レキオ島唄アッチャー

首里城は炎上したか、その2

府庫の火災も疑わしい

焼けたのは府庫であり、首里城の炎上は、蔡温による脚色である、その府庫の火災も疑わしいという。
  内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<それでは『中山沿革志』のいうように府庫のみであるにせよ火災はあったのだろうか。実はこの「府庫焚焼」も事実かどうかは疑問なのである。「志魯・布里の乱」で述べたように、『中山沿革志』のこの文は『明実録』の景泰52月己亥の条に引用された尚泰久の奏文に依拠している(注は省略)。そしてこの奏文を奉った目的は、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいということである。


奉神門

                              首里城の奉神門
 
 

鍍金銀印、即ち琉球国中山王の印は、明が琉球国を外藩国として承認し、その国王を封じた証であり、国家の基本に関わる重要な品である。しかもこの印は、明皇帝に奉る表奉文をはじめ、明に提出する正式文書には必須のものであった。

尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、その時鍍金銀印を手に入れることができなかったとしたらどうだろうか。洪武161383)年察度の時に与えられ、第一尚氏が察度王統を滅ぼした時にもその王印を入手することで、王位の正統性を明に対して示すことができた王印を、この時入手できなかったとしたら。

おそらくそこで考えられた口実が、府庫焚焼による鎔壊だったのであろう。したがって府庫焚焼自体、極めて疑わしいのだが、その検証は後に廻して、今は蔡温の創作である「満城火起」が絶対に否定されねばならないという点について、更に検証を進めてゆこう。>

 



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首里城は炎上したか、その1

「志魯・布里の乱」で炎上?

景泰4(1453)年、尚金福の死後、王位継承をめぐって世子志魯と布里が争い、双方とも死亡したうえ首里城が炎上した、という琉球史の定説がある。それに疑問を投げかけたのが、内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」である。次のようにのべている。

<首里城が炎上したというのは『蔡温本世譜』の記述が根拠となっている。ここでもう一度その記述を見てみよう。

「景泰4年癸酉の年(1453)尚金福王が薨じて、世子の志魯が位に即こうとした。当時王弟布里の威勢が甚だ盛んであった。そこで『吾は尚巴志王の子である。父と兄の業を継承して位に即くべきである』と言った。志魯は怒って『汝は王弟であって世子ではない。どうして兄王の業を妄りに奪うことができようか』と言った。布里は大いに怒って、兵を発して攻撃した。志魯もまた兵を擁して拒(ふせ)ぎ戦い、両軍入り乱れて殺しあった。満城に火が起こり府庫が焚焼した。布里と志魯は二人共傷つき共に死んだ。朝廷が賜わった鍍金銀印も鎔壊するに至った。国人は議して、王弟尚泰久を推して大位に就かしめた」とあり、原文は次のようである。(省略)

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                               首里城正殿

  蔡温が参照した『中山沿革志』の方はどうだろうか。

「金福が既に死に、其の弟布里と其の子志魯が争って立ち、府庫に焚焼し、両方とも傷つき共に死んだ。賜うところ鍍金銀印も鎔壊した。国人は尚泰久を推して権(かり)に国事をとらせた」(原文省略)。

となっており、焼けたのは府庫のみである。府庫とは諸橋轍次著『大漢和辞典』によれば、「(国家が)文書や貨財器物等を入れるくら」とある。また『漢語大詞典』によれば「国家が財物・兵甲(武器)を貯蔵する場所」とある。

この府庫と特定した焚焼を、蔡温は「満城火起」と変更した。これだけではなく、蔡温は全体として話をドラマチックに仕立てており、この4字も単なる言葉の綾だったのだろうが、これが挿入されたのが正史である『蔡温本世譜』であったため、これ以降の琉球史においては、景泰4(1453)年に首里城が満城炎上したことが史実となってしまったのである。>



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「志魯・布里の乱」がなかった?、その3

存在感を示していた王弟

兄と甥が争いともに倒れたので、王位が転がり込んできた尚泰久は、なぜか尚金福の在位中からとても存在感を示していたという。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する

