レキオ島唄アッチャー

与儀公園でデイゴ咲き始めた

 那覇市内の与儀公園のそばを通ったら、デイゴが少し咲いているのが見えた。
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 ここには、確かデイゴの標本木がある。その木かどうかわからないが、真っ赤なデイゴの花びらがチラチラと見える。つぼみはたくさんできているので、これから開花の季節を迎える。例年、4月に入れば開花し、月の後半にたくさん咲く。
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 この木は知事公舎に向かう道路側にある。デイゴがたくさん咲くと、台風が来るとかいわれるが、今年はたくさん咲くのかどうかはまだわからない。
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 デイゴの色の鮮やかさはいつも通りだ。この木は、公園の那覇警察署側の木である。花の咲く木は、葉っぱがほとんどついていない。
  デイゴはたくさん咲いてほしいが、台風は沖縄を直撃しないでほしい。被害をもたらさないようにお願いしたい。
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「風は南から」ラストライブ

 毎月通っていた糸満市のライブハウス「風は南から」が10周年を迎えたばかりなのに、営業を終了することになった。
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 2007年から定期ライブをしていたフォークユニット「F&Y」のラストライブがあり出かけた。つめかけたファンで満員状態。愛知県からわざわざライブを見に来たМさん夫妻もいた。スペシャルゲストも登場して、感動と熱狂のライブとなった。
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 ライブは懐かしいフォークから洋楽ナンバー、昭和歌謡まで熱い演奏が続いた。人口も多くない糸満市だが、熱心なファンが集客に奔走し、多くのお客さんで盛り上げ「奇跡の糸満ライブ」と呼ばれたこともあったという。
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 その立役者が「床屋のNさん」。ライブ後半の開始にあたり、サプライズでふーみさんがNさんを紹介し、なんと「皆勤賞」の感謝状とプレゼントを贈呈した。Nさんは、予想もしていなかったので、何度も何度も涙を流して喜んでいた。
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 ふーみさんは、このあとなんとツレを呼んで「ナイス応援賞」を贈ってくれた。常連の中では新参者であり、躊躇していたが、みなさんから後押しされて、受け取った。まったくのサプライズで感涙していた。
 後半では、サプライズゲストで城間健市さんが歌った。沖縄を代表するロックシンガーである。といってもいつの間にかカウンターでドリンクを飲んでいた。なぜかジャージ姿で気取らない。
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 「遠くで汽笛を聞きながら」など3曲、アンコールでは「鉄爪(ひきがね)」を歌った。圧倒的な歌唱力とパフォーマンスに魅了された。
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 愛知から来たМさんにとって、「風は南から」は初めてにして最後のライブとなった。「スゴイ!」と感動しながら「こんなライブハウスが閉店になるのは惜しいね」と残念がっていた。
 いつの日か是非、再開されてまたライブを楽しめることを願っている。
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友寄の獅子舞

 友寄の獅子舞
 ヒスイカズラを見に行った八重瀬町友寄(トモヨセ)は、伝統のある獅子舞で知られる。といっても、まだ見に行ったことはない。でも、集落の中にある友寄馬場公園には、巨大な獅子像がある。像の中は上り階段があり、滑り台になっている。滑り台はとても急な斜面で、滑り降りるのにヒヤッとする感じだが、子どもたちは楽しそうに滑っていた。
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 「字友寄には友寄の獅子舞をモデルにした沖縄一の巨大獅子舞滑り台(高さ7.13m、幅9m)を設置し『獅子の里』として、まちのシンボルとなっております」(旧東風平町HPから)
 台地のような場所にある公園は、緑地が長く伸びていて、かつては馬場だったことがわかる。
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 獅子舞は沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、多くは旧暦8月15日の夜に演じられる。その中でも180年の伝統を誇る字友寄の獅子舞は、躍動感あふれる獅子舞として有名だという。
  戦前までの獅子は、1838年、郷土の彫刻家・中山宗経によって作られた。戦時に消失したので昭和43年(1968)、画家であり彫刻家の山田真山氏に製作を依頼したのが、現在の獅子である。
              
