レキオ島唄アッチャー

伊江島の祭祀「大折目」、その2

 大折目は伊江島最大の年中行事
 伊江島の大折目(ウプウィミ)とは、どのように行われたのか。
「大折目は島最大の年中行事である。7月下旬闇夜に行われた3日間にわたる祭事である」(『伊江村史』)
『琉球国由来記』にその概要が記載されている。訳文で示す。
七月に日を撰んで行われる大折目は、根所火神の前にノロ(注・神女)・掟神、オタカベ(お崇)をし、朝から晩まで根所を廻り、一日中遊ぶ。百姓も同じように遊ぶ。
二日目の折目はマイスカミヤという根所へ、ノロ・掟神が揃い、神遊びをするのに高1石につき粟1勺、干魚2匁づつ取り合わせ、粟神酒を作り、ノロ・掟神に御馳走する。島中の男女、そして惣様も揃って拝みをして、一日遊ぶ。
三日目の折目は、根所、宮里庭・城の庭の両所でノロ・掟神が揃って神遊び、そのとき高1石につき、粟1勺、干魚2匁づつ取り合わせ、粟神酒を作り御馳走をする。この3日の折目は昔から伝わり、今も行われている。
訳文は「今帰仁村歴史文化センター」HPを参考にした。 
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                富里にて立ち祝女(ノロ、神女)の儀式(『目で見る大折目』から)

 大折目の祭祀の流れを、改めて簡単に言えば次のようになる。
1日目は、ニャーグニで神祭りをする場所を浄める。
2日目は、来訪神を迎え、神遊びを行うことによって、来訪神のお力を村に迎え入れる。
3日目は、来訪神をニライカナイへ送る。
この祭祀では、居ノロと立ちノロがいる。居ノロは土着の神であり、ホールンチャプイという草冠を被る。立ちノロは来訪神であり、スィギンチャプイという草冠を被り、手に弓を持つ。
「大折目祭祀は、来訪神を土着神が迎え神遊びをすることにより、村に世果報をもたらせる祭祀ということができる」(武藤美也子著「伊江島の大折目(ウプウイミ)」)。
世果報(ユガフウ)とは、平和で豊穣な世を意味する。

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狂乱のF&Yライブ

 暑い暑い夏の夜はライブが一番。というわけで、糸満市「風は南から」で毎月恒例のフォークユニット「F&Y」のライブに出かけた。 
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 お馴染みのかぐや姫から始まり、NSP、アリス、洋楽ナンバーなど歌う。
 普段は常連さんが座る左側前方の席は予約の客で埋まっていた。そのうち、二次会らしいグループが入って来て、満員状態になる。
 フォークライブにしては珍しい若い世代が多い。それに、F&Yはいつもは女性が圧倒的に多いのに、この日は年配男性も多い。 
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 F&Yも若い客に気を使い、「なごり雪」など知られたヒット曲やおじさんたりのリクエストに応え「夢一夜」なども歌う。
 ライブも大詰めを迎え、ふきのとうの「春雷」や沖縄出身の「フィンガー5」のヒット曲「恋のテレホン6700」「学園天国」に入ると、奇声、歓声と指笛が鳴り響き、踊り騒ぎ狂乱状態になる。 
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 いくら「フィンガー5」が沖縄出身グループといっても70年代に活躍したので若者は生まれていない。でも、それは関係ない。みんなが盛り上がる。ライブの力だ。 
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 F&Yもテンションはアゲアゲとなった。
 「ふーみさん」は、体調がおかしくて月曜日のラジオ番組も休んだので、心配していたが、元気な歌と演奏で一安心したライブだった。
 
