レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(その3)、先進地だった奄美

 沖縄本島より先進地だった奄美
 奄美諸島は、15世紀には琉球の支配下にあったので、周辺部分のように見られていたが、それより前の11,12世紀ころは、「琉球弧の中で最も早くから開けた地域」だったそうだ。
 
 谷川健一氏は、「最先端のヤマト・喜界島の城久遺跡」と題して、次のような見解を述べている。 
 <奄美大島にほど近い喜界島には台地の上に城久とよばれる集落があり、そこの遺跡から大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器、または青磁や白磁などが出土した。それと奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、大宰府や薩摩の豪族による南島経営の最前線、あるいは博多商人や宋商の南島交易の尖端拠点として、城久遺跡はきわめて重要な位置を占めていたことが見えてくる。
 これからすれば、11,12世紀の奄美諸島は、琉球弧の中で最も早くから開けた地域であったことは明らかである。これまで琉球王国にとって奄美諸島はその周辺部分とみなす考えが一般的であった。第一尚氏の統一王国以後はそうであったことは確かであるが、それ以前、つまりグスク時代の黎明期においては奄美のほうが沖縄本島よりもはるかに先進地帯であったことは喜界島の城久遺跡は如実に物語っている。そして城久遺跡の背後には博多の日本人商人群や宋商の影がちらついている。商人たちの南島交易への飽くなき欲望は、喜界島や奄美大島をステップとして、南島交易をついには琉球弧の南の果ての八重山まで押し進めている。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一著「日宋貿易と日琉交易」、出所『甦る海上の道・日本と琉球』(文春新書)>
         
                 YouTubeから「城久遺跡群」を紹介する
 

 11,12世紀といえば、琉球はまだグスク時代の黎明期である。奄美諸島はヤマトによる南島交易の拠点化、九州や中国、朝鮮との交易などを通して、早くから開けた地域となり、琉球弧で奄美は「先進地帯」だったという。

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沖縄ジョン万次郎会、亀島靖氏が講演

 第11回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月24日午後、豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。劇作家で著名な琉球歴史研究者の亀島靖氏が講演し、聴衆で会場はいっぱいとなり、万次郎に対する関心の高まりを示した。
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 講演会は、赤嶺光秀会長が挨拶、宜保晴毅市長ら来賓が挨拶した。オープニングで、市内豊崎小学校の愛唱歌「未來への扉~ジョン万次郎からのメッセージ」(2014年度6年生一同が作詞・作曲、嶺井るみ先生が編曲)と歌手の三田りょうさんが歌う「ジョン万次郎の歌~忘れはしない胆心(ちむぐくる)」が紹介された。
 亀島氏は「琉球歴史の謎とロマン~日本の夜明けに貢献したジョン万次郎と牧志朝忠~」と題して講演した。亀島氏は5つのキーワード「黒潮」「クジラ」「牧志朝忠」「明治維新(島津斉彬)」「産業革命」を軸に話した。
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 万次郎が遭難した当時は異常気象で黒潮が南に蛇行したため助かったという。黒潮の三大動物の一つがクジラで、当時のアメリカは捕鯨が重要産業で、鎖国していた日本に捕鯨船が寄港できるように日本に開港させるためペリーが派遣され、琉球に先に来たこと。琉球が異国の人も来るものは迎える精神をもっていることをバジル・ホールの航海記を読んで知っていたとのべた。
 万次郎は、ペリーの来る前年、琉球に上陸したが、鎖国の日本に上陸すれば打ち首にされるかもしれない最悪の事態を想定し、一番上陸しやすい国として琉球に来たが、バジル・ホールの本を読んでいたと思われる。万次郎は、「ABCの歌」をはじめて日本に紹介し、初めてネクタイをし、初めて蒸気船に乗り、初めて近代的な捕鯨術を習得した日本人でもあるとのべた。
 ペリーの来琉のさい対応した牧志朝忠は北京に留学して中国語、ロシア語、英語も学び語学の才能があり外交を担当していた。万次郎が滞在したさい、世界の情報や本も提供された朝忠はペリーに会ったさい、アメリカは一農民が選挙で国王になれると話し、ペリーは琉球の役人がジョージワシントンのことを知っていることに驚いたという。
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 ペリーは、これから日本に向かうが幕府が敵対すれば艦砲射撃で江戸を焼け野原にするつもりだと朝忠に話したので、朝忠はすぐ那覇にいる薩摩の在番に伝え、早船、急便で情報が広島にいた斉彬に伝わり、幕府はペリー艦隊が来てもお台場で砲撃をしないで迎えることになったという。
 当時の琉球は中国から冊封(さっぽう)を受けたが、中国は琉球を支配する国とは見ていない。琉球から毎年7名、7年間の留学生を受け入れ国費で学ばせるなどとても厚遇した。その背景に火薬の原料となる琉球の硫黄が欲しかったことがあるとのべた。
 亀島氏は、RBCラジオ「おもため歴史ゼミナール」で毎日話しているだけに、とてもわかりやすく面白い内容の講演だった。
 
