レキオ島唄アッチャー

白梅咲いた、福州園

 陽気に誘われて、「梅が咲いているのでは」と市内の福州園に行って見た。「咲いてますよ」と管理の人がおっしゃるので、いつもとは逆回りで、梅の木のある池の端に直行した。
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 ここは、那覇市の市制70周年および福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設され、1992年9月に開園した中国式庭園である。 設計から施工まで福州市の職人が建設したという。
 何回も行っているのに、園内が左回りで「春之景」「夏之景」「秋冬之景」と配置されていることをはじめて知った。梅は当然「秋冬之景」にある。紅梅はないが、白く可憐な花が青空に映えている。ミツバチが飛び交い、甘い香りが漂っていた。
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 右手を高くあげた彫像が立っていた。誰かなと思うと、詩人・李白だった。
 福州園がある久米は、琉球が中国に朝貢し、中国皇帝から国王として認証される冊封を受けていた時代、さまざまな技術、能力を持っていた人たちが渡来して、住んでいたことで知られる場所だ。その子孫の方々がいまも多く住んでいて、福州園の隣には孔子廟がある。
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 池の側の建物に入ると、太陽の光が池に反射して天井にゆらゆらと照らしていた。
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 真っ赤な花が咲いているのが見えてきた。赤いブラシのような花がたくさん枝から下がっている。その名も「ブラシの木」と呼ばれている。もっと小さな木は見たことがあるけれど、これだけ大きいのは初めて見た。
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 橋が架かっていた。その欄干に動物の彫像が載っている。12あるのでどうやら十二支が揃っている。
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 それにしても、園内すべてに渡って、とても手の込んだ細工がちりばめられている。塀にあけられた窓には、彫像や紋様が施されている。
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 おりしも、モデルさんの撮影に出会った。チャイナドレスを着ている女性をカメラマンが撮影していた。日本人ではないみたい。園内を歩いているお客さんも、外国人が多い。異国風の庭園風景とあいまって、いつの間にか、那覇市内であることを忘れるくらいだ。
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 池では、亀が小さな岩に上がって甲羅干しをしている。のんびりした光景でくつろげる。
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 歩いていると、見事な円形の門に出会った。緑がはえている。
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 「春之景」には、7階建ての二塔(白塔、烏塔)がある。1階部分を一回りすると、塔の各壁面には、武器や楽器を持った人物像のレリーフがある。
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 東治堂と呼ばれる建物は、4本の柱に龍が巻き付いている。見事な龍柱で圧倒される。
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 福州園は無料で見学できるのでありがたい。でも来年からか有料になるらしい。少し足が遠のくかもしれない。
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「追憶のアメリカンドライブイン」へ

 寒さが過ぎ去り、25度の夏日になりそうなお天気なので、久しぶりにドライブに出かけた。
 読谷村のゆんた市場(農産物直売)で野菜を買い、登り窯のあるやちむんの里で陶器を見た。沖ハムの工場に立ち寄り、格安のハム、スーチカー(塩漬け豚肉)などかった。恩納村仲泊にある「シーサイドレストラン」に向かった。 
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 ここは、NHK番組の「ドキュメント72時間」で昨年6月、「沖縄・追憶のアメリカンドライブイン」として紹介された。その番組は残念ながら見れなかったが、放送の効果抜群でその後、お客さんが殺到したらしい。いまは平常に戻っているがお昼時なのでけっこう混んでいた。
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 「シーサイド」に入るのは、私は初めてだが、毎月ライブにいっているフォークユニット「F&Y」のふーみさんが、担当しているFMうるまのフォーク番組のスポンサーでお馴染みのレストラン。ふーみさんは、毎週火曜日にここでBGMライブをしている。一度、行ってみたかった。
 お店のすぐ前はビーチだ。窓の外には海が広がり、文字通り「シーサイド」である。。
 私はメニューの最初にのっているリブステーキ、ツレは評判のサンドイッチとスープを頼んだ。
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 沖縄ではステーキといえば、AIソースが有名。これまで馴染みがないので敬遠していたが、今回はウチナーンチュの愛するAIソースをたっぷりとかけてみた。とても酸味が強い。でも食べてみるとさっぱりとしている。前からこのソースで食べていると、ステーキといえばAIソースというのもわかる気がした。
 ツレのサンドイッチもボリュームがある。
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 店内には、昔のおもちゃ、ミニチュアカーが陳列ケースに所狭しと並び、大型バイクも置かれている。
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 ミニカーはアメ車が多い。「追憶のアメリカンシティー」を再現したようなコーナーもある。
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 この店は、沖縄初のドライブインレストランで1967年創業した。創業者は、冷蔵庫を製造していたけれど、米軍基地に出入りしていて、基地内のレストランのスタイルが気に入って、地元の恩納村にレストランをオープンしたそうだ。創業50年近くなるけれど、アメリカンスタイルを守っている。そこがNHKでも注目されたのだろう。
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 毎週BGMライブを行なっているふーみさんといえば、前日に今年初めてのF&Yライブが糸満市「風は南から」であった。喉の調子が悪いそうだけれど、懐かしいフォークと昭和歌謡をたっぷりと歌って盛り上がった。
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 ツレが、私のためにリクエストした井上陽水の「東へ西へ」も久しぶりに歌ってくれた。
 ふーみさんは、私の「トゥシビー(生年)祝い」のことを知っていて、お祝いの言葉をいただいた。ライブで、ミュージシャンからも祝ってもらうなんて、やっぱり沖縄ならではである。ありがとう~!
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八重山芸能と舞踊、その3