  琉球王朝時代、当時、天然痘が大流行したが、その疫病神を祓おうと、神事をつくしたあとに、獅子舞の型をあみ出したと「由来記」にある。以来、村の守護神として祭られ、無病息災、五穀豊穣を祈願して毎年旧暦8月15夜に舞われる。
獅子の頭は、デイゴの木で造られ、これに獅子面が彫刻されている。朱や黒、金、青色に塗って威厳を保つようにしてある。
一度、見に行きたいものである。

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友寄でヒスイカズラ咲く

 神秘的な色彩の花、ヒスイカズラが八重瀬町友寄(トモヨセ)で咲き、見頃を迎えていると「琉球新報」19日付けで掲載されていたので、見に行った。
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 そのお宅は、金城照雄さん(77)宅とあり、電話帳にのっていたので、電話してみた。「はい、私の家です。どうぞお出で下さい。ただ今日はちょっと出かけますが、自由に見ていただいて結構です」との答えが返ってきた。
 那覇から507号線で南に向かうと、南部商業高校を過ぎて、右側に友寄馬場公園があるところを右折して集落に入り、二つ目の道を左折していくとあります、と伺った。公園に車を止めて歩いて行くと、金城の表札のある家があった。入っていくと、間違っていた。「ここは金城姓はたくさんあるよ。照雄さんの家ならすぐ向こうの家だよ」とおじさんが親切に教えてくれた。
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 伺うとやはり留守だったが、庭にはツツジが咲き誇っている。庭のすぐ右手にヒスイカズラが棚から下がっているのが目についた。
 南城市で開催されていたオープンガーデンで初めてヒスイカズラを見た妻のアキ子さん(72)が、宝石のような青色に心を奪われて、早速苗を購入。照雄さんが棚を手作りしたそうだ(「琉球新報」から)。今年初めて花を咲かせた。花は一本のツルからのびている。まだ蕾がたくさんあるので、これからしばらく花が楽しめるだろう。
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 ヒスイカズラといえば、前は南城市垣花の平良さん宅しか知らなかった。でも近年は栽培する人が増えているようだ。一度、花を見るとその色彩に魅了される。
 金城さん宅は、お花がとても好きなようで庭にはいろんな花が咲いていた。いまは、ツツジが多くて、赤、白、エンジなど色とりどりの花がある。
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 ちょっと珍しい花もあった。ヒスイカズラと同じように棚からツルが下りて花が咲いている。色彩は花の外側は茶色で花弁は黄色である。初めて見る。名前はわからない。素敵な花を咲かせて、見せてくれた金城さんご夫妻に感謝したい。
追記・後日、テレビを見ていたら「これだ」と思う花があった。「イルカンダ」というらしい。
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 追記の追記。先日の「琉球新報」に伊江島で咲いている「マイソルヤハズカズラ」という花の写真が掲載されていた。垂れ下がったつるに咲いている花は、中心の黄色い花弁とその周りの暗赤褐色の苞が鮮やかである。それを見ると、友寄の金城さん宅で見た知らない花は、こちらの方にそっくりだった。イルカンダは間違いかもしれない。
 この花は、インド原産のつる性の植物で、名前はインド南西部の都市、マイソールにちなんでいるそうだ。
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充実したアルテギターサークルの演奏会

