レキオ島唄アッチャー

今年も幻想的なサガリバナが咲く、崎山・鳥堀

 一夜限り、夜の間に咲き、朝日を浴びて散ってしまう幻想的な花、サガリバナが沖縄の各地で咲いている。
首里では、崎山の瑞泉酒造がある「瑞泉通り」では毎年、祭りがあるので有名だ。昨年は見に来たのが早すぎてあまり咲いていなかった。
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 陽が落ちないと咲かないので、日没が過ぎた午後7時40分くらいに崎山に行ってみた。
 まだ明るさがあるので、完全に開いていない花もある。
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 この通りは、並木がずらりとサガリバナで、まるで「サガリバナ通り」のようだ。
 ことしは7月2日(土)、3日(日)の2日間、崎山町瑞泉通りで、サガリバナのライトアップイベント「さがり花観賞の 夕べ」が開催されることになっている。この日はまだライトアップはなかった。サガリバナは、 首里では「キーフジ」と呼ばれ、琉球王朝時代に珍重されていたそうだ。
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. 鳥堀に回ってみた。こちらは、崎山よりも花の木が大きい。やはり街路樹で3,4本咲いている。
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 木の上から、花の咲くツルが無数に垂れ下がり、咲いている。まだ蕾もある。壮観である。
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 辺り一面に花の甘い香りが漂っている。2人組の女性がやはり花の観賞に訪れていた。
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 こちらはライトアップの予定もない。少し盛りを過ぎた感じなので、今年は例年より早く咲いたのかもしれない。梅雨明けが早かったことと関係あるだろうか。
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 サガリバナは、遠くに行かなくても、この首里の崎山、鳥堀で十分に堪能できるので嬉しい。
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大城按司墓と大城城跡をめぐる(4)、悲しい落城伝説

 悲しい大城グスクの落城伝説 
 東大里城主と大城按司は、やがて争うことになる。この戦さと大城グスクの落城をめぐっては、悲話がある。
大城グスクから少し北に位置する島添大里グスク(東大里城)を拠点としていた島添大里按司、汪英紫(おうえいし)は、大城按司に妹を嫁がせ第二夫人とし、親戚関係を楯に領地問題をもちかけた。大城按司の嫡妻は垣花城の出自であり、大城按司の所領は遠く佐敷の地まで及んでいた。汪英紫が明貿易を行なうためにはその領地を往還する必要があり、ことあるごとに相争うようになった。
 
 雌雄を決することになり、長堂辺りで大合戦になった。大里軍は逃走の途中、稲福原の淵に伏兵を配備しゲリラ戦術を展開した。大城軍は、逃走する大里軍を見て勝った勝ったと乱舞して喜んだ。旗手の平良蒲戸が踊り狂った拍子に軍旗を倒した。城の物見台から戦況を見ていた妃、若按司らは、軍旗が倒れるのを見て敗戦したと思いこみ、城に点火し、崖下に身を投げた。若按司は外間子という家来に助けられ、母の生家、垣花村に落ちのびた。
大城按司は、出陣の際「負けたときは旗を倒す。そのときは城に火を放ち自らの命を絶て」と伝えていたという。
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                     大城城跡
 長堂で勝ったと喜んでいた大城按司は、振り返ると、大城グスクが炎上しているので、茫然自失しているところに、大里軍が斬りかかってきて力尽き自刃した。(『大里村史』を参考にした)
 
 なぜ旗が倒れたのか。「真実は、旗頭の平良蒲戸は汪英紫に買収され、わざと軍旗を倒したというのである」「戦時中は死んでも軍旗を倒してはいけないのが、旗頭役の務めであった。大城軍の配線は、計画的であった事が推察できる」。伊敷賢氏は『琉球王国の真実』でこのような見方を示している。

 交戦の原因について、こんな説もある。
 「又吉家の云い伝えによると、大城按司の妻(註・按司の妻のことを女按司=うなじゃちという)が絶世の美人であったため、大里按司が横恋慕してこれを奪い取るために戦をしかけてきたということである」(『大里村史資料編』)。
 又吉家とは、麻姓大城按司真武の子孫、九世の長男真代の子孫である。
大城按司の妻が美人で横恋慕したというのは、お話としては面白いが、実際には所領をめぐる思惑など勢力争いがあったのではないだろうか。