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伊江島の祭祀「大折目」、その1

伊江島の祭祀「大折目」

 『伊江村史』を読んでいると、「第4篇歳時記」の項に「大折目(ウプウィミ)」という祭祀が詳細に記載されていた。伊江島ではとても重要な祭祀であるという。でも、沖縄の祭りと言えば豊年祭、節祭、海神祭、種子取祭などは有名であるが「大折目」という名称は寡聞にして聞いたことがなかった。あまり祭らしくない名称なので、いまいちイメージがわかない。『伊江村史』とほかの資料を併せて読んでみて、ようやく祭りの様子が分かりかけてきた。島の人や沖縄の祭祀に詳しい人にとっては、「なんだ、今頃」ということだろうが、私のような素人で、祭祀にも興味がある人のために、簡略であるが、分かる範囲で紹介しておきたい。

 折目とは何か
 まずは、伊江島の「大折目」の前に「折目(ウイミ)」とは何かを見ておきたい。
 「生産と結びついた季節の折目で、豊年祭や予祝行事など、季節的祭事の日。すべて旧暦によって日が定められている。ウイミ、シチビ(節日)、キジャリ(刻み)などという。またこの日は生産を休むので、アシビ(遊び)とも称した」
 『沖縄コンパクト事典』では、このように解説している。
 「年中行事のなかで、生産休養日の“遊び”をともなう収穫祭や予祝行事の日。沖縄ではウイミまたは節目(シチビ)、奄美ではオンメ、宮古・八重山ではキジャリと呼ぶ。なお生産年の交替を祝う大折目を沖縄県本部半島地域ではウフユミという」
 『沖縄大百科事典』も、同様の解説がされている。
 要するに、季節の節目に豊年祭や予祝行事を行う祭事の日のこと、仕事を休んで楽しむので「遊び(アシビ)」とも称した。季節の節目なので「折目」と称されたという。  
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          冨里における儀式(伊江村教育委員会発行『目で見る大折目』から)


 折目の祭祀には、歴史的な経過、背景があるようだ。
「季節ごとに行われる祭りのこと。昔の沖縄は貧しくて、必要なカロリーを十分取っておらず、一般の人々の健康を向上させるために、沖縄の政治家達が、季節季節の折りに触れてお祭りを盛んにするように達しを出した。日頃食べられない肉や豆腐、魚など山や海の珍味のご馳走を祖先や神様に供え、そのお下がりを家族や親類で食べて栄養をみたすように仕向けた。その行事を折目(うゆみ)と言うようになった」(「日刊okimag」HP「沖縄の民話」から)
 
 沖縄の政治家とは誰か。『伊江村史』では、首里王府で1666年に摂政となり、数々の改革を行った羽地朝秀の名を上げている。
 「大政治家羽地王子朝秀が出て世の立て直しをした。彼は従来薩摩が許さなかった開墾を請うて許されたので大いに開墾奨励をして生産をあげた。また百姓の労苦を思い折目(ヲリメ)を設けて御馳走することを許した。折目行事はこれから始まるという。(『伊江村史』)
 折目を設けて祭りを盛んにして、百姓たちがご馳走を神や祖先に供え、家族、親類でも食べるようにしたという。折目は、伊江島特有のものではない。ただ、伊江島では「大折目」の名称で続けられ、それも伊江島ならではの特色ある祭祀となっていることが注目される。

