レキオ島唄アッチャー

奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(13)、那覇港を統治した小禄按司

察度王統一族は鍛冶職の技術集団 
 伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』から続けて紹介する。
<1330年(元徳2)年頃、奥間大親は屋号又吉の娘を後妻にして、謝名ムイと姉を育て、弟の泰期が生れた。謝名ムイが浦添按司から中山察度王となると、泰期は側近として活躍し金満(カニマン)按司と呼ばれた。1378(天授4)年、察度王が明国に朝貢を始めると、泰期は使者となり明に渡航して宝物を持ち帰った。泰期は始め小禄間切小禄城主だったが、小禄城を息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である。「泰期」と書いて「タイキ」と読ませているが、本来は太刀(タチ)と呼ばれていた名前の当て字であると考えられる。泰期(タチ)は、刀鍛冶(タチカンジャー)であったといわれている。
 泰期は、読谷山間切に宇座グスクを築き、長浜港から中国と交易した。戦前まで沖縄で生産されていた「読谷山(ユンタンザー)」といわれた品種のサトウキビは、その時、泰期が中国から持ち来ものであるといわれ、背丈が低く幹も細かった。…
 糸満市字兼城には奥間城址があり、察度王六男兼城按司の次男が奥間城主となっていた。奥間城では鍛冶が行われ、金城(カニグスク)とも呼ばれ、後世に首里金城と区別するため「兼城」と表記されるようになった。>

 ここでは「察度王統一族は鍛冶職の技術集団」という見出しから興味を引く。とくに泰期についていくつか注目点がある。一つは泰期の名の由来を「太刀」としていること。刀鍛冶であればその名の由来としてありうることではないだろうか。
 小禄城主だったが、「息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である」という。小禄の森口公園を見に行った際、確かに「金満ミテン」「カニマンウタキ」があった。これが泰期(金満按司)と結びついているとは思いもしなかった。
                   金満ミテン006
                   小禄の森口公園内にある「金満ミテン」の碑
 那覇港を統治した小禄按司
 なぜ泰期は、小禄城主だったのだろうか。歴史家の亀島靖氏は、次のようにのべている。
<察度(中山王)は、現在の小禄小学校の東側にある森口公園(戦前は森口と言う御嶽があった)に監視所を設けてこの地域を泰期(金満按司)に支配させた。当然、ここは南山の領域なので南山の最先端である豊見城グスクとしばしば小競り合いが続いていた。そこで、泰期即ち金満按司は、森口御嶽がある丘に城(小禄城)を築いた。現在、金満按司を祭った御嶽は浦添、東風平等の各所にみられるが、金満御嶽は、元々は小禄城内の「イデ」と言う一つの御嶽(ウガンジュ)であった。沖縄では城の中にウガンジュ(神様)があるが本土の城にはない。…
 
 金満按司は、このイデを中心に約2000坪の城を築き南山と戦をした。…察度の弟である金満按司は、那覇港の最初の統治者で管轄者であった。按司は小禄城を築城したほか、貿易に必要な倉庫も造った。現在の明治橋の袂にある「オモノグスク」がその場所である。
 中国や東南アジアからもってきたモノを琉球国内、朝鮮や大和で使うものと、それぞれ振り分けする必要があり倉庫を造った。…
 小禄地域は当時、中国、日本、東南アジアの窓口であった。この港を管理していたのが金満按司であり、貿易で力をつけ小禄地域を支配していた。戦さを知らない協同生活をしていた海洋民族もこうした武力闘争の中に組み入れられ、金満按司に仕える武士と農民に分かれ、次第に階級が出来ていった。(亀島靖講演録『琉球歴史の謎とロマン~琉球王朝時代の小禄の歴史~』)>

 泰期(金満按司)は、小禄城主だったとき、目の前の南山と対峙し、那覇港を統治し貿易で力をつけたという。一方、泰期はすでに見たように、読谷山間切に宇座グスクを築き、長浜港を使って中国と交易し、察度王の王弟として明国に10年間に5回も進貢していたともいわれる。中山国が中国と交易するのには、みずからが管理していた那覇港を拠点にする方が便利ではないのか。なぜ遠い読谷山にグスクを築き長浜港を使って交易をしたのか。まだよくわからないところがある。


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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(12)、奥間大親の父も鍛冶屋?

