レキオ島唄アッチャー

カフェ・SSカンパニーが新装オープン

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーの本拠地、南城市佐敷の「ショットバーSS」が道路拡張のため、建て直されて新築になった。その新装のオープン記念ライブがあり、大勢のファンが詰めかけた。
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 ライブハウスと違って、カフェなので南側は全面ガラス張り、前のガーデンにはテーブル、イスが置かれオシャレな雰囲気になっている。
 ライブが始まる前からオープンを待ち焦がれていたファンが詰めかけた。
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 スペースは前の店より少し幅広いくらいだろうか。白い壁には、懐かしGSや昭和歌謡のレコードジャケットが飾られている。
 ライブはいつものGSナンバーから始まった。バンドメンバーは普段はSSユニフォームを着るが、この日は自由な服装でよいとなっていて、ライブというよりパーティーの雰囲気。
 SSの糸満「風は南から」の常連「糸満カラーズ」のみなさんは、団扇を飾り立てた応援グッズで盛り上げる。
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 リーダー、瀬底さんの次男君も東京から帰って、キーボード弾き語りで「さくら(独唱)」など歌った。成長を続ける姿をみなさん、頼もしい思いで見守っている。 
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 この日は、ダンスでライブを盛り上げる超有名なTさんが久方ぶりに登場。衣裳を着替えながらのパフォーマンスには、拍手喝さいだった。
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 SSファン一堂から、新装のお祝いとして、花壇に植える花木が贈られ、その目録がTさんから瀬底さんに手渡された。花束などは、その時だけでなくなるけれど、花壇の花木は長く咲いて、癒してくれるから。瀬底さんも嬉しそう。
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 ライブ後半になっても新たなお客さんが次々とお祝いに駆けつける。
 演奏も踊りもますますヒートアップして、エアコンもあまり効かないほど。最後の「また逢おうね」では、手と手をつないだ大きな人の輪ができた。SS本拠地の新装オープンへのみなさんの心から喜びがあふれているようだった。
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朝を「すぃとぅむでぃ」というのはなぜか

 八重山民謡で朝をなぜ「すぃとぅむでぃ」というのか

八重山民謡には「すぃとぅむでぃ」という言葉が出てくる。朝のことだ。
例えば、父母と死別し、引き取られた先で冷遇される悲話を歌った曲がある。「まへーらつぃ節」である。曲名は、女の子の名前。「まへーらつぃ節」に続けて歌う「とーすい」では、次のように歌いだす。
♪すぃとぅむでぃに ハイ朝ぱなに起きすれ ヤー朝陰下れ ハイ水持ち来まふぇーらつぃ
 早朝に起きると、水を汲んで来い、食事の用意をせよ、薪を取って来いとこき使われることを歌っている。ここでは、早朝を意味する「すぃとぅむでぃ」と通常の朝が対句として言いかえて歌われている。

 この言葉にはじめて接したのは、八重山民謡ではなく宮古民謡だった。家庭の円満をテーマとした「家庭和合(キナイワゴウ)」を聞いたときだ。次のように歌われる。
♪夜や明きどぅさま親よ 起きさまち我が親…今日ぬ一日や 朝ぬ茶から
 (夜が明けたよ 起きてくださいわが親よ…今日の一日は 朝のお茶から始まります)
♪明けしゃるぬ目覚り花よ 早朝(すとぅむてぃ)ぬ目覚り美ぎさ…
 (夜が明けて目覚める花よ 早朝はみんな目覚めて美しい)。
 通常の朝と早朝(すとぅむてぃ)と両方が使われている。
 「家庭和合」は、古い歌ではない。1960年代に宮古島で漲水民謡クラブを結成して活動した棚原玄正氏が作詞作曲した曲だというから、民謡としては新しい曲である。  
                     
 この言葉は沖縄本島の民謡では聞いたことがなかった。八重山、宮古だけかと思っていたら、本島でも使われるそうだ。
 ネットの「琉球語音声データベース」で検索してみると「首里・那覇方言」では「シティミティ /sitimiti/(名詞)」、意味は朝。早朝。太陽が上がったころをいう。「スティミティ /sutimiti/(名詞)」、同じく朝を意味する。今帰仁方言でも、同様の言葉がある。