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琉球弧の歴史と喜界島(その2)、突出した位置占める島

琉球弧でも突出した位置を占める喜界島
 城久(ぐすく)遺跡群が、とくに研究者たちに衝撃を与えたのは、基本的にほぼすべての遺物が島外から持ち込まれたものだったということ。同じ奄美諸島でも、土師(はじ)器や在地の土器が圧倒的主体である奄美大島とはまったく状況が違っていた。城久遺跡群の調査によって、喜界島が当時の琉球弧の島々の中でも突出した位置を占めていたことがうかがわれるという。
 <中でも、国衙(こくが)や官衙(かんが)といった当時の国の役所に相当する施設周辺でしか出土しない中国産の越州窯系(えっしゅうようけい)青磁が179点も出たことは、単なる辺境と思われた小島が実はそうではなく、当時の南西諸島海域で突出した位置を占めていたことを明確に物語っている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」、本田寛成著)
                  城久遺跡群
                  城久遺跡群(喜界町HPから)
 <また、朝鮮半島産の初期高麗青磁や無釉陶器の出土が特筆される。交易は朝鮮半島を含んだ環東シナ海を巡って行われていたことがうかがえるからだ。
 
 それはカムィヤキが4000点余りと大量に出土したこととも関係する。カムィヤキ出土例としては生産地の徳之島と並び圧倒的な数量にのぼる。朝鮮系の技術が用いられたとされるカムィヤキの成立と、朝鮮半島産遺物が集中的に見つかったことには密接な関連があるとみるのは自然なことだろう。
 さらに、長崎県の西彼杵半島で11世紀後半から生産されたことで知られる滑石製石鍋が約3600点、計83キロとこれも大量に出土している。滑石製石鍋は沖縄以南の宮古・八重山地方の遺跡で、カムィヤキや中国製陶磁器とともにセットで出土するケースが多い。いずれも喜界島経由でもたらされ、一大交易圏が形成されていた証しと受け取れる。(同)>
 
この遺跡が、大規模であるだけでなく、遺物はほとんどが島外から持ち込まれたものであり、そこは「国家的な行政機関」があり、 「南方物産の交易拠点」として形成されていたことがうかがえる。
 なぜ、この喜界島に城久遺跡群が形成されたのだろうか。「島の人口規模が小さく、外来者による占拠が容易だったから」という見方がある。島の台地上に、大規模な遺跡が展開された要因としては、島内のいたる所に湧水が豊富であること、高所であることから防御性に優れていることなどが考えられるという。

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頑張った!横浜ベイスターズ初のクライマックスシリーズ進出

