レキオ島唄アッチャー

盛り上がったビアドームライブ

 日航グランドキャッスルのスカイビアドームに糸満市「風は南から」ライブの常連さんとともに出かけた。毎年夏に一度、ここに集まるのが慣例になっている。通常は、Mrジョークマン(ふーみ)ライブの日だが、この日はフォークユニット「F&Y」でともに演奏するギターリスト、良明さんが加わった。 
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 三線で島唄ポップスも歌うので、あくまでMrジョークマンを良明さんがサポートするという位置付け。
 ステージ前にライブの仲間のみなさん8人が陣取った。ツレが体調を崩して参加できるか不安があったが、幸いなんとか参加できた。マンゴー農家のNさん夫妻はビアドーム初参加。お酒はまったく飲まないけれど、最前列で楽しんでいた。 
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 平日の木曜日だけれど、客席はほぼ満席の状態。職場の同僚グループも多い。
 ライブは、かぐや姫から始まり、NSP、アリス、拓郎や、洋楽ナンバー、それに島唄ポップスまで歌った。
 ふーみさんは、この日譜面立てには、いつもの楽譜がない。そのかわりタブレットが置かれていた。これで譜面をコピーして50音で出して見れるとのこと。お手軽で便利だ。

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 ライブは盛り上がり、糸満のお仲間が踊りだすと、若い女性や隣の席のお兄さん、おじさんたちも踊りだす。 
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 宮沢和史作の「島唄」はふーみさん単独でいつも歌うけれど、良明さんのエレキが入ったので、いつも以上に熱い演奏になった。
  F&Yライブではアンコール曲の「落陽」で終わろうとするが、アンコールの声が沸き上がり、ジュリーのナンバーを歌うとライブは最高潮。 
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 「サザンに便乗花火をやっていない!」の声が出て、最後にオリジナル曲まで演奏して終わった。 
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  料理もオリオンビールも美味しいので、ライブハウスとはまた違った楽しさ、魅力があるビアドームライブだった。

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パナリ焼とザンの島・新城島,その6

「世果報節」(ユガフブシ、上地島)

 新城島を発祥の地とする「世果報節」もよく知られている。
 『竹富町史第5巻 新城島』では、次のように解説している。
 新城島をたたえ、農作物の豊かな実りを予祝した、めでたい内容の歌詞である。豊年を迎え、上納も無事に済み、家々では残った五穀をシラ(稲叢のこと)にして蓄え、お酒を造って、老若うち揃ってうたい踊る様子がうたわれている。慶田城用舛が新城村の与人時代に作詞作曲したと伝えられている。 
 音階は八重山では珍しい律音階(※)で、三線の調弦は三下調である。曲名はうたいだしの囃子詞から、《サーサー節》とも呼ばれている。
結願祭にはこれに振り付けた舞踊が奉納される。
※律音階とは、主に雅楽や声明=しょうみょう=などで用いられる五音音階。洋楽階名のレ・ミ・ソ・ラ・シの5つの音からなる。
                 
                             世果報節
歌詞は次の通り。
1、サーサー (サーサー<囃子詞>) 以下ハヤシは略
むかしからとぅゆむ ぱなりでるしまや たかにくばくさでぃ スリ
 うやきめなし ウネ シタリガヨー ンゾ シトゥデントンテン
2、とぅしどぅしぬ むじくいや みぬり でぃきぃでむぬ すんじゃなしみむぬ うはちあぎら
3、やぐとぅくらぐらに ちんあますくくや さきみしゆちくり ゆわいあしば
4、しらぎゆきかめる とぅしゆりやあまた かみざしにいむり くくるうりしゃ
5、さんぬかじしらん ぱがむぬぬまぎり うたとぅさみしん たちゃいむちゃ

歌意は次の通り。
1、昔から評判の 新城島は 高根久(※)を腰当に(背にして) 裕福を前にしている
  ※高根久(タカニク)は人工的に石を積み上げて造った物見台のこと。
2、年毎の農作物は 稔り豊かである 首里加那志(国王)への貢物は 御初の米をあげましょう
3、各戸の倉々には 積み余った穀物は 酒や神酒を造り 祝して遊ぼう
4、白髪雪をいただいておられる 年寄は数多く 上座に仰いで 心嬉しいものである
5、数えきれないほどの 若者が集い 歌と三線に 踊ったり跳ねたり

