レキオ島唄アッチャー

按司と鍛冶遺跡、その5

 沖縄の鍛冶は日本から伝来
 稲村賢敷氏は、琉球の古謡集「おもろさうし」や先島に伝わる古謡を見ると、沖縄の鍛冶は日本から伝来したものであることを物語っているとのべている。

 「鍛冶の伝来と鍛冶のオモロ」
 <鍛冶が日本から伝ったものである事は、充分に考えられる事である。これに就いては鍛冶のことを謡ったオモロがあるから、先ずこれに就いて調べることにしたい。

 久志村字久志のオモロ(略)
 <この中に謡われている鍛冶道具の名称に就いて調べて見たいと思うので紹介した訳である。次に鍛冶の道具の名称に就いて、日本語、国頭地方々言(前述のオモロに依る)宮古地方の方言(多良間島に伝わる鍛冶神の民謡)を対照して見ることにしたい。(写真)
 この鍛冶に使用する諸器具の名称が、日本、国頭、宮古を通じて、総て日本語の名称を使用しているという事は、鍛冶が日本から伝わったことを証する重要なる史料であると考えていいように思う。
               鍛冶道具の名称、稲村賢敷著

               

 多良間島に伝わる鍛冶神のニーリ(略)
 <この「ニーリ」には鍛冶の伝来に就いてはっきりと日本から伝来したことが歌われている事は注目すべきである。則ち鍛冶神は始めて日本島に生まれて、多くの鍛冶道具を造り、是に依って日本島を育て且つ教え、更にもっと弘く育てたいために、船を浮かべて、鍛冶道具を荷積みし、沖縄島に御出になり、沖縄の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて宮古島に御出になり、宮古島の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて多良間島に渡られたということを述べている。>
鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。これでけはっきりと鍛冶の伝来のルーツと経過を伝えた古謡があることはとても興味深い。

 <宮古で鍛冶を伝来した諸神は、
(1)友利村嶺間御嶽神名あまりほう泊主(倭神であると記されている)
(2)平良市船立御嶽神名金殿、しらくにやすつかさ、(久米島から渡来した)
(3)伊良部村長山御嶽神名倭神金殿神、
(4)伊良部村比屋地御嶽神名あからともがに(久米島から渡来した)
(5)多良間村運城御嶽神名うえぐすく金殿(やまと神、ニーリに謡われている神)
等の五箇所である。
 是等諸神はいずれも、神名を金殿と称し、「日本(やまと)又は北方(久米島)から渡来し」、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え農業神として、御嶽を建てて御祭りしたと伝えられている。島立の神則ち祖先神とは別個であって、宮古島の開基と鍛冶の伝来とは別個で、時代の差違あることを物語っている。>
 以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
 終わり

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暖冬異変?花のチャンプルー

 久しぶりに近くの漫湖公園に散歩に行った。カンヒザクラが見ごろだと思ったから。
 公園に着くと、もう満開の木もある。でもあまり咲いていない木もあるので、全体では6分咲きぐらいだろうか。
 それにしても今年は開花が遅い。例年だと2月上旬が満開の時期。だから桜まつりは2月11,12日に終わったが、その時はほとんど桜はなかったはず。
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 今年は暖冬だからだろう。沖縄のカンヒザクラは、寒いところから咲きだし、桜前線は南下する。この分では3月に満開になりそうだ。
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 満開の木には、メジロが止まって蜜を吸っている。花からは花へ、木から木へ飛び移りながらくちばしを入れている。このメジロたちは、桜の季節の時以外はほとんど見かけない。どこにいるのだろうか。
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 あまりにも桜開花が遅いので、奇妙な現象が起きている。他の花は、暖かいと開花が早くなるのが通常である。いつも3月くらいに咲く、火炎木が真っ赤な花を咲かせていた。花びらがとても大きい。カンヒザクラと同じ時咲いているのは初めて見た。
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 コスモスも当たり前のように咲いている。こちらは沖縄では1月でも咲くのは普通。毎年、カンヒザクラとコスモス、ヒマワリが同時期に咲く。
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 今年はなんとツツジも咲いていた。3月に入れば、山原でツツジ祭りが始まる。2月に咲くのは少し早いのではないか。
 本来、ツツジや火炎木はカンヒザクラよりは1カ月以上遅れて咲く花である。それが、一方は暖かくて遅く咲き、一方は暖かくて早く咲く。なんとも奇妙な花風景である。これも、暖かいことが、花にとって咲くのが遅くもなれば、早くもなるという花の特性のなせるわざである。
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 もう一つ、名前を知らない花も可憐な花を咲かせていた。
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 トックリキワタも暖冬の影響を受けている。ピンクの花は秋から年末にかけて咲くが、花の終わった後、3月後半から4月にかけて野球ボールくらいの大きさの実をつける。それがもう2月初めから実がなっているのだ。
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 この実が割れると中から真っ白い綿が出てくる。奇妙な花木である。カンヒザクラとトックリキワタの実が同じ時に見られるというのは、沖縄に来て初めてである。。
 暖冬は過ごしやすいが、もともと沖縄の冬は本州でいえば晩秋くらいの気候である。冬は冬らしく寒さがある方がいいのかもしれない。ただ、プロ野球のキャンプにとっては、今年は雨はほとんど降らなくて、選手たちにとってはとってもよいキャンプ日和が続いたと思う。
 漫湖公園の川べりのウォーキングコースを歩いていると、水際のマングローブがまた大量に伐採されていた。あまりマングローブが増えると、土砂がたまるとか、ゴミが堆積するなどの理由で無慈悲に伐られる。
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 心配なことは、ウォーキングコースに沿ってカンヒザクラが植えられて、花を咲かせているが、マングローブが茂っていれば、吹き寄せる潮風の防風林の役割を果していた。でも木がなくなると、潮風にモロニさらされることだ。台風の時期には、暴風が直撃する。いまでも、せっかく植えられたカンヒザクラの木が育たずに枯れる木がある。大丈夫なのか、それが気になった。
 水際を見ていると、ダイサギが浅瀬でエサをついばんでいた。漫湖は潮がひくと野鳥がよく集まる。ラムサール条約に登録されている大事な河口近くの湖である。
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泡盛「時雨」に巡り合う