 プロ野球でセリーグは広島が25年ぶりに優勝したことが最大の話題だが、横浜ベイスターズがクライマックスシリーズ進出もよく頑張ったと思う。なにしろ10年間最下位に低迷していたからだ。
 横浜との関わりは東京に住んでいた時代、ツレが横浜出身なので応援し、横浜球場にも足を運んだことがある。沖縄の春のキャンプでは、宜野湾球場に何度か見に行った。
 権藤監督のもとで1998年優勝した時のチームメンバーは今でも覚えている。その時のメンバーの最後の一人、三浦大輔投手も今シーズンで引退を表明した。010.jpg
          写真は2009年2月、宜野湾での横浜キャンプ
 体力の衰えもあるだろうが、若手が伸びてきて、初めて3位以内でクライマックスに進出できたことも踏ん切りをつける動機になったのかもしれない。
 ラミレス監督の采配については、あまりよくわからない。確かなことは、前監督の中畑清氏の4年間に少しずつチームが変わり、底力をつけつつあったのではないだろうか。昨年、途中でずっこけたが、当初はセリーグトップを走ったことでも、横浜のチーム力の向上がうかがえた。
 横浜球場に若い世代のファンが増え、観客数も伸びて、熱い応援を送ったことも、選手の頑張りを支えたことだろう。
 今シーズンは、3,4月は低迷したが、戦力がととのった5月からは、成績がよくなってきた。前は打線より投手力が脆弱だったけれど、新人の今永、2年目石田、中堅の山口、井納や中継ぎ陣と抑えも踏ん張ったと思う。打線は、4番筒香がオール日本の4番をに座るほどスゴイバッターに成長して活躍したし、ロペスの終盤での見事な働きや若手も成長して、投打のバランスもよくなった。監督はじめコーチ陣の指導も成果をあげているのではないだろうか。009.jpg
         写真は宜野湾キャンプでの工藤公康(左、2009.2)
 シーズンを通して、リードしていれば逃げ切れる、リードされていても逆転する。そんな試合がたびたび見られた。もちろん、中継ぎ、抑えの疲れもあり、逆転負けや競り負けしたこともたびたびあった。だから、優勝できなかった。まだ、戦力的にも厚みが欲しいところだろう。
 でも、初のクライマックスであり、短期決戦となれば勢いのあるチームが勝つ。3位が日本シリーズに出場する下剋上もこれまであった。ぜひ日本シリーズ進出に向けて頑張ってほしい。
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琉球弧の歴史と喜界島(その1)、城久遺跡群

琉球弧の歴史と喜界島

 奄美大島の東約25キロに周囲50キロに満たない小さな島、喜界島がある。島の中央部に城久遺跡群(ぐすくいせきぐん)がある。2002年から始まった一連の遺跡群の発掘調査で、研究者を驚かせる遺物と遺構が次々と出土した。ここは9世紀から15世紀にかけて遺跡だが、最盛期は11世紀から12世紀前半だという。琉球が農耕社会から、有力な豪族が割拠するグスク時代に向かおうとする頃、すでに最盛期を迎えていることになる。広大な遺跡から発掘された遺物は、計約5万9000点にのぼる。喜界島で交易が活発に行われていたことを示している。
 先日、県立図書館でたまたま喜界島とこの遺跡について書かれた著作を目にした。喜界島は、琉球王国の時代、1466年に尚徳王みずから2000人の兵を率いて征討した歴史がある。

 「喜界島は文正元年(西暦1466年)の琉球王の喜界島侵攻からおよそ150年間琉球王の統治下にあったが、慶長14年(西暦1609年)の島津藩の琉球侵攻の結果、琉球から分割されて島津藩に属した」。喜界町ホームページでも島の沿革をこのように記している。
 なぜ、琉球国王が遠い喜界島までわざわざ遠征したのか不思議な思いがあり、興味を持っていた。関係する著作を読んでみると、喜界島のことはもちろん、城久遺跡群の発掘で明らかになった奄美諸島から沖縄を含む歴史像は、よく知らないことばかりだ。そこには琉球弧の歴史を考える上で、とても興味深い内容が多々あった。私の興味と関心にかかわる部分をかいつまんで紹介をしておきたい。

