レキオ島唄アッチャー

「忘れかけた子守唄」をめぐって、その3、「あのジョニーはもういない」

 アイルランド民謡の反戦歌には「ジョニー、戦場」をうたったべつのうたがある。
「Johnny I Hardly Knew Yeh (Traditional Song)」という曲である。 「あのジョニーはもういない」と訳されている。
 上野洋子さんのブログから紹介する。
懐かしいアサイへの道をたどる時  ハルー ハルー
懐かしいアサイへの道をたどる時  ハルー ハルー
懐かしいアサイへの道をたどる時
私の手には杖、そして目には涙があふれます
私は哀れな乙女が悲痛な叫びをあげるのを聞いた
ジョニー、とてもあなただとは思えなかった

あなたの優しい瞳はどこへ行ってしまったの?  ハルー ハルー
あなたの優しい瞳はどこへ行ってしまったの?  ハルー ハルー
あなたの優しい瞳はどこへ行ってしまったの?
私の寂しい心を慰めてくれた、あの優しい瞳はどこへ行ったの?
なぜ、私や子供から逃げ出したの?
ジョニー、あなたのことほとんどわからなかった

ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに  ハルー ハルー
ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに  ハルー ハルー
ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに 敵はあなたを半殺しにした
いとしい人、あなたはとても変わってしまった
ジョニー、とてもあなただとは思えなかった

走り回っていたあなたの足はどこへ行ってしまったの?  ハルー ハルー
走り回っていたあなたの足はどこへ行ってしまったの?  ハルー ハルー
走り回っていたあなたの足はどこへ行ってしまったの?
あなたが銃を担いだ時、幸せな日々は終わってしまった
ジョニー、あなたのことほとんどわからなかった

あなたには腕もなく、足もない  ハルー ハルー
あなたには腕もなく、足もない  ハルー ハルー
あなたには腕もなく、足もない
目もなければ、鼻もない
あなたはお椀に施しを受けなければならないでしょう
ジョニー、とてもあなただとは思えなかった

ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに  ハルー ハルー
ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに  ハルー ハルー
ドラムと銃をたずさえ、銃とドラムとともに 敵はあなたを半殺しにした
いとしい人、あなたはとても変わってしまった
ジョニー、あなたのことほとんどわからなかった

あなたが家に戻ってきて私は幸せです  ハルー ハルー
あなたが家に戻ってきて私は幸せです  ハルー ハルー
あなたが家に戻ってきて私は幸せです
サルーン島から生きて帰れる人は少ないのだから
ジョニー、とてもあなただとは思えなかった
              
 ジョニーは戦争で半殺しにされた。腕も足もない。目も鼻もない身体になって帰って来たと歌われる。これは、小説と映画「ジョニーは戦場へ行った」の原型になるような歌の内容である。
 
 この曲と同じ旋律でアメリカでは「ジョニーが帰るとき(ジョニーの凱旋)」という曲が作られている。こちらもとても有名だ。
 「ジョニーが帰るとき」は、19世紀後半のアメリカ国内戦争(the Civil War)に関連する歌曲。北軍の帰還兵を迎えるために、アイルランド出身の作曲家パトリック・ギルモア(Patrick Sarsfield Gilmore/1829?1892)が、アイルランドの古い反戦歌「Johnny I Hardly Knew Ye」に新たに作詞した(「世界の民謡・童謡」HP)。
 歌詞(一部)の日本語訳だけを同HPから紹介する。
歌詞(一部)・日本語訳(意訳)
ジョニーが故郷に再び帰ってくるとき
万歳!万歳!
我々は彼を温かく迎えるだろう
万歳!万歳!
男達は喜び 少年等は叫び
みな陽気に楽しむ
ジョニーが故郷に帰ってくるとき
 「ウィキペディア」では、1863年にパトリック・ギルモアが南北戦争の北軍の帰還兵を迎えるために、酒宴の歌(Johnny Fill Up the Bowl)のメロディーに新しい歌詞をつけたものである。メロディーが同じである反戦歌『あのジョニーはもういない』(Johnny I Hardly Knew Ye)は1867年に発表されており、反戦歌の替え歌とするのは誤りである」
と指摘している。
           
  アイルランドの「あのジョニーはもういない」とは、相当に異なる歌詞の曲である。 アメリカ映画「博士の異常な愛情」「ダイ・ハード3」「7月4日に生まれて」などでよく使われた。アメリカでは、兵士の士気高揚のためによく演奏されてきたそうだ。YouTubeで聴くと、勇壮な感じで歌われている。

 PPMの反戦フォークには別に「悲惨な戦争」という曲もある。こちらにも「ジョニー、戦場」が登場する。
        
<悲惨な戦争 ジョニーも戦場に行かなければいけない 彼と一緒にいることができない 私も一緒に連れて行って>
 こんなような内容が歌われる。この歌も原曲はアメリカ南北戦争にまで遡ると言われるが、PPMは「オリジナル曲」としているそうだ。
 この曲も、GSグループ、ザ・スパイダースが歌っており、アルバムに収録されている。

