レキオ島唄アッチャー

世界へ響け! 三線大演奏会で弾いてきた

 世界に広がる沖縄県系人が一堂に集う「第6回世界のウチナーンチュ大会」が26日から30日まで開かれた。最終日の30日午前、世界各国の三線演奏者が集い沖縄の伝統文化の音色を発信しようと「うまんちゅ三線大演奏会」が、沖縄セルラースタジアムで開かれたので、参加した。6000人がいっせいに三線を弾こうと参加の募集があったので申し込んでいた。
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 会場に9時過ぎに着くと、たくさんの三線愛好者がつめかけて来ていた。三線を教える研究所や各地のサークルなどグループでの参加が多い。私のような個人の参加も結構いる。アルテの三線仲間である比嘉さんも、「国際通りであったパレードを見てとても感激したので、参加することにしたんですよ」と話していた。
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 会場はグラウンドで演奏するのかと思っていたら、入場は観客席の方だった。こちらなら椅子の準備もいらないからよい。
 「チンダミ(調弦)は四です。Cです」と合図があった。自分で調弦して練習していると、そばにきたおじさんが「中弦を少し下げてください」と言う。調弦を見て回る役割をしている方だった。調弦が終わると、さあ、演奏である。
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 スタンドの一番前の席には、この三線大演奏会を呼びかけた人間国宝の照喜名朝一さんや同じく西江喜春さんはじめ琉球古典音楽の先生方が並んでいる。
 演奏曲目は、古典音楽の代表曲である「かぎやで風節」「安波節」、世界のうちなーんちゅに歌い継がれる教訓歌「てぃんさぐぬ花」の3曲である。
 野外でこれだけの大勢で弾けば、他人の音があまり聞こえないで、演奏がばらつくのではないかと心配になる。
 演奏開始の合図の赤棒が振り下ろされると、一斉に三線が奏でられた。数千人の合奏なのに、見事に合っているではないか。心配は杞憂であった。数千の三線の奏でる大音色と歌声がスタンドの屋根に響きわたった。
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 同じ曲を3度、4度と演奏した。「てぃんさぐぬ花」の後に急きょ、「安里屋ユンタ」を弾こうとなった。合わせて4曲を演奏した。 
 
 参加者のなかには、あきらかに外国から来た人もいた。
 参加者の演奏レベルはまちまちだ。まだ曲を覚えきれないで、工工四(楽譜)を見ながら演奏する人もいる。
 でも、ベテランも素人も心ひとつにこれだけの人が演奏する機会は例がない。今回が初めてである。みなさん、大演奏会に大満足の様子である。
 世界のウチナーチュ大会は5年に1度だから、次は5年後までないだろう。おそらく、これだけの人が一斉三線演奏するのはギネスブック認定ものだが、今回は認定の申請はしていないようだ。でも、世界で例のない大演奏会だったことは間違いない。
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暑かった、沖縄の産業まつり