 アルテギターサークルの定期演奏会、「アルテギターアンサンブルin首里」がウォーバAホールであった。
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 風邪などでメンバー4人が出れなかった。最近の沖縄は、気温の寒暖が激しく体調を崩しやすい。
 メンバーは少ないけれど、とても充実した演奏だった。
 サークル合奏は、開幕に「TOP Of THE WORLD」「二つのメヌエット」を演奏し、最後に再び登場して「君をのせて」「いつも何時でも」を演奏した。
 リハーサルは万全ではない感じだったのに、本番ではよく合っていたし、リズムにものり、よい演奏だった。確実にレベルアップしている。
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 サークルのリーダー、越智さんのギターとツレのピアノ伴奏で「禁じられた遊び」「グノーのアベマリア」を演奏した。ギターの音がマイクにうまく入らず、少し聞きづらかったが、とてもきれいな演奏だった。
 第2部では冒頭に、今春、芸大を卒業して就職のため沖縄を離れる真由さんのピアノ伴奏で「花は咲く」をみんなで合唱した。3年ほど前に一度、真由さんの伴奏でツレが歌ったことがあった。それ以来の演奏だが、さすが芸大生、見事な演奏だった。思い出に残るアンサンブルになっただろう。
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 小嶺さんはギター独奏で「アメリアの遺言」を演奏した。越智さんとのギター二重奏では「イパネマの娘」「ラ・マラゲーニア」を演奏した。とってもラテンのリズムが心地よく楽しい演奏だった。
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 ミーシャさんは、トローバ作曲「スペインの城」から「トリーハ」を演奏した。優しい音色にうっとりする。
 ピカリンさんは、久しぶりの登場。ダイアナ・ロスのヒット曲「イフ・ウィー・ホールド・オン・トゥゲザー」を演奏した。困難があっても力を合わせて立ち向かえば希望は私たちを見放さない、というメッセージを込めた名曲である。いつもながら聞かせる演奏だった。
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 与那嶺さんは、ギター独奏でバッハの「ヴァイオリン・ソナタ」から「アンダンテ」「ラルゴ」ほかを演奏した。最近はバロックを勉強しているそうで、ヴァイオリンとは一味違う魅力が伝わった。 
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 アンコールではボーカルが入って「野に咲く花のように」を演奏した。ボーカルの山本さんも、この6月には県外に行かれるそうで、ギターサークルも少し寂しくなる。
 演奏を聞くのに集中して、何人か写真を撮り忘れた。とても癒される夜のひとときだった。
 
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シニア世代のピアノ音楽会

  「アルテ・シニア世代のピアノ音楽会」が開催されることになった。
 首里にある音楽好きが集う 「アルテ」や、そこで月1回開かれる「ミュージックファクトリー」に縁のあるシニア世代のみなさんで、初のピアノ演奏会を開催しますとのこと。ピアノを習い始めて4年になるツレやピアノのお仲間たちの思いが実り具体化された。
 プログラムでは、ピアノと他の楽器のコラボレーションもあり、ピアノ伴奏による歌やギター、リコーダーなども歓迎。私もピアノ伴奏で三線を弾いてみたいと思っている。
 「ピアノを弾いてみたい」「ピアノ大好き」な方、初心者大歓迎。多くの方々の参加を呼び掛けている。

 日時は5月20日(金)、夜7時半開会。
 場所は那覇市崎山の通称「ロケットビル」1階にあるアルテウォーバAホール。
 参加費は500円、聞きたいだけのお客さんは無料(ドリンク別)。
                シニアピアノ演奏会フライヤー名前消し

