レキオ島唄アッチャー

「テビチから揚げ」旨い

 ランチを外で食べようと、糸満市のそば屋に行った。「しん里」という。知り合いが経営している店だけれど、初めて行った。昼食の時間だけで夜は営業していない。
 店の主人が粟国島の出身だそうで、「粟国そば」「むんじゅるそば」という粟国にかかわる名前のメニューがある。その他、沖縄らしい煮つけやイナムドゥチ(沖縄風トン汁)、チャンプルーからとんかつ、天ぷらの定食まである。
 「隠しメニューでテビチ(豚足)のから揚げがあるよ」と聞いていた。
 野菜たっぷりの粟国そばとテビチ煮つけのから揚げを注文した。
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 そばは、野菜炒めが載った感じだが、沖縄では他にはこんなそばはない。出汁は、アグー豚などからとっている。麺は同じ粟国出身の人が作っていて他には出回っていないとか。なんか味わいのある麺だ。
 粟国らしさではなく、粟国出身者がつくるから「粟国そば」。とても美味しくいただいた。580円。
  「むんじゅるそば」は、テビチ、ソーキ(スペアリブ)、三枚肉の豪華三点盛のそば。ボリュームたっぷりである。
 むんじゅるとは「麦わら」のことで、花を飾った「むんじゅる花笠」は美しい。粟国島には「むんじゅる節」という有名な民謡がある。舞踊曲でもある。「むんじゅるの粟国島」がうたい文句になっている。
 
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 テビチから揚げは、ツレと二人で1個ずつ食べた。から揚げに塩味が効いている。煮つけと違って、皮がパリッとしていて、中はコラーゲンがプリプリしていてやわらかい。1個でもボリュームがある。テビチから揚げは、前に一度食べたことはあるが、食堂のメニューでもほとんど見かけない。珍らしい一品である。
 店の主人は、料亭で働いていたり、県外でも働いていたことがあるという。料理とメニューにどこか、内地風の匂いが漂っているのはそのためだろう。
 夜は、別の店で寿司を握っていると聞く。腕の確かな料理人という印象である。次は、定食も食べたいなあ。
 
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「キーツマンゴー」いただきました

 「緑のマンゴー・キーツマンゴー」を知り合いのマンゴー農家、Aさんからいただいた。
 「幻の果実」ともいわれる。何が幻なのかは、よくわからない。
 マンゴーといえば赤く熟す「アップルマンゴー」を思い浮かべるが、キーツマンゴーは、赤くならない。青いというか緑色というか。赤くならない。少し部分的に黄色を帯びるくらい。
 通常のマンゴーより一回り大きい。パパイヤ―くらいになる。その分肉厚で甘い。お値段もより高くなり、高級マンゴーの部類にはいる。生産が少ないので「幻」がつくのだろう。
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 緑色なので、見た目は、あまり美味しそうにない。でも外見と実際に食べるのとでは大違いだ。難しいのは食べ頃。沖縄に来てまだ、一度も食べたことがなかったので、先日買ってみた。柔らかくなったら食べ頃だと聞いていた。ただ、見た目が緑色でまったく黄色にもならないので「まだ、まだだろう」と置いて熟するのを待った。
 「そろそろ食べ頃か」と思って冷蔵庫に入れようとすると、もうブヨブヨになっている部分がある。「これはヤバイ!」と冷やしてすぐ切ってみたら、案の定、黄色くなりかかった先端部分は、少し痛んでいた。でも大半は完熟して、甘く美味しかった。
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 今回、柔らかくなってきたのを切ってみると、すごく濃厚な甘みげして、美味しい。
 キーツマンゴーは、アップルマンゴーより少し出荷が遅い。8月の下旬から9月にかけてだという。野菜直売所にはたくさん並んでいて、いま最盛期の印象だ。
 いただいたのは、少し小ぶりで規格外のもののようだ。でも、袋に5個も入ってた。お店で買えば、かなれ高いだろう。ありがたくいただきたい。食べ頃を間違えないようにしなければ。
 
 
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王府時代の那覇の史跡を歩く、那覇里主所

 那覇里主所(なはさとぬしじょ)
 