 奥間鍛冶屋の伝承について書いている間に、別の用件で伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』を読んでいたところ、同書でも立ち入って言及されていることを知った。関係するか所を抽出して紹介する。
             
 身分を隠すため天女伝説
 <察度の父は謝名村の奥間大親(ウクマウフヤ)で、母は『羽衣伝説』の天女のモデルになった恵慈(エージ)王(英祖王統3代目)の次女真銭金(マジニガニ)である。奥間大親は宜野湾間切真志喜村に住み、王女との間に姉・聞得大君(チフジン)と弟・察度が生まれた。王女は身分を隠すため“天女”と言い伝えられたものと考えられる。真銭金は弟の玉城王の乱世を避けて、奥間大親とともに謝名村へ逃げて来たのである。真銭金は奥間大親に嫁いで聞得大君と察度を生んだ後、大里按司と再婚して、承察度(ウフザトゥ)と汪英紫(エージ)を生んだ。汪英紫は、後に島添大里按司と称した。聞得大君は甥の武寧王が滅んだ時、久高島の屋号大里に逃げた。屋号大里は島添大里按司の長男が元祖である。>
注・「奥間大親は羽衣のような衣装をまとった姫を、政変を避けて匿っていたと思われる。当時は玉城王による乱世で、奥間大親は王女を守って玉城から逃げて来たと考えられる」(伊敷氏)。
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                 森川公園にある天女羽衣像
 <伝説によると、(英祖王統4代目)玉城王が政治をかえりみず酒乱に陥ったとか、幼い西威王に代わり母親が政治を私物化して王政を混乱させたと一般的にいわれているが、実際は、門閥間の抗争による分裂政治に陥っていたというのが真実に近いと推察される。派閥争いに敗れた恵慈王(英祖王統3代目)の旧臣たちは、沖縄各地に逃れて行った。玉城の旧糸数按司や富里按司をはじめ石原按司など、多くの重臣たちが宮古や八重山の島々に散って行ったと考えられる。>

 奥間大親の父も鍛冶屋?
 <奥間大親の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある。
 奥間カンジャーの父は国頭間切辺土名村の生まれの辺土名里主(ヘントゥナサトゥヌシ)で、若い頃は佐敷間切新里村に住んでいたが、後に宜野湾間切謝名村に移り住んだ。伝説によると辺士名里主の父は並里按司で、大和から来た人だといわれ、沖縄中を巡行して五穀の種子植え付けを指導したと伝えられている。並里按司は佐敷間切新里村屋号並里で祀られ、墓は同村の沢川御嶽の山中にある。並里按司は「仲中山」英祖王時代の人で、同じく大和から来て浦添城下で仏教を広めた僧禅鑑(ぜんかん)と同時代の人物である。>

 伊敷氏は、奥間大親の父を奥間カンジャーとし、すでに鍛冶屋を営んだと見ている。中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に来たとする。奥間カンジャーの父が辺土名里主、祖父が並里按司だとのべている。慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』では、奥間大親の父が辺土名里主、祖父が並里按司としていた。伊敷説では、辺土名里主は祖父にあたることなる。
 また、真志喜五郎の養子になったのも、奥間大親ではなく、奥間カンジャーとする。奥間大親とは別に、その父に「奥間カンジャー」がいたというのは、同書で初めて聞くことである。奥間大親の父の代から鍛冶屋だったことになる。

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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(11)、 代々受け継がれてきた鍛冶屋

