レキオ島唄アッチャー

美栄橋周辺の史跡、焚字炉

 焚字炉(フンジル)
 モノレール美栄橋駅から徒歩3分くらいの近くにある前島中公園に、泊塩田之跡碑とともに、焚字炉がある。琉球王府の時代に、紙を燃やした炉である。こんな市街地に珍しい。炉の裏側に、焚字炉の由来を書いた説明文がある。
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 「1838年(天保9年)尚育王の時代に冊封使林鴻年(リンコウネン)の勧めにより焚字炉が設けられた。沖縄の旧俗では文字を書いた紙片を大切にするように適当な場所に焚字炉を設けて路傍の紙片はこれに入れて積もった時に焼いていた。第二次世界大戦前まで前島小公園には東西に通ずる大通りに面して1基置かれていた。 
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この地域は製塩人口が多かったが先人達が儒学にも深い関心を持っていた精神を汲み次代を担う青少年に誇りと励みを与える趣旨で建するものである」。
 1992年4月 泊先覚顕彰会、とまり会が建立者である。

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ジョン万次郎「たった一人の日本遠征」

 沖縄ジョン万次郎会第9回講演会が9月27日、豊見城市の市社会福祉センターで開かれた。万次郎の研究者で川澄哲夫元慶大教授が「たった一人の日本遠征」と題して講演した。土佐ジョン万会から内田泰史会長も出席した。

 当初、演題を見て「?」という感じがしたが、万次郎の果たした役割に光を当てた講演内容で、疑問は氷解し納得した。
 キーワードは「二人の万次郎がいる」ということ。それは、万次郎が琉球上陸以降、幕府などの取り調べで、外国の事情など聞いた記録は、本当の万次郎が出てこない。万次郎は、日本の開国を統領(将軍)に直訴するために日本に帰国したことを強調した。
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 川澄先生は、アメリカに英語を学ぶため行った先が、偶然、ケンダル捕鯨博物館(マサチューセッツ州)。万次郎を知る人と出会った。その後、捕鯨船にも乗り、捕鯨博物館学術顧問も務めた経歴をもつ。 アメリカ、ハワイから万次郎に関する資料がたくさん送られてきて『中浜万次郎集成』を出版した。その他著書多数。
 万次郎を救った捕鯨船の『ライマン・ホームズの航海日誌』や万次郎の英文書簡、クジラ捕りの労働条件改善を目的とした新聞「フレンド」紙、江戸幕府取調記録など資料を駆使して話した。
 講演と同氏が執筆した「ジョン・マンの夢」(土佐清水市発行のパンフレット)からエキスを紹介する。
 捕鯨船に救われた万次郎は、アメリカで教育を受け、捕鯨船に乗り、世界の海を旅して国際的な視野でものを考えるようになった。なんとか帰国して、琉球あたりにアメリカの捕鯨船が自由に入港できる港を開くよう、統領に直訴することが自分の使命だと考えるようになった。
 帰国を決意すると、ハワイで知己を得たデーマン牧師に対し、その覚悟をしていると話す。デーマン牧師は、これを「日本遠泳」と名付け、「フレンド」紙に「無事に故国へ帰り着き、日本の開国に貢献し、ひいては通訳として成功する」ことを祈った。万次郎の帰国は、ペリーの日本遠征に先立つ2年前だった。
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 1951年、琉球に上陸し、取り調べを受けた際、「アメリカは大国ゆへ、他国を取るに及ばずとの了見」であると、領土的野心がないことを繰り返し強調した。琉球を離れ、薩摩、長崎、土佐で取り調べを受け、ようやく放免されたが、『外国の様子を猥(ミダ)りに物語りなど致さざるよう」仰せ渡され、日本を開国する力になりたいという夢は消え去った…
 ペリーが来航すると、万次郎は幕府に呼び出された。1853年10月、老中筆頭・阿部正弘、林大学頭ら幕府高官が列座する中で、アメリカの国情、ペリー来航の事情など聞かれる。万次郎にとっては、「統領に直訴」する絶好の機会であった。
 アメリカの政治について、上下の差別がなく、大統領は人民の入れ札で選ばれ、任期は4年である、アメリカが日本と「親睦いたし度とのこと」は「彼国積年の宿願」である、日本近海で遭難した米捕鯨船乗組員が日本で「咎人(罪人)同様の扱いを受けた」が、アメリカは日本人漂流民を保護してくれる、米人は「両国の和睦を取り結びたい」と申している、米捕鯨船が薪水食料を補給できる港を「薩州南島の内又は琉球」あたりを望んでいることなどを堂々と話した。
 1854年3月、結ばれた神奈川条約は、下田、函館の開港、合衆国漂民扶助の規定が盛り込まれている。ここに、万次郎の「捕鯨ボートによる日本遠征」は終わりをとげた。
 このあと万次郎は、咸臨丸の通弁官として渡米する。咸臨丸に同乗してアメリカに帰ったブルック大尉は、「咸臨丸日記」の中で、「万次郎が、日本の開国にあたって、誰よりも大きな貢献をしていることは、大変嬉しい」と記している。デーモン牧師も「ジョン・マンが日本の開国に大きな役割を果たしたことは間違いありません」と書簡で述べている。
 川澄先生の強調したいことは、このようなことだった。万次郎が果たした先駆的な役割を明らかにしたとてもよい講演だった。
 