 台地上に広大な遺跡群
 <喜界島には現在、131の遺跡があります。1985(昭和60)年の先山遺跡に始まりこれまでに数次にわたり発掘調査が実施され、その成果として縄文時代前期の約6,000年前に喜界島に人が住んでいたことや平安時代(9世紀)~室町時代(14世紀頃)にかけての大規模な集落があったことや、九州や沖縄などの南北両地域と盛んな交流が行われていたことなどが分かってきています「喜界島町HP」>
               喜界島全図、喜界島町HP
                    喜界島全図(喜界町HPから)


 城久遺跡群はどのような遺跡なのか、どのような意味を持っているのだろうか。
 吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』は、要旨次のように解説している。
<喜界島の台地上に展開する城久遺跡群の発見は、琉球弧の歴史像を転換させる大きな衝撃を与えたと言ってよい。
城久遺跡群の特徴をごく簡単に要約すれば、海成段丘面上の高所(90~160㍍)で営まれた広大な遺跡群であり、在地の兼久式土器などがほとんど出土しない「非在地的遺跡」ということになる。帰属年代はおおよそ9世紀から13世紀とされ、9世紀後半から10世紀前半(第1期)と11世紀後半から12世紀前半(第2期)に盛期があり、ことに後者がもっとも盛行した時期とされる(喜界町教育委員会、2008)。
 現段階で確認されている遺跡群の面積はおよそ13万平方メートルであり、9~13世紀頃の遺跡としては琉球弧における屈指の規模である。また、300棟以上の掘立柱建築物跡が確認され、山田半田遺跡から検出されている大型建物跡は規模、構造からみても単なる集落跡ではないことをよく表現している>。
 ただ、城久遺跡群について、「国家的な行政機関(官衙、カンガ)、さらには南方物産の交易拠点として形成され、台地上の広範囲にわたって多くの人々が暮らしていたとしても、どのような生業が営まれていたのかを含めて、その社会像を明瞭に描けないという点が課題として残る」(同書)という。

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裁判官が国の代弁者になった

 福岡高裁那覇支部の多見谷寿郎裁判長が下した判決は、裁判官を国の代弁者に貶めるような内容だった。16日午後、翁長剛志知事による名護市辺野古埋め立て承認取り消しを巡り、国が県を相手取り起こした不作為の違法確認訴訟の判決を聞いた印象である。
 翁長知事と弁護団は、この判決に「唖然とした」「考えられる最も悪い判決」という感想を語っていた。判決内容を見ると、ここまで国に追随するのかと驚く。
 普天間飛行場の危険性除去には辺野古移設以外にない、沖縄の地理的優位性が認められる、米海兵隊の航空部隊を県外に移転することはできない、仲井真前知事の埋め立て承認は不合理とは言えない、辺野古移設は県民の負担軽減になる、県内移設反対の民意に沿わないが、負担軽減の民意に反するとはいえない、国の説明する外交・防衛上の必要性を県は尊重すべき云々。
 どれも国が主張してきたことと瓜二つだ。
 和解勧告の際の裁判長の見解では、本来、普天間移設問題は、オール日本で最善の解決策を合意し、アメリカに協力を求めるべきなどと、多少なりともまともなことをのべていた。今回の違法確認訴訟では、「県は判決に従うか」と執拗に質問するといった公判の言動から、国寄りの判決になることは予想はできた。予想を上回るひどい判決である。民主主義と地方自治をじゅうりんし、三権分立に背き、裁判所の信用を失墜させるものである。
 国・防衛省、警察に加え裁判所も一緒になって県民の抵抗を抑え込もうとするのか。
 しかし、戦後70年余にわたり、米軍基地の重圧にあがらい、日米両政府の無法な振る舞いと対峙してきた県民は決して屈しない。翁長知事はあらゆる方策をもって新基地は造らせないと言明してきた。知事は「県民のより大きな反発と結束が出てくる」と述べていた。その通りだろう。
政治 | コメント:0 | トラックバック:0 |

