レキオ島唄アッチャー

トゥシビー祝いをしていただけることに

2016年は申年。私は1月8日に6回目の申年誕生日を迎える。沖縄では、生れた干支を「トゥシビー」と呼び、とくに高齢になればお祝いをする習慣がある。 ツレの提案で、歌・音楽でお祝いする会を開いてくれることになった。毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーに集う仲間をはじめ、音楽好きな人たちが楽器を持ちより、祝ってくれるという。
 そのために告知用のフライヤーをツレが知人に頼んで作成してもらった。 
                 昭洋フライヤー2
 同じお知らせビラでも、チラシは配布するもの、フライヤーは、主にお店に置いて持ち帰ってもらうものだという。
 知人の方は、ご丁寧にフライヤーを5,6種類も作成してくれた。ささやかな祝う会のために、こんな立派はフライヤーを作成してくれて有り難い。ブログにも2種類アップしておきたい。
                   沢村昭洋73歳トゥシビー祝い、修正
 なんだか面はゆい感じがある。当日は、なにか歌三線で演奏しなければいけない。まだまだ未熟者だから何を演奏すればよいのか、思案中である。練習不足のまま年を越しそうだ。
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今年最後のSSカンパニー忘年会ライブ

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーの忘年会ライブが、南城市佐敷の「カフェSSカンパニー」であり、今年最後のライブとして楽しんだ。
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 11月末に新築オープンした「カフェSSカンパニー」は、道路拡張で隣のビルが取り壊され、一軒屋状態で白い建物がよく目立つ。
 12月は毎週土曜日がこの本拠地のカフェで定期ライブだ。今月はビールなどドリンク飲み放題でオードブルのフード付き、チャージ料込でなんと2000円という驚きの料金。リーダーの瀬底さんのサービス精神の表れだ。
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 この日は、RBCラジオ「団塊花盛り」のパーソナリティーで、沖縄GS愛好会会長を自称する箕田和男さんが、ご夫婦で最初から参加した。
 第一部の終わりでは、箕田さんもマイクを握り、「僕のマリー」など何曲かを歌った。先日は、ラジオまつりのパーソナリティーによるカラオケ歌合戦で、やしきたかじんを歌ったことから、「最近はやしきたかじんばかりでGSは歌っていない」といいながら、見事に歌いこなした。
 
 この日のライブには忘年会などがあり、参加できないと事前に言っていた人たちも、やっぱり聞きに行きたいと、忘年会を早めに切り上げて駆けつける人もいて、後半は満席状態となった。
  
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  第2部では、近頃歌い始めた「芭蕉布」を歌った。ロック調のアレンジでパンチの効いた演奏と歌に、ダンシングは一段と高揚。最高の盛り上がりを見せた。 
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 「シーサイドバウンド」などノリのよい曲が続くと、ますますヒートアップ。演奏するメンバーも盛り上がる。
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 最後の「また逢おうね」では、手と手をつなぐ大きな輪ができて、全員合唱で歌声が響きわたった。
 ラジオのヘビーリスナーのLさんは、念願かなってこの日初めてSSライブに来たけれど、とても楽しかったそうで、なによりである。
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 アンコールの声が飛ぶと、サプライズで、フォークユニット「F&Y」として活動するふーみさんが、瀬底さんとともにマイクを握った。彼も、南城市玉城でライブをこなした後、新築なったお店を見ておきたいと立ち寄ったのだった。
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 「サボテンの花」を歌った。SSカンパニーとF&Yのレパートリーでかぶっている曲目だ。二人がいっしょに歌うことはほとんどない。見れたのはラッキーである。ライブが終わったのは午前12時半を過ぎていた。今年最後の夜更かしかもしれない。
 今年も元気でライブを楽しめたことに感謝し、来年も良い年になってほしい。そんな思いを一つにしたライブだ。
 
 
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Xmasライブで盛り上がる

 クリスマスイブの夜、糸満市「風は南から」でフォークユニット「F&Y」のライブがあった。風南でのF&Yライブが始まり8年ほどになるけれど、クリスマス当日にあたるのは初めてらしい。
 ライブが始まり二人が登場すると、なんと真っ赤なサンタクロース姿やサンタ帽子の可愛い衣裳。みなさん驚いて喝采と大爆笑に沸いた。
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 石垣島に25年ぶりに行って帰ったばかりという良明さん。なぜか歌う前にビールで乾杯。なぜXmasで乾杯なのかは?