 
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美栄橋駅周辺の史跡、泊塩田跡

 泊塩田之跡碑
 
 モノレール美栄(ミエ)橋駅から歩いて2,3分のところに前島中公園がある。公園の奥に「泊塩田之跡碑」が建てられている。
 琉球王府の時代、前島のこの付近は潟原(カラバル、干潟)が広がり、製塩が行われていたという。いまは、公園の回りはビルが立ち並び、干潟だったことや製塩をしのばせるものはない。この碑だけが、かつて先人たちがマース(塩)つくりに汗を流した地であることを物語っている。
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             前島中公園
 泊の製塩については、興味があった。たまたま、美栄橋駅付近の史跡・旧跡の案内板を見ていると、潟原と塩田跡のことが紹介されていたので驚いた。塩田はもっと西方の現在の海岸よりに近い場所か思い込んでいたので、現在では内陸にあたる美栄橋付近まで塩田があったとは予想外だった。
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 泊塩田之跡碑の碑文は、簡略に次のように伝えている。
  「300有余年の沖縄製塩史日本復帰と共に終る。祖先の偉業をしのびこの碑を建立す」
 1972年(昭和47年)5月15日、泊製塩業者の子孫、前島青年代表、とまり会役員が建立者として名を連ねる。
 沖縄の日本復帰がなぜ、沖縄製塩史の終焉なのか。それは次のような事情がある。
 沖縄の本土復帰に伴い日本政府の政策上、塩の製造は廃止された。米軍統治下で塩の専売法がなかった沖縄にも、塩の専売法が適用されることになった。泡瀬(沖縄市)、与根(豊見城市)、泊(那覇市)など県内各地にあった塩田はすべて廃業せざるを得なかった。それまで約300年もの間、沖縄で造り続けられてきた「島の真塩(シママース)」はことごとくその姿を消すこととなった。
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                かつて塩田のあった前島(現在の前島中公園周辺)
 1997年に塩の専売制が終わり、2005年には完全自由化され、現在海水100%からの製塩・販売も自由になったという。
 以上は「日本ソルトコーディネーター協会」HPから紹介した。