 天使館の北東側に、那覇里主所があった。那覇里主所は、那覇四町の行政および薩摩藩在番所との折衝・唐船・楷船・旅役などの事務を管掌した首里王府の役所跡。いまでいえば市役所にあたる。
1638年に創設された。
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 長官の那覇里主は、那覇の総責任者であり、御物城を管理し、在番奉行(薩摩)の接待が主な役目。いまで言えば市長に当たる。下役には那覇大筆者、脇筆者がいる。
 那覇里主は、古琉球期、親見世の長たる御物城(おものぐすく)職とともに王国の対外窓口たる那覇の港、町の管理にあたっていた。
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             旧中央郵便局。いまは東郵便局がある
 近世期においても基本的役割は変わらなかったが、任職者は首里の上級士族に限定され、王府の中枢役人の出世コースの職となっていた。





 
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王府時代の那覇の史跡を歩く、天使館

 天使館(てんしかん)跡

 親見世の北東側に天使館があった。
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 琉球王国時代、中国が派遣した冊封使(天使)のための施設・宿舎。一般に館屋(くゎんや)と称した。創建年代は不明だが、16世紀前半には確認される。冊封使の渡来は三山時代(琉球は北山、中山、南山の3国に分立していた)から1866年まで都合23回を数えた。正・副使以下400~500人が夏から冬の約半年間滞在。崇元寺で故国王を弔い(諭祭)、首里城で新国王を冊封した。国王一世一代の大行事であった。
 1719年に来琉した冊封副使の徐葆光(じょほこう)は『中山伝信録』(原田禹雄訳注)で、天使館について次のように記している。
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 屋敷はみな中国風である。外柵がめぐらされ、柵の内に東西に門と、それぞれ四楹(えい、柱のこと)の房とがある。旗竿の上には、「冊封」の黄旗がかかげられ、これが二つ。八角の鼓楼が左右二カ所。大門の内側にはそれぞれ六楹の役房が東西にある。儀門の上には「天沢門」(天使の恩沢の意)の三字の額がかけられている。前明の万暦年間(明代の1601年来琉)に、使臣の夏子陽が書いたものだが、消えてしまった。私たちが、その上に補書した。大堂の前庭は広さは数畝。陪臣はここで礼をおこなう。
 徐葆光によれば、天使館のそばには、経理事務所があって7つの司にわけられていた。
 「館務司(宿当)」は庶務担当、「承応所(用聞)」は施設管理および調度の担当、「掌牲所(平等)」は羊、豚、鶏、家鴨の供給などの担当、「供応所(百次)」は酒、米、野菜の供給などの担当、「理宴司(振舞)」は七宴(王府が冊封使をもてなす7回の宴会)の担当、「書簡司(墨当)」は諸帖のやりとりなどの担当、「評価司(評価)」は唐人持渡品の価格を評定し、それに応じて買い上げ支払いなどを担当する。それぞれ役人、要員が配置されていた。

 冊封使が滞在する時の他は、通常その一部が砂糖座(さとうざ)として用いられ、砂糖の収納・薩摩への送り出し、砂糖樽の製造が行われた。
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                 旧那覇市役所

 沖縄県設置の後、1896年には那覇区役所(後に市役所)となり、1917年には新庁舎を建てていたが、沖縄戦の前哨となる1944年10月10日の大空襲で破壊された。
 現在、東町郵便局の隣の那覇地域産業保健センターの一角に案内板が建っている。



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王府時代の那覇の史跡を歩く、親見世

 王府時代の那覇の史跡を歩く

 琉球王府時代の記録「冠船日記」「親見世日記」を読んだので、改めて当時の那覇の關係する史跡を回ってみた。
 これらの史跡が集まっているのは、現在の那覇市旭橋からロワジールホテルに向かって進むと東町交差点がある。その周辺の東町、西町と港のある通堂である。
 首里王府の役所「親見世」、「那覇里主所」、中国からの勅使が泊まった「天使館」、薩摩藩の役人が駐在した「薩摩在番奉行所」、中国の「冠船」、琉球の唐船などが接岸した那覇港などである。
 役所があったこの地は、戦前は那覇市役所、県庁、那覇警察署、中央郵便局などあつまる那覇の中心地だった。現在は、オフィスビル、ホテルなどが林立して昔をしのぶ面影は消え失せている。あちらこちらのビルの一角に史跡であることを示す案内板が建っている。そこに、古い写真や絵図が添えられていて、往時の雰囲気を伝えてくれる。
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 かつては、現在の泉崎交差点の南西側に「大門」があり、南西に向かって大門通りが伸びていた。その通り沿いに建物があった。
 以下、案内板の説明や『那覇市史通史編第1巻』から紹介する。