 題名の通り、豊かな自分の島を褒め、豊穣の世を祝う内容である。豊作の時は、家ごと倉ごとに穀物を積み余し、お酒を造って祝ったことがうかがわれる。お年寄りを上座にかざって大事に扱い、若者たちは歌三線を奏して舞い踊り楽しんだ様子がつづられている。
  ところで、八重山古典の調弦法は本調子・二揚・一揚調・三下げ(一二揚)の4通りある。八重山は本調子と二揚曲がとっても多いなかで、この曲は唯一、珍しく三下げの曲である。なぜこの曲が三下げになったのだろうか。
この曲は、沖縄本島で「サーサー節」として歌われている。ただし、琉球古典音楽の「サアサア節」と民謡の「サーサー節」がある。古典の「サアサア節」は、新城島の「世果報節」のように、最初の歌いだしに「サアサア」と入らない。途中と終わりに「サアサア」と入る。囃子の使い方が異なる。なにより、旋律が「世果報節」とは似ていない。
民謡の「サーサー節」は、私も今を練習しているところだ。歌詞は「月の夜やさやか 寝ても寝てられない 友達を連れて 遊ぼう みんな近寄って来いよ 友達よ」というように月の夜に遊ぶ歌。まったく異なる内容だ。でも「世果報節」と同じく最初の歌いだしに「サーサー」と入る。曲の旋律が「世果報節」とほとんど一緒である。

  「世果報節」は村褒めの豊年予祝の歌だから、明るく、祝いの雰囲気で演奏する。だが、「サーサー節」は、しっとり情感豊かに歌えば聞き惚れる曲だ。同じ歌をベースにしていても、歌詞を変えて、少し編曲し演奏の仕方、歌い方を変えただけで、これほど違う印象になるのかと不思議な感じがする。それは「くいぬぱな節」でも同じである。
  「世果報節」が新城島で生まれた曲であることは確かだが、上原直彦氏は、ラジオの民謡番組で「サーサー節」を流した際に、奄美にも「大島サーサー節」という曲があると話していた。
『南島歌謡大成(奄美編)』『日本民謡大観(奄美諸島編)』をめくってみたが、その曲名は見当たらない。ネットで検索すると「ラジオ喜界島」の「喜界島の島唄」のなかに、喜界島志戸樋(シトオケ)集落の「サーサー(座踊り歌)」があった。録音を聞くことができる。とても軽快な曲だ。ただ、歌詞と解説はまだ記載がないので、聞いただけでは歌の内容までつかめない。囃子として、「サーサー」や「シトゥテンヨウテン」が使われている。この囃子は「世果報節」で使われている「サーサー」「シトゥデントンテン」と似ている。曲調、旋律は、あまり似ているわけではない。「サーサー」という囃子だけならどこにでもありそうだ。でも、「シトゥデントンテン」もいっしょに使われているとなると、はたして偶然なのか、それともなんらか影響があったのか。真相はいまのところ不明である。







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パナリ焼とザンの島・新城島、その5

 「くいぬ端節」(クイヌパナブシ)
 新城島を代表する民謡といえば、「くいぬ端節」だろう。この曲は、沖縄本島では「恋の花」としてまるっきり異なる歌詞で歌われている。私も民謡サークルではずっと歌ってきたが、八重山古典民謡の元歌は、歌いだしてまだ半年ほどである。
『竹富町史第5巻 新城島』では「越ぬ頂節」(上地島)として掲載されている。

《越ぬ頂節》は新城を代表する民謡である。歌詞は8・8・8・6音を基調として琉歌形式で、「~に登って~を見れば~である」という、国見歌の類型的表現を借りながら、クイヌパナから見た四方の景色や風物をおおらかにうたっている。
  第1節は布晒しをしているマカ女の姿、第2節はマチ男のタコ捕りの妙技、第3・4節は男(夫)が捕ったタコをクヤマ女に与えるのを見て嫉妬する妻の様子、第5節はユリの花に見紛うマル女のカカン、第6節は沖を走る帆掛け舟の情景、第7節は航海の予祝がうたわれている。
  とりわけ第7節で「かりゆし」の言葉とともに出てくる「いぬのかじ」も、航海の無事平安を予祝するめでたい語として、古くから使われていた語であることを記憶しておきたい。
 
 歌詞は次ぎの通りである。
1、くいぬぱなぬぶてぃ はまさきゆみりば まかがぬぬさらし みむぬでむぬ
2、うふいしにぬぶてぃ まいびしゆみりば まちがたくとぅりゃ  うむしりきょーぎん
3、まちがとぅたるたくや くやまにうちわたし うるいしとすいてぃ わたしゃるきにゃよ
4、すばにたちゅるひょうや りんちなむぬやりば なびとぅまかいすいてぃ うちわたきにゃよ
5、うふどぅむるぬぶてぃ あがるかいみりば ゆりやはなでぃみりば まるがかかん
6、たかにくにぬぶてぃ にしヰぬとぅゆみりば かたふぶにでぃみりば まふどぅやゆる
7、かりゆしぬふにや かりゆしなぬしヰてぃいぬぬかじでぃみりば  はるがちゅらさ
  