 ではなぜ朝のことを「すぃとぅむでぃ」というややこしい言葉で表現するのだろうか。先日、八重山方言に詳しい石垣繁先生の話を聞く機会があった。先生に尋ねてみた。先生は「これは、日本の古語の『つとめて』からきています。八重山と宮古で共通する言葉はありますよ」との答えだった。
 ただ、先生は口頭の説明だったので、どういう漢字を使うのかまではわからない。「勤めて」と書くのかな、と勝手に思っていた。
 『新選古語辞典』をめくってみた。すると、次の説明があった
  「つとめて」=「つと」は「夙」の意。
 ①早朝  ②(前夜、事のあった)その翌朝
 「つとめて」とは早朝の意味だということはわかったが、そもそも「夙」とはどういう意味なのか。同辞典を見ると、
 「つとに(夙に)」
 ①朝早く。早朝に②早くから。幼時から
 この説明によると、「夙に」「夙めて」は、朝一般というより、「朝早く」「早朝」のことを表現するようだ。

 ちなみにネットで「Goo国語辞書」を見てみると、次の説明があった。
 「夙(つと)に」
 1 ずっと以前から。早くから。「彼は―その名を世に知られていた」
 2 朝早く。「―起き、遅く臥 (ふ) して」〈読・雨月・吉備津の釜〉
 
 沖縄は古い日本語が残っていると言われる。この「夙めて」も、八重山、宮古などで古い日本語が生きている事例となるのだろう。
 これまで「すぃとぅむでぃ」という言葉にはどうも馴染めなかったが、言葉の由来を知るとこれから民謡を歌う場合も、親しめそうだ。

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GSサウンド「芭蕉布」に感激

 沖縄随一のGSバンド「SSカンパニー」が、北谷町のライブハウスで「懐かしのGSナイト」と題してライブを行った。モッズは沖縄でももっとも知られた本格的なライブハウスだ。ここでSSカンパニーのライブを聞くのは初めて。
 日頃演奏するライブハウスより、音響や照明がとてもよく、グーンと迫力が増す。
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 客席は満席。ライブが始まるとお馴染みのGSナンバーが続く。メンバーはいつも以上に緊張気味だ。
 ステージ前には、SSファンが踊りやすいように、スペースを空けてくれている。
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ノリのよいサウンドに誘われて、踊り出す。SS応援グッズの団扇が乱舞する。
 第2部に入ると、聞きなれないイントロが始まった。なんと沖縄民謡の「芭蕉布」だった。三線を使わない「芭蕉布」の演奏は初めてだ。ロック調というかGS調のアレンジによる演奏。とってもカッコイイ! 軽快ではじける。民謡調とはまったく異なる「芭蕉布」の魅力が聞けて感激ものだった。
            
  ライブは、後半に入るとますます盛り上がり、おじさんたちも踊り出す。「佐敷幼稚園」では、狭いステージ前で人間汽車ポッポのダンスの長い列ができた。 
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 そのまま最後の「また逢おうね」に入る。みんなが手と手をつないでひとつに結ばれる。感動的なフィナーレとなった。 
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 アンコールに応えた後、メンバーが勢揃い。モッズのSSライブには演奏するメンバーもファンも大満足のライブだった。「これからモッズライブを毎年2回くらいはやってほしいね」。こんな声が共通して聞かれた。
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稲・粟を歌った八重山民謡

 稲・粟を歌った八重山民謡から
 八重山古典民謡のなかで稲粟を歌って典型的な曲を見ておきたい。
 八重山では古くから、八重山の島々を野国島(ヌングン島)、田国島(タングン島)とふたつに分けていたといわれる。山のある石垣島や西表島は田国島、隆起サンゴからなる、その他の島々(竹富島、黒島、新城島、鳩間島、波照間島が相当する)は野国島である。
 田国島とは、文字通り水田がある島々である。だからといって水田ばかりではなく、畑地も広い。稲と共に粟など農作物が作られていた。