 

<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰41453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。

また漂流民は、尚金福に対する冊封使が琉球に来た時、「中山王の弟が軍士を率い、旗・太鼓・雨傘(絹傘をさすか)を備えて郊に出迎し、殿内に入って宴慰した」と述べている。

これらの記事は、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿を示している。…

これらの王弟の名は記されていないが、この王弟は尚泰久であったに違いない。明皇帝に奉った奉文に記される王弟布里とは、尚泰久によって創出された人物であろう。>

 

論文は、尚泰久の奏文をもとに記された『明実録』とそれを基にした『中山沿革志』を事実と信じて蔡温が「志魯・布里の乱」を書き加えたものにすぎないとする。

<「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>

 

尚泰久が尚金福の在位していた当時から、すでに「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ」ほどの存在であれば、布里が尚泰久の兄であっても、尚泰久を抜きにして、世子の志魯と争うこともなんかおかしなことだ。しかも、争った二人がともに死去して、傍観していた泰久に王位が転がり込んできたというのも、余りにも出来過ぎた感があることは確かである。実際には、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものだ、という推理はかなれリアリティがありそうだ。

とはいえ、「志魯・布里の乱」といわれるものは存在しなかった、尚泰久の奉文が事実にもとづかない虚構の記述である、という根拠は必ずしも明示されていない。布里が、存在もしない尚泰久が創出した人物に過ぎないということも、根拠は不明である。

布里といえば、その墓が南城市に近くにある。

    布里の墓、「らしいね💛南城市」HP
                    布里の墓(「らしいね♡南城市HPから
「(志魯・布里)
両者とも戦死という説や、布里は生きて城外に逃れたという説もあるが、いずれにしろ尚布里は王座につかず、58歳で亡くなり、第一尚氏発祥の地に近いこの場所に葬られたと伝えられている。」(南城市観光ポータルサイト「らしいね♡南城市HP

この墓の存在はどう考えればよいのだろうか。

「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿」は本当に尚泰久であったのだろうか。もしかすると、それは布里だった可能性はないだろうか。「堂々たる王弟の姿」が布里だとすれば、世子の志魯と争ったこともありうる話となる。

この「志魯・布里の乱はなかった」という論考は、どうもこの後「首里城は炎上したか」の項で見る問題とかかわりがあるようだ。尚泰久の上奉文が、他にも王位を継承するために、創作されたとみられる重大な問題があるからだ。次に「首里城は炎上したか」の論考を見ておきたい。



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シニア世代のピアノ音楽会vol5開く

  アルテ・シニア世代のピアノ音楽会vol5が19日夜、首里のアルテウォーバAホールで開かれた。
  今回で5回目となるこの音楽会。初めての人を含めて17人がエントリーした。 
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 それぞれピアノが大好きな人たちばかり。トップのSさんの「聖者の行進」をはじめ、「世界は二人のために」「じんじん」「芭蕉布」「母への手紙」「星に願いを」「トロイメライ」「モーツアルトのソナタ」「マリアエレーナ」、韓国ドラマから「夏の香り」「冬のソナタ」など多彩な曲目が演奏された。
 94歳のmさんは今回も「花の歌」など2曲をしっかり演奏された。

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   「芭蕉布」を演奏するKさん。どなたの演奏からも、ピアノを愛していることが伝わる。
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  このホールのピアノが先日、リニューアルされたので、みなさんのピアノの音色がとても美しかった。

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 初めてといえば、初参加のNさんが、ピアノ伴奏に合わせて尺八をふいた。アルテで尺八を聞いたのは初めて。よい音色だった。

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 ツレは、「クーラウのソナチネ20-1全楽章」を演奏した。自分でも満足のいく演奏ができたようで、なによりだった。
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    アルテ・ファクトリーでは馴染みのuさんも、この音楽会は初めて。即興で演奏した。
  