泡盛に「時雨(しぐれ)」という隠れた銘酒がある。今年とある新年会の席で、「泡盛は時雨がいいね」という声を聞いた。「それはどこの酒ですか」と聞くと、首里赤田の酒だ」という。その席で出された甕に入った泡盛が「時雨」だった。だが、その時は、車を運転して帰るので残念ながら飲めなかった。
 スーパーなどの酒売り場を見るたびに探していたが見当たらなかった。だが、先日、浦添市沢岻にある業務スーパーの酒売り場でついに見かけた。
 古酒ではないが、「古風味豊かな時雨」と銘打っている。30度の泡盛4合瓶である。首里赤田町の「識名酒造」が造っている。
「当社の泡盛は元東京農業大学短期大学部・醸造学科『中田久保教授』によって黒糖から分離開発された酵母『5・15』を使用し香り豊かな泡盛に仕上げています。ロックや水割り、冬にはお湯割り等お好みに応じてお楽しみ下さい」とのラベルが張られていた。
 泡盛を味わうのには、水割りやお湯割りにするよりも、盃に注ぎストレートで飲むのが一番味が分かる。後から水を飲む。
 口に含んでみると、とてもマイルドな味である。30度あっても、刺激的な辛さはない。香りはそれほど強くない。飲みやすいことは確かである。古酒も飲んでみたい。
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 琉球王府時代は、王家の厳しい管理の下で、泡盛づくりが首里三箇(赤田、鳥堀、崎山)だけ許されたそうだ。戦前、首里には約70もの泡盛工場があった。その一つ識名酒造は、赤田町で創業大正7年より、泡盛作り一筋に歩んできた。
 識名酒造は、戦禍を潜り抜けた王朝時代から伝わる最古の古酒があることで有名である。先々代 識名盛恒は、首里に戦火が及びそうになると、大切にしていた南蛮がめの古酒3本を庭先に深く埋め、妻と二人の娘を連れて南部へと逃げた。逃げ惑うなか、妻と娘の一人が砲弾の直撃を受け亡くなった。
                沖縄最古の泡盛
           沖縄最古の泡盛。左が約150年物で、右が約100年物(識名酒造HPから)

 戦後、首里に帰り焼け野原になっていたこの地を何日も庭を掘り返し、3つ埋めた南蛮がめのうち、奇跡的に2つのかめが無事に発見された。約100年物、約150年物の古酒を「識名家の家宝」として、この古酒を守り続けているという。この項は、識名酒造HPの文章を参考にして紹介した。

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按司と鍛冶遺跡、その5

 沖縄の鍛冶は日本から伝来
 稲村賢敷氏は、琉球の古謡集「おもろさうし」や先島に伝わる古謡を見ると、沖縄の鍛冶は日本から伝来したものであることを物語っているとのべている。
 「鍛冶の伝来と鍛冶のオモロ」
<鍛冶が日本から伝ったものである事は、充分に考えられる事である。これに就いては鍛冶のことを謡ったオモロがあるから、先ずこれに就いて調べることにしたい。
                  鍛冶道具の名称、稲村賢敷著
 久志村字久志のオモロ(略)
 <この中に謡われている鍛冶道具の名称に就いて調べて見たいと思うので紹介した訳である。次に鍛冶の道具の名称に就いて、日本語、国頭地方々言(前述のオモロに依る)宮古地方の方言(多良間島に伝わる鍛冶神の民謡)を対照して見ることにしたい。(写真)
この鍛冶に使用する諸器具の名称が、日本、国頭、宮古を通じて、総て日本語の名称を使用しているという事は、鍛冶が日本から伝わったことを証する重要なる史料であると考えていいように思う。>