 親見世(おやみせ)
 まずは東町にある親見世跡(那覇市東23-1)。
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 首里王府時代の那覇の役所跡。「親見世」は方言は「ウェーミシ」と呼び、「王府の直轄する店」という意味である(『那覇市史通史編第1巻』)。もとは王府が海外貿易で得た貨物を販売する<御店(おみせ)>だったとされる。
  王府の史書『球陽』では、「那覇親見世は、諸国と交通貿易するに因り、故に公館を那覇に建て、官吏を置きて以て其の事を掌らしむ。その館を名づけて親見世と日ふ。又公倉を那覇江中に建てて以て貿易を蔵す。其の倉を名づけて御物城と日ふ」と記されている(『那覇市史通史編第1巻』から)。
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 つまり海外との交易のための役所として建てられ、役人を置き、業務にあたらせていた。
15世紀半ばの朝鮮の『海東諸国記』中の「琉球国図」に記されてる「国庫」は親見世を指すとされ、創設はそれ以前だったと考えられている。
 1609年の島津侵入の際、降伏会議はここで開かれた。楼門造りの門前の通りには港に続く東・西両村を分ける道で、門前横には大市(うふまち、市場)が広がる那覇の中心地であった。
 1638年に上位機関の那覇里主所(なはさとぬししょ)が設置されると、もっぱら那覇四町(東村・西村・泉崎村・若狭町村)の民政を担当した。廃藩時代には大屋子(うふやこ)・筆者など10数人が常勤していた。
 1876年に熊本鎮台沖縄分遣隊営所となり、1884年から1915年まで那覇警察署、その後は山形屋百貨店となっていた。
 親見世の南側に在番奉行所があった。



                   
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これが県民の声、「辺野古中止」80%

 「辺野古移設作業は中止すべきだ80・2%」。これは琉球新報社と沖縄テレビ放送が合同で実施した世論調査の結果である。
 政府が、仲井真県知事の埋め立て承認を最大限に利用して、埋め立てに向けた海底ボーリング調査を強引に行っていることに対する、県民の意識がこの世論調査できわめて明確に示された。
 「移設作業をそのまま進めるべきだ」というのはわずか19・8%に過ぎない。
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  ボーリング調査を開始した安倍政権には81・5%が不支持である。
 仲井真知事の対応について「承認取り消し、計画をやめさせるべきだ」が53・8%、「作業に協力すべきでない、少なくとも中断を求めるべきだ」20・2%と合わせると、74%が知事の対応を批判していることになる。
 80%という数字は、県民の圧倒的多数を表している。つまり、政府への「建白書」に盛り込まれた辺野古移設に反対する島ぐるみの県民の総意は、埋め立てに向けた調査が始まったからといって、いささかも揺るぐことはない。そればかりか、いっそう高まっていることの証左である。
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 24日の日曜日には「辺野古新基地建設の中止」を求める県民集会が、キャンプ・シュワブゲート前で開かれた。事情があって行きたいけれど行けなかったが、短期間の呼びかけで、3600人(主催者発表)が集まり、抗議の声を響かせた。辺野古でこれだけの集会が開かれたのははじめてだという。
 連日、抗議の座り込みを続けるヘリ基地反対協議会の安次富浩共同代表が、「このたたかいは勝利できる」と力強く訴えたのは、とても印象深かった。
 県民の8割が反対しても、ゴリ押しするような政府は、民主主義国家でありえない。沖縄だけは、いくら島ぐるみで反対しても、耳を傾けない。作業を強行するというなら、県民の政府への不信、仲井真知事への不信は極限に達するだろう。
 「沖縄県民をなめたらいかんぜよ!」と言いたくなる。


