レキオ島唄アッチャー

SSライブで沖縄移住10周年のセレモニー

 沖縄に移住して8月末で10周年を迎える。毎年、この日は記念日として食事に行ったりしていたが、今年はちょうど毎月通っている沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブが29日、糸満市「風は南から」であり、ライブに出かけた。
 SSのリーダー、瀬底正真さんに移住10周年になることを伝えると、ライブの中でセレモニーをすることを快く引き受けてくれた。
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 ライブはお客さんは少な目だったが、お馴染みの人たちが多いだけ、アットホームら雰囲気で進む。前半の終わりごろ、瀬底さんから、私たち夫婦が沖縄移住10周年であることを紹介して、「happybirthday10年」と歌ってくれた。
 沖縄には夏休みで遊びに来ていて、とても好きだった。でも、だれも親戚、友人らもいない土地だった。バックを持ち、猫1匹連れて引っ越してきたのは2005年8月31日だった。
 RBCラジオの「団塊花盛り」や、その中のGSコーナーを聞く中で、リスナーの知り合いが出来てきた。番組中のライブ情報でいつも流れていたライブハウス「風は南から」のSSカンパニーやフォークユニット「F&Y」のライブに通うようになった。3年余り前からだ。 
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 ライブでは、常連のみなさん、ミュージシャンとも知り合いになり、とても親切であたたかく接してくれた。「イチャリバチョーデー」(行き逢えば兄弟)という言葉がある。「一度出会えば兄弟と同じ」というような意味である。その言葉通りだ。
 「この10年間、楽しい沖縄生活が送れるのも、皆さんのお蔭です」と感謝したい。そんな思いで、セレモニーの場を作っていただいた。 
                   感謝3
 「10年間ありがとう」の文字と「10」の数字のローソクをたてたケーキを用意してきた。瀬底さんにステージに誘われ、恐縮したが、ひと言みなさんへの感謝の言葉をのべた。 
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 ケーキはお店の人が切ってくれ、みんさんに召し上がってもらった。
 常連の「糸満カラーズ」の方々からは思いがけないプレゼントまでいただいた。いろんな方からお祝いの言葉もいただいた。
 ツレは参加されたみなさんに一束ずつでもお花をあげたいと用意していったので、ライブの休みの時間に花もお配りをした。
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 移住記念日という極めて私事にもかかわらず、お祝いまでしていただいて感激した。
 もともと赤の他人同士なのに、ラジオやライブを通して、このように親しくしていただくなんて、東京では考えられなかったことだ。
 ライブは、いつものように、アンコールまで盛り上がった。終わるとちょうど、午前零時だった。 
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 さあ次は移住20周年を祝いたい。

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古蔵青年会が旧盆エイサー

 沖縄は8月26日から28日まで旧盆だ。わが家でも26日はご先祖さまを迎える「ウンケー」で、果物やお菓子、それに「ウンケー」といえばジューシー(沖縄風炊き込みごはん)をお供えして、夕食にいただいた。今年は、「フーチバージューシー」(ヨモギ入り)で、とてもフーチバーの香りがして美味しかった。
 27日は「中ぬ日」。お中元を配るのが恒例である。わが家では、揚げ物を使わない料理の旧盆オードブルを注文したので、お店まで 取りに行った。
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朝の通勤時間帯は車が少なかったのに、午後3時頃はやたら車が多くて道路が渋滞していた。お中元配りなどお盆であちこちと回る人が多いのだろう。例年のことだ。
 夜には、古蔵青年会の旧盆エイサーがこの地域にも回ってきた。 
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 近くの住宅から家族で見に出てくる人が多い。今年は、歌三線の地謡(ジカタ)が一人になっていた。毎年3人いたのに。一人ですべてこなすのは大変なご苦労だ。 
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 エイサーは「かたみ節」から始まって「唐船ドーイ」まで連続して演舞した。大太鼓、しめ太鼓が勇壮に舞い踊る。イナグモーイ(女性の踊り)も可愛い。 
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チョンダラー(道化)は子どもたちに大人気だ。 
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 エイサーする青年がなんか若返った気がする。青年会も常に新しい若者を入れていくのだろう。
 エイサーの太鼓の音、演舞を見ると、チム(肝)どんどんする。地域の人たちもあたたかい声援を送っていた。なかには、チョンダラーといっしょになって踊る人もいた。
 演舞が終わると、チョンダラーが袋に入ったお菓子を子どもたちに配るので、いっせいに子どもたちはチョンダラーの周りに集まる。 
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 この子どもたちも、将来はエイサーの仲間に加わる人たちがきっといるだろう。いま演舞している若者も10数年前には、チョンダラーからお菓子をもらっていた子どもだったのかもしれない。
 28日は、「ウークイ」。家に帰って来ていたご先祖様をグソー(あの世)にお送りする日である。ご馳走でもてなすだけでなく、帰りにはあの世でお金に困らないように「うちかび」を燃やして持ち帰ってもらう。お供えしたサトウキビを杖に使ってもらう。ガンシナと呼ばれる小さな輪は、お土産を頭に載せるために使う。 至れり尽くせり。ウチナーンチュのご先祖様を大切にする心配りにあふれている。
             
