レキオ島唄アッチャー

音楽忘年会で楽しく年忘れ

 今年の楽器の弾き納めをしようと、28日夜、アルテ赤田カフェで「音楽忘年会」が開かれた。
 忘年会は、ツレが言い出しっぺで、料理準備を担当した。オードブル皿も買って、調理した料理を盛り付けた。
 集まる人数に対して、料理が余らず、不足しない程度に準備するのが難しい。幸い、好評だった。
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 毎月のアルテ・ミュージック・ファクトリーに出ている人が中心だが、それ以外にも参加があり、音楽好きの方々、合わせて15人が集った。
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 ギター、ピアノ、三線、カホーンなどみなさんが、得意の楽器を演奏し歌った。
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 私はツレのピアノ伴奏で「イラヨイ月夜浜」を歌った。気持ちよく演奏で来た。
 ツレは、ピアノ独奏で「ロマンス」、ピアノ弾き語りで「銀の龍の背に乗って」を歌った。
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 日頃は、アルテスタッフとして働いているTさんもカホーンをたたき、カオル&タカのギターとセッションした。ギター、エレキギターにパーカッションが加わると、演奏にふくらみが出てgoodだった。夜の更けるのも忘れて、演奏を楽しんだ。
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 日頃は、ノンアルコールビールを飲み車を運転して帰ることが多い。でも、忘年会なので、ビールを飲んだのはよいが、帰ろうと思って代行運転を頼むと「いま2時間待ちです」「混んでいてちょっと受け付けられない」という返事ばかり。十数件電話してもつかまらないので、車を置いてタクシーで帰ろうと考えたが、タクシーもつかまらない。再度、代行に電話していると、急に「先ほど電話もらった代行ですが、40分待ちで行けますがよいですか」と電話が来た。「是非是非お願いします」と返答。多分、予約の空きが出たのだろう。ようやくわが家に帰れた。
 ともあれ、アルテで歌三線を演奏するようになって5年が過ぎた。音楽を通して人の輪が広がったのはなにより嬉しいこと。
 音楽忘年会は、今年初めてだったが、来年からは恒例になるかもしれない。音楽好きが集まる場所と機会を提供するアルテと、料理準備で多忙だったツレに感謝したい。
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活発に海外交易を行なった具志頭のグスク、その5

               
 具志頭には他にも城跡がある。『具志頭村史』から抜粋して紹介する。
<具志頭城址
 具志頭集落の東南方向に位置し、標高約50米の石灰岩丘陵の先端に立地する遺蹟で、太平洋を望見する崖上に形成されている。グスクの入口附近には、「タカヤツクワ」と呼ばれて石垣遺構も残り、物見やぐらの跡と伝承されている。
遺跡からは、グスク時代の土器・輸入陶磁器・石器等の遺物が採集できる。本遺跡の中央部には、拝所があり霊石も現存し、またノロが馬に乗降りする時に使用する踏石「ノロの馬のぶいいし」がある。

 上城城址
 与座ヌ殿遺跡の西方丘陵上に近接する。標高80米内外に形成されるグスクである。
城内には拝所が鎮座する。1960年の琉球政府文化財保護委員会によってグスク土器、青磁片等が採集されている。

 新城城址
 字新城集落の北西側に位置し、小字は北滝川原となっている。グスクは標高90米の丘陵上に形成される。本グスクは現在、雑木林が茂り、城壁を確認するまでには至っていない。
本グスクから採集された遺物はフェンサ城式土器(壺形土器・鍋形土器・クワズイモ科の葉痕が認められた底部など)、青磁(雷文帯を施す碗・外反する碗・口折皿など)である。>
 以上で、具志頭の城跡について紹介を終わる。いずれもまだ見に行ったことがないのが残念である。
  終わり
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活発に海外交易を行なった具志頭のグスク、その4。グスク時代の遺跡

