レキオ島唄アッチャー

団塊花盛りトーク&ライブショーを楽しむ

 RBCラジオの人気番組、「団塊花盛りトーク&ライブショー」が恩納村の沖縄かりゆしリゾートホテルであり、お泊りプランで出かけた。
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 もうこの番組のリスナーとなって8年くらいになる。リクエストに応えて懐かしい歌謡曲をかける番組だ。スポンサーであるかりゆしホテルプレゼントの形だった。ディナーを食べながらトークとライブを楽しむ。104人が参加した。
 各曜日のパーソナリティーと元担当だった柳卓を含め6人が勢揃いした。
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 パーソナリティーとカラオケデュエットするコーナーでは、トップバッターとしてツレが抽選で当り、月曜担当のかでかるさとしと歌い踊って盛り上げた。
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 パーソナリティーは各テーブルを回り、リスナーと記念撮影するというサービスぶり。
 くじ引きもあった。なんと瑞泉酒造の10年古酒(クース)がツレに当たった。なぜか今日は籤運がよくラッキーだった。

 ライブは、沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーが立て続けにGSナンバーを演奏した。火曜日にSSカンパニーのリーダー、瀬底正真さんと「GSコーナー」を担当する箕田和男さんもマイクを握り歌った。金曜日担当の高橋勝也さんは「君に逢いたい」でドラムを叩いた。さすがである。
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 ライブは最初から、舞台前に飛び出して踊りはじける。パーソナリティーも何人か、リスナーといっしょに踊りの輪に入った。

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 「佐敷幼稚園」では、人間汽車ポッポに次々に加わり、長い踊りの列が場内をうねる。
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フィナーレの「また会おうね」では、みんなが手と手を結び、大きな輪が広がり、最高潮の盛り上がりだった。
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 リスナー相互の交流、リスナーとパーソナリティーの交流が深まったトーク&ライブショーだった。
 この後、SSカンパニーは別会場のバーラウンジに移って、少しアコースティックな雰囲気で2ステージライブを行い、たっぷり楽しめた。
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 バックにはイルミネーションが輝いている。ホテルのプールサイドと庭は、無数のイルミネーションで彩られていた。ちょっと幻想的だ。
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ちなみに、このホテルを経営するかりゆしホテルグループの平良朝敬前会長は、経済人として辺野古新基地反対のオール結縄の先頭に立つ一人であり、いま沖縄県民の声をアメリカに訴えるため翁長県知事とともに訪米中である。
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「F&Y」が歌う平和願う名曲「あの人の手紙」

 かぐや姫の平和への願いを込めた名曲に「あの人の手紙」がある。
「♪泳ぐ魚の群れに 石を投げてみた」と歌いだす。こうせずにはいられないのはなぜか。「私の大事なあの人はいま闘いの中」。「戦場への招待券というただ一枚の紙切れが 楽しい語らいの日々を 悲しい別れの日にした」。
 涙も枯れたある日、戦場にいるはずの彼が帰ってくた。やさしく抱いてくれた。
  だがすぐ別れを告げる。でもわかっている。「本当はもう死んでいるのでしょう」、昨日、死を告げる手紙が届いたのだ。
  愛する人を「赤紙」一枚で奪われ、幸せを引き裂かれ、戦場で命を奪われた哀しい物語が映像で見ているかのように描かれている。そこには静かな憤りが込められている。
 わずか70年余前に日本中のいたるところで起きた忌まわしい歴史がよみがえる。
 本来は、こういう主題は静かな曲調になりがちだ。でもこの曲は違う。アップテンポで刻まれるリズムに乗り、怒りをたたきつけるように歌う。
 
 糸満市のライブハウス「風は南から」の5月28日のF&Yライブで歌った動画をアップする。かぐや姫と南こうせつが大好きなふーみさんの歌声は、曲に込められた思い(肝心)を表現する。良明さんの間奏のギタープレイも素晴らしい。
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F&Yライブでふーみさんのbirthdayを祝う