 白保節
 石垣島白保で歌われる「白保節」では、稲と粟が歌われる。
♪白保村上なか 弥勒世(ミルクユ)ば給(タボ)られ 
ユラティクユラティク ブドゥリアスバ(以下ハヤシ略)
♪稲粟ぬなをりや 常(チゥニ)ゆいん まきらし
♪首里加那志 貢(ミムヌ)御残いぬ稲粟や
♪泡盛ん生らしょり うんしゃぐ(御神酒)ん造りようり
 歌意は次の通り。
♪白保村に 豊年を賜りました
♪稲粟の稔り具合は 例年にも増して豊作でした
♪首里王様への年貢を納めて その余剰の稲粟で
♪泡盛も仕込み 御神酒も醸造しました
 ここでは、稲・粟が豊作になったことを喜び、王府への年貢を上納して、更にその残りで泡盛を作ろうと歌う。 
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                      石垣島白保の海岸
 「夜雨節」
 珊瑚礁でできた水田がない島では、西表島や石垣島に舟で通って稲を作ったといわれる。通耕する場合も、米だけでなく、畑で粟も作った。また、住んでいる島の畑地では、粟など農作物を作ったそうだ。
 最南端の島、波照間島からは西表島に通耕していた。
 波照間島は、「かつての島の農耕は主食であった粟作が中心であった。そして17世紀の琉球王府による人頭税政策開始後は上納品(物納税)としての稲作が強制されていたため、米の豊作への願いもとりわけ切実であった」(「波照間島あれこれ」HPから)という。
 神行事も、粟作儀礼をベースにおき、「あとから稲作儀礼が加わった形」となっている。島には「上納用の水田(カネーズ)」があったそうだ(同HP)。
 
 波照間島に由来する「夜雨(ユルアミ)節」では、次のように歌われている。
 ♪夜雨ぬ降る年 世果報年(ユガフドゥシ)でーむぬ
 ♪稲粟ん稔(ナヲ)らし 麦豆ん実(ミキ)らし 
 ♪御主年貢 積ん上げー 御残りぬ稲粟
 ♪泡盛ん生(マ)らしょうーり 御神酒(ウンシャグ)ん造りょーり
 ♪弥勒世(ミルクユ)ぬしるし 夜昼(ユルブィルィ)ん酒盛るぃ
  歌意は次の通り。
 ♪夜の間に雨がよく降る年は 豊年である
 ♪稲も粟も稔らせ 麦も豆類も実らせ 
 ♪国王様への年貢は積み上げて置き 上納分のお残りで 稲粟で 
 ♪泡盛も醸造し お神酒も製造した
 ♪平和で豊かな世のしるしだ 夜も昼も酒盛りして祝おう 
 ここでは、稲・粟に加えて麦と豆類も作り実った様子がうかがえる。
 
 「鳩間節」
 やはり水田のない鳩間島からは、西表島に通耕していた。喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、次のように指摘している。
 「鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る」。
 「鳩間節」は、この舟で通い、収穫できた穀物を舟に積んで持ち帰る情景が歌われている。
♪前ぬ渡ゆ 見渡しば 行く舟来る舟面白ゑ
♪稲ば積んつぃけ面白ゑ 粟ば並みつぃけさてぃ見事
 歌意は次の通り
♪前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである
♪稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ
 かつてはこの曲を歌うとき、「西表島には水田で米を作るために通耕していたのに、なぜ粟も舟に積んで帰るのかな?」と疑問に思ったことだった。でも、通耕した西表島でも米だけでなく粟も作っていたとなれば、この曲の歌詞がよく理解できる。