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アルテで「ちぶみ」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが12日夜、開かれた。今回は、これまでのアルテウォーバAホールではなく、3年前まで会場だったアルテ赤田ギャラリーホールに変わった。ウォーバホールがライブハウスとすれば、こちらはコンサートホールである。
 とても緊張するけれど、音響が素晴らしいので、演奏するものにとってはやりがいのあのホールだ。
 今回のテーマは春らしい「咲」。17組がテーマに沿って充実した演奏をした。いくつかピックアップして紹介する。
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 徳門さんはsonoさんのサポートで「春が来た」を歌三線で披露した。奥田さんの小鳥のさえずりのような笛が入って春の雰囲気を感じさせた。
 越智さんはトランペットで、ツレのピアノ伴奏による「アマポーラ」を演奏した。ノリのよいリズムと伸びやかな音色で楽しそうに演奏した。 
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 私は民謡の「ちぶみ」を歌ってみた。ちぶみとは蕾のこと。花を咲かせることが歌詞にあるので選んだ。
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 この曲は、「♪世間や水車 定めてぃん変わる」と歌いだす。数えるほどでもないわが身に花が咲いてどうなる。山原(ヤンバル、本島北部)に行こう、蕾になろう。山原に行くと海と山以外何もないよ。いかに山原といえども、愛しい人と一緒なら花が咲くだろう。山中に隠れていても蘭の花の香りは匂わずにはいられない。こんな歌意である。
 歌っていても、ホールの響きのよさが肌で感じられる。
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 南亭こったいの落語は「花見酒」。全体の半分ほどはウチナー口に翻訳して話した。この演目は前にも聞いていて筋は大体わかるが、ウチナー口部分は残念ながらあまり理解できなかった。
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 カオル&タカはオリジナル曲「花咲く時」を歌った。願いはいつかかなうというメッセージを繰り返していたのが印象的だった。
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 ツレはピアノ弾き語りで、ユーミンの「春よ来い」を歌った。声がよく出ていてピアノのタッチもきれい。よい演奏だと思った。
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 アルテギターサークルは、ジブリアニメの曲「君をのせて」など2曲を合奏した。メンバーの一人、県芸大生は今春卒業して県外に就職するそうで、最後のファクトリー。就職しても沖縄とアルテのことを思い出してほしい。
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 ミーシャさんはギター独奏で「ショーロ」という曲を弾いた。いつもながらやさしい演奏に聞き惚れる。
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 越智さんのギター、ツレのピアノ、奥田さんの歌で「グノーのアベマリア」を演奏した。当初は、ギターとピアノの予定だったが、リハーサルの飛び入りで奥田さんが歌ってよかったので、本番でも披露したものだ。原曲はバッハだが、歌が入ると「これぞアベマリア」という感じで、美しい演奏だった。
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 新田君は「あとひとつ」をギター弾き語りで歌った。折しも5年前、今年と同じ曜日で東日本大震災の翌日がファクトリーだった。自粛ムードのなかで、こういう時だから音楽をやろうとなったと聞く。新田君は5年前と同じ曲目を、想いを込めて歌った。
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 清美さんは、布施明が歌った「愛の園」を宇都宮さんのピアノ伴奏で歌った。清美さんは、那覇マラソン、沖縄マラソンを3時間台で完走したばかり。マラソンは歌えるための体力づくりだという。いつもながら素晴らしい声量と歌唱力だった。
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 宇都宮さんはピアノソロで「花は咲く」を弾いた。赤田ホールだとピアノの響きがよいので、トリにふさわしい演奏だった。
 演奏が終わってエントリーした人の多くは、「ファクトリーをするのはこちらのホールがいいね」という意見だった。さて主宰者はどう判断するのだろうか。来月のテーマは「歓」である。これもいろいろな曲がありそうだ。
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八重山の定納布と御用布、その3

 貢納布を織る女性の労苦
 貢納布を織る女性は、多大な労苦があった。
 大浜信賢氏は『八重山の人頭税』からそのさわりを紹介する。
 貢衣布の縞柄(図案)は、首里王庁のみならず薩摩からも送られてきたようで、この図案が到着すると、蔵元では複雑なものと簡単なものとに分類して各村に配布する。各村番所の役人は、その縞柄の難易によって織女を定める。いよいよ織ることになると、織女の予定が久葉の葉に書かれて村番所に掲示されるので、この表を見てそれぞれ自分の定められた日に定められた織場で仕事をする。
 織物に手を着けるまでは、婦女は毎晩番所に集合し、松明の光で苧麻糸を紡ぎ、佐事補佐(さじぶさ)と称する監視役の下で夜業を強行させられた。…
 さて、いよいよ織物を織る時は、複雑な柄や御内原布といった貴重品には、役人がつきっきりで監督したものであった。なかでも、王族用の精緻なものなどは、各村の熟練した織女が交代で織ったものだが、いくら精出しても1日に3寸か5寸がせいぜいであって、1尺も織れるものはいなかったようである。それも苦しさに泣きながらであって、1反織るのに2,3カ月ぐらいはかかったという。
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                      八重山の絣柄(新垣幸子さんの講義資料から)


 御用布への褒美は掠め取られる
 御用布を織る女性には、苦労米が出ることになっていた。しかし、実際には役人によって中間搾取されていたことをすでに紹介した。
 改めて、琉球王府時代の史書によって見ておきたい。
 「王府から御褒美に下される御用布の代米を、百姓に配当するべきところをそうせず、仕上世座(薩摩への上納物を司る王府役所の一つ)の役人らが掠め取り、百姓が困っているというのはどういうことであろうか。今後は毎年の御用白木綿布代と同様に、百姓の上納米から差し引きべきこと」
 「諸御用布は、村々に公平に割り付けること。ただし在番・頭が時々見届けなくてはならないような模様などは、石垣四か村を基本に在番所に近い村々に割り付けること」
 「御用布の織女らへの苦労米は、すみやかに渡すべきなのだがなされていない。渡すのを引き延ばした上、不公平なこともあり、人びとは困っていてはなはだ良くない。今後は在番・頭・惣横目の目の前で公平にすみやかに渡すように計らうこと」(『翁長親方八重山島規模帳』1857年)
 
