レキオ島唄アッチャー

八重山民謡「宮良橋節」に歌われた仲尾次政隆

仲尾次さんへの感謝を唄う「宮良橋節」

 八重山古典民謡に「宮良橋節」がある。最近、練習をしている。テンポの良い曲である。この歌は、琉球王府の時代、禁制の浄土真宗の信者だった仲尾次政隆(なかおし・せいりゅう)が石垣島へ配流になった時、この橋を造った功績を地元の住民が歌ったものであるされている。
 歌詞は次のような内容である。
一.仲尾次((ナコシ)主(シュー)ヌ ウ陰(カギ)ニ 
  宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ 宝(タカラ)橋(バシ)カキティ 見事(ミグトゥ)デムヌ  
一.宝橋上(ウイ)カラ 通(カ)ユル人々ヤ 眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ 笑(ワラ)イフクイ
  (下略)  
(意訳)
 仲尾次(さまのお陰で 宮良大川に宝のような橋ができ 見事なようすです
宝の橋の上から 通う人々は 眼眉が生き生きとして 笑顔に満ちています

 宮良橋は17世紀ころから交通の要所として架けられ、台風等で何度も破壊され、明和(1771年)の大津波でも流された。
 <河口付近に橋が再建されたのは、明治を迎える七年ほど前の1861~62年(咸豊11~同治元)にかけてのことで、流刑人として滞在していた仲尾次政隆が資材を提供するなど中心的な役割を果たし、長さが「75尋(ひろ)」(約135メートル)、幅が「二間」(約3.6メートル)、高さが「一丈(じょう)三寸(すん)」(約4.2メートル)の木橋が架けられました。
 人びとは、その木橋の完成を喜び、仲尾次政隆の功績を称えて次のような歌を作っています。>
 「宮良公民館建設期成会」HPより紹介した。
              宮良橋、東運輸KK
          写真は仲尾次政隆を称え建立されている「頌徳碑」(東運輸株式会社HPから)

 仲尾次政隆は1810年生まれで1871(明治4)年、62歳で亡くなった。1853年密告されて八重山へ無期流刑となった。宮良橋をかけたことで赦免願いがゆるされ,1865年那覇にもどった(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。
 政隆については、このブログでも書いたことがある。
 <琉球王国では仏教といえば禅宗か真言宗だけ、キリスト教とともに、一向宗も禁じられていた。ひたすら念仏を唱えれば救われるという浄土真宗は、薩摩藩で禁じられていた。一向宗の封建的な権威を認めない平等思想が、薩摩の支配者の意にそわなかったかららしい。だから琉球も同様、禁じられた。

 でも150年ほど昔、琉球で役人だった仲尾次政隆が一向宗を信じ、多くの信徒を集めていた。なかでも、那覇の辻という遊郭のあるところで、遊女たちに影響を広げ、短い年月に約300人余りの信徒ができたという。禁制の一向宗で、これだけの信徒を得ていたというのは、相当なものである。結局は、告訴されて仲尾次は八重山への遠島処分にされ、10年も流人生活を送ったという。>

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