 金満按司が妻方に残した子どもとは
 『元祖之由来記』(宜野湾真志喜村奥間門中)の国頭奥間の系譜で注目されるのは、金満按司が「子供ハ妻方ニ養育セシメ、自分ハ生産地宜野湾真志喜ニ帰郷シ」と記していることだ。通婚の女性が多く、「後室は同村の奴留也」とされているので、国頭奥間村では、国頭の女性を妻としていたのだろう。一男一女をもうけた妻がどういう女性だったのかは不明である。帰郷のさい、妻子は当地に残して自分だけ帰ったことがうかがえる。
 妻方で養育させたという子どもは国頭で育ったことになる。その子孫は成長してどうなったのか。史料には、帰郷したあとの鍛冶屋継承の記述はみられない。だが、金満按司を元祖とする奥間鍛冶屋が代々受け継がれてきたのは確かだから、その子ども、弟子が鍛冶屋を受け継いだとみるのが自然だろう。
                         かぎやで風節歌碑
                奥間鍛冶屋を継承してきた座安家
 国頭奥間の系譜で、注目されるのは、察度の父親の家系とは別に、奥間親方とその子、奥間大親の系譜が記載されていることである。
 鎌倉芳太郎氏は解説で、「長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる」とのべている。つまり、奥間鍛冶屋を始祖とする座安家・国頭家の系譜は、この奥間親方の子孫ではないかという分析である。
こちらの奥間大親について、「在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ」と記されている。根屋とは、集落の古い本家を意味する。「奥間の鍛冶屋すなわち東(あが)りは、奥間最古の家」(『国頭村史』)とされているので、もう一人の奥間大親が奥間鍛冶屋である可能性がかなりあるのではないだろうか。
                     奥間鍛冶屋の系図
奥間大親の系図
 この鎌倉氏の記述を参考にして、もう一歩、大胆に推理してみた。
 奥間親方は「母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ」とされている。この女性・母が、金満按司の奥間時代の妻だった可能性はないだろうか。もしそうだとすれば、金満按司の妻方で育ったという子どもが奥間親方で鍛冶屋を継ぎ、その長男が奥間大親、その子どもが鍛冶屋の長男(座安家)、次男(国頭親方正胤)となるのではないか。
 この推理が的を射ているのなら、いくつかの疑問が解決する。
一つは、金満按司が奥間鍛冶屋を営んだ時代と、金丸を助けた奥間鍛冶屋とその子の長男、次男の時代とは、年代的に空き過ぎている。だが、金満按司の子や孫が奥間鍛冶屋を継いで、金丸を助けたとなれば、この年代的な問題は解消する。

 もう一つ、家系図上の問題も解決する。石垣島大浜のナリヤ鍛冶工の子孫で八重山の鉄器と鍛冶屋について研究されている生盛功氏からいただいた奥間鍛冶屋の家系図(国頭村教育委員会提供資料から)を見ると、「奥間鍛冶屋ノ元祖」の系図は、奥間大親の長男・察度、次男・泰期・金満按司…{奥間鍛冶屋ノ元祖、と記されているだけでその後がない。
一方「座安家・国頭家関係系図」は、奥間鍛冶屋の下に長男、次男が書かれているだけで、親の奥間鍛冶屋とは誰だったのか、名前がない。金満按司とも記されていない。つまり、金満按司と、座安家・国頭家の親にあたる奥間鍛冶屋は同一人物なのか、その子孫なのか不明である。系図上のつながりが判然としない。
 でも、もう一人の奥間親方、奥間大親が金満按司と奥間時代の妻との子や孫であれば、系図としてつながりが明確になる。さまざまな疑問が一挙に解決する。
 ただし、これはあくまで仮定の話、私の勝手な推理であり、それを裏づける材料はいまのところ持ち合わせていない。

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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(10)、奥間を遥拝した国頭御殿家

奥間を遥拝した国頭御殿家
 『沖縄文化の遺宝』からの続きに戻る。
<同書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)には、またその時代の国頭奥間の系譜を載せている。
 奥間親方 母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ、ソノ長男ハ奥間大親ナリ、在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ、ソノ長男ハ国頭親方ナリ、(中略)国頭親方ハ唐、大和往復シテ後首里ニ登ル
 この奥間大親は察度王の父親とは別人で、首里に登ったというその長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる。この人が国頭奥間にある時放浪中の尚円を助け、その関係から尚泰久王の時呼ばれて首里に登り、尚円大位(ママ)に登るや国頭間切惣地頭職に任ぜられた。既に述べたように、国頭奥間は今も往昔の鍛冶道具を祀る鍛冶屋屋敷として知られ、また正胤の子孫は代々国頭御殿家として繁栄し系譜も続いているが、今の当主国頭正敏家でもやはり神檀には鍛冶道具を祀り、祖先の出身地国頭奥間を遥拝している。これから察するに、宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋で、そのために察度王の金銀鉄の冶金伝説が生れたのかも知れない。そしてこの国頭奥間鍛冶屋の技術は、その道具から見て、古い時代に本土から伝わったところのものである。>
 鎌倉氏の著書からの引用は以上である。
                      奥間鍛冶屋系図