 八重山舞踊の変遷
 大田静男氏は、八重山舞踊の変遷について、次のようにのべている。
 <八重山の士族にとって、首里王府との関係上、学問のことは当然ながら大和芸能や宮廷芸能は教養として奨励された。この「覚」(『羽地仕置』のこと)の令達された17世紀こそ、八重山の芸能が祭祀の場での単調な手振りをくりかえす踊りや、労働歌などの世界から、格調ある芸能を生み出す胎動期ではなかったか。
 八重山に三絃がいつ頃伝来したかは不明だが、おそらく16世紀半ばに王府役人達によってもたされたことであろう。17世紀末には、三絃をともなう節歌は宮廷音楽の影響を受け、労働歌の抑揚やハヤシ部分を削除整理し確立していたと思われる。
 沖縄の工工四や琉歌集には当時すでに八重山の節名がみている。
 八重山の曲節は沖縄の芸能家に愛好されているが、八重山の曲節への振付もされた。
 八重山節歌の曲想がかわれ、中には「八重山音楽先師顕彰碑」に名を連ねる当銘仁屋由教のように所望され上国し、首里の役人達へ八重山節歌を伝授した者もいた(『八重山の芸能』)。>
                 
 森田孫栄氏は、八重山にはかなり古くから王府の冠船舞踊の影響を受けない芸能があったとのべている。
<本来の八重山舞踊が、御冠船系の舞踊にみられない型や所作のありようなどからして相当古く、御冠船舞踊の影響を蒙らない芸能が存在していたとみるべきでしょう。舞踊のおける序破急の方則で進められる出羽、中踊、入羽の形式も、八重山も沖縄本島同様に本土から直接な伝播をうけたものだと一部の学者達は考証しており、本土の風流系の踊りがかつて古い時代八重山でも踊られていて、現在でもその手振りの古拙が残っていると考えられています(『八重山芸能文化論』)。>

 大田静男氏は「八重山古典芸能は近世後期に宮廷芸能の影響を受けて確立した」としながら、次のようにのべている。
 <しかし、一方的に受容接種するだけでなく、中央の芸能に浸透する相互関係にあった。明治12年(1879)の廃藩置県は、その関係を一層深めるものであった。
 王府の崩壊によって宮廷芸能者達は禄を失い、生計のため座を組織し思案橋や辻道端で宮廷芸能を上演した。これら座(芝居)の地方巡行や都落ちした士族達によって宮廷芸能や創作されたばかりの雑踊りが地方へ伝えられた。
 八重山では明治27年(1894)に沖縄芝居の興業がなされ、また、43年(1910)には渡嘉敷守良の明治座が公演をした。絢爛豪華な組躍や舞踊に島の人々は目を奪われたという。
 役者の中には、八重山に定住する者も多かった(『八重山の芸能』)。>

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辺野古賛成ではない、 宜野湾市長選結果

 寒波襲来で沖縄も震え上がった。各地で過去最低気温を記録し、みぞれやあられも降った。39年ぶりのこと。奄美大島では115年ぶりに雪が降ったという。海辺では、魚が寒さで仮死して打ち上げられた。