 多良間島に伝わる鍛冶神のニーリ(略)
 <この「ニーリ」には鍛冶の伝来に就いてはっきりと日本から伝来したことが歌われている事は注目すべきである。則ち鍛冶神は始めて日本島に生まれて、多くの鍛冶道具を造り、是に依って日本島を育て且つ教え、更にもっと弘く育てたいために、船を浮かべて、鍛冶道具を荷積みし、沖縄島に御出になり、沖縄の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて宮古島に御出になり、宮古島の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて多良間島に渡られたということを述べている。>
鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。これでけはっきりと鍛冶の伝来のルーツと経過を伝えた古謡があることはとても興味深い。

 <宮古で鍛冶を伝来した諸神は、
 (1)友利村嶺間御嶽神名あまりほう泊主(倭神であると記されている)
 (2)平良市船立御嶽神名金殿、しらくにやすつかさ、(久米島から渡来した)
 (3)伊良部村長山御嶽神名倭神金殿神、
 (4)伊良部村比屋地御嶽神名あからともがに(久米島から渡来した)
 (5)多良間村運城御嶽神名うえぐすく金殿(やまと神、ニーリに謡われている神)
 等の五箇所である。
 是等諸神はいずれも、神名を金殿と称し、「日本(やまと)又は北方(久米島)から渡来し」、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え農業神として、御嶽を建てて御祭りしたと伝えられている。島立の神則ち祖先神とは別個であって、宮古島の開基と鍛冶の伝来とは別個で、時代の差違あることを物語っている。>
 以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
          終わり

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按司と鍛冶遺跡、その4

 按司と城下の鍛冶遺跡
 鍛冶遺跡のことを書いていたのに、「今帰仁系」のことに入り込み、話しが横道にそれてしまった。本題に戻る。
稲村賢敷氏は、鍛冶遺跡は、按司やグスクと密接な関係があるので、改めて各地の按司と城下にある鍛冶遺跡をまとめて記述している。先述したところと重なる部分もあるが、紹介しておきたい。
 <各地の強盛なる按司の城下には鍛冶遺跡がある。これは鍛冶をして武器を製作させたばかりではなく、主として農耕に必要なる生産器具を製作させた、尚巴志に関する逸話として武器を作るよりも農具を先に作れと言ったという話がある。これはよく当時の武将の気持を言い表わしているように思われる。
 
 次に各地にある鍛冶遺跡を記し、按司との関係を述べたいと思う。(年代不明)
 一、和解名の鍛冶遺跡
 南山城(注・糸満市の島尻大里城)の東北城外、和解名(ワダキナ)は俗説に依れば、源為朝が渡琉して、大里按司の妹と同棲していた旧跡であると伝えている。著者は和解名を数回に亘って調査した結果、同所を中心とした三反歩程の地域に亘り多量の青磁破片と、主として地域の東方から鉄滓の相当量を拾得した。
 是に依って考えると和解名の居住者は支那(中国)大陸に交通往来した者で、そして鍛冶であった事は間違いないと思う。…
和解名の鍛冶は主として南山王のために武器を製作し又附近の居住者のために農具を製作したものであろう。

 二、大里城下にある鍛冶跡
 大里城(注・南城市の島添大里城)外南方にあるカニマン墓と称する岩上墓の南方から少し許りの鉄滓を拾得した。カニマンという名称も鍛冶に対して称せられたようであるが、この鍛冶は大里城主のために武器を製作したものであろうが、あまり数量が多くなかったものと思われる。
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                           南山城跡
 三、内間カニマンの鍛冶跡
 那覇市北方、浦添村との境にある字内間の北方に鍛冶跡がある。この鍛冶は主として農具の製作に当ったようで、内間、安謝附近の田圃の開拓には功労があったものと考えられる。
 内間カニマンは内間グシク、又は掟カニマンと称しているから、彼自ら按司としての勢力を持っていたようであるが、強盛に至らずして浦添の配下になったものであろうと思う、しかし是の付近にあった多和田マキウ、シグルクコダの居住者は、この鍛冶の御蔭で早くから農耕生活にはいったものと思われる、これが恐らく字内間、字銘苅、字安謝の起原であろうと思われる。
 