 フォークユニット「F&Y」のライブが糸満市「風は南から」であった。メンバーの一人、ふーみさんが5月31日が誕生日なので、ライブ仲間がbirthday前祝いを行った。 
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 この日は、ライブ初めてのお客さん集団がいて、前半はお馴染みの曲をたくさん演奏した。前半が終わったところで、birthdayを祝って、ふーみの大ファンであるnaoさんがケーキを運んできた。 
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 さらにプレゼントも贈られてふーみさん嬉しそう。 
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 あと2日で52歳になる。中学時代から「かぐや姫」のファンでギターを弾き歌っているから、30数年のキャリアである。これからもいい歌を聞かせてほしい。
 ライブは後半に入ると、さらに盛り上がった。 
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 ふーみさんのオリジナル曲「サザンに便乗花火」を動画で紹介する。「泊大橋」や「恩納ナビーの松の下で」といった場所も登場する楽しい曲である。 
                      
 ライブ最後は、自分で「アンコール!」と叫んで、定番アンコール曲を演奏した。終わってみればちょうど12時を回ったところだった。 
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伊江島の歴史から、夫役銭

年貢以外に納めた夫役銭
『伊江村史』の伊江島の歴史の紹介の続きである。

 地頭に納める年貢の外に、作得夫役銭を納めなければならなかった。夫役銭に二種ある。一つは王府に納める日用(ヒヨウ)銭であり、一つは地頭に納める作得夫銭である。これは一種の人頭税とも云うべき性質の頭割(づわり)に徴収された。対象は百姓中番所役人及筑登之(チクドゥン)以上の有位衆、祝女(ノロ)と廃疾の者を除いた15才以上50才以下の男女に課した。その起こりは夫遣(ブツカイ)といって、地頭が領内の正頭夫(注・王国時代租税を負担する者の称)を徴発使役したことから始まる。
 1680年(尚貞王)庸役銭制度を定め、これまでの現夫遣に代って金銭で代納することになった。名目も日用銭と改め正頭夫1人男は1貫文(2銭)女は500文(1銭)とした。実施に当って土地の遠近による分下げ制を立て公正を期した。
 伊江島の場合、7分夫の3日半であるから男は3貫500文(7銭)で女は1貫750文(3銭5厘)になる。年にして男は42貫文(84銭)女は31貫文(42銭)になる。
 賃金の倍率からみると、男の年間の夫役銭(日用銭)は8万4000円、女は4万2000円である。
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                 首里にある伊江殿内庭園(国指定名勝)

 全島の日用銭を試算する。合計で897円12銭になる。10万倍(貨幣価値を換算、本書刊行時は1980年)すると8971万円になる。凡そ9千万円は王府に納める分である。
 次に地頭に納める知行夫について説明すると、男女の正頭が年1日の使役と定められている。両惣地頭では29円90銭4厘になる。それを換算率10万倍で換算すると約300万円になる。
 この両方の夫役銭(日用銭)9300万円を現金で納めることは、当時の貨幣流通からみて地方では無理である。それで現金に代わる現物で納めた。それも換金に容易な作物を出したので伊江島では砂糖を主としそれに雑石で納めた。そのため各間切島では諸品定代帳(公定価格)を備へ価格表を示して、これに照らして清算したようである。実市価より大変安く示されていたという。この定代帳の値段は明治廃藩まで改訂されず200年間用いられたので百姓の苦痛は大変であったらしいと史家は述べている。 
             