中秋の名月にはふちゃぎ

 9月15日は旧暦8月15日で中秋の名月である。
 那覇市内は5時35分が月の出る時間だった。6時30分くらいにカメラを手に月見に出てみた。まだ、空に青さが残る。雲も少しあるが、雲の側で月が輝いていた。
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 15夜といっても、実際の月齢は13・7、つまり13夜。旧暦の日付と満月は少しズレがあるという。満月は17日になる。
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 心なしか、まんまるの円ではないように見える。でも、名月であることには変わりない。17日は天候が悪い予想なので、見えないだろう。
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 旧暦8月15日には、ふちゃぎを食べる習慣がある。お餅に小豆をまぶしたもの。漢字では「吹上餅」と書くらしい。
「旧暦の8月15日(十五夜)に、豊作を祈願してヒヌカン(火の神)と仏壇、神棚に供えた後に食べる縁起物である。小豆には魔除けの意味合いがあり、小豆をつぶさずにまぶすことで当年の災難避けを祈願する」(ウィキペディアから)
 なぜ小豆を潰さずにつけるのか、わからなかったが、小豆に魔除けの意味があるからだという。
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 近くのスーパーでも、ふちゃぎがたくさん並べられていた。わが家でも買い求めて仏壇にもお供えした。家族の健康を祈願した。


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石垣のとぅばらーま大会で今村さんが最優秀

 八重山の名曲「とぅばらーま」を競演する2016年度とぅばらーま大会(石垣市主催)が13日夜、石垣市民会館大ホールで開かれ、島内外から23人が出場した。「八重山毎日新聞」によると、最優秀賞に今村尚貴さん(32)=石垣市石垣=、優秀賞に玉代勢秀尚さん(33)=同=と宮城圭さん(29)=新栄町=、努力賞に黒島章子さん(38)=新川=、奨励賞に西原佑香さん(16)=大浜=が選ばれた。
 大会は、1947年から開いており、旧暦8月の13日の月夜に開かれる。ことしは野外ではなく悪天候のため、屋内で開催された。
  ことしはテープ審査を含む49人の挑戦者の中から、関西代表や予選を通過した16歳から78歳までの歌い手が出場した。 
 YouTubeで大会の模様がアップされていたので、そのなかの今村さんの歌唱の動画を紹介する。
              
 <19歳の時から14回連続で出場し、ようやく頂点を勝ち取った今村さんは「とてもうれしい。支えてくれた両親や家族に感謝の気持ちでいっぱい。ずっと挑戦し続けて悔しい思いをしてきたが、向き合う機会もたくさんできた」と涙ぐみ、「これからもどんどん歌い、最優秀賞者の名に恥じないように歌を磨いていきたい」と意欲を語った。「八重山毎日新聞」14日付>
 一度、聞きに行ってみたいが、なかなか行けそうにない。せめて動画で見ておきたい。今村さんの歌声はさすがに惚れ惚れする。
  最年少の女性の声が素晴らしいのでアップする。
       