 グスク時代の遺跡
 『具志頭村史』は、具志頭にある城跡について、改めて紹介している。
 <多々名城址
  城内の郭は、4つに区分できるものと推定され、一の郭が最も高い地域にあり次いで2―4の郭と低くなる。但し、北側は全体的に高い地域で、南側は低くなる地形である。城壁の保存は全体的に良く残っている。一の郭で最高5米を測る。2―4の郭は最高4米を測る場所がある。
 南側には城壁はなく、土塁が上石塁のような盛土が崖に沿うように造られていて、抜け道(石灰岩礫で築く)がある。四の郭に城門と見られる部分がある。また郭の張り出しも4ヶ所認められる。この張り出しは防禦施設の横矢掛りが考えられる。…
出土した遺物は、フェンサ、上層式土器を主体とし、輸入陶器、輸入磁器、須恵器、染付、沖縄製陶器、近世の陶質土器、青銅製カンザシ、滑石製石錘、石器、沖縄貝塚時代前期系土器、魚骨、獣骨、貝類、軽石、石材片が出土した。…
本グスクの出土遺物から主体となる時期は14世紀~15世紀に位置づけられる可能性が大きい様である。具志頭城とほぼ近い時期にある(具志頭村教育委員会・具志頭村の遺跡より)>
              多々名城平面実測図 続きを読む
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RBCiラジオまつり、団塊花盛りスペシャルを楽しむ

 RBCiラジオまつりが23,24両日、セルラースタジアム那覇前の広場で開かれた。
 「団塊花盛りだョ! 全員集合 スペシャルライブ」のあった24日に出かけた。番組でパーソナリティーをつとめる5人が勢揃いした。
 パーソナリティーとリスナーのカラオケ・デュエットから始まり、5人それぞれがソロでも歌った。
 なかでも、注目はファッション。火曜日担当の箕田和男さんは、ド派手なスーツで沸かせた。
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 「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲を歌った金曜日担当の高橋勝也さんは、髭の船長姿で驚かせた。
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 一番の見ものは、5人がバンドを組み、「ブルーシャトウ」を演奏したこと。SSカンパニーのギターリスト、マッキーさんがサポートで入った。
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 極秘裏に企画し進めていたというサプライズ。キーボード担当はまったくのエアー演奏で、演技だけとか。しかし、即興バンドとは思えない演奏を披露した。「アンコール!」の声には「まだ1曲しか演奏できない!」の答え。来年に向けてバンドを続けてレパートリーを増やしてほしい。
 リスナーとのデュエットでは、木曜日担当の小山康昭さんとツレが「アマン」を歌った。息の合ったデュエットだった。
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 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーがライブを行なった。

 お馴染みのGSナンバーとオリジナル曲を演奏した。SSのリーダー、瀬底正真さんは、火曜日に箕田さんとともに、「あの時君は若かった」というGSコーナーをやっており、先月は900回記念のライブもやったばかりだ。
 ステージ前には、リスナーでSS熱烈ファンが詰めかけ、ダンシングで盛り上げた。 
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 最後は、SSカンパニーと5人が揃って、団塊花盛りテーマソング「夢をもう一度」を合唱した。
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 この日夜は、南城市佐敷のカフェSSで、SSカンパニーXmasライブがあった。
 満席のお客さんで大盛り上がり。楽しさ満載のXmasだった。
                  Xmasライブ

 ラジオまつりの団塊花盛りスペシャルライブの模様がYouTubeにアップされているので紹介する。
                 
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活発に海外交易を行なった具志頭のグスク、その3.鍛冶に由来する城名

 多々名城の名は鍛冶に由来か
 多々名城の名称の由来について『具志頭村史』と稲村賢敷氏は、次のような見解をのべている。
<花城(はなぐすく)は多々名城(ただなぐすく)とも呼ばれ、現在では専ら多々名城と呼ばれている。そのいわれは何か。
「たたな」とは、「たたら」ということばが転訛したことばで、たたなが濁音化したのが「ただな」である。
 たたらとは、鍛冶屋で風を送る道具として使われている「ふいご」のことである。たたらはいつしか鍛冶をあらわすことばとなり、すぐれたたたらの居る城として、花城は「たたら城」とも呼ばれるようになり、そしてやがて、たたらはたたなに転訛してたたなとなる。それが濁音化してただなとなり、多々名城(ただなぐすく)と呼ばれるようになった(『具志頭村史』)。>


