レキオ島唄アッチャー

『冠船日記』を読む。測量官

 武具は準備していなかった琉球
 中国から渡来した冊封使一行に随行した測量官に対し、武具の進上を求められたが、準備していないので、進上できないとお断りした。
 「測量官は不意に琉球に渡来されたため、測量官への進上物は準備していない。武具はなおさら準備しておらず当惑している。琉球は常日頃から武具には関心が薄く、当年のように冊封使の来琉等古事の行事に準じて進物用として稀に製作しているので、武具の製作に不慣れであり、別して武具の製作は容易ではないので、代銀を受け取って頂きたい。」
琉球は、尚真王の時代に国内の武装を解除し、武器類は王府が保管した。といっても貧弱なもので、1609年には薩摩藩に侵略された。武器も薩摩の統制を受けた。「琉球は常日頃から武具には関心が薄(い)」というのは、実際の姿である。
 「琉球から礼物として贈られる物品のうち、日本刀などの武器類は幕府からの許可が必要であったことから急に準備することができなかった」(麻生伸一著「康熙58年冠船日記解題」)。
 しかし、測量官は納得しない。
 「予想外のことを言うものだ。滞在日数は10日や20日という期間でもなく、武具を製作できないということは全く納得できない。さらに北京から出発する前に、皇帝の御子たちから『琉球へ勅使が渡海した時には、以前から武具の献上があったと聞いており、どうしても(琉球の武具を)見たいので、琉球の土産として持ち帰るようにせよ』と強く命ぜられているので、その代わりに銀を受け取ることはできない。とりわけ武具は第一の進上物であるのに、琉球で代銀を受け取ったことを皇帝の御子へ申し上げては決して納得されず、かえって不届き者として罰せられるので、代物として金銀をいくら進められても決して受け取ることはできない。そのため、必ず滞在中に、製作して進上するようにせよ。」と、ことのほかご立腹の体で発言された。
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首里城に入る冊封使一行を再現した行列
 皇帝の子息から「琉球の武具を見たいので持ち帰るようにせよ」と言われたというのは、皇帝と子どもをダシにした言い分の感じがする。ただし、日本刀など武具は、中国では特別な祝儀品として珍重されたそうだ。
 困った琉球側は、もはや武具を断念してもらうすべはない、「冊封使へ進上する分から測量官へ差し分けて(測量官へ)進上することはどうか」と姑息な方法を思いつき相談したところ、「その方法では冊封使と測量官、双方とも立腹され、さらに混乱が生じて一大事になる」とのことで、その方法でも処理できなかった。
 「といって、他国(薩摩藩)で製作して入手したものとは申し上げることもできず、全く行き詰っている。(勅使が)仰ったように武具は唐においては特別な祝儀品で、進上物のなかでも重視される品である。この上強いて要望をお断りしたならば、解決できないことは必然である。そうなっては(測量官の)ご機嫌を損ない、これまでの進上物まで差し戻されては、対処する用意もなく、これまでの持て成しも徒労となる。さらに唐で琉球に関する根拠のない噂が立っては、(唐との関わり合いでの)御故障となることは明白であるので、武具その物を献上しない訳にはいかないと吟味した。思慮の及ぶ限り幾度も協議を重ねたがこれ以上の見解は案出できなかった」。
 協議を重ねてももはや妙案はない。「武具を献上するしかない」という結論に至る。
 この結論をもって相談した返事を伺うため、山田親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する称号)が登城した。三司官(注・首里王府の大臣格)の伊舎堂親方(注・うぇーかた。士族の最高の称号)から、「この太刀については、先日測量官からの要望に沿って現物の太刀を提供せよ。」との指示を受けた。「しかしながら太刀は、急には調達できないため、今後製作して差し上げるとのことを強調して(測量官へ)お伝えするように。」と命ぜられた。そのため、すぐに測量官へこの経緯を申し上げたところ、了解を得た。 
 8月9日には、開読の返礼としての天使館へ国王が出向いて行った。
 「国王から封王使(冊封使)と測量官への御進物は、御進物当が準備して、館屋露台の西側の脇に飾り、目録は銘々に差し上げられた。その品々を左に記す。
 一、一の金扇子10本。箱2つに納む。
 一、太刀二振り。堤げ緒付き」
 目録は合計10品を数える(2項は辞退された)。
 右の進上品は封王使と測量官の御一人分だという。
 
 8月20日に首里城で冊封使を招いて「中秋の宴」が催された。その翌日、御進物当の城田親雲上と長史(ちゃぐし。久米村の役職の一つ、行政を担当)の許田親雲上は、冊封使が宿泊する天使館へ参上した。
                    首里城中秋の宴の2
                徐葆光も見た首里城「中秋の宴」の再現

「河口通事の取り次ぎで、拝帖(注・訪問の際、要件や名前など記した紙片)と手本(書状)を封王使と測量官へ差し上げた。御進物の目録については、左に記す。
 一、金扇子10本ずつ。箱2つにいれている。
 一、太刀二振りずつ。堤緒付き」
 御進物は合計4品を受納したが、後の6品は受納しなかった。
 徐葆光著『中山伝信録』には、琉球からの「貢物」として3種類の刀が記されている。
 金靶鞘腰刀(きんのつかのさやのわきざし)2。銀靶鞘腰刀2。黒漆靶鞘鍍金銅結束(ひるまき)腰刀20。
 「冠船日記」で差し上げた品物として、太刀は4振り記されているので、『中山伝信録』と符合するのではないか。太刀以外に、盔甲(よろいかぶと)《手甲・臑(すね)当つき》1着、鎗10、袞刀(なぎなた)10、馬鞍1《轡・鐙(くつわ・あぶみ)つき》といった武具が献上されている。この品物は、冊封に対する謝恩の貢物とされた。
 