 こうして見てくると、「ジョニー、戦場」を歌った曲がアイルランドやアメリカ、そして日本でもたくさん作られていることがわかる。「忘れかけた子守唄」を作詞したなかにし礼も、これらの曲からヒントを得たのかもしれない。
 GS全盛期は、一方でベトナム戦争の時代である。GSはあまり社会的なテーマを歌っていないと思いがちだが、平和への願いを歌った曲がいくつかある。そこには時代の反映があるのだろう。

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「忘れかけた子守唄」をめぐって、その2、「虹とともに消えた恋」

 偶然にも、毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーで、ギター弾き語りによる「虹とともに消えた恋」を聞いた。曲中、「ジョニー、ソルジャー」の言葉が出てきた。この曲は米フォークグループのPPM(ピーター・ポール&マリー)が歌いヒットした曲である。メロディーだけは知っていたが、歌の内容は知らなかった。
              
 「虹とともに消えた恋」(Gone The Rainbow)は次のような歌詞である。
私は言葉を失い考えることも出来ない
私のサリーベイビービールを抱きしめた時
何かが崩れ落ちていった

バターミルクヒルに私は一人
誰にも分かりはしない、この私の心の叫びを
この涙は水車も回わすに違いない
ああ、ジョニーは兵士となって行ってしまった

私は亜麻を売り、紡ぎ器を売った
それで買った私の愛する人の剣を
人の命を奪うかも知れないその剣を
ジョニーは兵士となって行ってしまった

ああ私の赤ちゃん、私の命
虹が消えていく、ハトが飛び去って行く
あなたのお父さん、私の愛する人そう兵士ジョニーと共に
 訳詩はレモン鈴木さん。「LEMON TREE レモンツリー」から紹介した。
もともと「ジョニーは戦場へ行った」という曲があるらしい。

 「ジョニーは戦場へ行った」(Johnny Has Gone for a Soldier)という曲は、18世紀アメリカ独立戦争時に歌われた。冒頭の歌詞から『Buttermilk Hill』(バターミルク・ヒル)とも題される(「世界の民謡・童謡」HP)。
歌詞の一例・意味の日本語訳だけを同HPから紹介する。 
      
歌詞の一例・意味
バターミルク・ヒルに座り
誰が責められようか 一人泣き暮れる
涙で水車が回りそうなぐらいに
ジョニーは戦場へ行ってしまった
おお私のジョニー 愛してる
彼の旅立ちに痛む心
この悲しみを癒せるのは時だけ
ジョニーは戦場へ行ってしまった
糸巻き竿も糸巻きも 紡ぎ車も売ろう
そしてあの人に鋼の剣を買ってあげよう
ジョニーは戦場へ行ってしまった
ドレスを染めよう 赤に染めよう
通りを歩いて パンを恵んでもらおう
愛する人は行ってしまった
ジョニーは戦場へ行ってしまった
 
 この曲の原曲は、アイルランド民謡「シューラ・ルーン」だという。
 「シューラ・ルーン」は、「戦いへ赴く恋人を想い嘆く女性の心境を歌った古いアイルランド民謡。曲名の意味は『行って、愛しい人よ』」。オリジナルの歌詞は不明で、さまざまな歌詞のバリエーションがある(「世界の民謡・童謡」HPから)。 
        
 同HPから歌詞の日本語訳だけを紹介する。
遠くの丘に行って
思いっきり泣きたい
涙で水車が回るほどに
<コーラス>
行って 愛しい人よ
そっと静かに出て行って
ドアまで行ったら 私を連れて逃げて
どうぞご無事で 愛しい人よ
糸巻き棒も糸巻きも 糸車も売るわ
愛しい人に鋼の剣を買うために
コートを染めて 赤く染めて
町中でパンを恵んでもらうわ
親に見放されるぐらいに
 「虹とともに消えた恋」の内容は、このアイルランド民謡よりもアメリカ版「ジョニーは戦場へ行った」の歌詞に近いという。

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「忘れかけた子守唄」をめぐって、その1「ジョニーと戦場」

 「忘れかけた子守唄」をめぐって
 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブを聞いていると、「ジョニー」「兵士」の言葉が出てくる曲があった。「ジョニー、兵士」といえばすぐ頭に浮かぶのが、アメリカ映画「ジョニーは戦場へ行った」である。強烈な映像で戦争の悲惨さを告発した映画だったので、いまでも記憶に残る。
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 ちょうどライブで一緒だった友人に、「この曲はあの映画と関係があるだろうか?」と話すと、その場でスマホを検索した。「これはタイガースの『忘れかけた子守唄』で、なかにし礼の作詞ですね」と答えた。作曲はすぎやまこういちである。