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アルテで「浜千鳥節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが10日夜開かれた。今月のテーマは「秋」。久しぶりに出られた方もいて、聴きごたえのあるファクトリーだった。
 トップの島袋さんは、「氷雨」をしっとりと歌った。
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 ゆみこさんはオカリナで「紅葉」、徳門さんはウクレレで「小さい秋見つけた」を演奏した。ゆみこさんは、半年間お休みしたが、また元気な姿を見せてくれたのは嬉しい。
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 伊佐さんは、ギター弾き語りで長谷川きよしの「別れのナンバ」を演奏した。難しい曲なのに、弾ききって、拍手喝さいを受けた。
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 越智さんは、ツレのピアノ伴奏によりトランペットで「秋桜」を演奏した。歌声とはまた違った味わいのある演奏だった。
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 フラメンコギターの和田さんは、今回始めてギター弾き語りでジプシーキングスの「ラ ドンナ」を歌った。フランス出身のこのグループは、フラメンコを基本にしながらラテン、ポップスの要素を入れた演奏でヒットした。ブリジットバルドーやチャップリンもファンだったという。この曲も「BBに捧ぐ」という副題がある。和田さんの新しい面を見せてくれた。
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 ツレは、ピアノ弾き語りで「さよならの夏」を弾いた。本人はいたって不満の出来だったようだ。
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 私は「浜千鳥節」を歌った。サークルで歌うといつもみなさんの歌とズレてしまうので、CDの音源に合わせてなんとか歌えるようになったので、演奏してみた。
 この曲は、琉球王府時代に汚職事件に巻き込まれて、うるま市具志川に島流しにされた伊波里子が、故郷の親のことを偲んで詠んだ歌だとされている。歌詞の中に「海を隔てていても、照る月は一つ」という文言がある。月を眺めて故郷を偲ぶわびしい情景は、季節的には秋が最もぴったりしているので、「秋」の文言はないがテーマにじつけて選曲した。
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 いざ本番になると、さほど難しくもない三線が弾けない。歌だけはなんとか間違わずに歌い終わったが情けない。
 ギターサークルは「里の秋」ほかを演奏。そのあとサークルメンバーの演奏が続いた。
 ギターを初めて2週間の女性は、越智さんといっしょに「ちょうちょ」を演奏した。2週間でもみなさんの前で堂々と演奏できるのが素晴らしい。
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 るりこさんは越智さんとともに「大きな古時計」を演奏した。
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 男性2人のユニット「さらばんじ」は、カリルの「ロンド」を演奏した。速いテンポの曲だけど、息の合った演奏だった。
 「さらばんじ」とは、方言で「最高潮」「盛り上がっている」という意味らしい。演奏も盛り上がっていた。
 メンバーのケンちゃん(右)は「まほろば」を独奏した。
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カオル&タカは、カオルさんオリジナルの「秋の夜空」をギター弾き語りで披露した。とてもおしゃれな感じの曲だった。間奏のタカさんのギターソロの部分が聴かせどころだったのに、残念ながらアンプが本番中にダウン。ほとんど聞こえなくなるアクシデントが起きた。ご本人たちが最も悔しい思いをしているだろう。
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 ツレはピアノ独奏で「ショパンのロマンス」を演奏した。リハーサルや直前練習でも完璧に弾けていたのに、ミスが出てしまった。
演奏のレベルは上がってきているので、また挑戦してほしい。
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 ふーみんさんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で、フルートによる「枯葉」を演奏した。楽しい演奏だった。
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 清美さんは宇都宮さんのピアノ伴奏で「アメイジンググレイス」を歌った。途中で転調して、カンツォーネ風に歌い、また元の歌い方に戻るという高度な歌唱法を取り入れた歌。ピアノもしっかり自己主張をしていて、お互いの緊張感が心地よい。
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大和の城より古い沖縄の石積み城壁

當眞嗣一氏の『琉球グスク研究』から紹介の続きである。
 
 中世城館には石垣の城壁はない
 <城という字は、その字が示すとおり、土と成の2字からできている。もともと日本では、溝(堀)を掘り、その掘りあげた土を盛って土塁をつくることで防御施設とした。…城というとすぐ天守閣が聳える豪壮華麗な城をイメージしがちであるが、この種の城が出現するのは、中世末から近世初期にかけてであり、それ以前の城はすべて土の城であった。>

