レキオ島唄アッチャー

オキナワンロック50周年。その歩みから

 出版文化賞を受賞した『オキナワンロック50周年記念誌』

 『オキナワンロック50周年記念誌』(沖縄県ロック協会編)が2014年出版された。やっと手に取ることができた。戦後、米軍の占領下で、嘉手納空軍基地の門前町のようだったコザ(現沖縄市)をはじめ、海兵隊の基地がある金武町、辺野古などで、米兵を相手にロックが盛んに演奏され、沖縄独自のロックが発展していったことは、耳にしていた。といってもコザでロックのライブを聞いたこともない。
 オキナワンロックは、沖縄の多彩な音楽・文化の中で、一つの重要なジャンルをなしている。それはまた、戦後の沖縄社会の一断面を形成している。今日、沖縄から若いミュージシャンが次々にメジャーデビューし、活躍しているが、その土台にはオキナワンロックがあったと言ってもよいだろう。
  『50周年記念誌』は、オキナワンロックを担った人々のリアルな証言を含めて、その歩みがよくわかるように編集されている。沖縄タイムス出版文化賞特別賞を受賞したという。その中からごくごくエキスだけを抽出して紹介する。 
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 以下は、本書の中の「写真で見るオキナワンロックの歴史」の中の文章と、その間に関係者の証言を挟んだものである。写真も勝手ながら『オキナワンロック50周年記念誌』から使わせていただいた。
 
 オキナワンロックのルーツはAサイン(米軍の許可を受けた店舗)街で喜屋武幸雄(オユキ)と川満勝弘(勝ちゃん)の2人の出会いによって生まれた。
 1963年東京で結成されたオキナワンロックの創始者ウィスパーズ(その後沖縄に帰り、バンドの普及活動に力を入れ、刺激を受けて続々バンドが生れた)はコンディショングリーン、マリーウィズメデューサー他、多くのバンドを生み伝説となった。 
  ベトナム戦争激化と共にAサインは全盛となり、多くのバンドを輩出。沖縄ロック界の戦国時代となる。

<オキナワンロック発祥の地と言われている「コザ」には「チャンプルー文化」なる便利な言葉がある。これは「コザ」で暮らす人の中にある道徳の生活のリズム感や行動原理が、「コザ」がまちとして成り立つ歴史的な過程の中では育まれ、一つの文化として根付いたものであると定義付けられているようだ。つまり「コザ」は文化の坩堝であり、様々な外部からの新しい情報をどん欲に取り入れ、それをさらに自分たちのスタイルに再構築し確立する能力を有しているという事だ。
 ここは嘉手納米軍空軍基地の門前町として栄えた歴史を持つ「コザ」に代表させてもらいたい(「コザとロックとオレ」、吉田春樹著)>
 
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 Aサインにバンドが集まる 
名ギター、名プレイヤー達を中心に、「紫」、「コンディショングリーン」、「キャナビーズ」…等、多くのバンドが結成・解散を繰り返しメンバーチェンジが入り乱れ、次第に音楽性・主義を主張する同士が集まって収斂していく。
 全島からAサインにバンドが集まり激しい生存競争の中、離合集散を繰り返す。
 人気・実力を二分する「紫」と「コンディショングリーン」は、コザ・金武・辺野古のAサインに、より高い契約金で引き抜かれ沖縄中を駆け巡った。

<(米兵は)ロックの事は俺達以上に知っている。いい加減な歌や演奏にはすぐ反応し、ビールや灰皿などとにかくテーブルの上に有る物は何でも投げつけてくる。こいつらを納得させる為、必死で新曲を覚え毎日4,5回のステージを乗り切り、昼には4時間ライブが終わった後は家で新曲のコピー。…そういう修羅場で20年近く色々なグループで修業して来た。…
  ベトナム戦争の事を今思い返せば、当時の状況下で本当に大変な境地に追い込まれていた者は我々では無く彼らではなかっただろうか。
  青春時代の一番大事な時に故郷を離れ、最愛の家族や友人そして恋人とも無理矢理引き裂かれて戦争の大義名分も国のついた嘘だと解った時の彼らの救いは俺達の友情と音楽であった(「マイロックヒストリー」、宮永英一著)>