 「忘れかけた子守唄」は、次ぎのような歌詞である。
兵士の群れが朝露に消える
母の姿が小さく残る
ジョニィの手紙が五月にとどく
げんきでいるよもうすぐ帰ると

母は毎日稽古をしてるよ
忘れかけた子守唄を
戦を終えて兵士が帰る
だけどジョニィの姿が見えぬ

兵士の群れが街角に消える
母の姿が小さく残る
母は涙でむなしく唄うよ
思い出した子守唄を
      
 兵士として戦場に行ったジョニーがもうすぐ帰るとの手紙が届く。息子を待ちわびる母親。でも帰還した兵士の中に、ジョニーの姿は見えない。子守唄を歌う母の目に涙があふれている。この歌が作られたのは1968年。アメリカによるベトナムへの侵略戦争が激しかった頃だ。アメリカでは反戦運動が高まった時代でもある。
 この曲は、LPアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」に収録されている。アルバムのイメージは、 "ポンペイの悲劇"(古代イタリアの火山噴火) からヒントを得、テーマも「誕生、平和、友情、恋、祭り、運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」と12に分かれている(渡辺プロのファンクラブ誌『ヤング』1968年9月号、(「えとせとらレコード」HPから))。
 ほかにも山上路夫作詞、村井邦彦作曲の「朝の別れにほほえみを」がある。ここでも歌の最後に「僕は行く あの戦場に」と歌う。平和がテーマである。
 「詩の内容では、『神話』『伝説』の世界に留まることなく、当時の現実としてあったベトナム戦争のことを暗示しているようでもある。 その意味では『忘れかけた子守唄』などは、当時流行していたフォーク・ソングのような直接的、もしくは揶揄的なアプローチとは違う、タイガースならではの反戦歌としても傑作だったと言えよう」と評されている(「えとせとらレコード」HPから)。

    
 アメリカ映画「ジョニーは戦場へ行った」は、ドルトン・トランボの脚本と監督により1971年に制作された作品である。カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ、国際映画評論家連盟賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞という名作だ。
 トランボは、すでに1939年に反戦小説『ジョニーは戦場へ行った』(原題: Johnny Got His Gun)を発表していた。原題は「ジョニーは銃をとった」である。「第一次世界大戦の志願兵募集の宣伝文句で、軍歌『オヴァー・ゼア』 (Over There)でも有名になった「ジョニーよ、銃をとれ(Johnny Get Your Gun)」という呼び掛けへの痛烈な皮肉となっている」という(ウィキペディア)。
 トランボは、第2次大戦後、アメリカで進歩的な映画人を標的とした「マッカーシズム」で映画界を事実上追放されたが、その後ハリウッドに復活し数々の名作を書いたことで知られる。

 映画「ジョニーは戦場へ行った」が作られたのはタイガースの「忘れかけた子守唄」よりも3年ほど後なので、なかにし礼が映画をヒントにして作詞したというのはありえない。では、原作の小説を読んでいたのだろうか。しかし、戦前に書かれたアメリカの反戦小説を68年ごろに読んだというのも不自然な感じがする。作詞にはなにかきっかけがあったはずだが、それは何だろうか。  

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天気よくなり産業まつりへ

 「あ、いいね! 使って納得 県産品」をテーマに第39回沖縄の産業まつりが開かれた。初日の23日はあいにくの雨。3日間とも雨予想だったが、24日朝になると、急に天候が回復し青空がのぞいた。天気予報が大幅に変更になり、来週にかけ晴れマークが並んだ。
産業まつりは、3年に1回ぐらいは悪天候に見舞われる宿命にあるようだ。今年はラッキー。なにより関係者が喜んでいるだろう。 
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 ということで早速出かけた。一番見どころは、各市町村の特産が集まった「ありんくりん」コーナー。試食もたくさんできる。もずく天ぷらや南蛮黒酢テビチ唐揚げ、あぐーのシュウマイ、他にエトセトラ買い求めた。ほとんどは、持ち帰り用ではなく、あとからオリオンビアホールでおつまみにするためである。 
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 泡盛メーカーのコーナーでは試飲ができる。タクシーで出かけたので、試飲OK。泡盛原酒とそれを使った古酒(クース)の飲み比べや16年物古酒などいろいろ飲み比べてみた。泡盛の出荷量はピーク時に比べて年々下がっているらしい。各メーカーは、女性向けに梅の泡盛漬けなど、新しい商品を売り出している。
 泡盛は、前は古酒といっても、半分近くは新しい酒を混ぜても古酒と表示していた。でも、今年の8月出荷分からは、100%古酒でないと古酒の表示は出来なくなった。最近はわが家も泡盛古酒をよく飲んでいる。県産品に貢献中である。

 出店が多いので全部見るのも一苦労である。そんななかでTシャツの特価販売が目に着いた。結構感じの良い柄があり、3枚まとめて買って1200円というからビックリである。
 陶器市も見て歩いた。なぜか例年より店が少ない感じがした。

 さてオリオンビールのコーナーへ向かう。買ったものを食べながら生ビールで乾杯。オリオンから、試飲用の新商品の缶ビールの無料配布があり早速並んでもらってきた。これも毎年恒例になっている。
 