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大城按司墓と大城城址をめぐる(3)、東大里城主の汪英紫

 東大里グスクを攻略した八重瀬按司
 大城按司とグスクをめぐる伝承をみてきたが、尚巴志が琉球を統一する前の時代である。かつて沖縄本島は、南山、中山、北山の3つの小国に分立していた。なかでも南山は、様々な有力な豪族・按司の争いと盛衰があり、とても複雑で興味深い歴史がある。大城グスクとかかわる東部の大里、佐敷あたりの歴史を振り返っておきたい。
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                    東大里城跡
 14世紀にいまの八重瀬町の東風平・富盛南方にあった八重瀬グスクの按司・汪英紫(おうえいし)が、いまの南城市大里にあった島添大里グスクを攻略する。
 <南山王承察度の弟八重瀬按司汪英紫は兄に従わず、東海岸の馬天港から明国と交易することを計画。そのため東大里城を手に入れることが必要であった。城主は従兄弟の玉村按司であった。一人息子の若按司を娘に誘惑させ、駆け落ちしたので、東大里城を乗っ取ることに成功した。八重瀬城を息子のカニカマドゥーに任せ、南山の東半分を支配して下之世之主と称した。南山は完全に二つの勢力に分断され、東大里は南山本家をしのぐ勢いであったようである。(『琉球王国の真実~琉球三山戦国時代の謎を解く』伊敷賢著)> 
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                     東大里城跡の説明板から
 「下の世之主」とは、「上の世の主は天の神(太陽神)、地を治めるのが下の世の主」ということになる(与並兵生氏)。
<中山にも、北山にも、王以外の名で独自進貢した者はおりませんが、「王叔汪英紫」は特別に認められたわけです。しかも、その汪英紫の進貢回数は、南山王承察度を上回るのです。どっちが王だか、分からないほどの権勢ぶりです。
 島添大里グスクに入って権勢をふるった汪英紫は、島尻大里グスクにいる「甥」の南山王を抑えつけながら、豊見城に二男の汪応祖(おうおうそ)を、八重瀬グスクにたぶん長男の達勃期(たぶち)を配して、挟み打ちの形で監視体制を取ったと思われます。…このように二重三重に南山グスクを抑え込んで、汪英紫は南山の実権を掌握し、南山王を圧迫していたのです。(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』>
 島添大里(南城市)と島尻大里(糸満市)は言葉が混同しやすいので、伊敷賢氏の表記にならい、東部にある島添大里を「東大里」と表記する。
 東大里グスクを手に入れた汪英紫は、さらに野望をつのらせる。
<東大里城主となった汪英紫は、隣の大城に食指を伸ばした。大城には「仲中山」玉城王の長男大城按司カヌシーの2代目真武(シンブ)がいた。汪英紫の息子の妻と真武の妃他はともに、垣花按司の娘で姉妹であった(伊敷氏)。>

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「慰霊の日」、平和の民謡を歌ってみた

6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終わった日とされ、沖縄戦から71年目の「慰霊の日」。沖縄では休日となり朝から夜まで糸満市の「平和の礎」や「魂魄の塔」などにたくさんの県民が行き、戦没者を追悼し、恒久平和への誓いを新たにした。
 わが家では、自宅でテレビで流される追悼式を見ながら、午後零時、1分間の黙とうをささげた。
 黙祷を始めると同時に、那覇港から碇泊中の船舶がいっせいに霧笛を1分間鳴らした。例年以上に霧笛がよく聞えた。沖縄中が哀悼を意を表していることが実感された。
 この日はラジオでも各番組で、平和の歌が聞こえてきた。民謡長寿番組「民謡で今日拝なびら(みんようでちゅううがなびら)」では、平和を願う民謡特集だった。
 私も歌三線の練習をするのに、「戦世と平和の民謡」をいくつか歌った。「命口説(ぬちくどぅち)」「屋嘉節」「二見情話」「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」など。
 
    
  動画は、知名定男さんの復帰ライブの映像だが、初めは幕が締められているので歌三線だけが流れる。暫くすると幕が開き知名さんの歌う姿が出てくるので、お待ちいただきたい。
 今年の「慰霊の日」は、元海兵隊員による残虐・非道は事件があったばかりなので、米軍基地があるために、凶悪な犯罪が繰り返され、基地が撤去されない限り沖縄の戦後は終わらないという思いを新たにした。                                      
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ストロベリームーン

 2016年6月20日の満月は「ストロベリームーン」と呼ばれているそうだ。夏至の頃の満月は、月の高度が低いことから赤みを帯びるので、その名で呼ばれている。この月を見ると、「幸せになれる」とか言われているらしい。
 写真は残念ながら21日の月である。それも月がのぼり始めた頃なら赤みをおみているだろうけれど、もう午後11時近いので赤みは感じられない。
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 旧暦の5月15日は19日日曜日だったので、21日は17日になる。それでもほぼ満月状態で美しい。沖縄風にいえば、「月ぬ真昼間(つきぬまぴろーま)」。月が真昼のように輝いていることを意味する。
 今年は梅雨が早く明け、真夏のように太陽が照り付ける日々だ。夜空はとても空気が澄んでいる感じで、月も星も美しい。