 地頭家で奉公した伜者(かしむん)
 (伜者)これは地頭が領内から徴用した雑役夫のことである。寛文12年の手札改帳からみると35人という実数である。両総地頭家に常時47人の伜者が奉公人として働かされたようである。
 奉公人には部屋が与えられ食事が支給されるだけで、被服小遣往復の旅費にいたるまですべて自弁であった。奉公人はその能力によって仕事があてがわれた。庭の手入、掃除仕事。炊事。使い走り。農耕、殿のお供、かごかき、子守役などである。
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                            伊江殿内庭園
 その中でも子守役は学問のある優秀な若者が選ばれ期が満ちて帰島すると番所の文子(テキグ)になり段々出世して地頭代まで昇ることが優先的に約束された。
 一般の奉公人は男だけで三ヶ月詰であったようである。交代期が来ると順繰り送られこれと代って帰島が許された。しかし学問を心掛ける者は長期にわたり交代せずに居たという。そういう者は島の会所(ケージュ)で学問をした奉公人であって、義務的に徴用された者はさっさと帰った。会所とは将来おえか人(役人)になる目的で門閥の子弟を入れた一つの学習所であった。
 奉公中に主人の供をして旅役に登ると三功星をもらい出世が早かったという。守役や旅役の供をした者は功星を重ね2、30年もすれば先ずは地頭代になることが約束されたようなものである。奉公人の年令は20才台である。地頭代は大体50才前後であった。
 (日用銭と伜者は)夫銭の二重負担であり、間切島の生産活動を著しく阻害している。一地頭家で年間延7300人を使役している。これらの伜者が首里には常時約7千人もいたと云う。

 <注・伊江島では、年貢の外に、夫役銭があり、当初は夫役だったのが金銭で納めることとされた。それも、王府に納める日用(ヒヨウ)銭と地頭に納める作得夫銭の2種類があり、年額では多額に上ったこと。さらに、地頭家に徴用されて奉公人として働かされ、これらは島の百姓たちにとって重い負担となり、生産活動をも阻害したことが明らかにされている。> 

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伊江島の歴史から、支配者

 伊江島総地頭
 『伊江村史』の伊江島の歴史の紹介の続きである。

 按司総地頭
  1,559年(嘉靖38)、始めて伊江島に総地頭が配置された。最初の伊江按司(アジ)には尚清王の第7子尚宗賢が任命された。名乗は伊江朝義と云い、伊江王子と称した。伊江御殿(ウドゥン)創立の祖である。
  爾来廃藩まで320年間、伊江御殿と伊江島の支配関係は続いている。この例は他にはないのではないかと思われる。これまで伊江島は北山(琉球が三国に分かれていた時代の国)又は北山監守に年貢を納めていただけで直接の支配者をもった歴史はない。

 <第二尚氏の3代目、尚真王は6王子、4代目、尚清王は7王子がいて、併せて13王子が王子地頭になって各間切=マギリ、いまの町村=に配置された。まだ単独領主だったが、王子が増えると配置する間切が不足するようになった。>

  代を重ねるごとに王子が増え按司家を創立するので間切数には限りがあり、後には不足を来たし、止むなく大きな間切を分割したり、2間切から分割して1間切を新設しなければならなかった。
  これで王子衆の増加には何とか対応できたが、高級役人である親方(ウェーカタ)にも知行を与えなければならず、ついに苦肉の策として用いられたのが両総地頭制という変則領主制である。既に按司総地頭の配せられている間切に2人の総地頭を任命するほかなかった。親方総地頭が配せられると又百姓地が減って地頭作得地に廻さねばならなかった。伊江按司が任命された時はすでに領地に赴かずして其の地を領する遥任の制に替わっていたから、ついに島では按司と接触する機会もなく、家臣である士にも接することなくして明治の廃藩を迎えた。これは1526年尚真王の時、地方に居た諸按司を皆首里に聚居せしめ、遙かに其の地を領せしめ兵柄(へいへい、兵権に同じ)を解散し以て国の安泰を計ったと中山世鑑(王府の史書)に書いてある。 
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                   伊江島のタッチュー(城山)
  <注・王子が増えるのには間切を分割するなどして対応したが、親方に知行を与えるために、一つの間切に2人の総地頭が任命された。その際は、百姓地を減らして地頭作得に振りむけたので地頭家の収入には何も響かない。
  百姓地は俗に夫地=ブージ=と言い、農家に割り付けられた土地のこと。自由に耕作できるが、売買や金銭貸借の抵当は禁じた。地頭地は元来百姓地の一部を割いてその収益を按司地頭、総地頭及び脇地頭の役得として与えたもの。
2人の総地頭が任命されたことで、百姓地が減った分百姓の収得が減少したのだから損害は百姓にしわよせされたという。>