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 ライブは、お馴染みのかぐや姫やNSP、風、アリスなどのフォークナンバーを次々演奏した。ふだんあまり演奏していなかった曲もけっこう歌ってくれた。知らない曲にも良い歌があることを改めて知らされた。
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 後半には、フォークだけでなく、10月の良明さんのbirthdayライブではじめた昭和歌謡の名曲も歌った。 
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 フォークとはまた違った楽しさがあり、否が応でも盛り上がる。
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 ライブ仲間のお姉さんたちも、サンタ帽を冠り、ダンシングで盛り上がる。店内は12月下旬でもエアコンをきかせているが、熱気でもう関係ない。
 最後のアリスナンバーを演奏すると時計は12時を回った。でもアンコールに応えて、3曲を演奏。サービス精神が旺盛なF&Yである。 
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 ライブが終わると、ふーみさんが、われわれにXmasプレゼントを配ってくれるというサプライズまであった。その気配りに感謝、感謝だった。
 
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楽しめたRBCラジオまつり「団塊花盛りSP」

 RBCラジオまつりが19,20日の2日間、セルラースタジアム前広場で開かれた。日曜日は人気番組「団塊花盛りSP」があった。
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 久高マリさんの司会で始まった「団塊SP」。月曜から金曜日までの「団塊」のパーソナリティーが登場して、それぞれ得意の歌を披露した。
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 トップバッターのかでかるさとしさんは、ラテンのナンバー「花祭」の替え歌「沖縄野菜まつり」を歌った。島野菜がたくさん歌い込まれていて面白い。
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 火曜日担当、箕田和男さんは、今年亡くなったやしきたかじんの曲を歌った。彼を真似したのか、珍しくサングラス姿だ。なんかチンピラ風でもある。でもイメージチェンジしてカッコイイ。
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 水曜日担当の垣花章さんは、お父さんが好きだったという藤山一郎のヒット曲「東京ラプソディー」を歌った。
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 木曜日担当の小山康昭さんは、あおい輝彦の曲を歌った。いつもながら爽やかである。スポーツ好きだが、最近はギターの練習もしているという。
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 金曜日担当の高橋勝也さんは、伊丹幸雄の曲を歌った。今朝3時までかかってつくったというコスチューム姿で、パフォーマンスたっぷりに歌い、大受けだった。
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 パーソナリティーとリスナー組んで、「イントロクイズ」には、ラジオでお馴染みのリスナーさんたちが登場した。
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 流れた曲の歌いだしと題名を当もてるクイズだ。知り合いのリスナーも登壇した。歌詞が出てきても、題名がなかなか浮かばないこともある。でもみなさん結構早く言い当てるので感心する。

 沖縄随一のGSバンド「SSカンパニー」が「真冬の帰り道」「ブルーシャトウ」など3曲を演奏した。SSファン、団塊リスナーが遠くは八重山、山原からもたくさん来ているのに、3曲ではちょっと寂しい。
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 このあと、団塊パーソナリティーが勢揃いして、「団塊花盛り」の歌「♪ もう一度夢を見よう」(演奏:SSカンパニー 作詞:真壁貴子 作曲:瀬底正真)を歌った。歌詞を紹介する。
  
 ※ここからもう一度頑張っていこう
ダンダン 優しく  ダンダン 明るく   ダンダン 輝く
ダンダン 良くなるよね 信じる力 団塊花盛り
 風に流れる雲のように、
 僕らは時代を歩いてきた
 日本が豊かさを目指したあの頃
変わりゆく社会の中で~イエーエー
それぞれの幸せ 追い求めたね
 ※ここからもう一度頑張っていこう
ダンダン 優しく  ダンダン 明るく   ダンダン 輝く
ダンダン 良くなるよね 信じる力 団塊花盛り 
                  