  歌意を紹介する。
1、クイヌパナに登って、浜崎(地名)を見ると、マカ(女の名)の布晒しは 見事なものである
2、大石に登って マイビシ(海の所名)を眺めると、マチ(男の名)の たこ捕りは 面白い狂言のようだ
3、マチが捕ったたこは クヤーマ(女の子)に打ち渡し、珊瑚石の付いたまま 渡して来たよ
4、側に立っていた本妻のヒョウは恪気な女なので、鍋や茶碗など一緒に 打ち割ってしまった
5、大道盛に登って 東の方を見れば、百合の花か見れば マルという女の 下裳(腰巻のようなもの)であった
6、高根久に登って 北方の海を見れば、片帆船(一本マスト)と見れば、 真帆船であった
7、嘉利吉(めでたい)の船は嘉利吉を乗せて 嘉利吉おだやかであれば 走る早さの見事さよ 
                      新城島 (2)
              民謡に歌われた「くいぬぱな」とそこからの眺め(『竹富町史第5巻新城島』から)
 この曲は、高い所から眺めた島の情景が歌われる。女性は布晒、男はタコ捕りをしていると島ののどかな風景を歌っているかと思うと、場面は一変する。
 男(夫)が他の女性に蛸やサンゴ石をあげて、妻が嫉妬に荒れ狂う。暮らしの必需品である鍋や椀を叩き割る。怒りの激しさが伝わる。これだけの短い歌のなかに、ドラマが凝縮されている。いかにも島の日常生活の中から生まれたなかなか面白い曲である。

 音階は琉球音階である。
 安里武康は、「《くいぬぱな節》は本調子の軽快なリズムで、歌も踊りも楽しいものです。島人の楽しい集いには雰囲気が頂点に達すると、どこからともなく自然に沸き起こり大合唱となる我が愛するパナリの歌です」と紹介している。
  新崎善仁は《越ぬ頂節》の面白さについて、「速度を早めれば『雑踊り』の伴奏に適し、また、ゆっくり弾奏すれば見事な琉球古典音楽に様変わりする独特な味をもっている。このような幅広い多様性をもっている民謡はそう簡単に創れるものではない」とのべている。
  結願祭ではこれに振り付けられた二才踊りが奉納される。 
 
 本島で歌われる「恋ぬ花」は、歌の内容はまるっきり異なる恋歌である。上手な人がしっとり歌うととても情感のある曲だと思う。ところが元歌の「くいぬぱな節」は「軽快なリズムで、歌も踊りも楽しいもの」と聞いて、意外な感じがした。でも、歌詞を見ればなるほど、と納得がいく。
 話しは、少し横道に入る。私が使っている工工四(クンクンシー、楽譜)は、大浜安伴さん編集のものであるが、3番の歌詞に「うるいしとすいてぃ」の部分を「居る石と添いてぃ」という漢字を当てている。「居る石」とはいったいなんだろうか、と歌うたびに疑問があった。『竹富町史第5巻 新城島』によれば「うるいし」とは珊瑚石のことだと解説している。それで歌の意味がわかった。
 「うる」とは砂・珊瑚を意味しているので、「居る」の字を当てるのは誤解をまねくのではないだろうか。當山善堂氏は『精選八重山古典民謡集(三)』で、「珊瑚石(うーるいし)とぅ添いてぃ」と表記し、「居る」ではなく「珊瑚」の字を当てている。
 八重山民謡は歌詞が長いので、全部は歌わず、省略するのが通例になっている。人によっては、この曲の3,4番の歌詞は下品だからといって飛ばして1,2番から5,6番に飛ばすことがある。でも、この曲の歌詞は、くいぬぱなから眺めた情景が描かれ、一つの物語のように展開される。男が他の女性と仲良くする光景を目にして嫉妬するシーンがとてもユニークで、意外性のある歌詞なので、これがないと面白味に欠ける。下品といえば、5番の歌詞のほうがもっと品がないと思う。でも、八重山の民謡は、性描写を含めて素朴でおおらかに描くところに、古い時代の歌謡が描く人間模様の面白さがあるように思う。
  この曲でもう一つ難問がある。6番の歌詞にある「片帆船と見れば、真帆船であった」というくだりをどう解釈するのかということである。
  喜舎場永珣氏は『八重山民謡誌』で、この曲について、次のように解説している。
「人頭税時代には新城島にかぎって、米石の外に『ザン魚』の肉(海馬)を首里王府へ献納する規定であったが、その捕獲する船は他船と異なり「一本マスト」、すなわち片帆船であった。
  自分の良人(おっと)が、献納ザン魚を捕りに行ったが、数日になるまで帰島しないので良人を愛する妻は、人目を忍んで一人北方にある高根久と称する「盛り」に登って、北方(石垣島方面)を展望していると、地平線上に帆がちらっと見えたので、これはまさしく我が良人のザン捕りの片帆船だと糠喜びしていた所、近づくにつれよく見れば、船は真帆であった。妻の失望落胆はいかばかりであったろうかの意」とのべている。
  ただ、當山善堂氏はこの解釈には「違和感があります」とする。片帆船を「ザン魚」と結びつけ、「良人を心配する妻」という解釈は「深読みしすぎではないか」と疑問を持っている。ただし、なお「検討・研究を深めたい」としている。
 「片帆船と思って見ていたら真帆船だった」という歌詞が、たんなる情景描写で、そこになんの意味合いもないとすれば、歌として単純すぎる。島の男たちがザン捕りに船で近海に出かけていた習俗からみて、妻が夫のことを心配して海を眺めることは日常の光景だったのではないか。ザン捕りから帰って来た船かと思って見ていたら、別の船でがっかりするということも、ありうることだろう。素人の私としては、喜舎場氏の解釈は捨てがたいと思う。この歌詞には、なんらかの背景があり、意味合いが込められているのではないか、と思うからである。