 仏壇のある家に家族、親戚が集まり、みんなでウトートーする。そして夜中には家の前に家族が出て、お送りする。わが家ではとてもとても沖縄風にはできないが、心ばかりのお盆をしている。
 旧盆は7月15夜で満月のはずだが、今年は13夜くらいの感じ。満月の日だから必ず月が完璧な円になるとは限らないらしい。でも13夜が一番よいと八重山民謡では歌われている。
 
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粟国島のヤガン折目、その4「由来譚」

由来譚第2説
ヤガン折目の由来譚の続きである。
 大昔の事、ヤガンのムラガマの外れに、漂流の遭難船から上がって長年住んでいた人が、死後は弔う人もなく時が過ぎた。
 いつの頃からか、磯で釣った魚が家に帰って見ると目玉がなかった。暫くして四辺の畑仕事に行くと、人の目玉を抜取ったり、鼻を削ったり、妊婦に流産させたり、いろいろと不思議な事が起こった。
 島人はそこで今帰仁城に訴えた。そこで使者ナチジンは、来てみてそれが事実であることを報告した。対策にシューバーイを7バーイ(干魚)と、粟穀7石をもって渡島した。ミチャミチをつくりバーイを上げ、チジン鉦打っても中々出ないので、騙したり賺(スカ)したりしてやっとエーガー城の上に、次にタカチヂまでは見えた。
 併し、居付かずにとうとう今のエーヌ殿のイビカナシの所に鎮まった。使者はナチジンウカミとしてエーヌ殿の中に祀ったとの事である(『粟国村誌』)。

 由来譚第3説
 昔、粟国島は毎年6月頃になると、人の目や鼻を取ったり、流産させたりする恐ろしい神様がいた。困りきった住民が今帰仁城に訴え出たところ、平敷の大主という役人が派遣されてきた。島に来た大主はこのことが本当であることを知り王に報告した。王は、彼にこの神を鎮めるよう命じてきた。それで大主はバーイ(塩づけの魚)を7バーイ、粟を1石、米、鼓、鉦を王に要求し、それらを持って再び粟国島へやってきた。そして、粟、花米で酒やごちそうを作ってヤガンガマの前に持っていき、鉦、鼓を鳴らして神をおびきだした。この神は、ヤガンガマを出て、ガタヌク御嶽、チヂ、イビガナシへ行き、グスクマ屋あたりで見えなくなった。その後は、この神が暴れることもなくなったので、住民は、あの時の様子を再現してヤガンウユミの祭をやるのである。荒神を鎮めてくれた平敷大主は、平敷島に帰った。彼への感謝の気持ちの現れとして、今帰仁城を拝む拝所がイビガナシにある(『沖縄民俗』15号 琉球大学民俗研究クラブ、『粟国村誌』) 
                       ヤガンウユミ、山ノ神迎え
                           ヤガン折目山ノ神迎え(粟国村HPから)

 感想を述べる。以上3つの由来譚は、いずれも人の目玉を取ったり、鼻を削ったり、流産させたりする恐ろしい神を鎮めるため、供物を奉げて御願をするようになったことでは共通している。とても興味深いのは、第1説は中山王府に訴え出たのに対して、第2,3説は今帰仁城に訴えたことである。
 粟国島には行ったこともない者にとって、粟国は久米島に近いという感覚や那覇泊港から船が出ていることもあり、首里王府との関係しか思い浮かばなかった。でも、この由来譚を読むと、首里王府以上に今帰仁城との関係が強い。地図を見ると、距離的には粟国島から那覇まで60㌖余り、北部の本部半島も60数㌖とあまり違わない。方角からいえば、那覇からは北西にあたるが、今帰仁からだと真西の方角になる。琉球の三山時代、今帰仁城を本拠とした北山は、明国に朝貢し中国皇帝から国王として認証を受ける冊封関係にあった。今帰仁から明に行くのには、伊江島から粟国島、久米島を見て東シナ海を越えて行ったのだろう。古くから今帰仁と粟国島との深いつながりがあったこともうなづける。

 由来譚第4説
 海に出た漁師が、波に漂う不思議なものを拾ったので、中山の御主加那志前に差上げた。見ると粟の穂だったので、それを探しに今一人をつけてやった。確かに遠くに島影を見たが近づくと島は消えてなかった。そこで北山の子(思満金)が中山の指令を受けていくとそこは粟国島だった。島には住居が5、7軒あってウフヤディーを中心に暮らしていた。その時耕作にいった女3人が、スバキン原の坂の処で1人は片目、1人は両目を潰され、他は児をおろすという騒ぎがあった。中山に報告が行き仕様を聞かれて、粟ナーカ俵(ダーラ)とシューバーイを持って再び渡島。その折に中山の長男、二男、ウミナイビ(長女で13、4才)  が加勢に北山の三男を中心に行き、例の供物を持って、ヤガン原の辺りクサクチの上にフーウッカーギ(テント)を張り、粟ミチ、バーイなどを供えて拝んだ。すると神は腰を浮かしてのり出してきてテラの上に退いた。なお供物を上げると先程クサクチの上の頂上(チヂ)で鐘の音が聞こえた。アマギドゥでもヒタヌチヂでも供物を供えた。又同じ東リイザニの上にも供えたが、外廻りしてイヒョーラからエージ城のアタカヌクシで一服してからイキントゥの中のタカチヂ即ちタレーラムイで拝まれた。次第に居付いて最後は今のウフナカ即ちエ-ヌ殿に鎮まった。
 中山の2人兄弟は沖縄へ帰ったが、その子孫はクンザン屋、ニーブ屋となって残り、 中山の長女と北山の三男が結ばれてアガルマントウン小又吉の先祖となった。後世はその労多しとしてナチヂンウユーといって、八重大仲の祠に祀った(『粟国村誌』)。 
                       ヤガンウユミ、ナーマチ(火の神まつり)
                       ヤガン折目火の神まつり(粟国村HPから)