 そんな寒い中で行われた宜野湾市長選挙は、投票率68・72%で復帰以来5番目の高さとなった。それだけ関心が高かったのだろう。選挙結果は、現職の佐喜真淳氏が二期目の当選を果たした。辺野古新基地反対を掲げた志村恵一郎氏は残念ながら敗れた。
 
 といっても、市民は辺野古新基地建設に決して賛成したわけではない。
 それは、出口調査で政府の辺野古移設を「支持しない」が54%を占めたことに示されている(「琉球新報」25日付け)。選挙前の市民への世論調査では、「辺野古移設」反対は7割を超えていた。市民は、普天間飛行場の一日も早い閉鎖・返還をのぞんでいるが、かといって県内移設で同じ県民に基地の危険を押し付けることに賛成していない。この市民世論は変わらない。
 
 当選した佐喜真氏は、選挙中、普天間飛行場の危険性の除去、固定化を許さないと力説したが、辺野古新基地についてはまったく口をつぐんで争点化を避けてきた。安倍政権の辺野古新基地推進になんの異議も唱えず、実際は容認しながら本音を隠し通した。そのことは、辺野古に反対しながら佐喜真氏に投票した人が22・9%もいることにも表れている(同出口調査)。
 
 政府は一昨年来の県知事選、名護市長選、衆院選で新基地反対の候補者が圧勝して沖縄の民意が三度にわたり明確に示されても、これを民意と認めずに新基地建設を進めている。宜野湾市長選で佐喜真氏が勝ったからといって、これだけを辺野古賛成の民意というのなら、ご都合主義もはなはだしい。そんな屁理屈は通用しない。逆に、出口調査、世論調査では宜野湾市民も辺野古移設に反対が多数派であることが改めて示された。
 宜野湾市民が政府に求めていることは、普天間飛行場の辺野古移設ではなく、危険性除去と一日も早い閉鎖・返還を実現することである。
  翁長雄志知事は、辺野古新基地反対の「これまでの姿勢を堅持し、県政の重要課題としてやっていく」と述べている。それは当然のことだと思う。多くの県民が支持し期待していることだろう。

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今年初のSSカンパニーライブ

 今年初めて沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーの糸満市「風は南から」のライブに出かけた。直前まで激しい雨だったが、開店時間頃には雨も上がった。
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 お客さんは、雨や風邪ひきなどで多くはなかったが、SSのサウンドとリーダー、瀬底さんの面白トークをたっぷり楽しんだ。
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 先日の生年祝いで、糸満のSS常連さんから、上等の長袖かりゆしウエア―をプレゼントしていただいたので、さっそく着用してみた。ささやかなお返しプレゼントを持参して、改めて感謝のあいさつをした。
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  この日は、「琉球新報」に私の「トゥシビー祝いの音楽会」の記事が掲載されたばかりだったので、ライブ常連さんが「記事読みましたよ」と言ってくれた。SSメンバーからも「記事載ってましたね」「おめでとうございます」と声をかけてくれてビックリだった。
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 このところ沖縄も冷え込んだきた。さらにこの日曜、月曜日は西日本に寒波襲来で大雪が降るという。沖縄でも、最低気温が7,8度、最高気温が11度という寒さになるらしい。気温が7,8度くらいになると、もしかして沖縄にも雪かみぞれ、あられが降るのではないかと、もっぱらうわさが広がっている。
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 沖縄での公式の雪の降った記録では、1977年2月17日、久米島でみぞれが降った。みぞれの観測は「雪」に含まれるという。
 これくらいの寒さになると、南海の魚は寒さで気絶するそうだ。
 話しは横道にそれる。ジョン万次郎が漂流中に助けられ10年間いたアメリカから商船サラボイド号に乗船して琉球の喜屋武(キャン)岬沖まで来て下船し、小型ボート・アドベンチャー号を降したときも、雨と霙(ミゾレ)混じりの寒い日だった。大渡海岸沖の干瀬(ヒシ)の浅瀬に着き、一夜を過ごした。翌朝、ヒルクイエ(海水温が急に凍え死んだ魚)を捕りに来た村人に出会った。そんな話を思い出した。昔から魚の凍え死は知られていたようだ。
 
 温かい沖縄では、雪を見たことがない人が多い。寒いのは苦手なはずなのに、雪の降るのは見たい。それがウチナーンチュの心情である。今日の夜のラジオでも、雪を待望する期待の声が飛び交っている。雪の怖さを知っている者にとっては、雪を歓迎する気にはなれない。でも、チラチラ舞うくらいで、子どもたちが喜ぶのならそれもよいのではないか。
 