 悔しい思いをしたことも
 夢 諦めたこともあったよね
 皆が希望を持ち 生きた時代
 変わりゆく社会の中で~イエーエー
 プラス思考 変えない 変えたくない
 ※ここからもう一度頑張っていこう
 ダンダン 優しく  ダンダン 明るく   ダンダン 輝く
 ダンダン 良くなるよね 信じる力 団塊花盛り
 ダンダン 優しく  ダンダン 明るく   ダンダン 輝く
 ダンダン 良くなるよね
 信じる力 団塊花盛り
 未来へ向って頑張っていこう
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  まだまだ「未來へ向かって頑張っていこう」という団塊応援ソング。昨年のイベントでも歌ったが、パーソナリティーのみなさんも大分、この歌に馴染んできたのか、楽しそうに歌っていた。
沖縄のラジオは、視聴者参加番組が多く、パーソナリティーとリスナーとの距離が近いのがとってもよいところだ。
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オセアニアの海と移動、その6 なぜ東へ東へ進んだのか

 ポリネシア人の祖先 
 ポリネシア人の遠い祖先は、台湾あたりから南方に拡散したオーストロネシア語族グループの一派であった。なかでも、東南アジアの島々に定着したインドネシア系の主流派から分かれて南下し、西太平洋の小さな島々に広く足跡を刻んだオセアニア系の先史ラピタ人こそが、彼らの直接の祖先に当たる。
 トンガやサモアに定着したラピタ人は、やがてポリネシア人となった。
ポリネシア人は非常に大柄であり、筋肉質で骨太のヘラクレス型の体形を誇る。また。肥満になりやすい体質とか、胴長で相対的に脚部が短いことなども特徴となる。
 今から何千年か前のこと、東南アジアからオセアニア方面に向けカヌーで乗り出した人びとがいた。おそらくは想像を絶するがごとき難行であった。そのうえ、たどり着いた島々には、ない物だらけの貧弱な天然資源しかなかったから、そこで生活するのは苦行。これらかつ慎ましき生活条件に耐えうることだったであろう。そんな過程のなかで多数を占めるようになったのが、過剰に成長した巨人症タイプの健常者だったのではあるまいか。
 この項は、片山一道著「小さな島々の巨人たち」(国立民族学博物館編『海の人類大移動 オセアニア』)から要約して紹介した。

 なぜ東へ東へ進んだのか
 これまでオセアニアの歴史と民俗・文化について専門家の見解を紹介してきた。これらを読んでいて一つだけ、まだ腑におちない点がある。それは、海の人類大移動がなぜ東へ東への進んでいったのか、という問題である。かつて、謎だったポリネシア人の祖先は南米人だという説を証明するためノルウェーの人類学者ヘイエルダールがコンティキ号という葦船に乗って航海したことがあった。
 私も少年時代にその航海記を読んだ記憶がある。でもこの南米から西へ移動したという説は現在では否定され、オーストロネシア人が東へ大移動したというのが定説になっている。
 
 なぜ東へ東へ進んだのか、という理由について、人間は東へ向かう習性がある、太陽が昇る方向に進んだなどという説明をする人がいる。でもこれは素人目に見ても、疑問を感じる。なによりもオセアニアは、広大な海域に無数の島々が点在していて、人類が定住していない未開の土地が多かったからではないか。とくにポリネシアは「人類最後のフロンティア」とも呼ばれる。
なんらかの原因で従来の土地に住めなくなった人々が、海を渡って植民をして行った。東へと向かい、さらに時間をかけて東へ東へと移動していったのではないだろうか。東アジアの各地は早くからすでに定住している人々がいる。そこに移動しようとすれば、争いになる。西への移動はあまりにも障害が多すぎる。海を渡る舟と航海術をもっていれば、海原を渡ってオセアニアの未開の島への移動を選択することが合理的だったのではないだろうか。
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                   石垣島の唐人墓(記事とは無関係)