 四、浦添城下の鍛冶遺跡
 浦添城の南麓、浦添小学校の北方にある大きな鍛冶跡である。鉄滓も相当に拾得される。崖下の洞窟は相当に広く、且つ湧水が流れて拾集には困難である。猶くわしい事はシーマ山の項を参照されたい。シーマ山中腹に居住していたシママキウの居住者は、この鍛冶の御蔭で早く鉄製農具を支給され、シーマ山の南麓に下って農耕生活をするようになった、これが浦添村字仲間の起原である。

 五、中城城下の鍛冶跡
 中城城下の正門の西方に鍛冶跡がある。少し許りの鉄滓を拾得したが直ぐ西方が崖になっているので拾得には困難である。この鍛冶も城主のために武器及び農具を製作したものと思われる。
 中城付近にあるキシマキウ、津覇コダ、富里マキウ、糸蒲門中の人々が、此の恩恵をうけて、早くから農耕生活にはいったことが考えられる。キシマキョの項に於いて述べたようにキシマキョの山岳上に生活していた古代人が、東方に向って山を下り、字当間、字奥間の部落を作って農耕生活をした事は口碑として伝えられているし、又津覇コダ、富里マキョ、糸蒲門中の人々が東麓の平地に下って字津覇の部落を作り、農耕民としての生活をしたことも口碑として残っている。
                     046[1]
                           中城城跡
 六、勝連城下の鍛冶遺跡
 勝連城の東麓にある南に向かった城門附近から、東に約80米程行くと、左手側に広大な鍛冶遺跡がある。南に向い間口焼く約10米、奥行3米位、洞窟の高さ2米程で、鍛冶跡として最も広大なるものである。鉄滓の出土も最も多く、おそらく数十年から百数十年の長期に亘って、武具、農具類の製作に当ったものと思われる。勝連鍛冶の後裔であると称する勝連村字南風原の仲間家には鍛冶の鞴を祭っている。同家の口碑に依れば先祖は勝連城内に居住していたと伝えていて、その居宅から東方に城内を通って鍛冶跡に通ずる通路もあるという話である。
 猶この字南風原の仲間家は、浦添村按司仲間の仲間家(浦添鍛冶の本家)とも関係があり、7年に1回宛は浦添仲間家の祭祀に参加しているという話であった。
 猶、浦添仲間家、勝連字南風原の仲間家、国頭村字奥間のアガリ家、浦添村字内間の鍛冶は皆カニマンと称し、浦添村字仲間家と関係があると称しているが、何れが鍛冶の宗家であるかは明らかではない。

 七、具志頭村ハナ城(グスク)城内の鍛冶
 この具志頭ハナ城城には鍛冶が居たという事が伝えられて居て、其のために城の別称をタダナ城(鞴のある城の意)とも称するという事である。又鍛冶が居たという証拠としては、城の城下町に当るナハ城部落の住民は、城内と交易をして、早くから農耕が発達し富裕で「とよむ玻名城(はなぐすく)」として知られていた事が、オモロ歌謡にも数首謡われている。城下の鍛冶が其の附近の居住者に対して大きな恩恵を与えたことは、ハナ城城(一名タダナ城)に於いて最も明らかである。
 玻名城タダナ城の年代に就いては、英祖王統第2代大成王の第2子が具志頭按司を命ぜられたという口碑があり、彼は具志頭按司として任地に下り、具志頭城を築造して、この玻名城タダナ城の勢力に備えたものと思われる。依ってタダナ城の年代は英祖王統第2代の頃と考えていいかと思われる。>

 <以上7ヶ所の鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて好遇し又黒鉄を買い入れて武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策を図ったものと思われる。この経済面、政治面の方策に成功した按司が則ち勝利者であって、堅固な城郭を築造し、多くの兵を養って、附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。

鍛冶跡がなくても、按司がその城下に農民を集めて、其の城下の富強を計ったことが伝説に依って伝えられている所がある。
1、尚巴志が其の城下の百姓に鉄製の農具を給与して、農耕を奨励したことは前述したとおりであるが、其の城下にはまだ鍛冶跡が見つかって居ない。
  然し尚巴志の居城から一里以内にあった古代部落は、皆麓の平地に下って農耕の生業を営み、農村として発達した。(あとは略)>
以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。