             
                 古からの製鉄「たたら吹き」の動画(島根県)
 稲村賢敷氏は、その著「沖縄の古代部落マキョの研究」の中で次のように述べている。
 <玻名城部落の移住と鍛冶の伝来
 現在玻名城部落は、玻名城々跡の北方二粁程の処にある丘陵上にあって、部落名「ハナグスク」に就いて考えると、沖縄の言葉で「ハナ」は断崖という意味の言葉であって、この玻名城という村名は、彼等の祖先が(嘗か)って玻名城城内の断崖上に居住していた事を語るものであって、断崖上の住居又は城という意味で称せられたものである。彼らの祖先は、玻名城の城を造る時に、この断崖上にある要害の地を城主に譲って、其の東方低地に移った。この低地は水利の便のいい土地であって、城主はその領民に鍛冶(かじ)に依って製作された鉄製の農具を与えて、水利の便宜の地に移り住まわしめたので、領民は非常に喜んでこの肥沃の地に移り住んだ。此処がハナグスク古島であって、その南には玻名城の城址が高く聳えて、真に其の名称にふさわしい険しい断崖上にある城跡である。

 玻名城の城には鍛冶が早くから伝わっていた事は、この城の別名となっている「タダナ城(グスク)」即ちタダナはタタラであって鍛冶の鞴(ふいご)のことであり、鍛冶のある城という別名のある事に依って知ることが出来る。
…又鍛冶が居た証拠としては、城の城下町に当たるハナ城部落の住民は、城内と交易をして、早くから農耕が発達し「とよむ玻名城」として知られていた事が、オモロ歌謡にも数首謡われている。城下の鍛冶がその附近の移住者に対して大きな恩恵を与えたことは、ハナ城城(一名タダナ城)に於いて最も明らかである。>
鍛冶が早くから具志頭に伝わり、城内で武器や農具が作られて、それが農民に与えられ、農業の発展に寄与するなど住民に大きな恩恵を与えたことが、この多々名城という城の名称にも表れている。

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「おんなの駅」でイカスミ汁を味わう

 恩納村にある「おんなの駅」の「あかゆくい市場」で感謝祭があり、立ち寄った。
 この日の目玉は、イカスミ汁の無料試食である。配布前には、テントの前に長い行列が出来ていた。でも、500食配布されるというので、めったにイカスミ汁を食べるチャンスはないので並んでみた。
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 テントの中では大きな鍋に真っ黒なイカスミ汁が大量に作られている。通常、買って食べると500円するらしい。ツレの分と2杯いただいた。もしかしてまともにイカスミ汁を食べるのは初めてかも。フーチバ(よもぎ)が載った汁は、とっても美味しい。
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 おんなの駅では、イカスミジューシーおにぎりも売っている。こちらはよく食べているが、イカスミづくしでそちらも食べた。おにぎりも汁も真っ黒なので、食べると口の中まで黒く染まりそう。でも独特のイカスミ味で美味い。
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 感謝祭なので、舞台ではイベントがある。
 地元の恩納村に住むふーみさんと奥さんのユニット「ティダカンパニー」のライブが始まった。この日は、フォークユニット「F&Y」のギターリスト、良明さんも加わった。
 前半のステージはユッコさんが「ハナミズキ」ほかを歌った。突き抜けるような透き通った声が素敵である。
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 後半は、F&Yでフォークから洋楽、昭和歌謡まで歌った。那覇の「ななまかい」でのライブの常連Hさん夫婦や地元のファンのYさんも来ていた。たまたまイカスミ汁を持った女性が、私たちのテーブルに来て相席となった。愛媛県から観光に来ていた。ちあきなおみの「喝采」を歌いだすと、「私、この歌大好き」と聴き入り、最後まで最前列で聴き「とっても楽しかった」と笑顔だった。
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 帰ろうとすると、「こんにちわ」と挨拶されたので、「どなたかな」と一瞬、戸惑っていると「○○屋です」と声をかけてきた。今年、何回かSSカンパニーのライブをしたお店の方で、1カ月余り前、とあるところでお会いした。その時、三線も習っていると聞いた方だった。沖縄で知り合いが多くはないのに、こんなところで出会うとは、やはり沖縄は狭い。
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 ライブは最後に、ふーみさんが一番前の席で聴いていたおばあちゃんに「カチャーシーをやるから踊ってね」と声をかけた。「唐船ドーイ」を弾き始めると、立ち上がって踊りだし嬉しそうだった。おばあちゃんはみんなカチャーシーが上手だ。

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アメリカ追随、政府追随が極まれり

 どこまで沖縄県民を愚弄し、痛みつけるのか。そんな憤りが湧き上がる日々である。
 19日には、米軍が墜落したオスプレイの飛行訓練を、墜落からまだ1週間たたないのに再開した。県民の不安を一顧だにしない米軍の無謀な振る舞いに呆れかえる。
 「安全が確認されるまで飛行停止」と言っていた政府も、やすやすと飛行再開を認めるとは、アメリカ追随も極まれりである。
 