 ここでは、「宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋」で、その技術は「古い時代に本土から伝わった」という。真志喜五郎や金満按司は航海業だったされるので、鍛冶に必要な鞴や資材を仕入れ、その技術を習得する機会もあっただろう。真志喜の奥間で鍛冶屋を営んだとしても不思議ではない。そうすれば、察度の鉄をめぐる伝説、泰期が国頭奥間村で鍛冶屋を始めたこととも結びつく。
 この史料ではまた、金満按司が鍛冶屋を始めたのは「唐大和往復」した後としている。先に鍛冶屋になったという説には、やはり無理があるようだ。

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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(9)、子を残して帰郷した金満按司

 妻方に子を残して帰郷した金満按司  
 『沖縄文化の遺宝』からの紹介に戻る。
 <『球陽』(巻之一)察度王紀には、奥間大親は何人の後裔か分からないと記してあるが、この書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)では、奥間大親は辺土名里主の次男として国頭奥間村で出生し、元の延祐年間(1314-1320)、父の行く所を尋ねて中城奥間村に行き一時住し、遂に父の在村の所佐敷新里村に至り、父兄に対面し、久しからずして宜野湾謝名村に到り農事を勤めて働く中に、森川に水浴に来た天女と通婚して一男一女を出生、その一男が察度である。その後、天女飛去の後、又吉親雲上の女子を娶り、三男一女が生れたが、後に真志喜五郎家すなわち奥間根所の家を祭祀して世を終った。因み察度の弟に当る次男金満按司について、同書に左の記載がある。
 金満按司ハ唐大和往復シテ金銀多ク求メ得テ、父ノ産地国頭奥間村ニ至リテ金(鉄)ノ製造焼キ始メテ居ルニ、一男一女出生ス、遂ニハ兄察度ハ中山王位ニ登リ、因テ父ノ相続ノ為メニ、子供ハ妻方ニ養育セシメ、自分ハ生産地宜野湾真志喜ニ帰郷シテ、子孫繁昌シテ世ヲ終ルト云ウ
                西森御嶽石門
               森の川にある西森御嶽石門(文章とは関係ない)
 これで見ると、金満按司は察度王の弟として、唐大和を往復する航海業者として、物資の交易の利益により金銀の財貨を蓄積し、父親の出身地国頭奥間村に帰り、鉄器を製造していたが、此所で一男一女を出生した。やがて兄察度が王位に登ったので、父の跡目を相続するため宜野湾真志喜村に帰郷した。通婚の女性も多く11男2女が生れ、王族として繁栄している。>
 泰期の墓はどこにあるのだろうか。
 察度王の弟とされる金満墓が宜野湾市大謝名東原古墳群にあり、泰期の墓と伝えられているそうだ((下地昭榮著『ねたての黄金察度王』)。

 「唐大和を往復する航海業者」だったという金満按司(泰期)。父の奥間大親が養子に入った宜野湾の奥間家は「真志喜五郎ハ海中ノ業ヲ能クシ、好ミテ島々ヲ巡行シテ後、帰郷シテ世ヲ終ル」とされている。海外への航海をするには、唐・大和への船と航海術、交易についての知見など必要であり、簡単ではないはずだ。泰期はこの五郎の航海の業を受け継いだのだろうか。
 ただ、泰期については、さまざまな伝承がある。
 