 王府は、役人を八重山に派遣し実情を調査した結果にもとづいて、不公平や不正の是正を求めて布達している。しかし、王府の指導があっても容易に改善されない現実があった。その17年後に八重山に派遣された富川親方の『規模帳』でも、前回と同じような問題の是正を布達している。
 「王府から褒美として下される御用布の代米は、百姓に配当すべきであるがそうはせず、仕上世座(薩摩への上納物を司る王府役所の一つ)の役人らが掠め取り、百姓が困っているので、以前に取り締まりを仰せ渡してあるとおり、毎年の御用白木綿布代と同様に、百姓の上納米から差し引きべきこと」
 「諸御用布は、村々に公平に割り付けるべきである。ただし在番・頭が時々見届けなくてはならないような模様などは、新川より白保までの9カ村に割り付けるべきこと」
 「御用布は、上布は正女(15歳~50歳までの女性)に、中布・下布は正男女に割り付け、そして士族は右の布を、諸御用布は百姓の正女で織り調え、過不足を差し引きするきまりであるが、そのとおりになされておらず、いろいろ不公平になり百姓らを迷惑させているが甚だどうかと思うので、以後は士族・百姓らに年々規則どおりに申し付け、全て沖縄に積み上らせ、上納する物以外は御物奉行の許可を得て売り払い、苧・藍や諸品を買って帰り、百姓らが余分に織り調えた分に応じて配分して渡し、公平にきちんと行き届くように差し引きすべきこと」(『富川親方八重山島規模帳』、1874年)。
 
 百姓に渡すべき手間賃を役人が掠め取るという不正は根深いものがある。八重山農民を抑圧して、まともな人間扱いをせずに徹底して搾り取るという人頭税制度のもとでは、王府が表面的に改善を掲げても、なんら是正されないまま横行していたことを示している。


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八重山の定納布と御用布、その2

定納布は士族女性だけが織ったのか?
 御用布・上納布について、「人頭税時代の女性に賦課された織物で、上納布は士族の、御用布は百姓の女に課せられたものであった」という見解がある(沖縄国際大学南島文化研究所編『近世琉球の租税制度と人頭税』、「『聞き書き』御用布(グイフ)物語――明治・大正期八重山女性の労働の一面――」、山里節子・登野城ルリ子[採録])
 果たしてそうだろうか。まったく異なる見解もある。

大浜信賢氏は『八重山の人頭税』で次のようにのべている。
 「貢衣布は主に平民の婦女が織ったもので、士族の婦人の織るものはカナイ・アリフといって、苧麻で荒織りしたもの、たとえば生年祝いの舞踊に用いる幕とか、カナウツパイのような物であったようだが、平民婦女は精緻な上布を織って上納したようである。
 ところが、当時の百姓女の中には、上布を織る技能のない者が多かった。これら不器用な百姓婦女は、比較的余裕のある士族の婦女にたのんで、自分に割り当てられた上布を織ってもらい、その代償として甘蔗や雑穀類を提供した、ということであった」
 大浜氏は、「貢衣布は主に平民の婦女が織った」とのべている。
 前述の「『聞き書き』御用布(グイフ)物語――明治・大正期八重山女性の労働の一面――」、山里節子・登野城ルリ子[採録])のなかでも、長田マツさんの証言は、士族女性はもっぱら「アリフ」を織り納めたとのべている。
 「女はね、皆んな15歳になると(貢納)がついたものです。この貢納(カナイ)のついた女を貢納付き女(ミドゥン)といいました。貢納がつくとフダニンの1人になります。このフダニンが何人か1組になって1反の貢納布を織って納めたらしいのです。
 御用布(グイフ)には士族の納めたアリフと、平民の納める上布とがありました。アリフというのは苧(ブー)の疎く織った布のことで、主にウッパイ(被風呂敷)などに使われていました。上布というのは貢納布のことで平民の納めた柄のある上等の布のことなんです。ユカルピトゥ(士族)はアリフだけを納め、平民は上布を納めさせられたわけです。そのつらさはユカルピトゥが1日に5寸織るとすれば、平民は1日に1反織らなければならないという程の差があったということです」
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                     機織り
 士族に比べて平民女性の貢納の労苦が大きかったことを明らかにしている。
 (注)この証言で「御用布」は貢納布と同じ意味で使われている。
 士族の俗称として「八重山では廃藩前までは、士族とはいわずに俗に『ユカルピィトゥ』、平民は『ブザ』とよんでいた」(牧野清著『新八重山歴史』)。
 