 「小浜節」
 「果報ぬ島」といわれる小浜島は、水に恵まれていた。
 「利水条件は比較的良好である。台地、段丘がその地形的特徴をなし、しかも河川をもたない小さな島に利水の便があることは珍しい。島の水田は多くは天水田であり、水田は透水性が低く、地固めさえしておけば降水によってすぐに水は溜まる。また、深田も多く、耕運機などを持ち込めないところは水牛に頼ることも多い。 それに土壌に優れ、水も豊富でサトウキビを主に多くの米や農作物が栽培できる豊かな村落である」(『小浜島 竹富町史第3巻』)
 「小浜節」では、次のように歌われている。
♪大嵩に登てぃ 押し下し見りば 稲粟(イニアワ)ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪稲粟ぬ色や 二十歳頃女童 粒美らさあてぃどぅ 御初上ぎら
 歌意は次の通り。
♪大岳に登って 展望してみると 稲や粟は稔り 平和で豊かな世である
♪稲や粟の色は 二十歳の女性のように美しい 粒が美しく その初穂を神に捧げる
 水田のあった島らしく、島の大岳から見下ろすと、水田や畑に稲や粟が実り、豊作に恵まれた情景が目に浮かぶ。
 
 八重山民謡では、稲と粟が一対のものとして歌われている。といっても、稲にしても粟にしても人頭税の納税の過酷さに変わりはない。
 それに「米と粟が等価」であったとしても、結局はなにかと有利な稲作に重心が向けられ、米の上納を強いられた。そのため、危険をおかして舟で稲作のために他島に通い、泊まり込みで農作業をするという重労働が長年にわたって続けられた。さらには、水田のない島から西表島や石垣島のマラリア有病地に開拓のため強制移住させられ、幾多の犠牲を生んだという哀史があることを忘れてはいけないと思う。
 

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八重山民謡で歌われる稲粟、人頭税で粟も上納

 人頭税で粟も上納した
 八重山民謡を歌っていると豊年、豊作の願いを歌う曲には稲と共に粟がよく登場する。琉球王府の時代の農作物による納税は、八重山諸島は米、宮古諸島は粟が基本だったと聞いていた。八重山では、水田のない島にも人頭税で米の上納を強いたので、水田のない島から石垣島や西表島に通って稲を作ったという史実もある。
 「八重山では、宮古島と違って米が基本だから、粟が民謡でよく歌われているのはなぜだろうか」と不思議に思っていた。
  
 最近、沖縄県立芸大附属研究所の「八重山の歴史と文化」講座で、得能壽美氏の講演を聞き、同氏著『近世八重山の民主生活史』を読んでいたら、その疑問に答えてくれる記述があった。
  「八重山近世における人頭税制における粟納」で詳述されている。得能論文の結論を要約して紹介する。
八重山のあらゆる島・村において、人頭税の上納穀は米でなければならない、とはいわれていない。近世八重山における人頭税の現物納は、米・粟・布を主体として、その他の畑作物による上納が可能であったのである。米は他に対して賦課された上納物であったが、八重山はむしろ、明治36年に田2180町2反余・畑3922町6反余とあるように(琉球政府1967)、全体亭には畑がちの地域であった。

