レキオ島唄アッチャー

佐敷でもヒスイカズラ咲く

 神秘的な色彩のヒスイカズラが、南城市の佐敷手登根(テドコン)でも咲いていると「琉球新報」で報じられたので、またまた見に行った。那覇市在住の高嶺さんが、手登根に所有している庭園に週数回通って育てているとのこと。連絡をとると幸い、庭園に来ているとのこと。さっそくうかがった。
 場所は、第2手登根バス停から伊原公民館向けに入り、しばらく行って右折し、月代に抜ける道に入るとのこと。指示通り走ると山道になった。不安になり、近くの畑にいるおばあさんに尋ねたがよくわからない。ウロウロしていると、電話があり、迎えに来ていただいた。やはり、山道を少し登れば、すぐ庭園があった。
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 庭に入るとすぐ「これはアボガドですよ」と高嶺さんが指差した。「エッ。アボガドって輸入品しか見たことないけれど、沖縄でも育つんですか?」と思わず聞いた。「ええ、できますよ」。花だけでなく、果樹もいろいろ作っている。
 奥に進むとヒスイカズラが見えてきた。庭の中央部に小屋が建っている。「これは廃材を利用した手作りの小屋です」。これまたビックリである。 
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 ヒスイカズラは、小屋を取り巻くように、張られた棚から花が垂れ下がっている。翡翠色が鮮やかである。
 仕事を退職したあと、この場所を手に入れ花々や果樹を栽培しているという。ヒスイカズラはまだ植えてから4年ほどだというが、そんな短い年月とは思えない広がりである。 
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 先日、見てきた垣花のヒスイカズラより花が咲くのが早いようだ。蕾もたくさんあるが、咲いている花が多い。
 高嶺さんは「どうぞ上がってください」と小屋に招き入れてくれた。小屋は「ヒスイ庵」と名付けている。ベランダに出ると、垂れ下がっているヒスイカズラを上から見下ろす感じになる。 
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 ベランダには椅子とテーブルが置かれている。コーヒーを出してくれた。勝手に押しかけて、見せていただきながら、コーヒーまでいただくなんて、恐縮の至りだ。
 ベランダからは、中城湾が眺望できる。 
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 南城市は、自宅の庭園を開放する「オープンガーデン」の取り組みが盛んだ。高嶺さんは、那覇から通っていて、いつもいるわけではないので、参加はしていない。でも、市役所に問い合わせて訪れる人もいるそうだ。
 帰りは、坂道を登ると、知念の風車が回っている付近に出た。
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茶番劇、農水相の知事指示の効力停止

  まったくの茶番劇と言うほかない。米軍普天間飛行場の辺野古移設をともなう新基地建設について、林農水相が3月30日、翁長県知事の沖縄防衛局に命じた海底作業停止指示を一時的に効力を停止すると通知したことである。
 最大45トンもの巨大ブロック投入により海底のサンゴが破壊されていることから、翁長知事が防衛局に作業停止を指示したのは当然のことだった。
 防衛局が、知事の指示に対して、行政不服審査法に基づき、農水相に不服審査請求と裁決が出るまで緊急に知事の指示を無効とする執行停止申立書を提出したこと自体、おかしな話だった。本来、この申立制度は国民が国の行政処分に対する不服申し立ての権利を保障したものだ。県民の反対を無視して埋め立てに向けた工事を進める防衛局が、同じ国の機関に不服審査を申し立てることは、この制度の趣旨を悪用したものだ。
  菅官房長官は「公平・中立な立場から審査」したと述べたが、白々しい。辺野古新基地建設を推進する安倍内閣のもとで、「公平・中立」な審査などあり得ない。
 県知事が27日に知事意見書を農水相に提出したさい、すぐにマスメディアは農水相が知事の作業停止指示の効力を停止する意向を固めたと報じた。まともに審査する時間もない、余りにも早すぎる「指示の停止判断」の報道だった。審査以前に結論は決まっていることを裏づけたようなものだった。
 国が国の機関を使って、知事の作業中止指示を押しつぶそうとするのは、理不尽もはなはだしい。
 それにしても、驚くのはその理由である。作業の中止で工事が遅れれば、「日米両国間の信頼関係への悪影響による外交・防衛上の損害が生じる」などとのべている。
 これは、防衛局が24日に提出した審査請求書などで、移設事業の遅れは「日米の信頼関係に回復困難なほど悪影響が及ぶ可能性がある」という主張をそのまま認めたものである。法律論を避け、「日米関係」を大上段に振りかざすところに、道理のなさがうかがえる。
 これまで沖縄県民は「日米関係」「安全保障」の名のもとに、耐えがたい犠牲を強いられてきた。こんな野蛮な論理は県民に通用しない。
    