 第40回を迎えた沖縄の産業まつりが21~23日、那覇市の奥武山公園で開かれた。
 今年は、当初の予想とは違って、とても天候に恵まれた。真夏のような日差しと暑さの中、汗だくだで見て回った。
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 同産業まつりは、「海洋博ショック」と呼ばれた経済不況を脱しようと1977年にスタートしたという。
 「その後の発展には目を見張らされる。第1回の参加75企業・団体が、今回552と飛躍的に拡大した。商品レベルも向上し、農林水産、製造、観光業など全産業が集う県内最大の総合産業展として定着している」(「琉球新報」21日付)。
 青空の下、たくさんの店が軒を連ねている。県内各地の泡盛酒造所が出店しているので、いろんな泡盛を試飲できるまたとないチャンスだ。珍しいものでは、ユリやデイゴを使った泡盛やアルコール度数50度、65度のものまであった。試飲してみると、度数が高いので口に含んだ瞬間、フワッと蒸発する感じだ。与那国島の「どなん」を思わせる。泡盛は確か43度より高いものは作れない。それで、表示としては泡盛ではなく、「工業用アルコール」という名称になっている。
 ただし、お買い上げはこれではない。古酒(クース)が6割入った43度の泡盛がお買い得なので、晩酌用に買った。
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 ツレは、梅酒や甘酒を試飲し、お気に入りを買い上げた。泡盛の売れ行きは、伸び悩んでいるので、どのメーカーも、梅酒、甘酒をはじめ女性にも親しまれるお酒に力を入れている。
 食べ物では、「テビチ煮つけ(豚足)」が、スーパーよりかなれ安く販売されており、2袋GETした。それだけで食べれるが、大根と煮たり、おでんに入れても美味しい。
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 やちむん市(陶器)では、サンマ塩焼き用の長いお皿をツレが買い求めた。「訳あり」で超お安く売っていたのでラッキーだった。
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 産業まつりといえば、オリオンビールの工場直送の生ビールを飲めるのが楽しみの一つ。あちらこちらのお店で買った鶏唐揚げ、メンチカツ、ソーセージを食べたが、ビールに合う。 
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 毎年、魚のてんぷらを売っている鮮魚店に立ち寄った。こちらの店はなんと石垣島から出店しているという。
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  イカとモズクのてんぷらも買ってみた。良いお味だった。
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 それにしても、今年の10月は暑すぎる。連日30度超えである。「今年や秋は来ないのか」という声が聞かれる。そろそろ涼しくなってほしい。
 
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「とことん昭和歌謡」の良明birthdayLive

 沖縄を代表するギターリスト、長嶺良明さんの54歳の誕生日を祝うbirthdayライブが20日夜、北谷のライブハウス「モッズ」であった。
 「今年も とことん昭和歌謡」を銘打っていた。
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 birthdayを祝うファンで会場は満席。見渡すと、昭和歌謡の世代ではない若い女性たちもいる。良明ファンの幅広さがうかがえる。
 前半は、F&Yが日頃あまり歌っていなかった曲を演奏した。良明さんは、birthdayらしく、ビールで乾杯して気合を入れていた。
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 今回は、ふーみさんの奥さん、ユッコさんが登場。「М」など数曲、若々しい歌声を聴かせてくれた。前から一度、聴きたいと思っていたが、チャンスに恵まれなかったので、今回はラッキーだ。
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 ふーみさんは、いつものギターだけではなく、パーカッションをいくつか揃えて担当。多彩な音で楽しませてくれた。
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 良明さんに、birthdayケーキが贈られた。通常なら、続けて他のプレゼントを贈るのが慣例なのに、なぜかそのまま前半終了となった。
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 後半は、かでかるさとしさんが得意の替え歌を披露した。「あずさ2号」の替え歌「銀バス2号」などどれも沖縄らしい内容で面白く、笑わせる。
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 最後は、ロックシンガーの城間健i市さん。いつものように、しゃべり出すと止まらない。爆笑に次ぐ爆笑。歌に入れば、「ダンシング・オールナイト」をはじめ、歌う曲はすべて「健一ワールド」をつくり出す。その圧倒的な歌声に魅了される。
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 アンコールでは、ユッコさんとバイオリンのくによしさちこさんのユニット、「パンクレディー」がピンクレディーになりきり、「ペッパー警部」を歌った。チャーミングな姿で振り付けも完璧。拍手喝さいを受けた。
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 最後は「F&Y」定番の「落陽」などアンコール曲を歌い、なんとか目標の12時前に終了した。
 昭和歌謡に徹した楽しいステージだった。お祝いされるはずの良明さんは、すべての演奏曲目でギターを弾き、休むひまもない忙しさだった。
 でも、演奏する当人たちも、みんなを楽しませることで、なにより自分たちも楽しい。そんな沖縄のミュージシャンの心意気がとても伝わったライブだった。
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 ライブ終了後、良明さんに糸満のライブ常連さんらからプレゼントが贈られた。なぜかオバケ写真のようになったが、お菓子のレイをかけられ、女性陣に囲まれた良明さんの笑顔が素敵なのでアップしておく。
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琉球弧の歴史と喜界島(その7)、奄美の歴史から