 測量官から測量術を習得
 測量官への進上物で悩まされたけれど、琉球王府にとって、測量官の来琉は最新の測量術を観察し習得する絶好の機会であった。
 8月17日 古波蔵親方(うぇーかた) 両長史(ちゃぐし。久米村の役職の一つ、行政を担当)が次のように指示をした。
 「覚」は次のように記す。
 「測量官は当初、琉球での天体測量のために来琉されたとのことをお聞きになっていたので、その趣旨で大和(薩摩)へ報告しておいた。ついては、来年にはその経緯を報告しなければならないため、この間、測量が終了しているならば、その詳細を把握して書面で提出するようにせよ。測量用具に関して、その仕掛け等(の教示)を願い出て、実地測量においても支障がなければ、とくと観察・習得し詳細に報告せよ。また(測量行為が)秘密事項だとしても、(薩摩へ)何も報告しないわけにはいかないので、十分に念を入れて(情報を)内密に入手し報告せよ、との御指図である」
 「冠船日記」には、これ以上の記述はない。しかし、測量官がもたらした最先端の測量技術を入手するよう指揮していたのは、福州で風水地理を学んだ名高い政治家、蔡温(さいおん)だったと思われる。蔡温は、測量官の来琉から16年後、北部の羽地大川の改修工事で針竿測量を初めて実施した。
 その2年後、1737年には「琉球国之図」の測量事業(乾隆検地)が着手された。王府の役人が測量担当チームを組み、大勢の住民を動員して、沖縄諸島に設置した約1万基の印部石ネットワークによる測量を実施したのである。「針竿(ハリサオ)測量」と呼ばれるもので、近代測量の三角網による測量と同じ原理だ。
 1750年までに、今の市町村基本図に相当する「間切島針図(マギリシマハリズ)」を作製した。
  乾隆検知の測量事業は、伊能が1800年に全国測量を開始する63年前のことである。1796年には、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)が、各「間切島針図」を縮小接合して、1枚の「琉球国之図」に仕上げた。
  測量官の来琉は、琉球に重要な技術を伝えたという点では、とても重要な役割を果たしたと言えるのではないか。
 琉球の測量については、「伊能忠敬より早い琉球国の測量」を「ココログブログ」に
アップしてあるので読んでいただきたい。


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「冠船日記」を読む。日本刀の献上

「冠船日記」を読む

 台湾大学には、琉球の歴史や文化を研究するうえでとても貴重は史料が保存されている。台湾が日本の植民地とされていた戦前に、当時在学していた日本人らによって収集されたものだ。沖縄は戦災で大事な史料が焼失したが、台湾大学では保存されていた。その史料類が『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成』として刊行された。『第一巻』には、「冠船日記」「親見世日記」が収録されている。ありがたいことに、現代日本語の訳文がついており、素人には嬉しい。
 日記は、首里王府の評定所が記したもの。評定所とは、王府の最高機関であり、摂政(国王の諮問職)・三司官(実際の政治を統轄)・諸長官・次官の表十五人で構成されている。
 その中から、私流に関心のあるところを紹介してみたい。最初は「康熙58年(1719年)亥8月 冠船日記」である。

 冠船とは、中国から琉球国王の認証のため皇帝の勅使である冊封使(さっぽうし)が乗船してくる船のことである。この「冠船日記」は、第二尚氏13代の尚敬王の冊封のために、正使・海宝(かいほう)と副使・徐葆光(じょほこう)が来琉した際の記録である。1719年8月1日から29日までの記録である。この時は、600人を超える使節団一行で、しかも6月1日から翌年2月16日まで252日、9か月におよぶ長期滞在だった。日記は、そのごく一部である。
 といっても、とても興味深い事柄がいくつも登場する。
                  封舟
           冊封使が乗船してくる封舟(冠船)=「中山伝信録」から
                 
帰国して徐葆光が著した『中山伝信録』は、当時の琉球王国の様子、なかでも冊封儀式や琉球側の歓待の宴の模様など詳述されて、冊封使が著した著書のなかでも最も読まれていて有名である。ただ、そこには琉球側との間で発生したトラブルについては、あまり書かれていない。「冠船日記」を見ると、わずかな間にもいくつものトラブルが起きている。

