レキオ島唄アッチャー

2年ぶりに県営国場団地祭

 夏ならではのビアガーデンが2日連続であった。
 一つは、旧グランドキャッスル那覇、現在ダブルツリーヒルトン那覇首里城のビアドーム。今年初めてのビアドームだった。ホテルの経営者が代わり、毎年開催のビアドームが7月から、それも金曜日だけ週1回となった。恒例のミスター・ジョークマンライブも月1回となった。今年は、ふーみ&良明のフォークユニット「F&Y」ライブとなった。
 会場は、小学校の先生たちのグループ40人が陣取り、とても年代が若い。「かぐや姫」などのフォークも知らない世代がほとんどだ。
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 糸満の「風は南から」のライブ常連だった人たちが何人か駆けつけた。ライブが始まり,はじめはしっとり系の曲が多いので、みなさん静かに飲み、食べていた。
 でもでも、テンポの良い曲になり、糸満の常連さんが踊りはじめると、いっしょに踊り出す人たちが急に多くなった。
 ステージとは遠い会場の後方で踊り出すと、ステージ前のお客さんたちも、いっせいに後ろの踊る集団に注目する。
 アリスナンバーメドレーになると、先生集団も立ち上がり踊り出し盛り上がる。
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 第2部では、F&Yは、昭和歌謡から洋楽ナンバーまで、次々にお馴染みの曲を演奏し、満席の会場はあちらこちらで立って踊り出す人が増えて、大盛り上がりになった。
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 この日、ホテルからは見事な夕陽が見えた。
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 ライブは、最後に「ふきのとう」の「春雷」で盛り上げ、アンコールでは、しっとりと「涙そうそう」「童神」、さらに「落陽」「探しものはなんですか」を歌い、クライマックスとなった。
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 ビアドームで美味しいオリオンビールを飲みながらのライブは最高である。
 出かける際にデジカメを忘れたので、ガラケーケータイの写真なので不鮮明なのが残念である。

 土曜日は、毎年恒例の近くにある県営国場団地の夏祭り。昨年は台風で中止になったので2年ぶりの開催だった。朝から雨が降り、雷までなって心配したが夕方からは日差しが出て、すごくラッキーだった。
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 祭のステージは、八重山民謡「高那節」に合わせた舞踊で幕開けした。歌三線やエイサーなど続く。
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 祭には、城間幹子市長も出席して挨拶した。
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 驚いたのは、空手の演舞の子どもたちが、空手の前に歌三線を披露したこと。空手の歌三線はまったく異なる鍛錬が必要で、いっしょに教えているなんて聞いたことがない。でも実際に、空手の胴着姿で三線を持ち、民謡を数曲演奏した。その後は、空手の演舞を披露した。沖縄に住んで空手と歌三線を一緒に披露するのは初めて見た。惜しみない拍手喝さいをおくった。
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今年のの祭りのスローガンは「地域揃てぃ遊ぶ嬉しゃや」。沖縄ではこの「みんなが揃って遊ぶ」ということをとても大事にしている。「揃う」とは、地域のみんなのつながり、心を合わせることであり、昔から「結(ゆい)」の心、相互に助け合う「ユイマール」を大切にしてきた住民の気持ちが表現されていると思う。
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 このあとも、ハワイアンから琉舞など芸能の舞台が続いた。夜風が心地よい祭りだった。