 第4説の検証
 この第4説で一番興味を引くのは、村の島立てとヤガン祭りに関わる家筋の走りがみえることである。いままでの2説においてヤガン折目と今帰仁、中山の王権のかかわりがみえ、また聞得大君の組織化のものとして捉えられていたが、ここではその以前の祭りと家筋の関わりがみえてくる。
<「庇護される宗家」から
 由来譚第4説から首里、今帰仁の宗家としてアガルマ一門、国頭屋(くんじゃんやー)、ニーブヤー、ができる前に大屋殿(うふやでー)という血縁集団を中心に暮らしていたということである。
 つまり古琉球の時代に大屋殿を中心とした今帰仁、中山(注・首里王府)に政治を託す村が存在したということである。そして大屋殿を中心とした祭りの形態があったと思われる。>

 まず島の発見が語られる
 粟の穂が漂流していたのでそれを拾って王に差し上げたら、一人共の者をつけてやってその漂流先を探しに行ったら島影を発見したが見えなくなったので、今度は北山の子が捜しに行って島を発見した。そこは粟国島だった。
 そこには住居が5・6軒あってウフヤデーを中心に暮らしていた。その時ウフヤデーが血縁集団のマキの祖、根屋であったということである。
 もしこの血縁集団がトゥマイナ周辺に一族を作り五穀豊穣を願い、一族の安寧を願って暮らしている時、事件が起こり北山、中山に助けを求めたということで、両方からその事件を解決に掛け参じたということを物語っている。
 北山から思満金、中山から長男、次男、ウミナイビ(女)が加勢、そして事件は解決して中山の長男、次男の子孫としてクンザンヤー、ニーブヤーができたという。つまり祭りが根屋のできた頃からあったということになり、番所がおかれ、公儀ノロが配置され以前からあったことになる。
 子孫を残して中山の2人は帰ったということである。妹の方は北山の三男と結ばれてアガルマントゥングヮー大屋の又吉の先祖となったということである。

 ここで注目したいのは血筋である。粟国の門中がグーシーの遥拝で首里、那覇あるいは今帰仁を遥拝、先祖として崇めるのもこれから頷けるようである。あくまで中央志向である。グーシーの項でも検証した通りである。
 中山と今帰仁を後ろ立てにした3つの由緒正しい血筋が村を統治し祭りを仕切っていく構図がみえる。たかが由来譚と思えぬものがそこにあるようである。
 そして各血縁集団がヤガン御嶽を中心に先祖神を祀り、御嶽を中心に根屋、国頭屋、ントゥングヮー大屋と下に広がる村立ての構図、仲松説が見えてくるように思う。

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三線とピアノの夕べに魅了される

 台風15号接近前の23日夜、首里のアルテ崎山で、八重山民謡唱者の杉田園さんとピアノの志乃さんによる「三線とpianoの夕べ」が開かれた。
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 三線とピアノのコラボをやっている人はいるけれど、八重山民謡でのピアノとの共演は初めてだ。聞いてみると、透き通るような園さんの歌と三線をピアノが優しくフォローして、どちらも殺し合うことなく、引き立てているようで、とてもマッチした演奏で魅了された。
 滋賀県生まれという園さん。北海道にいた時、八重山民謡を聞いて魅かれて、三線を習い始め、半年後には沖縄に来ていたそうです。大工哲弘さんのもとに通い、12年を経て、八重山民謡の唱者として、活動されている。 
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 幕開けの「鷲ぬ鳥節」から始まり、「でんさー節」「鳩間節」「月ぬかいしゃ節」「月ぬ真昼間節」「トゥパラーマ」など名曲を歌った。
三線の音色は一音出たところから心地よく響く。歌声は、美しく伸びやかだ。とくに、高音を聞かせる「月ぬ真昼間節」「トゥパラーマ」は、聴きほれてしまった。 
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 志乃さんは、ライブに当り、大工哲弘さんのCDを聞いて、八重山民謡に魅かれたそうで、とくに「月ぬ真昼間節」がお気に入りだとか。歌三線と共演するための楽譜があるわけではない。歌う民謡にあったピアノ伴奏を自分でイメージして弾かれたようだ。ピアノタッチがとても美しい演奏だった。
 第2部では、「赤ゆらの花」「えんどうの花」や志乃さんが園さんのために作詞作曲した「凪(なぎ)」など多彩な楽曲を披露した。
 最後に軽快に「安里屋ユンタ」「与那国のまやぐゎー」を弾き盛り上げたところで、なんと三線の女弦(みーじる)がプツンと切れてしまった。頑張ったので、もうこれでお仕舞にしていいよ、とまやぐゎー(猫)が教えてくれたのかもしれない。 
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 演奏が終わったところで、2人に店主からケーキが贈られた。
 二人のduoはまだ名前はないけれど、9月にはイオンライカムでもライブをするそうだ。これからも活躍を期待したい。
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粟国島のヤガン折目、その3「由来譚」