 日本刀を欲しがった測量官
 まずは、献上品をめぐる問題である。
 この時に冊封使一行には2人の測量官が乗船していたことで知られる。中国では、1708年に康熙帝がフランス人宣教師の協力で全国的な測量を行わせていた。琉球への使節団にも、皇帝の特命で2人の測量官が随行していた。「かれらが観測した琉球の緯度、経度およびそれによって計算される福州からの距離もここに(『中山伝信録』)記載されている」
(夫馬進編『使琉球録解題及び研究』、岩井茂樹「徐葆光撰『中山伝信録』解題))。
 この測量官に対して、冊封使と同じく武具を献上することを求められたようだ。
 8月5日 山田親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する者の称号)ほか19名の親方(注・うぇーかた。士族の最高の称号)、親雲上の連名による「覚」は、琉球側の困惑した様子がうかがえる。
 「(冊封使とともに渡来した)測量官は、琉球側が招いた使者ではなく、冊封使とは役目も異なり、さらに不意に渡来された方々である。琉球は窮迫しているので、進上物を少なくし、とりわけ武具の献上については強くお断りして、その代わりに銀を進呈するよう働きかけよとのご指示を受けており、以下にその経緯を申し上げる。
 右のように指示されたので、測量官への進上物は、冊封使に進上する分を減らして差し上げ、かつ武具はこの間準備していないので、代銀の進上について河口通事(注・かこうつうじ。福州人で琉球語通訳兼相談役の者)と事細かに相談した」
 測量官は、中国側の都合で勝手に来琉してきた人物。測量官が来るとそれに随行する人員も増え、歴代の冊封使一行でも最大級の使節団になった。王府の負担も増大する。招からざる客人が来て、冊封使と同格だから、進上物も同じものを出せ、というのはかなれ勝手な要求ではないだろうか。
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         首里城で再現された冊封儀式で詔勅を読み上げる冊封使
 ところが、河口通事は「測量官は冊封使と同格で双方とも勅使である。(そのため)進上物に差別があっては決して筋が通らず、礼を失することになる。」と厳しく述べてきた。
 琉球側も、河口通事の言い分だけでは(王府の高官は)納得しないので、冊封使へ内々に伺うようにとの指示を受けた。そこで松堂親雲上を派遣して左勅使(注・冊封正使・海宝のこと)の御子息の取り次ぎでお伺いを立てたところ、「測量官2人は皇帝の御子たちの師匠であるので、皇帝と親しい間柄としてお仕えしており、その権威は重い方々である。その上、皇帝の使者(勅使)であるため、どこにおいても冊封使と同格にせよと皇帝から命じられた趣旨があるので、進上物の変更は道理に合わない。」。しかも「「冊封使と連名で告示文が出されており、かつ開読(注・かいどく。冊封の際の詔勅の読み上げ)の時や崇元寺(注・歴代国王の霊位を祀る国廟)での諭祭の時も冊封使と同格に振る舞っており、日常の礼式等においても冊封使と同輩の挨拶をしているため、進上物に差別があっては、全く理に合わないものと思われる」との返答だった。
 測量官は冊封使と同格であり、皇帝の子息の師匠で権威は重いので、進上物に差別があってはならないと、一歩も譲らない。
 困った琉球側であるが、かといって、武具は準備していないので、進上できない。河口通事を通して丁重に測量官へお断りした。
 
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団地祭りを楽しむ

わが家の近くにある国場県営団地の夏祭りが開かれた。夏祭りはいつも、野外ビアガーデン状態になる。
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 団地祭りは、子どもの天国だ。セミ捕りをしている子もいれば、焼き鳥を食べる子も。みんな楽しそうだ。
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 舞台では、エイサー、民謡、空手演舞、フラダンスなど盛りだくさん。民謡で三線を弾く男性(右端)は、視力障碍者だが、三線だけでなく、オカリナも演奏する。スゴイ努力家だ。
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 祭りには、翁長那覇市長も出席した。子どもたちが「しまくとぅば」(沖縄語)を披露した後、来賓あいさつに立った。那覇市が「しまくとぅば」を大切にすることに取り組んだ動機を話した。古典音楽の照喜納朝一さんが人間国宝に認定されたさい、「滅びゆく文化として認定されたのか。30年後にしまくとぅばを使う組踊、民謡、芝居はどうなっているのだろうか」と話されたので、沖縄の大切な言葉の文化を守るため「しまくとぅば」の取り組みを始めた、と話した。
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 翁長氏は、11月に予定される県知事選で、辺野古移設反対を堅持する立場から、保革を越えて出馬を望まれている。現職の仲井真知事が、辺野古移設は「問題解決の最短の方法」と開き直り、出馬を明言した。翁長氏が、出馬を決意すれば、新基地建設を阻止するために、是非、頑張ってほしい。
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 祭りの呼び物は、女性のビールの早飲み。今年は地ビールの早飲みを競った。若い女性が多いが、みんな超速いのでビックリだ。
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  団地祭りだけど、周りの住民も参加する。ハチマキを姿の子どもが可愛い。
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暑い時はやっぱりアイスぜんざい

 真夏日が続く沖縄。暑い時は、ビールというより、やっぱりアイスぜんざいが一番だ。そのぜんざいといえば、那覇市久米大通りにある千日が沖縄ナンバーワンである。
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 12時前に店内に入ると、もう満席。というより、注文するのに行列ができている。千日は、ぜんざいと沖縄そばだけのメニューである。小豆ではなく金時豆を甘さ控えめで煮たぜんざいが入り、ふわふわの氷が山盛りされたアイスぜんざいは、超有名。シロップなど余計な甘味をあまりかけないで、シンプルに食べるのが、氷とぜんざいの美味しさを味わうのに適している。夏場は、地元の人も、観光客も詰めかける。持ち帰りも多い。
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 消費税が8%にアップされても、300円で値上げせずに頑張っている。
 おかみさんとは顔なじみだが、ぜんざいを求めて押し寄せるお客の求めに応えて、戦場のような忙しさだ。「夏はもういつもこんな状態ですよ」と旦那さんが話していた。
 そういえば、先日のテレビのクイズで、「沖縄のアイスクリームの購入は全国一位である。ホントかウソか」との質問だった。暑いから、「ホント」と答えると、「間違い!」となる。なんと全国最下位である。なぜだろうか。県産アイスクリームもあり、大きな道路端では、アイス販売もされているが、それでも低い。たぶん、アイスクリームくらいでは、暑さには効果が薄い。かき氷かアイスぜんざいくらい食べないと身体は冷えない。そんな事情もあるかもしれない。