 夕方になると、与座ファミリーの民謡ライブが始まった。沖縄芝居の与座兄弟の劇団メンバーである。なんと3人の内一人がお母さんで、男性は息子、女性は娘さんだという。 
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 「肝かなさ節」「三村踊り」「ヒヤミカチ節」など軽快な曲を演奏した。
 一番前の席には、おばあちゃんグループが陣取っていた。ビールを飲みながら民謡に手拍子を合わせている。おばあちゃんがビールを飲むのは割合珍しい。とても楽しそうだ。 
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  最後の「豊年音頭」「唐船ドーイ」の早弾きになると、舞台前でも後方でもグループでカチャーシーを踊っていた。
 これも産業まつりの楽しみの一つである。
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昭和歌謡満載、良明birthdayライブ

 沖縄を代表するギターリスト、長嶺良明さんのbirthdayライブが北谷のライブハウス「モッズ」であった。いつもはフォークが中心だったが、今回は、「昭和歌謡だよ、全員集合」がキャッチフレーズ。バンドバージョンでの演奏なので、迫力あるライブだった。
 歌い手は、凡子(なみこ)さん、「しゃかり」のちあきさん。城間健市さん、それに良明&ふーみのフォークユニット「F&Y」という顔ぶれ。 
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 いつもTシャツ姿のふーみさんが、司会進行役で登場した。なぜかモーニング姿でビックリ。結婚式の披露宴の司会をすることも多いけれど、その際はこのスタイルなのだろうか。なかなか決まっている。 
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 凡子さんは始めて知った歌手。ちあきなおみの「喝采」「ラブイズオーバー」など4曲歌った。さすがプロの歌唱力で、昭和歌謡の魅力を味わえた。
 ちあきさんは、沖縄の女性歌手でも指折りの美声の持ち主。ふーみさんとの「恋の季節」や「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌った。ほれぼれするような歌声だ。 
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 当日になって電話で出たいと申し込みがあったという、かでかるさとしさんも登場。「青いリンゴ」や「あずさ2号」など歌ったが、1番の歌詞は元歌どおりだが、2番になると替え歌にするのがかでかる流。とくに「あずさ2号」は、浦添から銀バス(那覇交通)に乗って那覇に遊びに来た青春のほろ苦い思い出を歌って大受けだった。 
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 凡子さんとちあきさんが衣装を変えて再登場。ザ・ピーナッツのヒット曲「恋のバカンス」を歌った。呼吸もピッタリのハーモニー。歌う方もとても楽しんでいる様子だ。 
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 ふーみさんは、モーニング姿で沢田研二の「勝手にしやがれ」に続いて「ストリッパー」を歌う。そこでビックリパフォーマンスを披露したが書くのは止めておく。 
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 良明さんは凡子さん、ちあきさんと共に、沖縄出身の「フィンガー5」のヒット曲を演奏した。ゲストは入れ替わりなのに、birthdayの主人公、良明さんは最初から最後まで出っぱなし。一番忙しい。素晴らしいエレキギターのプレイと歌声に大盛り上がりだった。
おおとりは、 抜群の歌唱力をもつ城間健市さん。「愛のメモリー」「ダンシング・オールナイツ」など4曲歌った。この人、歌が素晴らしいだけではない、トークがめっちゃ面白い。しゃべり出したら止まらない。それもユーモアがあって、爆笑に次ぐ爆笑。ほっておくとなかなか歌に入らない。「歌って!」の声に即されて歌う。歌には圧倒される。
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 良明birthdayなのに、肝心のお祝いのセレモニーが始まらない。ライブ最後の曲まで演奏して、やっとセレモニーが始まった。

 ライブのこの日が誕生日の良明さん。53歳を迎え、birthdayケーキやファンからのプレゼントが次々に贈られた。良明さんの演奏力のすごさと人柄からとってもファンが多い。プレゼントも数えきれないほどだった。
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 アンコールの声に応えて、「F&Y」によるアリスメドレー、さらにゲストの3人も登場し、最後は良明さんが山口百恵の「ロックンロール・ウィドウ」を歌うとライブは最高潮。昭和歌謡に酔いしれるライブだった。
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「ションガネー」の語源を巡って

「ションガネー」の語源を巡って
「美ら島物語 沖縄の島唄めぐり 恋し しまうたの風」を読むと、「どなんスンカニ」の語源について解説があった。
「どなん」とは「与那国」のこと。島に渡ることが難しいので「渡難=どなん」と呼ばれているとのこと。「スンカニ」とは与那国の方言で“引っ張る、引っ張られる”の意である「スンクン」が転じたものという。
  「男女の別れを名残惜しむ、後ろ髪を引かれる想いからきたのでは」とドゥナンスンカニ大会実行委員であり安室流協和会師範の玉城孝さんは説明しているそうだ(同サイト)。 
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             沖縄テレビ「与那国ションカネー」の画面から
 「ションガネー」の語源として「しょうがない」からきているという説明をよく聞く。どうもいまいち納得がいかない。それよりは、与那国方言の方がしっくりとくる感じがする。