 奄美の歴史から
 これまで喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が南方交易の拠点であり、琉球弧の島々にも様々な影響を与えてきたことを見てきた。ここで、改めて古代から中世にかけて奄美諸島の歴史を簡略にみておきたい。
 奄美群島は、早くから日本に知られていたようで、7世紀に『日本書紀』には「海見嶋」、「阿麻弥人」として登場。『続日本紀』には「菴美」、「奄美」とあり、奄美群島のことだと考えられるそうだ。

 <733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている(「ウィキペディア」の「奄美群島の歴史」から)。>

                  東シナ海の交易航路と黒潮の海流
              
            東シナ海の交易航路と黒潮の海流(谷川健一編『日琉交易の黎明』から)


 大宰府管内襲撃事件というのは、997年、大宰府は「南蛮(奄美人)」が大宰府管内の薩摩、肥前、肥後、筑前、壱岐、対馬を襲い、300人以上が略奪された事件である。
 <奄美島人(南蛮)の大宰府管内への襲撃事件が繰り返し起きている頃に喜界島の変質が起きていることは明らかである。さらに、注目すべきことは997年の大宰府管内襲撃事件を含めて、断続的に続いた奄美島人の襲撃事件の対象につねに含まれているのが大隅あるいは薩摩だということである。(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)>

 なぜ、奄美人が海を渡って九州まで襲撃したのか。
 <これらの事実が示しているのは、ヤコウガイをはじめとする南方物産の交易に、南九州を中心とする有力者が強く関与しようとした結果、奄美島人側の反発を招き、大宰府管内への襲撃事件が引き起こされたのではないかということである。(同書)>
 興味深いのは、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を命じいていることだ。「貴駕島」は、喜界島の可能性が高い。
 同じ奄美群島のなかで、喜界島に「奄美人」追補を命じたことは、喜界島は他の奄美諸島とは異なる立場にあることを示している。大宰府の管轄下にあったようだ。

 奄美群島のふたつの世界
 当時、奄美群島は二分されて認識されていたらしい。鈴木靖民氏は次のように指摘している。
 「10世紀最末、11世紀初において奄美諸島が一括できる政治的、社会的状況にはなく、古代国家、九州諸国の人たちから喜界島とそれ以外とに二分されて認識されている。喜界島の大宰府ないし古代国家側に立つ位置付け、特性に注目しなければならない。つまり奄美大島と喜界島との並存ないし対抗が認められるのである。(『日本古代の周縁史』)」
 同じ奄美諸島の中で、古代国家側に立つ喜界島と、奄美大島は対抗する立場にあったという。それぞれ異なる役割を担っていたという。
 <奄美諸島の古代、中世成立期において、喜界島と奄美大島は日本古代国家の「南島」政策ともかかわって二つの中心地であり、それぞれ異なる役割を担わされたと思われる。(同書)>

