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「志魯・布里の乱」がなかった?その2

『中山世鑑』には記述がない

高瀬恭子氏は、汪楫の『中山沿革志』は明宮廷の秘録『明実録』を基にまとめたものだという。

では「志魯・布里の乱」に関する『明実録』の記述はどうなっているのだろうか。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介の続きである

 

<琉球国の国事を掌る王弟尚泰久が使を遣わして朝貢した。そして(以下のように)奏した。「長兄の国王金福が薨じ、次兄の布里と姪(甥に同じ)の志魯が争立し、府庫を焚焼し、両人とも傷つきともに死にました。原(もと)賜わった鍍金銀印は鎔壊して無くなって了いました。今、本国の臣民は、国事を権(かり)に行うよう臣(尚泰久)を推しております。鋳して(前のに)換えて、国民を鎮める(印を)賜わらんことを乞います」。所管の役所に命じてこれに支給し、使臣に宴と鈔幣等の物を与えた。>

<『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「掌国事王弟」と称してはいるものの、琉球国内では既に国王であり、この翌々年には冊封されている。王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである。…

第一尚氏の思紹が武寧を滅ぼし、その世子として武寧の死を報告したり、第二尚氏を開いた金丸が、尚徳の子を殺害して後、尚徳の世子を名乗って請封した場合も同様である。また前述したように、『蔡温本世譜』より古い『世鑑』『蔡鐸本世譜』に、志魯も布里もその名すら記していない。>

 

つまり、この「志魯・布里の乱」を初めて記した『蔡温本世譜』の記述は、もとをたどれば、尚泰久の奉文がもとになっているという。

それにしても不思議なのは、たとえ『中山世鑑』(1650年編纂)が尚泰久の即位より200年ほど後世の編纂で、『蔡鐸本世譜』はさらにその後であるとはいえ、まったく記述がないことである。




    第一尚氏系図
 


 『中山世鑑』の記事から第一尚氏の系譜を図示すると「布里も志魯も出てこない」という。原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」註によれば、国王初代は尚巴志で、
4代目尚金福は尚巴志の子、5代目尚泰久はその子となっている。

『中山世譜』になると、初代は思紹となり、尚巴志の子として、尚忠、尚金福、布里、尚泰久と並ぶ。布里は尚泰久の兄とされている。

 

王位を巡って尚金福の世子と王の弟、布里が争い、首里城まで焼け落ち、両人とも亡くなり尚泰久が即位したなら、王府にとって特記される重大な出来事である。蔡温が『中山沿革志』をもとにしたとはいえ、その原資料は尚泰久の奉文である。第一尚氏から第二尚氏に王統が替わったにしても、首里王府の中でなぜ歴史として伝承されていなかったのだろうか。

ただし、羽地朝秀編纂の『中山世鑑』は、第二尚氏で輝かしい事績をあげた尚真王について、なぜかほとんど記載せず無視をするという奇妙な編集をしている。だから、必ずしも全般にわたり網羅されてなくても不思議ではないのかもしれない。


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