナジャー」は、もっと手を加えて、曲も少し長くなっている。なるほど、エイサーで使えるようだ。
 まだこの曲で踊るエイサーは見たことがない。YouTubeで検索するといくつか沖縄県内各地の青年会のエイサーがアップされている。道化役のチョンダラーが、赤い褌を「アカサナジャー」を長く垂らして踊っている。
 といっても、八重山の元歌と見られる「大田節」はまったく、「ダイサナジャー」の歌詞とは内容が異なる。
 まず八重山の大田節から見てみたい。
       
     RBCラジオ「民謡で今日拝なびら」2017年4月13日放送、
     4曲目に大工哲弘さんの歌で流された。
 大田(ウフダ)節
1、大田屋(ウフダヤー)ぬ片禿(カタカムレー)ま ヤゥウネ 大田屋ぬ
 炭焼(スィンヤ)くぃかむりゃーヤゥウネ
 イラヤゥマーヌハイヤーシューラヤゥ
2、岳はずぃ道ば通いだす 網張(アンパアル)道ば通いだす(囃子省略)
3、誰(タル)がゆやんどぅ通いだる 何(ジリ)がつぃにゃんどぅ通いだる
4、崎枝(サキダ)くやーまぬゆやんどぅ 女童(ミヤラビ)ぬつぃにゃんどぅ
5、網張湊(アンパルミジュ)や潮(スー)や満(ン)ちゃ 
 湊(ミナト)まや潮や入りゃ
6、なゆばしどぅ渡(バダ)り行く 如何(イキャ)ばしどぅ越(ク)行く
7、やいとぅかいとぅ渡り行き やっとぅかっとぅ越や行く
8、くやーま家(ヤー)に入(ペー)り行き 女童家に移り行き
9、たんでぃとーどぅくやーま母(アブ) がーらとーどぅくやーま父(ビゲ)
10、くやーまにや 我(パヌ)ん呉(ヒー)り 女童や此(クリ)ん呉り
11、あねーりぅ片禿ぬ 彼(カ)ぬしゅくぬ 炭焼きぅ禿ぬ 
 此ぬしゅくぬ ならぬならぬ 片禿ま
12、仮屋ぬ姉(アンマ)ん なりどぅ見だ 3年ぬ姉ん なりどぅ見だ
13、太陽(ティダ)傘ん 差しどぅ見だ 裏付(ウラチゥ)きぅ
 足駄(アシゥザ)ん 踏みどぅ見だ
14、泡盛酒(アワムリゥザキ)ん 持ち来(ケ)ん 酒ぬ花ん 持ち来ん
15、あぬーりぅ泡盛酒 何しゅが 酒ぬ花や 如何(イキャ)しゅが
 何とぅしゃーんてん ならぬす ならぬ戻り 片禿ま

歌意
1、大田屋の片禿げ頭の男が 大田屋の炭焼き業の禿げ頭の男が
2、タキハジゥ道を通っていた訳は アンパアル道を通っていた理由は
3、誰を訪ねるために通っていたのか どの人のために通っていたのか
4、崎枝村のクヤーマに会うために 娘を訪ねるために通っていたのだ
5、アンパルの水路は潮が満ちていたので 小さな入り江は潮が満ちていたので
6、どうやって渡って行くのか いかにして越えて行くのか
7、辛うじて渡って行き やっとのことで越えて行った
8、クヤーマの家に入って行き 娘の家に移って行き
9、どうかお願いクヤーマの母御よ 心からお願いクヤーマの父御よ
10、クヤーマニを私にください 娘さんをこの私にください
11、あんな片禿げ頭ごときのおとこが炭焼きの禿げ頭ごときの奴が 
  駄目だ駄目だ 片禿げ頭の奴め
12、仮屋(在番の宿舎)の愛妾にもなったんだよ 3年間の愛妾務めもしたのだよ
13、日傘もさしたことがあるのだよ 裏付けの下駄も履いたことがあるのだよ
14、泡盛酒も持って来ました 酒の花も持って来ました
15、あんな泡盛酒にどれほどの価値があるのだろうか 酒の花に如何ほどの値打ちがあるというのだ 
  何としても無駄なことだよ  駄目だ帰れ片禿げ頭の奴め

 石垣島の四箇村(石垣市の登野城、大川、石垣、新川)に住む片禿げ頭の男が、崎枝村のクヤーマ女に恋して、両親を訪ねて「娘さんをください」と懇願するがきっぱりと断られる物語の歌である。
 両親は、「片禿げ頭の、炭焼きごとき男に駄目だ」ときっぱりと拒否する。興味深いのは、その理由としてあげている娘についての話である。娘は、首里王府から派遣されている在番の役人の愛妾を3年間務めた、百姓には縁の遠い「日傘も差した、裏付き下駄も履いた」と自慢する。