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久しぶりのSSカンパニーライブ

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブが本拠地、南城市佐敷のカフェSSであり、久しぶりに出かけた。
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 佐敷でのライブはいつもお客さんが満員になる。この日もグループでのお客さんもいて、満席状態だった。
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 SSカンパニーは、この4月に7曲入りの新しいCDを出した。この日もそのなかからいくつか演奏した。
 新しいオリジナル曲のなかでも、とても面白いのは「駆け抜けろ巴志の里」「にーしぇーぐぁばーてぃー」の2曲である。
 「駆け抜けろ巴志の里」は、佐敷出身で15世紀に3つの小国に分かれていた琉球を統一した英雄・尚巴志を歌った曲だ。
 「昔巴志は思ってた この島ひとつにまとめましょう 世界の架け橋大琉球国創りたい」と歌う。この曲は、南城市を駆ける「尚巴志ハーフマラソン」のテーマ曲。SSリーダーの瀬底さんの作詞作曲である。
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 「にーしぇーぐぁばーてぃー」も瀬底さんの作品である。青年と年上女性の恋愛は、かつてはタブーだったそうだ。女性が年上だと若い男をたぶらかしたと見られたらしい。でも歌は、そんなことは気にしない、「たとえ火の中水の中 嵐が来たって離さない」「この世の果てまでーん」と歌う。どちらも沖縄らしさにあふれた楽しい曲である。
  この日のライブでは、瀬底さんの長男でドラムのマット君が「好きさ好きさ好きさ」をパフォーマンスたっぷりで歌った。
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 マイクを握る息子にかわって、父瀬底さんがドラムをたたいた。もともとドラムをやっていただけにさすが上手い。
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 ライブを楽しんでいるともう12時になっていた。外に出ると、空には旧5月14日で満月に近いおぼろ月が輝いていた。
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被害者追悼、県民大会に6万5000人

 「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、海兵隊の撤退を求める県民大会」が奥武山陸上競技場をメイン会場に開かれた。炎天下のなか、6万5000人が集まった。
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 黒い服装で参加をという呼びかけがあり、黒のTシャツに黒の防止、日焼け防止の黒の腕カバー姿で参加した。車の渋滞が起きていて、遅れて参加したので、演壇の横後方にやっと座れた。
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 演壇はほとんど見えない。写真はNHKテレビ画面から使わせていただいた。
 大会は、古謝美佐子さんの「童神」の歌からはじまった。「健やかに育て」という歌声を聞くと、被害者の両親はこの歌のように娘さんを大切に育てて来たのに、元海兵隊員によって無残に殺害、遺棄された。その悔しさ、無念さを思うと、目頭が熱くなる。古謝さんも、胸の内で涙しながら歌ったのではないだろうか。
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 黙祷のあと遺族のメッセージが代読された、「米軍人・軍属による事件、事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。なぜ娘なのか、なぜ殺されなければならなかったのか。次の被害者を出さないためにも、全基地撤去、辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています」。
このあと辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議の共同代表、若い世代の代表、翁長県知事のあいさつが続いた。
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 みなさんの訴えを聞くたびに、また、何度も目頭をあつくした。
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 採択された大会決議は、①遺族、県民に謝罪し完全な補償を、②海兵隊の撤退、米軍基地の大幅な整理・縮小、県内移設によらない普天間飛行場の閉鎖・撤去、③日米地位協定の抜本的改定ーーを求めている。
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 自民党、公明党などは、大会に海兵隊撤退や県内移設反対などが入っていることを「政治利用だ」などといって、大会に参加しなかった。しかし、「綱紀粛正」「再発防止」というお題目では、事件がまた起きることは目に見えている。米兵・軍属による野蛮な犯罪の再発を防止する、なくすためには、決議に掲げられた要求はいまや不可欠である。政治的な主張として掲げているのではない。今回の県民大会でこのような要求を掲げたことは、当然のことだと改めて実感する。
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会場では、「琉球新報」号外がもう配布されていた。
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国は行き詰った、辺野古新基地建設