 20日には、翁長知事が辺野古埋め立て承認を取り消したことへの国の違法確認訴訟で、最高裁は公判も開かずに上告を棄却した。仲井真前知事の承認は「埋め立ての必要性・合理性や環境保全策などへの配慮の判断に違法はない」とする。国の主張を丸呑みした高裁判決を踏襲しただけである。
 辺野古は移設どころか、普天間基地閉鎖を口実にした巨大基地建設であり、必要性も合理性もない。住民の命と安全を危険にさらし、暮らしと環境も破壊される。オスプレイ墜落は、辺野古や高江の基地建設の不安と危険性を現実化したものである。
 最高裁判決は、民主主義と地方自治、県民の総意も顧みない国追従の不当判決である。三権分立もどこへやら、嘆かわしい司法の現実を見る思いだ。

 翁長知事は、判決には従うけれど、それ以外は縛られないとして、「これからが県民の踏ん張りどころ」「不退転の決意で公約の実現に向けて頑張っていきたい」と力強く述べていた。
 日米両政府には、これまで何度も苦渋を味わされてきた県民は、そのたびにたくましく抵抗を続けてきた。オスプレイの撤去、海兵隊の撤去、辺野古新基地断念へ、県民ぐるみの声と運動が新たな展開を見せるだろう。
 
  

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読谷山焼陶器市をめぐる

 読谷村の「やちむん(焼物)の里」で、読谷山焼陶器市が開かれているので、訪ねて見た。
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 ここはいま、読谷山窯、北窯の登り窯があり、たくさんの工房が集まっている。食器から花瓶や守り神のシ―サーまで陶器を焼き、販売している。毎年12月の第3金曜日から日曜日まで、読谷山焼陶器市が開かれる。やちむんの里で開かれる陶器市に来るのは何年ぶりだろうか。 
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                 登り窯
 それぞれの工房が所狭しと焼物を並べているが、膨大なので見るのも時間がかかる。いいなと思っても、値段がけっこう高いので手が出ない。でも、自然いっぱいの広大な場所に散在している工房で、やちむんを見て散策するのは気分がよい。
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 伝統的な沖縄の図柄のものから、あまり沖縄らしさはないモダンな焼物までさまざまだ。最近は、沖縄らしさにこだわらない色合い、図柄の焼物が増えている感じだ。
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 ツレは、泡盛を入れる酒器「カラカラ」を買い求めた。いまは、カラカラの中に玉を入れ、振ると「カラカラ」と音が出るものが人気だという。
 日曜日なのでとても人出が多い。なぜか家族連れのアメリカ人など外人が多い。沖縄の陶器に興味があるのだろうか。
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 なぜ読谷村に窯元が集まっているのだろうか。もともと、那覇市の壺屋に登り窯があったけれど、煙害による環境問題があり、自然豊かな読谷に移ったと聞いたことがある。
 「読谷村観光協会」HPに「やちむんの里」の歴史が書いてあったのでそこから紹介する。
 <1972年、壷屋にて焼き物をされていた金城次郎氏(故人)が読谷に工房を移しました。1980年には中堅の陶工4名が共同登窯を築き、初の窯出しとなりました。この窯でできた焼き物を読谷山焼と称し、この共同登窯を中心としてやちむんの里が形成されました。この里をベースとして読谷村内に多くの陶工たちが集まり、現在では村内各地に50余の窯元があります。金城次郎氏は、1985年に沖縄初の人間国宝(重要無形文化財保持者)と認定されています。このように、読谷村は沖縄陶芸の歴史変遷の一端を担う場所となっています。>
 読谷村内にはいま、65もの工房があり、それぞれ特色あるやちむんを作っているそうだ。
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活発に海外交易を行なった具志頭のグスク、その2。花城按司の海外貿易