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ことしも中央卸売市場まつり賑やかに

 沖縄県中央卸売市場開設30周年で、中央卸売市場まつりが開かれた。開会午前9時より前に着いたのに、もう駐車場は満杯状態になっていた。
 この時期は、マンゴーの出荷がピークを迎えるので、それに合わせての祭りだ。普段は、一般市民は立ち入りできないが、この日は、一日開放されて、野菜も格安で販売される。
 中でもお目当ては、マンゴーだ。たくさんの店が競って、贈答用に箱入りマンゴーを並べている。
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 その中でも、比較的安く出している店は、お客でごった返し状態だ。ただし、「安いな」と思うと「これは送れないよ。自分の家で食べる持ち帰り用だよ」という。熟しすぎているからだろう。
 場内をくまなく回って、お買得のマンゴーをGETし、田舎の親戚に発送した。但し、例年より安くない感じだ。なぜだろうか。
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 野菜200円で詰め放題の店は、ここも人だかりができている。人気の店には人が押し寄せる。
 わが家も、場内を一周して島らっきょう、ちんぬく(里芋)、玉ねぎ、トマト、バナナ一房、キューリ、マンゴーばら売り、モチキビ、黒糖など買い求めた。一部を親戚に送った。
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 舞台では、恒例のエイサー演舞が始まった。今年は、浦添市仲間青年会だ。曲目ごとに、踊りは変化する。躍動感にあふれている。道化役のチョンダラー(京太郎)も登場して、楽しませた。
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 メインは、仲宗根創くんの民謡ライブだ。彼は、なくなった登川誠仁の愛弟子で、師匠譲りの速弾きの名手である。沖縄民謡界の若手のホープである。
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 太鼓のお姉さんをバックに、30分演奏した。三線の上手さには舌を巻く。
 太鼓のお姉さんの9歳の娘さんも登場した。歌詞が難しい「黒島口説(クドゥチ)」を、仲宗根君と交互に歌ったのにはビックリした。
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 娘さんの夢は、宝塚ジェンヌだというけれど、もう琉球舞踊を習い、歌三線も習っているというから、きっとウチナー芸能人になるのではないだろうか。
 よい買い物ができて、かつ楽しませてくれる卸売市場まつりである。
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仲井真知事の出馬は不謹慎の極み

 仲井真沖縄県知事が18日、11月16日投開票の知事選挙への出馬意欲を表明した。「もう1回だけ許されるなら、チャレンジしたいという気持ちが日に日に強まっている」と経済界との意見交換会で述べたのだ。
 仲井真知事には、出馬資格はないと断言したい。「許されるなら」と述べているが、自民党県連や取り巻き連中が「許す」と出馬を求めても、平和を願う県民は「とても許せない」と声高に叫ぶだろう。
 それは、なによりも普天間飛行場は「県外移設」を公約に掲げて4年前、知事に再選されたのに、昨年12月、平然と公約に背を向けて政府の辺野古移設のための埋め立て申請を承認したからだ。知事は、口先では「県外移設は変わらない」といっても、その後の知事と県政の態度は、「県外移設」の要求はしりすぼみ状態だ。何より、埋め立て申請を容認したこと自体が、公約違反である。
 今年、1月10日、沖縄県議会は「仲井真弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議」を可決した。本来なら、決議を重く受け止めて、即刻辞任すべきであった。それを開き直って辞任しないばかりか、再出馬をするというのは、決議をも踏みにじるものである。
 承認に当たって「普天間飛行場の5年以内閉鎖」などの県の要望に、安倍首相は明確な約束はまったくしていないのに、あたかも政府が約束したかのように言い張って、承認を正当化しようとしてきた。その後、日本政府がアメリカに明確な要求にもとづく交渉をした気配はない。アメリカは、5年以内閉鎖などできないことを断言している。県民をだますペテンのようなものである。
 いまなお、にがにがしく記憶がよみがえるのは、知事が県民を裏切り政府に追従しながら、「驚くべき立派な内容」『140万県民を代表して感謝する」「良い正月が迎えられる」と手放しで絶賛したあの知事の姿である。「県民に大きな失望と苦痛を与えた」(同決議)のだ。「沖縄はお金を出せば基地を受け入れる」かのような、誤った印象を全国、世界に振りまき、県民を深く傷つけた。
 これはいまだ真相が未解明であるが、知事が承認した12月後半、仲井真知事は腰痛だとか病気を理由に県議会も欠席し、治療のためとして上京し入院した。その間に、政府側と秘密裏の話し合いがされた。そのあげくが、埋め立て承認である。療養のための上京と入院とは、なんだったのか。あまりにも、タイムリーすぎる。疑惑は、いまだ払拭されないままだ。知事の上京と入院が結果として、もたらしたものが、埋め立て承認だったことだけは確かである。
 一方、辺野古移設に反対する政府への建白書の実現をめざす勢力は、翁長那覇市長を知事選挙の候補者として擁立する構えだ。同じ自民党員でありながら、翁長市長は、仲井真知事とは対極に立ち、県内移設反対を堅持している。県内移設反対のオール沖縄の立場から脱落した自民党県連は、翁長市長が出馬すれば、これに対抗できる候補者がなかなか見つからないため、仲井真知事の出馬を要請している。恥ずべきことである。
 公約違反、県民裏切りの仲井真知事には、知事としての資格がないことを再度、強調しておく。
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美味しい初マンゴ-