しかし、これも難点がある。「ションガネー」の囃子が使われる曲は、与那国島だけではなく、多良間島、沖縄本島、伊江島、奄美諸島にもあるからである。与那国の方言の解釈だけで、奄美まで含めてすべて説明がつくとは思えない。
ネットのサイトでも「たるーの島唄まじめ研究」では、次のように解説している。
<大和で流行した「ションガイナ」を囃子言葉に持つ言葉に影響されたという説がある。「ションガイナ」とは、これまた不明で、「そうだね」と相槌を打つ言葉ではないか、といわれている。
 
他方「しょうがない」というあきらめの気持ちとする説もある。
ちなみに「しょうがない」にあたる沖縄語(首里語)はsyooN tataNしょーんたたん。ションガネーではない」(http://taru.ti-da.net/e583325.html) 
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                     沖縄テレビ「与那国ションカネー」の画面から

 奄美には「しゅんかね節 」がある。奄美民謡を研究されている小川学夫氏のサイト「奄美民謡誌」によれば、ヤマト流れのはやり歌が原曲かも知れないという結論となってきたという。
 その理由として、①この歌につきもののハヤシ詞「ササシュンカネクヮ」というのが、本土で安永(1772-1780年)以降、大正年間に至るまで、何度かにわたって流行をくりかえした「ションガイ節」と関係あるのではないかということである。この「ションガイ」の意味は、一般に「しようがない」の意にとらわれているが、「ションガイ」から「シュンカネ」への転化は、全く考えられないことではないであろう
 ②「ションガエ」系統の歌が、奄美だけでなく、沖縄へも流れ込んでいるという事実である。
  ③歌詞の中に、節名として出てきている。「ドンドン節」や「ちくてんぐゎ節」いずれも外来系の歌(前者は本土から、後者は沖縄から)であることが、明らかなのである。
  「本土移入歌説は、信憑性高いもの」と結論付けている。

琉球弧の島々にこれだけションガネ系の曲があると、本土移入歌説というのは合理性をもつのかもしれない。
 といっても「与那国ションカネー」や「多良間ションカネー」などの名曲を歌っていると「しょうがない」という語源説はいまだにしっくりとこないことも確かである。あまり語源にこだわらずに、歌の歌詞を味わって歌っていきたい。

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「与那国ションカネー」をめぐって、草履で迎える

「与那国ションカネー」をめぐって

 役人を草履で迎えた与那国島の女性
 歌劇「与那国ションカネー」を沖縄テレビ「郷土劇場」で見た。その中で、「おやっ!」と思ったシーンがあった。首里から役人が上納金を受け取る御物奉行(オモノブギョウ)として与那国島に派遣される。島に着くと、島の娘さんたちがナンタ浜で草履を並べて迎えたことだ。しかも、役人が浜に並べられた草履を選んで履くと、その草履を持って来た娘さんが、役人滞在中、賄いのウヤンマ(現地妻)になることから始まる物語である。
 写真はすべて沖縄テレビ「与那国ションカネー」の画面から

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  八重山古典民謡の「与那国ションカネー」は、確かに島に赴任した役人が、帰任することになり、賄女(現地妻)としてともに暮らした女性との悲しい別れの情景が歌われた名曲である。
  八重山諸島でも宮古島諸島でも、人頭税の時代に赴任した役人が目を付けた美しい女性を賄女としたという。滞在中に子どもまでもうけながら、任期が終わると女性を置き去りにして帰る。そんな悲話をテーマにした民謡もたくさんある。「与那国ションカネー」や多良間島の「多良間ションカネー」はその代表的な曲である。
  しかし、船のつく浜に娘さんが草履を並べて迎える風習や草履を持って来た女性が賄女になるという伝承は、これまで寡聞にして知らなかった。 
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  これは歌劇だから草履の話も創作なのか、と一瞬思った。でも、ネットで検索したところ、「美ら島物語 沖縄の島唄めぐり 恋し しまうたの風」がヒットした。「与那国ションカネー」の元歌である「どなんスンカニ」を説明した中で、草履のことを次のように紹介していた。
  <荒波を越えて船でやって来た役人を島の娘たちが草履をもって迎えたというナンタ浜(波多浜)。長期滞在するうちに恋に落ちて深い仲となるも、やがて任期を終えると役人は八重山へ帰らなければならない運命。
  役人の帰る日が決まると、愛するひととの別れを惜しみながら「スンカニ」は十山御嶽(注・拝所)で唄われていました。
  ナンタ浜からほど近い十山御嶽は、与那国島にある12の御嶽を統轄する最上位の御嶽です。
  絶海の孤島からふたたび八重山へ、厳しい船旅を強いられる愛する人の航海安全を島の最高位である十山御嶽で願ったのです。
  当時、役人と最果ての島の娘がふたたび邂逅することは皆無に等しいことは想像に難くありません。愛する人と二度と会えないかもしれない別れ。>
  この文章は、与那国島を取材して書かれており、このような伝承があることは確かなようである。
  これによると、王府時代に船でやってくる役人を娘さんたちがナンタ浜で草履をもって迎えたことは実話だったようだ。しかし、草履を履いた役人には、その草履を持ってきた娘さんがウヤンマ(賄女)になるとは書かれていない。ここでは、役人が滞在中に娘さんと恋仲になることがあるけれど、任期が終えると別離となる運命にあることが紹介されている。
  実際はどうだったのだろうか。島の人びとが、島に来る役人をなにかと接待することは与那国島に限らずどこでもよく行われただろう。王府の時代、石垣島はもちろん首里から琉球列島の西南端の孤島である与那国まで行くのは、生易しい航海ではない。遠路やってくる役人を迎えるのに、娘さんが草履を持って迎えるというのも、特別のもてなしだったに違いない。