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久高島、カツオ漁時代

鰹(カツオ)漁業時代
久高島の男たちによる鰹漁業は大正の初め頃、与那国島で始められたという。
(鰹漁業の以外に)イラブ―漁、追い込み漁、引き網漁、延縄漁、潜り(海人草、サンゴとり)、突き船(カジキとり)などを八重山方面、奄美方面、それに台湾方面で営んでいた。
 
八重山や奄美方面に出かけているたいていの人は旧の8、9月頃には島に帰っていた。そうして旧3月の南風の吹くまで久高島に滞在し、その間は久高島近海で追込み漁をする。その網元がイビンミー家で、ザバニを4艘所有し、獲った魚は知念・玉城・与那原・中城辺まで売り歩いた。またエビなど高級魚は那覇市場で売っていた。
 今次大戦では、台湾、南洋方面の久高島の漁業従事者たちは戦争にまきこまれ、生き残った人々もすべてを失って命からがら島に引き揚げて来た。久高島もアメリカ軍が上陸し、家のほとんどは焼き払われ、数百年にわたって久高の男たちが蓄積したすべてが失われてしまった。
 久高の男たちは、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島、トカラ列島、屋久島、種子島、鹿児島、八重山群島、宮古群島、外国では中国(厦門・上海・北京等)、台湾、南洋(パラオ・テニヤン)に出て、数百年にわたり常に海人として進取の気鋭を持って活躍して来た。奄美方面では今でも沖縄の漁師をクダカーといっている。

< 沖縄戦に関連して思い出したことがある。久高島は小さな島なのに、住民は沖縄本島の金武町に移住させられていたという。金武町屋嘉には、「久高島住民強制疎開之記念碑」がある。 
  次の琉歌が刻まれている。
  「戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村の情き 忘してならん」
  戦争のために生まれ島の久高島を離れさせられた でも屋嘉村で受けた情けは決して忘れてはならない、という意味だろう。「並里仙人詠む」と記されている。>

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  旅妻を持つ男も
 半年以上も漁に出る久高の男たちは、島の本妻以外に旅妻(注・現地妻)をさがす者も多かったといわれ、旅妻との間にできた子孫は各地に多くいるといわれている。また本妻に男子がいない場合、旅妻との間にできた男子を島に連れて来て嫡子として育てた例も多い。
 「いりきハチャグゥミや、うないぐゎがみやぎ、ゆるぬるばらし、うとぅぎみそり、みそり」(ハチャグミというお菓子は私が作ったもの、貴男へのおみやげは私を抱くことです、ほどの意と解されている)
2首(1首は略)の歌は徳之島の旅妻が久高の男に歌ったと伝えられているものである。

 久高島で夫の留守の間、帰りを待つ妻の心境を歌った歌もあるという。
 「久高島に『旅する間は皆の夫だけど、クサバーを釣れば私の夫だよ』という歌がある。出漁中は旅妻があってもかまわないけれど、現役をしりぞき、久高島の浜でクサバー(浅瀬の魚)を釣るようになったら私一人の夫である、というのである。この歌は半年以上も出漁する男たちの立場を考え、じっと島でその帰りを待つ久高島の女たちの悟りともあきらめともつかない心境を歌ったものである。これはまた神に仕え守護者という高い次元にある久高島の女性だからこそ悟れる心境であるといえるのではないだろうか。なお久高島の女性は夫と旅妻との間にできた子供を我が子同様に育てたケースは枚挙にいとまのないほどである..。以上は比嘉康雄著『神々の原郷-久高島(上、下)』からの紹介である。
   終わり

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デイゴ咲く漫湖公園

 近くの漫湖公園でデイゴが咲き出した。駐車場そばのこのデイゴの木は、じつはもう2週間ほど前に開花していた。でも、それ以外はなかなか咲かなかった。
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 好天が続くので散歩に行って見ると、もう公園内のあちらこちらのデイゴが咲いている。7本ぐらいの木で、真っ赤なデイゴの花を見かけた。 
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 見るからに情熱的な色彩である。まだ蕾がたくさんついている木もある。
 といっても、駐車場そばの木のように、樹木の頂点のあたりで花が咲いているが、それ以外の下部の葉っぱが茂っているところは咲かない。木の葉の多いデイゴはたぶん咲かないままだろう。 
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 デイゴがたくさん咲けば台風が来るという「伝説」からみると、今年のデイゴの花は例年より多いのだろうか。多いとは言えない。かといって、7本くらいの木が咲いているのは少なくはない。ということは、まあ「フツー」、例年並みということではないだろうか。