 もう一つ関心があるのは、八重山諸島とオセアニアとの関係である。
 八重山が有土器から無土器に変わった背景に、南方から無土器文化の人びとが渡ってきたことが考えられる。
 ではポリネシアの無土器文化をつくりだしたと見られるラピタ人が、八重山にも渡ってきたのだろうか。しかし、東へ東へ移動した人たちが、北上したとは考えにくいという。
 それに、体格面から見ても、ポリネシア人は巨体であるが、そんな巨体は八重山諸島でも見られないので、ポリネシア人と同じ人種の人たちが八重山に来たとは考えられないだろう。
ただし、ミクロネシア中央および東部には、南から北上してきたラピタ文化の流れを汲む人びとによって2000年前ごろ植民され、土器も拡散初期には3つの火山島でつくられていたが、すぐにつくられなくなった。道具の素材としては石よりも貝斧や貝ナイフ、貝製の装身具類などがつくられたという。
 八重山の無土器文化や貝斧など貝を道具の素材としたことでも共通点がある。これらのラピタ文化の流れを汲む人びとが、北上して八重山にまで到達したという可能性はあるのかもしれない。そんなことが頭に浮かんできた。
いずれにしても八重山諸島に古代に南方の島々から移動してきた人たちがいたことは確かなようだ。それが、どういう人々だったのかは別にして、オセアニアの海の大移動の歴史と様相を知ると、かつて八重山諸島に渡ってきた人々が、どのように舟を操り、長い航海をして、たどり着いたのかを考える上で、とてもヒントになるように思う。
  終わり


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アルテで「小浜節」を歌う

 毎月恒例の「アルテミュージックファクトリー」は第119回で、今年最後となりテーマは「歳」。エントリーは少なかったが、感動的なファクトリーとなった。
 トップバッター島袋さんはギター弾き語りで「あの素晴らしい愛をもう一度」。伸びやかな歌声が曲調と合っていた。 
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 伊佐さんはギター弾き語りで「イムジン河」。フォーク・クルイセダーズが歌い、なぜか発売中止になった経過がある。懐かしい名曲を聴かせていただいた。私はカラオケで歌う時は、キム・ヨンジャ版で歌うのが好きだ。 
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 越智さんのトランペットとツレのピアノのコラボで「ホワイト・クリスマス」「雪が降る」を演奏した。とくに「雪が降る」は挑戦していた高い音もよく出て、音色もよく好演奏だったと思う。
 ミーシャさんは「イラヨイ月夜浜」をギターで独奏した。いつもながらの優しい演奏で心が癒される。 
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 私は「小浜節(クモーマブシ)」を歌った。 歌詞に「二十歳の女性」と出てくるから選んだ。歌詞を紹介しておく。
♪小浜てぃる島や 果報ぬ島やりば 大嵩(ウフダキ)はくさでぃ 白浜前なし ヤゥンナ
♪大嵩に登てぃ 押し下し見りば 稲粟(イニアワ)ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪稲粟ぬ色や 二十歳頃女童 粒美らさあてぃどぅ 御初上ぎら
 歌意は次の通り。
♪小浜島は豊かな島だ 大岳を背にして 白浜を前にしている
♪大岳に登って 展望してみると 稲や粟は稔り 平和で豊かな世である
♪稲や粟の色は 二十歳の女性のように美しい 粒が美しく その初穂を神に捧げる
  小浜島が「果報ぬ島」となぜ呼ばれるのか、についてこのブログでも書いたので、興味のある方はそちらも読んでみてください。
 歌はなんとか歌えたが、なかなか味わいのある歌い方にならない。 
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 松田聖子の曲を得意にしているあゆなさんは1年ぶりの登場。今回は聖子の曲だけでなく、古謝美佐子さんが歌いヒットした「童神」も歌った。アルテのような場は貴重だからと、わざわざ遠くからお見えになる。歌への情熱はスゴイ。 
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 恒例の南亭こったいの落語は、「睨み返し」という演題。大晦日の借金取りをテーマにしている。笑いながら見ていると、つくづく落語って一人芝居だなという気がする。
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 カオル&タカさんは、ギター弾き語りのオリジナル曲「歳を取ったな…思う前に」。リハーサルのときから、とてもいい曲だなと思った。曲名に示されたように、なにか実感がこもっていて、歌詞、旋律とも素晴らしい。タカさんのギターソロも生かされていた。
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 ギターサークルはXmasソングを2曲演奏した。人数は少なかったが楽しい演奏だった。 
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 ツレはピアノ弾き語りによる「愛の讃歌」とピアノソロでショパンのマズルカト短調67.2を演奏した。「愛の讃歌」は、越智吹雪版ではなく、エディット・ピアフの原曲に忠実な歌詞で歌う美川憲一版を使った。ピアノ弾き語りの腕前が前より格段に向上していることを感じさせる歌と演奏だった。
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 ツレは越智さんとのコンビで、ピアノ&ギターによる「禁じられた遊び」も演奏した。ピアノとギターのための楽譜を使ったので、それぞれの音色が生きていて、この曲の新しい魅力を引き出していた。
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 新田さんは、先日のNAHAマラソンをぬいぐるみ姿で完走したそうで、この日は完走の賞状・メダルを披露しながら「世界に一つだけの花」をギター弾き語りで歌った。
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 この場でサプライズの発表があった。彼女にプロポーズしてOKをもらい、結婚することになったという嬉しい報告だった。付き合いだして2年ほど。いつもアルテに仲良く参加していた。このファクトリーが二人の愛を深め合う場になったのかもしれない。
 「おめでとう!」の祝福の拍手に包まれた。
  伊波さんは、ギター弾き語りで「街の灯り」を歌った。仲村さんのハーモニカのサポートもあってとても味わいのある歌だった。
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 清美さんは「the Christmas song」を宇都宮さんのピアノ伴奏で歌った。もうプロ並みの歌唱力である。
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 最後に新田さんと彼女の婚約を祝って、長渕剛の「乾杯」をピアノとギターが弾ける人はみんなギターを弾き、祝福されるご当人も舞台に立ち、全員が大合唱した。 
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 新田さんは若いけれどアルテの長いメンバーで、みんなから好かれている。
 アルテに3年余り通っているが、こんなにみんなが心ひとつにお祝いをするなんて初めてのこと。主宰者の越智さんから、花束とお祝いのメッセージカードが贈られた。
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 婚約したお二人はもちろん、祝うみんなもhappyな気持ちになる感動的な合唱だった。
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 ツレはこの日、合計4回、6曲ピアノを弾き、「乾杯」の合唱とお祝いの準備も進めたので、超多忙だった。「お疲れさま」と労をねぎらいたい。
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オセアニアの海と大移動、その5 「航海術と船」