  八重山では、「一般の女性は土足の上に、粗食粗衣で毎日野良仕事に従事」する状態だった(喜捨場著『八重山民謡誌』)。テレビで見たこの歌劇でも、首里からきた役人たちは草履を履いているが、与那国の娘や村人は裸足である。島に降りた役人は、それまで履いていた草履を抜いて浜にある草履に履き替えていた。史実を踏まえた描写ということだろう。
 島に赴任し何年か勤務する役人だけでなく、この歌劇のように3か月ほどの滞在期間でも、出迎えた娘さんの中から賄女が選ばれることはありうることだと思う。 
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  ここで思い出したのは沖縄本島民謡の「取納奉行(シュヌブギョウ)」である。取納奉行というのは、税金を定めるためにやってくる役人である。勝連半島沖の津堅島(ツケンジマ)に役人がやってくるときの騒動を描いている。要旨次のような歌詞(訳文)である。
 「♪意気込む取納奉行はいついらっしゃるか 津堅の崖に登って浜を見たら奉行がお越しになる 浜に着くと奉行が言うことには 今日は娘を取ってくれよ 津堅の頭(カシラ)たちよ 奉行の相手の娘に誰がなるか 津堅神村祝女殿内(ヌンドンチ)のカマドに頼もう あれほどの奉行の前に近寄るのに 下着も下袴も着けない者を行かせるのか 下着、下袴を貸せば行くか 応じれば金儲けができる いやいやすると尻をぶたれるぞ 根殿内(ニードンチ)のばあさんが娘に同伴して お宿に連れて行くのだ 五人の娘たちは お宿で男女の語らいをして 奉行はお喜びされた 奉行の贈り物は 匂い髪付け、紙包など数々あった 他の役人の贈り物は手拭い、指輪だけ 貧乏役人は取り持った甲斐もない」

  ここでも、5人の娘さんが選ばれて役人の泊まる宿に出向いて、男女の語らいをして役人を喜ばせたことが歌われている。
役人ににらまれるとどのような仕打ちをまねくかもしれない。島民が役人をもてなすために、とくに若い女性による接待を行なったことは、与那国島でも、津堅島でも同じだったのだろう。
  津堅島の例に見るように、接待をすれば、役人から多少の贈り物があったことがうかがえる。賄女になれば、特典があったという。離島の女性が、首里の士族と結びつきをもつ機会になることから希望する女性もいたかもしれない。「その上役人との間に子が産まれた時には、血縁関係にあり密接な交際をする優越感があった」という(喜捨場著『八重山民謡誌』)。 
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 だからといって、好んで賄女になったとは思えない。島に来る役人の接待のメンバーは、島の有力者から半ば強制的に指名され、拒否したくても出来ない状況にあったのではないだろうか。現地妻となれば、滞在中は夫婦同然に暮らしても、任期が終われば役人は島を去り、二度と逢うこともない。女性は島に置き去りにされる宿命にあった。
 八重山諸島、多良間島、宮古島など、賄女の悲哀を歌った民謡がたくさんある。そこには女性たちの辛く悲しい涙の歴史がある。
 草履で迎える与那国島の習俗も、その背後には島に生きる女性の歴史が刻まれていることに思いをはせた。

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「八重山の歴史と文化」を学ぶ

「八重山の歴史と文化」を学ぶ

 「八重山の歴史と文化」と題した文化講座が始まった。沖縄県立芸術大学付属研究所が開いたもの。10月7日から来年1月27日まで15回にわたり、各分野の専門家を招いて講演してもらうという企画。八重山に関心のある市民にとって、歴史と文化の全体像をその分野の第一線にいる人たちから学べるという機会はめったにない。素晴らしい講座であり、県芸大附属研究所に感謝したい。
 第1回は、新城敏男氏(名桜大学名誉教授)が、「八重山の歴史の概論」と題して話された。とくに、「八重山研究の父」と呼ばれる喜舎場永珣について、その八重山の土を踏んで中央を眺める基本姿勢、郷土に対する愛情と誇り、反骨精神も旺盛だった歴史観、その業績を紹介するとともに、八重山研究の難しさ、喜舎場説の中の問題点にふれ、研究を深めることの重要性を指摘した。
 