  この国の主張には、すでに県知事意見書で明確に反論していた。
 米軍専用施設の74%が沖縄に存在することが異常であり、それが沖縄経済発展の最大の阻害要因であること。日本の安全保障の負担を沖縄県民だけが背負うものではなく、日本国民全体で考えるべきこと。県民は先の県知事選挙において移設による負担の継続ではなく、米軍基地負担を否定する道を選んだ。にもかかわらず、辺野古移設を「唯一の解決策」と決めつけ、執行停止の理由として述べることは、沖縄県民の痛みを感じない、政府の姿勢があること。日米関係が悪化するから、日本国内法に基づく必要な許可を得ないままに作業を続行させて良いというのであれば、それは主権を持つ一つの独立国家の行動ではない断じざるを得ないであろう。
 
 この知事意見書は、たんに翁長知事だけではなく、沖縄県民の叫びが込められている。
 昨年の知事選、衆院選など選挙結果によっても、「辺野古新基地NO」の明確な意思が示されたにもかかわらず、県民と県知事の声をかえりみず、無理やりに力づくでもゴリ押しするとなれば、もはや民主主義国家とは言えない。
 4月には日米首脳会談が予定されている。アメリカにばかり顔を向けオバマ大統領の「信頼」を得れば、沖縄県民には背信行為を続けてよいのか。日本政府いはったいどこの国の政府なのか。そんな思いが強まるばかりだ。
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神を褒め、吾等も褒めた古謡

神を褒め、吾等も褒めた古謡
 豊作を祝う歌謡で、豊穣をもたらしてくれた神様や誰かを褒める歌は、節歌の村褒めの曲以前の古謡にも、たくさんあった。
 「かんむらーま」(鳩間島)は、鳩間島に豊かな世になれば「誰を鳴響(ティユ)ます 親神(ウヤガミ、祖先神)を鳴響ます」と歌われた。  
                 
         鳩間島独特のカンムラーマと子どもたちとの子孫繁栄の踊り
 「ゆーくいじらま」(鳩間島)もほぼ同様の歌詞だ。
 「ぱーれー唄」(黒島)は、「来年の世が 来夏世が稔るなら 誰が鳴響む(評判になる) どれが名を取られるのだろうか」と問いかけ、大親神、守護神が鳴響む、さらに「吾等皆が鳴響む 鳴響まれるのが 名が取られるのが欲しくて その果報を この願いを祈願する」と歌う。
 「穂利じらば」「ながれくいじらば」(黒島)もほぼ同じ内容である。「ぺんさあ」(黒島保里村)も同じような歌詞である。
  これらは、豊穣の世になり評判になるのはまず神様である。神様だけでなく「吾等みんなが鳴響む」、評判が欲しくて「果報を祈願する」としているのが面白い。
 
  評判になる対象に、役人を上げる古謡もある。
 「今日が日じらば」(西表島崎山村)は、弥勒世をいただき、首里への貢物を積み上げ、私でさえ嬉しい、来夏世の願いをかなえてくれれば、「崎山村の主の前(御役人様)はもっとだろうよ 下八重山の作当り(役職名)はもっとだよ」と役人を持ち上げる。
 「正月ぬあゆ」(黒島)は、大親神に続いて「島の世持(階級名)を鳴響ませる」としている。
  「ぱいみじらま」(鳩間島)も同じく、祖神(祖先神)や手摺り(神女)の名を取らす、さらに世持ちたち、島持ちたちの名を取らすと褒める。ただ、その後に続けて「我等皆を名取らす」と村のみんなも褒めているのが、したたかというかたくましい。