 安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から紹介の続きである。

ヤガンのアラバ神
 現在行われているヤガン折目(ウユミ)からは一切その恐ろしさは見えてこないし、むしろ村人たちに幸福と子孫繁栄をもたらす世の神とみてとれる神である。
 アラバ神について外間守善氏の『海を渡る神々』を参考に見てみたい。
 粟国島では「アラバ御嶽と呼ばれる聖域がある。そこの神歌であるウムイには、海神アラ神、アラバ神が出現し、アラシジ、アラバシジと称する霊力を発揮して島に豊穣と幸福をもたらしている。粟国島の神歌は、海からあがってきた神が足だまりにした海辺をアラ、アラバといい、その神をアラ神、アラバ神」という、と述べている。

 ヤガン折目の変遷には、アラバ神への畏怖の念もさることながら、官の祭りを統制する過程があるようにみえる。古琉球の五穀の祭りとあいまって6月の忌み明け(夏正月)にカシチー、ヨーカビー(妖怪火)、紫指しなどがひき続き、それで村人の恐怖心をあおり、6月折目という物忌みの最後の麦穂祭のほかに、官の統制下のもうひとつの祭りを作りあげる必要があった。久米島代官の下にあった村も番所ができ、新しい政(まつりごと)を布かなければならなかった。そこにあった官祭前の祭り、村人が純粋に血縁集団で行ってきた五穀豊穣を願い世をもたらす祭りを、官の都合の良いようにつくりかえたとすればどうであろうか。

 現在行われているヤガン折目は、荒ぶる神(注・人に害を与える乱暴な神)の恐ろしさは見えなくなり、島の繁栄と人々の健康祈願が主になっている。安里氏は、ヤガン折目にはそれよりも前に変遷があるとみる。もともと村人たちによる五穀豊穣を願い豊年もたらす祭りを、島を統治した政治の都合の良い祭りにつくりかえたと見ている。

 ヤガン折目の由来譚
 粟国島最大の神行事であるヤガン折目の由来について、『粟国村誌』と安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から紹介する。
 『琉球国由来記』には、粟国島嶽々並年中祭記之事の六月の項に次の記述がある。
 「ヤカン祭トテ粟神酒6ツ作リ、魚肴八重ノトノニ上ゲ、ノロ、根神、御タカベ、サバクリ、頭頭、朝八巻、百姓中相揃、拝四ツ仕也。御残リトテ、各呑喰ヒ申、二日遊申也、由来不ㇾ傳」(『粟国村誌』から)。
 ここでは由来は分からないとしているが、祭りそのものは『由来記』が編纂される前から続いていたと見られる。 
                       洞寺、粟国村観光協会
                       テラ(洞寺)=粟国村観光協会HPから
 由来譚第1説
 往時6月になると、テラ(注・(洞寺))やヤガン原の辺りの畑へは迂回しないと行けないくらいであった。特に思いがけぬ突風―ティンナーニシも吹いた。その頃、たまたま畑仕事に行った島人が、眼玉を抉られ、鼻を削がれ、孕んだ子を堕ろすという騒ぎがあった。在番の神里某(仲里とも言われている)は、このことを中山王府に報告した。仕様はないかと聞かれ、在番の某は思案して、粟とバーイを頂いて再び渡島した。
 粟で醸した神酒と干魚のバーイを持ってヤガン原にゆき、フーウッカ(注・帆御影屋)の座を設けて神に供えた。こうしてヒタンチヂ、アマギドゥと供えて、里近くのイザニの上にきたら居付いて皆に拝まれた(『粟国村誌』)。
<アラバ御嶽の周辺は崖に囲まれて荒涼とした洞窟が散在し魔物が隠れ住むには打ってつけの場である。そこにとってつけて恐ろしい由来譚をつくりだすのは最高の舞台装置であったと思われる。>