 泰期は、読谷の宇座の出身だともいわれる。琉球の古謡集『おもろさうし』には「宇座(読谷)の泰期思いや唐商い流行らちへ按司に思われ」と歌われている。
 宇座の近くには、長浜港があり「この長浜港を使って、泰期は交易をおこなっていた」「『按司に思われ』というのは、その交易の才覚を認められて、察度に召し出されたことを言っているのかもしれません」「察度はこの泰期を『王弟』として、明国への進貢を始めたのでした」(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』)
このように海外貿易に長けていた泰期を弟として派遣したという説がある。
 いま読谷では、泰期は「商売の神様」として有名であり、「泰期まつり」の開催や現代版組踊「読谷山花織の宴」にも登場するほどである。

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好評だった「シニア世代のピアノ音楽会」

 シニア世代のピアノ音楽会が20日夜、首里のアルテウォーバホールで開かれた。アルテプランの主催だが、この企画の計画・準備から運営までツレが奔走した。新聞へのお知らせ記事を読んだという方が遠くは名護市から来たという人もいるなど、大勢の方が見えて、楽しい演奏会となった。 
  第1部のピアノソロでは、新田さんがオリジナル曲をミックスしたインスツルメンツのピアノ演奏を披露した。時々、ビートルズらしいメロディラインがアレンジされていた。
 徳門さんは「童神」を演奏した。演奏するのが楽しくってたまらないという感じだ。
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 nanaさんは朝ドラのテーマ曲「あまちゃんオープニングテーマ」を演奏した。難しいリズムなのに立派。
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 Мさんは尾崎豊の「アイラブユー」を弾いた。さすが実力者の演奏だった。
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 平良さんは、「てぃんさぐの花」など演奏した。「僕の演奏はね。アドリブだから、聴いているうちに曲がわかるよ」。
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  ツレは「渚のアデリーヌ」を弾いた。久しぶりの曲だけれど、美しい演奏だったのではないか。
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 飛び入りの方がいて、リストの曲目を演奏した。とても慣れた演奏だった。
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 毎月恒例のファクトリーのときは、結構おしゃべりがうるさいけれど、この日はみなさん静かに聴いておられた。
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 ピアノ弾き語りは、nanaさん、徳門さん、そしてふーみんさんが演奏した。ふーみんさんは大好きな曲という「朝日の当たる家」「なごり雪」を歌った。美しいソプラノで聴かせる。
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 ピアノと他の楽器とのコラボレーションでは、私もツレのピアノとの合奏でビギンの「三線の花」、パーシャクラブの「ファムレウタ」の2曲を歌った。やはり本番になるとミスが出て、ピアノとのズレが出たりしたが、なんとか歌った。幸い、アンケートの中で「三線とピアノのコラボがよかった」と書いてくれている方がいた。
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 越智さんは、ツレのピアノ伴奏で「魅惑のワルツ」をトランペットで演奏した。流れるようなメロディーがトランペットに向いている。
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 ツレはタカさんのエレキギターとのコラボで、「お前だけに」を弾き語りで歌った。とてもカッコよい演奏になった。
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 第2部のピアノ独奏では、新田さんが熊のぬいぐるみ「リラックマ」姿で登場。「リラックマの歌」などを弾いた。
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 平良さんは「エリーゼのために」ほか、Мさんは、懐かしいアニメソングのミックス、ツレは「ワルツレント」を演奏した。
 
 参加者には概ね好評だったようで、「来月はどうなるの?」と言う声も出ていた。演奏の分野、年代、レベルは違いがあっても、音楽を演奏して楽しむことは他には代えがたい喜びがある。この日参加された方では、演奏できるのに遠慮された方がいたようなので、次には是非、みなさんで演奏して楽しめるようになればいいという思いを強くした。
 帰りに空を見上げると、薄い雲に月が隠れ、月の回りに光の輪ができていた。朧(おぼろ)月というのだろうか。旧暦で14日なのでほぼ満月だった。
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米軍関係者の凶悪事件に激しい憤り