 
  このように、ジラバや豊年祭の古謡など豊年を祝う歌謡では、褒め称える対象は、親神(祖先神)や神女が中心であり、その後に役人や村人も入っている。決して役人だけを褒める内容ではないところが注目される。
 しかし、士族たちが作ったという節歌の村褒めの曲になると、褒め称えられるのは、「豊かな世は役人さまのお蔭」と役人褒めが中心である。「親神を鳴響せる」というような神への感謝の言葉もほとんど出てこない。ましてや村の百姓「我等みんな」はまったく対象にはならない。ここには見過ごせない変化があると思う。
  つまり、民衆のなかから湧き出る思いが込められた歌謡ではなく、役人らが政策的に作ったり、編曲したという節歌の特徴が色濃く反映されているのではないか。

  愛される村褒めの歌
 これまで村褒めの曲について、ケチばかりつけていると受け取られるかもしれない。だが、それは真意ではない。
村褒めの曲が政策的に作られたといっても、その曲の民謡としての価値やそれがどのように人々に受け入れられたのかということは、まったく別の問題である。
 節歌は三味線を中心とし太鼓、笛などの伴奏をともなって歌われ、さまざまな祝いの場で歌われたという。村褒めの曲は、三線、太鼓、笛をともなって歌われると、華やかである。祝いの場をはじめ機会あるごとに繰り返し演奏されるうちに、士族層にとどまらず広く一般、庶民層に浸透し親しまれるようになっただろう。

  村褒めの曲を演奏すると、とても盛りあがる。気分も楽しくなる。八重山古典民謡を愛する人々に好んで演奏される人気の定番曲の位置を占めている。
  私のように八重山民謡をかじり始めた人間にとって、村褒めの曲に接し、その歌詞を読み込み、歌うことによって、王府時代に生きた人々の移住による村建ての労苦や喜び、豊穣と豊年の世への願いなどを肌で感じ取ることが出来る。そういう意味では、村褒めの曲は、八重山古典民謡の世界で重要な一分野を担っている。これからも、長く愛され、歌い継がれていくだろう。
終わり                 
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咲き始めたヒスイカズラ

 神秘的な色のヒスイカズラが咲く頃だと思い、南城市玉城垣花を訪ねた。花があるのは、平良さんの自宅。玄関に向って歩いて行くと、マンゴーハウスに居たご主人が「どうぞ見て下さい」と声をかけてくれた。
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 昨年までは、屋敷の塀から花が下がっていたのに、今年は花のカズラが伸びて、前の通路が花の棚になっていた。
 「1年でこんなに伸びたんですよ」と言う。ものすごい成長力である。
 屋敷の中に入ると、こちらもまだ、蕾が多くて、咲いているのは少ない。でも、翡翠色というのだろうか、その神秘的な色彩と花の姿は、他に類をみない魅力がある 
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 フィリピン原産のマメ科の花だという。
「今年はひと月遅いんですよ。2月の気温が低かったからなのか。昨年はユンジチ(旧暦のうるう年、同じ月が2回ある)があったから、花の季節の感じ方がズレたのか、花が咲くのが遅い」と平良さんは言う。
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 4月中旬頃が、見頃になりそうだ。いまの無数に下がっている蕾が一斉に咲けば壮観だろう。もうすぐ新聞記者が取材にくるそうだ。
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 すでに花びらが散ったものもある。地面に落ちた花びらも美しい。

 垣花に来る途中、親慶原(オヤケバル)を通る。チャーリーレストランがある。経営者が戦後、米軍基地で料理をしていたそうで、ここのパイは美味しいとの評判だ。朝まだ開店したばかりなので、ケースには、パイがズラリと並んでいる。チェリーパイを買った。アメリカ仕込みなのか、とても甘い。
 消費税と小麦粉の値上げで、前より少し値段が上がっていた。あらゆるところが値上げ、値上げである。
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 昼時になるので、車で少し走り、前川にある「カルカフェ」に行った。こちらは、野菜をたくさん使った家庭料理のランチバイキングで、地元の客も多い。こちらも前は1200円だったが、1300円に値上がりした。半年ぶりくらいに来てみると、テーブルの配置など変わっていた。料理は、前と変わらない美味しさだった。 
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ジョン万次郎上陸の地を歩く、その5