 八重山全域で粟が作られていた
 粟は近世の八重山全域で作られていた。近世八重山に賦課された人頭税の穀物納分は米だけではなく、八重山の各地で栽培されていた粟が重要な上納物になっていた。その粟は、黒島などの例から、基本的には畑租であったようだ。しかし、先にも述べたが、近世八重山に賦課された人頭税に関する史料(当時の公文書)では、田租・畑租の区別はなされていない。「米・粟」という文言において、田と畑の租税を意味している可能性はあるが、それは単純に合算されている。
 また、史料上に「~米」とある場合でも、その内容は必ずしもコメではない場合がある。「球陽」(注・首里王府の史書)など漢文で記された史料上でのことだが、コメを「大米」として、アワを「小米」と表記することもみることができる。
                  粟               
                          粟
 実際の賦課・徴税においては、史料でみるかぎり、賦課において田畑の区別をしないことで、徴収においても田畑の区別、つまり米・粟の区別をしていなかったのではないだろうか。むしろ、粟を二度夫賃米(注・緊急の際などに放出する)として貯えさせ、古米上納の原則から、粟での上納を制度化していったとすらいうことができるかもしれない。
  したがって、「水田のない島」は粟を上納すればよいという、最初の引用した喜舎場永珣の指摘は正しい判断であり、いちがいに「水田のない島に米の上納を強いた」ということはできないのである。
 得能氏は、八重山に属する黒島における近世の農耕と人頭税の上納、あるいは西表島への通耕について、喜舎場氏の主張(喜舎場1949、注・「黒島郷土民俗誌」)を次のように紹介している。
 「黒島は珊瑚礁の島であるために水田は皆無であって、遠く海を越えて西表島に渡り、稲作に従事するという困難さがあった為に、納税の如きも粟納であった」。
  「同島(註・黒島)は、珊瑚礁のために水田は皆無で、納税は全部畑の収穫を以てこれを納付しなければならない状態で、なかなか一通りの困難さではない」。
 得能氏はこれを整理して①黒島には水田がまったくなかったが、②畑はあり、③人頭税の上納は畑作物で行われ、具体的にそれは粟であった。それにもかかわらず、④西表島に通耕して稲作を行なっていたというのである。

 政策的に米納化へ進んだ
 得能氏は、八重山で粟が広く作られ、上納されたことを明らかにしたうえで、米と粟の関係について次のように指摘している。
  しかし田租と畑租が同等とされ、米と粟が等価であるならば、労働力を可能なかぎり稲作に向けた方が有利であったのではないだろうか。そして、鳩間島の例にしてみたように、他島での上納田地の配分は、税制の面からだけいえば「米の上納を強いた」ということができる。当然のことながら、近世を通じて農業技術や耕地の環境が同じであるわけではなく、政策的には水田作=米納化への道を進んだと考えるのが自然であろう。
  得能氏は、結論として、水田のない島から他島へ通耕して米を作った事実について「米の上納を強いた」ということができるし、政策的には「水田作=米納化への道を進んだ」ことを明らかにしている。
             

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アルテで「うんじゅが情ど頼まりる」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが13日夜開かれた。今月のテーマはなぜか「煙」。
 トップバッターの島袋さんは、ギター弾き語りで「襟裳岬」を歌った。煙は出てこない。御年66歳だが声は若い。
 徳門さんは「われは海の子」をピアノとハーモニカで演奏した。本来はピアノを弾きながら歌う予定だったが、喉の調子がよくないのでピアノに続きハーモニカを奏した。とても味わいあるハーモニカの音色だった。
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 比嘉さんは1年ぶりのエントリー。それも歌三線は数年ぶりではないだろうか。「鳩間節」を歌った。三線はしっかりした演奏で歌も味わいがある。もっと出て演奏してほしい。
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 越智さんはトランペットを吹き、ピアノ伴奏で「煙が目にしみる」を演奏した。越智さんもたえざる挑戦者だ。
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 カーペンターズの川上さんは、いつもマンドリンで民謡を演奏するが、この日は三線を持ち「想い花」を演奏した。三線は初めて聞いたが、本来は三線が本業のはず。やはり三線は巧みで、声も張りがある。三線をもっともっと聞かせてほしい。
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 私は、「うんじゅが情ど頼まりる」を歌った。この曲は、遊女と男性の恋模様を歌っている。
 彼を想い焦がれて身も痩せるほど。その想いを手紙に書くけれど袖にされるかもしれないので心配で出せない。昨日も今日も来ない、酒を飲み暮らし、煙草をくゆらせ忘れようとする。明日は来るはず、私の想いを察して下さい。こんな歌詞(意訳)である。
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 歌は歌えたが、三線はやはりミスが出てしまった。幸い「母がとてもこの曲が好きだった」と話してくれる方がいた。
 恒例の南亭こったいの落語は「反魂香(ハンゴンコウ)」という演題。中国の伝説上の香で、焚くとその煙の中に死者が現れるという反魂香をめぐるお話だ。いつもテーマによく沿った落語の演目を選んで笑させてくれることに感心する。
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 カオル&タカは、カオルさんのオリジナル曲で「白い煙」をギター弾き語りで歌った。カオルさんは、こらから月1回、鳥堀の「 アートライフカフェ」でライブをするというからスゴイ。
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 伊佐さんは、ピート・シーガ―が作詞作曲した反戦フォーク「花はどこへ行った」をギター弾き語りで歌った。この歌を聞いていた高校生時代のほろ苦い想い出を話した。トークはいつも爆笑モノで面白い。
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ツレはピアノ演奏、ユミリンさんはオカリナで「みかんの花咲く丘」、アルテギターサークルの合奏「あわてんぼうのサンタクロース」、大城さんのギター独唱「11月のある日」、ナナさんのピアノ弾き語り「ひこうき雲」、ふーみんさんのフルート演奏、仲村さんの「わかれうた」、伊波さんの「逢いたくて逢いたくて」、吉本さんの「少年時代」とギター弾き語りが続いた。
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 書いている途中で、パソコンがフリーズして保存できずに消えてしまった。それでもう出演者紹介で終わってしまった。
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みさなん、月1回のファクトリーにエントリーして楽しんでいる姿を見ると、もっと頑張ってよい演奏をできるようにならなければ、という思いを新たにする。
 