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ライブ支えるパワフル糸満女性

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニー―のライブが糸満市「風は南から」であった。8月は、「風南」ライブの常連のKさん、Nさんの二人の誕生月。ライブの後半のスタート前に、happybirthdayのお祝いがあった。 
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 ライブ仲間から、birthdayケーキとプレゼントが贈られた。あとから、SSメンバーからも二人にプレゼントがあった。
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 同じ沖縄の中で、SSとF&Yの定期ライブがもう糸満で長く続いているのは、それを支えるお二人のような常連さんがいるからである。 
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 常連さんとは、たんなるライブの熱烈ファン、聞き手というだけではない。ライブでは率先して踊って踊って盛り上げる。周りのお客さんも誘って盛り上げる。
 それ以上に、ライブが成功することを当事者のように心配して、友人、同級生、職場の仲間、ライブで知り合った人などを、お誘いする。つまり集客にも大きな役割を果たす。「奇跡の糸満ライブ」と呼ばれるほど、盛り上げたという伝説があるほどだ。 
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 糸満「風南」だけに限らない。SSやF&Y(ふーみさん単独のMrジョークマンを含む)のライブには、沖縄市、うるま市、嘉手納町、金武町、恩納村、北部の本部町。さらには昨年はSSの沖永良部島ライブも追っかけした。
 糸満イナグー(女性)は、美人が多いことで有名だ。それに、昔は漁師の夫が獲って来た魚を売り歩き、女性がしっかり経済力をもっていたことで知られる。そんな伝統を受け継いでいるのだろうか、とってもパワフルである。ライブの常連は、糸満市に限らず、南部の豊見城、八重瀬町、南城市にも広がっているが、いずれも同様にパワフルである。
 沖縄には、星の数ほどバンドがあり、ライブハウスがある。それぞれ熱烈なファンがいて、ミュージシャンを支えている。これも、芸能の島、沖縄のスゴイところだと思う。 
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 この夜も、少し客は少なかったけれど、盛り上がった。
 後半には、F&Yの一人、ふーみさんがサプライズで入店してきた。恩納村の島唄居酒屋なかやでのライブをこなして、わざわざ来てくれたそうだ。誕生日祝いに駆けつけてくれて、Nさんも感激していた。 
 ふーみさんから、日航グランドキャッスルのビアドームのF&Yライブの模様を収録したCDをいただいた。これを聞くと、ライブの様子が生々しく蘇る。
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 アンコールでSSが「サボテンの花」を歌いだすと、ステージに飛び上り、いっしょにマイクを取り歌うというサプライズまであった。happyな気分になる一夜だった。
 
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粟国島のヤガン折目、その2

 6月折目(ウユミ)
 安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』からの紹介の続きである。
 ヤガン折目に入る前に、粟国島では別に「6月折目」があるのでふれておきたい。
 『琉球国由来記』では「6月中旬の壬の日を撰び、ノロ、3字の区長、各小字から雇われたヤトゥイと共に八重大仲のイビカナシー前に午後3時頃集合して、新しく収穫した麦でミーミチ(神酒)を作り、豊作を祈願し、害虫が発生しないように3月折目同様に殿殿をまわって拝む」(訳文)と記している。
 6月折目はなぜか粟国村においては「折目小(グヮー)」といっている。6月折目は官祭として村々においても麦穂祭最後の祭りとして、折目最後の忌み明けの祭りとしても大きな節句である。 
「6月は島最大の祭り、ヤガン折目の月であり、そのヤガン折目に対してそう呼ぶのであろうか」と安里氏はのべている。
 先之世(古代人)にとって春の初めの1月と7月がともに年の初め(正月)であり、6月と2月は年の終わりの月であった。つまり穀物の収穫時を2期に分けて考えたのである。

 粟国島最大の神行事
 ヤガン折目(ウユミ)は旧暦6月24日から26日に行われる村最大の神行事である。
 この祭りには島の1年の神事が官(王府)の意向によって作られて来た意味が含まれているように思われる。この神事を解き明かすことで、1600年頃聞得大君(キコエオオキミ)制度によっていかに官主導で古式の祭りが官の思い通りに作られて来たかがみえてくる。

 粟国島の北の方角に珊瑚石灰岩の崖下に小さな三つ石をおいた祠、ヤガン御嶽がある。そこをニーヌハ(北の端)と呼んでいる。旧暦の6月24日より26日まで3日間、島最大の祭りが行なわれる。そこより少し東北にアラバ御嶽、あるいはヤマガマと呼ばれる所がある。そこのアラバ神を召喚して行なう祭りである。
                    ヤガンウユミ、山ノ神迎え
                     山ノ神迎え(粟国村HPから)
 現在のヤガン折目の日程
 ヤガン折目は旧暦6月24日からはじまるが、22日から23日にかけて、ントゥングヮー大屋(スイミチ座)、ミヤグヮー(ヌル殿内)で各ウムイの練習が行われる。

  旧暦6月24日(「山ノ神」神迎え)
1、シブク取り(大嶽) 2、クシイキントー家へ 3、カニブの葉摘み 4、山にて神迎え(タレーラムイ)
  大嶽にてバチに使う桑の枝(神聖なもの)を取る→松尾嶽の管理家であるので御嶽に入るための祈りのビンシー(祈りの道具)を取りに行く→松尾御嶽(シマイ御嶽)に神女のかぶる冠を作るカニブの葉を取る→夕方タレーラムイにて神を迎える儀式を行う

 旧暦6月25日
1、火之神祭り(八重大仲=注・ヤガン折目祭場)) 2ナー(庭)祝い(八重大仲)
  ニーブトゥイ(注・男性の神人)によって明日から始まるヤガン祭りの報告をする→神祭りを行うための庭の浄めを行ない、御帆影屋(テント)を張る

 旧暦6月26日 ヤガン祭り本番
1、朝フララ(朝拝み、八重大仲) 2、殿廻り 3、夕フララ(夕拝み、八重大仲) 4、神遊び(立ちウムイ) 5、チーグ座 6、神送り 7、カーブイの返納
 ウンヌキグトゥ/村人へのウネージャク(お願いの酌)ノロ座から始めスイミチ座と行われる→アシミネの殿(安里の殿)/ガーチの殿/ババの殿/トゥマンナスの殿/浜の殿(殿廻り)→朝フララと同様に行う→ノロとスイミチ神でチーグ座までコネリ手で踊る→村代表と別れの杯/嶽戻しのウンヌキグトゥと儀式→国火之神の後ろからヤガン御嶽に向って神をおくり、カーブイをはずすーカーブイを今帰仁の祠かクバの御嶽に返納する