 第2回は、島袋綾野さん(石垣市教育委員会)が「八重山の先史時代」をテーマに講演した。先史時代を「後期更新世(旧石器)」「下田原期」「無土器期」の区分にそって話した。
 後期更新世(旧石器)では、石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で出土し話題になった人骨は、骨からコラーゲンを抽出し測定された年代では国内最古であること、DNAの分析も進められているおり日本本土より南の地域に多いDNAタイプであるとのべた。
 下田原期は本州の縄文時代の後期、晩期にあたり、土器・石器・貝器など遺物の組成は縄文時代と同様だが、土器の形式がまったく違い、文様がない丸底の鍋形や浅鉢形土器が主で把手がついた器形が特徴だという。台湾の土器に似ていて、台湾以南の地域との関係が指摘されている。
 
 個人的に私がもっとも興味を引いたのは、次の無土器期である。
 新石器時代に土器のない文化は全国でも珍しい。しかも、古い下田原期に土器があったのに、その後に無土器の時代が来たことになる。
 土器を持った文化が、何らかのきっかけで土器作りをやめたのか、別の集団が入って来たのか、現在も議論が続いている。
 八重山では約3500年前、約2000年前の2回大津波があり、関係している可能性も考えられるそうだ。
 土器がないため、調理には焼石が利用されたと考えられる(遺跡から焼けた石が出土した例がある)。貝斧など、フィリピン、オセアニア地域と共通する要素があり、南から集団が来たという考えを支持する研究者が多い。
 無土器期は約2000年前~12世紀くらいまで続き、この期の終わりに九州からの遺物(鉄製品も入る)が見つかり、北からの影響が出てくるという。
 
 無土器期は南方から集団が来た可能性があるとすれば、南方には無土器文化があるのだろうか。島袋さんは質問に対して、「南のサンゴ礁で出来た島々は土器が作りにくいけれど、作れる島では作っており、八重山と同じ無土器文化はない」と答えた。
 
 そういえば、以前にポリネシアの島を紹介するテレビ番組で、焼石を使って調理する場面を何度か見た記憶がある。確かに、鍋など土器を使わなくて調理し食べていた。
 「紀元前1300年ごろに、東南アジア島嶼部からモンゴロイド系のオーストロネシア語を話す人々が拡散してきた。ラピタと呼ばれる美しい土器を作ったこの人々は、タロイモやヤムイモなどの根裁農耕を行い、イヌ、ブタ、ニワトリの家畜も飼っていた。この人々は帆のついたアウトリガーカヌーをあやつり、オセアニア全体に広まっていった」(国立民族学博物館HP)
ラピタ人はなぜか土器を持たなくなった。
 片山一道氏(京大名誉教授)は、「ポリネシアでは、紀元前後から数百年間の間に土器をもちいなくなり、焼石をつかった蒸し焼き料理(石焼き料理)が現在まで料理の中心になっている」とのべている(同HP「幻の海洋民族『南太平洋のバイキング』」)。
なぜ土器を使わなくなったのか。
 「ラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる」(同HP「オセアニア」)。

 八重山で有土器から無土器文化に移ったのはなぜか。
 やはり土器を持っていた下田原期の人々が、2度の大津波によって壊滅的な被害を受け、その後に南方から無土器文化の人々が移ってきたのだろうか。移ってきたとすれば、どういう人々だったのだろうか。
 無土器文化と聞くと、なにか文明的に土器をもつ文化より劣っていると考えがちだが、無土器でも焼石調理をするのが当たり前の社会であれば、どちらが文明的に進んでいるという問題ではないのかもしれない。
 まだまだ謎が多い八重山の先史時代だが、それだけ今後の研究で明らかにされることが期待される。

 八重山の先史時代については石垣市教育委員会「八重山諸島の考古学」で見ることができる。
八重山諸島の考古学
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翁長知事の決断、政府は重く受け止めよ

 翁長雄志知事は13日午前10時から県庁で記者会見し、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設について、前知事の埋め立て承認を取り消すことを表明した。同日、沖縄防衛局へ意見聴取を行うための文書を発出した。
 「琉球新報」は号外を発行した。以下はその記事である。
「約1カ月後に正式に取り消す。
 翁長知事は昨年の知事選以降、埋め立て承認の取り消しや撤回などに言及して新基地建設を阻止することを表明しており、これまでで最大の行政権限行使となる。知事は会見で「第三者委の検証結果報告を受け、関係部局で精査してきた。その結果、承認には取り消しうべき瑕疵(かし)があるものと認められた。今後もあらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地は造らせないという公約の実現に向け、全力で取り組む」と述べた。【琉球新報電子版】」
               