  親方地頭と伊江殿内
  伊江王子地頭任命後70年、1628年(崇禎1)、佐辺親方が伊江島総地頭に任命されている。島は両地頭家に年貢を納めることになった。1708年(康熙47)の地頭作得帳によると、両地頭ともに76石の石高となっている。姓の佐辺は伊江島の12地名からとったものであろう。1729年伊江親方の伊江島総地頭任命になるまで100年間の勤務とみられる。

  伊江按司5代目朝敷の4男朝叙は累進して1720年(康熙59)三司官に上り総地頭に任命された。初め久米島具志川間切の総地頭に任ぜられ、1729年(擁正7)伊江島総地頭に転じている。其の家を伊江殿内(ドゥンチ)と称したが、のち1835年(道光15)其の姓を川平に改めたので、その家を川平殿内と称するようになった。この家系は1879年(明治12)の廃藩で廃職になるまで世襲した総地頭である。7代150年に及ぶ。 
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                          首里にある伊江殿内庭園(国指定名勝)
  参考、18世紀初期の諸地頭は、按司地頭38人、親方地頭41人、脇地頭292人、計371人いた。各間切と各村にはあます所なく地頭が配置されていた。その外に王府役人には知行衆というて213人いたから総計で584人になる。これが貴族階級である。当時の間切数は43、村の数は487である。79人の総地頭資格者を43の間切に配置するには勢い重複するのは止むを得ない。
 
 地頭家の支配関係
  各間切島は王府の直轄であるから地頭家は名目上の領主である。実質的な支配権は王府にあった。本土の大名のような絶対的支配権はなかった。封建制ではなく官僚制組織であった。領主は何一つ自由裁断で領地や領民を処断することはなかった。領内の開発ということも王府の規定によるものであって、独特の施策というものはなかった。
  地頭地に性質について尚敬王25年(1737)に出た法令を左に適記する(略)。これによると地頭地なるものは功ある人々への恩賞として与えられたものであること、領地と云うことでないことがわかる。地頭地からの収穫量に対して百姓並の代(税率)をかけた王府への上納を出すことになっている。
  地頭地を耕作した百姓と地頭の得分を明確にしている。全量の3分の1は百姓得分であり、3分の2は地頭の得分になる。王府へ納める上納は地頭得分の中から出し残りは地頭の実質的な得分になる。

