レキオ島唄アッチャー

按司には二通りの意味がある、その1

 「按司」には二通りの意味がある

 初めて沖縄の歴史を学ぶ人にとって、最初当惑する言葉に「按司」がある。日本史ではあまり聞かない概念だからだ。稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』を読んでいると、「按司(アジ)」という言葉には二通りの意味があると述べている。一般には地方を支配する豪族、領主の意味で使われている。
 しかし、以前に那覇市内の地域回りをしていて、拝所に「按司」の名札を見かけて、「こんな場所に按司の名があるのはなぜだろうか。これは領主的なものではなさそうだが?」と思ったことがある。稲村氏の著書を読んで、「なるほど二通りの意味があったのなら、納得できる」と感じた。それで、稲村氏の按司についての論考を紹介する。

 その前に、「ウィキペディア」は按司について次のように説明している。
 <歴史的には、按司は農耕社会が成立したグスク時代の12世紀頃から琉球諸島各地に現れた、グスク(城)を拠点とする地方豪族の首長やその家族など、貴人の称号として使われた。元来、琉球には、王号や王子号がなく、その代わりに按司の称号が用いられていたのである。按司は、他に「世の主」、「世主(せいしゅ)」などとも呼ばれていた。>
按司のそもそもの語源についてはふれていない。

 按司の二通りの意味とは
 次に稲村氏の著書から紹介する。
 <按司(アズ又はアンズと訓ず)という言葉の意味は二通りあるように思われる。
 一般には国頭按司、今帰仁按司、勝連按司、大里按司として使用されているように、一地方の領主に対する称号として用いられていて、中世以後各地に勢力家が輩出して、領地を有し、城郭を築き、家臣を養い、武力を以ってその勢力を守るようになった人々に対して按司(アズ又はアンズ)という称が用いられたようである。そして是等の按司は16世紀の始め頃、尚真王の時に、地方にある彼等の領地又は城郭を引き揚げて、首里に居住することになった。そして其の旧領地には按司掟(アジウッチ)と称する領主の代官に相当する役人が居住して、中央の命令に依って政治を行なうようになった。これを一般に尚真王の中央集権と称しているが、この首里に引き揚げてからの地も彼等はやはり前と同じように按司(あず)と称せられた。

 即ち廃藩置県当時まで存続していた30余ヶ所の按司家は是であって、勿論城もなく家臣もなく武力は全然ない官僚化した世襲的の称号であって、唯封禄を受ける権利と、元の領地に対して若干の世襲的権力を有したに過ぎない。即ち置県前まで称していた今帰仁按司、宜野湾按司、義村按司等というのは、こうした人々であって、中世期に於ける武力を有する按司とは、その実力に於いて大きな相違があったが、やはり世襲的名称として按司と称したのである。是等は按司という名称の一つの意味として解釈していいように思われる。
 こうした中世期以後、武力を有し家臣を有し城を有し領地を有する按司と称する人々、又その後継者に当る人々で、城もなく家臣もなく武力は全く失って一の官僚的存在になったが、世襲的に若干の権力を与えられていた人々に対しても是を按司と称した。
                      長嶺按司碑
                        長嶺按司之碑(豊見城市)

 按司が領主とは異なる意味でも使われた
 続いて稲村賢敷氏は、自分の調査結果に基づいて、「按司」が領主とか城主の意味とは異なる名称としても使われていることを明らかにする。
 中城村津覇に「上津覇ノ嶽」があり、そこの小祠の碑には「上津波按司御嶽」と記されている。「上津覇門中の人々が、彼等の始祖則ち津覇コダの部落を創始した元祖に対する名称として、特に注意すべきである」という。この碑には「大湾按司次男呉屋(以下不明)」とも記されており、「是は上津覇門中から分れた小氏族の開祖(則ち分家始祖)大湾按司の次男呉屋云々という意味であろう」という。
 <この碑に記された、上津覇按司、大湾按司という名称は、後世一般に称せられる領主又は城主に対する名称として使用する「按司」とは異なり、一族の始祖に対する名称として使用されたものである。この始祖に対する名称として「アズ」と称したのが按司(あじ)という名称の起原である>

スポンサーサイト
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |