レキオ島唄アッチャー

無料で国内最長の伊良部大橋が開通

 宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋が1月31日開通した。本橋部の3540㍍は無料で渡れる橋としては国内でも最長だ。海中道路の部分が600㍍ある。離島の宮古島のまた離島として、「離島苦(しまちゃび)」を味わってきた島民が、1974年に架橋を要請してから40年越しの悲願の実現である。 
             伊良部大橋
 伊良部島はまだ行ったことがない。ただ、宮古民謡の名曲「伊良部トーガニー」を歌っていると、一度行ってみたいと思っていた。
 想いを寄せる彼女が伊良部島にいて、宮古島から逢うために通って行く情景を歌った抒情歌である。
 歌詞は、伊良部島は遠いので、島に渡る瀬があればいいのに、途中で休める瀬があればいいのに。夕方になり、愛しい彼女の家に忍び込むのに、開けると板戸の音が高いので、親に知られる。鳴らない戸、ムシロの戸を下げて待っててください。こんな歌意である。
 大橋の開通で、抒情ある民謡の世界は、遠い昔の記憶となるだろう。
 伊良部島は、1308年に宮古島久松の野崎村、久貝から住民が移り住んだのが起源といわれる。島の北側にある佐良浜は、1700年代に池間島の漁民が分村して起こした集落である。佐良浜は、池間添、前里添という2つの字がある。
 伊良部島といっても、島の北側、佐良浜は漁業が盛んだが、南側はサトウキビなど農業を営む。「島民の気性や体系も異なるといわれるほど、北と南で風土が大きく分かれている」という(「琉球新報」1月30日付)。
 伊良部島は、美男美女が多いそうだ。女優の仲間由紀恵さん、国仲涼子さん、プロ野球の巨人軍の宮国椋丞選手は、生れは沖縄本島だが、親が伊良部の出身だとか。宮国君もなかなかのイケメンである。両女優は大活躍だが、宮国君も今年は飛躍してほしい。
 橋の開通は、島民にとって医療や教育、買い物などの面で朗報だろう。ただ、橋が開通すると外から人が来る半面、島から出て行く人が多くなるという話もよく聞く。住民の暮らしの向上に役立ってほしい。

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南風原病院壕の悪臭を再現

 沖縄陸軍病院南風原壕群の悪臭を再現して、26日から公開するというので出かけた。
 この病院壕が一般に公開された2007年に一度、見学したことがある。その際、案内してくれた方が、「再現できないのが臭いです」と話していた。狭い壕内は、たくさんの軍医、衛生兵、負傷兵、看護婦、学徒隊らがいて、血と汗、糞尿などで悪臭がたちこめていたという。 
                       南風原陸軍病院壕


 その臭いを再現しようと関係者が取り組んで、体験者の臭いの記憶に近い臭いを再現することに成功したそうだ。 
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 臭いを嗅ぐ前に、ガイドさんの案内で、南風原壕群20号に入った。入り口でヘルメット、懐中電灯を借りて入ると、一瞬にして戦時の世界に入り込む。
 「埋められた薬品類」があった。ガイドさんが説明する。「麻酔など薬品がそのまま埋められていました。麻酔なしで負傷した兵士の足を切断したけれど、麻酔がないのではなく、あったけれど戦争が何時まで続くかわからないので節約して使わなかったのです」。これまで「麻酔がなかった」という話をよく聞いたけれど、「節約」というのは初めて聞いた。 
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 南風原から撤退する時、重症患者にミルクと青酸カリを配り自決を強要したことはよく知られている。戦争の残酷さだけでなく、日本軍の非人間的な体質を示すものだ。
 壕を出ると、いよいよ再現された壕内の臭いだ。「これに再現された臭いが入っています」と持ち出されたのは、三重に密閉されたビンの容器だった。 
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 慎重に蓋をあけて取り出されたのは、青色の小さなビン。開けたビンの口を手で囲って鼻を近づけると、なんとも表現のしようのない悪臭が漂ってきた。5秒我慢して嗅いだ。血の臭い、汗の臭い、糞尿の臭い、どれでもない。一瞬嗅いだだけでも、たまらないのに、この悪臭が充満した壕内で、動けない兵士、働く看護の学徒隊らの辛さは想像を超える。 
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 ツレは10秒ほど嗅いでいたが、その後も一日中、この臭いを思い出して気分が悪くなるほどだった。
 沖縄戦の実相をリアルに伝えていくためには、病院壕と様々な戦時資料に加えて「臭いの再現」は欠かせない役割を果たすだろう。
 
戦跡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

沖縄随一のコスモス畑

 八重岳の桜を見た帰り道、高速道路を金武インターで降りると、金武町に住むSさんが「伊芸のコスモスを見ていきましょう」と言う。そういえば、先日、新聞でも写真が掲載され、わがブログでも紹介したばかりだった。でも、まだ伊芸のコスモスは見たことがないので、早速向かった。国道329号線を走っていると「コスモス祭」の案内の看板が出ていた。案内係が配置され、駐車場まで誘導してくれる。
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 金武町は水田があり、稲作が行われていることで知られる。国道を少し入ると、その水田一面にコスモスが咲き誇っている。広大だ。約2万5千平方メートルの広さがある。他でもコスモスを見に行ったことはあるが、これだけ広いコスモス花畑は初めて。沖縄随一だという。 
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 「畑の中で写真撮影は禁止」という表示があったけれど、もう子どもたちは花畑に入って走り回る。写真を撮るポイントは、草がなぎ倒されている。もうだれも止められない。赤ちゃんを座らせて写真を撮っているお母さんがいた。 
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 金武町といえば、米海兵隊のキャンプハンセンがあるので、米兵らしいアメリカ―のカップルや子ども連れも目に付く。
  コスモスは、11月から3月までの遊休期間中の田んぼに緑肥として区が植えているもの。10年前から始まり、祭りは今年て2回目だという。 桜とコスモスが同じ頃に見られるのは、真冬といっても沖縄は本土の春や秋の気候ということだろう。
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 金武の中でも伊芸区は、米軍の都市型訓練施設が近くにある。実弾射撃訓練が行われ、流れ弾が住宅地に飛んでくるという事故が起きている。鮮やかなコスモスの花畑と危険な基地は似合わない。

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八重岳の桜、青空に映える

 本部(モトブ)町の八重岳のカンヒザクラが見ごろを迎えているというので、出かけた。今回は、金武町に住むSさんをお誘いした。「屋嘉節」でお馴染みの屋嘉で彼女が相乗りして3人でのお花見となった。
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 カンヒサクラは、本土のソメイヨシノと異なり、寒い北から南へ、山の頂上から麓へと桜前線が下がってくる。
 八重岳の登り口を入ると、「桜開花状況」の案内が出ている。それによれば、頂上4分咲き、中腹3分咲き、ふもと2分咲きとなっている。でも、下の方でもかなれ咲いている。毎年、よく咲いている中腹にある駐車場に入ると、もう満開に近い。 
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  この日は青空が広がる絶好の天気だ。暖かい。ピンク色の桜の花びらが青空に映えて鮮やかである。
 桜にはメジロもつきもの。今年もメジロが花から花へと飛び回り、花の蜜を吸っていた。
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 もっとも開花していると表示された頂上部に向かうと、なぜかあまり咲いていない。花が終われば、若葉が出るはずだけれど、若葉もないから散ったわけではないようだ。「うーん。4分咲きとはどこのことだ!」。開花情報って、あてにならないなあ。
 まあ、八重岳の桜は、長い距離の道路脇の桜並木なので、一度にそろって咲くことはない。見た限りは、中腹あたりが6、7分咲きくらいにはなっているので、もう見ごろを迎えている。 
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 土曜日なので、お客さんが多いのでは、と心配したが、出足が早かったのでそれほど多くはない。
 天候はよいし、暖かで、桜もそれなりに咲いて見ごろなので、とってもラッキーな桜見物だった。 
 桜を見た後の昼食は、沖縄そばが定番だ。本部は、そば屋がひしめき「そば街道」の異名がある。でも、わが家は、渡久地にある「さわのや」がお気に入り。今日も、3人で行き、私は、一番人気の「軟骨そば」を食べた。トロトロ煮込んだ軟骨ソーキが柔らかく、かつお出汁もとっても味わいのある美味しいそばだった。
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「『世ば稔れ』考」を読む、その8.。まとめ

八重山・宮古の豊穣願う心情が噴出
 波照間永吉氏は、「『世ば稔れ』考」の最後のまとめで、おおよそ次のようにのべている。
 この囃子(「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」)が、自然に翻弄され、首里王府や地方役人たちの政治に痛みつけられた八重山・宮古の農民たちの心の底からの願望の言葉であったこと。それゆえ、農耕祭祀の場で謡い、踊られる歌謡にその本質的な姿をみせていたこと。そして、この願望の言葉は、囃子として繰り返し謡われるだけでなく、本歌詞の中にもその姿をしっかりとどめるものであること、などを確認した。さらに、この囃子が、庶民を主人公とする物語歌謡にも採られ、物語の内容とは関連性を見出せないようになっていることもみた。これについては、謡い手たちのこの囃子に対する嗜好について考えたが、大きくは、南島歌謡の、本歌詞と囃子詞の関係を明らかにすることが必要であることを指摘した。 
 (さらに、この問題を包括的にとらえるためには、「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」と類似した文句についても、探索の手を及ぼすべきだと指摘する)
              
                       「ユバナウレ」が歌われる本島民謡「祝い節」
  ひたすら豊穣を希う民族的心情は地下水脈のように流れ続けている。それが噴出したのが「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」という句なのであろう。この句は、オモロをはじめ沖縄・奄美の歌謡には見出せないものである。いわば、宮古・八重山=南琉球に固有の詞句である。それが生まれる背景には、宮古・八重山固有の長い歴史と文化の積み重なりがあったように思われる。

 「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の心情は、ニライ・カナイという海上他界からの豊穣の到来を乞う、琉球弧普遍の文化の中から生まれたものではあるが、その表現は南琉球固有のものである。南琉球の民人の苦難の歴史がこの句を生み、そして、この文句を物語歌謡の中にまで沈静させ、人々の心を支えてきたように思われる。

 以上が、「『世ば稔れ』考」のあらましである。勝手に論旨を要約し、紹介させていただいた。
 八重山古典民謡を歌ってみると、この「ユバナウレ」の囃子は、八重山歌謡を理解するうえでキーワードというべき位置を占めているように感じてきた。それで、この囃子が使われている歌謡の事例を集めて、自分なりの解釈をしたのが「ユバナウレ考」だった。だが、所詮、八重山民謡の愛好者に過ぎない素人が、気楽に私見を書いたにすぎない。

  波照間永吉先生がちょうど同じくらいの時期に、専門的に研究され、論文のための調査を終え、執筆にかかったところで、インターネットにアップした拙文の存在を知ったとのこと。まったくの偶然だった。
  さすがに、八重山の出身で、八重山の民俗や歌謡について研究されている先生ならではの分析と解明で学ぶところがとても多かった。八重山古典民謡を学ぶ方、関心のある方は、是非読んでみてほしい論考である。


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「『世ば稔れ』考」を読む、その7。物語歌謡で

 波照間永吉氏著「『世ば稔れ』考」の紹介の続きである。

  物語歌謡と「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」
  八重山・宮古の物語歌謡と「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の関係について、どのように考えればよいのだろうか。2つの側面が考えられる。歌謡の本歌詞と囃子との意味的なつながりの面からのアプローチ、物語歌謡の内容が、囃子として「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の句を招き寄せた、という立場。もう一つは、歌謡の旋律や拍などの音楽的な要素と「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の囃子が結びついて、内容とは無関係に採用された、と考える立場である。
 