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伊江島の歴史から、貢糖

 貢糖島に指定
 『伊江村史』の伊江島の歴史からの紹介の続きである。
 沖縄最大の産業である製糖技術は1623年儀間真常の努力によって中国からもたらされたものである。製糖法ひと度伝わると農民はとびついた。
 百姓は金になるキビ作りに走り、田地をもキビ作りにしたので米作の減収を来し、遂に米租の1万石を納入することに支障を来したと云う。17世紀後半に出た政治家羽地王子摂政は薩摩に請うて、米租の代納として砂糖で代納させることの許しをうけた。
  薩摩は専売制の転売で利益のあることを知っているので快く許したが、それについては制限を加えた。米租の3分の1にあたる約3千石分に相当する砂糖代納である。
  これは1666年の取決めで薩摩侵入50年、砂糖伝来後40年のことである。早速砂糖座と云う役所を王府内におき、砂糖奉行と云う最高責任者を置いて砂糖の生産から納入まで管理させた。これが貢糖制度の始まりである。
  これは米作間切に適用されるべきものであるにかかわらず、どうしたことか米作しない伊江島が例外として貢糖島になっていることは不可解である。耕地が広いから芋作りに影響なしとみたかもしれない。伊江島の場合代納ではないから新課税である。他の米作間切と均衡のとれないものでそれだけに苦しんだ。米租の3分の1の制限を超えて砂糖の生産が行われ、主食糧の確保が心配になり、もう一つは砂糖の生産過剰で糖価の下落を来すとして対策が講ぜられた。それで生産を押へるために生産間切を指定すると共に作付面積を厳しく規制した。…
  島尻(15)、中頭(11)の全間切と国頭は金武、本部、今帰仁の3間切と伊江島が指定された。その他の間切や島ではもう造れなくなった。      
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                            城山からの眺め   
  田租の米の代納が建前であるが例外として喜屋武と摩文仁は粟代納を認めている。
  しかし伊江島の場合は代納を認めていない。耕地に余裕ありとしてか、貢糖として造らされた。外の指定間切では砂糖分は田租米が減るので代納糖として造ったわけである。しかるに伊江島の場合貢糖島だから雑穀租は減らず従前のまゝ据置かれている。
  19世紀半の記録によると島には砂糖屋が69敷あった。年間の製造能力は23万6000斤、樽にして2千丁が先ず生産力の限界であったろう。
  では此23万6000斤の使途がどうなっているか調べてみるに、その内訳は 
 薩摩へ計100400斤、王府へ計60700斤、地頭その他米代納計74900斤、総計236000斤(文久3年)
 右表のうち貢糖は薩摩への全高と王府へのうち御用意向(注・王府には御用意向と同売上、御手形売上の三種ある)とで約14万斤である。これは6公4民で雑穀の5公5民を上廻っている。

 製糖の実態
  王府に18万斤を納めた残りの5万斤内外の砂糖は地頭家に納める雑穀の代納糖や加勢糖などに振り向けられている。また番所役人の那覇詰諸費や島費の借金返済に充てられている。
  地頭は生活に必要な物資は村々に命じて納めしめた。これを手形入れと言い一種の徴発令書みたいなものであった。買上げ値段は定代帳(注・公定価格を記す)に定められているので文句は言へない。番所や村では時価で買って納めるのでかぶり(損失)がある。このかぶりは百姓の夫役銭納付の義務のある者に分担させたという。これを統並(トナミ)と言うた。伊江島は地頭から再々砂糖の手形入れがあって困ったようである。6千斤とか4千斤とか言う風に随時あったことが伊江日記によっても窺える。俗に泣く子と地頭には勝てないと言う古諺があるがその辺のことを言うのだろう。

 砂糖には貢糖、買上糖、焼過(タチクヮ)糖の名目があって性質が違う。貢糖は命ぜられた貢租で百姓に代金は払われない。11万7000斤がそれに当る。欠補糖も金にならない。買上糖は王府の許可で制限外に製造したもので1挺80貫文(1円60銭)で買上げる砂糖のことである。これは金になって百姓に払戻されるが、車(注・キビを絞るサーター車)や鍋代それに日用品を買うのと差引かれることになっていた。
  焼過糖は砂糖の出来がよく制限面積内で予想以上のできがあったとき、初めて百姓が自由販売することを許された砂糖を言う。しかしこれにも制約があった。属する村の全上納が完納するまでは個人だけで売ることはできずそれまで質草にとられた。
 
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琉球と土佐、その深い縁。竹内經氏が講演

 琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く
 
 沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月23日、豊見城市の市社会福祉協議会で開かれた。
 総会では、9月12日に第4回ジョン万次郎サミットin沖縄&沖縄ジョン万次郎講演会を開くなど今年度の事業計画案など議案を採択した。 
 総会後には「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏(静岡県出身)が「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題して講演した。 
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 竹内氏は、1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸した万次郎らが、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。。 
              
