レキオ島唄アッチャー

戦争・平和の「とぅばらーま」、その1

 戦争・平和の「とぅばらーま」

 八重山の名曲「とぅばらーま」は、恋歌の歌意でよく歌われるが、それにとどまらない。
  自分の気持ちを詠んだ歌謡を旋律にのせて歌うので、数え切れないほどの歌詞がある。
 本来は、三線を弾かないで、野外で歌われる歌だったという。
 歌詞を収集した1冊の歌詞集もある。昔からの歌詞だけではなく、日々新たに創られている。
 大田静男著『とぅばらーまの世界』も、そんな歌詞集である。そこでは、「男と女・恋愛」「親子・家族」「世代・人生」「ふるさと・自然」 「戦争・平和」「滑稽・春歌」「とぅばらーま」の7分野に分けて歌詞を紹介している。 
そのうち今回は、「戦争・平和」の歌詞を紹介する。
 沖縄戦のあと、1947年から石垣市で開かれている「とぅばらーま大会」では、1948年から作詞の募集が始まり、「時代を反映し戦争体験の歌が多く詠まれた」(大田氏著書)という。

 「戦世を恨む」
「いくさゆーどぅ ぱな うらみらり うやふぁ とぅじぃぶどぅ ちりじり なりねぬ」
歌意
  「戦争を私は恨みます親子夫婦引き裂かれ散り散りになってしまった」
<作者は白保の花城宏。「戦争直前に亡くした長男と、戦争中の疲労が原因で終戦まぎわにマラリヤで死んでいった愛妻への思いを託し」(『琉球芸能人名事典』)て作ったという。
 1956年、自らこの歌詞を切々と歌い上げとぅばらーま大会で優勝した。会場に詰めかけたほとんどの市民がこの歌を聞いて涙を流したという。>
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      「とぅばらーま」を歌う安里勇さん。囃子は杉田園さん(琉球民謡音楽協会芸能祭)
 この歌詞は、以前に沖縄が米軍統治の時代、1956年(昭和31)に東京に招かれた八重山芸能団の大浜津呂氏が歌った「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」の中にあるので知っていた。大田氏の解説を読むと花城さんの痛苦の体験から生まれたことがわかり、いっそう身につまされる。
 「日本復帰の悲願のトゥバラーマ」は、「戦世を恨む」歌詞のあとにまだ二つの歌詞がある。
 「南ぬ風(パイヌカジマ)まぬするする吹くばしゅやー 沖縄ぬ人ぬ泣きうんで思いたぼうり」
 (南からの風がするすると吹いてきたら、沖縄の人たちが泣いていると思って下さい)
 囃子「イーラー ンゾーシーヌ ヤマトゥヌ ウヤガナシィ」
 「なまぬいっとぅくぅどぅ 此ぬ(クヌ)苦しゃんしょうる やがてぃ親元ん戻らりどぅしぃー 
 囃子 繰り返し」
 (今のひと時がこんなに苦しいけれど やがて親元に戻られるよ)(参考『南島歌謡大成ー八重山編』)
 沖縄県民の心からの叫びが聞こえてくる内容だ。
 さらに3番目の歌詞は、苦しい異民族支配から逃れて、日本復帰により基地のない平和な沖縄の実現を願う心情が歌われている。だが、待ち望んだ復帰が実現しても、米軍基地の過重な負担は何も変わらない現実がある。この歌詞で歌うと、沖縄県民の切なる願いを裏切ってきた日米両政府への憤りがこみ上げてくる。


 「戦争(イクサ)企(クヌ)めーる奴(ンザ)どぅ ばな恨(ウラ)み 
 行(イ)くだ我子(パーファー)や 今(ナマ)までぃん戻(ムドゥ)らぬ」
歌意
 「戦争をたくらんだ奴らを私は恨む。死んでしまった我が子は今まで戻らない」
 1979年とぅばらーま大会入賞作。
 筆舌に尽くしがたい悲惨な犠牲をもたらした戦争を招いた人びとへの怒りと恨みがこもっている。戦争が子どもさんは亡くした悲しみは深い。
 沖縄戦では、石垣島をはじめ八重山では、軍人・軍属の戦死に加え、日本軍が住民に恐ろしいマラリヤ有病地への避難を強いられることで引き起こされた「戦争マラリヤ」によって3600人余りが亡くなっている。

「可惜(アタ)ら妹達(ウトゥドゥ)や 礎(イシジ)んが名(ナー)ばぬくし  くぬ世(ユー)ぬ
 蕾(フクマリィ)や あぬ世んが咲(サ)かしょうり んぞーしーぬ 戦(イクサ)どぅにたさーる」
歌意
 「可愛い妹達は平和の礎に名を刻んでいる。この世では蕾のままに終わったが、あの世では花を咲かしてください。戦争を憤り恨む」
 漢那トシ子さんの詠んだ作品だという。まだうら若き「蕾」のまま、亡くなられ糸満市にある「平和の礎」に名を刻まれた妹さん。戦争がなければ、花を咲かせることができたのだろうに。「にたさーる」(憤り恨む)と言う言葉に「漢那さんの思い出が込められている」(大田氏)。


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