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沖縄戦70年、胸騒ぎを覚える

 6月23日は、沖縄戦の組織的戦闘が終わった「慰霊の日」とされる。今年は沖縄戦から70年という節目の年である。
 慰霊の日を迎えた県民の感想でことし、目をひくのは「胸騒ぎを覚える」という言葉である。
 住民をまきこんだ地獄のような戦争で、家族をや友人、同郷の人々など失って、やっと生き残った人々が、70年を経てまた「胸騒ぎを覚える」というのは、尋常でない。
 それは、なによりも安倍政権が「戦争法案」の成立を狙っているからだ。戦後70年、戦争で殺し、殺されることがなかったこの国で、再び殺し、殺される危険な道に踏み入れようとしている。
 そんなことを考えると、「怖くて子供を産めない」という若いママさんの声も出ている。
 とくに沖縄は、「戦争法案」と深いかかわりがある。
 この法案では、アメリカに追随して、海外で米軍の後方支援(兵站)に踏み出す。日本が攻撃されてなくて、集団的自衛権の行使だといって、武力の行使に踏み出すなどなど。
 その米軍は、沖縄からアジア各地に出撃する。沖縄の米軍はつねに「戦時」にある。
 辺野古への新基地建設も、危険で老朽化している普天間飛行場を軍港を供えた巨大新基地に作り替えるためだ。
 自衛隊も、与那国島、石垣島、宮古島への配備計画を進めている。これらも「戦争法案」の一体のものだ。
 こんな動きがあるから、「戦争法案」はリアリティをもって県民に胸騒ぎを感じさせているのだろう。  
 再び、日本が戦争する国にしてはならない、憲法9条を守れ、 辺野古新基地の建設は止めよ、というのは沖縄では県民多数の願いではないだろうか。
 今朝の「琉球新報」社説は「犠牲の再来 許さない」である。


 
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SSカンパニー、具志川ジャスコでライブ

 沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーのライブがうるま市の具志川ジャスコであり、休みの日なのでドライブがてら出かけた。 
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 ショッピングセンターなので、ライブは無料。SSカンパニーは、父の日には昨年に続いて演奏に招かれた。
 午後2時、4時の2回のライブがあった。開演前からたくさんつめかけていた。RBCラジオ「団塊花盛り」のGSコーナー「あの時君は若かった」を聞いているという人も結構多かった。 
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 なかには横浜から来ているリスナーもいて、その方のリクエスト「君に会いたい」からライブがスタートした。「ブルーシャトウ」「マリアの泉」「シーサイドバウンド」などGSナンバーだけではなく、「サボテンの花」「ケメコの歌」なども歌った。
 最前列には、「SSカンパニー」応援の特製団扇を用意してきた女性陣が陣取り、盛り上げた。
 オリジナルの佐敷幼稚園では、恒例の人間汽車ポポの踊りの列に次々に人々が加わり、会場内を練り歩き、大受けだった。
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 2回目のステージでは、熱烈なSSファンである恩納村の「ナヴィーズ」のメンバーがかけつけた。
 正面で歓声をあげながらダンシング。最後のオリジナル曲「また逢おうね」では、最高潮に達した。 
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 予定外だったというアンコールの声には、進行担当から「時間はある」とのゴーサインがあり「何もいえなくて夏」を歌いあげた。
 ライブのあと、SSカンパニーのメンバーが揃ってCD販売をすると、買い求める人たちの行列ができた。 
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 私の隣に座っていたおじさんも、拍手をしながら聞いていたが、終わるとさっそくCDを買い求めた。GSは幅広い年代の人たちに愛されているようだ。
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奇怪な米大使との初会談

 翁長雄志沖縄県知事が19日、初めてケネディ駐米大使と同大使館で会談した。報道によると、会談はとても興味深いところがある。
というのは、翁長氏が、米軍普天間飛行場の辺野古新基地建設に反対する県民の民意と自分の意志を伝えたのに対して、大使は「在日米軍のプレゼンスを継続していく必要がある」とのべただけで、辺野古新基地建設への賛否、自分の考えは述べなかったという。
 これは沖縄側の出席者が確認していることだ。ところが、大使館は会談直後に、辺野古移設は「唯一の解決策であると表明した」という報道発表を出した。いくら非公開の会談といっても、県知事と米大使の公式の会談である。大使が発言してもいないことを「表明した」と発表するとは異例中の異例だ。というより奇怪なことである。
 ケネディ大使が自分の口から普天間飛行場の問題をのべなかったことは残念である。翁長氏が何を言いたいのか事前にわかりすぎるほどわかっているので、その対応については、十分検討したはずなのに、沈黙したのはとても不思議である。
 考えようによっては、この問題で沈黙したということは、辺野古移設を「唯一の解決策」と固執する日米両政府の態度を繰り返すことを避けたい、内心では同意していないということだろうか。そんな憶測も出かねない。
 だから米大使館側は、発言もしていないことを「表明した」ことにしたかったのだろうか。会談直後の発表だけに、あらかじめ発表分は準備していたと思われる。
 いずれにしても、米大使館側は沖縄県民の圧倒的な民意とそれをバックにしてアメリカ側に迫る翁長知事に対して、とても警戒していることは確かだ。沖縄県民の世論の高揚を恐れているということでもあるだろう。
 ケネディ大使は、ぜひ一度、普天間飛行場と辺野古の現場を訪れて、この誰が考えても愚かでばかばかしい新基地建設の現実を直視してほしい。
 