 泊塩田については、後日、別にブログにアップする。

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不可解な喜納氏の出馬表明

 不可解な喜納氏出馬表明

 民主党沖縄県連代表の喜納昌吉元参院議員が11月の沖縄県知事選に出馬を表明した。出馬理由を見ると、とても不可解である。
 普天間基地の辺野古移設に反対するのであれば、新基地建設反対の「オール沖縄」の声を代表する翁長雄志那覇市長を推薦すればよい。民主党と関係の深い連合沖縄は翁長氏を推進している。
 喜納氏が出馬の理由としているのは、辺野古埋め立ての承認撤回を明確に提言される方がいない、ということ。しかし、翁長氏はこれまで、辺野古移設に反対する島ぐるみの運動の先頭に立ってきたことは周知の事実である。稲嶺名護市長ともがっちりと手を組み、辺野古に新たな基地を造らせない態度を明確にしている。
 もともと「最低でも県外」の公約を投げ捨てて、辺野古移設に回帰したのは民主党政権だった。仲井真県政が辺野古埋め立てを承認したさい、民主党の海江田代表は「知事の判断は大変重い」と評価した。
 知事承認のあと、民主党県連と喜納代表が「承認撤回」を求めて行動したという事実は寡聞にして知らない。民主党本部は知事選で自主投票とするよう県連に求めており、喜納氏の出馬を承認しない方向だ。しかし、喜納氏はたとえ本部から処分をうけても出馬するという。
 なぜ、喜納氏はそこまで意固地になっても出馬しようとするのだろうか。
 「革新支持層への浸透を狙うのか」という記者の質問に対して、「革新票を割るために出てきたのかという話があるが、そう思わせてもいいのではないか。革新の人たちがだらしない、という気がする」と答えた。
 驚くべき発言である。翁長氏の票を掘り崩すために出馬するとなれば、最も喜ぶのは、仲井真陣営とその再選を狙う安倍政権・自民党だろう。客観的には、仲井真知事を側面から応援する役割を果たすことになるからだ。
 「辺野古承認撤回」を標榜しながら、結果として辺野古推進の仲井真氏と安倍政権の援護者の役割を担うというのは、矛盾も甚だしい。常人には理解不能な出馬表明である。
 辺野古の新基地建設には県民の8割が反対している。喜納氏が、沖縄を愛し、平和を愛するのなら、「オール沖縄」の願いを実現するために、いま何をなすべきか、真剣に再考してほしい、と考える県民は多いだろう。

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美栄橋駅付近の史跡、「上り口説」に登場する美栄橋

 美栄(ミエ)橋
 民謡の「上り口説」(ヌブイクドゥチ)は、首里王府から薩摩(鹿児島県)に向かう旅の情景を歌った曲である。口説は、75語で歌われる軽快な大和的な曲調である。その3番目の歌詞に美栄橋が登場する。
 「♪美栄地(ミイヂ)高橋 打ち渡てぃ 袖を連にてぃ 諸人ぬ 往くも帰るも 中ぬ橋」
 琉球王府のこの時代、まだ島だった那覇には、海中道路である「長虹堤」を通って行った。崇元寺から「長虹堤」を進むとこの美栄橋を渡る。
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 歌詞には、首里を出発して、観音堂で航海安全を祈り、大道松原を通り、崇元寺前を過ぎて、長虹堤に入り、美栄橋を渡り、見送りの家族らも袖を連ねて、通り行く様子が歌われている。
 
 モノレール美栄橋のたもとに、「新修美栄橋碑」がある。案内板から紹介する。
 いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島だったため、首里との交通は不便だった。
 そこで尚金福王は1452年、中国皇帝の使者である冊封使(サッポウシ)を迎えるにあたり、国相懐機(コクソウカイキ)に命じて、崇元寺前からイベガマ(現那覇市松山1丁目付近)に至る約1キロの「長虹堤」という海中道路を築かせた。「長虹堤」には3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はその内の一つである。
 那覇が発展していくに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまった。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになった。
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 1735年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工した。その経緯を記してあるのがこの石碑である。工事に要した費用なども記され当時の経済状況を知ることができるという。
 その後、美栄橋は1892年に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし、碑文だけは原型をとどめ、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。
 沖縄には、このような史跡と石碑がたくさんあるけれど、沖縄戦でその多くが破壊されたなかで、美栄橋碑のように、碑文は原型を止めて保存されているのは珍しいのではないだろうか。