 広大な海を渡った航海術と船
 オセアニアの広大な海原を渡って行くのには、優れた航海術と船が不可欠である。現代のようなコンパスもレーダーもない時代にどのような航海術と船を持っていたのだろうか。 
 オセアニアの伝統的航海術は、星・星座、太陽、月などの天文現象のほか、風、うねり、波、雲、魚、漂流物、海の色やにおいなど、ありとあらゆる自然現象の規則性を利用している。
 
 航海術には、500以上の星・星座が使われる。カヌーの針路や島の方位などを示す星座コンパスは、十数個の星・星座で構成される。それらの星・星座の出没位置で32方位をあらわすのである。この星座コンパスは、ミクロネシアで「エタック」とよばれる、洋上で自船の位置を確認する方法にも利用される。ポリネシアでは、自分の島の真上を通過する星をゼニース・スター(天頂の星)とよび、南北方向への航海の導きの星にした。
 
 星が見えない昼には、太陽や波・うねりで方位を知る。
 北半球は北東、南半球は南東からの貿易風が卓越する。この風向きを利用して航海をおこなう。そのほか、雲の形で島の存在を知り、島にあたる反射波や漂流物、ダンカンドリなどが夕方に飛ぶ方向、特定の魚、暗礁などの海面の色、風上からのにおいなどで島が近いことを知る。 
                   双胴船カヌー、国立民族学博物館
                   双胴船カヌー(国立民族学博物館HPから)
 航海を可能にしたカヌー
 200年前までは、ダブル・カヌー(双胴船)がポリネシアの海の交通手段であったことがうかがえる。大型のダブル・カヌーは、30トンの積載量がある。30名の人間と豚・犬・鶏などの家畜のほかに、航海中の食料・飲料水と新天地でのタロイモ(サトイモ)、バナナ、パンノキの苗木などの栽培植物も積むことができた。
 このカヌーは、カニのはさみ形の帆を張り、向かい風にもかなりの角度で切りあがってジグザグ航法で前進することができる。高度な航洋性を備えたダブル・カヌーは、数千キロメートルの航海を可能にした。オセアニアの人びとが、数十日もの船上生活に耐え遠方の島々へと植民することができたのは、この船の乗り物のおかげである。…
 
