レキオ島唄アッチャー

シニアピアノコンサートでツレが演奏

 ピティナ第15回シニアピアノコンサートが沖縄市の市民小劇場「あしびなー」で開かれ、ツレが演奏した。
 今年はエントリーは12組と例年より少ない。
 横浜からわざわざ姉とその娘が聞きに来てくれた。
                    IMG_7179.jpg
 5番目に登場し、ショパンの「ワルツイ短調遺作」を演奏した。ピアノを習い始めて2年8か月。昨年まではポップスを演奏したので、クラシックは初めての挑戦だった。
 家での練習以上によく流れていて、気持ちの入った演奏で、上出来だと思った。
                     IMG_7187.jpg
 今年で3回目なので、3回以上は表彰の対象になる。賞状と粗品をいただいた。
 ライブの仲間や音楽好きが集うアルテの仲間も駆けつけてくれた。花束やさまざまなプレゼントもいただいた。
 本人は、ミスがあったことで満足できないらしい。演奏が終わると、それぞれ「落ち着いて弾けたね」「とっても心が入っていてよかったよ」などの感想をいただいた。
                   IMG_7192.jpg
 毎日5時間ほども練習してきたその成果が出たのだろう。姉たちも感激の様子。「演奏を聞きに来たかいがあったわ」と喜んでくれた。なによりである。
スポンサーサイト
音楽 | コメント:0 | トラックバック:0 |

『黒島誌』に見る移住記録

 『黒島誌』に見る黒島からの移住記録
 
 「小説化されたつぃんだら節」で黒島らかの移住について書く際に、運道武三著『黒島誌』を読んでみた。そのなかに、王府時代の黒島から八重山の他の島への移住がまとめられている。これも併せて紹介しておきたい。

 黒島は疫病がなく住民は健康に恵まれ良く働き、豊年を迎え、神行事が盛んに行われ、お蔭で子孫の繁昌旺盛で人口は年々増える一方で、限られた土地での耕作も限界を極めた。当時の役人は首里政庁に申請し移住を断行した。

○1703年 鳩間村独立
 鳩間村は人口狭少な一部落で行政上対岸の西表島の鬚川村の管轄区域でしたが鬚川村がマラリヤその他のために逐次衰微して今や独立村の資格を失ったので行政上管轄区域を遠い古見村に変更するの止むなきに至った。鳩間と古見村は6里余の海上で島人が諸行事をするために古見に行って滞在したり、往還のための費やす日数夥しく村政上非常に支障を来たした。保里部落は人口の多い割合に土地が狭いため、納税も生活上困難であったのでその内、人口60人を鳩間島に分村し、人口105人となったので、1703年独立認可した。
 
○1711年 黒島から167人、平久保へ移す。
○1732年 野底村の創設
 黒島は人口増加して土地が狭く、石垣島の野底に往来して田畑を作って居ったので1732年、人口400人余人を移住させて野底村を創設した。

○1779年 前里(真栄里)村の再復興移民
 真栄里村は1757年、平得村の人口2105人(に)繁栄し内885人を分村し、真栄里の新村を認可した。1771年、明和の津波のため1173人の中908人溺死したので、蔵元は黒島から男135人、女178人、計313人に強制移住を命じ、生存者265人と会わせて578人となし、真栄里村を再復興する。黒島からの移住は仲本部落であったという。
                    137.jpg
             石垣島最北端の平久保崎灯台
○1734年 伊原間村の創立
 伊原間は従来平久保の管轄区域に所属する小部落であった。1734年(享保19年)人口168人(に)繁栄し、登野城、石垣両村より140人の移民と併せて人口308人となったので首里王府は独立を認可する。

○1771年(明和8年)3月10日、大津波の天災に逢い人口720人の中625人溺死し僅か95人生存する。そこで八重山の行政官庁の蔵元では部落の復興計画を立て、黒島から167人(男64人、女103人)移住を命じ、玻名野(ハンナパフ)と称する所へ旧伊原間を移転し、それに舟越村をも合併して人口262人を以って、新村伊原間村を創立した(現伊原間)、黒島から移住した部落は東筋部落で道切り移民をした。当時の世持役は、前仲宇津真利氏である。

○1857年(安政4年) 名蔵村、上原村、桴海村の補充移民
 黒島村の人口1550人に繁栄し、耕地面積と人口との釣り合いがとれず、生産高が少なく、その上人頭税の負担に苦しみ、村行政上の支障が多かった。黒島の役人は、村の幹部と協議し、計画して、八重山の行政官庁、蔵元に移住を陳情し、人口400人を上原に150人、名蔵200人、桴海50人に補充移民を断行すべく首里王府に申請を提出して認可される。当時黒島の首里大屋子は、黒島の産業を立て直しに功績のあった首里大屋子であるが使命が不詳で残念である。尚当時、村の復興に活躍された、本原仁屋の功績を忘れてはならない。本原仁屋こと、横目筑登之この人である。

 黒島に伝承される民謡の年代と作詞者
 ちいんだら節
 1732年(享保17年)黒島の保里村(保里、東筋)から男女400人をマラリヤ病の強烈な野底に強制移住を命じたのである。今から255年前の悲劇であった。当時黒島は島の周囲12.65㎞、面積13.72平方㎞の島嶼で人口は1300人の飽和状態であった。
 首里王庁では移民計画を樹立し強制移民(道切移民)が強行された。
 黒島からいかに再三にわたり移住が強行されたのかがわかる。

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

小説化された「つぃんだら節」、移住は難儀を救うためとは!

 移住は百姓の難儀を救うためとは!

  比嘉清著『遙かなるパイパティローマ』の抜粋は以上である。
  痩せた小さな黒島の島民は、肥沃な石垣島に舟で出かけて、「仕明地」(開墾地)で耕作していた。八重山では、稲作には不向きな島にも、米作による納税が義務づけられ、島民が石垣島や西表島に耕作のため、船で通ったり、小屋を作って泊まり込んで働いたことはよく知られている。開拓による仕明地での耕作は、農民にとって苦労は多いけれど、米を作り納税するためにはやむを得ないことだった。

  この仕明地に出かけて耕作することと、移住による新村建設は、別の問題である。移住は、長年、ともに暮らし働いてきた集落の住民の恒久的な分断、島分け(分村)となる。しかも、マラリヤの犠牲になり易い子供や老人を伴う家族単位で移らなければならない。だから、強制移住を恐れていたのだろう。
  黒島では、島の耕地は増えないのに、人口だけは増え、頭割りで課せられる税の重圧が増大する。しかも、天候不順で日照りが続くと、納税に支障を来す。税が完納できなければ家財没収にされる。滞納は避けたい。かといって減税だけを陳情すれば、強制移住の口実にされる恐れがある。この悩みを解決する手段として、百姓の希望する条件を付けて、島民の仕明地への移住に応じる。移住の条件とは、移住は希望者に限り、移民は5年間免税するなどである。

  一方で、財政難を抱える王府の三司官・蔡温(サイオン)は広大で肥沃な割に人口が少ない石垣島や西表島に目を付け、移住による新村建設と開拓を目論んでいた。黒島の島民からの陳情を逆手に取って、石垣島野底への移住と新村建設を命じる。百姓の自由な移住は認めないのが王府の政策。無慈悲な線引きによる島分けと移住が強制された。恋人もその仲を引き裂かれ、「つぃんだら節」の悲劇が生まれた。
                  135.jpg
               野底岳が見える
  この黒島の島分けについて、首里王府からの布達書と八重山蔵元からの報告・問合せの往復文章集「参遣状(マイリツカワセジョウ)抜書(上)」(石垣市史叢書)を読むと、住民の苦難はまったく見えてこない。次のように記述されている。
「八重山の黒島という離島は、土地が狭い所であるが、だんだん人口が繁栄し食糧も続きがたいので、近年より川平地方の野底という所へ海路を往復して畑作し、ようやく生計を立てていて、難儀している。それで400人ほどを分けて、右の野底へ村立するのを申し付けてほしいと、今回在番と頭から申し出てきた。さて、野底は平久保村と桴海村の間5里ほどを隔てた所にあり、土地は広く津口もあり、用水も良い所ということなので、今回村立をして野底村と称し、与人一人、目差一人を新規に設置すること」(1732年「覚」)

  王府の公式文書は、百姓が出張耕作で難儀をしているので、移住させ新村建設をさせたいとのべ、あたかも百姓の難儀救済のための移住であるかのように描いている。移住の実相とは程遠い役人流の表現である。
  これまで紹介した比嘉清著『遙かなるパイパティローマ』は、黒島の強制移住の史実をベースにしながらも、物語はフィクションである。しかし、本書で描かれた黒島の移住をめぐる様相は、創作を通して歴史の実相に迫っているのではないだろうか。そんな思いを強くした。

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

RBCラジオ「あの時君は若かった」800回記念パーティー

 RBCラジオのGS音楽番組「あの時君は若かった」の800回記念と沖縄唯一GSバンド「SSカンパニー」結成20周年のライブ&パーティーが那覇市内のかりゆし琉球ホテル那覇で開かれた。
                    IMG_7129.jpg
 沖縄はラジオがとっても身近。番組にはヘビーリスナーがたくさんついている。わがツレもその一人だ。ラジオとライブを通してリスナーでライブ常連さんとのつながり、交流が広がってきた。この番組担当の箕田和男さん、出演者のSSカンパニーのリーダー瀬底正真さんとも番組やライブを通して付き合いが深まる。
 今回は、ディナーを食べながらのライブとなった。
                    IMG_7124.jpg
 DVDで秘蔵の映像も映し出された。箕田さんと瀬底さんが出会ったのは、確か1986年頃(?)。松山のライブバー「GS」に箕田さんが取材に行った時、店長だったのが瀬底さん。映し出された若かりき姿にビックリだった。
 「あの時君は」の番組は始まって15年くらいになる。その2回目からずっと聞いているという熱烈リスナーの「はれくもさん」が乾杯の音頭をとった。
                      IMG_7151.jpg    

 食事が終わりライブが始まると、最初から黄色い声援が飛び、舞台前で踊る、踊る。
                   IMG_7135.jpg
 1部が終わると、箕田さん、真ちゃんに、リスナー一同からのケーキを糸満ライブの常連、K&Kのかーずさん、シングさんが贈った。2人とバンドメンバー全員にも一人ひとり花束が手渡された。
                  IMG_7142.jpg
 箕田さんも「時の過ぎ行くままに」など熱唱。演奏が進むにつれ、踊りは一段とヒートアップした。
 SSカンパニーのオリジナル「また会おうね」では、参加のみんなが手を取り合い、「佐敷幼稚園」では、人間汽車ポッポの列が会場いっぱいに広がった。
                   IMG_7162.jpg
  もともとGS世代でも、GSファンでもなかったが、ライブに行くと、「あの時君は若かった」というフレーズがぴったりとくる。なぜか気分的に若返る気がするから不思議だ。
 番組もこれから1000回、1500回と続いてほしい。SSも30周年、40周年に向けて頑張ってほしい。

音楽 | コメント:0 | トラックバック:0 |

小説化された『ちぃんだら節」、陳情を逆手に

  陳情を逆手に取った強制移住
   小説『遙かなるパイパティローマ』の続きである。
  豊年祭が終わった秋のある日、蔵元から2人の役人が黒島番所に遣って来た。黒島の百姓から陳情のあった減税のついての許可書を交付する為であった。減税は喜ばしいが、説明を聞いた長老達は首を傾げた。蔵元側から仕明地への島民の移住の件については説明がなかったからである。
   
  享保17年(1732)9月26日、番所において首里王府からの特別な認可指令が下されるとのことで、黒島村の士族や組頭達及び女頭(ブナジィ、女性の下級役職)達が番所に集合した。蔵元から派遣されたのは首里大屋子(シュリオオヤコ、村番所に置かれた役職)金嶺と大筆者の内原の二人だった。番所与人(ユンチュ、村長格)が口を開いた。立札の表題は「野底村の新設と黒島村の分村について」だった。
  「昨年の夏、日照りで減作が見込まれた時、番所は黒島三村の代表者から陳情を受けたのであるが、首里王府が陳情通り昨年の減税を了承し実施した事は周知の通りである。だが、その減税は黒島からの移住により仕明地に新村を建設する事と引き替えに実施されるべきものである事は各村の各長老達と相談済みであった。これを踏まえ、今般は黒島からの仕明地への移住計画について首里王府からの認可指令を伝える。この計画をたてるに当たっては多くの人々の労力と長い時間が費やされた。認可指令内容は幸いにして八重山の振興に熱心な王府の蔡温親方と彼の配下で農業政策の専門家でもある金城筑登之子親雲上(チクドゥンペーチン)和最が私共現地の意見を踏まえながら綿密に検討されたものである。認可指令には当然ながら従うべきものであり、又、異議を挟む事は出来ないものである」
  
  首里大屋子が書状を開いて認可指令の内容を口上した。
  黒島村の東側およそ1班から3班迄の村人約429人は享保17年10月中に新村野底村に移住する事。移民には現村における一世帯当たり一戸の家屋敷、田畑、鋤牛一頭及び馬一頭を無償で与える事。又、向こう5年間は男女を問わず免税とする事。更に向こう3ヶ月は一人当り5合宛の割合で食米を支給する事。役人と士族及びその家族は移住の対象でない事。
  村の長老が手を挙げた。「移住は強制によらず、希望者を募ったらどうかと提案したのだが、どのような訳があって異なってきたのですか」
  「百姓の自由な移住・移転は認められておらないのが基本である事は承知の通りだ。移民に限って百姓の自由意志に任せるという事は慣行と抵触する故、今回の移民についても王府の決定に基づくものとした」と首里大屋子。  
「最近、3班(移住組)の乙女と4班(残留組)の青年が婚約しました。移住が実施される事になればこの二人は裂かれる事になりますが、特別に配慮することはできませんか」と百姓頭が手を挙げた。
  「そのような事を認めると移住を希望しない者が虚偽の申し出を行ない移住を免れる方便としないとも限らない。…百姓の言い分を聴きながら逐一、修正を加えるような類のものではない」
                   野底岳
                    悲しい伝説を秘めた野底岳

   マーペと母ナサマ、女頭ピテマらと金盛は、番所に訴えに出向いた。金盛は「この乙女と私は小さい頃から睦まじく過ごした仲なのです。どうか、彼女を黒島に残してください。でなければ、私も野底に行かせてください」、ピテマは「この娘と男は恋仲であり婚約を致しました。二人を引き裂かないでください」。与人も、二人のために村の人達が心配して動いている様を目の当りにして、思い直して蔵元に行くことにした。
  蔵元では、例外措置は一切認めないようにとの厳命を首里から受けているとの一点張りだった。
 
  小説では、移民の第一陣が出発する日、輸送のため停泊していた公用船を黒島村の男女7人が奪い、南の楽園パイパティローマに行こうとするが、失敗する。
  マーペは金盛と引き裂かれて、母に手を引かれ船は出航する。
  マーペは野底岳の頂上に登った。岩に登れば金盛のいる黒島が見えるかもしれない。「もう一度、黒島へ、金盛の所へ行きたい」と岩の上で、草履を脱ぎ、両手を拡げた。
 小説は、金盛がマーペに逢うため黒島を来るが、草叢の上に横たわるマーペの姿を見て後を追う。金盛が出発した朝、マーペに帰島許可が出されたということで終わる。


八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

小説化された「つぃんだら節」、減税の願い

 減税と希望者の移住を願い出る
  小説『遙かなるパイパティローマ』の続きである。
  この島(黒島)は人口が増え続けている。将来、島分けは避けて通ることができなくなる。島分けに対して有利な条件を付ける陳情をするのも一つの手かもしれない。条件の一つは、仕明地への希望者を移住させる。移住者への免税などの条件も出された。 
  黒島番所に三村の百姓頭たちが出向き、減税の陳情をした。島の耕地面積は増やせないのに、納税人口だけは増える。日照りが続くと納税に支障を来す。抜本的に解消する手段として黒島の人口を仕明地へ移住させる話が出る。移住にあたっての条件を書状で提出した。
  与人(ユンチュ、村長)は書状を拡げた。「百姓衆が条件を出した事自体は良い事だ。実は先程蔵元から使者が来ておってな、新村造りを真剣に検討するようにと再三の命を受けたところなのだ。これは早速、明日にでも蔵元に出向いて検討してみよう」「予め言っておくが、私はできるだけこの書状の条件に近い形になるよう意見書を添付したいと思う。だが、最終的には首里王府が決める事。そうなれば一度決まった事については一切の異議は認められないから心しておくように」
  八重山から王府へ帰任した在番の伊舎憲迫は首里城で蔡温と会う。伊舎は蔵元からの報告書と百姓からの陳情書を差し出した。陳情書に目を通す蔡温。その問いに答えて伊舎は述べた。
              黒島2
        黒島はハート形

  「新村建設は百姓の強制的移住を伴う故、何らかの口実と百姓にとっても都合の良い条件がなければ実行し難いものでございます。この度は天災による特別な事情あっての百姓の陳情なければこれを受け入れなければならない真っ当な理由がございます。百姓の陳情を一方的に認める事は蔵元や首里にとっては承服でき兼ねるものではありますが、今回は百姓のこの陳情を逆手に取って新村建設を実行に移す絶好の機会でもあります」
  移住の条件とは、移住は希望に拠るものとする、移民は男女を問わず5年間免税とする、農作物が収穫できるまで半年分の食糧を支給する、移民各世帯に鋤牛、馬一頭を支給する、2年で開拓が成功しない者で希望する場合は帰村させる、新村と旧村との自由な往来を認めること。
  それは、蔵元が修正した陳情書であった。蔵元は無修正のままでは首里の機嫌を損なうと判断したのだ。蔡温が口を開いた。
  「確か元禄16年(1703)だったと記憶しているが、黒島からの移民によって鳩間村を建設する際、子連れの百姓を一度、西表古見に上陸させ其処から山道や峠を歩かせたとの記録があるが、そのような事は百姓共に対して余りにも酷ではなかったのか。国を底辺で支えておるのは百姓であるという意識が欠落しておるのではないか。今回以降は移民の移動に際してはそのような事が無いように配慮致せ」
  地元からの陳情の尊重に対し、「元より肥地八重山における仕明地拡張と新村建設による振興・増産計画は私が立てたもの。御主加那志前(ウシュカナシーメー、国王)もうまく説明すれば異存はあるまい。それより、私が気になるのは新村計画はそういう類の口実がある場合のみしか実行できないのかという事だ」と蔡温。
  伊舎は言う。「確かに石垣島や西表島は肥沃な島でございます。しかしながら…現在でも彼の仕明地においてはヤキによる死者が絶えない事情があります。新村造りは出張耕作と違い、ヤキに弱い子供や老人を抱えての移住になる故、百姓も多いにそれを恐れております。蔵元でもそれが最大の悩みの種でございます」
  「多くの人間がその区域に住みつけばヤキは必ず、後退を余儀なくされる。ヤキを恐れていては発展はあり得無い。一体、蔵元はあの肥沃で広大な二つの島を何と心得ておる」との蔡温の言葉に伊舎は平伏した。

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

小説化された「つぃんだら節」

  『遙かなるパイパティローマ』という小説を読んだ。沖縄語版は吉屋松金氏、日本語版は比嘉清氏の著名だが、比嘉は本名、吉屋はペンネーム。同一人物である。
  当初、書名から波照間島が舞台の小説かと思った。波照間島には「パイパティローマ」伝承があるからだ。波照間島よりさらに南に重税のない楽園あると信じられた島の名が「パイパティローマ」である。人頭税の重圧を逃れるため楽園の島をめざして波照間島から脱出したという。

  民謡に歌われた「島分け」の悲劇
  この本は読んでみると、波照間島ではなく、黒島から石垣島野底に強制移住された悲劇を歌った「つぃんだら節」を小説化したものだった。
  過酷な人頭税が課せられた八重山では、王府時代に再三、人口の多い黒島、竹富島など離島から石垣島、西表島などへの移住が行われた。石垣や西表は、島は大きいけれどマラリヤの有病地のため人口が少なく、財政難に悩む王府が島民を移住させ、開拓をさせる政策を進めた。集落の道路を境として住民を分け、強制移住を命じるため、「島分け」「村分け」と呼ばれた。その悲劇は幾多の八重山民謡として歌われている。
               image2321.jpg

  本書は、あくまで小説である。でも、移住をめぐる黒島の事情や住民と役人らの対応の描写は、当時の移住にいたる実相を知る上で参考になる点がある。
  とくに、個人的に関心があったことの一つは、八重山の古文書を読むと、島民の側から開拓移住の要望を出したという記録が何例もある。その一方で、強制移住による悲劇が生まれたことも、数々の伝承と八重山哀歌に反映されている。要望と強制というこの関係をどのように考えればよいのか、ということである。
  この作品には、この問題を作者らしい問題意識で書きこまれているのでとても興味深い。私的に関心のある個所を中心に、勝手に抜書き、要約してみた。

 干ばつで納税に苦しむ島民
  黒島は、陸部は珊瑚でできた小石が多く農作には適さない。広大な面積を誇る石垣島や西表島は周辺の小島より遙かに肥沃であるにも拘らず、人々は近付くのを恐れていた。(両島は)ごく一部を除けばそれらの山間部とその周辺部の清い水脈はヤキ蚊(マラリアを媒介)の繁殖地だったからである。古人は(ヤキ蚊のいない)痩せ小島を定住地として選択したのである。
  それでも石垣島の南部は恐る恐る開拓され周辺の小島に劣らない村落が形成されて久しかった。そして、島の北部にも開墾地が広げられていった。
                        408.jpg
         マラリアは沖縄戦でも多数の犠牲者を出した。写真は戦争マラリアの慰霊碑
  王府の三司官蔡温(サイオン)は広大で肥沃な割に人口が少ない石垣島や西表島に目を付けたのだった。仕明地と称される開墾地の拡大は百姓の出張耕作によって実現を見た。米作に不向きであった周辺の痩せ小島に住んでいた百姓達にとって仕明地での米の生産は魅力的であり、その限りでは増収を試みる首里との利害が一致したからである。
だが、百姓の移住を伴う新村建設計画は遅々として進んでいなかった。新村建設は分村と家族単位の強制移住で行われる為、百姓達がヤキの犠牲となり易い子供や老人を新村に移住させる事を恐れていたからである。
  野底も元々ヤキ蚊の多い地域であった。
  ある年、日照り続きで、税を完納できない、貢布により代納もできない。代納も完納もできないなら、家財没収とされる。滞納問題を起したら、分村(強制移住)の口実を与える。30年近く前に、保里村から鳩間へ悲惨な強制移住があった。減税の陳情は島分けの危険がある。

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

歴史が刻まれた泊外人墓地

 ウランダー墓と呼ばれた
 那覇市の泊港の北岸に、泊外人墓地がある。十字架の墓標が並び、お墓の形はさまざまだ。鉄扉の門は鍵がかかっていないので、立ち入りできる。
 門を入ってすぐ右手に、墓地の説明坂がある。
                    IMG_7076.jpg

 もともと中国人が葬られ「唐人墓」と呼ばれたが、19世紀に欧米人が葬られるようになり、「ウランダー墓」と呼ばれた。「ウランダー=オランダ」とは、欧米人の別称だった。説明坂から紹介する。
 
 ここは古くから22基の外国人のお墓があったので、「ウランダー墓」などとよばれていた。その内訳は、中国人(清人)6人、アメリカ人10人、イギリス人2人、フランス人・スウェーデン人各1人、不明2人となっている。このうち最も古いのは、中国人(漂流民)のもので墓碑から1718年(康熙57年)~1785年(乾隆50年)の年号が読みとれる。
 その後、欧米船の来航があいつぎ、1853年~1854年にかけて5度来航したペリー提督の従者や、1908年当時沖縄県立中学校の英語教師ヘンリー・アモアなど、この地で亡くなった外国人が葬られている。なかでも英国の水兵ウィリアム・ヘアーズの葬儀には、泊住民が惜しみなく協力した。それ故この地は、18世紀以降の沖縄の歴史とその人類愛を地上に印す記念すべき場所である。
  なお、この墓地は現在も利用されており、主に外国人が葬られている。その数300余基にのぼる。
                       IMG_7082.jpg

  お墓の形は実にさまざまである。墓の向きも東西南北まちまちだ。墓地の奥の方に、西洋式の墓碑のない古い墓がある。これが古い中国人のお墓だと聞く。
                 IMG_7087.jpg

  墓碑を見ていて、意外に思ったのは、県系人の名前、それも女性の名前が結構あることだ。アメリカ人と結婚して米国籍になっていて亡くなった女性だろうか。
 なかには、中国系の名前で顔写真を飾った「愛妻」の立派なお墓もあった。
                 IMG_7088.jpg

 圧倒的に多いのは欧米人である。
  那覇市観光課の「泊の地に眠る異国人たち」(泊外人墓地歴史案内実地概要)には次のような記述がある。
  18世紀末頃になると欧米諸国から琉球へ漂着する船が徐々に見られるようになり、1816年には「大琉球島探検航海記」を著したバジルホールの乗った船が寄港しております。また1846年に「波の上の眼鏡(ナンミンヌガンチョー)」と呼ばれた宣教師ベッテルハイム、1853年日本を開国させたペリーなど、19世紀の琉球には多くの異国人がやってきており、中には琉球の地で没し、泊外人墓地に葬られた者もおります。…
  このように泊外人墓地は中国、朝鮮、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどを諸外国との交流の歴史の影で望郷の念をいだきながら、琉球の地を青山とした異国人が眠る場所です。
                      IMG_7090.jpg

  門から入り、まっすぐに伸びた道の先に、「ペルリ上陸之地」の碑が建てられている。
「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」。これは1853年6月6日、琉球に来たペルリ提督の招宴席上の挨拶である。裏側は、英文の碑文になっている。
  ペリーの艦隊が琉球に来た時には、水兵が事件を起こしたことで知られる。
                    IMG_7078.jpg

  水兵ウィリアム・ボードがこっそり船を抜け出し、酒を飲み過ぎて酔っ払い、女性をレイプした。それを知った琉球人が石を投げ追ったところ、ボードは崖から落ちて死亡した。ペリーはボードを殺したとして6人の引渡しを要求した。王府は引き渡しには応じなかったが、八重山、宮古への流刑などの刑罰に処した。事件を起こしたボードはこの外人墓地に葬られた。他にもペリーの部下の墓もあるという。残念ながら見つけられなかった。興味のある方はブログ「若狭公民館つれづれ日記」に写真と解説があるので見てほしい。
                       IMG_7080.jpg

  墓地でもっとも多いのは、簡素な十字架だけの墓である。また、立派な墓碑のある墓でも、「VIETNAM」の文字がよく記されている。米海軍、陸軍、海兵隊の文字がよくある。
  「基地内に十字架の墓がたくさん並んでいるのは、ベトナム戦争に従軍して戦死したアメリカ軍人の墓です。故国アメリカではなく異郷の地、沖縄に葬られることを希望した者も多かったようです」(「泊の地に眠る異国人たち」)
 ここには、さまざまな歴史が刻まれている。