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美栄橋駅周辺の史跡、長虹堤

美栄橋駅周辺の史跡

 那覇市のモノレール美栄(ミエ)橋駅の周辺はいくつもの史跡がある。駅前の広場に史跡・旧跡の案内板が建てられている。いくつか見た史跡もあるが見ていないものもある。
                            
 海に架かった長虹堤
 美栄橋駅周辺の歴史は、琉球王国時代の「長虹堤(チョウコウテイ)」の築造に始まる。長虹堤は、1451年に築造された崇元寺(ソウゲンジ)からイベガマ(久茂地のチンマーサー)に至る長さ約1キロにおよぶ浮道(海中道路)のこと。美栄橋はこの道のほぼ中央に架けられた石橋である。
 注・チンマーサーとは、土や石を積みめぐらせ円形に盛り上げたところ。ガジュマルや赤木を植えてある。里程標と見られる。
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明治初期の長虹堤一帯(美栄橋駅周辺の史跡案内板から)

  長虹堤築造以来、昭和戦前期に至るまで首里・那覇の往来には主にこの道が利用された。また、築造により安里川から流れ出る土砂が河口に堆積して干潟が形成され、ここで製塩業が営まれた。近代に入ると、崇元寺橋付近には漆喰屋、瓦葺職人が集まり、美栄橋からチンマーサーにかけては線香屋が軒を並べ、鍛冶屋も数多くあった。現在でも、長虹堤跡の一部が残っているという。
  那覇は海に浮かぶ「浮島」であったため、長虹堤を築造する以前、中国皇帝の使者冊封使(サッポウシ)が来琉する際には、那覇から安里まで小船を並べて橋にしたという。
                  から1700古地図、県立図書館
1770年以前の海岸線(県立図書館貴重資料デジタル書庫から)

 1451年、国王尚金福(ショウキンプク)は、国相懐機(カイキ)に命じて、那覇・安里を結ぶ道を造らせた。懐機は、この工事は海が深く波が高いので、神の御加護が必要だと、祭壇を設け二夜三昼祈願した。その結果、水が引き海底が現れたので、人民を動員し、崇元寺橋からイベガマに至るまで、石橋七座を設け浮道を完成させたという。
1633年、来琉の冊封使杜三策の従客胡靖(コセイ)は、この浮道を「遠望すれば長虹のごとし」とうたい、それ以降「長虹堤」と称された。
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              戦前の長虹堤跡(美栄橋駅周辺の史跡案内板から)
 長虹堤は、1451年以降、明治期まで首里・那覇を結ぶ主要道であったが、1914年首里・那覇間を走る電車の開通(1933年廃止)や、1934年新県道(現国際通り)の開通により、主要道としての地位は低下した。さらに沖縄戦や戦後の都市開発により、現在ではかつての様子を知ることは出来ない。わずかに長虹堤跡の道が残されている。
 残されているという付近をめぐってみたが、案内板もないのでわからないままだ。