 この表の通りの順序でヤガン折目神行事の儀式は一応終えるが、二七日はントゥングヮー大屋、ノロ殿内(宮小)から神返しの祈りを行なう。

 <ヤガンウユミ(折目)のノロは、スイミチ座とノロ座の二手に分かれる。スイミチ座は伝統的な島のノロで(察度王統のノロとも言われている)、ノロ座は琉球王府系(ノロ座は羽地摂政期以降のものと考えられる)のノロであるという。スイミチ座とノロ座の緊張関係が、この祭りを支えるエネルギーとなっているように思えた(狩俣恵一沖縄国際大学副学長著「粟国島のヤガン折目―荒ぶる神を祀る人々の精神性―」)>
 <注・粟国島にはノロ2名とスイミチ神、ヒタルマ神、メーダギ神、ウフンシー神、ユナンサー神の6名の神がいるとされる。またその6名の神にはそれぞれ屋号があり、その一部が使われている。メーダギ神の屋号はトゥーミーウフウヤー、ウフンチュー神の屋号はクチナウフヤー、ウフンシー神の屋号はクゥシサ―ジウフヤーとなっている(「粟国アーカイブス」HPから)。>


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粟国島のヤガン折目、その1

 粟国島最大の祭祀、ヤガン折目

 伊江島の祭祀「大折目(ウプウィミ)」について紹介した。そのなかで、粟国島にも「ヤガン折目(ウユミ)」という祭祀があることにふれた。県立図書館で安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』『粟国村誌』などを借りて読んだ。
  粟国島には、また行ったことがない。映画「ナビィの恋」が撮影された島で知られる。那覇の北西60㌖に位置する半円形状の島だ。見方によっては、ハート型にも見える。
 島は南西、西側は高さ90㍍の絶壁となり、そこから東北に向けて緩やかな段丘をつくり、東部は平地となって東海岸は砂丘に囲まれている。珍しい形状の島である。人口は800人余りであまり観光化が進んでいない。今も行事の多くが旧暦で行われ、なかでも大晦日の晩から元日に三線と踊りで地域内の各家々を練り歩き無病息災と五穀豊穣を願う「マースヤー」行事は、テレビでも紹介されたので知っていた。
 「ヤガン折目(ウユミ)」は、島最大の神行事である。同書を読むととても興味深い内容があるので、その一部だけでも紹介したい。 
                    粟国島(粟国村観光協会
                   粟国島(粟国村観光協会HPから)
 折目(ウユミ)とは何か。2
 折目といっても、あまりなじみのない方もいるだろう。折目とは何か。
「年中行事のなかで、生産休養日の“遊び”をともなう収穫祭や予祝行事の日。沖縄ではウイミまたは節目(シチビ)、奄美ではオンメ、宮古・八重山ではキジャリと呼ぶ。なお生産年の交替を祝う大折目を沖縄県本部半島地域ではウフユミという」
『沖縄大百科事典』は、このように解説している。

  粟国島の野厳折目(ヤガンウユミ)の由来について、まずは「広報あぐに」2011年9月号)から紹介する。
 その昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)で毎年6月(旧暦)になるとそこに居る荒ぶれた神様に畑の作業にきた人々が目玉をえぐられたり、鼻をそがれたり妊婦は流産させられたりしたそうです。
 困った島の人々は、沖縄本島北部の今帰仁城の王様に何とか治めて下さいとお願いに行きました。王は家来の平敷大主(ヘシキウフシュ)にこの荒ぶれた神を治めるように命じました。
 平敷大主はバーイ(千魚)、粟や酒(ミチ・そてつの実を発酵させたお酒)を準備させ島のノロ(神人)達といっしょにその荒ぶれた神を野厳原から拝所のイビガナシーまで誘い出し、用意したバーイやお酒でもてなしました。その後この荒ぶれた神も島の人々に悪さをしなくなったそうです。それで、毎年旧暦の6月24 日、25日、26 日は神を鎮める祭り「ヤガンウユミ」が行われてきました。古来は神を鎮める祭りでしたが、現代は、島の繁栄と人々の健康祈願が主のようです。ヤガンウユミ説は数説ありますがその一説を紹介しました。 