 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。
 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。
 また、イギリスの宣教師・ベッテルハイムと万次郎らとの接触を懸念していたこともある。
 万次郎らが7か月もの長期に留め置かれたのはなぜか。
 万次郎が上陸する前年の1850年、琉球から江戸に向かう「江戸上り」(99人)の一行が、江戸を発ったのは12月22日。琉球への帰還は翌年4月13日と見られる。万次郎たちの薩摩への護送は当初6月14日出立だったのが、急きょ1か月延期された。薩摩から帰った船を修理して護送船にしたのではないか。
 万次郎たちは7月11日、翁長村を出立し、同月18日、ようやく大聖丸で薩摩へ向かった。護送が遅れたのも、船の調達そのものの裏事情がからんでいたとも推理できる。
 護送船の手配を含めて、王府側が多忙を極めていたことも、護送日程がずれ込んだ要因の可能性が高い。  
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 琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、次のようにのべた。
 琉球人が乗った船が時化に遭い、黒潮にのって土佐沖に漂着した記録が18世紀に少なくても3回ある。1705年に80人(滞在5か月間)、1762年に50人(2か月間)、1795年に31人(逗留日数不明)が保護され滞在した。
 滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる。
 琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ琉歌がある。1762年 長嶺筑登之(チクドゥン)の琉歌である。
 「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。
 土佐の万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか。資料がない。 
 琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない。
 
 9月のジョン万サミットin沖縄と併せて開かれる「第10回沖縄ジョン万次郎講演会」では、高知で発行されている「土佐史談 中濱万次郎特集号」に沖縄から執筆した神谷良昌、當眞嗣吉両氏が講演することになっている。

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SSカンパニーオリジナル曲「はての浜」ほか動画をアップ

  沖縄随一のGSバンド、SSカンパニーオリジナル曲「はての浜」の動画をアップする。
 久米島の東側の沖にあるはての浜が曲名になっている。 
                  はての浜
                 はての浜(久米島観光協会HPから)
 人は生きているなかでしばしば悩み、苦しむ。でも、青い海に広がる美しい白浜、はての浜を見れば、自分の悩みなんて、ちっぽけなことなんだと気づかされる。そんな思いがこもった曲である。とても歌詞もメロディーも素敵な曲だと思う。
 SSカンパニーには、いくつものオリジナル曲があるが、最も新しい曲で、近々CD化されるとのこと。YouTubeでアップされたので、紹介する。
                
 もう1曲、オリジナルの「佐敷幼稚園」もアップする。みんなが踊れる楽しいである。
                
 糸満市にあるライブハウス「風は南から」(2015年5月21日)のライブからである。
 この日は、ライブ常連のシングさんのbirthday。いつもダンシングを楽しみ盛り上げている彼女を、みなさんでお祝いしました。 
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伊江島の歴史から、6割が年貢

  年貢の内訳
  『伊江村史』の伊江島の歴史からの紹介の続きである。
 伊江島からの年貢の内訳を示すと
○370石 正租雑穀で納める。
○314石 6出米の合計 米にして157石
 雑石成換(ナリカワリ)は2倍にして納める
計754石 これを起(オコシ)という。
○起は草高に代(税率)をかけて計算した単純正租のことである。これは表向きの税で、これを基礎にして種々の加徴米がついて初めて総税額が決まってくる。
○先(サキ)というのが徴収される。それは鼠害(ソガイ)虫害、蔵べりなどを考えて加徴される。
 米納は1石につき2斗8升。雑穀は1石に付6斗4升を加徴した。
伊江島の場合これは大きい。483石になる。
○斗立(トダテ)は、貢租は盛り升だったのが、慶長検地以後は薩摩の斗かきで計算した。その結果、王府の減少分をきたしたので、盛り升に相当する高を加徴した。
  口殻(キチガラ)は年貢納める百姓に給する飯米用として取っておいた。起1石につき2升5合。
  欠補(ケッポ)は現物納入時のこぼれ、出し入れする際の斤減りに備え加徴した。伊江島は1石に付き2斗2升8合。これは升をはかる蔵役人の役得に廻された。
 蔵役人心付は年貢を受けとる諸役に謝礼をするためのもの。1石に付き1斗6升の報酬を公然と取るわけである。
 403石 斗立以下4種類の加徴分の計。
○300石 地頭地作得
○374石 オエカ地作得(注・オエカ地は地頭代以下の間切役人に給する)
○14石 ノロ地作得(注・ノロ地は神女ノロに給する)
 総計2328石 実際の年貢高である。
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                    城山からみた島の風景
 公課は6公4民
 島の総石高は3770石であるから、これで年貢高を除してみると6割強である。島の公課は6公4民である。いかに苛重であったかがわかる。表向きの4公6民は薩摩側の言う表向きの善政のことで実際とはちがうのである。
 <注・伊江島の年貢は、表向き4公6民で、4割が貢租とされているが、実際には6公4民で6割強が貢租となっていたことを明らかにしている。相当の重税である。>  
            