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大盛況、シニアピアノ音楽会vol4

 シニア世代のピアノ音楽会vol4が17日夜、アルテ・ウォーバーAホールで開かれた。
 第3回目の音楽会の際、琉球新報が取材に来てくれて、大きく報道されたことや、ツレのエッセイが掲載されたことなどもあり、新聞で知って参加してくれる人が増えて、これまでにない参加者となった。
 始まる前からすでにリハーサルを兼ねてくる人がかなれいて、開演の7時には満席となっていた。
 演奏者はのべ15名、演奏曲数は29曲。聴くだけの人やまずは様子を見て、次から参加を考える人もいて、総勢40人ほどになり、テーブル・イスが足りない状態になっていた。
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 演奏は、20代の若者から90代の女性まで、年代は幅広く、演奏曲目も歌謡曲、ポップス、唱歌、クラシックまで多彩だった。
 演奏レベルの上手、下手には関係ない。みなさん、ピアノ演奏を楽しみ、情熱を注いで鍵盤に向かう姿に、惜しみない拍手を送っていた。
 音楽会の当初は、アルテ関係者が半数ほどいたが、もはやアルテと関係ない人たちが多数派になった。
 ピアノが大好きで、前に習っていたり、いまも習っている人がたくさんいる。でも人前で演奏する機会がなくて、こういう気楽に参加して演奏できる場を求めていることを改めて強く感じた。
 他の人の演奏を聞きながら、涙する人もいた。 とても素敵なピアノ音楽会になっている感じがした。
 ツレは、ブルクミュラーの「ゴンドラの船頭歌」とショパンの「ロマンス」を演奏した。これまで、リハーサルでうまく弾けても本番でミスが出ることがあったが、今回はミスもほとんどなく、とても情感のこもった演奏だったと思う。
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 前回まで、私もピアノと歌三線で出ていたが、これだけピアノ演奏者が増えれば、「枯れ木も山の賑わい」のような出演はいらない.。出なくてよかった、と思った。純粋に聴くだけで楽しめた。
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按司と鍛冶遺跡、その3

 大里城附近のカニマン墓
 稲村賢敷氏の著書『沖縄の古代部落マキョの研究』では、南城市の島添大里城付近のカニマン墓についてもふれている。
<カニマン墓(大里)
 大里城の南方城外にある高さ20尺程、周囲50余尺の巨岩の頂上にある。巨岩の頂上は直系6尺程の凹所になっていて、此処には立派な彫琢された石を積んでボーンター型に造られた納骨所がある。中には屍体が葬られている事と思うがまだ発掘されていない。発掘したら埋葬の方法等も明らかになると思う。この墓はカニマン墓と称せられていて、大里城内に居住した鍛冶工の墓であると思う。
 私はこのカニマン墓の附近から少し許りの鉄滓を収得したから鍛冶工が居住していた事は確かである。>
                  カニマン御嶽、南城市教育委員会計画書
               カニマン御嶽(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 大里城址の西側には、カニマン御嶽がある。御嶽という名称だが、納骨されるお墓のようだ。
 「石灰岩の岩盤の上部に造られた拝所である。その形態は、円筒形を呈しており、上部に円形の屋根石が乗せられ、頂部には宝珠が置かれている」(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
 稲村氏が言う「ボーンター型」のカニマン墓とは、この円筒形で屋根石が載せられた形のカニマン御嶽のことを指しているのではないだろうか。「ボーンター型」とは、墓の頂部が半円球の形をした大城按司の墓「ボントゥー墓」と同じ形のことだろう。写真で見る限り同形である。

 カニマン御嶽には、誰が祀られているだろうか。
 <島添大里グスク以前の城主の関係者が祀られているとか、島添大里グスクが滅ぼされた際の戦死者、または按司の家来で「金松」という人物が名前の由来ではないかともいわれているが、詳細は不明である(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。>

 ここには、奥間カンジャーの墓があるとも聞く。
 「奥間大親(中山王・察度の父)の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある」(伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。
 大里城址には何度も行ったが、残念ながらカニマン御嶽は見ていない。

 大里城跡を調べた方によると「主郭の広場からカニマン御嶽へと続く道の途中にある、石積みの墓(ウフウタキ)。奥の方にある小さな墓の石碑には、『奥間ハンジャナシー前之墓』と記されている」という(「沖縄島の写真『大里城址公園』HPから)。
 この「ウフウタキ」は「先の島添大里グスクの城主(今帰仁系)もしくはその家来の墓ともいわれているが詳細は不明である。今帰仁系の門中である宮城家が拝みに行っている」という(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
                   奥間ハンジャナシー前之墓、計画書
              奥間ハンジャナシー前之墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 先の島添大里グスクの城主とは、「今帰仁系」とはどういうことだろうか。
 孫薇(スゥンウェー)氏=天津工業大学教授=の著作『中国から見た古琉球の世界』では、次のような記述がある。
 南城市大里西原のウフ殿内という神家の資料では、大里世主王と呼ばれる人物が、察度王、武寧王、山南王とともに祭られている。それによれば、今帰仁按司が「大里世主父」と記されている。
 <この「大里世主王」が「王」と呼ばれた時期は、だいたい1392年から20年も後のことだと推測できる>
 