 
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壺川地域福祉まつりで湧川明の唄を聞く

 壺川地域福祉まつりが19日から始まった。今回第8回になる。前はセンターまつりの名称だったが、「地域福祉まつり」と改称してから8回目となる。
 壺川の祭りは、プロの民謡歌手をゲストに招くのが恒例だ。今回は、湧川明といつみグループの民謡ショーがあるので出かけた。 
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 湧川さんは三線の名手と言われる。湧川さんの三線伴奏で、お弟子さんらしい女性たち3人の「いつみグループ」が歌った。
後半は、湧川さんの歌三線だ。「北谷舞方(チャタンメーカタ)」や「北谷真牛(チャタンモウシ)」など歌った。 
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 「北谷舞方」は、毛御前風とも呼ばれている。古典音楽の「かぎやで風」を、民謡の大家たちが毛遊び(モーアシビ、野原で歌い踊り遊ぶ)に合うように編曲して作りあげた曲という。北谷は、毛遊びがとても盛んだったそうだ。
 速弾きなので、聞いていたおばあちゃんたちも立ち上がり、舞台前に出たり、なかには舞台に上がってカチャーシーを舞い踊る。
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 「北谷真牛」は一転して、しっとり聞かせる情け歌である。
 真牛は、恩納ナビー、吉屋チルーとともに琉球三大歌人の一人に数えられる。絶世の美声をもつ唱者だったという伝説的な女性である。
 湧川さんの作詞作曲した歌だという。
 「飛んでいる鳥も中空で止まって、歌いだす歌声に聞き惚れる。その人は大川城の北谷真牛です」
 「三線に合わせて、美しい旋律で月も共鳴するその人は北谷真牛です」
 「歌声の美しいことは、島々の隅々まで伝わって最後は北山城で咲き散った人は北谷真牛」
 こんな歌詞が並ぶ。
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 真牛は、生没年未詳。北谷出身で、北谷城の中腹にある墓に葬られていると伝えられている。一方、北部の本部町伊野波(イノハ)の北谷屋の出身で、その美声をもって北山に伝えていたとの伝承もあるそうだ。

 琉球古典音楽の「百名節」で「北谷真牛金(敬称)が歌を歌いだすと 空を飛ぶ鳥も止まって聞くよ」と歌っている。旋律もとても湧川さん作の「北谷真牛」と似ている。
 湧川さんのナマ演奏は初めて見た。「北谷真牛」はとてもいい曲だった。
 センター利用者の芸能も見たいものがあったが、時間がないので残念ながら失礼した。
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竹下和平さんが語る奄美島唄の魅力


奄美民謡竹下流の師匠、竹下和平さんが奄美シマ唄について語った『唱者竹下和平 シマ唄語り』を読んだ。同じ南西諸島にあり、琉球文化の影響を受けた奄美諸島だが、奄美のシマ唄は沖縄の民謡とはまったく異なる独特の魅力がある。竹下氏の語りは、とても含蓄のある話でどれもとても興味深かった。お話は多岐にわたるので、ここでは、奄美独特の裏声や節回しにかかわることだけをピックアップして紹介する。以下、語るのは竹下さん。インタビュアーは、清眞人さんである。
 