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パナリ焼とザンの島・新城島、その4

 新城島を舞台にした民謡
 八重山古典民謡を歌っていると、新城島を舞台にした曲がいくつもある。小さな島なのに、なんでこんなに名高い歌があるのだろうかと不思議に思うほどである。
 新城島と聞いて真っ先に思い浮かぶのが「仲筋ぬぬべーま節」である。でもこれは、新城島で作られ歌われている曲ではない。
 竹富島の曲である。なのになぜこの曲を最初に取り上げるのかといえば、これまで紹介したような島の特産であるパナリ焼や貢納布を織るのに必要な苧麻が歌われているからである。

 「仲筋ぬぬべーま節」は、パナリ焼と交換で新城村の与人(ユンチュ)の賄女になった竹富島仲筋のヌベマの悲話が歌われている。その物語を『竹富町史第5巻 新城島』の「パナリ焼とシルミブー(白身苧)」から紹介する。
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                哀切な情感がこもった「仲筋ぬぬべーま節」聞かせてくれる唱者、杉田園さん

  パナリ焼とシルミブー(白身苧)
  良い御用布を仕上げるためには、まず良質な苧麻を得ることが先決条件である。竹富島行政の最高役である玉得与人は、八重山では新城島の苧麻がもっとも良質でしかも長尺であることを知った。すなわち当時評判高かった新城島の白身苧(シルミブー)である。これで織った御用布は、色艶がまことに良いという評判であった。そこで、竹富島の玉得与人は新城島に渡り、新垣与人にこの良質の苧麻の種子をもらいうけること、あわせて新城島の新城焼の赤甕を竹富村番所にもらいうける交渉をはじめたのであった。ところが新垣与人も、玉得与人に対して望むものがあった。新城島には新垣与人のよき賄女がいないから、竹富島から適当な乙女を選んで贈与してほしいというのだ。村ではなかなか協議がまとまらず、ついに意を決して竹富村番所に奉公している仲筋部落出身の幸本大和の一人娘ヌベマを賄女に差し出すと決定してしまった。この玉得与人の万感胸にせまる感情がそのまま歌になったのが有名な『仲筋ヌヌベマ節』である。後任の与人は、ヌベマの悲哀な話を聞いて同情し、その犠牲的精神に感激して、沖縄への「銘入りの琉球焼の水甕」を注文し、ヌベマの生家・寺本家へ寄贈した。(元資料大浜信賢著「人頭税とヌベーマの悲劇」)

 琉球王府の時代、八重山の離島や石垣島の遠島地にある村番所に役人が派遣されていた。単身で赴任する役人の身の回りを世話する「賄い女」が置かれていた。賄いといっても、結局は現地妻である。
  竹富島の役人が、上納布の原料である苧麻と素焼き甕を得るために、産地である新城島(パナリ)の役人から条件として要求された「賄い女」の派遣を受け入れた。その犠牲になったのが仲筋のヌベーマだった。
歌詞は次の通り。
1、仲筋ぬぬべーま ふんかどぅぬ女童 スリヤゥ イユサーヤゥヒーユーサ
2、一人(プィトゥリャ)ある 女(ミドゥ)な子(ファ)た ヌギャ居る 
 肝(クィム)ぬ子 以下ハヤシ略
3、ぱなり夫(プドゥ)持つぁしょうり うどぅぎゃ夫持つぁしょうり
4、なゆぬわん持つぁしょうる 如何(イキャ)ぬつぃにゃん 持つぁしょうる
5、白ぬ苧(ブ)ぬゆやんどぅ 赤がみぬつぃにゃんどぅ
 
 歌詞を訳文で紹介する(同書から)。
 「♪仲筋村のヌベーマは その村の娘は 一人っ子の女の子であった たった独りの気に入り娘であった パナリ(新城島)の役人に嫁がせた 気に入りの夫に嫁がせた 何ゆえに嫁がせたのか いかなる理由で嫁がせたのか ブー(苧麻)を手に入れるために 素焼きの水瓶を得るために」
 
 この曲は、「一人娘を送り出した親の自責の念と娘への憐憫の情が、ひきしまった旋律に乗せて描かれている」(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』)といわれる。
 ただ、自分でいざ歌おうとすると、節回しがなかなか難しくていまだに歌いこなせない。しかし、プロが歌うと、とっても哀切な感じが伝わる悲曲である。


