レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(14)、勝連勢力

 喜界島にある勝連家 
 沖縄と喜界島の関係について、福寛美氏はさらに、喜界島には勝連家があり、沖縄本島の勝連勢力とのなんらかのかかわりがあるのではないかと推理する。
 <琉球王国初の文字資料『おもろさうし』…に、勝連勢力が喜界島と奄美大島を地続きにしたい(島々の支配権を得たい)、と望む用例がありました。喜界島白水(しろみ)には実際に勝連とかかわりがある、と考えられる勝連家があります。勝連家には琉球王府発行の辞令書が2通、伝わっています。ある人物が喜界島の手久津久集落の掟(うっち、村落の長)から荒木間切の目差(行政単位間切の庶務管理者)、そして手久津久の大屋子(おおやこ、間切の責任者、大役)へと昇任していくプロセスが辞令書から読み取れます。
           
 また、喜界島の神女たちを統括する女性神役、大阿母(おおあむ)職の継承をめぐる勝連家に有利な文書も残っています。これらの文書は琉球王国成立後、すなわち17世紀以後の文書です。
                  
この喜界島の勝連家と、沖縄島のかつての勝連勢力を結びつける証拠はありません。しかし、活発に海外交易を行い、喜界島の支配権を欲していた勝連勢力と勝連家が無関係である、という証拠もありません。勝連家と勝連勢力の間に何らかの関係があった可能性を考えたいと思います。(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)>  
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 はたして尚徳王が、「倭寇そのもの」であったかろうかは別にして、尚徳王や勝連勢力についての指摘は、喜界島と沖縄との間に深いかかわりがあったことをうかがわせる。勝連城主だった阿麻和利は、大和との交易を盛んに行なっていたことで知られる。喜界島は勝連勢力による大和との交易の上、重要な拠点だったのかもしれない。

 沖縄との関わりといえば、次のような伝承もあるという。
 <喜界島の手久津久というシマ(集落)の中央に朝戸神社は建てられており、沖縄からウツワ船で漂着した兄妹が祭神とされています。この兄弟は沖縄からの追手を逃れ、兄妹でありながら子供を宿し、子供が神の力を授かったという言い伝えがあります(「喜界島酒造株式会社」HP)>。

 これまで喜界島の城久遺跡群の発掘と調査によって明らかにされた歴史像と琉球弧の島々に与えた影響などについて、識者の見解を紹介してきた。そのまま鵜呑みにはできない見解もあれば、とても示唆に富む論考もある。とても刺激的な提起があると思う。今での段階では、この問題について自分の意見をいえるほどの知識はない。とりあえず、簡略な紹介で終わる。


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沖縄科学技術大学院大学を見学

 世界40か国以上から研究者や学生が集う沖縄科学技術大学院大学を見学する機会があった。
 その前に、沖縄電磁波技術センターを見学した。
電波や光を用いたリモートセンシング技術の研究開発に取り組んでいるという。これは地球温暖化などグローバルな気候変動問題や気象予測の精度向上、豪雨など自然災害に対処するものだそうだ。
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 もともとは米軍瑞慶覧通信所内の施設を引き継ぎ、復帰の1972年6月、沖縄電波観測所が設置され、電離層定常観測を開始したという。電波の有効利用技術の研究開発をしているが、軍事利用はないそうだ。
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 レーダーのある高さ25メートルの鉄塔に登らせてもらった。眺望が素晴らしい。白いドームの内部を初めて見た。中でレーダーがクルクル回っている。
 展示コーナーを見ていると、「台風の恵み」という展示がある。
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 被害を与えない程度で雨を降らす台風であれば恵みがあるのは確か。観測した気象データは気象庁に提供しているのかと思ったら、それは一部だという。観測はあくまでこちらの研究開発が目的のようだ。電磁波といえば、健康への影響が懸念される。こちらでの電波はそういう影響はないと認められたものだそうだ。

 沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、ガイドさんが案内してくれた。こちらは教員と学生の半数以上が外国人で、会話はすべて英語で行う。世界最高水準の英知を結集した研究や教育を行なうことで、世界の科学技術の向上と沖縄の自立的発展に寄与することが目的だという。 
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 国の予算で建設されたので国立かと思ったら、私立だという。世界から研究者、学生が集まり、教育・研究をするので、国はお金は出しても経営には関与しないそうだ。
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 長い通路を歩いて行くと、研究のテーマとその様子が写真パネルで展示されている。見学はあくまで建物は見るけれど、研究者のいる棟内には入れないから、こういう展示で見るしかない。
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 建物は東京スカイツリーと同じ設計会社が設計したという。恩納村の自然を生かし、世界トップ水準の研究をするのにふさわしい環境がつくられていると思った。土地は恩納村の無償提供だと聞いた。
 こちらのレストランは誰でも利用できる。ランチが美味しいらしい。メニューを見ると、各種丼物が並んでいる。意外だ。これはあくまで日替わりメニューだけ。他のメニューがある。尋ねてみると「パンが美味しいです。みなさんベジタリアンですね」とのこと。
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 世界水準の大学院大学だから、ガードが厳しいのかと思ったが、研究棟以外のレストランの入るセンター棟まで、受付で届けるだけで自由に入り、見学できる。「沖縄の人たちに大いに見てもらいたい」からだという。もう一度、ランチを食べに来よう。
 
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琉球弧の歴史と喜界島(13)、尚徳王

 喜界島に深いつながりがある尚徳王
 もともと私の関心は、琉球王国による喜界島への征討問題だった。つまり、琉球から遠く離れていて、しかも奄美大島に比べればさほど大きくない島に、琉球がわざわざ莫大な費用と兵力を使って征討するのはなぜなのだろうか。喜界島とはどんな関わりがあったのだろうかという単純な疑問が出発点だった。これまで紹介した識者の論考によって、喜界島のもっていた特別な歴史と役割についておおむね理解ができた。
 
 尚徳王と喜界島との関わりについて、もう少し紹介しておきたい。
 琉球が奄美諸島にその支配を広げたのは、15世紀になってからのことだ。奄美の中で、もっとも抵抗を続けたのが喜界島だったという。
 <15世紀中葉から琉球王国による奄美諸島への「版図拡大」の軍事行動が顕在化した。久米島に漂着した朝鮮人の証言(『朝鮮王朝実録』世祖実録8年条)によれば、「(奄美)大島は1441年頃か1446年頃には服属したが、一方、鬼界島は毎年のように王府軍の攻勢を被りながらも抵抗し続けていたことが分かる」(豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』、安里進著「琉球王国の形成と東アジア」)>
 「第1尚氏王統最後の王尚徳が、琉球に従わないことを怒り、1466年春、自ら2000余の大軍を率いて喜界島に親征した。その16年前にも、尚金福王の弟、布里が攻めたふしがある。さらに尚元王代(1571)にも討伐されている(「最新版・沖縄コンパクト事典」から)。

 琉球王府の史書『球陽』には、喜界島が朝貢しないので、何年も攻撃していたことや、それでもが成功しなかったこと。尚徳王は怒り、2000人の兵を率いて征討したことが記録されている。
 この尚徳王が征討した時代の喜界島は、「すでに城久遺跡群は機能を停止」していたという。しかし「琉球国にとっては侮りがたい勢力が喜界島に存在していたから、尚徳王が喜界島征討に踏み切ったと考えられます」と福寛美氏は指摘している(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)。
 こうして喜界島を制圧し、「琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた」(ウィキペディア)。
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                  尚徳王陵墓跡の碑
 尚徳王の喜界島遠征は、みずからの権力を滅ぼす要因にもなった。
 無謀な遠征により首里王府の中で人心を失ったことが、首里王府でクーデターが起きる背景にあったとされる。尚徳王は、金丸の即位を聞き、憤って海に身を投げて死んだとされる。
 その一方、死なずに遁れたという伝承が根強くある。遁れた先の一つに喜界島があり、喜界島には尚徳王のお墓まであるという。でも、喜界島を征討したのなら、恨まれているはずなのに、遁れる先に選ぶとはどういうことなのだろうか。疑問もある。