 花城按司の海外貿易
<花城按司は、強大な勢力を有し、その城下村の花城村をはじめ統治下の村々では、早くから農耕が発達し、村々はきわめて富み栄えた。
なぜに、花城按司はかくも強大な勢力を有し、かつ統治下の村々は富み栄えたのか。
 琉球歴史家の稲村賢敷氏は、その著「沖縄の古代部落マキヨの研究」の中で次のように述べている。
 鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は、遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて厚遇し又黒鉄を買い入れて、武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策をとったものと思われる。この経済面、政治面の方策で成功した按司が即ち勝利者であって、堅固な城郭を築城し、多くの兵を養って附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。
 花城按司も、盛んに海外貿易を行い、また城内にすぐれた鍛冶を置き、鉄材を輸入してそれでもって、武器を作らせて、強大な武力を有し、勢力のある按司となった。
また、それでもって農具を作らせて、統治下の村々の農民に与え、農耕を発達させ、生産を高め、つまり、富国強兵の策によって、ますます勢力の強い按司となり、統治下の村々は富み栄えたと思われる。>
 稲村氏は、勢力のあった按司は、大和から鍛冶工を招き、鉄材を輸入に、城内で武器や農具を作らせており、「鍛冶遺跡はいずれも城と関係があった」と指摘する。その背景には、盛んな海外交易があったのだろう。
                   多々名城
                    多々名城の説明看板
 花城按司が海外貿易を行なった港はどこにあったのか。『具志頭村史』は次のようにのべている。 
<発掘調査の結果、花城按司の居城であった多々名城の城内から、多量の輸入陶器や輸入磁器等が出土していることから考証しても、花城按司が盛んに海外貿易を行なっていたことは明らかである。
それでは、代々の花城按司が、海外貿易を行なった港が、花城按司の統治下のどこかにあったにちがいない。その港はどこかにあったにちがいない。その港はどこにあったのか。
首里王府が編纂した琉球の史書「球陽」に次のような記述がある。…通訳すると次のとおりである。
嘉永5年(1852)1月11日、具志頭間切の沖合に、1隻の異国船があらわれた。
この日、異国船1隻があらわれた。その時、男5名女1名がボートに乗って、親泊港にこぎ入れ上陸した。ことばが通じないので、手まねで、えんどう豆・お茶の葉・生きた豚等との交易を求めた。住民は彼らが欲しているものが何であるかを知り、それらのものと交易して、立ち去らせることにした。それから半時も経たない中に、異国船は帆をあげて、南の方に去って行った。
球陽によると、この頃は沖縄の各地に、異国船が来航した時期である。この異国船は、公益を目的にして来航し、親泊港に上陸したのである。そして、これよりはるか以前から、この親泊港では、海外交易が行われていた。

それでは、この親泊港とは具志頭間切のどこにあったのか。…
現在の具志頭村の海岸と糸満市字摩文仁の海岸の境にあって、沖の方から長い入江になっている。俗に「ワタヤー」と称する所である。この「ワタヤー」が親泊港である。
つまり、この親泊港が、代々の花城按司の異国船との貿易港であり、近くのウシヌマチが、その交易の場所であった。>
「親泊港が花城按司の異国船との貿易港」だったと推定している。

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活発に海外交易した具志頭のグスク、その1。「おもろ」に見る具志頭

 勢力を誇った花城按司

 沖縄民謡で働くことの尊さを歌った名曲「汗水節」の歌碑を見に、八重瀬町具志頭(グシチャン)に行ったことがある。その際、歌碑のある高台に登る石段のそばに、「多々名城(タタナグスク)城跡」の説明看板が立っていた。具志頭にある城跡にはまったく知識がなかった。読んでみると、さほど大きな城跡とは思えないのに、かつて活発に海外交易をして繁栄していたと記されていた。「へー。これくらいの規模の城を居城とする按司でも、海外交易をしていたのか」とちょっと意外に思った記憶がある。

 この城跡について教育委員会の説明看板には次にように記述されている。
 <この急な坂道を登りつめた山の頂が多々名城(たたなぐすく)である。多々名城は13世紀の末頃が、あるいは、14世紀の初期ごろに、花城按司が築城したと言われ、築城した時は花城(はなぐすく)と言われたが、後に多々名城(たたなぐすく)と呼ばれるようになった。この地に、花城が築城される以前は、この地には現在の玻名城の部落が存在していた。城の規模は、およそ33,000㎡もあり、本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、御内原跡というように、各城郭で囲まれている連郭式の平山城形式の城である。
多々名城については、おもろそうしに、13種ほどのおもろがあり、そのおもろなどからして、代々の花城按司や多々名按司は、勢力を誇り繁栄していたであろうことがうかがえる。
 花城按司、多々名按司は、盛んに海外貿易を行ない、素鉄を輸入しそれによって武器をつくり武力を高め、農具をつくってそれを領地の農民に配り農業を盛んにならしめた。その貿易港は、具志頭村糸満市の境界に位置する「ワタヤー」であった。>