 辺野古新基地建設をめぐり翁長県知事の埋め立て承認取り消し処分に対する石井国交相の是正指示の適否を審査する第三者機関の国地方係争処理委員会(小早川光郎委員長)が17日、法的な適否を判断せず、国と県の協議を促した。第三者機関といっても、国よりの判断をするのでは、という見方をしがちだった。でも、地方自治をないがしろにするあまりに理不尽は国の強権的なやり方に、係争処理委員会も適法とはできなかった意味は大きい。「実質的な県の勝利」という見方が出ている。
 この審査結果により、県の埋め立て承認取り消しは生きている。国の是正指示の効力も止まっていないと国側はいうけれど、承認取り消しをした県が是正指示に従わなければならない根拠はない。埋め立て工事は中止されたままで続いていくことになる。
 もし、国の是正指示が適法とされれば、県は裁判所に訴訟を起こしただろうが、適否は判断せず、国との協議を求めた結果には、不服訴訟を起こす必要性はあまりないだろう。
 国は県が是正指示に従うように訴訟を起こすことは可能だ。でも、国寄りとみられた係争処理委員会さえ、国の強引な是正指示を適法としなかったのだから、裁判所が適法と認めるだろうか。
 すでに、代執行訴訟で高裁の和解勧告を双方が受け入れた。国が和解を拒否すれば敗訴していただろう。係争処理委員会の結論も、高裁の和解による協議と同じ流れにある。つまり、国の強権的なやり方が、裁判所でも係争処理委員会でも通じなかったのだ。
 沖縄県民の総意と地方自治をまるで無視した国の傲慢な方針は完全に行き詰っている。
 裁判での和解と今回の係争処理委員会の結論にそって、国は沖縄県と真面目に協議を尽くすべきだ。協議を尽くすということは、ことの経過から見て、「辺野古が唯一」という日米合意を見直すことに尽きる。
 高裁でも、裁判長は和解勧告文で 「本来あるべき姿としては、沖縄を含めオールジャパンで最善の解決策に合意し、米国に協力を求めるべきである」と述べていた。辺野古新基地は県民、国民多数が反対している。辺野古はきっぱり断念して、普天間基地の早期閉鎖・返還をアメリカに強く求めることである。それなしに、解決はない。
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大城按司墓と大城城跡をめぐる(2)、大城按司の居城

 大城按司の居城・大城グスク
 大城按司墓から西方を見下ろすと、小高い丘陵が目につく。こちらが大城城跡である。城跡まで道路が伸びている。説明板があり、次のように記されている。
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 「標高130㍍を最頂部とする琉球石灰岩の丘陵上に形成されている。四方は急峻な崖上になっており自然の地形を巧みに取り込んで作られている別称『ウフグシクグスク』とも呼ばれている古城の一つである。
 築城主とその年代については定かではないが、口碑・伝承の中では14世紀の初め頃に大城按司(麻真武)によって築かれたと伝えられている。場内には平らな面が広がり、南側に城門を開き、本丸と二の郭から築かれている。城壁は崖上に沿って野面の石積みで取り囲んでいる。1990年に村の分布調査の結果からはグスク土器、中国製の磁器、褐袖陶器、刀子、鉄釘等が出土した。おおよそ14世紀から16世紀までの資料となっている」。
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 『大里村史資料編』では、次のように解説している。
<玉城按司の次男が大城グスクの按司(大城按司)になったと伝えられているが、この伝説に従えば、大城グスクは14世紀頃の築城ということになる。
 このグスクはグシク時代の遺跡でもあり、採集される遺物からみると、14世紀頃の集落的性格をもっている。おそらく、稲福上御願遺跡のように、防禦集落として出発し、しだいに本格的な城塞へと発達していったものと思われる。城壁石積みがところどころに残っている。…
 城内からは多量の土器・輸入陶磁器のほか、鉄刃子・鉄釘などが多く採集されており、注目される。…
大里グスクと大城グスクとの間には緊張関係があったものと思われる。
右の土器分布状況と符合するかのように、大里グスクと大城グスクとの間に戦争が行われたという伝説がある。>

琉球の古謡集「おもろさうし」には、大里の大城を歌ったいくつかの歌謡がある。
一きこへ 大ぐすく みあがる ぢやうたてゝ しげち もちよせて
又とよむ 大ぐすく

訳文と解説
一聞え大城 見揚がる城門を建てて 神酒を持ち寄せて
又鳴響む大城
大城の繁栄を予祝・讃美したオモロである。大城の見事な城門を建てて、神酒を持ち寄せて。酒は、しばしば富や繁栄を代表するものとして謡われる。
現在は、石垣もほとんど残っていないが、かつては立派な城門を備えたグスクで、繁栄していたことをしのばせる。
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一大ぐすく おやいくさ ぢやくに とよみいくさ みちへど みあぐも
又くにのねの おやいくさ