史跡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

沖縄県民の底力示した翁長勝利

 18日投開票された沖縄県知事選挙は、前那覇市長の翁長雄志氏が10万票の差をつけ圧勝した。普天間飛行場の辺野古移設を認め県民を裏切った現職の仲井真弘多氏は惨めな敗北を喫した。
 日米両政府が県民の総意を無視して辺野古への新基地建設をゴリ押しし、政府に屈従した現職再選に総力を挙げる中で、沖縄県民の尊厳をかけ、保革の枠組みを超えてオール沖縄の声を結集した翁長氏が、勝利したことは、県民の底力を示した歴史的な勝利である。
                    IMG_7102.jpg
 NHKの出口調査では、辺野古移設には67%が反対していて、県内に新たな基地反対の民意はゆるぎない。
                  IMG_7097.jpg
 投票で重視した課題では、基地移設問題が51%を占めており、基地問題が最大の選択基準だったことを示した。これまでにないことだ。
                     IMG_7096.jpg
 支持政党別の投票では、自民党支持層でも3割は翁長氏に入れている。とくに、支持なし層で6割を超える圧倒的な支持を得た。
                      IMG_7094.jpg
 この数年間、辺野古への新基地建設反対、オスプレイ配備反対で、島ぐるみの声と運動が盛り上がり、それがついに県知事選挙で、公約違反の現職を落選させ、「新基地ノー」の知事を誕生させたことは、沖縄県民の勝利というだけでなく、安倍政権とアメリカへの手痛い打撃である。それに、政権の進める理不尽な政治に保革の枠を超えてオール沖縄で「新基地ノー」を突きつけたことは、いまや日本では失われつつある民主主義の原点ここにあり、という姿を示すものだ。安倍政権を沖縄から揺り動かしていくことになるだろう。
 同時に行われた那覇市長選でも、翁長氏の後継者である前副市長の城間幹子さんが、自民・公明両党の推す与世田氏に2倍近い差をつけ勝利したことも、那覇市民の良識を示した。女性初の市長誕生である。基地反対派にとって、W勝利となった。翁長知事とともに頑張ってほしい。

同時に行われた県議補選のうち、辺野古移設が争点として一騎打ちでたたかわれた名護市で、移設反対の具志堅徹氏(前共産党名護市議)が、移設推進派の末松文信氏(自民党前県議)に勝利し初当選した。
那覇市区でも、移設反対派の比嘉みずき氏(共産党前市議)が、自民党前市議の山川典二氏を破り初当選した。市民は、翁長氏を支える「うまんちゅの会」が推す県議を選択した。これも画期的な勝利である。
 
政治 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「離島フェア2014」に行く

 離島の特産品が一堂にそろう「離島フェア2014」が、セルラースタジアム那覇で開かれた。「カタチで伝える 島のココロ」がテーマだ。
                        IMG_7066.jpg
 野球場のそばのドームがメイン会場になっている。開幕は金曜日の平日だが、初日から人出が多い。各ブースでは、試食を食べまくった。
 そのなかに八重山商工商業科の生徒たちが呼び込みをしていた。生徒7人でつくる「美島商娘」が開発した「天使のシトラスジンジャーシロップ」を販売していた。「シトラス(柑橘類)とジンジャーが南の島で恋をした」というコンセプトだとか。業者の協力を得て商品化したという。高校生が離島フェアに出てきたのは初めて見た。
 沖縄の高校生たちは、さまざまな商品開発にチャレンジしている。チバリヨー!といいたい。
                     IMG_7068.jpg
 さて何を買うか。伊江島のブースで見た「伊江牛ロース」がおいしそうなので、300g、1000円で買う。多良間島では山羊汁、牛汁も有名だが、山羊汁はやっぱ避けて牛ジ煮込みを買った。1袋500円。
                     IMG_7069.jpg
 昼食は、離島食堂に向かった。こちらは、なんといっても八重山そば、宮古そば、大東そばとそばが多い。山羊そばなど変わり種もある。食べたのは八重山の「島そば」。豚肉もカマボコも細切りにしてるのが、本島では見られない切り方だ。
 昨年は奄美の鶏飯を食べた記憶がある。今年はなぜか出店がなかった。
 離島フェアといえば、離島出身の民謡歌手のライブが見もの。ことしも出演があるけれど、時間がないので残念ながら見られなかった。
 八重山では、8月からまとまった雨が降らず、台風も来ないので、水不足が深刻。石垣島は高い山も川もあるのに、夜間断水になった。竹富町も、夜間断水をしている。そういえば、台風は本島にばかり接近して八重山には行かない。もう台風シーズンでもない。雨乞いをしなければいけないほど。「タンカーで水を運んでもらわなければいけなくなるかも」と、西表島のブースのおじさんは冗談交じりに話していた。

日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>