 裏声唱法
 とても面白い問題は、奄美の宗教や文化は琉球の時代に沖縄から大変影響を受けたし共通なものが大変多いにもかかわらず、歌謡文化は相当違うという点ですね。まず、あっちはいわゆる琉球音階で奄美は大和、つまり本州と同じだから、聴いたらいっぺんで違うと感じます。
  沖縄の唄はつねに踊りと一体です。奄美では、八月踊りと八月唄は一体だが、三味線唄としてのシマ唄となると、これは踊りなしの唄だけです。…
 奄美のシマ唄は情緒の起伏が沖縄と比べたらずっと激しいんですよ。男の声のキーは、女と比べたらもともと低いわけだけど、それを歌声を使ってまでも女の声に掛けて、それを上回るほどに張り上げたいという情緒、低いところから初めはゆっくり這うように声をうならせながら、感情が高揚してくると、一気に高みに駆け上がる、そういう情緒の起伏、このシマ唄の起伏の激しさを基準に据えると沖縄の歌謡はむしろ平坦に聴こえるほどですよ。… 
            
 確かに裏声はシマ唄を歌う男性の歌声の大きな魅力ですが、必ずしも男は誰もが裏声で歌わなければならないということではない。やはり、唄声の魅力、その詩の「ぐいん」(味・妙味)はその唄い手の節回し、つまり「曲げ」にある。そして、その人の「曲げ」の力・魅力を発揮するうえで、あんたの声の質からいって、あんたは裏声ができる声を持っている人だから、裏声ができるようになったら、あんたの声の質からいってその「曲げ」がもっと生きるよということがあるし、逆にあんたは無理して裏声を出さないほうがよい…声のキーを低いままに置いといて、その低音の幅のなかで魅力的な「曲げ」を追求すべきですよ、こういう場合もある。…
  「大きな曲げ」、もちろんそれをピシッと身につかねばそもそも話にならないけれど、唄の「ぐいん」が出てくるのは、その土台の上に、さらにその人の唄心に繊細さが思わず滲み出てくる「小さな曲げ」の魅力、そこからです。いわゆる「こぶし」ね、それがこの「小さな曲げ」ですよ。
 
  八月踊り唄と三味線唄としてのシマ唄の関係そしてリズム・拍子の問題
  唄の味(ぐいん)はこぶし、「小さな曲げ」にあるといいましたが、この「小さな曲げ」が曲げとして生きるためには、その土台にこのリズムの正確さがなければならない。矛盾しているようで、そうなんですよ。そこがポイントなんですよ。土台のリズムの正確さがなかったら、ただの音痴になってしまう。ただ自分勝手、我流になってしまって、「うまい! 味がある! 面白い!」とはならない。
 
 尺と曲げ
 「尺」というのは、間の取り方、音と音、歌詞と歌詞との間の、その長さのことです。だから「間尺」ともいわれる。つまり、結局リズムのことですね。尺が正確で乱れない、これがまず唄を歌うときの土台、ここがブレたら、唄にならんわけですよ。「尺音」というと、それは節回しのこと。
 
 昔の人が偉いのは、尺が実に正確で、それをきちんと聴き取って守ってきたという点ですね。昔の唱者と呼ばれた人は実に間尺が正確だった。だから、あっちは笠利、こっちはヒギャと地方は違い、またそのなかでシマがまた違っても、その人の間尺を知っていると、相手に合すことができた。… 
 さっき取り上げたように、「曲げ」というのは、節回しのことです。独特に曲げることですね。音と声を。で、奄美大島の南部の瀬戸内の節は「ヒギャ曲げ」、北部の笠利地方の節は「カサン曲げ」といいます。「ヒギャ曲げ」と「カサン曲げ」とを比べると、曲げはヒギャの方が強いですね。曲げて曲げて、ヒギャ曲げは歌いますね。地形が違うんですね。笠利は台地と大洋の外海、瀬戸内は入り江、入り江で、また山また山ね。 
                 奄美大島


  聞き手の清眞人氏は、瀬戸内の元町長の清水秀親さんの話を紹介している。
  「北部には唄の調べを曲げる必要がね、地形的になかったのよ。まっすぐに突っ込むなり、走ればよい。ところが東の瀬戸内では心は入り江の陰影そのままに曲がるのよ。曲がりに曲がり、人はいくのよ。北のほうは出ればすぐ外洋で、もう行ったきりよ。ところが、東のほう(瀬戸内)は、船が出ても名残惜しいのよ。シマからシマへと伝い渡っていくでしょ」
清さんは「風景と人情と唄の情緒、つまり『曲げ』が深く関係し一体である。この点こそが民謡の民謡たる基ですね」と解説している。

 ここで話されているように、同じ琉球弧の島であっても、沖縄民謡と奄美民謡は大きな違いがある。ただし、竹下さんが話された奄美民謡の勘所は沖縄でも共通するところがあるように思う。
私のような素人は、「尺」と呼ばれるテンポが一定しない。ゆっくり弾く曲でも、早くなる。初めはゆっくり弾いていても途中からテンポが早まる。こんなことをいまだに繰り返している。
「曲げ」というのも、民謡は節回し、こぶしが効いてこそ唄の味が出る。八重山民謡を歌っていても、あらかた歌えるようになったかな、と思っても「小さな曲げ」が上手くできていない。それが出来ないと歌は平板になる。竹下さんのお話を読んで、改めて共通する勘所の大切さを感じたところである。

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アルテで「イラヨイ月夜浜」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが6月13日夜開かれた。
 沖縄は例年より早く梅雨が明けて、暑い、暑い! 音楽仲間が集うファクトリーは、夏の夜にはもってこいだ。
 今月のテーマは「湖」。沖縄には漫湖があるくらいで、あまりイメージがない。その中で、湖に關係する曲をそれぞれ工夫して披露した。
 トップバッターの島袋さんとおおとりの糸数さんは、同じ「霧の摩周湖」で競演となった。
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  ふーみんさんは、挑戦中のジャズフルートで「枯葉」を演奏した。出るたびに着実に上手くなっている。それにしても、ふーみんさん、得意のリコーダーはじめ、フルート、ギター、歌も歌い、いろんな方のサポートもして、多芸である。
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 マミーさんと娘さん、その友だちは3か月ぶりの登場。マミーさんはオリジナル曲をアカペラで歌った。
 きぬえさんは、海勢頭豊作曲の「月桃」をリコーダーの伴奏で歌った。この作品が発表された当時の海勢頭さんとのかかわりのエピソードを語った。夫、娘さんと家族3人で毎年、家で演奏していたそうだ。「月桃」への強い思いが感じられた。

 私は、「イラヨイ月夜浜」を歌った。石垣出身の大島保克さんの作詞だから、海辺が主題だが、大きな湖には浜もあるので、月に照らされた湖の浜をイメージした。 
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 この曲は、月の夜の浜で歌い踊る、太陽が出るまで舞い遊ぶ。そこには花が咲き乱れている。そんな情景を描いている。だが2番に入ると、浜の情景に重ねて、人の人生や世の在り様が歌われる。浜で打ち寄せる波は戻し戻され、浮世のようだ。「波にぬれ、流されて、照らされて」。生きる中で波にぬれ、流されることもあれば照らされる日もある。静かで平和のこの夜の月よ、大和の世、沖縄の世、宮古の世、八重山の世も照らしてください。そんな思いがこもっている曲だと思う。
 三線で少しつまづくところがあったが、なんとか歌い終えた。
 あとから「私の大好きな曲を歌っていただいたありがとう」とYさんが声をかけてくれた。