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 演奏者の紹介は、全員ではなく一部だけになってしまった。 
   会場は満席。みなさん、ピアノが大好きで、この音楽会のように、演奏レベルに関係なく、演奏して楽しめる場を求めていることを改めて感じさせる音楽会だった。
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「志魯・布里の乱」がなかった?その2

『中山世鑑』には記述がない

高瀬恭子氏は、汪楫の『中山沿革志』は明宮廷の秘録『明実録』を基にまとめたものだという。

では「志魯・布里の乱」に関する『明実録』の記述はどうなっているのだろうか。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介の続きである

 

<琉球国の国事を掌る王弟尚泰久が使を遣わして朝貢した。そして(以下のように)奏した。「長兄の国王金福が薨じ、次兄の布里と姪(甥に同じ)の志魯が争立し、府庫を焚焼し、両人とも傷つきともに死にました。原(もと)賜わった鍍金銀印は鎔壊して無くなって了いました。今、本国の臣民は、国事を権(かり)に行うよう臣(尚泰久)を推しております。鋳して(前のに)換えて、国民を鎮める(印を)賜わらんことを乞います」。所管の役所に命じてこれに支給し、使臣に宴と鈔幣等の物を与えた。>

<『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「掌国事王弟」と称してはいるものの、琉球国内では既に国王であり、この翌々年には冊封されている。王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである。…

第一尚氏の思紹が武寧を滅ぼし、その世子として武寧の死を報告したり、第二尚氏を開いた金丸が、尚徳の子を殺害して後、尚徳の世子を名乗って請封した場合も同様である。また前述したように、『蔡温本世譜』より古い『世鑑』『蔡鐸本世譜』に、志魯も布里もその名すら記していない。>

 

つまり、この「志魯・布里の乱」を初めて記した『蔡温本世譜』の記述は、もとをたどれば、尚泰久の奉文がもとになっているという。

それにしても不思議なのは、たとえ『中山世鑑』(1650年編纂)が尚泰久の即位より200年ほど後世の編纂で、『蔡鐸本世譜』はさらにその後であるとはいえ、まったく記述がないことである。




    第一尚氏系図
 


 『中山世鑑』の記事から第一尚氏の系譜を図示すると「布里も志魯も出てこない」という。原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」註によれば、国王初代は尚巴志で、
4代目尚金福は尚巴志の子、5代目尚泰久はその子となっている。

『中山世譜』になると、初代は思紹となり、尚巴志の子として、尚忠、尚金福、布里、尚泰久と並ぶ。布里は尚泰久の兄とされている。

 

王位を巡って尚金福の世子と王の弟、布里が争い、首里城まで焼け落ち、両人とも亡くなり尚泰久が即位したなら、王府にとって特記される重大な出来事である。蔡温が『中山沿革志』をもとにしたとはいえ、その原資料は尚泰久の奉文である。第一尚氏から第二尚氏に王統が替わったにしても、首里王府の中でなぜ歴史として伝承されていなかったのだろうか。

ただし、羽地朝秀編纂の『中山世鑑』は、第二尚氏で輝かしい事績をあげた尚真王について、なぜかほとんど記載せず無視をするという奇妙な編集をしている。だから、必ずしも全般にわたり網羅されてなくても不思議ではないのかもしれない。


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母の日コンサートを楽しむ

 母の日だった14日夜、沖縄市のミュージックタウン音市場で「母の日コンサート」があった。広い会場は満席となった。

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーがお馴染みのGSナンバーからオリジナル曲まで12曲を演奏。音響がよいのでいつも以上の迫力だっった。
 フォークグループ「かぐやひも」は、かぐや姫の曲はじめ、ウチナーンチュが大和に行った時の戸惑いをユーモラスに歌ったオリジナル曲を歌い、笑わせた。
 オールディーズバンド「reverse」は4人のボーカルが代わる代わる洋楽から日本のポップスまで懐かしい曲を歌った。若い男性がプレスリーの「監獄ロック」を完璧に歌うのには驚いた。