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パナリ焼とザンの島・新城島、その3

人頭税時代と新城島の暮らし
 『竹富町史第5巻 新城島』から紹介する。
 1750年(乾隆15)5月3日付けの「覚」…には新城村の与人(ユンチュ、村長格)や目差(メサシ、助役格)らがその前年に蔵元に提出した「覚」も添付されていた。その「覚」によると、新城島はもともと土地が狭い上に、石ころだらけの痩せ地であった。他の村に比べると、同じ面積の土地を耕すにも2倍の労力を要し、しかも収穫は5分の1程度であった。
 そこで百姓たちは、1722年(康熙61)に古見村(西表島)の「崎枝」に通って耕作するようになった。新城島では、水も塩分の濃度が高かったので、生活用水は「崎枝」から運んでいた。また、薪も少なかったので古見から採って来た。それでも農業だけでは生活するのは難しかったので、水甕や炉や土鍋などの焼物をつくったり、筵(ムシロ)や箕(ミノ)などの農具を作って、石垣島や西表島の村々で売り歩いて生活の足しにしていた。1739年から1746年の間に数回も「大風」(台風)に見舞われたので、百姓らは草の葉やそてつなどを食べて生き延びた。
 (注・西表島の大野ヤスラ、仲間野、崎枝、やしら野に通って作物を作り、南風見にも耕作地があった。
家を造る材木や、通耕に必要な舟を造るための材木なども切り出した。)

 明和の大津波
 大きな被害を受けたのは、離島では黒島と新城島であった。両島とも平坦な小島であった 新城島の人口554人(男305人、女249人)の内205人(男70人、女135人)が溺死した。島の総人口の37%にあたる。住家全壊は184戸、畑の流失は100町歩に及んでいる。349人が生き残り、もとのとおりに村を再建した。
 新城島の人口は、疫病などで減少し続け、1873年(明治6)には167人となった。その後、人口は徐々に増えて1933年(昭和8)には最高の555人となり、大津波前の人口を上回った。 
                       ジュゴン、鳥羽水族館
                   ジュゴン(鳥羽水族館HPから)
 ザンの捕獲から(島人の暮らし)
 昔の新城島では焼畑農業が行われ、毎年10月頃から荒野を焼き払い開墾し、粟播きをするが、粟播きが終わると、旧暦1月頃にかけて、厳しい冬の寒さにもめげず、海を渡ってソーデー(現在の西表島大原)に、近親者同士でグループをつくり男世帯で泊まり込み、田植えをした。田植えが済むと休養を取る暇もなく、1週間から10日くらい島を離れ、西表島、小浜島、石垣島の沿岸を次から次へと回航し、ザン捕りに精を出したという。

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パナリ焼とザンの島・新城島、その2

  貢物となったザン(ジュゴン) 
 人頭税といえば、新城島の人たちは、他島の人にはない上納品が義務づけられていた。「ザン」と島の人たちが呼ぶジュゴン(海馬,儒)である。
 新城島の近海にはザンがよく現れたらしい。琉球王府時代に島の人々は、特別の海上権を与えられて人頭税としてザンを献納するよう特命をうけていた。島は両島とも土壌が浅くて農耕に適せず、用水は塩気が強くて水田もなく、稲作ができなかった。そのため人頭税が上納できない状況であった。そこで王府からザンを献納するように示達された。
 だが、それはどこにでもいるものではない。両島人は粟播きや、西表島における通耕の田植えが終わると、1週間から10日間も島を離れ、西表島、小浜島、石垣島の沿岸を次から次へと回航して探した。八重山では新城島の近海から西表島の南東側一帯の海に好物の海藻が豊富なため、たくさん生息していたらしい。
 捕獲するとき、屈強な男たちが三反帆船に乗り、ザンが海藻を食べたあとにアダナス(アダンの気根)で出来た網を張り巡らしておく。いったん引き揚げ、ザン漁の大漁を祈願したというアールウガン(磯御嶽・東御嶽)で大漁祈願をし、神前の斧と鉈を受け取り、再び海に出て漁場の網に入ったザンに近寄り、尾部の急所を一撃する。飛び上がって空中で一回転して落ちたところを皆で捕獲する。
 捕獲したザンを島に持ち帰ると、御嶽で待ち受ける人たちの手で解体された。王府では安産の妙薬として、その乾燥肉を珍重したらしい。そして、肉は石垣島の蔵元を通して琉球王府の国王に献上した。頭や骨は大願成就のしるしに、アールウガンに奉納された。戦前までその骨が残っていたらしいが、今では見ることはできない。
 ザンの頭蓋骨は、上地島ではアールウガンに奉納した。下地島ではナナゾウワン(七門御嶽)に奉納し、それぞれ豊漁と操業の安全を祈願した。また、節祭にはザンを捕る内容の歌謡がユークイ(世乞い)とともにうたわれている。ザンの頭蓋骨を奉納し、御嶽信仰で尊崇している所は、沖縄では新城島の両島だけである。