 在番役人や八重山蔵元(首里王府の出先官庁)から遠隔地や離島に派遣される役人は、単身赴任が原則だったので、地元の美人を選んで賄い女(現地妻)とすることが慣例化されていた。この歌の在番の愛妾も同じような立場だったのだろう。
 賄い女は、赴任中は夫婦同然に子どもも生み、家族として暮らしながら、役人は任期が終わると妻子を残して帰り、戻ることはない。役人に目をつけられると嫌でも無理矢理、賄い女にされる。そんな辛い悲しい運命にある。

 八重山民謡には、権威をかさにきた役人の横暴や賄い女の哀れを歌った曲が数々ある。一方で、役人が帰る時、土地をもらえるなど「恩典」もあったという。でもそれは賄い女という存在の本質的なものではないと思う。両親は自慢するが、愛妾だったクヤーマが幸せに暮らしているとはとても思えない。
 この歌は片禿げ頭の男をからかう一種の滑稽歌のようだ。
 クヤーマの両親は、片禿げ頭の男が気に入らない。だから役人の愛妾だったことを自慢するというよりも、「役人の相手に選ばれるほどの娘だから、お前にはやれない」と断るための理由にしたのではないか。そんな感じがする。

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アルテで「傘がない」を歌う

  毎月恒例の「アルテ・ミュージックファクトリー」が10日夜、開かれた。今月のテーマは「傘」。梅雨なのでこのテーマだけれど、沖縄は雨不足で傘をさす機会があまりない。
 今回からステージが模様替えされた。シニアピアノ音楽会が定例化したことで、毎回ピアノを動かさなくてよいような配置となった。
 秀子さんは、剛さんのギター伴奏で「雨降りお月さん」を歌った。いつもながらの美声だった。
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   越智さんのトランペット演奏は「シェルブールの雨傘」ほか。ツレがピアノ伴奏をした。
 ひろのさんは、ピアノ独奏で「6月の雨」を弾いた。「究極」というグループが歌った沖縄フォークの名曲。
 
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  絹江さんは、歌とハーモニカで「月桃」を演奏した。月桃の咲く6月は沖縄戦の悲惨な記憶が蘇る季節。この曲を作った海勢頭豊さんと親しかったので、「6月はこの曲を演奏すると決めています」とのこと。
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  比嘉さんは、ギター弾き語りで「申し訳ないが気分がいい」を歌った。やはり大好きな岡林信康の曲だった。


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   宮国さんはギター弾き語りで長渕剛の「命」を演奏。カオルさんは、ギター独奏で「ビート・イット」を演奏した。ギター演奏のいろんなテクニックを披露した。

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 私は、井上陽水の「傘がない」をツレのピアノ伴奏で歌った。この曲がリリースされたのは1972年7月、沖縄の日本復帰の直後だ。当時はこの曲を社会問題に向き合わない「自己中心主義」という人もいたそうだ。陽水は「そんな風に考えて作ったのではない」といったという。筑紫哲也は「ニュース23」で「21世紀に残したい曲」として「傘がない」を選んだという。彼は「天下国家をしかめつらをしていう風潮に対する足払いだ」と批評したと聞く。いろんな解釈がある。
   

 陽水は「最後のニュース」の曲に見るように政治、社会問題への関心は強い。決して「自己中心」ではない。彼女に逢いたいという思いを印象強く描くために、このような意表を突く歌の構成にしたのだと思う。動画をアップした。
 

 久美子さんは、「danching buddha」を可愛いパフォーマンスで歌った。
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 アルテギターサークルは「悲しき雨音」など演奏。さらにギター伴奏で剛さんが「雨 la pioggla」を歌った。こちらも傘をさしてのパフォーマンスが楽しい。
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   ミーシャさんはギター独奏で「秋桜」を演奏した。

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 ツレは、ピアノ独奏で「ワルツレント」を演奏した。前にも演奏したが納得がいかないので再挑戦だった。

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 ピアノ弾き語りで「最後の雨」を歌った。タカさんがエレキギターでサポートした。聴きごたえがあったのではないか。

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 新田さんは、「波乗りジョニー」を流してこれにあわせてベースを弾いた。楽しそう。
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 chikaさんは、タカさんのエレキ伴奏で「たどり着いたらいつも雨降り」を歌った。 
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 伊波さんは、ギター弾き語りでオリジナル曲「里帰り」を歌い、仲村さんがハーモニカでコラボした。お二人は、和田さんのギター伴奏で歌も披露した。

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 東明さんは、剛さんとともにギターで「マイボニー」など演奏した。

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 清美さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で、美空ひばりの「終わりなき旅」を歌った。初めて聞く歌だが、あえてあまり知られていないひばりの名曲を歌っているという。「挑戦することがボケ防止になるから」という。
 来月のテーマは「虹」。民謡では虹の出る歌はほとんどない。どうしようか思案中。