 音市場ならではのライブで大いに盛り上がり、楽しませてもらった。

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アルテで「白浜節」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が13日夜、開かれた。今月のテーマは「翼」。翼だけでなく鳥をテーマに歌う方が多かった。
 トップのカーペンターズは、八重山民謡の「まるまぼんさん節」ほか。秀子さんは、夫さんの伴奏によるソプラノ独唱で、「さくら横丁」を歌った。

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  比嘉さんは、ギター弾き語りで「見捨てられたサラブレッド」を 歌った。大好きな岡林信康の曲。彼の沖縄ライブが7月にあるので楽しみにしているそうだ。

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  越智さんはトランペットで「イムジン河」を演奏。ツレがピアノ伴奏をした。
 タカさんは、ギター弾き語りで「翼の折れたエンジェル」を歌った。カオルさんは、珍しくギターソロ演奏で「翼」を披露した。楽譜はなくて、YouTubeからの耳コピーだけで演奏したそうだ。さすがである。


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 伊佐さんはギター弾き語りで「僕はないちっち」、仲村さんはギター弾き語りで「くちなしの花」を歌った。


  ツレは、ピアノ弾き語りで「廃墟の鳩」を歌った。ピアノがリニューアルされ、美しい音色が蘇ったので歌も映えたのではないか。
 
 私は「白浜節」を歌った。沖縄芝居「浜に咲く花」の挿入歌。糸満の浜に捨てられた娘が漁師に拾われ、育てられる。兄と思いあう中になるが兄弟なので結ばれない。そんなままらない心を切なく歌う曲。でも娘は実の兄妹ではないことがわかり、最後は結ばれハッピーエンドとなる。
 なんとか歌い終えた。でも後から「あなたの声は情け歌より、『上り口説』のようなテンポのある歌が向いてますよ」とアドバイスしてくれる方がいた。次は情け歌は止めよう。


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   休憩時間に、南亭こったいさんが落語を披露した。
 第2部では、アルテギターサークルが「コンドルは飛んでいく」など2曲演奏。東浜レディースギターアンサンブルが「シバの女王」など2曲を演奏した。古波津さんが教え始めたサークルで、人前の演奏は今回がデビューだった。


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   ツレはピアノ独奏でく「クーラウ ソナチネ20-1全楽章」を演奏した。長くてかなれ難しい曲だけど、テンポよく感情がのった演奏だったのではないだろうか。ピアノの響きもよく、幸い、評判は上々だった。


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  和田さんは、ギター独奏でオリジナル曲「翼」を演奏した。永山さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「やるかやらぬか」を歌った。
 東明さんは、古波津さんとのギター演奏で「イエスタデーワンスモア」など披露した。


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 吉本さんは、久しぶりの登場。トークで笑わせながら加川良の「教訓Ⅰ」をギター弾き語りで歌った。


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  清美さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で、美空ひばりの「一本の鉛筆」を歌った。平和への思いのこもった歌だった。

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   剛さんは、ギター弾き語りで「忘れな草」を歌った。依然のような伸びやかなテノールを聞かせてくれた。


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 演奏者が多くて終わってみれば11時。にぎわいのあるファクトリーだった。


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「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」がなかった?,その1

第一尚氏の5代目、尚金福が亡くなった時、その後継を世子と王の弟が争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」は有名である。だが、「第一尚氏最後の王『中和』」の著者、高瀬恭子氏はこの定説に疑問をていしている。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する


 「尚泰久の乱」と呼ぶべきもの?
 <第一尚氏第5代国王の尚金福が、景泰4(
1453)年に死去し、世子の志魯が即位しようとした時、尚金福の弟の布里がそれに異を唱え、両者が兵を交えて王位を争い、城は焼け落ち、志魯も布里も共に死に、残った尚金福のもう一人の弟の尚泰久が王位に即いた、という記事が、蔡温重修の『中山世譜』(以下『蔡温本世譜』と略称)に見られ、琉球史では疑う余地のない史実となっている。しかし、これは本当に史実といえるのだろうか。