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久高島、唐船時代

  比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から、紹介の続きである。
  
唐船時代
  久高島の男たちは少なくとも15世紀頃からはクルンミーを操って大洋を航海する術を我がものとしていた。このような航海技術はやがて首里王府に認められ、当時中国と進貢貿易をしていた首里王府の進貢船の水主(カコ)として登用され、久高島の男たちが活躍することになる。
  この唐船時代は久高島の黄金時代というべき時代で、今もその栄華の跡を豪壮な石垣囲いにとどめる。
                    唐船
                  再現された唐船(読谷村ゆんた市場)

  <「旧藩時代には男子16歳にして必ず支那(中国)通いの唐船の船員になる掟があって、みなその任務につき、唐船船頭さんの出生地であった」(この項、桜井満編『久高島の祭りと伝承』の安泉松雄ノート「イザイホーの御祭」)>
  文献によると、久高島の男たちは唐船の乗り組員の他に
1、薩摩への飛船の船員、飛船とは公務の連絡。
2、宮古、八重山からの年貢の運搬。
3、伊良部島と鳥島間を豆・米などの食糧の運搬に従事。
この場合の船はクルンミーであった。
 進貢船の正式な乗組員で活躍する以外にトゥアッチャー(中国通いほどの意)という言葉があることから、首里王府とは関係のない私貿易も盛んにおこなわれていたことが推察できる。

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大石公園のユリ祭り

 天気があまりに良いので、大石公園のユリ祭りに出かけた。今月2度目の公園だ。 
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 ユリを見る前に、ヤギコーナーに行った。祭りだから、小ヤギを檻から出して放し飼いにしている。子どもたちが直接、触れることができ、餌の草や木の葉をあげられる。子どもたちに大人気だ。
 この日は、ヤギと子どものかけっこやヤギ同士を闘わせる「ヒージャーオーラセ(闘山羊)」も催しされたそうだ。テレビのニュースで後から知った。ヤギの鳴き声ものまね大会も午後3時からあるので、舞台に用意がされていた。 
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 ユリは一部これから咲く花壇もあるが、ほぼ満開に近い。1万本以上あるそうだ。一本の茎から10輪のユリの花が咲いているものもある。 
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 伊江島でもユリ祭りが始まったが、伊江島は遠いけれど、大石公園なら近いので、結構人出がある。 
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 今年は昨年より、花壇が倍以上に広がったのではないだろうか。関係者の努力のたまものだ。 
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  こちらでは、鉢植えの花の販売もしていた。純白のユリのなかで、カラフルな花の色がさえる。
 大きく枝ののびた木に子どもを座らせ、写真を撮っているママさんがいた。子どもは怖がり、ぐずっているが、そばでおじいちゃんが「大丈夫だよ」といたわっている。 
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 沖縄の木は、枝が横に伸びていて、登りやすい。きっと何年かすれば、自分で木に登って遊ぶだろう。
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奥武島にドライブ