 <日本の中世城館には、グスクの城壁石垣のような精巧な石垣は認められない。石垣が日本の城郭に利用されたのは、16世紀後半の永禄年間前後であったといわれている。その点、グスクに切石積みの精巧な石垣が出現するのは勝連城跡(下写真)や今帰仁城跡の発掘成果からほぼ14世紀前半から中葉ごろと見られており、城郭建築における石垣発展の面からいえば、2世紀前後日本本土より沖縄の方が古いことになる。>
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 <グスクが造営される時期はほぼ12~13世紀前後からで、この時代の琉球は、農業と東アジア諸国との交易で得た富を基盤とした地方領主である按司が出現し、互いに貿易の利権や支配領域の拡大をめぐって争った国家胎動期であった。>
 <城というと高い石垣や天守閣、白亜の城壁を考えがちであるが、沖縄のグスクにも本土の中世城館にも、天守閣や白亜の城壁は存在しない。本土の城で天守閣や白亜の城壁が存在するのは近世の城郭になってからである。中世の城館は堀や土塁、切岸が見られるだけで、何の変哲もない山や丘同然である。
 その点、沖縄のグスクでは、石塁や石垣が残っているので本土の中世城館と比較すればむしろ城らしく見えるのが多い。>
                    
  <グスク石積みにはいろいろな形態や構造が認められ多様である。用材の取り方からいえば、石面の形状として野面と切石があり、それぞれ野面石、加工石と呼ばれる。石積み技術には野面積み、布積み、相方積みと称される積石技術があり、基本的に野面積みから布積み、そして相方積みへという変遷を辿っている。>
                虎口攻防、今帰仁城(3)
    
         上図は首里城の歓会門虎口での攻防の様子、下図は今帰仁城の攻防の様子
            (當眞嗣一著『琉球グスク研究』から)
                    虎口攻防、今帰仁城(2)

 <城の出入口を虎口というが、グスクにみられる虎口は大陰虎口から石造拱門の虎口までいろいろな形態がみられる。大陰虎口とは、城壁をただ一か所だけ、ある幅で断ち切って出入口をつけたもので最も簡単なものである。このような虎口では、虎口に殺到する敵兵を祓うことができないので、沖縄のグスクでは虎口の前に長く屈曲する通路を取り付けることによってその弱点をカバーした。>
                    糸数城跡 (2)
                         糸数城跡
 <石造りの大型グスクの虎口は、糸数城のように古くは石灰岩の石積みの上に木造の櫓を架す櫓門であった。ところが15世紀頃から石造拱門(アーチ)の技術が導入され、座喜味城・中城城・勝連城・知念城などにみる城門として完成するようになった。石造拱門を造る技術は、大陸から学んだ技術であったが、それを城門に取り入れて、城郭建築に利用して発展させたのは、当時の琉球の人々の知恵の結晶であった。この種の石造拱門は本土の城郭建築には見られないもので、ここにも沖縄の石造文化の一端をしのぶことができる。
 首里城の場合は外郭の門に限り石造拱門をかけ、その上に木造の櫓をのせていた。一方、内郭の門の場合には白銀門だけを除き石造の拱門はなく、単に石垣の上に木造の櫓を架すだけであった。櫓は敵の動向を監視し、敵兵に矢を射る屋根がけをしたところであるが、石造の拱門が外郭だけ架けられるのは、城の攻防戦の際、最も激戦になる率の高い場所が外郭の門で、敵から攻められたときに火などで焼け落ちないようにするためで、とくに外郭の城門だけは頑丈にする必要があったからである。
 石造構造をとる虎口では、首里城歓会門のように城壁を少し凹ませて石垣の左右が迫り出しているのが特徴的である。これは、虎口に向かう敵兵に両側から横矢が掛けられるようにするためである。…
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 座喜味城の場合は、石造りのアーチ(上写真)を虎口にし、東側の城壁を鍵の手に折れをつくることによって虎口に殺到する敵兵を後方や側面から射撃できる工夫をしている。>
 
 『琉球グスク研究』には、長年にわたりグスクを調査した研究の成果が盛り込まれていて興味が尽きないが、今回はこれで終わりとする。
 
 
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