 喜界島と沖縄のつながりについて、意外な人物の証言がある。元沖縄県知事の稲嶺恵一氏である。稲嶺氏は、翁長雄志県知事とは兄弟門中(先祖が兄弟という男系血縁組織)で、第一尚氏系の士族だったとして、次のような伝承を語っている。
 クーデターが起きた時、たまたま祖先が喜界島に行っていた。いったん本島に戻ったけれど、殺されるかもしれないと喜界島に戻った。だからお墓は喜界島にある。墓参りに行っていた(松原耕二著『反骨』)。
 その一方、これまで紹介したように、喜界島が東アジアの交易拠点で、沖縄諸島への物産の流通とともに、喜界島から沖縄への移住もあったという。喜界島から渡来した人たちの子孫もたくさんいて、中には琉球の有力者になった人もいただろう。それらのことを考えると、喜界島が奄美諸島のなかの一つの島というだけではない、特別な関係がある島だったことがうかがえる。
        護国寺
                         波之上にある護国寺

 尚徳王について、倭寇勢力と関わりがあるという指摘がある。以下、福寛美氏の著作からの紹介である。
 尚徳王は、喜界島での勝利を八幡神の加護のたまものと考えた。喜界島からの帰途、海路に浮鐘(海に浮かぶ鐘)を得て、八幡台菩薩の霊験として安里に八幡宮を勧請し祀ったこと。波上宮の顕徳名高麗鐘が高麗に侵入した倭寇の略奪品で、それが那覇港に運ばれ奉納されたものであろうという鎌倉芳太郎の見解を引用したうえで、次のように結論づけている。
「浮鐘への進行は倭寇の習俗、とされています。その倭寇の習俗そのままの行動をとった、とされる尚徳王は、まさに倭寇そのものだと考えられます」(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)。

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島の特産品がそろう離島フェア2016

 「離島を支えるモノがある 人も素材も特産品」をテーマとした「離島フェア2016」がセルラーパーク那覇で25-27日まで開かれているので、行ってきた。
 離島に行かないと買えない、食べられない特産品が並ぶのがうれしい。
 久高島の店では、なんと「イラブー粉」(海蛇の粉)を売っていた。試食してみた。不思議な味だった。
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 店をのぞいては試食するのが楽しみ。試食だけでなく、泡盛の試飲もできる。なかでも与那国島では、アルコール度数60度の花酒も試飲できるのは離島フェアならではである。今回は、車を置いてタクシーで行ったので、気兼ねなく試飲できた。
 「舞富名 花酒」「どなん 花酒」など飲んでみた。与那国島は昨年、今年と台風が直撃したので大変だったろう。尋ねてみると、「舞富名」では、昨年の台風で工場の壁が被害を受けたそうだ。
 今年は、久米島を台風が直撃し、泡盛酒造所「米島」が被害を受けたとテレビで放送していた。「米島」は前に見学したことがある。店では「もう大丈夫です」と話していた。
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 「どなん」など花酒は、度数はきついが口に含むと舌の上で蒸発するような飲み口が他にはない味わいである。30度の泡盛は水っぽく感じるほどだ。ツレが正月用に「どなん花酒クバ巻」を買い上げた。
  伊良部島は「渦巻きパン」が有名。島の2軒のパン屋が作っているそうだ。こちらもツレが買い上げた。
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 大東島の店では、名物のサワラをタレに漬けて酢飯に載せた「大東寿司」を買った。沖縄では珍しい寿司だ。大東島は八丈島の人たちが開拓で移ってきた歴史があるので、大和文化が入っている。昼食に食べたが、美味しかった。写真はない。
 伊江島の店では乾燥アオサがあった。ちょうど探していたところだったのでゲットした。
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 離島食堂では、伊江牛の串焼き、トントロの串焼き、メンチカツ、八重山のカマボコなど買った。 
 ちょうど食事する場所は、前が舞台になっている。ラジオ沖縄の「チャットステーション」のナマ放送中だった。
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 放送が終わった後は、ライブタイムになった。オリオンビールを飲みながら芸能も楽しんだ。
 離島出身の歌手が登場する。伊江島出身の知念こずえさんとフローリアン・ブリカールさんが登場した。ブリカールさんはフランス人で、八重山唄者の園さんの夫さんである。アルテでお会いした方だ。
 二人で「伊江島渡し船」など数曲歌った。そのあと、ブリカールさん単独で「トゥバラーマ」「マミドーマ」「漲水のクイチャー」の3曲を演奏した。沖縄本島、八重山、宮古民謡をすべて演奏できるからスゴイ。思わずおじさんが踊り出た。
                   離島
 この後は、池田卓(すぐる)さんのライブ。西表島に帰って島で暮らしながら演奏活動をしている。彼の歌を聴くのは何年ぶりだろうか。 
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 彼の歌は、とても心がこもっているからファンが多い。なんと、私のすぐ隣の席で、民謡唄者の古謝美佐子さんが聴いていて、拍手を送っていた。古謝さんも卓さんのファンなのだろうか。
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琉球弧の歴史と喜界島(12)、南島路