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「琉球新報」に投稿掲載されました

 今朝の「琉球新報」の読者の声欄「ティータイム」に「『トゥシビー』の音楽会」と題する私の投稿が掲載されました。先日、思いがけなくみなさんに「72歳トゥシビー祝い歌会・音楽会」で祝っていただいたので、その感謝の気持ちを込めて投稿したものです。
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 「新報」の「声」欄には、一般投稿では何度か掲載されたことがあるけれど、この写真付きで囲み扱いの「ティータイム」は初めてでした。
 新年になってから新聞には、各地で開かれている合同生年祝いの記事がたくさん掲載されています。沖縄では、住民のつながりの強い地域では、今年の干支である申年生まれの子どもやお年寄りをまとめて合同で生年祝いをする習慣があります。一人一人別々に祝っていると、参加する人たちも大変だから、合同で開催するのが合理的という意味もあるのでしょう。
 新年の1月は、生年祝いシーズンとなっているようです。
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 生年祝いでは、どこでも余興として芸能が披露されます。プロの民謡歌手らを呼んで華やかしてもらうところもよくあるようです。
 そんななかで投稿が掲載されたのは、私のトゥシビー祝いが、題名の「歌会・音楽会」というちょっと異色のお祝い会だったからかもしれません。
 今朝早くから「新聞読みましたよ。あの日のことを思い出しました」「新聞にのるとはすごいですね」などと感想が寄せられました。
 改めて、素敵なお祝いをしていただいた、みなさんとツレに感謝します。
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八重山芸能と舞踊、その2

 琉球文化の八重山への伝播
 喜舎場永珣氏は、芸能の「琉球様式の伝入を促進したのは蔵元(王府の行政庁)の在番(蔵元の長)制度であった」として次のようにのべている。
<奉行及び在番筆者等が首里王府から派遣せられて来島し、駐在したことは琉球文化が八重山に伝播する大きな素因をつくった。一方また八重山の蔵元政庁の役人等も毎年春秋の2季はもとより年によって3回も4回も上国することがあって、沖縄本島の芸能文化が大いに伝来した最も大きな素地となった。八重山からの上国役人の随行者には歌舞音曲に極めて堪能なる士が選ばれていた。上国時には舞踊や音楽などの習得伝授に務めていた。>
 
 喜舎場氏はさらに、「従来の島内文化と外来文化を接触融合せしめ、いちはやく咀嚼消化して琉球舞踊の八重山化を図り、後世において続々と創作が成された」とのべたうえで、その事を促進したのは次のような節時であったと指摘している。
 「御祝上げ」
 琉球国王竝びに王妃の御生年の御祝賀のお祝いで、13年毎に催しされた。この時踊られる舞踊は一切八重山の踊りは禁止され、すべて琉球舞踊のみを以って演じられる規定となっていた。
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               那覇市民会館で行われた芸能祭から(記事とは関係ありません)
 「御冠船踊」
 事前に八重山の蔵元などにも冊封時(中国から派遣された冊封使が琉球国王を認証する)には布達があって、八重山でも祝っていた。これを八重山では「冊封祝儀」と称して祝い上げた。普通の祝いと異なる点は琉球舞踊の他にも大和芸能を催し、謡曲・狂言・能などが演じられていた。

 「親廻踊」
 蔵元政庁の在番が3年に一度その任期を交替する折、民情視察と称し、蔵元の管内各島村を巡視することを言う。その時役人の頭以下諸役人等を随行員として同伴せしめるが、この親廻りの時に歓待は管内の各島村に置いてはそれこそ最も大きい行事の一つであった。
 
 以上の折節には約半年も前から準備が行なわれる事があり、ことに「親廻」の時などには各島村において踊りの上手な者が選定され、昼夜兼行の練習をしていたと伝えられている。各村においてはその「親廻踊」に」出場したことが何よりの名誉とされ、それが在る面に於いて技を競い、芸能の発展に幾分か寄与したことは否定出来ない。
 八重山における舞踊の成立は、往古よりすでに成立していたかの如く考える人もいるがじつはそうではない。
 あくまで近世期においてその成立をみたのであった。近世期もむしろ中葉頃から後末期にかけての頃に成立したのではないかと考えている(『八重山民俗誌下』)。