 暑い夏は、マンゴーのシーズンである。野菜直売の「アグリハウスこちんだ」に買い物に行ったら、マンゴーが安く売っていた。モーレツ台風8号が襲ってきたので、ビニールハウスで栽培するマンゴーも、一部で落下するなどの被害を受けた。
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上等なものは、箱入りでJAを通じて出荷する。こちらには、箱入りとともに、規格外や台風で落下したものが、販売されていた。なにしろ、2個パックで500円、4個入り袋が600円と超格安。自宅にスイカを買ってあるけれど、「マンゴー食べたい。買うしかない」と、併せて6個買った。
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 偶然にも、両方とも神里洋子さんの出品だった。少し、傷があったり、見栄えはよくないが、味は変わりない。
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 マンゴーの切り方は、魚を三枚におろす要領で切る。真中に楕円形の薄い種があるので、それを避ける。初めに三枚に切った後、皮つきのまま食べやすいように、細切れに切るのが通常らしいが、わが家は、リンゴを剥くように、はじめに皮を剥いてから、三枚に切り、細切れにする。
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小さめのマンゴーだから、2個切ると、こんなにたくさんある。沖縄でなければ、こんな贅沢な食べ方はなかなかできないだろう。
 ツレがラジオ番組でプレゼントで当たって、「マンゴーのまんま」というプリンのようなお菓子を戴いたところだった。でも、本物のマンゴーとは比べ物にならない。自然の甘さ、美味しさは超えられない。
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 初マンゴーを美味しくいただいているところに、昨夜、恒例のライブがあり出かけたら、ライブ仲間のマンゴー農家、赤嶺さんが、「台風で落下したものだけど、どうぞ」と20個余りのマンゴーを持って来た。演奏者、ライブ仲間で分け合って、わが家も立派なマンゴー2個をおすそ分けで戴いた。。
 冷蔵庫の中は、マンゴーで一杯。満足感に浸っている
 


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「あがろーざ節」は宮古から伝わった

 「あがろーざ節」は宮古から伝わった

 八重山民謡の「あがろーざ節」は子守唄の名曲である。曲の題名は「東里(アガローザ)」という地名からきている。だが、その由来をめぐってはいろいろな見解がある。石垣島には東里という地名はないようだ。この曲の歌詞に登場する地名は、石垣市の中心地、登野城(トノシロ)である。東里は登野城の異称として使われている。だが、登野城のことを東里と呼ぶというのは聞いたことがない。
 この曲は、宮古民謡の「東里真中」とよく似ている。しかし、惜しくも亡くなられた仲宗根幸市氏は、「東里真中」と「あがろーざ節」は同名異曲であるとする見解である。
 八重山民謡の権威、喜舎場永珣氏は「鷲ぬ鳥」の作者である大宜味信智氏が、自分の村(大川村、現石垣市)の東の里、すなわち登野城村に伝承されていた子守唄から取材して作歌作曲したと伝わっている(『八重山民謡誌』)という。また、東里とは「自分の村の東の里」という見解は、とても苦しい説明だ。
 喜舎場氏は、この曲が宮古に伝わったという伝承があるともいう。
 私が入っている八重山民謡のサークルの先生は「あがろーざ節は宮古からきた歌だそうです」とおっしゃった。
 改めて「東里真中」の歌詞をよく読んでみた。これは明らかに、宮古民謡が元歌であると確信した。歌詞の内容を比較し分析してみたい。
                   美崎御獄
    石垣市登野城にある美崎御嶽。歌とは関係ない
 初めに「あがろーざ節」を紹介する。歌詞は長いので、少し抜粋して歌うのが通例である。
♪あがろーざぬんなかにヤウヤウイ 登野城(トゥヌスィク)ぬんなかにヤウハリヌクガナ
♪九年母(クニブ)木ば植べとぅーし 香さん木ばさしとぅーし ※ハヤシは同じ
♪九年母(クニブ)木ぬ下なか 香さん木ぬ下なか ※ハヤシは同じ
♪子守りや達ぬ揃る寄てぃ 抱ぎな達ぬゆらゆてぃ
♪腕ば痛み守りひゅうば かやば痛みだきひゅうば
♪大人ゆなりとーり 高人ゆなりとーり
♪墨書上手なりとーり 筆取るい上手なりとーり
♪沖縄旅受けおーり 美御前(ミョウマイ)旅受けおーり
 歌意は次の通り。
♪東里村の真ん中に 登野城の真ん中に
♪ミカンの木が植えてあり 香り高い木が差してあって
♪ミカンの木の下に 香り高い木の下に
♪子守達が寄り集まり 子を抱く娘たちが集まって
♪腕が痛むほど子守し 手首が痛むほど子守し
♪大人になりなさい 偉い人になりなさい
♪よく学問を学びなさい 勉強して立派な人になりなさい
♪沖縄本島への旅を受けなさい 首里王府への旅を受けなさい
 この歌詞は「子守が寄り集まり」の部分から後は、とてもよくわかる。お守りをする子どもの健やかな成長とよく学問をして立派な人になる、出世をすることを願った内容である。でも、問題は初めの歌詞である。「東里」が石垣の地名にないこと。歌の舞台が登野城なのに、大川から見て「東の里」というのは、あまり説得力がない。八重山民謡では、「ミカンの木、香り高い木」というように、対句がよく使われる。同じことを別の言葉で表現するのだ。でも登野城と東里は、同じ地域を指す地名とその異称ではない。
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              同じく美崎御嶽
 もう一つ、「ミカンの木が植えてあり」「ミカンの木の下に」の部分は、この曲を知って歌い始めた時から「なぜミカンの木が歌われるのだろうか」、とても違和感があった。全体の中で他の歌詞との関連性がないからだ。ただ、「ミカンの木の下に集まる」という情景として描かれているにすぎない。ミカンの木が木陰をつくっていて、そこに集まるのだろうか。でも、子守りたちが集うような樹木といえば、ミカンの木ではなく、ガジュマルやデイゴの木がふさわしい。ミカンは果実だから、庭や畑に植えられるのだ普通である。
 もし、かつて実際にミカンの木があったとしても、木と子どもの成長との間に、何の関係も見出せない。登野城、ミカン、子守りと続く歌詞に、論理的なつながりがない。この歌詞は、なんか継ぎ接ぎされた印象がある。これはどう考えても、元歌とは思えない。