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「親見世日記」を読む。誓約書に血判を押させた

 誓約書に血判を押させた

 唐船に乗り込む人たちには、厳守すべき事柄を記した誓約書(誓詞)があり、それに血判を押すことを命じていた。
 6月20日付け「覚」は、次のように命じている。
 「今月22日、安里八幡(注・琉球八社の一つ)で血判をするよう命じられたので四つ時分(午前10時頃)に出席すること。なお、これまで血判を済ませてない者も出席して血判を済ませること。以上。
 6月20日 与那覇親雲上
 那覇筆者 親見世
 問役  御兵具役」

 9月20日付けの「覚」でも、「今度の27日に渡唐人数の血判が命じられたので、これまで通りに勤めること」という、津嘉山親雲上と里主、御物城名で達しをしている。
 9月26日付けでは「明日、渡唐人数の血判が、四つ時(午前10時頃)に始まるので、北谷王子と識名親方が辰半時分(午前8時頃)に那覇に来られる。そこでその準備をすること」と津灞親雲上が述べている。

 血判当日の9月27日付けでは、次の記述がある。
一、渡唐人数の血判があるので、御奉行様と堀喜平次殿、摂政、三司官の識名親方、御物城の崎山親雲上、御横目の津堅筑登之親雲上、今帰仁筑登之親雲上、筆者の長浜筑登之、問役の仲里筑登之と照喜納筑登之親雲上、親見世筆者の我那覇里之子、若筆者3人が出勤した。
  血判を押させる際は、薩摩の在番奉行や首里王府の摂政、三司官ら幹部が臨席している。それだけ重要な行事だったのだ。
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     がじゃんびら公園から見た那覇港
 血判を押させた誓詞は、どのような中身だったのか。誓書血判した起請文から要約して紹介する。
1、キリスト教は禁止されている、同教には感染しないこと。
2、琉球が薩摩の支配に入ったことを話してはならない。
3、薩摩の御用物(注文の品物)は念を入れて買いととのえよ。
4、武器の類を中国に売ってはならない。
5、唐から帰る時、出港の際は人数を確認する。唐人を飛び乗りさせてはならない。
6、私的な用事のため帰りの時間に遅れてはならない。
7、唐への往復の際、もし海賊にあったときは、船中の者でよく相談してそれぞれの部署で働くこと。 臆病で逃げてはならない。
8、右の条項を固く守ること。もし不行き届きがあれば罰を科す。
 これは、役人の起請文で水夫や従人等の文言は対象の差異はあるけれど大差ない(東恩納寛惇著「島津氏の対琉球政策」、『東恩納寛惇全集2』)。

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薩摩在番奉行所があった付近。史跡案内板がある(那覇市西町)

 10月19日には、いよいよ渡唐船に乗船することになる。
 その直前、10月17日にも次の記述がある。
一、渡唐御銀惣高勘定(総計算、注・中国に持ち渡る銀の総計算のこと)と残りの血判を親見世で行うよう指示があったので、三司官の識名親方が来られた。そこで問役の仲里筑登之を通じて御横目と御附衆に急ぎ連絡して、御横目の後醍院半左衛門殿と御附衆の春田喜右衛門殿が御越しになり、血判を行っていない者は親見世の2階で御評定所筆者の源河里之子親雲上が誓詞を読み聞かせて血判するように命じた。この時、大和横目の平安座筑登之親雲上と津堅筑登之親雲上が出勤して、これで終わって渡唐御銀惣高勘定も済ませた。

 琉球からの進貢使一行は、1船あたり100人から150人と制限されていた。だが大人数なので、全員の誓約と血判が揃うには時間がかかったようだ。乗船の直前まで、血判を押していない者に、誓詞を読み聞かせて血判を押させるよう命じている。

 10月19日はいよいよ、乗船である。「渡唐役者が乗船するので、摂政の北谷王子と三司官の具志頭親方と識名親方が那覇に来られた。…やがて御銀の積み入れと、乗船者の検査を行った」。
 10月23日には、二隻の渡唐船が出港した。
一、今日、両渡唐船が出港したので、(首里城への)早遣いとして問役の髙良筑登之が騎馬で登城して、下庫理当(注・したぐりあたり。王城の儀式を管掌し、国王への取り次ぎ役を担った)の取り次ぎで(国王へ)言上した。