 うるま市での女性行方不明事件は、米軍関係者による殺人と死体遺棄という最悪の結果を招いている。女性の不明が公開されてから、もしかして米軍人による事件ではないだろうか、との懸念を抱いていたが、それが不幸にも的中してしまった。
 死体遺棄で19日、逮捕された男は、元海兵隊員でいまは嘉手納空軍基地で働く軍属で与那原町に住んでいるという。うるま市、沖縄市、嘉手納町、北谷町など中部は米軍基地が多く、米兵による事件、事故も多発している。女性が不明になったのはうるま市だが、その付近を通った車のYナンバー(米軍関係)から割り出されたようだ。
 まだ殺人容疑にはなっていないが、殺人容疑での逮捕は時間の問題だろう。
 
 死体が遺棄された場所は、金武町から恩納村に抜ける県道104号線の道路脇だという。この県道はかつて、道路を封鎖して県道越えの実弾射撃訓練が繰り返され、住民が強く抗議してきた場所だ。
 こんな山中を通る県道沿いに遺棄したということは、この付近の土地勘があることを意味する。米海兵隊員だったとき、金武町のキャンプハンセンにいたことがあるのではないだろうか。
 米兵や軍関係者による犯罪はたびたび繰り返され、最近でも那覇市内のホテルで観光客の女性が暴行されたばかりだ。口先では「綱紀粛正」「再発防止」と日米両政府は繰り返すが、なんの実効性もない。今回は、女性の殺人・死体遺棄となれば、私たちが沖縄にきて10年を過ぎたけれど、最悪の凶悪事件となる。
 
 まだ今年、20歳で成人式を迎えたばかりの女性の命がこんなにも無残なかたちで奪われたことに激しい憤りを覚える。いまは軍属だといっても、殺人訓練を受け、戦争を任務とする海兵隊員だった男である。しかも、いまは米軍基地で働く以上、米軍の管理下にある。
 米軍基地がある限り、このような犯罪が繰り返される。女性がウォーキングをしていただけで、凶悪事件に巻き込まれるとは、県民の安全・平和に暮らしたいという最低限の願いが、脅かされていることを示している。
 県民の生命・日常の平穏で安全な暮らしと米軍基地は両立できない。ましてや、辺野古への新基地建設などもってのほかである。
 今後、事件の真相が明らかにされていけば、県民の怒りは沸騰するだろう。
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アルテで「下千鳥」を歌う