 尚巴志が島添大里城を攻略したのが1402年(1403年とも)だが、その時の城主は、南山王となった汪応祖の弟の屋冨祖(やふそ)だったされる。その後、尚巴志は中山を攻略し、北山を滅ぼし、1429年に南山を攻めて琉球統一を果たした。「大里世主王」はこの尚巴志の支配下で大里世主王を名乗っていたのだろうか。しかし、北山王の攀安知(はんあんち)を滅ぼした後、今帰仁按司の子が大里世主王に就いていたのか、よくわからない。それとも時代が異なるのだろうか。

 また、この神家には今帰仁の山北王の側室として仕えた美女・志慶真乙樽(シケマウトゥダル)、今帰仁御神とも呼ばれた女性の絵がかけられており、「この今帰仁御神と呼ばれ、今帰仁城にいた王の側室の伝説を通じ、山北王とも呼ばれる今帰仁按司が、琉球国の北部今帰仁城から南部大里へと移動してきた歴史が見られた」(孫薇著同書)とのべている。
 
 志慶真乙樽は、今帰仁で帕尼芝が北山王となる前、「仲北山」の時代にいた人物である。今帰仁按司が「南部大里へと移動してきた」というのは、いったいどの時代なのか、よくわからない。ただし、時代が整合しないところはあるけれど、今帰仁按司が大里に移動して来て、その子が大里世主王を名乗っていたという伝承は、とても興味深いものがある。

 なお、古琉球の伝承を丹念に集めた伊敷賢氏は「1260(文応1)年、王になった英祖は5男を大里按司として南山領域の東大里城に(島添大里城のこと)送り込んだ」「英祖王5男・大里王子が『仲南山』初代となり2男1女を生み、長男は島尻世之主大里按司として『仲南山』二代目を継がせ、次男を東大里城主玉村按司に配して勢力拡大を進めた」としている(『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。

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アルテで「あやかり節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが11日夜、開かれた。今月のテーマは「笑」だった。この冬一番の寒さで、エントリーしながら休まれた方が何人かいて少し演奏者が少なかったが、楽しい演奏会だった。写真と演奏曲名だけ紹介する。
 南亭こったいの落語は「禁酒番屋」だった。
 島袋さんはギター弾き語りで「津軽の花」を演奏した。
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 カーペンターズは「鳩間節」など2曲を演奏した。
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宮国さんは、ギター弾き語りで長渕剛の「逆流」を演奏。第2部でももう一度「夏祭り」を弾き語りした。
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 絹枝さんは、ピアノソロで「花」「早春賦」を演奏した。
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 私は、照屋林助作詞・作曲の「あやかり節」、登川誠仁作詞・作曲「新デンサー節」を歌った。2曲とも「笑い」が入っているからだ。
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 新田さんは、ギター弾き語りで「百万本の赤いバラ」を歌った。
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 第2部では、古波津さんのギター、伊藤さんのドラムで「コーヒールンバ」を演奏した。
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 越智さんのトランペット、ツレのピアノ伴奏で映画「いそしぎ」の主題歌を演奏した。
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 ツレは、ピアノソロで「ゴンドラの船頭歌」を演奏した。あとからもう一度、ピアノ弾き語りで「朝陽の中で微笑んで」を歌った。前の夜、予定した曲を急に変更したのに、なかなか雰囲気のある弾き語りだったと思う。
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 私は、ピアノ演奏者の宇都宮さんから、「歌三線とピアノの合奏をもう一度やりませんか」と熱心なお誘いを受け、八重山民謡の名曲「月ぬまぴろーま節」を演奏した。YouTubeに動画がアップされているので、紹介する。
 ただし、最初の前奏から音程があっていない。
 宇都宮さんがとても素敵なピアノで入ってくれた。三線の間奏のところでは、とても幻想的な雰囲気のピアノを聞かせてくれた。ただただ、宇都宮さんに感謝である。

         
宇都宮さんはこの後、二人の歌声の伴奏でも演奏した。
 りえさんは、ボサノバの「ジンジ」という曲を歌った。
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 清美さんは「君はバラより美しい」を歌った。
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日曜日にはRBCラジオ「団塊花盛りスペシャル」が北谷町の「ウミンチュわーふ」であった。魚市場などが入る漁業振興施設である。
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 ライブでは、「ドリームバンブー」が昭和歌謡を歌った。初めて聞いた。BSテレビでは、毎日昭和歌謡が放送されている。いまや昭和歌謡ブームである。
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 このあと沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブがあった。団塊花盛りのパーソナリティー、小山康昭さん、垣花章さん、高橋勝也さんが、SS演奏に合わせて、GSナンバーを歌った。SSはお馴染みのGSナンバーを歌った。冬の青空にGSサウンドが響き、心地よかった。
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按司と鍛冶遺跡、その2