訳文と解説
一大城の御軍 大国鳴響み軍 見てこそいっそう見たがる
又国の根の御軍
 大城の御軍を讃美したオモロである。大城の御軍は大国に名高い軍である。その御軍は、見てこそいっそう見たいと思う素晴らしい御軍である。
こちらは、大城軍を讃美している。それほど広大な地域を支配していたとは思われないが、こうしたオモロがあるのだから、勇壮な軍がいたのだろう。
(おもろの原文、訳文と解説は『大里村史資料編』から)

 大城城跡の最頂部の広場には、いくつかの石が置かれている。広場周辺にはなぜか「津波古門中」「城間門中」など門中の名前を書いた石碑がぐるりと取り囲んでいる。

城跡内には拝所(上の六ケ所)がある。 
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「頂上の広場は、本丸館跡で、居座元(イジャムトゥ)と呼ばれ二十三の門中名が刻まれたコンクリート碑が立ち並び、ウマチーなどの行事にヌルをはじめ各門中のクディングァ(おこで)が祭祀を行う場所である」(伊敷賢著『琉球王国の真実』)


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大城按司墓と大城城跡をめぐる(1)、ボウントゥー墓

大城按司墓と大城城跡をめぐる

 南城市の大里城址公園からユインチホテル方面に車で走る機会があった。大城按司の墓の案内板があったがその時は立ち寄れなかったので、後日出かけてみた。
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 珍しい「ボウントゥ墓」
 高台を走る道路のすぐ脇にお墓がある。説明板では次のように紹介されている。
 「大城按司真武は三山時代の人で、14世紀中期から末期ごろまでの大城城の城主であったが、麻姓家譜によると、島添大里按司(大里城主)との戦いに敗れ、稲福村の西で自害したという。亡骸は同地に葬られ、小石を丸く積み上げて塚としたという。その塚が現在の墓の原形といわれているが、いくたびか改築され、1892年(明治25)に現在地(大里村字大城)に移築された。この墓は琉球石灰岩の岩山をくり抜いて墓室をつくり、前面は切石積みとし、上部は以前の塚を模してドーム状の石積みとなっている。その形から俗に<ボウントゥ御墓>とも呼ばれており、沖縄の一般の墓とは異なる独特の形式を持つ墓として貴重である。」
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 墓室のある切積石の上に、丸いドーム状の石積みが載っている墓は、他では見たことがない。なぜ「ボウントゥ御墓」と呼ばれるのかはよくわからない。伊敷賢氏は「ボウントゥハカ(坊頭型墓)」との漢字をあてている。丸い石積みが坊主頭に似ていることからこう呼ばれているのだろうか。
 右端にはお墓の説明を刻んだ石碑が建てられている。
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 大城按司墓と道路をはさんではす向かいに、大城按司の妻である「ウナザラの墓」と「ウツーヌアジ墓群」の案内板がる。少し下ると「按司のお墓」「ヌルのお墓」の石碑があり、そこから石段を登って行くと、崖を利用した古いお墓がある。ハブでも出そうな感じなので、用心しながら登った。「ウツーヌアジ墓群」とは誰を葬っているのであろうか。
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 「麻姓大城按司真武塚碑記」には、「大城按司の先祖の墓もまた稲福邑の南の小城山の下にある」と記している。
 「大城按司三代目(カヌシー)の墓は大城グスクの東方の山中にあり、1904(明治37)年に『麻氏先祖之墓』という石碑が建てられている。この墓は御寵之墓(ウチューヌハカ)とも称し、城主が愛用していた寵(ウチュー、かご)が納められていたという。先代大城按司墓の側に先大城ヌルの墓があり、『大城のろくもい先元祖』と書かれた石碑が建っている」(伊敷賢著『琉球王国の真実』)。
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 これによれば、按司やヌルのお墓には、先代大城按司や先大城ヌルが祀られているらしい。
先祖とは誰なのか。大城按司は「英祖王統第4代玉城王の次男であったということであるが、もしその通りだとすれば、同王統第5代西威王の弟であったことになるが、真偽の程は解らない」(『大里村史資料編』)
「大城按司真武の父である先代大城按司は、玉城王の長男で本来中山を継ぐべき人であったが、門閥関係で大城按司三代目となった。それ以前の大城には尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にした大城按司二代目がいたが、カヌシーに立ち退かされた」(伊敷賢著『琉球王国の真実』)
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 英祖王統(1260~1349年)は4代目、玉城王(在位1313?~1336年)であるが、5代目の西威(せいい)王が死んだ際、幼子世子を廃し、察度が国王となったので、英祖王統は90年ほどで終焉を迎えた。もし伝承が事実なら、大城按司真武は英祖王統の流れをくむことになる。

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