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無責任な「県民投票」公約

 11月の沖縄県知事選挙に出馬を表明している前衆院議員が18日、政策を発表した。米軍基地問題で、普天間飛行場の辺野古移設問題は県民投票を行うという。つまり、最大の争点について自分の立場を何も示さない、ある意味で争点そらしともいえる政策である。無責任極まりない。
 前衆院議員といえば、これまで普天間問題で、嘉手納基地統合案を主張し、ひんしゅくをかった。国頭村安波への移設を策したり、はては民主党政権時代の閣僚として、辺野古移設を容認したことは記憶に新しい。普天間問題で、主張が変わっているように見えるが、県内移設容認という立場では一貫している。
 記者会見で、「持論だった嘉手納統合案への現在の評価は」と聞かれて、「今、セカンドプランを出せば、そこだけだ注目される」「言わない」と答えた。つまり、嘉手納統合案は変えていないが、いま言えば不利だから、本音は隠していまは「言わない」ということだろう。
                  普天間飛行場
                     普天間飛行場が遠くに見える
 今回の知事選そのものが、ある意味、もっとも重要な「県民投票」の役割を持つ。その知事選に出馬するのなら、みずからの政治信条を公約に掲げて審判をあおぐのが筋だ。にもかかわらず、持論である主張は覆い隠して、公約に掲げず、ただ県民投票に委ねるというのでは、県民を欺くやり方ではないだろうか。
 もしも、県民投票を行えば「移設反対」が多数を占めるだろう。その場合、県内移設を政治信条とする人物が、新基地を造らせないために県民と腕を組んで本気で政府に立ち向かうとは、誰も信じないだろう。
 すでに、県民投票をするまでもなく、各種世論調査で、辺野古移設反対は県民の8割という圧倒的な多数を占めており、辺野古への新たな新基地建設は許さないという県民の意思は明確である。こんな無責任な「公約」でごまかされるほど県民は愚かではない。
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那覇の織物事情(下)

 織物の産地、小禄・垣花・泊
 那覇の織物事情の続きである。『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』から紹介する。
1900年(明治33)に琉球織物組合が設立されると、内地の織物の技術導入がひんぱんになり、織物を専業とする地域、小禄、垣花、泊など分業の形で反物が生産された。
 小禄では、主に金城(現在の田原)が織物の中心地で、6軒のスミヤー(染め屋あるいは紺屋)があった。
垣花には、現在の桟橋あたりに染め屋があった。
 泊の染め屋は58号線添いに多かった。
 この3地域は、全工程を一貫して女性の手でやる内職的な織物が次第に合理化され、分業化して、男性の下拵えによって、女性は各家庭にて出機をやり、一反に対する織賃をもらうという方法に変わっていった。そのころから織機も地機(ジバタ)から高機(タカバタ)へ移っていった。
 近代化されていった地域もあるが、依然として、母親から伝授した古い伝統技術によって、家族のものや、徳別誂えのチーユーを、やはり母親からゆずり受けた地機で織っていた。地機は戦争直前まで、かなり使用されていた。
 普通一般に行われている工程の特徴は、藍染めをスミヤー(染め屋あるいは紺屋)に出す以外は、すべてみずからの手でやったということである。
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                    地機(石垣市立八重山博物館)

 泊の織物事情
 織物産地のうち、泊の織物について,『泊誌』から紹介する。
 泊の織物の起源は、はっきりしないが琉球王府時代からあったと考えられる。
 泊でも織物は、従来の各家庭だけで生産されていた
 1901年(明治34年)に那覇区織物業組合が結成され、検査制度を実施して新販路の開拓をはかるようになったため、次第に工場経営化されるようになった。
 1908年(明治41)、国吉染織工場が設立され、職人数13名を数えた。那覇市唯一の織物工場であった。
 昭和の初期では、泊織物工場があり、織機(タカバタ)が20台くらい、主に絹壁上布が織られた。(注・絹壁上布とは、凸凹のある壁糸と呼ばれる糸で織った絣織物)。その他、町端に真栄城工場があり、織機10台くらいを設備していた。各家庭でも織機を備え、主に木綿カスリを生産した。
 当時、泊の全生産高は月600~700反くらいで、市内でも垣花と並んで有名な織物の産地であった。
 泊の各家庭はほとんど高ハタ(高機)を備えていたが、嫁入り道具とされていたのではないか。工場で賃金は1日30~50銭しかもらえないが、自家で製作すると約1円の手間はあった。しかし、原料購入資金がないので、工場に雇われる人も多かった。各家庭で生産された反物は行商人が買い上げ、検査の上、本土に移出された。
 琉球織物には、絹上布、麻上布、芭蕉布、毛糸織、木綿織など各種類があった。最も多量に生産されるのが、絣織物(全琉の90%くらい)だった。
 泊の織物に関連して、大正から昭和にかけて染屋15世帯、絵図師25名くらいもいたという。
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                      これは「久米島紬」(久米島紬の里ユイマール館)
 民謡では「三村踊り節」で次のように歌われる。
 「♪小禄、豊見城、垣花三村 三村ぬアン小(グヮー)達が 揃とうてぃ 布織い話 あやまみぐなよ 元かんじゅんど」
 「小禄、豊見城、垣花の3つの村の 女性たちが揃って 布織の話をしている 布の模様を間違えるなよ 元がとれず損するぞ」
 この歌は、布織、製塩、遊女、魚売り、酒造りで共通する3つの村の女性や青年がそれぞれの物産と仕事の話をしている情景が歌われている。『那覇市史 那覇の民俗』では、小禄、泊、垣花という那覇市内の産地が紹介されているが、「三村踊り節」では、布織の産地として泊に変わって豊見城が入っている。
 この曲を歌っていると、各地の特産品が改めて分かって、とても面白い。