 アルテ寄席は、南亭こったいさんが「長短」という演目を、ウチナー口で披露した。この噺で社会人落語選手権に挑戦するという。チバリヨー!。
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 第2部ではカオルさんは、ギター弾き語りでオリジナルの「トラベラー」を歌った。手にしたギターがとても小さい。なんと旅行用のギターという。曲目にふさわしい楽器である。 
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  ツレは、テーマにちなんで「渚のアデリーヌ」を演奏した。「腕をあげたねー」と感想をよせてくれた方もいた。
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 ギターサークルは、近代クラシックメドレー」(展覧会の絵、ジュピタ-、威風堂々など)演奏した。ギターで弾く「威風堂々」は、優しい音色で同じ曲とは思えない。「微風堂々」の感じがした。
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 吉本さんは、高田渡の「生活の柄」を歌った。沖縄出身の山之口獏の詩を歌ったもの。詩の魅力を生かした歌でとてもgoodだった。
 
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 清美さんは、布施明の歌った「愛はるかに」 を声量豊かに歌いあげた。清美さんは自分で「にせあきら」と言っているらしいが、いやいや布施明に劣らない歌声である。 
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  しめは、テナーの糸数さんがギター弾き語りで「霧の摩周湖」を歌った。かつてこの曲でのど自慢に出てテレビでも出たそうだ。ドラマチックに歌い上げた。
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「ジョン万次郎物語」、21年ぶりに船長と対面

  ホイットフィールド船長と21年ぶりに対面
中浜万次郎は1870年8月、普仏戦争視察団の一員に選出された。薩摩の大山弥助、長州の品川弥次郎、土佐の板垣退助など、そうそうたる顔ぶれで編成された。視察団は太平洋を横断し、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した。
 万次郎は30日朝、ホイットフィールド船長宅を訪問するため汽車でフェアヘブンを訪れた。21年ぶりの対面に胸がつまりしばらく言葉も出なかった。家族全員が揃い、夜明けまで思い出の話し合いが続いた。翌朝、近所の人たちが集まり、万次郎を暖かく歓迎してくれた。地元の新聞が取材し、「一人の捕鯨船長の漂流少年に対する愛情は、少年をフェアヘブンの公立学校で教育を受けさせた。その結果、彼は今日本の捕鯨産業の振興と開国のために活躍し、米国と日本の交友関係の絆を結ばせている」と報道した。 
                     ホイットフィールド船長万次郎と
                 渡米した万次郎とホイットフィールド船長との再会とみられる写真      
 晩年の万次郎は鎌倉の別邸で悠々自適の生活を送っていた。若いころには、閉ざされた日本に海外修好への扉を開かせるために尽力し、幕末から明治初期にかけては日本の政財界に活躍した多くの人材育成に貢献した。しかし、政治にかかわりある職務に就く機会は少なかった。本人もそれを望んでいなかったようである。
 
 晩年に至っても政治の権力に反発するかのように、身辺の生活困窮者に対しては細かな配慮をして援助の手を差し延べていた。
 明治初期に活躍した洋画家高橋由一が、衣食に乏しく生活に困窮していたころ、見兼ねた万次郎は、知人に呼びかけて彼の生活や修業を手助けしたこともあった。後に日本の美術界の名を成した。
 1898年(明治31)11月12日、息子の手を握って永い眠りにつき、71歳の生涯を閉じた。
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              151年越し子孫の対面を報じた「琉球新報」2002年5月12日付
 「ジョン万次郎物語」を著した島袋良徳さんは、35年前に万次郎ゆかりの地である大渡海岸に記念碑を建立することや万次郎の子孫と万次郎が滞在した豊見城市翁長の高安家の子孫との対面の準備を進めていたという。
 2002年5月11日に、万次郎直系の4代目、中浜博氏が豊見城市翁長の高安家を訪れ、5代目当主、高安亀平氏と151年越しの対面が実現した。その後も交流は進んでいる。
 記念碑は、「ジョン万次郎上陸之地記念建立期成会」がつくられ、建立計画が進められている。
 これまで紹介した島袋良徳著「ジョン万次郎物語」は、米須在住で、期成会メンバーとして熱心に活動する和田達雄さん(高知県出身。別名、和田・ジョン・たつお)の手で、手製の冊子にまとめられた。それによって読むことができた。感謝である。
 

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