  波照間氏はこのあと「この問題について初めて言及したのは沢村昭洋氏の『ユバナウレ考』だろう」とわが拙文を紹介している。
 物語歌謡40篇(八重山23・宮古17篇)の「個々の歌の大意と『ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ』がその歌で謡われる理由の考察を行っている」として、いくつか引用している。また、歌の物語と囃子が乖離し、うまく説明ができない歌の存在についても、私の記述に言及してくれている。 
               
           「ユバナウレ」が歌われる「安里屋節」

 その上で波照間氏は、次のような見解をのべている。
  「説明できる例と出来ない例。この両者を貫く原理があるのではないだろうか。本歌詞と囃子との関係という、『おもろさうし』以来の問題がここにあるだろうか。ただ、今は、本来、豊穣予祝歌の一部として、本歌詞の内容と密接に関わっていたこの囃子詞が、『ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ』という全き願望の表現ゆえに、謡い手たちの琴線に触れ、囃子詞として流布していくことになったのではないか、と推測している。すなわち、謡い手の囃子詞に対する嗜好が、歌の内容との関わりを次第に希薄化していった結果、本歌詞の内容とは無縁ながらも、さまざまな内容を謡う物語歌謡の囃子として「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」が採用されたのではないか、ということである」
 
  私の個人的な感想をのべたい。「ユバナウレ」が「穀穂よ稔れ」という豊穣への願いを表す言葉であることは、波照間氏の論考によってよく理解できた。
 この句が豊穣祈願の歌謡だけでなく、日常生活にかかわる物語歌謡でも、たくさん謡われていることをどう考えるのかー。言葉は、長く使われているうちに、本来の意味が拡張され、時に転じて使われ、新しい意味が付加されることがよくある。「ユー(世)」の語自体が、穀物の稔りを意味する本義から、穀物の実りのサイクル(時間)を意味するようになり、さらに人生の一代・一期、人間の構成する社会(世間・社会)を意味するようになったという。
  
  「ユバナウレ」も使われていくうちに、「ユー」は、本義を離れて「世の中」の意味を持ち、「ナウレ」も「稔り」だけでなく、語感から転じて「直れ」の字で表現されるようになったのではないか。そして「世ば直れ」「世の中がよくなれ」というように、言葉の意味内容が付加され、展開されるようになったのかもしれない。
  「穀穂よ稔れ」の意味だと使われる歌謡は、豊穣祈願などに限定される。だが、「世の中よ直れ」という意味合いを持つようになれば、その適用範囲はぐんと広がる。言葉は、一人歩きする。この囃子のもつ意味と語感が共感を呼び、いっそう多義的な意味を付加され、さまざまな歌謡で謡い込まれるようになっていったのではないだろうか。なんの例証もないが、そんな気がする。
 拙文「ユバナウレ考」を読みたい方はこちらを見て下さい。ユバナウレ考
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「『世ば稔れ』考」を読む、その6。展開

波照間永吉氏著『「世ば稔れ」考』の紹介の続きである。
 「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の展開
 これらの句を謡う歌謡が祭儀の歌謡に限定されていない。ジラバ・ユンタ・節歌などの、日常生活の諸場面で謡われる歌謡の中でもこの句は使われている。これは八重山・宮古ともにそうである。
 八重山の歌謡「まへらつ」は、一人の孤児の哀切な境遇を物語的に謡う長い歌謡である。悲劇的な孤児の物語を謡う歌の囃子として「ユバ ナウレ」が使われることは、(豊穣の祭儀の歌謡とは)相当な隔たりがある。この事柄は、ジラバ・ユンタ・節歌における「ユバナウレ」を謡う物語歌謡に通底する問題である。