 ゴールデンウイークの始まる来週は、天気がよくない予報なので、土曜日にドライブに出た。久しぶりに南城市奥武島(オウジマ)に行き、そのあと糸満方面に回るつもりで行った。とくに目的はなく、気ままな走りだ。 
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 国道507号から具志頭で左折し331号に出ると、八重瀬町役場前で出店があり人が集まっている。覗いてみると、土曜朝市ののぼりが翻っている。近くの農家などが野菜や黒糖を使ったお菓子、パンなど販売していた。ナス、ニンジン、それにやっと安く出回り出した冬瓜など買い求めた。
 奥武島に向かった。島は、本島と橋でつながっている周囲1・7キロの小さな島だ。漁業が盛んな「海人の島」である。 
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 車で一周して、公園の駐車場に車を止めると、小さな鯉のぼりが空を泳いでいる。
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 港のそばに、野菜や鮮魚の直売所「いまいゆ市場」があった。4年ぶりくらいに訪れたが、確か前はなかったはず。さっそく、ミニトマト、へちま、島ラッキョウ、レッドキャベツ、紅ジャガなど買った。ミニトマトは、スーパーで売っているパックの10倍ぐらい詰めたほど量があるのに1袋150円と超割安。手作りのモズクの佃煮も買った。 
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 奥武島といえば、天ぷらがとても有名。なかでも人気の店が中本鮮魚店だ。島に入った時は2,3人並んでいるだけだったのに、島を一周してから来ると、もう20人近くの大行列。沖縄はあまり行列がないところだが、ここは違う。 
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  しかも、行列とは別に、大量に買う人は別口で予約注文している、客は多いけれど、従業員は3人くらいで、莫大な量の天ぷらを揚げることから販売までこないしているので、なかなか進まない。大きな箱で買っていく人もいる。40分くらい待ってやっと順番がきた。 
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 モズク、アーサー(青海苔)、野菜、魚の天ぷら各2個と塩漬けモズク1キロほどを買った。塩モズクは、保存ができるからだ。
 天ぷらは、ご飯のおかずではなく、おやつとして食べるのがウチナー的ジョーシキである。だから、海の見える港の側で、熱いうちに天ぷらを食べた。アーサーは、海苔の香りと味がスゴイ。野菜は玉ネギがとても甘い。魚天ぷらもまーさん。モズクが一番アピールが弱かったかな。やっぱり人気の店は美味しい。
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 それにしても、行列には学生らしい若者が多かった。なぜだろう。天ぷらは安くてうまくてお腹のたしになるからなのか。
 奥武島には、やたら猫が多い。天ぷらを食べている場所にもいた。そこには、豊漁と航海安全を祈願する拝所があった。 
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 そこに拝所の護り役のように猫がいた。ツレが魚天ぷらを一切れ差し出すと、脱兎のごとく、奪うように口にした。漁業の盛んな港町にはどこも猫が多い。ここもその典型だ。 
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 港では、釣りをしている人がいる。その中に小学生くらいの女の子を見かけた。岸壁の上にペタンとお尻をつけて座り、釣糸を垂れていた。女の子は珍しい。でも最近は釣女子も増えているようだ。隣にお父さんらしい人がいる。大人になっても魚を釣るだろうか。 
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 もう買い物もたくさんしたので、予定を変更して余所に回らず帰宅した。良い天気に恵まれて楽しいドライブになった。
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ミスター☆ジョークマン、風は南からライブ

 ミスター☆ジョークマン(ふーみさん)のライブが糸満市のライブハウス「風は南から」であった。毎月、フォークユニット「F&Y」で定期ライブをしているが、4月は相方の良明さんがサポートで県外に出かけているため、単独のライブだった。今回は、初めてそのごく一部を動画で撮影し、YouTubeにアップしたので、ブログでも紹介しておきたい。
 ふーみさんは、大阪でのポールマッカートニーの日本公演を見に行って、前日帰ったばかり。「ポールにそれほどこだわりがあるわけではない」といいながら、ポールを初めて見て、ビートルズナンバーなど聞けたことに大満足。感激の様子だった。
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  ポールの似顔絵入りのTシャツを着て、ポールの得意のキメポーズを見せてくれる。
  タオルなどポールグッズを手に入れて披露した。
  それにしても、ポールのTシャツ姿と三線の取り合わせは、なんか変。でも似合っている。
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ライブはアコースティックギターで大好きな、かぐや姫から、やはり来日公演を見たというサイモン&ガーファンクルなどフォークから洋楽ナンバー、三線では「涙そうそう」「島唄」など歌った。
 動画は、「涙そうそう」前のトークと歌の一部である。もっと聞きたい人は、ライブに是非お出かけください。
                   

 ライブが2ステージに入ると、「サプライズのスペシャルゲストを紹介します」とふーみさん。まさかポールじゃありえない。「ポールダッタラヨカッタノニー!」との呼び声で登場したのは、県外に行っているはずの良明さん。「北海道から10時に帰って来たが、糸満ならまだやっているから」ということで、空港からギターを持って駆けつけてくれた。
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  先ずは、ビールで乾杯。    
 松山千春の「長い夜」で始まり、アリスのナンバー、アンコールの吉田拓郎の「落陽」までテンションの上がる曲目が続く。第一ステージの終わりに、ゾロゾロと入ってきた2次会らしい5人の女性グループも、ノリノリで踊る。踊る。
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 会場は全員総立ち。みんなが踊りの輪に加わる大盛り上がりで終わった。踊りはストレス解消の効果抜群である。
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遠海に漁に出た久高島の海人