 シングルアウトリガー・カヌー(本体の脇に浮子を付けたカヌー)は、快速船である。このカヌーは、船首船尾同形、向かい風でも大三角帆を船首から船尾に移動させて前進できる。1975年、沖縄への航海をなしとげたチェチェメニ号(注1)は、この型のカヌーの優れた海洋性を証明した。この型のカヌーは、8名の人員と1トンの荷物を積み、適帆で6~7ノットのスピードが出る。
注1・75年10月、中央カロリン諸島のサタワル島を船長以下6名がシングルアウトリガー・カヌーを操り、48日間、3000キロメートルを航海して12月、本部半島の沖縄海洋博会場に到着した。
 
 シングルアウトリガー・カヌーは、オセアニアの人びとが島に移住・定着してから、島間の人の移動や物の交換には欠かせない乗り物であった。
 航海術やカヌーの建造術、占いや嵐鎮めなどの術は、秘儀的な知識として親族集団の成員のみに継承される性格が強い。ハワイイやトンガなどでは、それらの知識は専門職能集団や階層に占有されていた。なかでも、航海術は、最も重要な知識として位置づけられてきた。 
 以上は、須藤健一著「オセアニア航海術の伝統と現在」(国立民族学博物館編『海の人類大移動 オセアニア』)から紹介した。

ポリネシア人は東からの向かい風に逆らって航海した。そのためポリネシア人の世界観では、東ないし北に向かって航海するのを登る、逆に南および西に航海するのを降りる、と表現する。東へ向かう航海は陽の出ずる場所に向かう水平移動であると同時に、天に向かう垂直移動でもあった。天はポリネシアの創造神、タンガロアが居ます場所である。彼方の水平線を見れば、空と海が交わっている。しかしそこにたどり着くとまたその先に空がある。人々は大海原にときおりかかる虹を見て、世界も虹のように層をなしていると考えた。今見えている水平線まで辿り着けば、天空界の第一層にたどり着く。その先には第二、第三の層がある。だから虹は天と地をつなぐ階段であるとイメージされた。
  この項は、後藤明HP「海の民俗誌」から紹介した。

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オセアニアの海と大移動、その4 「ラピタ文化」

 ラピタ文化広がる
 オセアニア最古のラピタ式土器が、メラネシアに属するニューギニア付近のビズマーク諸島からポリネシアのサモアにかけての広い地域で発見されている。年代はもっとも古いもので前1600年、新しいものは紀元前後だった。
 ポリネシアへこの文化をもたらした人々(オーストロネシア人)は、メラネシアをへて前1300年ごろにはフィジーから西部ポリネシアのトンガ、サモアに定着したと考えられている。
 彼らはカヌーをつかった航海術をもつ海洋民だったが、タロイモやヤムイモを栽培する農耕民でもあった。土器とともに発掘された黒曜石から、彼らが千数百kmもはなれた広大な交易圏をもっていたことがわかる。
 ポリネシアでは紀元前後から数百年の間に土器をもちいなくなり、焼石をつかった蒸し焼き料理(石焼き料理)が現在まで調理の中心となっている。(国立民族学博物館HP「海のモンゴロイドの拡散 ラピタ人は世界最古の遠洋航海」から)

 ポリネシア人の母胎 ラピタ文化   
ラピタ文化とは、ラピタ式土器に特徴づけられる先史文化である。ろくろを使わず、手で作られた土器である。野焼きをされたものである。胎土には、貝殻などを砕いた石灰性の砂や火山性の川砂が加えられた。土器には割った竹などを押しつけて、円形、半円形或いは直線の複雑な文様が付けられている。
 もともと割った竹を押しつけるのは、オセアニアでは入れ墨の手法なのである。つまり、ラピタ式土器の文様は、後世に衣装や入れ墨のような人間を飾る文様として残った。
 