 南島路を利用した交易者

 14世紀代に沖縄島で起きた変化には、ちょうどこのころから頻繁に利用されることになる中国と日本を結び交易路「南島路」(「肥後高瀬~薩摩~琉球~福建」が大きな役割を果した。その新たな参入者として九州を中心とする海商や倭寇的勢力が考えられるという。吉成直樹氏は次のように指摘する。
 <14世紀の南北朝時代には、肥後の高瀬津は南朝方の豪族である菊池氏の支配下にあり、肥後高瀬~薩摩~琉球~福建の交通路には南朝系の勢力が深く関与していた可能性があることである。懐良親王が日本国王として冊封される以前の1369年に、洪武帝は倭寇の鎮圧が可能と考え懐良親王にその禁圧を強く求めている。…
 
 一方では「日本国王良懐」に倭寇の禁圧を要求し、他方では倭寇を琉球に封じ込めるという、両面の政策をとっていたと考えられる。いずれにしろ、懐良親王への遣使を務めたのも楊載であり、琉球を招諭した時の遣使も楊載なのである。…
沖縄島における在地社会の内的な発展を軽視することはできないが、南北朝の動乱と中国の元末の混乱を背景に南島路を利用していた交易者の問題や、沖縄諸島をも含む広範囲にわたって活動をし、中国南部の沿岸地域でも活動していた倭寇勢力を抜きに、14世紀代の沖縄島の社会変化、さらには「三山時代」の形成の問題を考えることはできない。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>
                     東シナ海の交易航路と黒潮の海流
谷川健一編『日琉交易の解明』から

 沖縄への北からの渡来については、民俗学者の仲松弥秀氏も次のような見解をのべている。
 <仲松弥秀はグスク=聖域論を展開する中で、沖縄において豪族化した人物のほとんどは本土から海を渡り、島々を経て渡来した者たちで、商業貿易への関心と才能を持っていた人物であったと述べる。そして、こうした渡来者の中で良港を控え、海上はるかに展望の利く場所に拠った者が次第に優位に立っていったとし、今帰仁、座喜味、勝連、中城、大里、佐敷、南山、首里、浦添をあげる。ただ、仲松は渡来者の数は少なく、ごく近親の者を連れてきたくらいであり、地域住民からの信頼を得ることによって勢力を増し、自己目的の貿易掌握に近づくことができたと述べる(仲松、1990、100~101)、吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』の(注67)から>
 