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アルテで「島人ぬ宝」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が15日夜、開かれた。今月のテーマは「晴」。エントリーは10組と少なかったけれど、飛リ入りがあり、聴きごたえのある音楽会となった。
 南亭こったいの落語は「船徳」。大阪で開かれた社会人落語選手権で披露した演目を話した。昨年は決勝10組に残ったが、今年は残念ながら11位だったとか。 来年は是非、決勝めざして頑張ってほしい。
 今回のファクトリーは、長くアルテに勤めて、ファクトリーのお世話もされた八重山唄者のソノさんが、出産のため一時、故郷に帰るので、しばしのお別れの会になった。同じ歌三線をやってきた方々は是非みんな三線を弾こうという呼びかけもあり、この日は5人が三線を披露する近年にないファクトリーとなった。
 そのトップバッターが比嘉さん。八重山の「月ぬ美しゃ節」を歌った。歌い初めた時間にまだソノさんは見えていなかった。その後、見えたので、「ソノさんに聞いてほしい」ともう一度、演奏した。味わいのある歌だ。
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 三線続きで、玉那覇さんが「ナークニー(宮古根)」を歌った。伸びやかな声がとてもよく出ていたと思う。
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 カオル&タカは、今回はオリジナルではなく、パフィーの「マザー」を歌った。先月は途中、エレキの電源がトラブルを起こしたが今回は見事リベンジした。
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 タカ&カオル(ギター)&りえ(ボーカル)の初めてのユニットは「ラビング・ユー」 を歌った。
 越智さんは、今回珍しくギターアンサンブルが出ないので、ソロで映画音楽「鉄道員」など演奏した。ソロ演奏も大いにやってほしい。
 私は、ソノさんとの一時のお別れなので八重山民謡を歌いたい気もあったが、ツレのピアノ伴奏でbeginの「島人ぬ宝」を歌った。歌詞の中に「空」が出て「輝く星も」と歌われるので「晴」のテーマと合っているからだ。
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 ボブ・ディランのノーベル文学賞が話題だが、石垣島出身のbeginの比嘉栄昌の数々の楽曲は、沖縄に生きる人々の日常の暮らしと歩み、胆心(ちむぐくる)を掬い取ったその歌詞は、見事な現代詩である。民謡にしても島唄ポップスにしても、歌の常とう句をちりばめたような歌詞が多いなか、beginの歌は抜きんでている。だから、県民にとても愛されている。私的には、沖縄を代表する詩人、「沖縄のボブ・ディラン」だと思う。
 肝心の演奏は、みなさんから手拍子もいただき、楽しく演奏で来た、と思ったが最後に落とし穴が待っていた。最後のフレーズをもう一度繰り返す練習をしていたのに、本番ではうっかり忘れて、エンディングに入ってしまった。ピアノとずれてしまい、慌ててもう一度、最後の「それが島人ぬ宝」と繰り返し歌い終えた。やはり、ライブはコワイ。

 熊本から子ども連れで見え、ライブをしていた川原さんも出演。オリジナルらしい「藍の海」をピアノ弾き語りで歌った。透明感のある歌声だった。
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 飛び入りでヨッシーさんが久しぶりに出て来て、得意のブルースを歌い、聴かせた。
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 ソノさんは、ピアノのしのさんのオリジナル曲「凪」を歌った。なかなか素敵な曲と歌声だった。
 ゆみこ&きぬえ(オカリナ)&ふーみん(リコーダー)&越智(ギター)は、「見上げてごらん夜の星を」を合奏した。
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 ツレは、ピアノ独奏でショパンの「ロマンス」を演奏した。9月に20歳で亡くなった愛猫(人間だと100歳)への追悼の気持ちで選んだ曲。とても思いがこもった演奏だったと思う。
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 和田さんはギター独奏でクラシック曲を演奏した。プログラムではビラロボスの曲となっている。少しラテンの香りがしたのはそのせいだろうか。
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 きぬえさん、ソノさんは歌三線で「上り口説(ぬぶいくどぅち)」を演奏した。1月に独奏したときは上手く弾けなかったからと、再挑戦。見事にリベンジした。お馴染みの曲なので知っている人みんな一緒に歌った。
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 ソノさんは、長くアルテにかかわってきて、しばらくのお別れになるのでその気持ちを歌詞にした「とぅばらーま」と「まみとーま」を続けて歌った。さすがに素晴らしい歌声と三線だった.ぜひまた沖縄に帰ってきてほしいものだ。
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 越智さんのトランペット、ツレのピアノ伴奏で「太陽がいっぱい」を演奏した。テーマにピッタリの曲だった。
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 ふーみんさんは、ジャズフルートで「リパブリック讃歌」を演奏。フルートを習いだしてまだ日が浅いのに、楽しい演奏だった。
 東明さんは、ギター独奏で「ローレライ」など演奏した。
 りえさんは宮城さんのギターにのせて、ボサノバ「トリステ」を歌った。ボサノバは歌もギターのコードも独特で、難しそうだが、よくリズムに乗った歌と演奏だった。
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 改めて、とても充実した演奏会だったと思う。
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地域福祉まつりで「まふぇーらつ節」を歌う