 人頭税に泣いた島
 山のないパナリには、昔から田んぼはなく、農耕はもっぱら黍や粟などが中心であった。それも昔は焼畑式の農耕であった。八重山では古くから島々を野国島(ヌングン島)、田国島(タングン島)とふたつに分けていたといわれる。山のある石垣島や西表島は田国島、隆起サンゴからなる、その他の島々(竹富島、黒島、新城島、鳩間島、波照間島が相当する)は野国島である。
 新城島では西表島に稲の出つくりをするようになったのは、近世以降のことである。おそらくは人頭税制が敷かれてからであろう。1637年(崇徳2)に制度化された人頭税は、15歳~50歳までの男女一人一人に税を課すというものであったが、その税は重く農民を苦しめた。とりわけ米のとれぬ土地に対しても貢物を課したこの税制は、新城島の人たちに海を渡って西表島に米をつくりに行くことを余儀なくさせたのであった(三木健著「パナリ島 廃校への軌跡」『coralway』1987年1-2月号)


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パナリ焼とザンの島・新城島、その1

パナリ焼とザンの島・新城島

 八重山諸島のなかで大きな西表島と黒島の間に二つの小さな島がある。俗称パナリと呼ばれる新城島(アラグスクジマ)である。二つの島の名は、上地島と下地島という。
 18世紀には人口が、両島合わせて最高705人いたこともあったが、現在、下地島は無人島になり、2013年5月末現在、両島含めて18人である。小さな島だけれど、八重山古典民謡を歌っていると、新城島を舞台にした曲がいくつかあり、興味を持っていた。しかも、琉球王府の時代から「パナリ焼」で知られていた。もう一つ、ジュゴン(ザン)を捕り王府に上納することが義務づけられていたことでも記憶されている。
  『竹富町史第5巻 新城島』を読んでみると「パナリ焼の里とザンの島」が島のキャッチフレーズになっていた。
なぜ新城島が「パナリ」と呼ばれるのか。島が二つに離れているからという説がある。そうではなく、八重山が6間切(マギリ、いまの町村)時代に、上地、下地両島が属していた黒島島嶼から「離れ(パナリ)」と呼ばれていたことが語源と考えられるという(同書)。
 本書のなかから、関心のあるパナリ焼とザン、民謡にかかわるところを中心にかいつまんで紹介する。 
                    新城島、パナリ焼展示館から
                     上地島と下地島からなる新城島(「パナリ焼展示館」から)                         
 パナリ焼
 近世から近代にかけて八重山諸島を代表する土器といわれ、パナリ焼という。
起源は明らかではないが、一説では中国からの漂着人によって伝えられたのではないか、ともいわれている。樹液をすり、手びねりで形を作り、それを露天で茅やススキの火で焼成した弱くて脆い焼物で、今でも現物を見ることができる。
 『参遣状』(八重山と首里王府の報復文書集)によれば、島は農業も水も続かないのでパナリ焼を作って村々島々で商いして生活していたとある。その種類も鍋、釜、水がめ、たらい、骨壺、香炉、花活けなど多数に上る。
 人頭税時代は貢納品として作られていたようで、宮良家の家譜と子孫の伝承によると、新城与人(ユンチュ、村長格)であった宮良信包が蔵元に申請して人頭税としてのパナリ焼は廃止された。焼物は1857年(咸豊7)ころまで焼かれていたようである。その後、年貢は粟貢に変更されたと伝えられている。
 下地島では、ナナゾウワン(七門御嶽)の南側や井戸端付近に焼き窯の跡があった。上地島でも焼いた形跡は3、4カ所ほどある。
 人頭税時代にパナリ焼にまつわる男女の哀話がある。それはパナリ焼と交換された女性が一生を台無しにされた話として有名である。そのことは竹富島の民謡(仲筋ぬヌベーマ)としてうたわれている。 
                    骨壺として使われたパナリ土器(復元)、パナリ焼展示館から
           骨壺として使われたパナリ土器(復元)=「パナリ焼展示館」から

 新城島とパナリ焼
 「島が小さいため、粘土が発見されなかった。土に粘着力が無ければ焼物にならない。そこで島人は考へた。土に粘着力をもたらすために蝸牛を入れて搗き交ぜることにした。之で色々の器物の形を作、蔭干しにして窯に入れ、藷蔓や豆蔓などを3日3夜焚いて漸く焼き上げた」(宮良當壮の「八重山群島の土俗工芸」)
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』に「古老の伝承」が登場する。
  「パナリ焼は昔支那(中国)人が新城島に漂着してきて、土地の女を妻にめとり島に定住した。その人物が伝えた焼物である。島の土は粗悪で粘土を捏ねても粘着力がないため、草木の粘液を混ぜて捏ねた上に、内外側にはカタツムリや貝肉などの粘液をすり塗って、茅やススキで焼いたものであると語った」
  <なぜ、小さな島で焼物が発達したのか不思議だった。中国から伝わったという伝承があるそうだ。それにしても、島には焼物に適した粘土があったのかと想像していたが、そうではない。土に粘着力を持たせるために、並々ならぬ苦労があったことがうかがえる。それにしても、カタツムリが使われたというのは、ビックリである>

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ジョン万次郎は粟国島に上陸?、その4

 『球陽』には合致する記録が見当たらない
  これまでのべた特徴をふまえながら、万次郎がフランクリン号で航行し、上陸した「マンビコシン」はどこなのかを考えたい。
万次郎が上陸したのは1847年であるが、『球陽』の異国船の渡来でこの年に記述があるのは粟国島である。だが、この時に記録では、上陸した人数やもらった牛、羊の数が違い過ぎる。この時は強引なやり方もとっているので、万次郎上陸の話とは合致しない。
 この年には、他に沖縄本島近くの離島への異国船の上陸の記載はない。だから、万次郎が上陸した年は、これに合致する『球陽』の記録は残されていないことになる。
  また粟国島の伝説に見合った事例は『球陽』に記載が見当たらない。なぜ、島の役人が対応し、伝説が残されているのに、史書に記載がないのか不明である。
 
 『球陽』に記載がないといっても、万次郎が上陸した事実は確かである。
  年代は別にして、万次郎たちが上陸した際の人数やボートの数、もらった牛の数など手がかりとなる事項を、『球陽』の異国船の上陸の記述と比べてみた。しかし、どうも一致するケースが見当たらない。唯一、上陸人数が6人と一致する久米島上陸は、1846年で1年前になる。もらった牛が1頭で合わない。
 『球陽』のなかに、万次郎が上陸した「マンビコシン」と一致する記述がないとすれば、『球陽』の記載以外にもまだ異国船の上陸の事例があることになる。その点では、年代は不明であるが、上陸した時の情報が近似しいている事例が粟国島の伝説である。
                    ホイットフィールド船長万次郎と
     洋装の万次郎(ホイットフィールド船長との再会の写真と見られる)
 船長とともに上陸した万次郎は、服装などが異国風なので外国人と見られるだろう。ボートは1隻で一致する。上陸した人数は、粟国島伝説では3人、フランクリン号からは6人であり、多少の違いはある。粟国島はあくまで伝説であり、異国人の人数は、正確ではないかもしれない。少人数という点では共通点もある。
  もらった牛が2頭であることも一致する。伝説を読む限り、言葉が通じなかったが、あまり強引なやり方で牛を奪ったということにはなっていない。
  年代について、島の伝説を聴取した1981年の時点で100年以上前のことだとしている。万次郎が上陸したのは1847年だとすれば135年前となり、年代的には許容の範囲といえるだろう。
  数百年昔の伝説と違い、135年くらい前だと、伝説はそうとう史実に近いと思われる。万次郎が上陸した「マンビコシン」という地名の離島はない。  以上のべたことから、粟国島の「ウランダー来訪」の伝説は、万次郎が最初に上陸した琉球の島として、粟国島もその候補の一つではないか。これが私の勝手な推測である。
終わり

追記
 この後、沖縄電力元会長で万次郎を研究している當眞嗣吉さんが『土佐史談』の中浜万次郎特集号に発表した論考で、万次郎が最初に上陸したという「マンビコミレ」(當眞氏は、マンビコシンは間違いだとされる)とは伊平屋島であることを論証した。また久米島にも上陸したとしている。これまで謎とされてきた問題を解明する説得力のある論考である。私のブログの内容はもう意味をなさないものであるが、粟国島にも面白い伝承があることを紹介する意味でそのままにしておきたい。
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ジョン万次郎は粟国島に上陸?その3

 異国船が相次ぎ本島周辺の離島に上陸
  ジョン万次郎が最初に上陸した島がどこだったのか、いまだ不明だが、琉球の離島に異国船がやってきて、上陸して食糧などもらっていくということは、島民にとっては一大事件である。だから万次郎側の記録だけでなく、琉球側でもなんらかの形で記録や伝承が残っているはずである。なにも史実を伝えるものがないということはおかしいことである。
 19世紀は、フランス、イギリス、アメリカなど外国船が琉球にしばしばやってきた。王府の史書『球陽』を見ると、沖縄本島の近海の久米島や渡名喜島、粟国島、伊平屋島などに上陸した記録は、私が予想した以上に多い。八重山諸島にもたびたび来ているが、ここでは省略する。
 1842年4月3日、久米島に異国船1隻が来て、15名が杉板(はしけ、ボート)2隻で浜に着き、野飼の牛1頭、羊2頭を奪っていった。
同年4月17日、久米島に異国大船2隻が渡来し、13名がボート2隻で来て、牛1頭、羊1頭を与えた。その後も22名がボート3隻で渡来し、牛1頭、サツマイモなど与えた。他の浜にも来て、牛1頭、羊1頭、サツマイモなど与えた。 
 同年5月、渡名喜島に阿蘭陀船(異国船)1隻が渡来し、27名がボート4隻でやってきた。牛1頭、羊3頭、サツマイモ50斤を与えた。
                粟国村観光協会