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大城按司墓と大城城跡をめぐる(8)、落ち延びた若按司

 落ちのびた若按司の行方
 大城按司は、東大里軍によって滅ぼされたが、大城按司の若按司が逃れて生き延びたので、「小禄儀間村に子孫が広がり、真武は麻氏門中の祖となった」と言われる。その子孫のなかに、「琉球の産業の父」とされる儀間真常(ぎま しんじょう、1557―1644年)がいる。あとから詳しく紹介する。
 「麻姓家譜 正統」(『大里村史資料編』から)から要約して紹介する。 
一世 真武 大城按司(うふぐすくあじ)
童名は思武太金(うふんたがんにい)と称し、唐名を麻普蔚(まふい)という。
その父母は誰であるかわからない。妻は玉城間切垣花村の人である。
長男は真宗である。(大城按司が自害した経過を記す)
 (注) 又吉家の云い伝えによると、大城按司の妻(按司の妻のことを女按司=うなじゃちという)が絶世の美人であったため、大里按司が横恋慕してこれを奪い取るために戦をしかけてきたということである。
 (又吉家とは、九世のとき、次男真周が家督を継ぎ首里の邸に移り住み、長男真代が儀間家の垣花の家屋を継いだ。真代の子孫である又吉家のこと。)
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                   南城市垣花にある垣花樋川(井泉)
 二世真宗 大城之子(おふぐすくぬしい)
 妻は真和地間切儀間村の人である。大城按司が自害したとき、その子真宗はまだ東西もわきまえない程幼なかった。
 母(注・女按司)は真宗を連れて、自分の実家の玉城間切垣花の村にのがれていたが、下の世の主大里按司が此の事を聞き知って攻め寄せてくることを恐れて、あちらこちら逃げ廻った末に真和地間切儀間村の下田原の藪の中にかくれ住んだ。
 そして後々儀間村の住民たちが、その薮に移り住むようになって一村を形成するに至ったので、この村のことをいつの間にか垣花と呼ぶようになった。このことは、我が家に先祖代々受け継がれてきた言い伝えであって、全く真実のことなのである。

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平敷兼七写真展を見る

 戦後の沖縄に生きた人びとを独自の視点で撮影し続けた写真家、平敷兼七さんの写真を見たくて、浦添市のギャラリーを訪ねた。
ギャラリーは、国道58号線の同仁病院の北隣にある。
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 先日、NHKEテレで特集されていたので興味を持った。
 写真展は「『沖縄人人』平敷兼七×石川竜一」。最近、評判の写真家、石川竜一さんとの二人展だ。
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 隣に美容室があるけれど、平敷さんの次女が営んでいるそうだ。ギャラリーは、入場料500円だけれど、「ドリンクがつきますが何にされますか」と言われてビックリ。テーブルと椅子があり、カフェのような感じになっている。すでに先客がいて、休まれていた。
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 写真は、平敷さんと石川さんの写真が区別なくて展示されている。でも、平敷さんはすべて白黒フィルムで撮り、石川さんはカラーなので、それとなくわかる。
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 平敷さんの写真は、沖縄らしい風景や祭り、米軍基地などまったく登場しない。そんな「沖縄らしさ」を撮る人はいくらでもいるので、他の人が目を向けない名もなき庶民、沖縄の底辺を生きてきた人々に温かい眼差しを向けている。ほとんど人物像で、ポートレートのような感じだ。 写真を見ると、被写体の人と深い信頼関係がなければ、このような写真は撮れないだろうと思わせる。                IMG_2561.jpg
 平敷さんは、写真は望遠レンズでとるな、人の息がかかるぐらい近くで接写すること、と言っていたという。写真を見ればそれを実践していたことがよくわかる。それだけ、何度も何度も会って、被写体との人間的なつながりをつくりあげたのだろう。みなさん、とても自然な表情で、その人柄までわかるようだ。
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             上の2枚の写真は、ギャラリーで流されていたビデオ画面から
  石川さんの写真は、同じような人物を撮影しても、人物をアップするのをさけているし、写真から受ける印象は、まったく異なる。
 平敷さんは、デジタルカメラでは若い人にかなわないからと、紙焼写真にこだわったという。
 私は、大和からの移住者で、平敷さんのことはこれまでまったく知らなかった。でも、ギャラリーで写真や日誌、機材など見ていると、沖縄に生きた写真家として、沖縄とそこで貧しくてもたくましく生きる人々に限りない愛情をもっていたことを感じさせる。 
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幻の泡盛「春雨」を飲む