 次に宮古民謡の「東里真中(アカズザトゥンナカ)」の歌詞を紹介する。歌詞はいろいろあるようだが、手元にある工工四(楽譜)から拾ってみた。
♪東里真中んよ ホーニャホーイ  已ぬ城(ドゥヌグシク) サーユイサ 
真中んよ ウチュラヨー
♪八尋(ヤピル)みゃや耕作(パギャ)すぅみよ 十尋(トゥズユ)みゃや耕作すぅみよ
 ※ハヤシは同じ
♪八尋みゃぬ真中んよ 十尋みゃぬ真中んよ
♪蜜柑木(フニリャギ)や植生(イビワ)しよ 香(カバ)しゃ木や差し生しよ
♪人(ピトゥ)が丈なりうりばよ 他人(ユスゥ)が丈なりうりばよ
♪花(パナ)や咲きうりばよ 実(ナズ)や実なりうりばよ
♪我等(パンタ)同志(ジャ)な集(ウグナ)りよ 守姉(ムズアニ)同志な集りよ
♪蜜柑玉剥(フリリャタマン)き遊(アス)ばよ 香ばしゃ玉剥き遊ばよ
♪吾(パン)が守(ムリ)ぶどぅわさばよ 姉が釘抱きわさばよ
♪島(スマ)うすい照(テイ)りぁがりよ 国うそい輝(テイ)りぁがりよ
 注・宮古言葉は独特であり、表記が難しい。「東里(アカズザトゥ)」を始め、歌詞の中で「ズ」として表記したのはすべて「スに小さな○」がつく。そんな文字はないので、やむをえず「ズ」と書いた。この発音がまた難しい。発音できない。
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         石垣島のオヤケアカハチの乱を討つ首里王府軍を先導した宮古島の仲宗根豊見親の墓。民謡とは関係ない。
  歌意は次の通り
♪東里の真ん中によ 私の屋敷の真ん中によ
♪八尋の庭を耕してよ 十尋の庭を耕してよ
♪八尋の庭の真ん中によ 十尋の庭の真ん中によ
♪ミカンの木を植えてよ 香り高い木を差してよ
♪人の丈になればよ 大人の丈になればよ
♪花が咲いておればよ 実に実がなっておればよ
♪私たち仲間が集まってよ 守姉仲間が集まってよ
♪ミカンの玉を剥いて遊ぼう 香り高い玉を剥いて遊ぼう
♪私がお守りをして大きくなったらよ 守姉が抱いて大きくなったらよ
♪島を治めるような立派な人になりなさい 国を治めるような人になりなさい
 両方の歌詞を比較すると、明らかに似ている。「東里」「ミカンの木、香ばしゃ木」「守姉と子守り」という歌の重要な要素が共通している。ということは、まったく無関係にできた曲が、たまたま似た内容の歌詞になった、ということは考えられない。
 これは同名異曲ではないと思う。とすれば、両曲は明らかにどちらかが元歌で、どちらかが元歌を編曲し歌詞を改変して歌われるようになったということになる。
 歌詞を見れば、明らかに八重山ではなく、宮古民謡が元歌だと思う。その理由はいくつかある。
 まず、宮古島市には、市役所にも近い場所に「東里」という地名があること。交差点にも表示されている。「已ぬ城(ドゥヌグシク)」とは、地名ではなく、「私の屋敷」という意味である。だから、同じ場所を対句で言い換えて表現しているのではない。宮古から歌が伝わったとき、「已ぬ城」は発音が登野城と似ているため、それが転じて「登野城」とされたのではないだろうか。これはまったくの推測である。
 なにより重要なのは「ミカンの木」である。自分の庭にミカンの木を植える。ミカンの木が生長して、人の丈ほどになり、花を咲かせ、実をつければ、守姉の仲間が集まって、ミカンの玉を剥いて遊ぼう、守りする子どもが大きくなれば、立派な人になりなさいと歌う。
 ここでは、ミカンの木の生長と子どもの健やかな成長が重ね合わされている。「あがろーざ節」のように、ミカンの木はたんなる情景描写ではない。この曲のキーワードのような意味を持つ。
ミカンの木を軸にして、曲全体に論理的な一貫性がある。つまり、どこかの曲を元歌として少し変えたり、継ぎ接ぎした歌詞ではないということだ。
 以上の点から見て、「東里真中」が石垣島に伝わり「あがろーざ節」として、歌われるようになったというのが私の推論である。
 ただし、子守唄として、どちらの曲がよいのか、というのはまったく別問題である。どちらが元歌であるのかどうかは、マニアックな関心に過ぎない。私的に好きなのは「あがろーざ節」である。
 宮古民謡の「東里真中」は、三線は弾けても、歌がまだ歌えない。まだ歌えないから、味わいがあまり感じられない。歌が歌えるようになればまた変わるだろう。
 「あがろーざ節」は、上手に歌うのはとても難しいが、とても味わいがある。八重山民謡でも、多くの人に愛されている名曲である。
 子どもが立派に育ってほしいという願いは切々と伝わる。八重山を含め沖縄では、子守りをした守姉とお守りをしてもらった子どもとは、一生を通じて深いつながりをもつという。子どもと守姉との絆も感じられる。これからも長く歌い続けられていくだろう。