 私が通っている八重山古典民謡同好会のある老人福祉センターのお祭りが、金、土曜日に開かれ、みんなで「まふぇーらつ節・とーすい・夜雨節」を演奏した。
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 この日はあいにくの雨。福祉センターは駐車場が狭いので、車を置いてモノレールで行った。これに乗るのは、10年ぶりくらいか。
 天候が悪いにもかかわらず、会場にはたくさんのお年寄りらが集まっていた。
 日頃、お稽古している歌三線、舞踊、琉球箏、詩吟、レク体操、太鼓・三板(さんば)、コーラス、社交ダンスなど多彩な演目が披露された。
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 センター職員らでつくる「笑福座劇団」は、芝居「ダンパチ屋」を演じて笑わせた。
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 八重山古典民謡同好会は、13名が出演した。「まふぇーらつ・とーすい」は、男女交互で歌う。八重山では、こういう交互で歌う曲が多い。この曲は、父母と死別し、引き取られた先で冷遇される女性の悲話を歌った曲である。「とーすい」は、本歌「まふぇーらつ」に続けて歌う。2曲を通じて彼女の悲劇の物語が展開される。「夜雨節」は、夜の間に降る雨は農作物の成長を促し「豊年の前兆」とされる。五穀豊穣の願いが込められている曲だ。
  演奏は、みなさんの頑張りで上々の出来だったようだ。終わった後、聴衆から「八重山民謡はいいね」と言う声が聞かれたのは嬉しい。残念ながら写真はありません。 

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ミノカズさん、happybirthday

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブがパシフィックホテルにある「barハックマン」であった。初めていくbarである。
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 この日は、先日6?歳となったRBCラジオのパーソナリティ・箕田和男さんのsurprisebirthdayがあった。
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 ミノカズさんは、人気ラジオ番組「団塊花盛り」の火曜日に、SSのリーダー、瀬底正真さんとともにGSコーナー「あの時君は若かった」を担当している。「沖縄GS愛好会会長」を自称している。
 ライブでは、SSがお馴染みのGSナンバーを演奏。ミノカズさんも、何曲か歌い楽しませてくれた。SS応援の「糸満カラーズ」やヘビーリスナーからプレゼントが贈られた。これからもますます元気で活動してほしい。
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 ハックマンは、スペースは広いけれど、barなのでドラムは持ち込めず、ドラムの松ちゃんはカホーンを叩いた。メンバーも椅子に座っての演奏で、雰囲気はいつもと少し違う。でも、演奏の迫力はいつもと変わりない。
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 パンチの効いた演奏に、ライブ常連さんたちのダンシングも過熱する。アンコールでは、箕田さんが再び登場して、盛り上げた。
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琉球弧の歴史と喜界島(その6)、南島と鉄器

 南島と鉄器の輸入
 喜界島の城久(ぐすく)遺跡で見逃せないのは、鍛治炉が多数発見されていることである。鉄器が生産され、それが沖縄にも運ばれたとみられる。
 谷川健一氏は、次のように述べている。
 <「毎日新聞」2007年12月28日夕刊は「喜界島にある11世紀後半~12世紀ごろの大規模集落跡「城久遺跡群大ウフ遺跡」で鉄器をつくる鍛治炉の跡が20基以上、発見された」と報じている。「各鍛治炉跡は直系15~20センチで、いずれもすり鉢状の穴の形をしていた。周辺からは大量の鉄滓(鉄くず)も確認され、砂鉄や鉄製品を溶かしては、新たに鉄器を生産していたらしい。炉に空気を送るための土製のふいごもあった」と述べている。

 琉球社会の農業が飛躍的に発展したのも、また豪族たちが武器として購入し領地の拡大につとめたのも13,14世紀頃のことであり、それには鉄器が決定的な役割を果した。その鉄器を生産する炉のあとが、喜界島で発見されたことはきわめて重要である。城久遺跡で製作された鉄器は沖縄本島にまで運ばれたにちがいない。…
 坊津(鹿児島県)の泊やそのとなりの秋目などは鍛治職人の集中して居住していたところで、坊泊の真中を鍛治屋川が流れ、その上流には鈩迫(たたらさこ)の地名も見える。鈩迫はタタラ吹きをした谷間である。そこで使用した泊の砂鉄で、泊の鍛治屋によって鉄の製品が作られた。鍛治屋川は鍛治の作業に使う水を供給した川である。秋目や坊泊の鍛治技術は、喜界島の城久遺跡に伝えられたであろう。そこから更に奄美の島々や琉球の島々にもたらされたことが推測される。(谷川健一編『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』)>
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                     昔の鍛冶屋を描いた絵(奥間鍛冶屋)
 琉球王国の形成に影響か
 鉄器の流通は、琉球諸島でも社会の一大変革をもたらした。
 「日経電子版 南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃」は次のようにのべている。
 <永山教諭(ラ・サール学園、永山修一教諭)は11世紀後半から12世紀にかけて島外から得た大量の貴重な遺物が出土していることなどから「喜界島で生産した鉄を、奄美諸島や沖縄諸島に流通させることで、対価としての南島産品を獲得し、それを九州以北へ売ることで利益を得ていた勢力があった」ことに着目。「その影響は琉球王国形成の問題にかかわってくるのだろう」と話す。