だ 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが14日夜、前の会場ウォーバホールに戻って開かれた。今月のテーマは「己」。難しそうだが、みなさん、「我」「私」ととらえて演奏した。エントリーは少ないはずだが、久しぶりの方もいて、とても充実した演奏会だった。もう写真と曲目紹介だけになる。
 南亭こったいの落語は「辰巳の辻占」の演目。心中もので笑わせた。
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 トップバッターの島袋さんは「悲しくてやりきれない」。伸びのある歌声だった。
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 比嘉さんは八重山民謡の「鳩間節」。味わいのある歌三線だ。
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 きぬえ&ふーみんは、ウクレレとリコーダーで「琵琶湖周航の歌」など演奏した。
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 平良さんはギター独奏で「サウンドオブサイレンス」など短い曲を4曲を弾いた。
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 ふーみんさんは、ピアノ弾き語りで「朝日のあたる家」を歌った。「よー、ジョーン・バエズ!」の声が飛んだ。
  島尻さんは糸数さんのギター伴奏で「スタンドアローン」を歌った。
 私の三線とツレのピアノで「三線の花」を演奏した。なぜか調弦で戸惑い、不満の残る演奏だった。
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 続けて歌三線で「下千鳥(サギチジューヤー)」を歌ってみた。「浜千鳥節(チジューヤー)」をもとにした曲。「下」とは「ゆっくり」という意味らしい。
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 歌詞はいろいろあるが、私の歌うのは、女性にふられた「恨み節」「嘆き節」といった内容。寂しさのあまり月を見ながら泣いている心を誰が知るのか。私の心をときめかしながら、去って行った彼女を恨む、といいながら最後に「我身ぬなせる仕業」と自分を責める。そんな歌である。ゆっくりとしたテンポでは弾き歌えたと思う。味わいを出すのが難しい。
 アルテギターサークルは「空よ」など2曲演奏した。歌が入ると、なんかギター演奏が歌伴奏に終わる印象がある。
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 秀子さんは久しぶりの登場。夫さんのギター伴奏で歌劇「トゥーランドット」より「氷のような姫君の心」を歌った。
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 МiKaバンドは「てぃんさぐの花」「安里屋ユンタ」。スウェーデンから空手修業で沖縄・アルテに滞在していたМiKaさんは、園さんに三線も習っていたので、6月に帰る前の思い出づくりのため、急きょ演奏しようとなったもの。私も三線で加わった。
「イチャリバチョーデー(一度で会えば兄弟)」という沖縄の心が一つになり、熱く盛り上がった。
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 主宰者の越智さんから、八重山唄者の園さんがこのたび、フランス人で沖縄で民謡を習い、フランスで教えている男性(名前を覚えられない)と結婚したことを紹介した。園さんはかつてアルテで働いていたので、みなさんが心から「オメデトー!」祝福した。要望に応えて、お二人で「月ぬかいしゃ」を演奏した。
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この日のためにМiKaさんは着物姿。親しくなった人たちと記念撮影。きっと沖縄アルテの夜は、楽しい思い出として記憶されたでしょう。
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 火いろ&香おるさんは、腹話術を披露。こちらも久しぶりでした。
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 カオル&タカは、オリジナルで「そんざい」を歌った。哲学者デカルトの「われ思う故にわれあり」を歌詞に盛り込んだ異色の歌だった。
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 ツレはピアノ独奏で「ワルツレント」を弾いた。Tさんから「とっても上手くなっているね」と評していただいた。
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 りえ&赤田ブラザーズは初の登場。りえさんが「イラヨイ月夜浜」を歌い、ギター、三線、リコーダーが伴奏。uさんの三線演奏は初めて聞いたけれど、是非また参加してほしい。
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 Y先生はお馴染みの爆笑トークと「春夏秋冬」を歌った。この日の会場は、満席状態だった。
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 清美さんは宇都宮さんのピアノ伴奏で「帰り来ぬ青春」を歌った。求道者のような歌声だ。
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 糸数さんはギター弾き語りで「忘れな草」を歌った。高校時代の思い出の映画で聞いた曲だとか。イタリアの歌だけれど映画と同じドイツ語で歌った。
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 エントリーは多くないけれど、とても盛り上がって楽しませてくれた音楽会となった。
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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(8)、名門家だった真志喜奥間

 名門家だった真志喜奥間
 思わぬところで奥間大親と鍛冶屋をめぐる史料と解説に出会った。それが鎌倉芳太郎著『沖縄文化の遺宝』である。
 同書の「沖縄各地の遺宝と遺跡と神事」のなかに「5真志喜奥間神座」の項があった。そこから、抜き書きで紹介する。
<真志喜奥間家には、『元祖之由来記』(宜野湾真志喜村奥間門中)と表書きした古写本を伝えている。「元祖之伝説」として、この家の太古の祖神真志喜大神、中世の祖神真志喜五郎、次に奥間大親を元祖とする察度王の弟妹一族のことを記し、更に拝所として真志喜大神、真志喜五郎、奥間大親の死骨を祀ってある墓所の位置を記してある。…
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                天女伝説のある井泉・森の川
 この森川は天女伝説で知られる奥間樋川の清泉である。本来奥間と呼ばれる家は、この水源地を司祭して稲作農業に支配権をもつ根所(根人の家)で、その祖神について同書に「夫レ我ガ立初一世ノ祖、玉城仲村渠三重殿(みいとぅん)ト云フ家ノ御元祖ノ内、天孫氏ノ又孫真志喜大神ナリ、真志喜大神ハ御在生の時、稲苗種子蒔植付教ヘノタメ、島々村々巡行シテ後、宜野湾真志喜村ニ住ミテ子孫繁昌シテ世ヲ終ルト云フ」とあり、また奥間樋川のある御嶽内には、岩の下穴に真志喜大神の死骨を収めてあることを記している。…
 