  逃亡する者も多かった
 それで負担に堪えず土地を捨て逃亡する者も多かったという。多くは山国に逃げ山仕事で生活をしたという。島の逃亡者の多くは久志間切の川田平良(現東村)に行ったという。これを「川田、平良かい、傾き走い(カタンバイ)」と云うたようである。この言葉を実証するかのように戦後に川田平良にいる島人の子孫が元祖拝み、神拝みにきてびっくりさせることがあるという。
 上納のため地割地(割り当ての土地)を次の地割まで譲渡する者もいた。下男下女に身売りする者もいた。配当地を失ったものは名子(ナゴ)といった。無産者ということで、保証人がないと与(クミ)にも入れられなかった。土地の割当に抵抗するものも出た。土地を貰えば貰うほど年貢に苦しまなければならぬからである。しかし土地の兼併は行われて地主もできた。多くは番所役人か一部の物持が買った。無財産の名子になると小作人になるしかない。良畠は先ずノロに、次に地頭に、そしてオエカ人にと順々に選ばれ百姓地は村から遠いやせ地が配当されたようである。

<注・重税に耐えられず島から土地をすて逃亡する者、身売りをする者も出た。割当地を譲渡する者、配当地を失って債務奴隷のような名子になる者もいたという。薩摩と首里王府による搾取のもとで、重税に苦しめられた百姓の実態がうかがえる。> 
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                             首里城

  上納を徴収し督励する役人を近代では取納奉行(しゅのうぶぎょう)と云うた。古くは代官といゝ7人いた。国頭取納奉行の管轄には伊江島、伊平屋島も含まれている。奉行には5人の部下がいてそれを帯同して各管下の間切や島を巡廻し、徴税事務の監査をした。課税が正しいか、滞納者はいないか帳簿類を照合点検して完納された時点で封鎖して認定を確かめて番所に保管せしめたという。これを跡見勘定という。この書類は更に田地奉行が開封して一々納税人を面引合をして確かめたという。二重三重に監視の目を光らせている。この費用は一切島持ちである。筆者5人(臨時職)には給料に当る扶持米を与えなければならず完納事務が長引いたらそれこそ大変である。
百姓には一番こわい役人ではなかったかと思う。

  大政治家羽地王子朝秀が出て世の立て直しをした。彼は従来薩摩が許さなかった開墾を請うて許されたので大いに開墾奨励をして生産をあげた。また百姓の労苦を思い折目(ヲリメ)を設けて御馳走することを許した。折目行事はこれから始まるという。

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伊江島の歴史から、重かった貢租

 重かった伊江島の貢租
  『伊江村史』から伊江島の歴史の紹介の続きである。
  北山滅亡後、今帰仁城が北部守護の要衝の地であることにかんがみ、武将を監視役として駐留させることにした。最初に其の役に任ぜられたのが護佐丸であったという。
 伊江島の場合貢租など王府に直接納めていた関係からか北山監守との交渉など記録に見えてこない。監守の行政権は今帰仁間切(マギリ、いまの町村)に止まっていたと思われる。
 今帰仁間切は何かと今帰仁御殿に庇護されているように思われる。貢租の如き伊江島と比較すると大分軽いようである。砂糖の如き伊江島と比較すると11万斤と7万斤という開きがあり、雑石にしても370石に対し180石を納めている。土地も人口も伊江島の2倍もちながら貢租では逆に伊江島が2倍出している。
  (注・伊江島は今帰仁間切より土地と人口が少なかったのに、貢租は逆に重かったという)