 以上、「親見世日記」と關係史料を見ると、中国への渡唐船に搭載する大砲、鉄砲など武具の検査・確認をしっかりと行うこと。乗船する者たちには、鉄砲稽古を行うこと。さらには、海賊に襲われた場合、恐れず逃げずに配置について働くことなど、誓詞に血判を押して誓わせた様子が、リアルに伝わってくる。とても興味深い記録である。


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「親見世日記」を読む。唐船の鉄砲稽古

 琉球から中国へ向けて唐船(とうしん)が出港することになれば、武器を使った訓練を行った。渡海の途上で海賊に襲われる危険があったからだ。渡唐船に乗り組む要員は、海賊に襲われれば、みんなが防御のために闘わなければならない。そのために、渡唐船に乗る要員を対象として、武器の訓練は重要な任務だった。大砲、鉄砲は薩摩から借りた。 
            唐船
           琉球から中国に渡った「唐船」を再現した船(読谷村)

 8月26日付けでは、鉄砲稽古を行うことが記されている。
 
一、渡唐役者の鉄砲稽古が行われるので、四つ時分(午前10時頃)に問役(注・親見世の下級役職。出入港する船舶に関する業務を担当)の仲里筑登之(ちくどぅん)を通じて御与力の取り次ぎで御奉行へ御連絡した。御横目と御附之衆に対しては仲里筑登之が直接御連絡して、御奉行様を始め、御横目と御附之衆がお出でになった。御物城(注・おものぐすく。親見世の次官格)の崎山筑登之親雲上、筆者(注・書記官)の長浜筑登之親雲上、親見世筆者の我那覇、里主、問役の仲里筑登之、若筆者3人が出向いて旧例に従い勤めた。
一、出仕番詰めは筆者の賀手納筑登之親雲上が務めた。
 鉄砲稽古をする際は、薩摩の御奉行に連絡して、薩摩の役人らが立ち会ったことがわかる

 8月27日付けは「渡唐人数の鉄砲稽古が行われるので大和横目(親見世の下級役人。那覇士族が就任した)の今帰仁筑登之親雲上、問役の伊波筑登之が出勤した。この時、御奉行は来られなかったので、役人(里主・御物城)と筆者は出勤しなかった」と記す。
 同28日付けは「渡唐衆の鉄砲稽古は昨日と同様に行った」との記述がある。

注・筑登之(ちくどぅん)は、琉球の身分制度のもとで、一般身分の士で主に下級官吏の役職に就いた。これに対し、里之主(さとぬし)は、大名(貴族にあたる)の按司(あじ)・親方(うぇーかた)系で要職に従事した。

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「親見世日記」を読む。唐船の武具

 「親見世日記」を読む。唐船の武具

 琉球王府の時代に、那覇4町(西・東・若狭・泉崎)を管轄していた役所、親見世(おやみせ)の業務記録である「親見世日記」を読んだ。親見世は、那覇里主(親見世の長官格、首里士族から選出)、御物城(おものぐすく、同次官格)を筆頭に那覇の行政全般を担当した。那覇港に入港する王府の公用船、進貢船、薩摩藩の民間船の出入港業務を行った。琉球に滞在した薩摩役人と首里王府の折衝役も担った。
琉球における武具について関心があったので、「日記」の中に、「兵具役」「兵具改」などの記述がよく出てくることに注目した。「「乾隆元年親見世日記(1736年)」から、いくつか紹介したい。