 紀元前500年以降、フィジー以東では殆ど無紋の土器が主体となる。さらに一部の地域では、全くラピタ系の土器が作られなくなる。フィジーのように別の系統の土器に取って代わられる地域もあるが、全く以後、土器を使わなくなる地域もある。土器は人類進化の指標、とくに新石器文化の指標とされる。ラピタ式土器も盛んに交易された。土器が海上交易の重要な対象であったのであろう。この項は、後藤明著「『海を渡ったモンゴロイド』太平洋と日本への道」から要約して紹介した。

 なぜポリネシアでは土器が作られなくなったのだろうか。
 その理由は「適当な粘土が不足するようになったことと、調理方法が変化して、ウムと呼ばれる地炉での石蒸し焼き料理が主流になったためと推測されています。ただし、ポリネシアで土器が消滅したことは文化が退行したからではなく、新しい生活条件への積極的な適応といえるようです」(「広大な海を開拓したポリネシアの人々(前編)」、ワールド航空サービスHPから)。

そういえば、八重山諸島でも有土器から無土器文化に変わった時代は、食べ物は石焼きで料理していたと考えられるそうだ。ただし、料理方法の変化は、あくまで土器をもたないから料理は土器を使わない石焼きに変化したのだろう。

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オセアニアの海と大移動、その3 「ラピタ人」

 「世界最古の遠洋航海民」ラピタ人
 オセアニアの海洋進出をしたオーストロネシアン(オーストロネシア語を話す人びと)について、片山一道氏は、「世界最古の遠洋航海民」と呼ばれるラピタ人であるという。
 今から四千年前頃、ニューギニアの北東の沿岸部やビスマーク諸島一帯の島々に、それこそ忽然(こつぜん)と姿を現したのがラピタ人である。
 まだ彼らの起源についてはよく分かっていないが、日本の縄文人などのように東シナ海や南シナ海の沿岸域で臨海生活に適応した先史モンゴロイドのグループにルーツを求めることができる。
 このラピタ人こそ、人類史上で最初にリモート・オセアニア(注・ソロモン諸島より東の島々)の海洋世界に進出した人々であった。
 
 南太平洋の西隅にある諸島に登場するやいなや、想像もつかぬほど優れた航海能力を駆使して、瞬く間にリモート・オセアニア線を越境して、遙かトンガやサモアの西ポリネシアの島々に拡散していった。
 ともかく、ラピタ人は世界最古の遠洋航海民と呼ばれるに十分な資格を持つ人々であった。
 その後、最も東に進んだラピタ人から生まれたポルネシア人はタヒチあたりの東ポルネシアの大三角圏に散らばる島々を次々と植民していった。
 タヒチあたりの東ポルネシアの島々は西暦が始まる前後の頃、ハワイ諸島は、1,500年前のころ、イースター島は紀元千年紀の間に、そしてニュージランドは約千年前の頃、彼らによって植民された。
 恐らく今から千年前前後、「ポルネシア人の大航海時代」ともいえるような時代があり、ポルネシアの島々を自在に往来していたのであろう。
 (国立民族学博物館HP「『海のモンゴロイド』ポルネシア人の祖先を求めて」 片山一道)

 ラピタ人はどこからやってきた
 ラピタ人はいったいどこからやってきたのだろうか?後藤明氏は「海の民俗誌」(後藤氏HP)で次のようにのべている。
 ラピタ人のルーツは未解明の部分が多いが、台湾の土器との関連性が考えられている。わずかに発見されている人骨から、人種的には現在のポリネシア人に似た大柄な人々だったらしいと言われている。
  
  その祖先はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族であり、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島、ニューギニア島、メラネシアに到達した。ここでオーストラロイドのパプア先住民と混血し、ラピタ人の始祖となる。彼らは進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。
 

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オセアニアの海と大移動、その2 「海の人類大移動」

  海の人類大移動
  太平洋の島々への海の人類大移動について、さらに詳しく見てみたい。
 オセアニアへは、大きく分けてふたつの人類集団が移動してきた。古い方の移動は、今から5万年ぐらい前の最終氷期(更新世代)におこなわれた。インドネシアの島嶼部に住んでいたのは、土器もなく石器も簡単な打製石器しかもたない狩猟採取民で、島づたいにサフル大陸(注・ニューギニアとオーストラリアがかつて陸続きだった)へやってきた。この人々の子孫がオーストラリア・アボリジナルである。
 