世に「志魯・布里の乱」と呼ばれるこの内訌は、当時の同時代史料と後世の編纂史料とを厳密に検討した結果では、「尚泰久の乱」と呼ぶべきものと思われる。>

琉球王府の正史である4つの史書のうち、「志魯・布里の乱」について記すのは『蔡温本世譜』と『球陽』で、『蔡温本世譜』よりも前に編まれた『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、「志魯・布里の乱」についてはもちろん、志魯も布里もその名前すら記されていない。


  
尚泰久王の墓
 
              尚泰久の墓
 では何故『蔡温本世譜』に突然この記事が現れたのであろうか、として高瀬氏は以下のようにのべている。

<蔡温自身がその序文に記すところによると、尚敬王冊封のために1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したという。>

『中山沿革志』を見ると、尚泰久の条の冒頭に次のように記している。

「金福が卒してのち、王の弟の布里は、王の子の志魯と王位を争い、府庫を焼きはらい、双方とも傷ついて、ともに絶命した。賜与された鍍金の銀印もまた溶解してしまった。国の人々は、尚泰久を推挙して、国政を代行させた。



 景泰5年(
1454)泰久はこのことを上奏し、同時に印を鋳造して頒賜されるように願った。所司(注・礼部の鋳印局である)に命じてこれをたまわった。やがてまた、使をつかわして入貢した。その表には『琉球国掌国事王弟尚泰久云々』と自称していた。景帝は命じて、勅と鈔幣(※)とをもってかえらせ王弟にたまわった」(原田禹雄訳注『汪楫 冊封琉球使禄三篇』の「中山沿革志」から)

※鈔(紙幣)と幣(儀礼に用いる絹織物)


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その4

歪曲された歴史
 中国からの冊封使、
汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』の矛盾した記述について書いた。もっとも『中山沿革志』が出されたのは康熙231684)年だから、尚円即位から200年余りも後になる。

 
高瀬恭子氏は『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文は次のように述べている。

<『世鑑』以下の琉球国の正史は、すべて17世紀以降に第二尚氏王統の治世の下で書かれたものである。

君主は天の命によってその位に即くが、天の命は人心のおもむくところに従う、という中国の易姓革命思想を受容した琉球においては、正史はその文脈に沿って記される。

第一尚氏王統が天命を失うに足る十分な理由をもって尚徳は描かれ、天命を受けるにふさわしい徳と人望を備えた人物として金丸は讃えられる。

『世鑑』以下が記す尚徳の悪逆非道ぶりや、尚円が王位に推挙されるに至るストーリーは、それを念頭に読まねばならない。


 ところで、正史から中和の存在が抹消されて了ったのは何故であろうか。尚徳在位中から権力闘争が、尚徳死後に顕在化してクーデターとなったものの、のちに正史を編む際に、即位まもない青年国王を廃する正当な理由づけが困難なために、全てを尚徳に帰し、中和の存在は無かったことにしたかったのではないか。そのため、世子は幼く、国王尚徳は年若いことにしたものと思われる。

尚徳が、成化5年4月22日に死去し、その後時を経ず金丸が王位に即した、と記しながら、『世鑑』、両『世譜』、『球陽』などは、すべて尚円の即位年を成化6年としている。これは両『世譜』が通常の新王の即位年を前王の死去の翌年としていること(『世鑑』は年を記さず)を踏襲したものであろうが、この場合は極めて奇妙なことである。両『世譜』ですら武寧の滅んだ永楽4年と同年を思紹の即位年としているのである。尚円の即位年の成化6年は中和を滅ぼした年であり、これこそ語るに落ちたということであろう。>

 

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               尚徳王時代に金丸が隠遁していた内間御殿の説明板

 これまで、王位にある尚徳が死去したあと、金丸が推挙され王位に就いたとされていたが、もしかして実際は尚徳が殺されたのかもしれないと勝手に想像を巡らせていたが、中和が王位に就いていたのが事実とすれば、尚徳は殺されたのではないことは確かである。