 もう一度、『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』から紹介する。
 沖縄の織物が発達した大きな原因は、染料植物に恵まれ、古くから天然染料が使用できたことにある。
 身分によって衣服の色、文様に違いがあった。 
 1600年以後の琉球王府が衣服の文様や色を、身分階級によって指定したため、明治時代になって、階級制度が廃止されたにもかかわらず、その名残は戦争直前まで続いた。
 元那覇地域のイエーキンチュ(金持)が、首里の士族階級の着る色や柄を織って着ると、ユカッチュフーナーシ(士族のまねごとをして)といって、うしろ指をさされたという。
 藍染めや白地は庶民の色、その他の色物は王族や、士族の着用するものであった。一般大衆に馴染み深いものは、藍染めであり、藍はカリーナムン(縁起物)といって階級の上下なく、万人に愛されたという。


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那覇の織物事情(上)

那覇の織物事情

 王府時代の織物は、八重山や宮古島、久米島は人頭税、年貢として貢納を義務付けられ、女性たちがとても苦労したことが、民謡にも歌われ、史書でも詳しく書かれている。しかし、沖縄本島でも各地に伝統ある織物があるわりに、民謡で歌われた曲が少ない。代表的なのは「芭蕉布」だけれど、1960年代に作られた新しい曲だ。王府時代の織物について、不勉強もあって、よくわからないところがある。
『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』を読んでいると、那覇の織物について、少し記述があったので、以下かいつまんで紹介する。
                   かすりの里
                       南風原の「琉球かすりの里」
 自家用の布は家庭で織る
 沖縄の織物は、以前は原材料をみずから作り、織物の全工程をそれぞれの家庭内で行ない、おおかた自家用の布を織っていた。
 首里は、織物の種類が数多いが、繊維つくりから一貫作業でやっていた点で、第一に上げられるのが、芭蕉布である。
首里は、旧貴族、士族の広い屋敷の家が多く、屋敷内に芭蕉布が栽培されていた。働き手のある家庭はみずから芭蕉の伐採をやるが、手不足の家庭は、専門の「ウーヒチャー」(伐採、皮はぎ、アクだき、表皮の不純物の取り除きまでやる人)に頼んだ。
 城間ツルさんの場合、城間家は芭蕉を紡ぐ専属の人がいて、あまり上手でない人には外皮、上手な人には中皮と、それぞれよりわけをして紡いでもらい、一番芯に近い中ウーだけは、お母さんがみずから糸を紡いで、最高の自家用を織ったという。
 絹も首里では、たいていの家で自家用のために少量ずつ養蚕をやっていた。
家の裏座や座敷の一間を利用しての養蚕で、繭ができあがると、約10日以内に鍋に湯をたっぷり沸かし、繭を煮る。ユウナの葉の裏で繭の表面をなでつけると、糸口がついてくる。その細い糸を20本くらいずつ木枠に巻くザグリに巻き込んでいく。生糸に撚りかけして、夏物の絹上布を織ったり、白生地を織って、型付をさせたりした。
 女のたしなみとして、誰もが、ごく普通に機織りを行っていた。それらは、大方、家族の着るものの他に、上手な織り手は、他人のチーユー(個人の徳別誂え)も頼まれたという。