 按司と関わりを持つ鍛冶
 稲村賢敷氏さらに、八重瀬町具志頭の玻名城グスクと住民との関係について具体的な事例を見ている。以下、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
 <こうした関係は具志頭村はなぐすく城とその城下の玻名城村との間にも見られる。
 オモロ19巻ノ46(略) 
 オモロ19巻ノ48(略)
 是等のオモロに依って知られるように、当時鉄製農具が少なかった社会では、鍛冶に依って鉄製農具を与えられ、思うように耕作したいという欲求は非常に旺盛であって、鍛冶の勢力下に多数の農民が集まったことは充分に考えられることである。この鍛冶と農耕業の関係は沖縄の産業更に社会発達史上、重要な事項であって又史料も相当あるけれども、それが文献の上に記されている事が少ないために余り重要視されていない。
 沖縄の自然は鉄に恵まれていない。鉄の産出が全然ないという事は、又鍛冶技術が沖縄で起こったものではなく海外から伝来したものであるという事を示すものである。この鍛冶技術の伝来が後れた事が沖縄の産業及び社会の発達を後らしめた根本の原因であると私は考えている。>
 具志頭の玻名城グシクと鍛冶については、後からもう少し詳しくふれている。

 次に、那覇市小禄のカニマン墓について記している。小禄を前に歩いたとき「カニマン御嶽」があり、「金満ミテン」という石碑を見たことがある。
                金満ミテン006
                       小禄にある金満ミテンの碑
 <小禄カニマン墓
 小禄カニマンは鍛冶工であると云い伝えられ、小禄、豊見城地方の農業の発達に貢献した功績は大きく、今でもその子孫であると称する堀川鍛冶を中心として、毎年祭祀が施行されている。更に大里村字西原地方にも数個の岩上墓がある。>

 <小禄ノ嶽神名ミキョチャマベノ御イベ 小禄間切、小禄村(由来記)
 マキョの西方200米程行くと小禄カニマンの丘陵地になるが、此処には古くから鍛冶工が居住していたいという伝説があって、丘陵の中腹に東面して小禄カニマンの墓地がある。
 小禄カニマンの鍛冶跡を調べるために、この附近一帯捜したけれども遂に見つけることは出来なかった。このカニマン丘陵は小禄の墓地々帯になっていて…カニマンの鍛冶跡は早くから掘り壊されたものと思われる。多分この小禄カニマン墓地の南方斜面で、墓地から遠く離れない所に鍛冶跡があったものと思われる。彼は鉄製の農耕器具を製作して附近の住民に分け与えた伝説があり、附近に農民多く集まって農耕部落が起こったものであろう。 

 数百年を経て、この小禄カニマンの子孫は、カニマン丘陵の南方5,600米程離れた田原邑に移り、此所でカニマンの家業を世襲して鍛冶を営み、この地方の農耕業の発達に寄与した。この田原の居住地の東にある小丘上には小禄カニマンに対する小禄遥拝所が現在も残っている。…
 大嶺邑には農業神として土地君(トウテーク)の像が大戦前まで祭られていた。>

                 森口公園
                   拝所がある小禄の森口公園

  <宮古諸島では農業神として総て鍛冶神を祭っている。…
  小禄土地君(トウテーク)祠を建てて、支那(中国)から土地君の像を持ってきて祭るのもいいが、小禄カニマンが早く是の地に来て、鉄製農具を作り出してこの附近の農業の発達を促した功績は大きい。寧ろ事実上の農業神は、この小禄カニマン丘陵上に祭られている鍛冶工であり、又内間グシクの岩上墓に祭られている「チャヌチカニマン」であり、又天久ノ嶽西方崖上の鍛冶工であると言うことも出来るのである。>
 
 稲村氏は、鍛冶は、鉄製農具を作り、農業の発展を促したので、その功績は大きく、鍛冶工は崇拝を受け事実上の農業神であることを強調している。

 小禄のカニマンとは、中山王・察度の弟で、初めて中国・明に朝貢し交易をしたことで知られる泰期のことだとも言われる。泰期は奥間鍛冶屋の始祖であり、金満按司と呼ばれた。
 比嘉朝進氏は、察度が中山の拠点を浦添城から首里城に移したことに伴い、泰期も那覇に移ったと見る。

 「泰期は那覇港に近い小禄森口原の標高45㍍の丘に、小禄城を築いたといわれ、金満(カニマン)城ともよばれた。後(クシ)ヌ嶽は金満御嶽ともいゝ、泰期金満按司を祀る拝所といわれている。小禄城から南東に1㌔半の近距離にある南山系の豊見城城とは小競り合いがあったという」(比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』)。
 泰期については、このブログの「奥間鍛冶屋の伝承をめぐって」で少し詳しく述べているので、関心のある方は読んでみてほしい。