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梅雨はどこへ行った…暑いのでビアガーデンへ

 今年は梅雨に雨が降らない。梅雨入りの初めにちょっと降っただけ。曇っていても雨は降らない日が多かった。今週も雨予報はない。そればかりか、梅雨が明けたような青空になった。
 もう関東まで梅雨入りしたようなので、沖縄はいつ梅雨明けしてもおかしくない。っていうか、気分はもう梅雨明けした感じである。
 でも、それは実はヤバイことである。というのも、今年は雨が少なく、沖縄のダム貯水率は6割しかない。例年だと梅雨の時期にたくさん雨をため、貯水率は8割9割以上にはなる。なのに今年は降らない。このままだと、水不足が心配される。
 あとは台風シーズンに雨を期待するしかなくなる。でもこれは、沖縄直撃だと、被害が心配される。雨だけ降らせる台風を、と考えるが、そんな都合良くいくのかどうか、怪しいものだ。昨年は、ほとんど台風の接近がなかった。今年は、デイゴがよく咲いたので、台風の襲来が心配される。雨は欲しいので、悩ましい。

 それはさておき、暑くて青空が広がる季節は、ビアガーデンのシーズンである。
 昨年までよく行った、首里の旧グランドキャッスルは、昨年から経営が替わり、ダブルツリーヒルトン那覇になったせいか、今年はいまだにビアドーム情報ははない。やむなく、パレット久茂地屋上のビアガーデンに行った。オリオンビール直営らしい。こちらは初めてである。
    
         パレット久茂地ビア_n

 暑さを心配したが、日影になっているし、屋根もある。毎夜ライブもやっている。
 行ってみると、なんか顔を見た覚えのある人がいる。「あれっ、Tさんじゃないですか」と声をかけると、やっぱりアルテ・ミュージック・ファクトリーの常連のTさんだった。パレット久茂地ビアガーデン
 
   やっぱり沖縄は狭い。お一人で立ち寄ったとのことなので、いっしょにビールを楽しんだ。
 80歳を超えても、元気なTさん。元気の秘密は「好奇心を持つこと!」、それに加え「挑戦すること」。それを実践しているからエライ。ピアノやギターで毎回、新しい曲に挑戦している。上手い、下手は通り越して、演奏を楽しんでいる姿はすがすがしい。
 この日のライブは歌三線。大和から沖縄民謡に魅かれて移住し、「沖縄の歌姫」と呼ばれる我如古より子さんに師事した若い女性の唄者が、お馴染みの民謡、島唄ポップスなど演奏した。
 天空には13夜の月が輝いていた。

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首里城は炎上したか、その4

印と詔勅を奉安する場所は


 高瀬氏は、さらに、府庫の火災で大切な鍍金銀印が溶解したというのも事実なのかと疑問視する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<尚泰久は、鍍金銀印が府庫焚焼により鎔壊した、と明皇帝に奉上したが、印は本当に府庫に蔵されていたのだろうか。府庫とは国家が財物・兵器などを収蔵するくらであることは、冒頭に見たところであるが、内乱の前に琉球国の府庫には、印は収められていなかったようなのである。

(朝鮮漂流民の)万年は王の信頼が篤く、「鉄物(かなもの)・緞子(どんす)・香木・銅銭所蔵の庫」の看守人となった。この庫は、出入りする者を衣服を脱がせて検査するほど厳重に管理されており、貴重品を収める府庫というべきものであったろう。しかしこの収蔵品に印はあげられていない。



 一方梁成は、王の居る閣の上層に珍宝を蔵した、と述べている。琉球国にとって何よりの珍宝とは、明より賜わった印や詔勅であろう。冊封使の来琉のたびに、冊封の詔や勅を「宝」として国に留めることを願い出て、従来それが許された証拠として、過去に授かった詔勅を金櫃(かねびつ)ごと持ち出してきて冊封使に示しているのは、陳侃・郭汝霖をはじめとする明代冊封使の示すところである。

首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから 
        首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから
                     
 真栄平房敬は『首里城物語』の中で、中国皇帝からの詔勅は、琉球処分の時まで、首里城の
2階に格護されていた、と記している。…

印は詔勅にも増して貴重なものであり、かけがえのない唯一の品である。琉球国王の権威の象徴であり、根拠でもある。印は詔勅よりもさらに鄭重に国王の身辺において厳重に保管されていたはずである。印が詔勅と共に正殿に奉置されていた可能性は大きいが、正殿から距離を置く府庫などに収納されていたとは考えられない。