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那覇の宿泊所「ヤールグヮー」

 那覇の宿泊所「ヤールグヮー」
 
 その昔、沖縄の離島や本島の中部、北部から那覇に用務がある人は、日帰りはできないので宿泊が必要だった。このため那覇港の周辺に宿泊所が発達した。宿泊所を通称「ヤール小(グヮー)」と称した。漢字にあてれば「宿小」となるらしい。以下、『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』から、かいつまんで紹介する。
 那覇の港周辺に集中し、首里にはなかった。それは、離島や本島北部からの交通は船に頼っていたからである。

 ヤール小は、名称の上に利用客の出身地域の名をつけて呼ぶのが普通だった。例えば、イヒャ(伊平屋島)ヤール小、ケラマ(慶良間諸島)ヤール小、アグニ(粟国島)ヤール小、イイジマ(伊江島)ヤール小、トナチ(渡名喜島)ヤール小、大島(奄美諸島)ヤール小、エーマ(八重山諸島)ヤール小、クミジマ(久米島)ヤール小という島名をつける離島のヤール小と、本島のイチマン(糸満)ヤール小、ヤケナ(屋慶名)ヤール小という村名をつけるヤール小があった。
ヤール小が古くからあったのは渡地(ワタンジ)らしく、そこには20軒ほど裏通りに並んでいた。渡地は主に離島の人が利用した。
 
 宿といっても、老夫婦が自宅をそのまま宿泊所として利用する形をとっていて、相部屋が当たり前だった。
明治後半から大正期にかけて、民家利用から抜け出て本格的な経営に力を入れる者が出てきた。利用客は男がほとんどを占めていた。
 大正、昭和になると、本土へ女工などで就職する人々が増えてきて、船の出港に間に合わせて中頭、国頭から前日に泊まる利用もなされた。
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                        現在の糸満漁港

 ヤール小で特異なのは糸満ヤール小であった。糸満と那覇は距離が近いにもかかわらず、糸満ヤール小は7つか8つあり、他村に比べて多かった。他のヤール小が主に旅人の宿泊所だったのに対し、糸満ヤール小は漁夫が水揚げする魚の販売を目的とした糸満女性の詰所的なものであった。
  糸満のある漁撈組が、伊平屋とか渡具知あたりで追い込み漁をして水揚げした魚を、那覇の打ち合わせたヤール小に運び込む。漁撈組の妻など仲間で構成する魚販売グループ「カミアチネーグループ」があらかじめ待機していて、金銭は後払いで一括買い入れをする。
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              糸満市公設市場にかつての魚を売る糸満アンマーの姿があった
 魚をバーキ(ザル)に入れてカミアチネー(魚の行商)を行い、売り払った後に、グループの代表格、副代表格がその日に売れた売り値をもとに、漁夫の男たちにいくら払おうと決定し、払った。女性グループの配当は平等になされたという。
女性グループは、1、2か月という短期のヤール小住まいから、長い場合は8月から翌年5月までという長期の滞在をすることもあった。女性グループは、漁撈組が出漁するに際して、イモを買っておくなどもろもろの準備をする役割ももっていた。
 糸満の若い女性にとって、那覇のヤール小に詰めることは楽しみの一つでもあった。大正から昭和のはじめころの話である。
 沖縄県民が利用する宿泊所が一般にヤール小と呼ばれたのに比べ、大和人を主たる宿泊客とするものが旅館であった。ヤール小が民宿に近かったのに対し、旅館は本格的な宿泊所といってよかった。旅館ができたのは明治になってから。大和の商人の利用が目立って多かった。沖縄人は、宿泊料が高額なので、庶民には手が出なかったという。 
  

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