             粟国島(粟国村観光協会HPから)
 同年9月に久米島に渡来した異国船は28名が4隻のボートでやってきた。牛3頭を与えたが、少ないと村内に侵入したので豚6頭、羊1頭、サツマイモ、野菜など与えた。まだ民家に侵入するので、牛1頭を加えて与え、やっと去っていった。
 1844年2月、久米島に異国船が渡来。22名がボート2隻で着き、牛4頭を与えたがなお足りないと村内に侵入し、飼っている豚2頭、羊5頭、野菜を奪った。なお足りない牛1頭を求めるのでやむを得ず与えた。
 1846年には久米島に3回もやって来た。3月17日、17名がボート3隻で来て牛4頭を与えた。4月5日、6名がボート1隻で上陸し、牛3頭を与えた。4月8日、18名がボート3隻で上陸し牛2頭を与えた。
 1847年4月、粟国島に西洋船が到来し、23名がボート3隻で上陸し、牛3頭、羊2頭、小麦2包を与えても、足りないと村に侵入。さらに牛3頭、羊4頭、小麦4包、煙草など与えた。 
 以上は尚育王の時代である。次の尚泰王の時代も、渡来は続く。
 1848年3月10日、異国船が来て19名がボート3隻で上陸し、牛2頭を与えた。
同年3月25日、伊平屋島に異国船が渡来し、28名がボート4隻で上陸した。牛2頭、羊3頭、猪2頭、鶏23羽、麦56束、野菜を与えた。遠目鏡1個、剃刀1個を謝礼した。
 同年4月、久米島に異国船から7名がボート1隻で来た。飼羊草料を請求するので与えた。
このように、頻繁に異国船が離島にやってきた。ただし、同じ期間に座間味島や渡嘉敷島にはなぜか渡来した記録が見当たらない。

 『球陽』に記載された異国船の上陸の記事を読むと、次のような特徴がある。
 上陸人数は、15~28人という大人数の例が大半であること。ボートの数も2-4隻という複数で来ている例が多い。
 上陸は食糧の補給が目的なのか、牛や羊、豚などの提供を要求し、島人にとってはとても貴重な家畜を複数でもらい受けていること。記録で羊とあるのは、実際は山羊のことではないだろうか。沖縄で羊はあまり飼育していなくて、山羊が多いからだ。
 提供を受けてもなお、足りないといって、村内に侵入して、民家まで物色して、牛、羊などを追加させたり、島人の同意なしに奪うなど、そうとう強引な方法で持ち去った例がある。
 沖縄本島に近い慶良間諸島ではなく、本島周辺の少し離れた久米島、粟国島、渡名喜島、伊平屋島などへの渡来が多い。外国船の航路の都合と関係があるのだろうか。

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ジョン万次郎は粟国島に上陸?、その2

 次に、ジョン万次郎が琉球列島の島に最初に上陸した経過と上陸したときの模様を紹介する。
  万次郎はアメリカの捕鯨船フランクリン号の船員となり、1847年インド洋を航行し、グアム島に寄港した。停泊中にホイットフィールド船長宛に手紙を書いた。これから琉球に行くことを告げ、「日本の琉球列島に向います。そして無事上陸できたらと望んでいます。捕鯨船が補給を受けられるよう、港を開くようにさせたいと思っています」と記してある。

 マンビコシンに上陸し牛2頭もらう
 「小笠原諸島のピール島を離れたフランクリン号は、真西に向って琉球諸島の中の一つの小島、マンビコシンの沖に達します。ボートをおろしてデビス船長は、万次郎たち6人を連れて上陸しました。役人らしい人がやって来て、砂浜にムシロを敷いて腰をおろし、船から来た人々と談話を試みるのですが、話がちっとも通じません。船長から求められるのですが、万次郎にも通訳のしようもないのです。
                 ジョン万次郎 中浜万次郎

 そのうちに、もう少し上級の役人らしい人が、農民に牡牛2頭をひかせてやって来ました。牛を進上するという手真似です。船長は船から持って来た木綿4反を返礼として贈りました。それ以上島にいたら迷惑になるようなようすなので、2頭の牛を船に積んでまもなく出帆。航路を東に引き返す」(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。

 万次郎が上陸したマンビコシンは沖縄のどこだったのかいまだ確定されていない。さまざまな説があり、渡嘉敷島だったと書いた著書(長田亮一著『ジョン万次郎物語』)もある。
 粟国島の伝説で、「人喰い島の唐船」と言っているのは、外国人を恐れる表現である。実際は「アメリカ―だったんじゃないか」と述べているようにアメリカ人がいたと思われる。「ウランダー」というのは、沖縄では西洋人を総称する表現であり、アメリカ人でも「オランダ人=ウランダー」と呼んだからである。

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