 土木遺産に認定された「用之助港」
 大渡海岸には、「用之助港」と呼ばれる港跡がある。和田達雄さんが案内してくれた。万次郎とは無関係である。
白い砂浜の沖合は、珊瑚礁が広がり、その外縁に環礁があって、舟は入れない。そのため、環礁を掘削して舟が入れるようにしたのがこの港跡だ。明治40年に完成した。当時佐賀県から沖縄にきて島尻郡長を務めていた第11代齊藤用之介が、漁業振興のため掘削させた。 
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  「大渡の用之助港」は「珊瑚礁に囲まれた沖縄ならではの土木遺産として価値が高い」として、2009年に「土木学会推奨土木遺産」に認定された。
  実際に現場を指揮した蒲助の名を取り「蒲助港」という別名がある。 
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  「用之助港」の近くに、岩が3個かある。2014年7月6日の台風8号によって海底から陸揚げされた。和田さんは、万次郎らが最初にボートで漂着したことにちなんで、「伝蔵岩」「万次郎岩」「五右衛門岩」と3人の名前をつけている。
沖縄の南部を回る機会があれば、ジョン万次郎がアメリカから帰国し、最初に上陸したこの地を訪ねて、万次郎を想起してほしい。

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ジョン万次郎上陸の地を歩く、その4

 小渡浜に上陸した万次郎らは、2人の役人に連れられて米須村にあった摩文仁番所(役所)に向かった。万次郎らが通った昔の宿道(公道)を和田さんが案内してくれた。  
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                   万次郎らが上陸した小渡浜の岩崖
 万次郎ら一行は、岩崖を上がり宿道に出て、小渡村に向い急な坂のニンブイビラ(ヒラとは坂道のこと)を通り小渡村の元家(ムツーヤー)、玉城家に寄り挨拶をして、お茶をいただき小休止する。そして、カテーラビラを上り番所で待機した。ちょうど昼時になり、近所の村人がたくさん出迎え、温かいふかしイモや差し入れをいただいた。 
             
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                  小渡浜から豊見城間切翁長まで移送された順路の説明図 
 玉城家のあった場所や摩文仁番所跡は、いまは建物もなく、説明してもらわなければわからないままだった。摩文仁番所が、摩文仁ではなく、米須にあったことも説明を聞いてわかった。

 万次郎ら3人は、王府から派遣された役人2人の簡単な取り調べを終えて、午後4時過ぎ、徒歩で那覇に向かう。途中だんだん暗くなり、松明(タイマツ)に火をともして歩き続けて、小禄番所(現在は那覇市)にやっと着いた。
 その後、垣花のガジャンビラの近くまで来たところ、那覇から来た役人の指示があり、豊見城間切翁長村に行くように伝えられる。その理由は、イギリスから宣教師として派遣され、那覇にいたベッテルハイムが活動していて、3人と会わせるのはまずいとの薩摩藩の役人の判断があった。那覇から離れた豊見城間切翁長村に向かう。
                  
 歩き疲れたため、役人の配慮で籠を用意してもらい翁長村に到着すると真夜中になっていたが、夜明けまで取り調べを受けた。その後、徳門家(屋号・トクジョウ)の高安親雲上(ペーチン、琉球士族の称号の一つ)の母家を借りた。
以後、旧暦7月11日、翁長村を離れるまで半年間にわたり翁長村に滞在することになる。
 竹の柵で母家の周囲をかこみ、薩摩役人5人と王府の役人3人が交代で監視した。食事は、琉球王府より調理人3人が派遣され、米飯に豚、鶏、魚肉や島豆腐、野菜などを使った琉球料理を毎日食した。時には王府から泡盛が送られもてなしがされた。
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             万次郎が滞在した当時の高安家の家屋敷と思われる風景を再現した絵

  琉球王府のもてなしの背景には、次のような事情があったと考えられる。
 1705年7月、琉球の進貢船が中国の福州からの帰りに遭難して、土佐清水の清水浦に入り4か月間滞留した。その間、進貢船の使節通訳官である奥間親雲上はじめ役人、乗組員82人が土佐藩の世話を受け、現地で病死した1人は地元の連光寺境内の墓地に墓碑も建立され丁寧に祀られた。帰国の際、土佐藩主は絵画、掛物、陶器などを琉球に贈り、船員には多量の食糧品を送った。琉球王府にとって、土佐で介護してくれた土佐藩に対する返礼の機会でもあった。
 万次郎ら3人はその後、同7月18日、那覇港を出港し薩摩の山川港に向かった。
 以上の万次郎らの琉球上陸と半年の経緯は、和田達雄氏の執筆した「ジョン・万次郎の琉球上陸 半年の足あと」からの抜粋、要約である。