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情け歌の名曲「恋し鏡地」

 「恋し鏡地」
 国頭村の鏡地(カガンヂ)を舞台にした民謡に「恋し鏡地(クイシカガンヂ)」がある。饒辺勝子さんのヒット曲で、彼女が歌うととても味わいがある。
 国頭村の奥間、鏡地あたりの情景と真っ白な伊集の花の美しさ、「あぶしばれー」などの民俗が描かれる。そして、愛する人と比地川橋を渡って別れた寂しさ、また戻って欲しいと願う切ない心が込められた情け歌の名曲である。
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         「恋し鏡地」を歌う饒辺勝子さん。 写真はすべてNHK沖縄のテレビ画面から。
 歌詞は次の通り。
 1、奥間森(ウクマムイ)ぬ 伊集ぬ木や 花ん咲ちょさ露かみてぃ ありから幾年なとうがや 
  見りば思いやまさてぃ 戻(ムドゥ)てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
 2、あぶしばれえぬ あぬ時(トゥチ)に 袖(スディ)にしちゃるあぬ情け ぬんでぃ他人(ユス)に
  知らすがよ  夕びん何(ぬ)がやら淋しさぬ 鏡地浜に居ちょうたしが
 3、確かありや霜月ぬ 月ぬ夜ぬあぶし路 比地川橋をぅてぃ別りたる 後姿(ウシルシガタ)ぬ
  忘ららん  戻てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
 4、此ぬ内行逢(イチャ)ゆら んでぃ思てぃ 今日(チュウ)ん友小(ドシグヮー)に沙汰さしが
  今度ぬ15夜までぃや 恋しあぬ橋渡てぃ 戻てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
                   
 歌意は次の通り
 1、奥間の森の伊集の木や 花が咲き露ものせて美しい あれから幾年たったことだろう
  見るたびに思いは強まる  戻って来ておくれよ鏡地に
 2、あぶしばれえ(虫払いの行事)のあの時に 袖にしたあの情け なぜ他人に知らせたのか 
  夕べもなにやら淋しくなって  鏡地浜に来てしまった
 3、確かあれは霜月(11月)の 月の夜の畦道だった 比地川橋を渡って別れた
  あなたの後姿が忘れられない  戻って来ておくれよ鏡地に
 4、近いうちに逢えると思って 今日も友人と噂をしていた 今度の15夜の満月までには 
  恋しいあの橋を渡って  戻って来ておくれよ鏡地に
 「あぶしばれえ」とは「畦払い」と書き、虫払いの行事のこと。4月半ばころに、住民総出で畦の草を払い、ネズミやイナゴを捕えて芭蕉の葉柄で造った小舟に載せ、ノロ(神女)以下、神人(カミンチュ)たちが祈願したあと海に流した。国頭村の多くの村落では、当日はご馳走持参で浜下りした。この日にハーリー(舟漕ぎ競争)や角力をするところもあった(『国頭村史』から)。
 饒辺勝子さんは、最後の曲と思ってレコーディングしたそうだ。発表した後、南米公演で山里ユキさんを先頭に出かけたところ、沖縄本島より早くブラジル、アルゼンチン、ペルーで歌われていたという。「それわかります。歌詞自体に先人たちの懐かしい言葉がいっぱいありますよね。アブシバレー、アブシ道、伊集の花とか。これいいな、これ古里ですよね。(鏡地は)私の古里みたいなものですよ」とNHKテレビに出演した時に話していた。
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 「恋し鏡地」には、難問がある。2番の歌詞の意味が分かりにくいことだ。歌意として滝原康盛さんの解説を紹介した。問題は「袖にしちゃるあの情け ぬんでぃ他人に知らすがよ」のカ所である。「袖にした」という和訳ではよく分からない。
 「袖にする」という言葉は、日本語的には「親しくしていた人を冷淡に扱う」「すげなくする」ことであり、男女間では「別れる」ことを意味する。だから2番の歌詞を「あぶしばれーのあの時に 別れを告げた恋 なんといって他人に語れるか」と解釈している人もいる。
 でも、別れの場面は次の3番の歌詞に出てくる。2番で4月半ばのあぶしばれーの時、別れたのに、3番でまた、11月の霜月に比地川橋を渡って別れたとなる。一度別れた後、半年間も時間がたって鏡地を出て別れたというのは不可解である。
 「ぬんでぃ他人(ユス)に知らすがよ」というのも、沖縄では男女が恋人になっても、親の許しがなければ結婚できないし、世間の噂になると付き合いができなくなり、別れざるを得なくなることがよくあった。だから恋人になっても、他人に知られないように付き合ったものだという。
 民謡では「知らすなよや、他所に知らすなよ、二人が仲」(「恋語れ」)、「もしも他人に知れて、世間の噂になったらどうするの」(沖縄本島の「久場山越路節」)といった歌詞がよく出てくる。
 この歌詞でも、恋人だった二人の関係が、他人に知られて噂になり別れることになったのだろう。だから「なんで他人に知らせたのか」と悔やんでいる。
 そうすれば、「袖にしちゃる…」という歌詞の意味も、「あぶしばれえの時に、別れを告げた恋、なんで他人に知らせたのか」では意味が通じない。前後のつながりからみて、「あぶしばれーのあの時に 愛情を交し合ったのに なんで他人に知らせたのか」と解釈するのがもっとも妥当だと思う。
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 この曲の2番の歌詞をどう理解すればよいのか、私が通っている沖縄民謡三線同好会の先生に尋ねてみた。「袖にする」とは日本語的には「冷たくする、別れる」という意味になるけれど、どう理解すればいいのでしょうか、と質問した。
 先生曰く。「いや、それは違いますね。あぶしばれえのあの時ですからね。あぶしばれえは、虫払いの行事だけれど、この日は朝からみんな仕事を休んでね。楽しむんですよ。1年に1回の行事だから、娯楽の少ない田舎では、お祭りのように楽しみでした。とくに若い人たちはね。いい人を見つける機会でもあったのですよ。この歌詞は、あぶしれえのあの時に、情けを交し合ったのに、なぜ他人に知らせたのか、という意味でしょうね」
 明快な解答だった。ここでキーワードは「あぶしばれえ」である。仕事を休んで楽しむこの日が「別れの場」ではなく、若い男女にとっては「遊びと出会いの場」でもあったのだ。4月半ばの「あぶしばれ」の時、愛情を交し合った仲なのに、他人に知られてしまい、別れざるを得なくなって、恋人は11月の月の夜に畦道を通り、比地川橋を渡って鏡地を出て行ってしまったという歌詞の流れになるのだろう。
 ただし、先生も「袖にしちゃる」の言葉の意味について、なぜ「愛情を交わしあった」という解釈になるのか、詳しい説明はしなかった。厳密な字句の解釈については不明のままである。でも、歌詞の流れからいえば、この解釈ですっきりするのは間違いない。字句の解釈については、今後も勉強をしていきたい。