 
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阿麻和利の墓を訪ねる

 阿麻和利の墓を訪ねる
 
 勝連半島に君臨し「肝高の阿麻和利(キムタカのアマワリ)」と呼ばれた人物のお墓が読谷村楚辺(ソベ)にある。ドライブに出かけたついでに立ち寄ってみた。 
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 古堅小学校の北側の住宅のそばにありわかりやすい。すぐ西側には、米軍基地トリイステーションが広がっている。
 木立の茂る大きな岩の下部が墓になっている。「阿摩和利之墓」の墓碑が建っている。
  なぜ読谷に墓があるのだろうか。 
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 阿麻和利は15世紀に北谷間切屋良村(現・嘉手納町)で生まれたという。
 当時、勝連城主で住民を苦しめていた茂知附按司を倒して按司(豪族)となった。第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻としていた。中城城主の護佐丸に謀反の疑いがあるとして王の命令で攻め、自害させた。しかし、阿麻和利が首里城攻略の野望を抱いたとして、王府軍に攻め滅ぼされたとされる。
 王府によって阿麻和利は逆臣、護佐丸は忠臣とされてきた。
 しかし、一方で王府編纂の歌謡集「おもろさうし」では、勝連の阿麻和利は、国中にその名がとどろく気高い人物として歌われている。
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 護佐丸・阿麻和利の乱について、それが中城と勝連で勢力を増す両雄を滅ぼすため、尚泰久とその臣下・金丸(後の尚円王)による陰謀だったのではないか、という説も出ている。
 阿麻和利は、地元の中高生らによって現代版組踊「肝高の阿麻和利」が繰り返し上演され、いまではすっかり勝連の英雄とされている。
 護佐丸のお墓は、中城城跡の近くに立派なお墓がある。それに比べて阿麻和利は長らく逆臣とされてきたためか、墓碑がなければ英雄のお墓とはわからないほどだ。 
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 読谷といえば、伊良皆(イラミナ)には、琉球を統一した英雄、尚巴志(ショウハシ)の墓もある。こちらも、第二尚氏による追及を避けるため、首里から遠いこの読谷の小高い岩山がお墓になっている。
 阿麻和利も逆臣とされたため、やはりこの読谷で、ひっそりと葬られたのだろうか。いまや英雄とされているのだから、それにふさわしい案内板などあってもよいのではないだろうか。