 ユー(穀穂)の豊穣とはなんら関わらない歌内容でありながら「ユバ ナウレ」系の囃子を持つ歌謡を、ジャンルごとに掲げてみよう。大別すると、
A、男女の恋愛や交情、村の娘の活動を謡う
B、村役人の夜伽を謡う
C、孤児の哀切な境遇を謡う
D、村分けの歴史を謡う
E、英雄伝説を謡う

  宮古歌謡の中で庶民が主人公となる物語歌謡を謡う主なジャンルは、アーグとクイチャーである。アーグの中から例を挙げる。
      
       「ユヤナウレ」が歌われる宮古の「豊年のうた」
「米の籾(まいのあら)」
1、まイぬあらヨーイ くみぬあらよ いらビやにゃーん ユヤナウレ
精米の中の籾 ヨーイ 白米の中の籾を 選ぶように 世ハ稔レ
(このあと選んだ恋人とは一夜も逢わずはおられないと続く。以下省略)
 抒情歌としての色彩が濃い歌であるが、その中に「ユヤ ナウレ」という囃子が繰り返し謡われる。歌の内容と「ユナ ナウレ」(穀穂は豊穣であれかし)という囃子には、必然的な結びつきは認められない。
 
 歌謡の内容とは関わりが無い「ユヤ ナウレ」が歌われる例はー
 A、男女の恋愛や交情、村の娘の活動を謡うアーグ、クイチャー
F、英雄伝説を謡うアーグ、クイチャー
八重山の「ユバ ナウレ」を謡う歌謡にみられたB、村役人の夜伽を誘う、C、孤児の哀切な境遇を謡う、D、村分けの歴史を謡う、などに該当する歌謡は無い。
 B、C、Dの内容を謡う歌謡は宮古にもある。にも関わらず、これらの宮古歌謡がこの囃子を持たず、当該の八重山歌謡のみが「ユバ ナウレ」と謡うことは、「ユバ ナウレ」と八重山歌謡の結びつきにより深いものがあったことを想像させる。
 
 八重山、宮古民謡を歌っていると、農耕にかかわる歌謡で「ユバ ナウレ」系統の囃子が出てくるのはとても自然であり、島民の豊穣への願い、平和で豊かな世への願いを強く感じる。しかし、農耕や豊穣祈願の祭儀とは何の関係もない恋愛から英雄伝説まで、日常生活にかかわる物語歌謡でこの囃子が登場すると、いったいどういう意味を持つのかと誰もが戸惑う。
 波照間氏によると、『南島歌謡大成 八重山編』に収録されている物語歌謡の総数505のうち、「ユバ ナウレ」が登場するのは35で1割に満たないというから、決して多くはないことになる。


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「『世ば稔れ』考」を読む、その5。本歌詞の中でも

 波照間永吉氏著「『世ば稔れ』考」の紹介の続きである。

本歌詞の中に「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」
 八重山の歌謡ジャンルに含まれるフミシャギィ(注・祭儀で神酒を神・神役、客人に捧げる時に謡う神酒讃めの歌謡)をみてみると、『南島歌謡大成 Ⅳ 八重山編』に18篇収録されているが、その中の9篇に「ゆや なうる」の文句が歌詞として(注・囃子ではなく)歌われている。

 「みしゃぐぱーしぃ」は「なかざらぬ うみしゃぐ い、はやしばどぅ ゆやなうる」と謡いだす。「大神酒を囃してこそ穀穂は稔るのだ(豊穣は実現するのだ)」と豊穣のシンボルである神酒を勧め、客も飲み干す。この本歌詞の中の「はやしばどぅ ゆやなうる」の文句は「ユバ ナウレ」の実義(注・誠意・まごころ)の込められたものという。 
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          石垣島大浜の「黒石嶽の角皿」。フミシャギィの歌謡のようだ