その府庫の焚焼により印が鎔壊した、と称する尚泰久の上奏は明らかに欺瞞である。さきに筆者が、府庫の焚焼自体も疑問であるとした所以である。

乱の際、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、明に対する証明として、紛失や破損ではなく絶対的な消滅である鎔壊を申し立てねばならず、そのために府庫が焚焼したと称するしかなかったのである。国王として近い将来、冊封使を迎える身として、正殿が焚焼したという明白な欺瞞は許されなかったからである。>

 

以上で、高瀬氏の論考の紹介を終わる。
 明皇帝から賜わった最重要ともいえる印を、府庫に保管していたというのも、奇妙なことである。詔勅はじめ珍宝は正殿の上層に保管していたのなら、なによりの宝である印は正殿に保管されていたと見るのが常識だろう。確かに、印は府庫に保管していて府庫が焼けて溶解したというのは、なんだか怪しい話である。



 この府庫の火災で印が溶解したというのが創作だとすれば、尚泰久の「志魯・布里の乱」で2人とも死亡したので推挙されたという尚泰久の上奏の内容自体が、史実であるのかどうか疑わしくなってくるのはもっともである。

ただし、まだ論理的な推論であって、府庫の火災がなかったことが立証されたわけではない。さらに「志魯・布里の乱」はなかったという根拠にもなりえない。

これまで紹介してきた第一尚氏最後の王や尚泰久にまつわるこれらの問題は、とても興味深い視点による歴史の再検討であると思う。琉球史のうえでこれまで定説のように思われてきたことも、本当に史実であるのかどうか、史料を吟味し再検討することは、とても重要な課題であることは確かである。今後の研究動向について注視していきたい。

終わり


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首里城は炎上したか、その3

三層の正殿は常に建っていた

高瀬恭子氏は、首里城炎上はなかったことを、別の角度から論証する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<現に蔡温自身が撰した『蔡温本世譜』には、尚泰久が広厳・普門・天龍三寺を建てたこと、多くの巨鐘を鋳造させたこと、末吉山熊野権現社を創建したことは記されるが、王城を再建したとの記述は全くない。「満城火起」って首里城が全焼したとすれば、即位した尚泰久がまず着手せねばならなかったのは、城の再建だったはずである。そして王城再建についての記述がないのは『球陽』も同じであり、琉球国王府の編集になる地誌『琉球国由来記』(1713年成立)や、『琉球国旧記』(1731年成立)も同様である。
 

           正殿

                                                     首里城正殿
 

しかも同時代の記録に、この乱の前と後との王城についての記載があるが、城の様子は前と後とで全く変わらないようなのである。…

景泰7(尚泰久王3・1456)年2月に久米島に漂着した梁成と高石寿は、1ヶ月後に本島に送られ、その1ヶ月後からほぼ4年余を王城で暮らし、天順5(尚徳王元・1461)年5月末には朝鮮に帰国している。

梁成らが王城で暮らすようになった尚泰久王即位3年の王城はどんな風であったろうか。「王城はおおむね三重で、外城に倉庫や厩がある。中城には侍衛の軍二百余が居る。内城に二、三の層閣があり、おおよそ勤政殿のようである」…

仮に正殿だけでも、再建するとすれば材料の調達からはじまって、建築・内装の完了までには、3年では到底不可能であろう。しかも「満城」とあれば、その建造物は少なくない数である。

その上、この記録した梁成らは…3年前に大規模な火災があったとしたら、その痕跡を見逃すことはなく、また火災についての伝聞も記したであろうし、何よりも新装成った新正殿であったとすれば、それに言及しないはずはない。正殿は炎上しなかったものと思われる。>

確かに、首里城を再建したとすれば、一大事業であるから、寺院の創建以上にまず記録する事績であろう。



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F&Y、ふーみさんbirthdayライブ

 フォークユニット「F&Y」のふーみさんのbirthdayライブが那覇市真嘉比の「ななまかい」であった。
 
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    懐かしいフォークナンバーから、洋楽、昭和歌謡まで、いつものように多彩な曲目を演奏。盛り上がりは最高だった。

   ライブ前半の最後に、ななまかいライブの常連さん、Tさんが誕生日なので、サプライズのケーキが贈られた。
    続いてふーみさんのお祝いへ。ひときわ大きいケーキとたくさんのプレゼントが贈られた。
 
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  なかでも、先般、お孫さんが二人生まれてジージーとなったばかりなので、パンパースが登場すると、ふーみさんもビックリ、ビックリだった。

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  奥さんのユッコさんの粋な計らいで、家族全員が二人のお孫さんを抱いて勢揃い。ジージーふーみさんのbirthdayを祝った。

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  ライブで家族もみんな揃ってお祝いするなんて、初めて。ふーみさんも本当に幸せそうな笑顔だ。
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 見ているこちらもhappyな気分になった。素晴らしいbirthdayライブだった。


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