 今から3万5000年前ごろには、さらにニューギニア島北東沖合の島々へ海を越えて拡散し、2万9000年前ごろにはソロモン諸島にまで到達した。ここまではニア・オセアニアとよばれ、次に渡る島が目に見えるほどの距離にある。
 新しい方の移動は、オーストロネシアン(オーストロネシア語を話す人びと)によるものである。その痕跡は今から3200年前ごろに、ニューギニア北東のアドミラルティ諸島に突然のように出現した。その特徴を一言で表すなら新石器文化といえる。 
 新しい遺跡では、土器や磨製石器をはじめ多様な道具や装身貝類、イヌやブタ、ニワトリなどの家畜骨がセットで出土するようになった。
 
 この急激な変化は、それまでの文化が変化したのではなく、東南アジア島嶼部から新しい文化複合をもった人間集団が移住してきたためである。この集団はニア・オセアニアをさらに東進し、それまで無人だったリモート・オセアニア(ソロモン諸島より東の島々)へと拡散した最初の人類だった。
 初期オーストロネシアンが残した遺物のうち、もっとも特徴的なものは、ユニークな装飾が施された土器である。ニューカレドニアの遺跡にちなんでラピタとよばれる土器は、メラネシアからポリネシアへというオーストロネシアンの移動経路を明らかにできる便利な指標である。
                 ラピタ土器
     国立民族学博物館特別展「オセアニア大航海展」にて展示中のラピタ土器(同博物館HPから)

 ラピタ遺跡は、西はビスマーク諸島からサモアにかけて分布し、今から2800年前には東端のサモアに到達していた。わずか400年で3400キロメートルのもの距離を東進したことになる。
 次々に新しい島へと拡散していった様子は、ラピタ遺跡から見つかる黒曜石から明らかである。アドミラルティ諸島のタラセア産の良質の黒曜石が、ソロモン諸島をはじめ、3000キロメートルも離れたニューカレドニアからもみつかっている。装飾のあるラピタ土器も、このような交易活動で使われていたと考えられている。

 フィジー、トンガ、サモアまで急速に拡散したオーストロネシアンは、それまで無人だったこれらの島々で1000年ほど停滞した。その間にラピタ土器の紋様は無紋化し、サモアでは早い段階で土器づくりが中止された。また、石斧の断面の形も三角に変化し、貝製装身貝類も貧弱になるなど、サモアでおこったいくつかの文化変化によって形成された文化複合は、のちのポリネシア文化へと引き継がれていった。
 オーストロネシアンの一部は、今から2000年前ごろに再び東へ移動をはじめた。サモアがその出発点となっていた。タヒチを含むソサエティ諸島からマルケサス諸島へかけて紀元後100~300年に移動し、そこから北はハワイイ、東はラパヌイ(イースター島)、最後に南西のニュージーランドへと拡散した、というのがその壮大な拡散の大まかな流れである。
 移動の時期については、最近の研究によってかなり新しい年代に修正された。ハワイイへは紀元後400年、ラバヌイへは紀元後600~700年、ニュージーランドへは紀元後1000~1200年ごろであった。

 ミクロネシアは、ポリネシアよりも複雑な人間移動の歴史をもっている。もっとも早く人間が植民したのは西部の島々で、その中でもマリアナ諸島がもっとも早かった。今から3300年前には土器や磨製石器、多様な貝殻装身具をつくる人々が、東南アジア島嶼部、おそらくフィリピンあたりから拡散してきたと思われる。
 ミクロネシア中央および東部には、多くのサンゴ島と3つの火山島が分布しているが、西からではなく、南から北上してきたラピタ文化の流れを汲む人びとによって植民された。今から2000年前ごろのことで、西部ミクロネシアより1500年もあとである。
土器は、拡散初期には3つの火山島でつくられていたが、すぐにつくられなくなった。また、道具の素材としては石よりも貝が主として用いられ、貝斧や貝ナイフ、貝製の装身具類などがつくられた。
 以上は、国立民族学博物館編『オセアニア 海の人類大移動』の印東道子著「大海原への植民 考古学からみたオセアニア文化」から要約して紹介した。

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