 もし定納布は士族、御用布は百姓女性が織ったということになると、奇妙なことがおきる。というのは、御用布は石垣島の9カ村で織り、離島では織らなかったとされる。では御用布のなかった離島の平民が定納布も織らなければ、人頭税による貢納布はなかったことになる。これは明らかに史実とは異なる。
士族女性はもっぱら定納布を織ったとしても、定納布は士族女性や離島を含む女性全体への一般税であり、御用布は石垣島9カ村の百姓女性が織らされたということではないだろうか。

 同じ女性でも士族と百姓には格差があった
 貢納布を織る女性でも、士族と百姓・平民では大きな格差があった。大浜信賢著『八重山の人頭税』では「重税の族籍別観察」として、次のように明らかにしている。
 「この人頭税は、建て前としては八重山の住民全体に課せられたのではあるが、平民に対する課税は厳しく士族に対しては比較的軽いものであった。これは正男の場合だけではなく、正女の御用布納税においても士族正女に軽く平民正女に重かったことは、すでに第5表(正男正女に対する税品賦課、※別表)で説明したとおりである。当時の八重山における士族の数は、笹森儀助の調査にもあったように、その数は非常に多く、八重山人口の3分の1は士族であった。すなわち恵まれた者一に対して苛酷な収奪をされた者二の割合だから、平民はいくら働いても追いつかないわけである」
                    八重山織物の課税表
 この表を見ると、士族正女は白上布、白中布、白下布合計247反を納める。平民正女は、同じく合計355反を納める。これとは別に与那国島平民正女が白上布98疋を納める。「定納布は白上布・白中布・白下布の3種目」とされているので、この白上布、白中布、白下布が定納布とすれば、与那国を除く602反のうち、士族女性が41%、平民女性が59%を占めることになる。つまり、白上布、白中布、白下布は士族女性だけではなく、より多くを平民女性が織っていたわけである。
 それだけではない。平民女性は白上布など以外の貢納布がとても多いことが特徴である。新川、石垣、大川、登野城、平得、真栄里、大浜、宮良、白保の9カ村の正女が20舛細上布は70反を納める。これは9カ村女性だけが織るので、明らかに御用布と見られる。
 さらに、与那国島を除く平民正女が、18舛細上布150反、17舛細上布500反、19舛縮布10反、20舛木綿布111反を納める。これら平民正女の貢納布は合計901反にのぼる。これは、定納布か御用布か区別はわからない。
「上納布は士族女性が織った」というと、なにか貢納布のなかで士族女性が大きな負担をしたような誤解を与える。でも、この表でみると、八重山の正女に対する税品賦課は合計で1503反(別に与那国98疋がある)になるが、そのうち、士族女性はわずか16%にすぎない。平民女性が84%という圧倒的多数を負担している。八重山は人口比で士族が3分の1もいたといわれる。貢納布は「士族正女に軽く平民正女に重かった」という指摘はうなずける。

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八重山の定納布と御用布、その1

人頭税で貢納布を織らされた八重山女性
 八重山の織物といえば、苧麻糸で織られた八重山上布が有名である。琉球王府の時代は、人頭税制度のもとで、15歳以上、50歳未満の男女に、納税の義務が課せられた。男性は主に米、女性は貢納布だった。
 八重山の歴史についての著作や史料を読むと、少しややこしいのは「貢納布」という用語とともに「御用布」という表現がよく出てくることである。時には、御用布と貢納布を同義語で使っていることがある。でも、明らかに異なる概念である。
 御用布(ごようふ)は「王府に納める布であるが、頭懸けの上納布とは別に、別に指定された布を特にいう」(『石垣市史叢書』解説から)とされる。
 先に沖縄県立芸術大学付属研究所の文化講座「八重山の歴史と文化」のなかで、「八重山の織物」についてお話をしていただいた織物作家の新垣幸子さんは、とてもわかりやすい整理をして話された。はじめにその講座の内容とその他の資料をもとに紹介したい。
 