  伊江島が按司(アジ)を戴いたのは1554年だから、島には始めから按司も按司掟も住んでいない。何人が行政を執行したのか文献では明らかでない。口碑によると佐辺家の当主が執ったのではないかと推測される節がある。佐辺家は佐辺根所の根人としてまた宗家として、他の11根所の誰よりも勢力があったと伝へられている。北山時代から島の豪族として勢威を振っていた。佐辺の主が首里上りをする時は足袋をはくことも許されたというから士族に準ずる処遇をうけている。  
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 伊江島の年貢
 伊江島は米が産せず粟麦豆などで納めたものだが、それでも出米と云うてきた。
沖縄で租の始まりは13世紀英祖王の時からと伝えられる。
 伊江島は英祖王に入貢して臣礼をとっていないから遅れて14世紀初めの北山時代から租を納めたことになる。それが随時に徴発されたのか、定期的なものであったのか、租高などについて何もわかっていない。
 結局14世紀から15世紀後半までの150年間にわたる年貢については何も知る所がない。
 15世紀末に出た第二尚氏の尚真王時代になって始めて税制が整備されたものと考へてよいかと思う。16世紀半ばには伊江按司の総地頭がおかれたことからして16世紀中に税制は完備したことゝ思われる。
 慶長検地直後伊江島の租は正雑石(注・正租、雑穀、石高の略称)370石とみえている。いかなる算定基準があったかというにそれは明らかでない。推察するに当時の推定人口350人から考えて一人一石宛の上納を申し付けたのではないかと思う。大まかな見込み高に過ぎず根拠のあるものではない。久米島2間切より稍々多く伊平屋二島(伊平屋島、伊是名島)の約3倍どうにも腑におちない。             
 伊江島の公認された石高は3777石である。これだけの耕作を幾人でやったかを人口でみていく。
 1500年代は330人が全島の人口である。1600年薩摩入りの頃の人口は400人、1700年頃は590人、そして1750年が700人になる。
  稼働力のある者は6割と推定される。今700人の稼働者400余人で享保高の3700石を生産するには1人9石になる3斗俵にして30俵である。  
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            伊江島の北部の海岸
 正租の370石は慶長以前から据置の儘で明治36年まで変わっていない。
 慶長以後1736年迄の間に新税が本高の附加税として課せられている。年代順に記すと1635年牛馬出米(イジメ)が始まっている牛馬1匹に付1升9合余り課している。農家が野原に放牧してある牛馬に課せられるものである。1750年現在島の牛馬数は630匹で国頭郡で最も多い。
  1682年荒欠地出米が始まる。百姓が土地を放棄して不毛にするとか、水害風害で荒地ができて正租の減少を来しているからそれを補てんするための附加税である。
  1699年の浮得(ウキトク)出米とは上木高の内、芭蕉唐芋、宝ぬ敷を高に直して課した附加税である。高1石に対し3勺8寸を課している。
  1713年賦米(ブマイ)とは薩藩に納める附加税である。高1石に対し1升5合を徴収した。
  1729年新盛増出米が始まる。享保盛増分(134石)に対する附加税である。運賃に合算して高1石に付4合7勺を徴収するものである。
  1736年在番出米が始まる。琉球国内の諸浦在番14人の扶持米である。
 以上の出米を総称して六出米と称した。
  牛馬、浮得、在番出米の3税は王府に納めていたものだから明治12年の廃藩と同時に廃税になる。
賦米、荒欠米、新盛増出米の3税は薩藩に納めていたものでそのまま国庫に納めることになった。また琉球廃藩後明治36年の国税徴収法が施行されるまで重出米の名目で徴収されていた。

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