 本土では稲作と鉄器の流入によって縄文から弥生に時代が大きく転換したように、鉄器は人々の暮らしを一変させる。村上教授(愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授)は「王国が成立する以前の沖縄でも鉄と米は重要な必要物資だったろう」と指摘。「本土では考えられないほど鍛冶炉が多く、製鉄まで行う集中生産をしており、喜界島にとって鉄は沖縄に対する重要な戦略物資になっていたのではないか」と推測する。鉄器を安定的に手に入れる手段を確保した勢力が琉球王国の成立に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
 国学院大学の鈴木靖民名誉教授(古代史)は「喜界島は人の移動を含め交易など物流の拠点となっていたと推測される。南西諸島をめぐる古代から中世の歴史的展開の中で重要な役割を果たしていたことは間違いないだろう」と見ている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃」本田寛成)>
 
 鉄器は、鉄製農具の使用が琉球の農業生産の一大変革をもたらし、有力豪族が争ったグスク時代に武器としても重用されたように、琉球の社会に大きなインパクトを与えた。中山王となった察度や琉球を統一した尚巴志が王になる前に、大和から手に入れた鉄器を農民に分け与え、信望を集めた伝承があることにも示されている。
 喜界島のことを知る前は、鉄器は九州で生産されたものが持ち込まれていたのか、と思っていた。だが、喜界島で11,12世紀にこれほど鉄器が作られていたとすれば、琉球弧に広く交易で流通したものも、喜界島の鉄器だったのだろうか。

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横浜のCSファイナル進出、嶺井捕手ヒーローに

 プロ野球セリーグのクライマックスシリーズの第3戦は、横浜ベイスターズが巨人に延長11回、4対3で勝利し、CSファイナルに進出し、広島と対戦することになった。
 テレビ中継は、日テレ地上波の放送だったので、沖縄では見られなかったが、延長戦に入ったので、地上波は終了し、BS日テレでやっているかもしれないと思い、チャンネルを回すとドンピタリ、延長10回から見ることができた。
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                 野球の写真はすべてBS日テレから
 11回の表、ヒットとフォアボールでワンアウト1,2塁のチャンスの場面で、おりしも沖縄出身の嶺井博希選手がバッターボックスに入った。「嶺井君、ここで打てばヒーロだよ」とテレビ画面に向かって呼びかけた。
 巨人の田原投手の投げた初球を振り貫くと、痛烈なレフトフェンスに当たるヒットで、セカンドからランナーがホームインした。
 その裏、横浜の抑えは山崎投手。シーズン中、たまに打たれることがあったが、この前同僚選手が「山崎は1点差だったら大丈夫。3点差とかだと危ないが」としゃべっていたことがあった。その言葉通り、1点差を守り切りった。
 ヒーローインタビューは当然、決勝点を打った嶺井君がお立ち台に。
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 さすがに嬉しそう。彼は沖縄尚学高校で現ソフトバンクの東浜巨投手とバッテリーを組み、2008年、春の選抜大会で見事優勝した。その後亜細亜大でも、東浜とバッテリーを組み活躍した。3年前、横浜に入団したが、今シーズンは、新人の戸柱捕手がレギュラーに座り、ファームが長かったそうだ。それだけにこの大舞台での活躍は嬉しそう。解説の前横浜監督の中畑清氏は「彼は意外性がある」「インタビューでもしっかり話ができるようになった」とその成長ぶりを評価していた。
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 今シーズンで引退する三浦大輔投手(コーチ兼任)も、初のCSで2位の巨人に勝ち、ファイナルに進出することに嬉しそう。1998年の横浜優勝を経験する唯一の選手だけに、引退前に低迷を抜け出してファイナルまで勝ち上がったことは、感慨ひとしおだろう。
 いまの横浜の力量、勢いからいえば、巨人に勝てることは十分予想されていた。ファイナルの広島はそう容易くはない。なにしろセリーグで圧倒的な強さを誇ったからだ。でも、短期決戦では、どう転ぶのかは分からない。
 今シーズンの対戦成績は横浜の12勝13敗とほぼ互角の戦いをしている。12日からのファイナルが楽しみだ。
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この花火は、横浜のCSファイナル進出を祝うものではなく、那覇大綱挽まつり、RBC市民フェスティバルの奥武山公園で打ち上げられた花火。近くの団地前からよく見えた。
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琉球弧の歴史と喜界島(その5)、南方物産の交易拠点