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宮古民謡「御船の主」をめぐって、その2

 御船の親の御嶽
 宮古島市上野(旧上野村)字新里に「御船の親の御嶽」(ウウニヌシュウヌウタキ)という拝所がある。御嶽の由来を説明板から紹介する。
 「宮古島旧記」に「野崎真佐利南の島より連れ帰りし事」と題する記事がある。御船の親は船頭として琉球へ上がり、帰途逆風にあって南のアフラ島に漂着した。水主、野崎真佐利は島の女に取合って夫婦の契を結び、島の風俗を女から教えられたが、御船の親は殺された。真佐利は女の協力によって島を脱出し、御船の親の首を新里まで持ち帰ることができた。
  この御嶽は持ち帰った首を納めたミヤーカ墓の跡である。
 
 アフラ島とは、台湾の東の洋上に浮かぶ小さな「緑島(火焼島)」を指すとのことだが、緑島には同様な伝承はないという。
 緑島を地図で見てみると、確かに台湾から東に少し離れた洋上に小さな孤島がある。宮古島、八重山から船が流されると、漂着するような位置関係にあるので、そんな伝承があるのもうなずける。
 さて、「御船の親」の工工四(楽譜)を見て三線で弾いてみると、たしかに「デンサー節」と曲調は似ている。といっても、デンサー節の前半部分と似ているが、後半部分はちょっと違うようだ。
 それに「デンサー節」は八重山民謡でももっとも典型的な教訓歌である。でも、この「御船の親」は教訓歌ではない。古い伝承によると亡き夫を偲ぶ歌詞である。
 あまりにも歌詞が違うので、似て非なる曲ということかもしれない。民謡が島から島へ、村から村へ、人から人へ伝わる場合、旋律と歌詞が少しずつ変化をとげてゆくが、多少は似た部分が残るのが普通である。
 なかには、八重山から沖縄本島に伝った民謡のように、旋律だけ使って、歌詞をまるっきり替えて歌っている例もある。
 もし仮に、「御船の主」と「デンサー節」が同じ元歌から出ているとすれば、宮古島の「御船の主」は歌の由来となる伝承があるので、この曲が替え歌とは考えにくい。
                
 
 「デンサー節」は、西表島上原村の与人を勤めていた宮良親雲上里賢が当時、村の風俗が乱れていたため教訓歌をつくり流行らせたという(仲宗根幸市著『琉球列島島うた紀行』から)。こちらも由来のある曲である。ただし、士族が教訓歌を作る場合、旋律から新たに創作するよりも、教訓を詠んだ琉歌をすでに知っている歌の旋律にのせて歌うことが手っ取り早い。
 民謡のなかで、民衆の日々の暮らしや労働のなかで心の中から湧き出る思いを歌った曲や実際にあった出来事をテーマとする叙事的な曲は、歌詞と旋律は密接なつながりをもつけれど、教訓歌の場合は、歌詞と旋律は一体性がなくてよい。好きな旋律にのせればよいだけだ。
 そう考えれば、八重山のデンサー節も、すでにあった旋律をもとにアレンジを加えて作詞・編曲して作ったこともありうることではある。
 はたしてデンサー節は「御船の主」を元歌としているのか、それとも曲調が似ているのは偶然の産物なのか、真相はよくわからない。
 幸い、YouTubeに両曲ともアップされているので、それを紹介しておきたい。それぞれの歌の内容や魅力を味わうことにしたい。

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宮古民謡「御船の主」をめぐって

宮古民謡「御船の主」をめぐって

 風邪をひいてブログの更新ができなかった。やっと症状が軽くなったので、アップをしたい。
 少し前、RBCラジオ番組を聞いていると宮古民謡が流れてきた。「この曲は初めて聞くけれど、なんか他の有名な曲に似ているなあ」と思って聞いていた。「そうだ。デンサー節とそっくりだ。それも八重山民謡のデンサー節に似ている」と気づいた。
 RBCラジオホームページで、番組中に流された曲を調べてみると、宮古民謡唱者の仲宗根豊さんが歌う「ウーニぬ主」という曲であることが分かった。
平良重信著『解説付(改訂版)宮古民謡集 宮古方言の手引き』のを見ると「御船の主」(ウーニヌシュウ)として掲載されていた。