 城久(ぐすく)遺跡群に興味があって読みだしたが、この遺跡の内容を見ると、それが琉球弧の全体にもかかわるものであり、琉球の歴史にも影響を及ぼしたことがうかがわれる。実際に、琉球のグスク時代や三山時代などにどのような影響を与えたのかは、論者によってさまざまな見方がある。
 沖縄各地に残されている伝承には、アマミキヨ伝説、為朝伝説、南走平家伝説にみられるように、大和からの渡来をうかがわせる伝承や倭寇が根拠地としたなどの伝承が数多くある。沖縄の歴史形成に、外的な力や渡来人が強い影響を与えたことは間違いない。 

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シニアピアノコンサートでツレが演奏

 ピティナ第17回シニアコンサートが沖縄市の「あしびなー」であり、ツレが出演した。
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 ツレは、ピアノを習い始めてまだ5年未満だが、5回目の出演となった。
 独奏とアンサンブル併せて合計23の演奏が披露された。
 みなさん、ミスはあっても気にしない。ピアノを弾くのが楽しくて仕方ない人たちばかりだ。中には、子どもの頃、ピアノを習うのが嫌で仕方なかったけれど、今はとても楽しいとおっしゃる人もいる。
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カルチャーセンターで習っている人や、先生に就いている人などさまざまだ。例年、ポピュラー音楽を演奏する人がかなれいたけれど、今年は9割はクラッシック。それもショパンが圧倒的に多かった。
 ツレは、ショパンの「ロマンス」を演奏した。とても情感のこもった演奏だったと思う。
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 5回連続出演ということで賞状も頂いた。中には、10年連続出演という方もいた。継続は力である。それは歌三線も同じだと思う。
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 最後の主催者の挨拶で、「子どもの演奏会とは違って、ミスはあってもそれはよい。ピアノの音に年を重ねた深みがある」という趣旨のことを話された。その通りだと思った。ピアノがその人の人生にとってかけがえのない存在になっていることが、演奏からも感じられた。

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「あの時君は若かった」番組900回記念、SSカンパニーライブ

 RBCiラジオの番組「あの時君は若かった」900回記念SSカンパニーライブが北谷町のライブハウス「モッズ」であり出かけた。
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 懐かしのGSナンバーが聞ける番組だ。沖縄のGS愛好会会長を自認するパーソナリティー箕田和男さんと沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのリーダー、瀬底正真さんが担当。1999年に放送が始まって900回を数える人気番組だ。
 ライブの模様を写真と動画で紹介する。
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 記念ライブでは、SSカンパニーが、お馴染みのGSナンバーを続けて演奏。メンバー一人一人がそれぞれ歌った。箕田さんも、「僕のマリー」など聞かせてくれた。
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 ライブには、瀬底さんの次男で、いま東京でボーカル教室を開いている正平君が、生徒さん5人とともに参加。「正平&結」で「恋のフーガ」など歌った。
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 番組900回記念で箕田さん、瀬底さんにケーキと花束が贈られた。
                花束

 
 ライブの最期は、「佐敷幼稚園」、「また逢おうね」で、ダンスの輪が会場いっぱいに広がった。
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「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

 「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。
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 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。
 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。
 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。
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 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。
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 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが事実ではないと指摘した。
 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。
 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。
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 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。
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 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