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按司と鍛冶遺跡、その1

 沖縄の鍛冶と鉄器の伝来に関心を持ち、これまで「奥間鍛冶屋」のことなどこのブログでアップしてきた。最近読んだ稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』では、稲村氏は鍛冶遺跡にとても関心を持っていて、沖縄本島から宮古諸島、八重山諸島の鍛冶の伝承と鍛冶跡について調べていらっしゃる。この著作のなかで、鍛冶の伝承、遺跡について書かれた部分を抜粋して紹介しておきたい。

  内間グシクと鍛冶遺跡
 稲村氏の著書を読んでいて、最初に目が止まったのは「内間グシクと鍛冶遺跡」についての項だった。というのは、那覇市から浦添市に入ってすぐの地域である内間の、すぐ近くの沢岻(タクシ)を歩いたとき、「金満御嶽」「金満按司」の石碑が建てられているのを見たからである。初めて見た時は意味がよくわからなかった。その後、沖縄で鍛冶がいかに重要な役割を果してきたのかを少し学んできた。といっても、実際に鍛冶跡や鍛冶を祀った拝所など見たのはごくわずかである。内間の鍛冶遺跡などまだ見たことはない。

  稲村氏は「附 内間グシクと鍛冶遺跡』の項で、内間だけではなく、那覇市小禄など各地の遺跡にもふれている。
  <字安謝から東方二粁許り行くと、字内間後方の丘陵上に、倭樹の森が見える。この附近では是を内間グシクと称しているが、城壁や城門の跡等の遺跡と思われるものはなく、丘陵の頂上に高さ15尺程の巨岩があって、その上に写真にあるような岩上墓があって、内間グシクという名称も、この岩上墓に対する敬称として称せられている。…
 これを附近では「チャヌチカニマン」と称している。国頭村字奥間のことを通称奥間カニマンと称しているが、この名称は奥間巫女殿内(のろどんち)の名称から起こったものであろうかと思われる。奥間巫女殿内は屋号はアガリ屋であり、姓は座安姓を称しているから、奥間カニマンという名称は、この家に伝わる鍛冶技術によって称するのであろうかと思うのである。
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                     浦添市沢岻の金満按司添の碑

  大里村(現在南城市)字西原の大里城跡の南方城外にも大里カニマンと称する岩上墓がある。これは高さ20尺程、周囲50数尺の巨岩の頂上に1基の石積の墓がある。石積の中はまだ発掘したことはないから不明であるが、この墓もカニマン墓と呼ばれている。私は前にこのカニマン墓の東方菜園の附近から鉄滓を拾得したことがあり、この墓も鍛冶工の墓であるという事を発表したことがある。
 又那覇市小禄にも小禄カニマンと称する墓があり、この子孫は近世まで鍛冶を家業として世襲していたと伝えられている。一般にカニマンという名称は鍛冶に対して称せられたようである。金属器具のことを「カナムン」と称するが、又その製作された所の地名を冠して内間カナムン、奥間カナムン、と称するようになり、更に是を製作した鍛冶工に対しても称するようになったものであろうか。
  この内間グシク岩上墓のことを、この附近では前述したように「チャヌチカニマン」と称している。「チャヌチ」とは「座(ザ)ヌチ」の訛りであって、座の掟(ウッチ)という意味であろうと思う。

  此処から西に3粁程行った天久ノ嶽の海岸にも崎樋川の鍛冶跡がある。是も内間鍛冶跡と同型の小さいものである。浦添城下にある鍛冶跡や勝連城下にある鍛冶跡は、形は皆同じような洞窟であるが、面積はこれに数倍する広大なものである。是等は何れも按司と称する勢力家と密接な関係があって、按司のために武器を作り又農漁業に使用する生産用具を製作した所であるから、その鍛冶跡が広大であるのも当然として考えるべきであろうか。>
 
 <内間グシクの居住者は前述したように「チャヌチカニマン」と称し、この附近の部落の掟役(昔は部落の頭)として尊敬を受けていた人であり、又死後は岩上墓に葬られている事から考えると、カニマンという名称で呼ばれているように鍛冶工であって、農漁具を製作して農民に与え人望のあった人であろうかと思われる。内間グシクと称し、又チャヌチカニマンという称号も、よく彼の勢力を語っているように思われる。
   こうした鍛冶の勢力は、当時鉄製器具の僅少であった社会にあって、農漁民をその居宅附近に集め、彼等に農具を貸与して附近の土地を開拓させて大きな勢力を作ったものである。>

  稲村氏は、これら鍛冶跡について「何れも按司と称する勢力家と密接な関係」があり、「按司のために武器を作り又農漁業に使用する生産用具を製作した所である」と述べている。また鍛冶工が「カニマン(金満)」と呼ばれとても人望があり尊敬されたこと、居宅付近に農漁民を集めて農具を貸し、土地を開拓させるという大きな勢力をもっていたことを指摘している。

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