 南方物産の交易拠点に
 喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が交易拠点だったとすれば、どのような背景のもとに整備されたのだろうか、もう少し見てみたい。
高梨修氏(奄美市立奄美博物館学芸員)は、次のようにのべている。
 <城久遺跡群には、東シナ海周辺諸国の事情によく通じた人びとが往来していた様子が窺われるのである。…
 その背景には、ヤコウガイをはじめとする南方物産交易(威信財交易)の巨大経済的権益があると考えられる。そうした経済的権益を獲得するために、最北の亜熱帯地域(=国家境界領域)に営まれた拠点的施設が城久遺跡群とひとまず考えておきたい。それは、琉球弧を舞台として継続的に営まれてきた南海産大型貝類の長い交易史をふまえ、古代国家・中世国家の展開過程で発生してくる南方物産(=威信財)の大量需要に応じた交易拠点整備と考えてよいかもしれない。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一編、「城久遺跡群とキガイガシマ」)>

  ヤコウガイは種子島・屋久島より南の海域でしか生息しない。「奈良時代から鎌倉時代にかけて工芸品の装飾技法として知られる螺鈿(らでん)の材料として多く用いられた。正倉院宝物などにも見られるが、平安時代には貴族に珍重されたといい、奥州平泉の中尊寺で使用されているのも奄美大島産が用いられたのではないか、との見解も少なくない」(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」本田寛成)。

 <琉球弧を舞台とした南方物産交易は、城久遺跡群の出現を契機としておそらく激変したにちがいない。言い換えれば、城久遺跡群の展開時期に南方物産の大量需要が発生していたにちがいないのである。古代並行段階から中世並行段階にかけて、それは外来者の移動を伴う大規模な社会変動を琉球弧に生じさせたわけである。奄美大島を中心とするヤコウガイ大量出土遺跡、喜界島の城久遺跡群、徳之島のカムィヤキ古窯跡群は、そうした社会変動の証左である。それらの遺跡をめぐる人びとの動きは、従前の琉球弧の考古学研究における貝塚時代後期の停滞的社会の理解では説明できない。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一編)>

 注目される石鍋やカムィ焼土器の出土
 城久遺跡群から、大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器が出土していることも注目される。奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、「南島交易の尖端拠点」だったことがうかがえる。
              各種の滑石製石鍋
        各種の滑石製石鍋(1・2把手付石鍋、3~5鍔付石鍋)=
            谷川健一編『日琉交易の解明』から
 
 城久遺跡からは大量に出土している石鍋は、把手付石鍋がほとんどで、「これらの博多から海路、喜界島に運ばれた公算がきわめて大きい」(谷川健一氏)という。石鍋の産地は長崎県下の西彼杵半島とその周辺だけである。
 <西彼杵半島の大瀬戸町周辺で滑石の岸壁から掘り出されて生産された把手付石鍋は家船に乗せられて博多に運ばれ、日本人や宋商人の日曜道具として使用されるか、それを南島との交易のために海路はるばると南に運んだものと思われる。その際も、九州西海岸の航路に熟知していた家船が石鍋を南島にもたらしたのではないかと推測される。その石鍋最初の大量集積地が喜界島であったろう。そして最終地点は八重山まで及ぶのである。(谷川健一編『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』、谷川健一著「日宋貿易と日琉交易」)>
 注・家船は船を家とし、そこで一生を終える零細な漁民であるが、船団を組んでおどろくほど遠くまで出漁した。
 