 那覇市小禄にある小さな泡盛メーカー、宮里酒造所が「琉球新報」7月17日付で紹介されていた。そこで作られている泡盛「カリー春雨」は、沖縄で2000年に開かれたサミット夕食会で、各国首脳にふるまわれたそうだ。スーパーなどでは売っていない。噂の銘酒らしい。
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 宮里酒造は、1946年創業で、唯一の銘柄が「春雨」だという。だけど、一時、小売りをやめて他の酒造所へ原酒を出荷する「桶売り」だけにしていたので「幻の酒」と呼ばれたそうだ。その後、販売店や愛飲家の強い要望を受けて、97年、一般販売を再開したという。蒸留後、一般酒でも1~2年間、タンクでねかせてから出荷するそうで、「古酒のような味わい深さが人気の秘密」(「琉球新報」)という。
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 前にどこかのテレビの沖縄ルポ番組で、宮里酒造が取り上げられ、「春雨」のことは聞いていた。小さな酒造所で本当に手作り感があった。ただ、「あまり沖縄らしくないネーミングだなあ」という印象があった。
 幻の泡盛が近くの小禄にあるなら、一度は飲んでみたいとの思いが強くなった。 どこに行けば売っているのか。そうだ。お酒専門の「アルテック」ならあるかなと思って、行ってみた。
 ありました。ただし、3年以上ねかせた古酒でもないのに、値段は古酒以上に高い。1升ビンだと、普通30度の泡盛は1000円ほどだが、「春雨」は2600円する。通常、古酒でも30度だと2000円以下で買える。試し飲みにしてはちょっと高い。
4合ビンがあった。これで1600円。これも、通常、古酒でも30度なら1000円ちょっとで買える。だが話のタネであり、4合ビンを買い求めた。
 さっそく飲んでみた。普段、泡盛はお湯割りが好きだが、良い酒は湯で割らずにまず、ストレートで飲むのに限る。確かに、古酒のようなまろやかさがある。その後、お湯割りで飲んでもジョートーだった。小さな泡盛酒造所でも頑張っているところがあるんだ、ということがよくわかった。


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大城按司墓と大城城跡をめぐる(7)、尚巴志の仇とは?

 尚巴志の東大里城攻めは敵討ちなのか?
 尚巴志が東大里城主を滅ぼしたのは、大城按司の敵討ちという見方とは逆の見方もある。
 <真武の幼い子の真宗(しんそう)は小禄儀間村に子孫が広がり、真武は麻氏門中の祖となった。
 1416年(応永23)年、尚巴志の北山攻めに従軍した真宗は、読谷山陣中で自殺したといわれている。真宗の墓は読谷山間切久良波村に造られ、『麻氏 大城若按司真宗之墓』の石碑が建てられている。尚巴志に見出された若按司だが、父の仇討ちを果たしたいと尚巴志に願い出たが、断られたことに失望したのが原因だったと伝えられている。しかし別の説では、自殺は表向きで、真宗は尚巴志側近に暗殺されたともいわれている。
                   佐敷、尚巴志の碑
                佐敷グスク跡に建つ尚巴志の名を刻んだ石碑
 大城按司真武の父である先代大城按司は、玉城王の長男で本来中山を継ぐべき人であったが、門閥関係で大城按司三代目となった。それ以前の大城には尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にした大城按司二代目がいたが、カヌシー(真武の父)に立ち退かされた。尚巴志にとって真宗は、祖母の仇であった。玉城王直系の曾孫である真宗の存在が三山統一をめざす尚巴志にとって排除しなければならない存在だったとも考えられる。
  若按司真宗が不可解な死を遂げたので、その息子の平良親方と孫の儀間子は難を避けて慶良間島へ逃げた。渡嘉敷島阿波連村の儀間家は、子孫と称して先祖の故地を参拝している(『琉球王国の真実~琉球三山戦国時代の謎を解く』伊敷賢著)>。
 
 伊敷氏は、真宗は「父の仇討ちを果たしたいと尚巴志に願い出たが、断られた」という。そればかりか、尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にしたのは大城按司二代目だったが、真武の父に立ち退かされたため「尚巴志にとって真宗は、祖母の仇であった」とする。
 ただこの場合、真宗にとって仇討の対象である汪英紫はすでに死亡し、その息子の屋冨祖が東大里城主のとき尚巴志に攻められて「大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだ」とされるので、実質的には仇討は成就していたのではないだろうか。