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ジョン万次郎上陸の地を歩く、その3

 火炎放射器で焼かれた岩崖
 小渡浜の東側の岩崖の下部が少し窪んでガマのようになっている。「あそこは岩が黒くなっているでしょう。あれは米軍の火炎放射器で焼かれた跡だよ」と和田さんが説明する。見ると、本当に岩が黒く焼けただれたようになっている。 
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 沖縄戦で米軍の進攻を受け、首里から撤退した第32軍は摩文仁に司令部を置いた。摩文仁に近いこの大渡海岸は、追い詰められた住民らが逃げ惑った場所でもある。ちょっとしたガマにも避難し、海岸沿いの湧水もすくって喉を潤しただろう。
 このあたりは、摩文仁には平和の礎があり、米須にはひめゆりの塔がある。沖縄戦の悲劇がどこにも刻まれている地である。
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                  奇岩をカメラで撮る和田さん
 上陸の地に記念碑を
 大渡海岸を訪れる人は、年々増えているようだが、万次郎の上陸地の足跡を示すものはない。「万次郎ビーチ」と呼ばれても、その意味を伝えるものもない。
 ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会は「万次郎上陸の歴史的価値を後世に伝え」、万次郎が鎖国日本の開国に貢献し、「琉球の夜明けはもとより日本の夜明けが、ここ大渡浜から始まったことを明らかにする」(同趣意書)ために、記念碑建立が必要だと主張している。
 まだ建立は具体化されていないが、その前に当面「ジョン万次郎上陸之地」の看板を5,6月にも設置したいと準備を進めているそうだ。

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ジョン万次郎上陸の地を歩く、その2

 数年前に、大渡海岸を見た時は、漠然と広い砂浜の中央部にでも万次郎は上陸したのかと勝手に思っていたが、まったく違っていた。
 ちょうど潮が引き、浅瀬の岩場が海面から出て来た。駐車場から岩場に降りて、イノー(礁池)の上を上陸地の浜に向って歩いていった。 
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 途中に、海岸沿いに岩石が連なっている。動物の姿に似た奇岩がある。和田さんは、そんな岩を見つけては、命名してきた。 
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 「ふくろう岩」「ゴリラ岩」「シ―サー岩」「ライオン岩」「カメレオン岩」。中でも「鷲の親小岩」はとてもよく似ている。自然の岩とは思えないほどの造形美である。
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 潮が引くと、イノーの中に、青い熱帯魚がたくさん泳いでいる。水際の岩場から、湧水が流れているところもある。足を滑らせないように注意しながら岩場を回っていくと、小渡浜に着いた。 
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 小渡浜は、小さな入り江になっていて、東側は崖がそそり立っている。昔は山原船(ヤンバルセン)が入ったそうだ。浜には下部がえぐられた巨岩も立っている。
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 浜の西側、岩石が連なっている中に、ポッカリと岩の割れ目が見える。
 「この割れ目から万次郎は中に入ったんだよ」と和田さん。身体を斜めにして、少しかがみながら割れ目をすり抜けた。 
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私も後に続いたが本当に狭い。割れ目から入ると、周囲が岩に囲まれた砂地があり、ちょっとした広間のようになっている。万次郎らは、身の保全と食事をとるため安全な場所を探した。ここで朝食をとりコーヒーを飲んだのではないか、和田さんは説明する。
 「高知県の地図があるよ」と近くの岩を指差した。言われれば空洞部分が高知県の姿に似ている。
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こんな岩を見て「高知県に似ている」などど、喜んでいるのは、2人とも高知出身だからだ。沖縄に来るまでは、縁もゆかりもなかった高知人2人が、沖縄の地で万次郎の上陸地に立っていること自体が、不思議な偶然である。