 新里亮人氏(伊仙町教育委員会係長)によれば、九州で製作された滑石製石鍋が琉球列島一円で使用されると、奄美諸島、沖縄諸島、先島諸島の各地でそれらの形を真似た土器(石鍋模倣土器)や、滑石の粉末を混ぜ込んだ土器(滑石混入土器)が製作されるようになった。先島諸島は奄美、沖縄諸島とは異なる文化圏に属していたが、滑石製石鍋の使用とともに奄美、沖縄諸島と同じ文化圏に統一されたという。

 <これと同時に琉球列島では畑、田んぼの跡地、炭化した米や麦、鉄製の農具などが遺跡から発見されるようになり、農耕を行なっていた証拠が出揃うようになる。琉球列島における滑石製石鍋と石鍋模倣土器は、農耕社会の成立と足並みをそろえるように出現するのである。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』)>
 石鍋と模倣石鍋の普及は琉球列島における農耕社会の成立と不可分の関係を持ったようだ。

 城久遺跡群から大量に出土した「カムィヤキ」も注目される。徳之島で生産されたとみられるこの硬質の陶器は、琉球弧一円に広がっていったからだ。
 <九州南端から台湾にかけて弧状につらなる島嶼(しょ)群の南西諸島では、古くから表面が灰色をした素焼きの陶器が出土。日本本土の古代から中世にかけて使用された須恵器と似ていることから「類須恵器」と呼ばれていた。壺が多いが、甕(かめ)、鉢、碗(わん)などもある。

 北はトカラ列島から南は波照間島や与那国島までが主な流通範囲である。鹿児島県本土でも見つかっているが、生産地不明で、どこで誰によって作られどのように流通したのか、手掛かりが長く見つからなかった。類須恵器に注目が集まったのは分布域が後の琉球王国の版図とほぼ重なるからだ。
 この類須恵器は琉球文化圏全域で共通に見つかる最も古い遺物といえる。生産から流通、拡散の実態解明が進めば琉球王国の成立過程や実態の理解につながるのではないか、との期待がある。

 生産現場跡が見つかったのは1983年、鹿児島県徳之島の伊仙町だった。東西約1.5キロ、南北約800メートルの範囲に約100基もの窯跡が確認された。詳細な分類の決着はついていないものの、地元で「亀焼(カムィヤキ)」と言われていたため、類須恵器はカムィヤキと呼ばれるようになった。南西諸島で最初の陶器生産はここで始まったのだ。
                     把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所後の位置
               把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所跡の位置
               (谷川健一編『日琉交易の解明』から )
 生産されたのは11世紀から14世紀にかけて。製作技法や窯の作り方、色調は朝鮮半島製の無釉陶器との類似点が多い。後期には中国的な要素が強くなってくるというが、「技術は陶工が朝鮮半島から徳之島に渡来して伝わった」との見方も専門家から出ている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」、本田寛成)>

 カムィヤキの生産と流通が琉球に及ぼした影響について、安里進氏は、琉球王国成立の「前提となった」とする。安里氏は、とくにカムィヤキの流通域が琉球列島全域をカバーしていることと、高麗陶工の招致という点に着目している。先島諸島まで経済圏の一体化が促進され、この「共通する経済圏を土台にして領域支配を南北に展開したのが琉球王国であった」とする(豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』、安里著「琉球王国の形成と東アジア」)。

 さらにカムィヤキの開窯は、「11世紀後半から12世紀前半において、朝鮮半島(高麗)・南九州(日本)という北からの強力なインパクトが琉球列島へ及ぼされ、琉球史の転換を促進する画期的な歴史的事象であった」と指摘している。(同書)

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