 次の祖神真志喜五郎の父は鎮西八郎為朝で、母は真志喜の奴留(ぬる)と記されているが、この奴留は、奥間の根人野峰按司の女子である。この按司の長男野峰大屋子には男子なく女子二人あり、その一人に通婚して真志喜五郎はこの家の世子となった。…
 真志喜五郎ハ海中ノ業ヲ能クシ、好ミテ島々ヲ巡行シテ後、帰郷シテ世ヲ終ル、此ノ五郎ハ外ニハ男子5名在リシト伝ヘアレドモ、内ニハ女子ノミ出生シテ世子ナシ、故ニ女子ノ家ニ祭リデ在リシガ、後来ニ至リテ奥間大親ガ入リ来リテ之ヲ祭ルト云フ…
と記されている。五郎の父が為朝かどうか、為朝も牧港で数月を閲したと伝えられているが、しかしこれは本土から渡航して行った大和人と見るべく、ともかくその子の五郎が航海業に従事し、島々を巡航して各地の名家に奴留や女子に子を生ましている。因に五郎の死骨を祀った御嶽の墓所を「大和墓」と呼んでいる。当村牧港は浦添城北面の良港であり、奥間根所はこの港に近接する名門家である。五郎はこの家の世子となり此所を本拠として、航海業による物資の輸送及び交易に従事していたように思われる。>
 
『琉球祖先宝鑑』でも、眞志喜五郎は「母は宜野湾眞志喜村の奴留也。在所は同村の奥間と云ふ家なり。五郎は内には世子なく外子が五名あり」とされている。
 ここでは、真志喜奥間家の家系が記されているが、祖父・並里按司、父・辺士名里主を祖先とする奥間大親とはまったく異なる系譜である。
 真志喜の奥間根所は名門家だった。ただ、真志喜五郎も男の子がいない奥間家に世子として入った。その五郎は、家の外には男子を生ませていたが、家の内には男子がいなかった。
 奥間大親も、男子のいないこの家に入ったという。
 『琉球家紋系図宝鑑』では、「真志喜五郎に跡目がなかったので養子に入って継いだのが奥間家である」としている。
 奥間大親が、国頭奥間村の生まれで、養子に入ったのが宜野湾謝名村の奥間家だという名称の一致は偶然なのだろうか。それともなんらかの関連があるのだろうか。よくわからない。

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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(7)、「かぎやで風節」の由来

 「かぎやで風節」の由来
 沖縄で重要な儀式や祝いの席で必ず演奏される音楽に「かぎやで風節」がある。奥間鍛冶屋がこの曲の由来にかかわっており、少し横道に入るがふれておきたい。
 国頭村奥間の奥間鍛冶屋発祥の地に「かぎやで風節」の歌碑が建てられている。
 「あた果報のつきやす 夢やちやうも見だぬ かぎやで風のつくり ぺたとつきやさ」
 「思いがけない果報が身に付くとは夢にも見なかった。鍛冶屋で物を造る時のように風格がわが身にぺたっと付いた」という歌意である。
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 現在、一般に歌われる「かぎやで風節」の歌詞は「今日の誇らしゃや…」と始まるが、この歌碑の琉歌がもともとの原歌である。
 すでに紹介したように、伊是名島を追われて山原に逃げてきて奥間鍛冶屋に助けられた金丸が、のちに1470年、王位に就いたとき、その恩から奥間鍛冶屋の次男・正胤を国頭親方に取り立てた。正胤がその喜びを即興で詠んだのが原歌だと伝えられる。
 曲の題名も「かぎやで風」だけでは意味がよくわからない。いろいろ説もあるようだが、原歌で「かぎやで風のつくり」(鍛冶屋で物を造る時のように)と歌われている部分が、そのまま曲名になったとみるのが自然ではないだろうか。
 
 歌碑のすぐそばに「奥間鍛冶屋発祥の地」の碑も建っている。
 碑文は、泰期・金満按司は、明から当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識・技術を身につけ、後に奥間に下って、鍛冶屋を始めたとされている。
                   奥間鍛冶屋発祥の地の碑
 奥間は、山林が間近で水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父である奥間大親の生誕地であることが奥間の地を選んだ理由と思われるとのことだ。
 金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕・生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられる。「この泰期・金満按司が奥間の鍛冶屋の始祖である」と記されている。


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