 追記
 「恋し鏡地」の歌詞の解釈について、アルテ三線仲間の玉那覇宗造さんから、耳よりの話を聞いた。玉那覇さんの通う民謡研究所の先生の解釈である。それは「袖にした」という歌詞について。その先生は「袖にした、というのは、腕枕にしたという意味があるんですよ」とのこと。袖に通した腕を枕にするとは、愛情を交し合ったことを意味する。なるほど、これならとても歌の意味がスッキリとする。「袖」という言葉は、さまざまな愛情表現に使われるものである。
 



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アルテで「あがろーざ節」を歌う

 毎月恒例のアルテ・ミュージック・ファクトリーが12日夜開かれた。今回のテーマは「絵」。これは民謡ではなかなか難しいテーマだ。
 今回は、同じ夜に別のライブがあり、ギターリストのbirthdayライブなのでそちらに向かうため、早めの出番となった。
 トップ出演は、恒例の島袋さんのギターと歌、それにリコーダーとギターの伴奏がついて、懐かしの名曲「伊豆の踊子」だった。
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 私の出番は4番目だった。
 テーマの「絵」は探しても曲が見つからない。こじつけで八重山の子守歌「あがろーざ節」にした。子どもの成長を願う内容だが、その中に「墨書き上手になって 筆取り上手になって」という歌詞がある。学問をよくして立派な人になりなさいということだが、筆をとるとは、字を書くほかに絵を描くのにも使うので、この曲とした。苦し紛れの選択だ。
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 歌詞は長いので、少し抜粋して歌うのが通例である。
♪あがろーざぬんなかにヤウヤウイ 登野城(トゥヌスィク)ぬんなかにヤウハリヌクガナ
♪九年母(クニブ)木ぬ下なか 香さん木ぬ下なか ※ハヤシは同じ
♪子守りや達ぬ揃る寄てぃ 抱ぎな達ぬゆらゆてぃ
♪腕ば痛み守りひゅうば かやば痛みだきひゅうば
♪大人ゆなりとーり 高人ゆなりとーり
♪墨書上手なりとーり 筆取るい上手なりとーり
 歌意は次の通り。
♪東里村の真ん中に 登野城の真ん中に
♪ミカンの木の下に 香り高い木の下に
♪子守達が寄り集まり 子を抱く娘たちが集まって
♪腕が痛むほど子守し 手首が痛むほど子守し
♪大人になりなさい 偉い人になりなさい
♪よく学問を学びなさい 勉強して立派な人になりなさい
 最近は、三線はあまり指がこわばらずに弾けるようになったが、高い声が伸びない。いつものことがだ、本番前でも発声練習はしないので、高い声が練習の通りでない。困ったものだ。
 今回は、ツレが私の三線の伴奏で、石川さゆりの「朝花」を歌うことになっている。ただ、キーがなかなか合わないで、調弦は本調子6の高さ、これは「D」の高さになるが、これだと丁度いいというので、このキーで練習してきた。ところが、キーが高すぎて、三線の絃は張りつめてギリギリの限界点になる。練習中に一度、女弦(ミージル)が切れて、取り替えた。本番にまた切れないか気にしてはいた。
 私のキーは、本調子3で、「C」の高さだ。私のあと一つおいて、6番目にツレの出番なので、演奏が終わると、すぐ調弦を変えなければいけない。急いで外に出て6の高さに調弦して戻ってきた。ところがふと三線を見ると、なんと絃が切れて、一本垂れているではないか。心配した女絃ではなく、中絃(ナカジル)だ。あわてて外に出て、絃を取り替えようとするが、少し暗いので、絃を巻きつける「からくい」(小さな棒)の穴が見えない。絃が巻けない。ツレの出番がきてもまだ絃を張替えできないので、他の人に先に出ていただいた。
 玉那覇さんが、お得意の「世宝節」を披露した。聞かせる歌と三線だった。その他にも出ていただいているうちやっと、絃の張替えが出来た。
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 「朝花」は、沖縄に一時住んでいた樋口了一さんの作品。奄美大島の「朝花節」にヒントをえて作ったそうだ。民謡とは異なる三線の弾き方と音色だ。ツレはのびやかな声にのせて、しっとりと歌った。なぜか、会場から手拍子が起こり、少しテンポが早くなった。
              「朝花」を歌う
 今回は20組ほどエントリーがあった。他の人の演奏も聴きたかったが、残念ながら次のライブに急いだ。
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