 政府・防衛省はこの取り消しを「違法」呼ばわりして、移設に向けた工事を続けるため、承認取り消しの執行停止と無効を求める申し立てを直ちに行う方針だ。国の機関が同じ国の機関である国交省に申し立てるなど茶番劇である。
 県知事の決断は、県民の総意を代表するものである。政府はことあるごとに「法治国家」を強調するが、法治国家というなら、県知事が行なった埋め立て承認取り消しに「粛々」と従うべきではないだろうか。
  戦後70年にわたり、沖縄を米軍基地の重圧下に置いてきながら、新たな巨大基地をさらに押し付けることは許されないものである。
 日米両政府は、承認取り消しを重く受け止めるべきである。
 翁長知事が強調するように、県民はみずから土地を米軍基地に差し出したことはない。国際法に違反して土地を奪って強権的に建設した基地を返還するのに、「代替え地を差し出せ」というのは理不尽極まりない。沖縄の島ぐるみの新基地反対の総意は変わることはない。無駄な時間と経費を浪費することなく、きっぱりと辺野古新基地は断念して、一刻も早く普天間飛行場を閉鎖・返還すべきである。








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那覇大綱挽まつり・オリオンビアパラダイス最高

 那覇大綱挽まつりが10月10日から3日間開かれた。71年前の1944年10月10日、空襲で那覇は大被害を受けた。復帰前の1971年、市制50周年記念に祭りを復活させたという。
 11日に大綱挽があったが、あまりに人出が多いので綱引きは敬遠している。楽しみは、奥武山公園で開かれる「オリオンビアパラダイス」だ。
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 オリオンビールのコマーシャルで活躍する人たちを中心に県内のミュージシャンが登場する。それをビールを飲みながら楽しめる野外ライブだからだ。
  今年は、2日目、3日目と出かけた。テキヤの料理に頼らないように手作り弁当を持参した。2日目は鶏のトマトソース煮、アボガドサラダ、里芋の煮物など。3日目は、イカのバジルソース炒め、サラダ、トマト、枝豆など。
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 幸い天候に恵まれ、暑くも寒くもなくライブ日和だ。午後4時頃からステージを見た。
  11日は、宮古島出身で、演歌歌手の上地雄大さん。宮古への熱い思いを持ち、島民を苦しめた人頭税の廃止のためたたかった人たちを歌っている。CDを夜の街で手売りするという地に足を付けた歌手活動をしている。今年も元気な姿で喉を披露した。
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 このあと、ポニーテールリボン、МANAМIのステージが続いた。
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 トリは「パーシャクラブ」である。名前の由来をはじめて知った。リーダーの新良幸人の出身地、石垣島白保の言葉で「目立ちがりや」という意味らしい。
 三線をギターのように掻き鳴らしながら、「海の彼方」「七月エイサー」「かたみ節」「五穀豊穣」などヒット曲を演奏した。
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  途中で幸人がタオルを取り出した。この日、隣のセルラースタジアムで行われた秋の県高校野球大会の決勝戦で、石垣島の八重山高校が優勝候補の興南高校に見事3対1の逆転で勝利したことを誇らしく紹介した。
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 石垣島の高校が優勝するのは快挙である。7,8年前に八重山商工が甲子園に出場して以来ではないか。九州大会でbest4位に入れば、春の選抜大会に行けるチャンスがある。八重山高校と興南両高が是非、甲子園に行ってほしい。
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 最後は花火の打ち上げ。今年はなんか数が少ない気がする。夜空を焦がす花火を見ながら帰路に就いた。だが、あまりに人出が多すぎて、タクシーを拾うとすると、みんなタクシー待ちで来ない。やむなく、離れた大通りまで歩いてやっと拾って帰れた。こんなことは今までにないこと。昨年は、台風接近で中止になったので、2年ぶりの祭り。それだけ人でも多かったのだろうか。

 3日目の12日は前日以上の快晴だ。前日より客は少ないのではと予想していくと、ステージ前はすでに大勢の人たちで埋まっていた。
 最初は島唄ポップスを歌う宜保和也。
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  続いてgreen note coaster、きいやま商店、D51のライブが続いた。
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 それぞれライブ活動を活発にやっているので、熱烈ファンがいる。ステージのパフォーマンスに合せて手を振り振りしながら楽しんでいる。
 なかでもD51は前向きな若者の曲で、二人のハーモニーもきれいで、聞かせる音楽だった。
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 最後は、お待ちかねディアマンテス。
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 さすがエンターティナー。ラテンの軽快なリズムにのせて、ヒット曲を歌う。「セバタ」「三線片手に」「勝利のうた」と続くと、いまの沖縄のおかれた立場と重ねて、理不尽な新基地建設の押しつけなどに対する県民ぐるみのたたかいも、最後はきっと勝利する。そんな思いがこみ上げて感動的だった。
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 アンコールでは、出演者がみんなステージに登場。「シェリトリンド」「花まつり」を歌うと、みんな総立ちで踊り、最高潮。これまでに見た野外ライブの中でも最高の盛り上げだったかもしれない。
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