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八重山芸能と舞踊、その1

八重山芸能と舞踊

 これまであまり八重山舞踊を見る機会がなかったけれど、先ごろ八重山の芸能祭を見た。八重山舞踊といっても、素人目には沖縄本島の琉球古典舞踊ととても似た舞踊が多かった。八重山の庶民的な舞踊は見られなかった。なぜ、八重山ではこんなに首里王府の宮廷舞踊の流れを汲む舞踊が盛んなのだろうか、とても不思議な感じをもった。それに、八重山舞踊には「勤王流」というあまり沖縄らしくない名前の流派がある。なぜこういう名称の流派があるのだろうか、それもよくわからないままだった。
 先日、八重山の古典芸能について話を聞く機会があった。もう少し深く知りたいと思い、八重山舞踊についての研究者の著書を読んでみた。そこで学んだことをスケッチ的に紹介しておきたい。

祭式舞踊と琉球式舞踊
そもそも八重山の舞踊とはどういうものがあるのだろうか。喜舎場永珣氏によると、八重山の舞踊は大別すると、一応二通りの舞踊があるという。以下『八重山民俗誌下』抜き書きである。
<その一は往古からの祭式舞踊の流れをくむもので、他の一つは近世に至って琉球本島からの伝来とその影響をうけたいわゆる琉球式舞踊と称せられるものである。
 祭式舞踊は、土着の素朴そのもので、舞踊以前の発生期の舞踊と称すべきもの。八重山の島人達に始めて火食の道を教えた「イリキヤ、アマリ(天降)」という神を祭った際に盛んに行われたといわれる裸舞などがそれに相当する。宗教的な祭式舞踊は未だ農民の社会と強く結びついて今日に至るまで保存せられているのである。それは豊年祭の時の舞踊であり、盆祭のときの「アンガマ舞い」であったり、シティ(節)舞い、種子取舞い、結願舞い、家屋新地落成時の舞いなどであるが、これ等は今日まで保存され、古代の遺物というべきものである。
             
                        赤馬節
 一方、後者の琉球式舞踊は、八重山が中山(琉球の三山時代の一国)に入貢して以来、遂には漸次琉球政庁の方からその伝来と影響を受けた舞踊で、政策的なものもそこには内在するのであるが、いずれにせよある種の型にはまったものであが故に、従来までの自由奔放な円陣舞踊になれていた島人たちにとっては如何にも窮屈なものであったと思われる。しかし、月日の立つ(ママ)にしたがって、ようやくこれ等を咀嚼し、趣味も覚えるようになり、士族の男子達はこの琉球式舞踊を専門とするようになったのであるが、士族の婦女子等は踊ることも歌うことも禁ぜられていたのであった。ところが農民の乙女等は純な祭式舞踊を踊るかたわら時にはこの琉球式舞踊を踊る重荷を負わせられていたのである(「琉球八重山の音楽と舞踊」)。>

 <祭式舞踊の多くは「巻踊り」といって円陣舞踊のように考えられ、そして島ごとに独特の様式があって面白い。これが八重山の純粋の古式舞踊である。
 琉球式舞踊が八重山に伝えられた年代は文献の徴すべきものがないから不明だが、元中7年に八重山が、琉球入貢した以後か、それとも寛永9年(1632)に、八重山の在番制度が設けられた頃であったか、判明しないが、琉球王府は、八重山が琉球の宝庫であることを知って、自分達が島津氏への貢物を軽減するには、この宝庫を開拓する如くはないと、琉球化に力を注いだのであった。その一策として、八重山の島人が歌舞を好むのにつけ入って、宮廷風舞踊を移し、島人はそうした政策とも知らずに、ただ歓迎して習い覚えたので、今も盛んに行なわれているのである(「八重山の民謡と踊り」、『八重山民俗誌下』)。>