 遠海に漁に出た久高島の海人
 久高島のイラブ―漁については簡略に紹介した。島の男たちは、舟を巧みに操り、遠海に出かけて漁業を営んできた。久高の海人の歴史について、比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から紹介する。
 
 イラブ―漁時代
  島ヌルといわれる久高ノロが村頭を使って伝統的にイラブ―漁を続けていた。イラブ―とはエラブ海蛇のことで、久高島南側岩間に産卵による。それを獲って燻製にする。
  燻製のことを「バイカン」といい、燻製する小舎を「バイカンヤー」という。久高ノロの管掌する久高御殿庭という祭場の一隅にハンアシャギと並列してある。
  燻製されたイラブ―は保存食として考えた場合、手間がかかりすぎる、食糧として効率が悪い。薬用として考えられていたと思われる。加工商品であった。このような立派な商品を島内で生産できるのは特定の人たち(現在では久高ノロ、外間ノロ、外間根人)に限られていた。
  そこで他の久高の男たちは当時すでにどこかで作られていたマーキブニ(くり船)を手に入れ、イラブーを求めてフカ(外洋)への旅立ちが初(始)まったと考えられる。
  
  マーキブニは、3名乗りの小さなものであった。この小さな船を3艘ないし4艘つなぎ合わせ、アダンの葉で作った帆を立てたもの、このような船をクルンミーとか、ナラリグゥといっていた。
  <現在久高島の伝承されている船は、マーキブニが最も古い。1本の丸太をくりぬいて作ったいわゆる丸木船、くり船である。「ナラリグゥ」、これはマキブニを何艘か結びつけたものを指す>
                     徳之島
                      徳之島
 イラブ―のおもな漁場は奄美群島であったらしく、旧暦3月に吹く南風イチュンベー(絹のように静かな南風の意)で出発北上し、漁場に着くと日常生活は日頃久高島のイノー(リーフ内)でおこなっていたバンタタキャーという追込み漁法で魚をとり、現地で物々交換をしてすごした。イラブ―は獲ると現地でバイカン(燻製)にした。旧暦9月頃に吹くシムクダリとかタカワタシニシという北風に乗って帰って来た。すでに燻製にしたイラブ―は、おそらく当初から販売のルートがあって、そこへ持って行ったと思われる。
  当初の販売先であるが、15、6世紀頃までには首里王府の城下町遊郭に持って行ったものと思われる。久高島の男たちがイラブ―を求めて外洋に出発したのがノロ制度施行前後と推定すれば、今から4、500年前となる。しかしこの出稼ぎ的なイラブ―漁の伝承は、今から約130年前からしかない。それ以前についてはこれまで記したとおり推定の域を出ないのである。
  戦後はこの出稼ぎ的なイラブ―漁はなくなったが、久高における久高ノロの管掌する伝統的なイラブ―漁は、現在まで連綿と続けられている。

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神職者にイラブ捕獲権与える

 なぜ神職者に権利が与えられたか 
 なぜ、イラブ―漁が島の神職者である久高ノロ家、外間ノロ家、外間根人家だけに、権利として与えられてきたのだろうか。
  野本寛一氏は「エラブウナギの民俗誌」(『久高島の祭りと伝承』)で次のような見解をのべている。  
  久高島におけるエラブウナギの捕獲権は、ノロ地・根人地という神役の畑地権(注・島の耕地は共有制となっているが、外間・久高両ノロ、外間・久高両根人は専有地が与えられている)と対応する同質のもので、島の祭祀にかかわる家に与えられたきわめて合理的な権利だと言える。
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   写真はドキュメンタリー映画「イザイホウ」の一場面(ホームページから)
 このことは、久高ノロの権利であるガマから、ムラガシラ(村頭)2人に対してもエラブ捕獲の権利が分与されていることによってもわかる。ムラガシラ分与は、久高・外間両ノロ家・外間根人家三分後に発生したものと考えられるのであるが、それには、旅稼ぎの多かった久高の男達を一年間神ごと奉仕で制約することへの報酬の意味があったと考えてよかろう。これは、6月7月のスクの収入の一割がソールイ(注・棹取神、筆者は頭領と見る)に与えられることにも対応する。
 久高ノロ家・外間ノロ家・外間根人家に世襲的にエラブの権益が与えられていることは、当然、島の祭祀を支える経済基盤の保障を意味しており、交替するムラガシラに対してはその役職に連動して権益も交替したのである。