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盛り上がったSSカンパニー中城モールライブ

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブが、中城モールで先日あった。そのライブのなかから、SSの新しいCDに収録された曲の中から4曲を中心にした動画がYouTubeにアップされているので紹介する。
 中城モールライブは、2月に続いて2回目。今回も100人余りの人たちで満席状態となり、盛り上がった。
 ライブでは、懐かしのGSナンバーとともに、リーダーの瀬底正真さんが作詞作曲したオリジナル「はての浜「にーしぇーぐぁばーてぃー」「また逢おうね」や「芭蕉布」を演奏した。
 なかでも「にーしぇーぐぁばーてぃー」は沖縄らしい面白い恋歌である。歌詞は全部、ウチナーグチ(沖縄語)で書かれている。若い男を「にーしぇーたー」という。
           
 若い男と年上女性の恋愛は、かつてはタブー。年上女性が若者をたぶらかしたと見られたらしい。
 歌は、世間のそんな評判は気にしない。恋する二人の間は誰も止められない。「たとえ火の中水の中 嵐が来たって離さない」「思い思あーてぃこの世の果てまでーん」と歌う。ライブの後もしばらく「たとえ火の中水の中」のフレーズが頭の中をグルグル回っていた。
  
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アルテで「芋ぬ時代」を歌う

毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーは、今月のテーマは「史」。少し難しいテーマだったが、それなりにみなさん工夫して演奏された。夏風邪気味なので、ごく簡略に報告したい。
 今月は、落語はなし。トップバッターの島袋さんは、ギター弾き語りで「酒と泪と男と女」。すでにビールが少し入りいい声だった。
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 伊佐さんは久しぶり。「虹とともに消えた恋」を歌ったが、淡い高校生時代の思い出話しは何度聞いても面白い。この歌の原曲について、前にわがブログで書いてあるので、興味のある方は見てください。
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 先月から登場の新垣さんは、ギター弾き語りで友だちの作った「学生服」を披露した。少し緊張気味。全員の演奏終了後、もう一度歌った。2回目はのびのびとした歌と演奏で、本人も「2回目は自分でも声がよく出ているとわかった」と言っていた。
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 越智さんはツレのピアノ伴奏で「荒城の月」「さとうきび畑」をトランペットで演奏した。
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 私は、歌三線で「芋ぬ時代」を歌った。芋はかつての庶民の主食だった。朝早く母親が起きて芋を煮る。フーフーいながらみんなで食べる。そんな情景から、三度三度の食事が芋と塩でお腹を満たして命をつないだこと、そんな時代の情けを忘れるな、親への恩を忘れないようにと、説く。そんな歌詞で教訓歌でもある。
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 なんとか余りミスもなく歌えた。

 県芸大学生のTさんは、ピアノでバッハの「前奏曲とフーガニ短調」を演奏した。「これがバッハなのか」と思わせる弾き方でさすが芸大生。
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 伊波さんは、16歳の時作ったという「ハナコの歌」を歌った。こんな若い時の曲をよく覚えていて歌えるのに感心する。
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 仲村さんは、讃美歌をギター弾き語りで歌った。
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 アルテギターサークルは「夏の思い出」「真夜中のギター」を演奏した。
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 東明さんは、ギターとピアノで「ラ・パロマ」など演奏した。東明さんはお年にかかわらずたえざる向上心でギター、ピアノに挑戦する姿がスゴイ。
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 ミーシャさんは、ギター独奏。曲名は紹介がなかったがいつもながら聞き惚れる。
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 ツレは、ピアノ弾き語りで「いのちの理由」を歌った。友だちから勧められた曲だが、歌詞がとても共感を覚える内容で、心もこもった歌と演奏だったと思う。
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 ツレのピアノと私の三線で「芭蕉布」を歌った。かつて八重山で芭蕉布を人頭税で上納した。そんな歴史も歌に盛り込まれているので、テーマにピッタリだ。歌い始めると、三線の調弦がおかしくて、戸惑った。
                 芭蕉布を歌う
 りえ(歌)&ゆきこ(ピアノ)は、「true colors」「横顔」を歌った。りえさんの歌のレパートリーはとても広いのに驚く。
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 ゆきこさんは、ピアノ弾き語りで、映画「もののけ姫」のテーマ曲を歌った。
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 清美さんは、宇都宮さんのピアノ伴奏で「死んだ男の残したものは」を歌った。とっても味わいのある歌だった。
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伊波氏大勝、辺野古NOの民意再び