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ジョン万次郎上陸の地を歩く、その1

ジョン万次郎上陸の地を歩く

 ジョン万次郎がアメリカから帰国する際、上陸したことで知られる沖縄・糸満市の大渡海岸を歩いた。今回は、ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長の和田達雄さんが案内をしてくれた。和田さんは、高知県出身で近くの米須に住んでいる。記念碑建立に情熱を注いでいる方である。 
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 大渡海岸は、いまダイビングやシュノーケリングの適地として、県内外から人々が集まる。この日も、朝からアメリカ人を含めてダイビングやサーフィンを楽しむ人たちが駆けつけていた。大度海岸は「万次郎ビーチ」とも呼ばれている。
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 和田さんは、「ジョン万次郎の琉球上陸、半年の足あと」を文章にまとめ、「下船から上陸までの経緯」「上陸小渡浜から翁長村への道順」を、写真や図を使ってわかりやすくA3用紙2枚に図解している。パネルにして近くの「海の見えるレストラン」に展示もしている。
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 万次郎(23)と伝蔵(47)、五右衛門(25)の3人は、ハワイから商船サラボイド号に乗船して琉球の喜屋武岬沖まで来て下船し、小型ボート・アドベンチャー号を降ろした。雨と霙(ミゾレ)混じりの寒い荒海の中、10時間近く漕ぎ、大渡海岸沖の干瀬(ヒシ)の浅瀬に着き、一夜を過ごした。翌朝、ヒルクイエ(海水温が急に凍え死んだ魚)を捕りに来た村人に出会う。異様な容姿に驚いて逃げてしまったが、一人の若者が話しかけてきて、「ここは琉球の摩文仁間切(マギリ、いまの町村)」と応える。「どこから来たのか」と尋ね、漂流して異国で10年過ごし帰国する旨を話すと、安心したのか「ここから東によい船着き場があるので、そこへ回りなさい」と教えてくれた。3人は広い海岸の東端にある小渡浜に無事上陸した。
1851年2月2日(旧暦正月2日)のことだった。
                 


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政策的に作られた村褒めの歌

  村褒めの曲は士族・役人が作った

  村褒めの歌は、百姓の上に立つ士族、役人によって作られた節歌である。
  「(節歌など)今日の八重山民謡はほとんどこれら士族の作詞作曲によるものである。ユンタ・ジラバ・アヨウなどの古謡は、いわゆる労働歌で、楽器の伴奏を要せず、これは平民の歌う歌であった」(牧野清著『新八重山歴史』)。
  節歌は、庶民の生活と労働の中から生まれたユンタ、ジラバなど古謡を素材としながらも、三線の伴奏で演奏し歌うように改作し、仕上げられた曲が多い。
  「八重山の土地誉めの歌の多くは、庶民の労働意欲をあおるために役人が政策的に作ったものといわれています」(三線教室「クイチャーパラダイス」HP)。
 
  このような指摘は、それなりに的を射ているように思う。
  なぜなのか。私的に考えてみたい。その理由をあげる。
  まず、村褒めは、庶民の心から湧き出る内発的な要求とは思えないこと。移住で創建された多くの村は、マラリア禍や天災、大津波などで人口の減少で移住が繰り返され、結局は廃村になった。決して永続的に繁栄してはいないこと。
歌の内容を見ても、厳しい村の現実の姿、庶民の実情は捨象され、あまりリアリティが感じられない。いかにも、百姓の上に立つ士族層の視線で作られた印象が強い。
  村を褒め称えることで、苦しいことがあっても、「自分たちの住んでいる村は、果報の村だから、しっかり働けば報われる。頑張れよ」と百姓たちを農作業に励ませて、年貢を完納させるという役割を持っているのではないか。歌にはそんな要素が織り込まれている。 
                
  村褒めの歌は、さらに豊年をもたらしたのは、お役人さまのお蔭だという「役人褒め」にもつながっている。
その典型は「鶴亀節」だろう。「川平鶴亀節」ともいう。次の歌意となっている。
「♪川平村に 豊穣の世を賜った 平和で豊かな世を賜り 恵み豊かな世を賜った 現在の与人(ユンチュ)役人のお蔭で 川平村の目差(メサシ)役人のご尽力により ゆたかな世を賜り 豊穣の世を賜り…」 
  「揚与那覇節」は次のような歌意である。
「♪与那覇主のお陰で 主の前(御役人様)のご恩義で 昔の世をいただき 神の世をいただき 主の前を仰ぎ 百果報を手摺る(祈願する)」
  「昔の世、神の世」はいずれも、豊穣の世の意味である。お役人のお蔭であると褒めあげている。
「種子取節」「白保節」などは、豊作をいただき、主の前(御役人様)、目差主(役職名)を招待して、お祝いをしようと歌う。
  
  村褒め曲は、現代で言えば、学校の校歌や企業の社歌などが同じジャンルに属するのではないか。学校、企業の伝統や自慢、特性や優位性を歌に盛り込み、みんなが自信と誇りを持ち、勇躍して勉学、仕事に励ませる役割を持っている。

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