 親見世に兵具役がいた
 6月19日付け「日記」には、次の記事がある。
 「御兵具役の御拝(就任儀礼)が終わったので、御奉行所(注・薩摩から派遣された在番奉行の住居兼事務所)へ里主(注・さとぬし。親見世の長官格)の小禄親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する者の称号)が同伴して新任のあいさつをした。他の薩摩役人へは自身であいさつした」。
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 兵具役に誰かが新たに就任したのであろう。就任儀礼が終わったので、薩摩から派遣された在番奉行に就任のあいさつに行ったことを記している。
 首里王府の機構には、武官系の役職、軍制はなかったといわれる。
 徐葆光(じょほこう)著の『中山伝信録』を読むと、琉球王国の官職定員の一覧の中に「武備司(兵具当)」が記載されている。これは、「兵具役」「兵具改」と同じもののようだ。
 王府の官職では、儀衛使と武備司は唯一の武官系の官職である。徐葆光は「儀衛使と武備司の外に、武官系の役職はほとんど省略されている。軍制と兵仗がくわしく書いていない」と指摘している。しかし、「武官は省略されているのではなく、なかったのである」(原田禹雄氏の訳注)。つまり、儀礼用の武具である儀仗はあっても、戦闘用の武具である兵仗と軍制はなかった。王府には、常備軍はいなかった。唯一、儀仗ではない武官系の役職として、兵具当、兵具役がいたことになる。
 那覇4町を管轄する役所の「親見世」には、兵具役があった。
 次の6月20日付け津灞親雲上名の「覚」は、兵具改の担当者が任命された記述もある。
「久米村四男の座間味子 右の者は兵具改筆者に任命された」と記している。
ここで、兵具改または武具改とは、琉球から中国へ渡航する渡唐船へ海賊対策のため搭載する武具類(大砲、鉄砲など)の確認検査のことを意味する。筆者とは、書記官のことである。
 なぜ、親見世には兵具役がいて、兵具改があるのか。中国皇帝に進貢した琉球は、皇帝が派遣する冊封使(さっぽうし)が来琉して、国王として認証された。中国から冊封を受けることによって、中国との貿易が許された。琉球から、年代によって違いはあるが通常、2年に1回くらいのペースで、進貢船を中国に出した。進貢使を迎える名目で接貢船も出していた。東南アジア、中国、日本、朝鮮との間で、活発な中継貿易を行うことで琉球王国は繁栄をしてきた。
 薩摩に侵攻されてその支配下になっても、薩摩の支配を隠ぺいして、薩摩の求める物産を仕入れるなど、中国との交易は続けられた。
 東シナ海を公開する琉球の唐船(とうしん)は、海賊から狙われたので、海賊対策のため、大砲や鉄砲など武器を薩摩から借りて搭載していた。
 唐船に積む武器類を保管し、確認の検査を行うために、兵具役や兵具改筆者がいた。
 
 
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「親見世日記」を読む。深夜徘徊で騒ぎに

 深夜徘徊で騒ぎに
 「親見世日記」を読むと、刀をめぐっては、4か月余り後に別の事件も起きている。
 「親見世日記」9月29日付け「口上覚」から抜粋する。
 今月27日に夜回り番を5人組で勤めていたところ、五郎嘉手納という家の門外に多人数がたむろしていた。嘉手納は「私に用のある人ではない」と申してきた。そこで「夜なので早々に帰宅するように」と申し付けた。しかし、仲村渠1(注・なかんだかり)子と小橋川にや2人が(番屋まで)戻ってきて、刀を振り回して切りかかってきた。喜屋武と嘉手納の2人が、斬りかかってきた2人を取り押さえた。その後、渡地村の仲村渠から刀1本を没収し、夜中に問役(親見世役人)に渡した。今後このようなことが起こったならば、夜回り番を勤めることはたいへん懸念されるので、すぐに報告する。以上。
9月29日 渡地村硫礦崎番人数の仲松 宮平 友寄 嘉手川 喜屋武
 (御仮屋別当の)崎山筑登之
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       「親見世」のあった那覇市東町。 案内板がある。           
 それにしても、夜中に人の家の門外で多人数が集まりたむろしているのを、夜回り番が帰宅を促すと、刀を振り回して斬りかかるとは、不穏当極まりない。
 沖縄はいまも、夜型社会で、子どもや若者の深夜徘徊が社会問題になっている。琉球王府の時代から深夜に若者らがたむろすることがあったのだろうか。
 それに、最近でも、暴走族が集まって騒いでいるとの連絡があり、警官が駆けつけると、逆に警官に襲い掛かってきたという事件があった。なにかそれと類似したような事件である。
 どこから刀を持ちだしたのか。「2人が(番屋まで)戻ってきて、刀を振り回して」とあるので、刀は番屋から持ち出したということなのか。刀はやはり没収になった。


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