この曲の歌詞とその由来について紹介する。
1、赤ばに髪(カラズ)ぬ頃(パダ)んから みまゆつぬ頃んから
   イラカナス ウーニヌ主ユ ※ハヤシは2番以降省略
 (髪が赤い幼児の頃から 前髪が目眉まで伸びている頃から) 
2、貴方(ウワ)ゆていど思ふたず かなしやゆていど見んたず
  (貴女を嫁にと思っていた 愛しい人をと見込んでいた)
3、人(ピト)がたきなたりや どうむつだきなたりや
  (一並みになったので 世帯を持てほどになったので)
4、夫婦(ミウト)なしうば どぐうならしうきばど
  (夫婦にしておいたが 一緒にしておいたけど)
5、行三月なぱな 肝(キム)ぬ染(スウ)んばなんなよ
  (<嫁に>行き三月になる頃に 胆心が染まる頃には)
6、今日(キュウ)なりば かわがあ 明日(アツア)なりばぬぬぎ(ママ)
  (今日になれば又気が変わり 明日になれば離ればなれ)
7、ぶんすきがまぬどいかんぬよ だいなみがまぬどいかんぬよ
  (ぶんすきがまが良くないのか だいなみがまが良くないのか)
8、ぶんすきがままいゆうどすよ だいなみがままいゆうどすよ
  (ぶんすきがまも夜の友よ だいなみがまも夜の友よ)
※ハヤシの「イラカナス」は「とても愛しい御船の主よ」という意味である。
  
                  
 平良氏の曲目解説によると、次のような伝承がある。表現が現在ではふさわしくない言葉があるので、少し変えた。
新里村(現在の宮古島市上野の新里地区)に住んでいた御船の親という方がおりまして船頭として琉球(沖縄本島から船に乗って)からの帰りに逆風に遭い南の島あふらという島に漂着して、現地の人間に捕まえられ殺害された。その妻ブナクイは夫亡き後この歌を歌い夫を偲んだと伝えられている。
宮古民謡集では「御船ぬ親あやぐ」としても掲載されているが、歌詞は同一である。

仲宗根幸市編著『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』は、さらに次のことを付記している。
「彼女はわずか3カ月で夫と死別して、実家に帰っても毎日泣き暮らしていたと伝えられている。また、彼女は再婚したが、あまりに前夫への思いが強く、夫はブナクイを殺し自らも自害したという凄惨な伝承もあるようだ。この歌、宮古民謡の中でも情感が深く、美しい旋律は胸をうつ」
この曲の歌詞は7,8番がとても難解である。宮古民謡の唱者、砂川国夫氏はブログで平良氏の著作を参考にしながら解説しているが、そこでは「7番8番のぶんすきがまとだいすきがまは人の名前だと考えられます」と述べている。 8番の歌詞は平良氏とは異なる解釈をして「ぶんすきがまは見事だった だいなみがまも豪華だった」と訳している。

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               宮古島の来間大橋をのぞむ与那覇前浜
仲宗根幸市氏は、両者とはまったく別の解釈をしている。7,8番の歌詞と訳文を仲宗根幸市編著作から紹介する。
7、盆敷(ぶんすき)がまぬどぅ いかんぬよ だいなみがまぬどぅ いかんぬよ
  (膳立てが悪かったのか、食事の用意が悪かったのか)
8、盆敷がままい ゆうどぅすよ だいなみがままい ゆうどぅすよ
 (膳立てがよくやった。食事の用意もよくやったよ)
 「ぶんすきがまぬどぅ」「だいなみがまぬどぅ」の部分を「膳立て」「食事の用意」と訳している。素人的に仲宗根幸市氏による「膳立てが悪かったのか、食事の用意が悪かったのか」という解釈が分かり易い。宮古方言として、どの解釈が正当なのか私には判断できない。
 
もう一つ悩ましいのは、遭難して殺害された夫を偲ぶ曲としては、前半は情感のこもった歌詞が続くのに、6番になると「気が変わり」「離れてゆく」となることである。7,8番も解釈が難しい。まあ歌詞だけではわからない事情があるかもしれない。

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