 参院選は全国的には自民党勝利だといわれるが、沖縄ではオール沖縄の代表、伊波洋一氏が現職の沖縄担当相である島尻安伊子氏に10万6400票の大差をつけて大勝した。
  これで、一昨年の県知事選、衆院選、6月の県議選に続いてオール沖縄勢力が圧勝し、辺野古NOの県民の民意は揺るぎなく、いっそう鮮明になった。
 かつては普天間飛行場の県外移設を掲げていながら、公約を投げ捨て、辺野古新基地建設を容認した島尻氏と民意を無視して辺野古建設を推進する安倍政権、米政府への厳しい審判である。
 自民党は、宜野湾市長選で勝利したので、なんとか潮目を変えたいと狙っていた。島尻氏を大臣にしたのも参院選対策だった。選挙最終日には安倍首相夫人まで応援に来るほど力を入れていた。だが、現実はそんなに甘くはない。今回の敗北について、島尻選対本部長の古謝南城市長は、米軍属による女性殺害事件で「逆境」になったとか、「マスコミ(の報道)が基地問題に特化している」(「琉球新報」11日付け)とのべている。それは敗因のすり替えである。
 米軍・軍属による犯罪、事故は繰り返し繰り返し起き、県民や観光客まで犠牲にされている。何回、悲惨な事件が起きても、「綱紀粛正」「再発防止」のお題目を唱えるだけで、その根源にある沖縄の米軍基地の重圧、米軍の特権を認めた日米地位協定などの問題に踏み込んだ対応を避けているから、沖縄県民への犠牲は繰り返され、その憤りはたえず噴出することになる。
 マスコミが基地問題を重視せざるをえないのは、この沖縄の現実があるからである。
 かつては自民党を含めて県内への新基地建設反対で一致し、文字通りオール沖縄を形成していたのに、日米政府に追随して脱落したことが県民の審判を受けているのである。
 沖縄では衆参両院の沖縄選挙区の選出国会議員は6人すべて辺野古NOのオール沖縄勢力となった。
 沖縄では安倍政治は拒否された。民意無視の辺野古を「唯一の選択肢」とする頑迷な態度はきっぱりと改めるべきである。
  
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台風去って虹かかる

 台風1号は、台湾を抜け中国大陸に向った。今年は台風の発生がなく、7月に1号が生れたのは観測史上2番目の遅さだったという。急速に発達して900ヘクトパスカルにまでなる強烈な台風だった。沖縄は、与那国島や石垣島など八重山諸島が影響を受けたが、暴風圏には入らないで過ぎ去ったのは幸いだった。台湾は昨年に続き、猛烈台風が直撃しているので気の毒である。
 台風が沖縄本島をそれたといっても、天候は不安定で、断続的に強い風雨がやってくる。台風一過とはならない。
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 そんな朝、南の空に七色の虹がかかった。なぜか最近は虹をあまり見なかった。久しぶり。でも、一瞬のうちにまた雨が降るというか、通り過ぎて、虹は消えていった。
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  夏の間は台風でなくても猛烈な風雨が襲うことがしばしばある。車で買い物のため外出中は、車を下りて店に入るのも困難だ。そんなのとき、大型ショッピングセンターの屋内駐車場に逃げ込むのにかぎる。と思って先日、猛烈な風雨にあい、近くの大型スーパーの駐車場に入ると、考えることは誰も同じ。車が押し寄せ駐車するスペースがない。空いたところを探していたが、ないのでやむなく野外の駐車場に下りると、雨は小やみになっていた。そんな夏の沖縄の雨事情である。
                    サンダンカ1
 今年は、道路脇に植えられたサンダンカが、例年以上に真っ赤な色彩で咲き誇っている。もう暑苦しいほどである。まだ沖縄の夏は始まったばかり。あと4か月は続くだろう。これから台風シーズンに入り、どうなることか。雨は降らしてほしいが、被害をもたらすような直撃は勘弁してほしい。毎年の県民の願いである。
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大城按司墓と大城城跡をめぐる(6)、東大里城を攻めた尚巴志