 定納布は一般税、御用布は石垣島9村で織る
 八重山上布は、琉球王国時代は、布の密度によって上布、中布、下布に分けられていた。布の経糸(密度)筬(ブドキ、おさ)目は5~20算(よみ、舛)に分けられた。
 貢納布は、定納布と御用布に分かれる。
 定納布は、全住民への一般税で、白上布、白中布、白下布、白下々布がある。
 御用布は、(王府などから送られてくる)図案の「御絵図(みえず)」により織り上げる。
 赤縞(嶋)上布、紺縞上布、白縮布がある。赤縞上布は、紅露(くーる、自生しているヤマイモ科の植物で染める)やヒル木染めによる赤茶系の柄で、上、中、下布がある。
 紺縞上布は、藍染めによる柄で、上、中、下布がある。
 白縮布は白無地である。

 御用布を織るのは、最初、新川、石垣、大川、登野城の四カ村(石垣市の中心部)に割り当てた。あとから平得、真栄里、大浜、宮良、白保を加えた9カ村に割り当てた。離島は定納布だけだった。(蔵元から通行しやすい村に割り当てたのではないか)。
 御用布は、織り手への手間賃として苦労米があった。だが、実際には役人に中間搾取されて織り手には渡されなかったようだ。なかには、仕事として誇りをもってやっていた人もいたという。

 ここで改めて八重山の人頭税による貢納布の実態を少し見ておきたい。
 喜舎場永珣著『新訂増補 八重山歴史』では、「八重山の人頭税」として、以下のように記述している(要旨)。
 割り当てられた定額人頭税の総額は「沖縄郷土歴史読本」によると米2280石に定められ、内807石およびこれに対する口米①斗立②蔵役人心付および総高に対する重出米を「米納」とし、残り1473石やこれに対する口米は反布に換算え白上布1226疋、白中布46反、白下布2272反を毎年納額と定め、宮古・八重山とも反布納は政庁の都合によって一定率で前年指定して細上布・縮布や木綿布に換納することができた。
 (注)斗立とは年貢米1石につき1斗2升の出目米を加えたもの。蔵役人心付とは、宮古・八重山では1石につき8升ずつ加えたもの。…
 納額を割当てるには各村人口の多少や位置の便否等を参酌し穀物は各村の等級を上中下の3等に反布は上中の2等に区分して租税を負担する。…
 人頭税を課せられたのは15才以上50才以下の男女で、これを正男正女といい一括して正男正女または正人といった。正人はさらに居住村の村位と年令によって階級を異にし、また負担額もちがっていた。…
 年令による正人の4階級は次のとおりである。下々男女(15才―20才)上男女(21才―40才)中男女(41才―45才)下男女(46才―50才)…
 人頭税制度の裏面には免税といった特殊的な制度のあったことを忘れてはならない。免税の特典者を挙げて見ると、頭・首里大屋子・与人(ユンチュ)・蔵筆者・詰医者等は夫婦およびその子孫の中2人は免税された。(球陽によると正徳2年1712年免税実施)
目差は夫婦だけ免税・若文子・筆者仮若文子・仮筆者等は本租を納付した本人から3代までの子孫は2度夫賃だけ免ぜられた(以下略)
                      八重山上布
                     八重山上布
 
 八重山島仕上世例帳や御用布座公事帳によると貢納布は元文4年(1739)の頃は定納布(ジョウノウフ)と御用布に大別され、定納布は白上布・白中布・白下布の3種目で、御用布は紺縞上布・同中布・同下布・赤縞上布・同中布・同下布・17舛紺縞上布・20舛紺縞上布・紺縞細上布等10種目などを総称していたようであるが、その後御用布ならびに貢反布(貢納布)等改称された上その種類なども改善されてきたようである。…

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