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「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」がなかった?,その1

第一尚氏の5代目、尚金福が亡くなった時、その後継を世子と王の弟が争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」は有名である。だが、「第一尚氏最後の王『中和』」の著者、高瀬恭子氏はこの定説に疑問をていしている。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する


 「尚泰久の乱」と呼ぶべきもの?
 <第一尚氏第5代国王の尚金福が、景泰4(
1453)年に死去し、世子の志魯が即位しようとした時、尚金福の弟の布里がそれに異を唱え、両者が兵を交えて王位を争い、城は焼け落ち、志魯も布里も共に死に、残った尚金福のもう一人の弟の尚泰久が王位に即いた、という記事が、蔡温重修の『中山世譜』(以下『蔡温本世譜』と略称)に見られ、琉球史では疑う余地のない史実となっている。しかし、これは本当に史実といえるのだろうか。

世に「志魯・布里の乱」と呼ばれるこの内訌は、当時の同時代史料と後世の編纂史料とを厳密に検討した結果では、「尚泰久の乱」と呼ぶべきものと思われる。>

琉球王府の正史である4つの史書のうち、「志魯・布里の乱」について記すのは『蔡温本世譜』と『球陽』で、『蔡温本世譜』よりも前に編まれた『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、「志魯・布里の乱」についてはもちろん、志魯も布里もその名前すら記されていない。


  
尚泰久王の墓
 
              尚泰久の墓
 では何故『蔡温本世譜』に突然この記事が現れたのであろうか、として高瀬氏は以下のようにのべている。

<蔡温自身がその序文に記すところによると、尚敬王冊封のために1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したという。>

『中山沿革志』を見ると、尚泰久の条の冒頭に次のように記している。

「金福が卒してのち、王の弟の布里は、王の子の志魯と王位を争い、府庫を焼きはらい、双方とも傷ついて、ともに絶命した。賜与された鍍金の銀印もまた溶解してしまった。国の人々は、尚泰久を推挙して、国政を代行させた。



 景泰5年(
1454)泰久はこのことを上奏し、同時に印を鋳造して頒賜されるように願った。所司(注・礼部の鋳印局である)に命じてこれをたまわった。やがてまた、使をつかわして入貢した。その表には『琉球国掌国事王弟尚泰久云々』と自称していた。景帝は命じて、勅と鈔幣(※)とをもってかえらせ王弟にたまわった」(原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」から)

※鈔(紙幣)と幣(儀礼に用いる絹織物)


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