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盛況だった第3回シニア世代のピアノ音楽会

 第3回シニア世代のピアノ音楽会がアルテ・ウォーバAホールで開かれた。
事前の募集・参加の熱心な呼びかけの努力もあって、アルテ関係ではない人が半数以上いた。初めての参加者もおり、とても盛況だった。
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 ピアノのレベルの違いとか関係なく、ピアノを愛する人ならだれでも参加できるこの音楽会は、3カ月ごとに開かれ、今回は3回目となった。
 もっとも驚いたのは94歳のМさんが「帰れソレントへ」など2曲を演奏したこと。ピアノに向かう凛とした姿はとても90代とは思えない。美しく、力強い音を奏でた。娘さんも素晴らしいピアノを聞かせてくれた。
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前回から参加のKさんは、病気で今回は参加できないといっていたけれど、医師の外出許可を得て来られて、バッハ「パルティータ」、ブラームス「間奏曲」を演奏した。2曲とも、私も大好きな曲だけに、聞きごたえがあった。
 今回も、夫さんが奥さんのピアノ伴奏で「小さな部屋」(武満徹)を歌った。
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 ツレは、ピアノ独奏で「ワルツ・レント」、ショパンの「ロマンス」を演奏した。音楽会の準備多忙で練習時間も十分とれない状態だったが、とても情感のこもった演奏だったのではないか。
 弾き語りで「愛の讃歌」(美川憲一版)」を歌った。
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 前回から参加のSさんは、「Happy Birthday to you」「ルパン三世」を弾いた。いずれもジャズ風の演奏でとても楽しめた。おりしも、この日誕生日だった方がいて、わがことのように喜んでいらっしゃった。
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 このほか、毎回出ている徳門さん、平良さん、新田さん、ふーみんさん、奈々さんもそれぞれお得意の曲を演奏した。みなさん、ピアノ演奏が楽しくって仕方ない様子だ。
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          写真は、リラックスマン姿で演奏する新田さん
 私は、ツレのピアノ伴奏で「童神」「島人ぬ宝」の2曲を演奏した。とくに「島人ぬ宝」は、ツレの囃子が入ると、手拍子をいただき、大盛り上がりだった。
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 今回は「琉球新報」から記者が見えて、熱心に取材してくれた。ローカルFM局のパーソナリティをしている人も、ツレのお誘いで奥さんとともにお見えになった。「とても楽しかったですよ」と感想をのべていた。


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琉球弧の歴史と喜界島(11)、外的な力

琉球に影響を与えた「外的な力」
 琉球のグスク時代とそれに続く時代の発展について、琉球の「内なる発展」ではなく、「外的な力」の働きがあったという指摘がされている。
池田榮史氏(琉球大学教授)は、11世紀以降から琉球国成立期までに琉球諸島への外的な力について次のようにのべている。
<11世紀代の沖縄諸島、さらには宮古・八重山諸島で起こる社会的文化的変化は、南島物産の調達を目的とした日本古代国家や商人たちの動きによって引き起こされたものであり、沖縄諸島における貝塚時代からグスク時代への転換、さらには宮古・八重山諸島を含めた琉球国成立への胎動は、このような外部すなわち日本からの働きかけによって引き起こされた(池田)。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>
                   糸数城跡
                    南城市の糸数城跡
 さらに、おおむね14世紀後半から15世紀半ば頃にかけての時期に、いずれのグスクでも大規模な拡張が行われたことについて、次のような指摘がされている。
<池田榮史は、こうした大規模な拡張工事による、城塞の拡大と整備、基壇建物の造営という構造化は「内部の論理」(内なる発展)ではなく、外的な力が働かなければ起こらないと指摘する。このグスクの構造化に働いた外的な力とは、琉球が明の招諭によって朝貢を開始し、交易が急激に拡大したことであることはほぼ間違いない。…
 城塞型の大型グスクの大規模な拡張工事を行うためには、莫大な財の所有とともに、土木・建築技術者、瓦工など多くの技術者集団などを差配できる存在を想定しなければならない。…
 大規模な拡張工事を行い、城塞の整備や基壇建物を造営する財力を持ち得たのは誰か、という問題が生じる。…外部からの力を想定しなければ説明することは難しい。また、交易システムの急激な転換は、朝貢貿易の開始という明の働きかけによる要因ばかりではなく、沖縄島への新たな交易者の参入や、それに刺激を受けた在地の勢力による新たな交易システムの構築によってもたらされたと考える必要があろう。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>

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