尚徳が死去したとき、「世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す」と正史は記している。しかし、本来、尚徳の死後、中和が16歳で第8代王に即位したのなら、仮に尚徳の治政が悪かったとしても、即位したばかりの中和を「悪逆非道」と非難できない。「幼い」から後継者にふさわしくないとも言えない。高瀬氏の指摘の通り、若い国王を倒す大義名分がない。


 そのために、尚徳の年齢を12歳も若くし、世子も幼い子とすることにより、尚徳による悪政を廃するために、幼子は犠牲にして王位にふさわしい金丸を推挙したという筋書きがつくられたのかもしれない。

このクーデターの正当化のためには、中和の生命を奪っただけではなく、第8代国王としての存在そのものを歴史から抹殺したかったのだろうか。王位に就いた中和王を殺したのが事実なら、尚円の即位も、国王を殺して王位を奪うという血に塗られたクーデターだったことなる。


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その3

「中和を倒したクーデター」

第一尚氏の最後の国王が、尚徳ではなく、その子の中和が即位していたとすれば、「実際の権力交替はどのように行われたのであろうか」。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」は、次のようにのべている。



 <尚徳が死去したのは、『世鑑』の記すように、成化
5(注・1469)422日ごろであったと思われるが、尚徳の享年は41であった。直ちに3人の遺子のうち最年長の16歳であった中和が位を継いだ。 

中和は、前述したように朝鮮に遣使したり、明へ父尚徳の名で朝貢使節を送ったりした。父の名を用いたのは、この頃琉球は年に1回もしくは2回の朝貢を行なっていたが、国王の死去した後もその国王の名で朝貢し、1年余りは経って喪が明けてから死去を報告して請封するのが例であったからである。

ところが、成化6年にクーデターは起こった。金丸が王位に即き、中和および2人の弟は殺害され、第一尚氏王統は断絶した。


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             尚徳王御陵跡
           
 このクーデターの時期は、成化6年4月1日より後、9月7日より前、おそらく7、8月頃であったかと思われる。4月1日とは、中和が朝鮮への使者に持たせるべく用意した前述の『歴代宝案』の文書の日付であり、9月7日とは、金丸が尚徳の世子尚円を名乗って明に請封の使者を遣わした際の文書(『歴代宝案』
[23-04][28-04])の日付である。

さてこの請封の際に用いられた2通の文書は、冒頭に明記して派遣の主旨を示す文言が、請封とはなっておらず、「謝恩の為」となっている。中和が謝恩の進貢のために用意していた文書を、クーデターに成功した金丸が急拠用いたのかもしれない。

また尚徳の世子尚円と名乗ったのは、武寧(注・察度王統)を滅ぼして新王朝を建てた思紹(注・尚巴志の父)が、中山王武寧の世子を名乗って請封したのにならったもので、速やかに王位の承認を得たかったためである。金丸にとって自らの体制の確立と権威づけのために、早急に明の冊封を受けることが何より必要だったのである。>

 

改めて、汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』を読んでみた。なんとも奇妙な記述となっている。「成化6年(1470)、尚徳が卒(しゅつ)した。尚円は、みずから世子と称した」と記す。一方で「円は伊平(屋)の人である。…父は里主」とし、「尚徳に不義の行いが多く、国の人たちは、みなそれをうらんでいた。徳が卒したので、円を奉じて王にしようとのぞんだ。円は『(尚徳の)世子がおられるのに、どうしてあえて王位を私できようか』と言ったが、国の人たちは、遂に共に世子を殺した」と記す。「世子を殺した」というのは、重大な事件であるが、その是非は問わない。しかもその上で「父の尚徳の薨去を報じ、王位の継承を願いでた」と書いている。同じ「尚円」の項の中で、まったく矛盾することを平気で記している。

明は、尚徳の死に際して政変があり、世子を殺して、金丸が即位したことが知っていながら、尚徳の世子を名乗る尚円を中山王として認証したということだろうか。


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