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最強のおでんに大満足

 「ウチナー最強のおでん屋さん」と勝手に名付けている久茂地の「おふくろ」に2年ぶりに行った。
 沖縄も1月中旬になると冷え込んできた。この日もとても寒くてまさに「おでん日和」だった。
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 なぜ「最強」なのか。それは、おでん食べ放題、刺身を始めおでん以外の料理も20種類ぐらいあって食べ放題、ビールを含めアルコールも飲み放題で、なんと2000円ポッキリという超リーズナブルだから。ただし、生ビールはジョッキ3杯まで。泡盛は飲み放題だが、2時制限があるけれどね。店内はまだ早い時間なのに、混み合っている。人気があるので予約しないと座れないほどだ。
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 アルテに集う音楽仲間のみなさんと8人が揃った。おでんは、食べたい品々を注文票に記して出すと、大皿に山盛りになって出てくる。ただし、出てくるまで少し時間がかかるので、他の料理を取る。これだけでもお腹がいっぱいになるくらいある。ビール2杯目くらいになるとおでんが出てきた。
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 沖縄のおでんといえば、豚足のテビチとチマグが美味しい。でもテビチとチマグはどう違うのか? それが問題だ。テビチは豚の足全体を指し、チマグは足先をいうらしい。
 テビチをつまんでみると、なるほどとてつもなく大きい。普通、スーパーなどでテビチ煮つけで売っているのは大きくない。でも「おふくろ」のテビチはホントに手を広げたよりも大きいくらいあり、ビックリ。かぶりつくとコラーゲンがたっぷり。チマグは今回は食べなかった。
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 山盛りのおでんも8人いるとみるみる片づけられる。さらに追加して注文する。珍しいのはこの時期だけあるというトマトのおでんである。
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 トマトといえば、大和の旬からいえば初夏くらいのイメージがある。でも沖縄はいまがトマトの旬だ。格安で売られている。春になってくるともう終わるので、今の時期なら、おでんにもできるということらしい。残念ながら、私は他のネタを食べるのに忙しいので、手が出なかった。食べ放題だが、食べ残すと罰金がある。幸い何も食べ残しなしだった。
 お腹も満腹になる頃、時間終了の合図があり、店を出た。
 それにしても、よくこんな値段で営業できるものだ。消費税が8%に値上げされても、前の価格据え置きだった。一つだけ安く営業できている要因として、気付いたのは、ビール、泡盛やおでんを運ぶなど接客を若い男性が一人で切り盛りしていたこと。満席の店内を一人で接客するのは超ハードな仕事だと思う。でもスピーディーにこなすのには感心するほどだった。
 何はともあれ、美味しいおでんに美味しいビール、おしゃべりを楽しんだ夜だった。
 
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73歳トゥシビー祝いの歌詞をいただく

  先日、私の73歳トゥシビー祝い「歌会・音楽会」のさい、八重山民謡の唱者の杉田園さんから、トゥシビーを祝う歌の歌詞をいただいた。
 前のブログでも書いたけれど、園さんが弟子のトゥシビーの祝いに行くので研究所の練習を休むと伝えると、師匠がその場で、さらさらと紙に歌をしたためてくれたそうだ。このような歌がスラスラと出てくることは、さすが大先生だと驚いた。トゥシビーを祝い、さらなる長寿を祈念する見事な歌詞である。素晴らしい歌詞なので私の一存で紹介したい。
「6,70までや なみなみぬ御祝 米(ユニ)とかじまやーぬ 御願さびら」
「今年申年や 生年ぬ御祝 いつん若々とぅ 百歳までぃん」
「年ば取りりょたで思むな 今ぬ世や今から 島唄ばいじり 長命い給り デンサー」
                   大工琉歌

 歌詞を私流に勝手に意訳すると次のような意味になる。
                 
「61の還暦,73のトゥシビーまでは、なみなみのお祝いをし 88の米寿と97の風車(カジマヤー)のお祝いまで お願いします」
「今年は申年で生年をお祝いする いつまでも若々しく100歳まで元気で長生きしよう」
「年をとったと思うなよ この世はまだ今からだよ 島唄を楽しみ 長寿をいただく」
 園さんは、この歌詞を「デンサー節」にのせて歌ってくれた。
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 園さんは、私と私たち夫婦の名前を織り込んで、次の歌を詠んでくれた。名前の入った歌詞を作っていただくなんて、考えられなかったこと。こんな幸せなことはない。
 「○○夫妻や 夫婦の鏡 いつ世までぃん 一路あり給り」
 「沖縄の島唄 島ぬ情 ○○さんぬ唄や 沖縄と共に」
                 杉田作歌詞

 この歌詞を八重山を代表する抒情歌「トゥパラーマ」にのせて歌ってくれた。素晴らしいトゥパラーマだった。
 八重山民謡の「デンサ節」や「トゥパラーマ」は、それぞれ自分の好きな歌詞をのせて歌う。自分の想いを込めた歌を作って歌う。八重山民謡ならではの面白さと奥深さがある。
 思いもよらない琉歌、歌詞のプレゼントをいただいた。こんな歌でトゥシビーを祝って頂くなんて、島唄を愛する者としてとても幸せなことである。

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