                     汗水節歌碑

 折しも『具志頭村史』第2巻を読んでいたら、具志頭のグスク時代の歴史といくつかあったグスクについて書かれていた。とても興味深かった。それで同『村史』のなかから、興味のあるカ所を抜き出して紹介する。

 「おもろさうし」に見る具志頭
<よりたち村は、具志頭村で最初に建設された村であり、それは村々の親国である。…
祖先を一にする血縁団体で構成されていた。そして、部落の創建者の家を根所と言い、根所の娘を根神と言った。部落の政治はこの根神が、神の宣託(神のお告げ)を宣(の)る形で行われたと思われる。いわゆる祭政一致である。したがって、根神は、部落の政治の最高の地位にあった。そして、部落の祭祀はすべてこの根神が司ったのである。…
 よりたち村は、だんだん人口が増加すると、白水川原の底地や、台地上の畑で生産される食糧でもって、村の人口を養うことができなくなり、どうしても他に土地を求めて、分村しなければならなかった。そして、よりたち村の人々は、一部の人を残して、各所に分散移動し、新しい部落を建設したのである。その部落が具志上・花城・中座の3部落である。…
 時代とともに、部落の人口もだんだん増え、農耕地も増加し、部落と部落の間に、土地や水等による争いが起こった。部落と部落の争いに勝ち、自分達の生活を守るために、部落の根所の長は、武力をたくわえて、他の部落と争わなければならなかった。そして、山上の攻め難い所に城を築き、地方君主となる。これを「按司(あんじ)」又は「ちゃら」と言う。
 ところで、やがて具志頭按司が具志頭城を築き、玻名城世之主が花城を築き、上原按司が上城を築いた。具志頭城・花城・上城が築かれたのは、三城址の出土遺物やその他の資料からして、ほぼ同時期で、すなわち、14世紀の初期頃である。
具志頭城主、花城々主・上城々主の三者は、覇を競ってたがいに争ったが、やがて花城々主によって統一された。そして、花城々主の花城按司はますます強大な勢力を有するようになり、城下村の花城村をはじめ、統治下の村々では農耕が発達し富み栄えた。>

この具志頭地域でも、人口が増え、農耕地や水をめぐる争いがおき、部落の長は武力をたくわえ、山上に城を構えるようになり、地方領主の按司となり、14世紀初期の頃、具志頭城・花城・上城が築かれていたという。やがて花城城主が統一し、農耕が発達し栄えたという。富み栄えた様子が、琉球の古謡集「おもろさうし」に次のように謡われている。

<巻19の50のおもろ
はなぐすく、おわる 
みかなしの、てだの
にがよう、あま、よ、なす、てだ
又、くにのねに、おわる
又、人の、うらの、にぎや、よ
わかうらの、あま、よ
にぎや、よ、あま、よ、なす、てだ
(訳文)
花城にいらっしゃる 敬愛する按司は この世を凶作にも、豊年にもすることのできる按司である 国の主としていらっしゃる よその部落の凶作も
 わが部落の豊年もその威光によって為することができる
 この世を凶作にも、豊年にもすることができる按司である

巻19の38のおもろ
きこゑはなぐすく 
いちや、ちや、もちろかちへ
きみが、けおの、うちる
かに、ある
又、とよむ、はなぐすく
(訳文)
名高い花城 板門をきらびやかにして 聞得大君の守護する首里城も
このようであろう 有名な花城
 (巻19の48のおもろは略)
これらのおもろは、按司時代を社会基盤にするおもろである。この時代の社会は、すでに支配者、被支配者という階級分化が行われ、社会秩序を支えているのは武力である。
武力の象徴である花城按司は、すぐれた鍛冶屋を城内に置き、盛んに海外貿易を行い、鉄材を輸入して、それでもって武器を作らせて武力をたくわえ、ますます強大な按司となり、その威光は四辺にわたり、世を変えるほどの支配者となった。…
…代々の花城按司は盛んに海外貿易を行い、鉄材を輸入し、それでもって城内に置いているすぐれた鍛冶職に農具を作らせ、それを統治下の村々の農民に与え、農業を発達させ、生村であった。>

「おもろさうし」に13種もの歌謡があるということは、「代々の花城按司は、勢力を誇り繁栄していたであろうことがうかがえる」(説明看板)。

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