  イラブ―捕獲の権利は、現在、どのようになっているのだろうか。
  「エラブ―漁獲権は、久高の頂点に位置する神役久高、外間両ノロと外間根人のみがもつ特権であった。このうち久高ノロの所有高は突出していたが、ノロ没後、利権を村に寄付した。現在は村内の希望者を募って捕獲させている」(齋藤ミチ子著「記録されたイザイホー ―画像から見た祭祀状況と聖域の変容―」)

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久高島のイラブ―漁

 女性は農業、男性は漁業
       
  久高島のイザイホーなど祭祀について紹介した。島の祭祀と民俗にかかわり、どうしてもふれておきたいのが、海蛇のイラブ―(永良部ウナギ)漁である。島の特産だ。島の周囲は、珊瑚礁でできた遠浅のイノー(礁湖)が広がっている。海岸の岩場にイラブ―はやってくる。イラブ―は昔から、食用としてだけではなく、薬用として重宝されてきた。
  久高では、女性は農業、男性は漁業を営んできたが、男たちは久高島でイラブ―を獲ってきたわけではない。島民がイラブーを獲ることは、制限されていた。

  採取者が決まっていたイラブ―漁
  比嘉康雄著『神々の原郷-久高島』(上、下)から、紹介する。       
  久高島では古くからイラブ―の採取権者が決まっている。それは久高ノロ家、外間ノロ家、外間根人(ニッチュ)家の、いわゆるミアムトゥと呼ばれる久高島の祭祀の中心的な家である。このミアムトゥから出自する神職者が、シマレベルのまつりの司祭者となる。つまり、イラブ―の採取権者は久高島のシマレベルのまつりを司る神職者の家なのである。
イラブ―の漁場を「アナグゥチ」「イラブガマ」といっている。つまりイラブ―の漁場は海岸の岩間である。漁場はミアムトゥに対応して3か所ある。

  久高ノロ家の伝統的なイラブ―漁は、村頭(注・シマレベルのまつりの雑事を担当する者)が加勢するが、実際にイラブ―を獲るのは村頭の妻2人(外間側・久高側)で、それに久高ノロ家が雇った婦人1人であった。つまりイラブ―獲りは女性だけとなる。
  イラブ―漁の時期は旧6月の初めから旧12月の末までである。最盛期は旧8・9・10月である。イラブ―漁の時期になると、先の3名の女性たちは毎晩イラブ―漁をすることになる。イラブ―漁のために作った小屋に仮眠をし、潮時を耳で聞き、イラブ―が寄って来る時に起きてイラブ―漁を始めるのである。
                    比嘉康雄他「神々の島」
   写真はイラブ―の燻製(比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄・久高島のまつり』から)

  <夜更け、岩の裂目からそっと入り、洞窟の奥、波がひたひたと寄せてくる所に、じっと坐って待っている。やがて、ぴしっぴしっと音がして、イラブ―が波にのってやってくる。足元をするりと抜けるとき、さっと頭を掴むのだという=この項、比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄の久高島のまつり』>
  久高ノロ家の現在のイラブ―燻製は、久高側村頭とその妻、外間側村頭とその妻、久高ノロ側が雇った男女の計6名でおこなっている。
  イラブ―の燻製は、ある一定量(120~140匹)の漁獲に達したとき、燻製作業がおこなわれる。
 燻製化したイラブ―は両村頭が交替で戦前からの取引先である与那原町の西銘永店(久高ノロの親戚)に出荷する。最盛期には島人の西銘竹太氏にも卸している。竹太氏は那覇の市場で売っている。
  <久高ノロのアナグチ(イラブーが産卵のために寄りつく場所)が一番よくイラブ―が捕れ、現在はほとんど久高ノロの方がイラブ―漁を行っている。久高ノロの燻製所は、久高殿の横にあるバイカンヤー。枯葉や炭火で10日近くもいぶすので、保存がきく。出来上がったものは、本島の市場に売り、その収益を久高ノロと村頭が分ける=この項、比嘉康雄、谷川健一著『神々の島 沖縄の久高島のまつり』>

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