 宮古のピャーンにも確認される。宮古のあーぐでも「ユヤ ナウレ」が歌詞として謡い込まれている。
 注目されるのは、ニーリ「24 ゆなおーれが(多良間)」では「ユヤ ナウレ」が曲名そのものとなっていることである。これなど、「ユヤ ナウレ」という語が、粟の豊穣祈願と一体となっていることの何よりの証しというべきであろう。
 このように、「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」は囃子のみでなく、本歌詞の中にもしっかりその姿を見せているのであり、豊穣を願う人々の精神を表現する文句として、宮古・八重山の農耕祭祀の歌謡に普遍的なものとして謡い継がれてきた、と目されるのである。

 ここでは、 「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」の句が、囃子だけでなく、本歌詞や曲名にまで謡われたことを明らかにしている。本歌詞や曲名にまで謡われることは、豊穣への願いをより直線的に表現しているように思う。

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真冬のひまわり

 朝の散歩をしていると、花壇にヒマワリが咲いているところに出会った。もう盛りを過ぎていて、少ししなび始めている感じだ。

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 こちらの花壇は、団地の自治会が管理しているようだ。花は40、50本くらいはあるだろう。
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 花壇には「うつくシ―サー」というシ―サーが置かれている。しっかりと見張っている。
 沖縄は、ひまわりは冬でも夏でも咲く。北中城村では、毎年恒例の第7回ひまわり祭が、1月24日から開かれるそうだ。真冬のひまわり祭として有名だ。
 真冬に咲くのはひまわりだけではない。コスモスも咲く。花壇のひまわりの隣には、少しだけれどコスモスが咲いている。
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 コスモスの花だよりも、あちらこちらから聞かれる。西原町嘉手苅の内間御殿そばに咲いている。金武町伊芸でも、満開で25日にコスモス祭が開かれるという。18日付け「琉球新報」でも報道されていた。沖縄では、本土の花の季節はまったく当てはまらない。
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 真冬の花と言えば、なんといっても、カンヒサクラだ。今年は、開花が遅いらしい。例年より厳しい寒さが続いているからだろうか。さくらは、いったん寒くなり、暖かくなって咲き出す。寒い北部の、山の上の方から咲き始める。桜前線は、ソメイヨシノとは真逆である。
 でも本部町の八重岳や今帰仁城跡のさくら祭が始まった。写真は、昨年の八重岳のさくらである。 
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 名護市源河で梅も満開らしい。
 花だよりが続いているわりには、今年は、寒さが身に染みる。でも、今週末にでも、さくらを見に行こうかなあ。
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「『世ば稔れ』考」を読む、その4。多様な歌謡で

 波照間永吉氏著「『世ば稔れ』考」の紹介の続きである。

「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」を謡う歌謡
 この囃子を持つ歌は、豊穣に感謝し・祈願する祭儀の場面で謡われるもののみではない。実際は多様な歌がこの囃子を謡い込んでいる。
 (「『世ば稔れ』考」は、八重山の「ユバ ナウレ」、宮古の「ユヤ ナウレ」を謡う歌謡の一覧表を掲示している) 
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 「ユバ ナウレ」「ユヤ ナウレ」系の囃子の分布をみてみると、宮古・八重山ともに呪詞系のジャンルにはこの句は取り込まれていない。八重山ではアヨー・ジラバ・ユンタ・節歌、宮古ではピャーン・ニーリ・アーグ・クイチャーなど、歌謡ジャンルに現れることは当然ということである。
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その中でも、祭儀の場面で謡われる歌謡にこの囃子が多く見られるのは、この句の意味する内容から見てこれまた当然のことと言えるだろう。 
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                    石垣島川平湾(文章とは関係ない)

 「ユバ ナウレ/ユヤ ナウレ」という囃子の持つ意味から、豊穣感謝・祈願の祭儀で謡われるのはいわば当然のことだ。でも、実際はそれにとどまらず、祭儀を離れた歌謡ジャンルなど多様な歌謡で謡われることが、掲載された一覧表からも見て取れる。一覧表は貴重な資料であるが、ここでは省略せざるをえない。見てみたい方は『沖縄文化』第114号、第115号を直接読んでいただきたい。


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