 「ヤガン折目」の祭祀を知るために、その背景として粟国島の歴史的な事情を安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』からごく簡略にスケッチする。
 (琉球は13世紀から14世紀はじめまで北山、中山、南山の3小国に分かれていた)
三山を統一した尚巴志の代の世の主の代になると、祭祀も按司一族の神がその間切(マギリ、いまの町村)内の有力な神としてあがめられ、この神に仕えるノロ(神女)といわれる祭祀を司る者が一族から出現してくる。この人たちは按司を賛美した歌謡を唱えることが多くなる。
 第二尚氏の3代目尚真王は諸按司(豪族)を首里に集め、中央集権の政治を行なった。地方には按司掟(アジウッチ)をおいて行政監督をさせるようになる。
 祭祀においては聞得大君(キコエオオキミ)を最高位につけ国王の姉妹を姉妹神(オナリ神)として王妃の上位に君臨させ、地方には公儀ノロを送り、各村々の祭祀までにも采配を振るった。聞得大君の下に三平等(ミフィラ)のノロ(略)がおかれ、その下に大阿母(オオアモ、名門出身のノロから与えられる称号)をおいた。
 粟国島は久米島代官の管轄にあり、番所が置かれ役人が島を統轄するまで久米島の大阿母の下で公儀ノロの司る祭りが行われたものと思われる。 
                        粟国島の岩
                粟国島の断崖(粟国村観光協会HPから)

 近世 1609年の島津侵攻2年後の1611年、番所が(粟国島の)浜に設置され、初代地頭代が任命された。
 1725年 往古から慶良間と粟国の地頭は兼任していたが、この年、在番を別々において、それぞれの島を監守させ、それと外国船の漂来や地方の船隻の行き来を監視させた。
 
 首里王府時代、久米島代官の下にあった粟国は、聞得大君の直接のつながりがあった久米島君南風(チンペー、大アムシラレ)の下で強い宗教統制下におかれたものと推測される。しかし、時代とともに次第に神女組織は簡素化されていった。

 戦後、粟国村の復興のためには村民の団結が必要であった。当時の村長仲里秀雄氏は祭りを通して団結心を奮起させるため、明治、大正までつづいた「ヤガン折目」の復活を企て、当時役所に勤めていた浦崎春男氏がこの祭りを覚えていたユナンサー屋の娘(当時80歳代)から聞き書
きをして、ヤガン折目を復活させた。
 
 「ヤガン折目」は、粟国島の民俗・文化を知る上でとても重要な祭祀である。粟国島が沖縄本島の政治勢力によってどのような支配を受けてきたのか、その歴史的な事情は、この祭祀の姿にも大きなかかわりがあるものと見られる。

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「鳩間節」に込められた思い

 「鳩間節」に込められた思い
 鳩間島といえば、「鳩間節」が名高い。沖縄本島では、古典舞踊曲として知られる。八重山民謡の原曲は、ゆっくりしたテンポだが、本島の舞踊では、早弾きの軽快な曲である。島の景観の美しさ、稲粟の豊作の喜びを歌っている。「鳩間ユンタ」を役人が改作したのが「鳩間節」だとのことだ。
 「♪鳩間中森走り登り くばの下に走り登り」(鳩間島の中岡に走り登り くば林の下に走り登り)と歌い出す。
 最初にこの曲を知ったとき、歌詞の中でよく分からなかったのは、次のくだりだ。
 「♪稲穂積みつけ面白や 粟穂積みつけさて見事(稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ)」
 「♪前の渡よ見渡せば 往く舟来る舟面白や(前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである」
 「なぜ舟に米や粟を積み上げるのか?」と不思議だった。水田のほとんどない鳩間島の島民は、人頭税で米貢を強制され、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。だから、稲や粟を舟に満載して鳩間島に帰るのは、ごくありふれた光景だった。
 photo03鳩間島火番盛
鳩間島の火番盛(竹富町観光協会HPから)
でも、それだけではない、深い意味が込められた曲である。曲の背景に、西表島の住民との確執がある。
 「この民謡は島の生産の歓びを謡いつつ、その反面には(西表島の)上原と舟浦両村民の無慈悲に対する敵愾心を謡って留飲がさがったという歌である」。八重山の民俗、民謡に詳しい喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、こう表現している。
 喜舎場氏によると、次のようないきさつがある。
 鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。
 命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る。
 舟浦、上原両村の人民は、村の近くに陸路にある田圃であるがため、サボって2、3回耕起する結果、稲作はいつも中作以下であった。
 これは、上原、舟浦の土地を鳩間人に耕作させたために、「田の神の祟りである」から、直ちに返還せよと迫ったのである。蔵元首脳部へ訴えた。
 鳩間人が適地を発見して稲作のできる時期まで待てと英断が下った。
 島ぐるみ全体協力を結集し、ジャングルを伐採した上、開拓した。これが対岸の新開地である。
 
 私が通うサークルで使う「鳩間節」の歌詞は、4番までしかない。でも、もともとの歌の歌詞には、次のような内容(和訳)が歌われているという。
 「♪舟浦人の面当てに 上原人に聞かすために 精根を打ち込んで開拓して見せよう」
 「♪上原人が鳩間に来た時は 樫実の殻で神酒を飲ましてやれ」
  「♪舟浦人がやってきたら 蛤(ハマグリ)の殻で酒を与えてやれ」
 西表島の舟浦、上原の住民への強い対抗心、住民を見返してやろうという鳩間島の住民の心情が込められている。

 西表島の上原の住民も、強制移住させられた人々で、マラリアの有病地で開拓に苦労したうえ、不作で困窮していたという(雨男通信
西表島と鳩間島の住民がお互いに、貧困のうちに重税で苦しめられていたことでは、同じ境遇である。
  そんな住民が相互に対立しあわなければならないのは、悲しいことである。そこには人頭税による圧迫がある。重税のもとでは、自分たちの税の完納ができるかどうかだけが死活問題である。他所の島、村の人たちのことを思いやる余裕など生まれえないのだろう。
 「鳩間節」にも、人頭税時代の八重山に生まれ生きた庶民の歴史が刻まれている。


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盗んだ神を祀った御獄とは?鳩間島

『鳩間島民俗誌』を読む

 盗んだ神を祀った御獄とは?