 尚巴志が東大里グスクを攻める
 1387年、島添大里按司・汪英紫が病死したので、豊見城城主の汪応祖が東大里城主の座についた。しかしその後、1403年、南山王の承察度が亡くなり「王に子なし」として汪応祖が南山王に就き、東大里城には弟の屋冨祖(やふそ)が入った。
 屋冨祖は、「父や兄のような政治的な手腕がなかったので、新興の大勢力佐敷按司尚巴志とつねに小ぜり合いが続いた」(『大里村史通史編』)という。 
 <智謀に欠けた大里按司は施す術を失ない、佐敷勢を防ぐ力なくついに大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだのである(同書)。>
                    佐敷グスク跡
                     佐敷グスク跡の案内板
 東(島添)大里グスクは、佐敷の新興勢力の尚巴志のに攻め滅ぼされることになる。それは、仇討ちでもあったといわれる。尚巴志の先祖の伝承についてふれておきたい。
 <尚巴志の祖父、佐銘川(さめかわ、鮫川)大主(うふぬし)は伊平屋島の豪農でしたが、百姓たちに危害を加えられそうになって島を脱出、馬天に来たと伝えられています。漁労に従事し、ある日、魚売りに出て、大城(グスク)の按司と出会い、認められて、その(娘)婿となるのです。
 その大城按司の娘との間に生れたのが、尚巴志の父、思紹(ししょう)です。その子の尚巴志は21歳のとき(1392年)、父に代わって佐敷按司となり、そして、外祖父の大城按司を滅ぼした仇として、島添大里按司を討伐するのです。これが1402年です。
島添大里按司を討った尚巴志は佐敷から島添大里グスクに移り、かねて島添の支配下にあった知念・玉城まで、その支配下に置いたのでした(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』)。
                      2佐敷グスク跡
                     佐敷グスク跡  
 この大城按司と鮫皮大主との出会いについて、別の伝承もあるらしい。
 <新里村に落ち着いた鮫皮大主は、馬天港から漁に出て生計を立てていた。大城の城の前を魚を担いで通りかかると、門番に大城按司の前に連れていかれた。真鶴金姫(マジルガニ)の婿にしたいと伝えた。姫の婿選びに悩み、トゥチ(占い師)に聞くと、「朝一番に城を前を通る男が姫の婿になる運命の者である」という。その当日、鮫皮大主が通ったのである。伝説も後からの“こじつけ”である。
 鮫皮大主が伊是名城を伊平屋大主二代目に明け渡し、佐敷間切に来たのは、大城按司に請われて、婿になるために来たと考えられる。大城按司は、「仲南山」から伊平屋島に亡命していた甥の鮫皮大主(母は初代大城按司と兄弟)を政略的に呼び寄せた。
 鮫皮大主と真鶴金との間に一男一女が生れ、男子は成長して苗代大比屋(ナーシルウーヒャー)と称した。苗代大比屋は豪農の美里之子の娘を娶り、推されて佐敷按司になった。尚巴志は佐敷按司の子なので佐敷小按司と呼ばれた。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>

東大里グスクを攻略した尚巴志は、南山王の居城の島尻大里グスクに向かうのではなく、中山王の居城を攻める。中山を亡ぼした巴志は父苗代大親(尚思紹)を中山王の位に即がせた。尚巴志は1416年、北山を討つと1429年、南山王の他魯毎を滅ぼし、琉球統一を成し遂げた。ここに南山は終焉を迎えた。

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