 隣の島から神を盗んで村の御獄(ウタキ)とした。こんな驚くような話に出会った。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』を読んだときである。
 鳩間島のヒナイ御獄という拝所である。『琉球国由来記』に友利御獄とともにその名がのっている古い御獄だという。
 琉球王府時代のことだ。鳩間島の住民が、西表島の御獄から盗んだという伝承があるそうだ。なぜ、神を盗まなければならないのか、神を盗むとはどういうことだろうか。 
 ※これは、前に「ココログブログ」にアップしていたものだが、八重山離島について連続して書いているので、鳩間島についても再アップしておく。
                  IMG_2225.jpg
                    『鳩間島民俗誌』の表紙
 海向かいの(西表島)ヒナイ村は雨がよく降り、作物がよく実った。鳩間島の人々はそれをヒナイ村の人々の拝む神のお陰だと考えた。そこで鳩間島の人々は、ヒナイ村の人々に彼らの拝む神を勧請(カンジョウ)させてほしいとと頼んだ。ところがヒナイ村の人々は、一言の下にその要望を拒否した。それでも鳩間島の人々は諦め切れず、一計を案じた。神を盗みだすことを計画したのである。
 通事家と加治工(カジク)家の男たちが選ばれた。二人はヒナイ村の海岸に舟を着け、こっそりと御獄に近づいた。ところが、ヒナイ村の人々に見つかってあっさり追い返されてしまった。次に二人は夕方舟を出し、……夜陰に乗じてヒナイ村の御獄から香炉の灰を盗み出した。それから男たちは大急ぎで舟をこいで返し、島に着くと海岸近くの木の陰にその灰を置いた。そこがこの御獄の最初の拝所となった。 
                           img_鳩間島地図

 
 大城氏は、この神を盗んでたてたヒナイ御獄をつくったのは、他の島からの移住者だったと見る。
 移住者はすでに村を守護する神を祀っていたが、それは祖先神であった。信頼する神以外に、雨の神・豊穣の神を必要とするようになっていた。新村の人々は、彼らの消費する量をはるかに超える生産高を求められていた。人頭税である。この政策が彼らの上に重くのしかかり、他に救いの神を求めたのである。こうして第二の御獄、ヒナイ御獄は建てられたそうだ。
 1701年から1703年にかけて黒島から鳩間島に百姓の移住が行われた。2回に分けて、合わせて150人を超える人が移住した。移住によって鳩間島の人口はいっきに4倍か5倍になったという。
 鳩間島から、米をつくるため西表島の北岸に海を渡って通っていた。

 重い人頭税を完納するためには、豊作、豊穣は切なる願いである。「雨の神・豊穣の神」をなんとしても必要としたのだろう。神を盗むという破天荒な行為の背景にも、人頭税による先島の百姓たちへの過酷な徴税があったのだ。
 著者は、鳩間島に生まれ、教育者として県立首里高校校長を定年退職したあと、東北大大学院前期博士課程を修了。すでに島外に出た住民からも聞き取りして本書をまとめたという。労作である。とくに、村の成り立ち・変遷と御獄の由来や神役の継承など祭祀の形態と組織を詳細に記述されている。
 
 鳩間島の名前の由来
 鳩間島の名前の由来に興味がある。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』から紹介する。鳩間島に鳩が多数生息していたことに由来するという。鳩は穀物を主に食べる。島で鳩が急速に増えたのは、人が住みつき畑をつくるようになってから。人頭税時代に、鳩間島から西表島の北岸一帯に出かけて稲作をした。鳩も稲を目指して海を渡っていたそうだ。王府の八重山統治が進み、役人が島にやってきたとき、鳩の多い島という印象をもったのが島名の由来と推測している。
 ただ鳩は現在、島にいない。それは島の人口が激減し、畑も田を作らなくなったからだという。大城公男著『八重山 鳩間島民俗誌』から紹介した。
 たしかに、鳩は自然の中にいる野鳥というより、人の住む周囲にたくさんいる鳥だ。人が少なくて鳩もいなくなったとは、なんか寂しい感じがある。
鳩間島の名前の由来は、確証されているわけではない。でも、鳩が多いことに由来するなら、たしかに鳩間島の古くからの固有の名前というより、島外の人がつけた名前の印象が強い。
 島に人が住む以前には、他の名前があったのではないだろうか? 先ごろ亡くなった外間守善氏は「行き果ての『果て』を語根にした『果ての島』が語源であろうと考えている」「ハテあるいはハティに『鳩』の漢字を当てるようになってから、ハトと読み、発音するようになったものであろう」との見解を示していたという(『八重山 鳩間島民俗誌』)。
 ただ、これも根拠ははっきりしない。それに、鳩間島に「果ての島」のイメージがあったのだろうか。最果ての島と言えば、波照間島や与那国島があるからだ。





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